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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第3主日礼拝 

2017年1月8日(日)ルカ福音書 9章18―27節
「イエスは私たちの救い主」三ツ本武仁牧師

 先週は元旦礼拝において、私たちがイエスさまの弟子として、イエスさまに従いゆく、その中でこそ、イエスさまが何者であるか、そのことを深く示されていく、従いゆくことのないイエスさまへの関わり方、関心においては決してイエスさまと本当には出会うことができない、だから、新しい年を迎えて、私たちは教会としてこの年を、何よりもイエスさまに従いゆく年にしましょう、とそのようなことを語らせていただきました。

 イエスは何者であるのか、この私たちの問いは、誰もが一度は抱く問いであります。それはたとえば祈りを通して、イエスさまにあなたはどなたですか、と問うということもあるでしょうし、あるいはイエス・キリストのことをこうして語り伝えている教会の牧師や信仰の諸先輩方に、そのことを問うということもあるでしょうし、あるいは様々な書物に学ぶことを通して、そのことを問う、問いはじめるのだと思います。
イエスとはどういう人か、イエスのこの教えはどういう意味か、この御業はどういうことか、・・・世界宗教の1つとしていまなお大きな影響力をもつ、キリスト教の創始者と目される、イエスという人物に、そのように関心をよせることは、ある意味で、この世に生まれたものとしては健全な、思いであるといえるのではないか、と思います。けれども、そのように私たちが問うているとき、イエスさまは、あくまでもイエスという一人の人物として私たちの観察の対象となっています、よくいえば、人類の歴史に偉大な足跡を残した一人の偉人の一人に過ぎないものとなってしまっているのです。

 もちろんはじめはそれでよいのであり、またそれ以外の方法は私たちにないわけですけれども、しかし、やがてある時に、これも信仰者として歩み始めた誰もが経験することですが、イエスが神である以上、その、まことの神であるイエスご自身から、私たちに問いかけてこられる、そのことを私たちは経験することになるのです。私たちがイエスさまに向かって「あなたはどなたですか?」と問うのではなく、反対に、イエスさまのほうから「あなたは私のことをどう思うのか」と問うてこられる、そのような経験をするのです。イエスさまからのこの問いに出会うことが、信仰の大きな一歩だということがいえるでしょう。今日のところでは、弟子たちがまさにそのような問いの前に立たされることになったことが語られているのです。

 イエスさまはただし、彼らにその問いを向けるに先立って、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。あなたたちの周囲の人々、世間の人々はイエスさまのことをどう言っているのか、そのことを問われたのです。弟子たちは、「『洗礼者ヨハネ』だと言っています。ほかに『エリヤだ』という人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』という人もいます」と答えました。先週も見ましたように、じっさいガリラヤではそういう噂が流れていたのであって、ヘロデにもその噂が届いたのです。弟子たちもまたそのような噂がじっさいにあることを、正直にイエスさまに伝えたのです。

 わたしたちであったらどう答えるでしょうか。この時代の日本では洗礼者ヨハネという名前も、エリヤという名前も、世間一般の人はほとんど知らないでしょう。ですから、イエス・キリストやキリスト教のことは知っていても、そのイエスを「洗礼者ヨハネ」や「エリヤ」だという人はまずいないでしょう。
・・・わたしが経験した中で圧倒的に多いのは、好意的な意見では、やはり偉大な人間だ、ということです。イスラム教がある意味ではその立場ですけれども、人間として立派なことをした人だという好意的な評価であります。しかし神ではない、というのです。神ではない、ということは、つまり信仰の対象ではない、自分がその身をすべてゆだねてよいような対象ではない、ということです。イエス・キリストのことを、どう思うにせよ、神ではない、信仰の対象ではない、と見なす点では、世間の評価、他の宗教のイエスさまへ評価は、どれも同じではないでしょうか。

 洗礼者ヨハネと思おうと、立派な偉い人だと思おうと同じです。それは根本的には、イエスさまは私たちの観察でき研究できる対象にすぎないとみなしている、ということです。そしてそのようにしてイエスさまを人間にすぎないと見なしている限り、イエスさまが何者であるかは、本当には知ることができないのです。けれども弟子たちは、イエスさまに従いゆくなかで、イエスさまのほうから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との問いかけを受けたのです。イエスさまとの何者かが私たちに本当にわかるのは、このように私たちからではなく、イエスさまのほうから、私たちに問いかけてこられるところにおいてなのです。

 それからもう一つ、イエスさまが「群衆は、わたしのことを何者だと言っているのか」と問われた上で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」とお問いになられた、そこには、わたしたちを、イエスさまが、わたしたちを一対一の関係へと導こうとされている、ということがいえるでしょう。人がどうこうではない、世間がどうこうではない、あなた自身はどうなのか、そのことがイエスさまとの関係では大切になってくるのです。

 しかし、また他方で、イエスさまがここで「あなたは」ではなくて、「あなたがたは」「わたしを何者だと言うか」と、あなたがた、という問われた方をしたことも忘れてはなりません。確かにイエスさまへの信仰は、イエスさまとわたし、という関係が大切になります。ペトロもその意味で、このあと一人でイエスさまに答えていきます。しかしイエスさまのこの問いかけは、弟子たち、つまりイエスさまに従って歩んでいる教会の群れに向けて語られているのです。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」このイエスさまの問いかけは、教会に集い、礼拝を守り、御言葉を聞きつつ歩んでいる人々、まさにいまここに集うわたしたちに向けて語られた言葉なのです。

 さてペトロは、そのような信仰の仲間を代表して、イエスさまに対し、「あなたは神からのメシアです」と答えました。メシアという言葉は原文ではクリストスという言葉になっています、このクリストスを日本語でそのまま表した言葉が、キリストという言葉です。キリストは救い主という意味であります。ペトロは、イエスさまのことを「あなたはキリストです。救い主です。」とその信仰を告白したのです。あなたをキリストだと信じます、と答えたのです。イエスさま、あなたは、この天地万物の造り主なる神ご自身であって、わたしたち人間の救いのためにこの世に来てくださった救い主です。ペトロはそう答えのです。・・・この信仰告白こそ、キリスト教会の根本です。わたしたちの拠り所なのです。教会においてその入会の儀式として授けられる、キリストの洗礼の恵み、永遠の命の約束も、この信仰告白の上に行われるところに、本当の意味をなしていくのです。

 このペトロの信仰告白の記事を読む上で、見落としてはならない大切なことが、最初の18節で語られています。18節をもう一度読んでみましょう。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」・・・ここには、イエスさまが一人で祈っておられ、その傍に弟子たちが共にいた、ということが語られています。なぜわざわざこんなことがここに語られているのでしょうか。それは、イエスさまがここで、ペトロの信仰を問うそのことに先立って、そのペトロを含めた、弟子たちのことを覚えて、彼らのために、彼らの信仰のためにとりなしの祈りをささげていてくださっていた、ということなのです。私たちにおいてもそれは同じことです。「あなたはわたしを何者だと言うのか」というイエスさまの問いかけの背後には、イエスさまご自身のわたしたちのための祈りが、とりなしが、愛があるのです。イエスさまご自身がわたしたちを、あなたこそキリスト、救い主です、という信仰告白へと導いて下さっているのです。
 
 ペトロの信仰告白はそのようにイエスさまの祈りに支えられてなされました。そのようになされた信仰告白であったわけですけれども、今日の後半の21節には、イエスさまだ弟子たちに「このことはだれにも話さないように」とお命じになったことが語られています。そして続く22節には「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆるイエスさまのご受難の予告が語られています。

 イエスさまは、ペトロの信仰告白のあと、それを人には話さないようにと言われ、ご自身の受難の予告をされました、これはいったいどういうことなのでしょうか。・・・イエスさまのことをキリストです、救い主ですと告白する、それは正しい答えでした。けれども、ではどういう理由で、イエスさまはキリストなのでしょうか。そのことが実はまだこのときのペトロ、そして他の弟子たちには十分に分かってはいなかったのです。イエスさまはどういうことによって、わたしたちの救い主なのでしょうか。超自然的な力によってそうなのでしょうか。英雄的な働きによってそうなのでしょうか。ある意味ではそれは正しい答えですけれども、ある意味ではそれは間違っているのです。

 イエスさまは、私たちのために、多くの苦しみを受け、人々から排斥されて殺されたのです。それは、わたしたちの罪を背負って、イエスさまが死んでくださったということなのです。そして、しかしイエスさまは三日目に復活するのです、わたしたちの命がイエスさまの命を通して、復活の命、永遠の命へと導かれたこと、そのことを神さまは、イエスさまの十字架の死と復活という御業によって示してくださったのです。・・・イエスさまがキリストである、救い主であると、ほんとうの意味でわかる、ということはこのことがわかる、ということです。・・・このことを抜きにして、イエスさまは救い主です、とその信仰を告白することも、ほんとうにはイエスさまに出会うことができない、のです。

 わたしたちのために十字架に死なれたイエス、そしてその業を通して、わたしたちを復活の命にあずからせてくださるために復活されたイエス、このイエスさまこそがキリストなるイエス、イエス・キリストなのです。

 そして23節でイエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。イエスさまご自身から「あなたはわたしを何者だと言うか」と問われ、「あなたこそ神からのメシア、キリスト、救い主です」と告白した者は、その救い主イエスに従って、その後について行く者になる、ということです。イエスさまは多くの苦しみを受け、排斥され、殺されることによって救い主として歩まれました。ですからそのイエスさまに出会いそのイエスさまを知った私たちは、イエスさまに従って、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従っていくのです。

 いや、それは無理だ、大変なことだ、そんなことはとてもできない、そのように私たちは思ってしまいます。けれども続く24節で、イエスさまは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われました。・・・つまり、自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくことは、ほんとうの意味で自分の命を救うことになるのです。なぜならば、そのようにして主に従って歩むところでこそ、私たちのすべての罪を引き受けて多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして三日目に復活して下さった救い主と出会い、その救い主が私たちを憐れみ愛してくださって、私たちのためにとりなしの祈りを捧げてくださっていることを知ることができるからです。先週も申しましたように、主イエスに従ってゆくことの中でこそ私たちは、主イエスが何者であるかを知ることができるのです。そして主イエスが何者であるかを知ることによって、ほんとうの意味で私たちは、新しく生き始めることができるのです。その新しい命、復活の命に目覚めて生きること、それが私たちの救いであり、喜びであり、一番大切なことなのです。

 27節には「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とあります。あなたがたの中には、生きている間に神の国を見ることができる者がいる、とイエスさまはいわれるのです。この言葉は、多くの場合、イエスさまの再臨の時を体験する者がいる、という意味だと受け止められていますけれども、必ずしもそのように受け止めなければならないわけではありません。・・・私たちはみな誰でも、生きて神の国を見ることができるのです。私たちが自分の思いを実現することによって命を得ようとするのではなく、そのような自分を捨てて、日々自分の十字架を背負って、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスに従って生きる中で、私たちは、主イエスの十字架と復活によって実現している神さまの恵みと愛のご支配という神の国を、確かに見るのです。先日しばらく教会をおやすみされているある方からお手紙をいただきましたが、そこには、昨年が予期せぬ苦難の年であったということ、けれども教会からのクリスマスカードの皆様のおはげましに救われ、折れそうだった心が少し元気になりましたとのお言葉がございました。まさに自分の十字架に苦しみつつ、それを背負って歩んでいかれている人の姿がそこにあるということを思わされ、こちらのほうが励まされる思いでありました。

 「あなたは私を何者だと言うか」イエスさまは、そのように私たちに問いかけることによって、「あなたこそ神からのメシア」キリスト、救い主です、という信仰告白へと私たちを導き、自分の十字架を背負って、主に従いゆく者としてくださいます。そしてそのようなわたしたちを、主は、み言葉によって常に養い、育み、私たちを、神の国を仰ぎ見て、揺るぎない希望と喜びに生きる者へと導いてくださっているのです。祈りましょう。

  「あなたはわたしを何者だと言うのか」主よ、あなたは、神からのメシア、私たちの救い主、キリストです、わたしたちのために十字架にかかり、命をささげて、わたしたちをまことの命へとすくい上げてくださった、救い主です。主よ、どうかわたしたちが、このまことの命の道を心から知って、もっとも大きな十字架を背負われたあなたのみあとを、自分に与えられた十字架を日々背負いつつ、歩んでいくものとならせてください。そこに命があり、そこに神の愛のご支配を見ることのできる喜びがあることを信じることのできるものへ、復活の命に生きるものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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元旦礼拝(降誕節第2主日礼拝) 

2017年1月1日(日)ルカ福音書9章7―17節
「主イエスに従いゆく年として」三ツ本武仁牧師

 主の年2017年を迎えました。先週は12月25日のクリスマスの日が日曜日で、 大阪女学院のハンドベル部のみなさんも参加してくださって盛大なクリスマス礼拝をもつことができました。祝会のあと、片付けが終わって、顧問のS先生とわたしが最期にこの礼拝堂に残ったんですけれども、S先生いわく、この日の演奏がいままで一番良かったのだそうです。高校三年生にとっては最期の演奏だとおっしゃっていましたから、その最期の演奏となった香里教会で一番よい演奏ができた、というのは、こちらとして大変光栄なうれしいいことでした。

 そのクリスマスを経て、今日2017年の最初の日曜日も一月一日で、こうして礼拝から新しい年を始めることができています。日本ではまだあまり馴染みがないですけれども、クリスマスというのはじつは12月25日から、週報に書いてありますように、公現日と呼ばれる1月6日までの十二日間をいいます。年をまたいでクリスマスなのです。ですからメリークリスマス、アンドハッピーニューイヤーというわけです。

 けれども、日本ではまだ馴染みがないと申しましたように、わたしたちはやはりお正月、元旦、というのもまた特別に大切にしたい心情がどうしてもあります。今日のこの日、元旦はやはりわたしたちにとって大きな節目であります。昔から一年の計は元旦にあり、と申しますように、この新しい年のはじめに、よし今年はこれこれのことをしよう、これこれに挑戦してみよう、こういうふうに生きてみよう、と考え、計画を立てている人もいるのではないでしょうか。かうゆうわたしも、昨年は実は年のはじめに「なるべく歩く」という地味な目標をたてて、なんとか最期まで、実行できたように思います。今年はまだ決めていないのですけれども、やはり何か一年の目標、計画を立ててみたいと考えています。

 しかしまた私たちは、こうして主の教会につながるクリスチャンであります。クリスチャンとして教会として、私たちはどのような抱負を抱き、どのような計画をもってこの新しい一年を迎えるべきなのでしょうか。そのことを問いつつ、この朝与えられました聖書の御言葉にともに耳を傾けてみたいと思うのです。

 私たちは昨年からルカによる福音書を読みすすめていますけれども、イエスさまのガリラヤでの伝道が活発に行われていき、その噂がガリラヤ中に広まっていったことが、これまでのところには語られていたと思います。今日のところは、そのイエスさまの噂が当時のガリラヤの領主であったヘロデの耳にも入ったことから語られています。ヘロデはイエスさまの噂を聴いて戸惑ったのです。なぜヘロデは戸惑ったのでしょうか。

人々はイエスさまのことを、『ヨハネが死者の中から生き返った』と噂したり、『エリヤが現れたのだ』と噂をしたり、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』とも噂していたといいます。
 
 ヨハネというのはあの洗礼者ヨハネのことです。そのヨハネをヘロデは牢屋に閉じ込めた、ということがこのルカ福音書では3章の19節で語られていました。ヨハネが自分の罪を指摘して批判したので、ヘロデはそれに怒ってヨハネを捕らえたのでした。その後ヨハネは無残にもヘロデに殺されてしまったのです。イエスさまはそのヨハネの生き返りだとの噂が流れたのです。それからイエスさまは「エリヤの再来だ」という噂も流れたようです。エリヤについて知るためには旧約聖書の学びが必要になりますけれども、彼はイスラエルの誰もが尊敬する偉大な預言者の一人であります。昔のそのような預言者の生き返りがイエスさまだというのです。

 ヘロデは、しかしそのような噂を鵜呑みにするような人物ではありませんでした。その意味でヘロデは極めて冷静な現実主義者です。ただヘロデは、9節ですが、「ヨハネなら、わらしが首をはねた」と言ったあと、彼は「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」と言って、「イエスに会ってみたいと思った」のです。ヘロデの戸惑いの理由はここにあります。ヘロデは自分が殺したヨハネが生き返って、自分に復讐しに来たのだろうか、と思って戸惑ったのではありません。そうではなく、そのような噂になるほどのイエスという男はいったい何者なのだろうか、「イエスとは何者か」それが知りたい、そういう思いを強く抱いている自分がいる、そういう自分自身に戸惑ったのです。そしてイエスさまに会ってみたいと彼は強く思ったのです。

 そのような思い、イエスとは何者か知りたい、という思いは、ある意味で世界中の誰もが一度は抱く思いなのではないでしょうか。なかでも、こうして信仰を求め、礼拝に集い、聖書の言葉を学び、人生の糧としたいと願っているわたしたちにとって、それは必ず通る道だということができるかと思います。

 ここで語られているヘロデのそのような問いと願い、イエスさまが何者であるか知りたい、イエスさまと出会いたい、という問いと願いは、実は私たちすべての者の問いと願いなのです。ヘロデがヨハネを暴力的な仕方で殺した、ということで、私たちはヘロデに悪いイメージしかもてないわけですけれども、しかし、ここで語られているヘロデの思いは、ある意味では私たちすべての人間の正直な思いなのです。

 ではそのようなヘロデの問いと願い、すなわち私たちの問いと願いに、イエスさまにどのように答えてくださるのでしょうか。そのことが今日の10節以下で語られていることなのです。

 10節以下には、イエスさまがなさった有名な奇跡が語られています。イエスさまが、男さけで五千人という、ですから女性や子どもたちを合わせればもっとたくさんの人々を、五つのパンと二匹の魚で満腹になさった、という奇跡です。イエスさまによってそのような驚くべき奇跡が行われたのです。しかし、この奇跡の最大の特徴は、それがイエスさまから直積に群衆に行われたのではなくて、弟子たちの手を通して、また弟子たちの持っていた僅かなパンと魚を用いて行われた、ということです。五つのパンと二匹の魚、それがいったい五千人以上の人々の何の役に立つというのでしょうか? ほんのわずかの腹の足しにもならない。イブ賛美礼拝でお話しました、チリの鉱山の崩落事故で閉じ込められた33人の場合よりももっとひどい、一人分は米粒にもならないほどだといえるでしょう。何の役にも立たない、それが弟子たちのもっているものです。五つのパンと2匹の魚とはそういうことです。しかし、イエスさまはこのことを確認した上で、その「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」のです。そうしますと「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」というのです。さきほども申しましたように、この奇跡は、弟子たちの手を通して、弟子たちの持っていたものを用いて行われました。全ては弟子たちを通して行われたのです。

 この五千人の奇跡こそは最初に申しました「イエスとは何者か」というわたしたちの問いの答えなのです。「イエスとは何者か」この問いは、イエスさまに関わりを持てば持つほどに深まっていきます。弟子たちは、イエスさまと出会い、イエスさまに従う者となり、いまイエスさまと共に歩んでいるわけです。そしてイエスさまによって遣わされて、その御業にために用いられるというすばらしい体験もしました。そのような中で彼らこそは「イエスさまとはいったい何者なのだろうか」という問いを深めていった者たちなのです。

 イエスさまのすばらしい業を見、その恵みを体験するにつれて「イエスさまとは何者か」という問いが深まっていく、いや、もっと正確にいうならば、そのことが問われていくのです。わたしたちはイエスさまとの関わりが深まっていくほどに、むしろイエスさまのほうから「あなたは、わたしを何者だと思うのか」とより深く問われていくのです。そのことは次回の聖書箇所で、ペトロがイエスさまへの信仰告白をする、その場面でさらに深く見ていくことになります。

 ともあれ今日のところで弟子たちは、イエスさまが自分たちをも含めた、青草の上の多くの人々、五千人以上もの人々の空腹を満たし、その命を養い育んでくださる方であることを、弱い小さな自分たちを用いられつつ、圧倒的なかたちで体験しました。本日、ともに交読しました詩篇は23編でした。主の神さまは、わたしの羊飼いであって、わたしを青草の原に休ませて、憩いの水のほとりに導いてくださり、魂を生き返らせてくださる、と詩篇は歌っていました。またそのまことの羊飼いなる主は、わたしが苦しい時であっても、わたしのために食卓を整えてくださり、わたしを豊かに養ってくださる、とも歌っていました。弟子たちはまさに、イエスさまを通して、この詩篇で歌われていることを体験したのです。

 つまりイエスさまとは何者であるか、イエスさまは、わたしのまことの羊飼いである、そのことを知ったのです。イエスさまはこの奇跡を通して、弟子たちの問いに答えてくださったのです。「わたしは何者であるか、わたしはあなたがたのまことの羊飼いである。あなたがたをいついかなるときも支え守り、豊かに養い、育む救い主なのだ」そのことをイエスさまは示してくださったのです。

 しかもイエスさまはこの奇跡を、弟子たちの持っているものを用いて、また弟子たちを通して行ってくださいました。彼らが持っていたものは、ほんとうに僅かであった、小さなものであったのに、それが、イエスさまが用いて下さることによって、多くの人々を養い、育んでくださる恵みの食卓の材料となったのです。また弟子たち自身も、何の力もない者たちであるにもかかわらず、イエスさまは彼らを、多くの人々を養う恵みの食卓の給仕として用いて下さったのです。

 ・・・私たちもこの弟子たちと同じなのです。イエスさまに従い、イエスさまと共に歩み、イエスさまに仕えていく、つまりイエスさまの弟子として歩んでいく、その中でこそ、私たちは恵みに満ちたイエスさまのお姿と出会うことが許されるのです。そのようにして「イエスさまとは何者であるのか」そのことの答えを示されていくのです。あのヘロデは、結局最後までイエスさまとは何者であるか知ることができませんでした。その意味では最後まで、彼は戸惑い続けて生きたのです。このあと、イエスさまがやがて逮捕されていく中で、ヘロデにはイエスさまと出会うチャンスが与えられることになります。けれども、そこで、イエスさまはヘロデには何も答えはくださいませんでした。イエスさまの弟子となって従っていくことのない中では、イエスとは何者か、というその本当の答えは最後まで与えられないのです。

 その意味では、イエスさまに養われたあの五千人の群衆も、同じだということができます。奇跡の体験を味わいながらも、群衆の中にとどまり続け、イエスさまの弟子として一歩を踏み出さないでいる、そのような人々にも最後までイエスさまは謎のままで終わってしまうのです。・・・しかし、そこから私たちが抜け出し、そのような恵みを与えてくださったイエスさまを信じ、イエスさまに従うことを決意し、イエスさまを主人として、その弟子として歩んでいくならば、いよいよ私たちにとってイエス様が何者であるかがはっきりとしていきます。イエスさまによる救いの約束を確かなものとしていくことができるのです。・・・こうして主日ごとに礼拝を守りつつ、イエスさまに従いゆく中で、まことの羊飼いなる主イエスに養われ、育まれ、憩いの水のほとりに伴われ、魂を生き返らせていただきながら、私たちはイエスさまは何者であり、また自分は何者なのかを見出していくのです。

 新しい年、2017年がそのようにして主イエスに従いゆく中で、主の恵み深さを味わい知らされていく喜びと慰めに満ちた一年となりますように、そのことを、私たち香里教会の一年の抱負とし計画としていきたいと願います。祈りましょう。

 主なる神さま、あなたはまことの羊飼いであり、わたしたちはあなたに養われ導かれる羊の群れであります。そのことをこの一年のはじめに深く刻み、険しい山間をいくときも、深い森をさまようときも、あなたが必ず探し出して連れ帰ってくださり、養ってくださる、そのことを信じて、歩むものとならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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アドベント第4主日礼拝 

2016年12月18日(日)ルカによる福音書9章1―6節
「主の選びと派遣」三ツ本武仁牧師

 香里ヶ丘こどもの家のクリスマスのこと

 さて礼拝ではルカによる福音書を読みすすめていますが、今日はその第9章に入ります。その冒頭には「イエスは十二人を呼び集め」とありました。イエスさまの弟子は十二人以上、たくさんいたわけですけれども、イエスさまはその中から十二人を特別に選び、「使徒」と名付けられました。使徒というのは漢字では、使うという漢字と生徒の徒と書くわけですけれども、その意味は、遣わされた者ということです。つまり使徒とは、イエスさまによって、その場その場へと派遣され、遣わされて、その使命を果たす者、ということです。その十二使徒は、イエスさまの十字架の死と復活の御業の後でこそ本格的に遣わされていくわけですけれども、今日のところでは、いわばその予備訓練として、使徒として生きるとはどういうことか、イエスさまが直々に十二人に語り示してくださっているのです。おそらくこの十二人は、もはや肉体をもったイエスさまとこの地上で出会えなくなった後に、このときの出来事を繰り返し思い起こしては、ああそうであった、と目を覚まされ、励まされ、慰められていたのではないか、とおもうのです。

 そこでまずどのようなことが行われたか、ということですけれども、まず1節後半をみますと、彼らに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能とをお授けになった」とあります。これはじっさいこれまでイエスさまが行ってこられたことでした。弟子たちもそのイエスさまの姿をまぢかで見てきたのです。その力がイエスさまではない、この自分たちにも与えられるというのです。それは本当に驚くべきことであったでしょう。
 しかし、それは確かに彼らに与えられた力でした。6節の後半をみますと、「十二人は出かけていき、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」のです。イエスさまではなくて、弟子たちが使徒として歩んでいく中で、イエスさまご自身と同じような驚くべき御業を働くことのできる者となっていったのです。

 けれども、この6節に語られていることは注意深く読む必要があると思います。そこにはこうありました。「十二人は出かけていき、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」ここには病気のいやし、という私たちがある意味で一番願うことの前に、一つのことが語られています。「至るところで福音を告げ知らせ」とあります。福音を告げ知らせる。今日司会者の方が招詞で語ってくださった言葉も「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」でした。神の国というのは、神さまのご支配という意味です。支配などといいますと、何か上から圧迫されるような、あまりよいイメージではないかもしれませんけれども、神さまのご支配というのは、そういうことではなくて、神さまが愛と恵みをもって、わたしたちを包んでくださる、救ってくださる、そういう恵みに満ちた、救いのご支配のことです。その恵みが、今や決定的に始まっているのだ、これがイエスさまの告げられた、私たちへの良い知らせ、Good News、福音です。イエス・キリストを信じる、イエス・キリストを受け入れる、というのは、この福音を信じて、受け入れることに他なりません。

 その神さまの恵みのご支配の中では、わたしたち人間を脅かす一切のものが、もはや力をもたないのです。いや力をもてないのです。ですから、悪霊に打ち勝つことも、病のいやしも、福音を信じるところに起こることなのです。使徒となった弟子たちが行ったことはそういうことなのです。彼らは福音を宣べ伝えたのです。その中で、その福音を受け入れた人々のあいだに、病気のいやしも起こっていったのです。

 このようにイエスさまによって選ばれ各地へ派遣された十二人の使徒たちは、主イエスの力と権能を授けられて、イエスさまがなさったことと同じことをしていきました。では、私たちはどうなのでしょうか。私たちには、このような力や権能は授けられていないのでしょうか。そうではありません、この私たちも、この十二人と同じようにイエスさまに派遣され、彼らと同じことを体験していくようにと選ばれ、招かれた者たちなのです。

 いや、この十二人のような、イエスさまに選ばれるような、立派な信仰など私にはない。私たちはそう思います。しかし、聖書にはどこにも、イエスさまが信仰の優れた立派な弟子を特別に使徒として選んだ、などとはどこにも語られていません。そして実際、どの福音書からも分かることは、十二人の弟子たちが、ほかの人よりも信仰が深かった、などということは全くない、ということです。十二人の中には、イエスさまを裏切ったユダもいました。一番弟子といわれるペトロですら、イエスさまが逮捕された時には、逃げ出して、しかも三度も「そんな人は知らない」とイエスさまを否定したのです。

 それから、もう一ついえますことは、わたしたちがこうして教会に集まって信仰生活を歩んでいる、そのことは私たちがみな使徒であることを示している、ということです。教会というのは、使徒たちの信仰を受け継ぎ、その信仰によって生きる者たちの群れだからです。新約聖書は、使徒たちの信仰を書き記した書物だともいえます。つまり、イエス・キリストを信じ、教会に連なっている信仰者は誰でも、二〇〇〇年以上前の使徒たちから始まる、その群れと共に、神の国の福音を宣べ伝えるという使命をになっているのです。

 その使命は、ですから教会の一部の人たちだけに与えられているのではありません。牧師だけがその使命をになっているのではありません。役員だけがその使命をになっているのではありません。CSの教師だけがその使命をになっているのではないのです。私たちは誰でも、自分の信仰はあやふやで弱い者であり、神さまのお役に立つことなど何もできない、と思いますが、じっさいそう思っていた最初の使徒たちを選ばれ、派遣なさったイエスさまは、この私たちをも選び派遣なさるのです。そもそも、イエス・キリストを信じる信仰が与えられている、それ自体が、すでにイエスさまによって選ばれている、ということです。キリスト者は、世の多くの人々の中から、イエスさまによって選ばれ、信仰を与えられ、神の国の福音を告げ知らせるために派遣されていくのです。選ばれたのは、私たちが立派だからでも力があるからでもありません。私たちの中にある何らかの価値 によってではなく、ただ神さまの一方的な恵みによって、私たちは選ばれ、信仰を与えられ、そして派遣されていくのです。

 いま集われている皆さんの中には、いや自分はまだ信じていない、信じようとも思っていない、たまたま何かのきっかけで今日ここにいるだけだ、という方もおられるかもしれません。そういう方は、選ばれているなどという話は自分とは関係がない、と思っておられるかもしれません。けれども、いま信じている人しか、神さまは選んでいない、などということはないのです。どのような理由であれ、どのような状況であれ、いまこの礼拝に集っている、そのこと自体に、神さまの選びと招きがあるのであります。

 今日の十二人の使徒たちの選びと派遣の話は、いまここにいる私たちひとりひとりの話なのです。あの人は使徒で、自分は裏側でそれを支える役目、というのではないのです。そこで、では私たちは使徒としてどう歩んでいくべきなのか、どのように福音を宣べ伝えるのか、そのことを知る上で今日の3節に語られていることはとても大事なことになってきます。3節にはこうありました。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持っていってはならない。下着も二枚は持ってはならない」要するに、イエスさまは、私があなたたちを派遣する、そのときには何も持っていくな、と言われるのです。

 それはいったいどういうことなのでしょうか? パンもお金も持っていかなかったら、生活に困るじゃないですか? 下着一枚だけだったら、洗い替えもなくて、くさくて不潔じゃないですか? 私たちはそう読んでしまうわけですけれども、当然ながらイエスさまがおっしゃりたいことはそういうことではないわけです。イエスさまが私たちを派遣される、その旅は、神の国の福音を宣べ伝える旅です。福音を伝えるための旅、伝道の旅、その使命を、あなたがた自身の備えや、蓄えや、能力や、そういったあなたがた自身のちからで果たそうとしてはならない、そういうものに頼ってはならない、と言っておられるのです。それでは何によって、私たちは福音宣教の使命を果たしていくのでしょうか? それは他ならない、イエスさまご自身によって、イエスさまの力と権能によってそれを果たしていくのです。自分の持っている才能や力、いろいろな意味での蓄えや豊かさ、たとえば人付き合いが上手であるとか、誰とでも仲良く話せるとか、そういう自分の力に頼ってはならない、そうではなく、いつでもどこでも、ただ主イエスのみ、イエスさまのそのお力、その愛、それをのみ依り頼み、それに信頼して、神の国の福音、救いの知らせを宣べ伝えなさい、イエスさまはそう言っておられるのです。

 しかし、もしもそこで、自分の用意した何か、自分の力や蓄え、自分の中にもともとあるものに頼ろうと、私たちがするなら、そこでは逆にイエスさまの力と権能は発揮されなくなってしまいます。そしてそのような時に語られるのは、もはや神の国の福音ではありません。神の国の福音は、神さまの恵みのご支配を告げるよき知らせです。神さまの独り子イエス・キリストが人間になって、この世に来てくださり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んでくださり、復活して私たちに新しい命を与えてくださった。その救いの御業によって神さまの恵みのご支配が、今や確かに始まっていることを宣言し、その救いに人々を招くこと、それが神の国の福音を宣べ伝えることです。そのような福音を、私たちは到底、自分の力で示すことなどできないのです、むしろ反対に、私たちが、自分の力を捨てて、神さまに依り頼んでいる、その姿を示すことによってこそ、その恵みの事実を、私たちは人々に宣べ伝えることができるのです。

 別の言い方をすれば、自分には力がない才能がない、と言って嘆く必要はないのです。またじっさいに人間的に魅力があり力がある人がいたとしましたら、その人が人々に福音を伝える、そのもっとも有効的な手段は、そのような人間的な力のある人でありながらも、そのことを頼りとせずに、神さまのみ、イエスさまのみを頼りにしている、その姿を人々に示すことにあるのです。

 繰り返しますが、キリストを信じる信仰者は皆、イエスさまによって選ばれ、この使命へと派遣された者たちです。その選びと派遣の一つのかたちは、確かに、この私のように牧師になる伝道者になる、ということになるかもしれません。しかし、このかたちだけが、神さまによる選びと派遣ではないのです。渡辺和子さんが「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれてベストセラーになりましたけれども、私たちはそれぞれが、それぞれの置かれた場所で、そこで出会う人々との人間関係において、神の国の福音を語り、証し、花開くために選ばれ、派遣されるのです。そこでどのようにして神の国の福音を語り、証していくか、それは私たちに委ねられています。「こうしなければならない」という決まったかたちや、ノルマのようなものがあるわけではありません。

 たとえば、家族の中で自分一人が信仰者である、という場合に、積極的に家族を教会に招くことができれば、それはそれですばらしいことですけれども、しかし必ずしもそうしなければいけない、そのようにできなければ伝道をしていないのだ、ということではないのです。そういうことが仮にできないとしても、その人自身が教会の礼拝を大切に守り続け、その中で、家族のために祈り続ける、それも神の国の福音を告げ知らせる一つの姿ではないか、と私は思います。わたしたちがどのような福音伝道のかたちをとるにせよ、大事なことは、神さまが自分を、いまここで、この家庭、この職場、この人間関係の中で、神の国の福音、主イエス・キリストによる救いを証しする務めへと、派遣しておられることを覚え、受け止めること、そして、その務めを、さきほど申しましたように、自分の力によってではなく、主イエスの力、神さまの力に信頼して、それを頼りにしていく、そのような歩みの中でこそ私たちは、私たちの力では到底起こり得ないような神さまの偉大な御業を見せていただくのです。私たちが今歩んでいます、アドベントは、主のご降誕を待ち望む時節です。神さまの約束を信じて、主のみ業を待ち望む。そのことを改めて心に刻みつつ、来主日ともに恵みと慰めに満ちたクリスマスを迎えたいと願います。祈りましょう。

 
力を捨てよ、知れ、わたしは神、国々にあがめられ、この地であがめられる(詩篇46:11)
主なる神さま、あなたが今日、わたしたちを選び、使徒とし、それぞれの場へ、福音伝道のために派遣してくださいますことを、恐れおののきつつ、感謝いたします。ただあなたの力のみを頼りにして果たすその使命の中で、あなたがそのような御業を見せてくださるのか、そのことを感謝と喜びのうちに期待して待ち望むものとならせてください。
特に来主日、一人でも多くの人が、クリスマス礼拝の恵みにあずかることができますように、主よ、わたしたちをあなたの手とし、足として用いてください。主の御名によって祈ります。アーメン

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アドベント第3主日礼拝 

2016年12月11日(日)ルカ福音書8章40-56節
「信仰による救い」三ツ本武仁牧師

 今日与えられました聖書個所には、イエスさまがなさった2つの奇跡が語られています。一つは病気の人のいやし、もう一つは死んでしまった人を生き返らせたという御業です。興味深いことは、病気の人のいやしの話が、もう1つの死者の生き返りの話に挟まれるようにして語られていることです。なぜこの二つの物語はこのように結び付けられているのでしょうか。そのことによって聖書は何を私たちに伝えようとしているのでしょうか? 

 40節にありますように、イエスさまがガリラヤの対岸から弟子たちとともに帰ってこられると、多くの人々がイエスさまを喜んで迎えました。すでに、イエスさまは病を癒してくださる方であるとの評判が広がっていたのです。ヤイロという人もそういう思いでイエスさまの帰りを待っていたのでしょう。彼は早速イエスさまのもとに来てひれ伏し、娘を助けて下さるようにと願いました。ヤイロは会堂長でした。会堂長というのはいわばユダヤ社会の指導的な立場にあった人です。そのヤイロの12歳の一人娘が病気で死にかけていたのです。12歳というのは、私たちの社会では小学校6年生か中学一年生かという年頃になるわけですけれども、昔の日本もそうであったように、当時のユダヤ社会では、もう成人扱いされる年頃でした。そろそろ結婚という年齢です。そういうことも含めて、これから、という年頃の娘が、病気で死にかかっているのです。ヤイロは会堂長という人脈のある立場でしたから、いろいろ手を尽くしたことでしょう。けれどもすべてはダメだったのです。そういう絶望の中にいたヤイロにとって、イエスさまは最後の頼みの綱でした。イエスさまは、そのようなヤイロの願いを聞き入れて、彼の家へと向かってくださったのです。

 ところがその途中で、ある一人の女性がイエスさまに癒される出来事が起こります。この人は12年間、出血の止まらない病気を抱えていました。この病気は、女性の生理による出血に関わる病気でした。その病気は肉体的につらい病気であるだけでなく、ユダヤ社会においては深い精神的な苦痛をともなう病気でした。なぜなら、ユダヤの律法では、そのような理由で出血中の女性は穢れているとされていたからです。このことはいまのわたしたちからすれば大変な女性差別だと思われますし、私のような男性が、女性のこのような繊細な問題に触れることは、ちょっとためらわれるわけですけれども、当時のユダヤの女性にとって、生理の期間中というのは、そういう意味で非常にしんどい期間であったのです。そのような中で、12年間その出血が止まらなかったというこの女性が、どれほど深刻な差別と孤独の中をさまよっていたか、ということが痛いほどわかるのであります。
 ですからまた、そのような人が、群衆にまぎれてイエスさまに近づいた、というのは相当に勇気のいることであったでしょう。なぜなら、もし自分のその症状を周囲に知られてしまったら、彼女はたちまち厳しい批判の目にさらされ、その場から追放されてしまうからです。けれども、そのような中で、彼女はイエスさまに辿りつき、その服の房に触れたのです。これもまた大胆な行為でした。なぜなら、もしそのことが周囲に知られてしまったら、そのときはイエスさまも巻き添えになって、自分同様に、イエスさまも穢れたものとして追放されてしまうからです。

 なんて自分勝手な人の迷惑をかいりみない行為だろうか、という思いも、見方によっては出来るわけですけれども、しかし、それほどにこの人は追い詰められていた、ということです。十二年間、病気の癒しを願って、ほうぼう医者にかかり、全財産を使い果たしたけれども、治らかったのです。そこからまたこの女性の病気が、どれほど深刻な病気であったか、病気そのものの苦しみだけでなく、それに付随して、この病気が彼女からどれほど多くのものを奪い去っていったかが、わかるのです。それまでの人々との関係、財産、生きる喜び、何もかも、彼女はその一つの病気によって奪われてしまったのです。そのような彼女にとって、イエスさまの出現は、最後の希望でした。ですから、彼女は最後の望みをかけて、イエスさまに後ろから近づき、おそらくは半ば申し訳ないという思いを抱きつつも、イエスさまの服の房に触れたのです。藁にもすがる思いで、そうしたのです。ところがそうしたところ、「ただちに出血がとまった」のです。12年間苦しんできた病が、たちどころに癒されたのです、そのことを彼女が自分ではっきと感じたのです。

 このような奇跡的な癒しというのは、何か病気を患うものであれば、だれもが願うものではないか、と思います。・・・けれども聖書は、このような奇跡を語って話を終わっていません。むしろここからが大事なことになっていきます。この奇跡のあと、イエスさまは「わたしに触れたのは誰か」と問われたのです。そして自分に触れたその人を探し出そうとされたのです。しかし誰も名乗り出ません。ペトロは「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言いました。こんなに多くの人が押し合いへし合いして、自然に体が触れ合うなんて当然なことで、そんな誰が先生に触ったかなんて、わかりませんし、どうでもいいじゃありませんか、そういう思いだったのでしょう。しかしイエスさまは46節ですけれども「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出ていったのを感じたのだ」と言われました。誰かが救いを求めて、自分のところに来た、そして自分に触れて癒された。そのことを、イエスさまは大変重要なことと考えておられるのです。そして、何としてもその人を見つけ出したいと考えておられるのです。

 すると、そのただならぬ様子に気づいたのでしょう。47節ですが「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」のです。彼女は、できることなら、この出来事を隠してたかったのです。そこにはいろいろな複雑な理由があったと思います。穢れた自分がイエスさまに触れたことが明らかになれば、どんな非難を受けるかわからない、ということもあったでしょう。しかしまた、いままで差別されていた自分を人前にさらすことの恥ずかしさもあったことでしょう。ともかくも彼女は、誰にも気づかれずに、そっと家に帰りたいと思っていたのです。

 そういう意味では「わたしに触れたのは誰か」と問い、その人を探そうとするイエスさまの行為は、彼女にとっては酷な、気の毒なことにも思われます。・・・けれども、実にここにこそイエスさまのなさる癒しとはどのようなものか、イエスさまの救いとはどのようなものか、という大切なことが示されているのです。それは、イエスさまの癒し、イエスさまの救いとは、イエスさまがその人と正面から向き合い、出会ってくださる、そのところでこそ、その癒しは本当の癒しとなり、その救いは本当の救いになるということです。

 この女性自身は、そういうことは望んでいなかったでしょう。むしろ、イエスさまと正面から出会うことなしに、人知れずそっと、イエスさまの癒し、イエスさまの救いにあずかることができれば、と願っていたのでしょう。彼女は、イエスさまに触れて癒された後、そのまま静かに、帰ろうとしていたのだと思います。しかし、イエスさまは振り返って、彼女を探したのです。そして彼女と正面から出会いたいと望まれたのです。・・・もしかしたら、いま礼拝に出ておられる皆さんの中にも、この女性と同じような思いで礼拝に来られている人もおられるかもしれません。イエスさまと正面から出会うなんて面倒くさいことはさけて、そっと、み言葉を聞いて、慰めと励ましだけいただいて帰ろう、自分はそれで十分だ、そう思っている人もおられるかもしれません。・・・けれども、今日のところからいえますことは、それでは本当の癒しにならない、それでは本当の救いにはならない、ということです。

 イエスさまと正面から出会い、イエスさまとの交わりの中に生きる、そのときこそ私たちは本当の意味で癒され、救われるのです。そしてそのときはむしろ、実際の病気が治った、治らないということは問題ではなくなります。むしろ病状はそのままであったとしても、癒され救われた喜びと感謝の中に生きることができるのです。これは本当に不思議なことですけれども、イエスさまと正面から出会う、イエスさまとの交わりに生きる、というのはそういうことです。

 後ろからそっとイエスさまに触れて帰りたい、それがいけない、と言っているのではありません。この女性はまさにそのようにして癒されたのです。けれども、わたしたちを招いてくださるイエスさまの救いの恵みは、それで終わりではない、ということです。いや、イエスさまはわたしたち一人ひとりを、どこにいても探し出して、しっかりと向き合い、出会おうとなさるのです。

 イエスさまに見いだされたこの女性は、そこでおそるおそる自分のことを語りました。自分がどのようにしてイエスさまによって救われたかをイエスさまと人々の前で語ったのです。それは要するに証であります。彼女は信仰の証をしたのです。この証が大事なのです。なぜ自分が救われたのか、どのように自分は救われたのか、その証をすることは、時には痛みを伴います、つらい過去に触れることにもなります。けれども、証をする、そのことを通して、私たち自身の信仰はより確かなものへと深まっていくのです。・・・以前にサムエル会が信仰的自分史というのを残されていて、これで牧師は、葬儀のとき助かるでしょう、とよく冗談を言われるのですけれども、もちろんそういう面もありますけれども、しかし、一番大事なことはそういうことではなくて、その証を通して、ご本人の信仰がより深められ、救いの恵みが確かなものとなっていかれる、またその証を通して、それを聞き、また読んだ人々を、イエスさまとの出会いに導くことができる、そのことが大きなことなのです。そして、そのこととの関連でいえば、洗礼を受ける、ということこそ、まさにイエスさまとの正面からの出会いの証であり、しるしである、ということがいえるのであります。

 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」48節で、イエスさまはこの女性にそのように言われました。イエスさまにこのような言葉をいただいた、まさにこれこそ、イエスさまとの正面からの出会いにおける救いであります。洗礼を受けた者は、みなこの言葉をいただいたものです。「あなたの信仰が、あなたを救った、安心して行きなさい」わたしたちもこのみ言葉を聞きつつ生きるならば、人生における様々な苦しみや悲しみ、病の現実の中でも、安心して歩むことができるのです。

 さて、今日の話はしかし、ここで終わるのではありません。この病を癒された女性の話から再び、最初の死に瀕していた、会堂長の娘の話に戻るのです。この女性とイエスさまとの対話の間に、その娘は死んでしまったのです。会堂長の家から人が来て「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言いました。この言葉を聞いたヤイロはその場に崩れ落ちたてしまったのではないでしょうか。暗く沈んだヤイロの背中を思わないではいられません。しかしそこでイエスさまは「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」とおっしゃいました。このお言葉は、さきほどの「あなたの信仰があなたを救った」というお言葉と基本的には同じことを言っています。信仰があなたを救う。信じることによって救われる。信仰による救い、ということです。それがこの2つの奇跡物語を結び付けているものです。

 その信仰とは、では何をどう信じることなのでしょうか。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」この言葉は、娘はもう死んでしまったのだから、イエスさまが来ても、もう仕方がない。無駄なことだ、ということを暗に言っていないでしょうか? そうです、死の現実の前では人間は無力であります。だからイエスさまといえども、例外ではない、そのことを、この言葉は暗に語っているのです。・・・けれども、イエスさまはそれに対して「恐れることはない」と言われました。死の前に、絶望するな、死の力を打ち破る者がここにいるではないか、イエスさまはそうお語りになったのです。人々は娘の死を悼んで泣いていました。イエスさまは「泣くな、死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。すると人々はイエスさまをあざ笑った、といいます。・・・以前に「死に勝利する者」という説教題をかかげたことがありました。教会の看板にその題が貼られるのです。教会の前は、日ごろは朝、小学生の集団登校の待ち合わせ場所になっています。その説教題をみたある男の子が言ったそうです。「死に勝利する者だって、かっこいい・・・」どんなイメージをその子がもったのかは疑問ですけれども、そのような反応はむしろ珍しいことであって、多くの場合は、世間では、死に勝利するなんて言っても、まともに受け止めてはもらえないでしょう。まさにあざ笑われるのです。

 しかし、聖書は、イエスさまが、まさにそれをやってのけた、ということを語ります。イエスさまが死んだ娘の手をとり、「娘よ、起きなさい」と呼びかけると、娘は生き返り、起き上がったのです。イエスさまは死の前に無力な方ではない。イエスさまはわたしたちを絶望の中に、暗闇の中に、そのまま捨て置かれる方ではない、のです。わたしたち一人ひとりがどのようなかたちで死から救われるのか、そのはっきりしたことはその時にならなければ、私たちにはわかりません。けれども、イエスさまが必ず、わたしたちを死の闇から救ってくださる、イエスさまはその救いの約束を必ず果たしてくださる。「恐れることはない。ただ信じなさい」とは、そのことを信じなさい、というのです。イエスさまの前では死も無力であること、そのことを信じることによって、私たちは救われるのです。

 じっさいは、わたしたちはなかなかそのことを信じることができない者です。今日の最初の女性のように、わたしたちも真正面からイエスさまと向き合うことを避けています。ヤイロのように、死の圧倒的な力の前に翻弄され、打ちのめされ、絶望してしまうことしばしばであります。けれども、そのような私たちを、イエスさまは、今日も、イエスさまのほうから探してくださって、見つけ出してくだって「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば救われる」と語りかけて下さるのです。私たちはこのイエスさまの語りかけを聞くことによって、恐れから救われ、私たちのために命をささげてくださり、そしていまは復活の命に生きておられ、その復活の命へと私たちをも導こうとしてくださっているイエスさまを信じて、歩んでいくものとなれるのです。祈りましょう。

 主なる神さま わたしたちからではなく、あなたのほうから、わたしたちに近づいてきてくださり、わたしたちにまことの癒しと救いを与えてくださいますことを信じるものとならせてください。イエス・キリストのその恵みの御業を、感謝して心にとめ、すべてをあなたにゆだねて、希望をもって、生きるものとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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アドベント第1主日礼拝 

2016年 11月27日(日)ルカ福音書8章19-25節
「信仰はどこにあるのか」三ツ本武仁牧師

 今日わたしたちに与えられました聖書箇所はルカ8章の19節から25節のところであります。イエスさまが多くの群衆たちに教えを語っておられると、イエスさまの母と兄弟たちがやってきました。イエスさまの母とはもちろんマリアのことです。イエスさまはマリアの最初の子だったわけですが、その後、ヨセフとマリアの間には何人かの子どもが生まれたのです。そういうイエスさまの兄弟たち、イエスさまの家族がイエスさまに会いに来たのです。けれども、多くの群衆たちにイエスさまが囲まれていたので、イエスさまに近づくことができませんでした。そこで、兄弟たちは、イエスさまを囲んでいた一番外柄の群衆に、自分たちが来たことをイエスさまに伝えてほしいと頼んで、その伝言が群衆づてに、イエスさまに届けられたのです。「母上とご兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」そういう知らせがイエスさまに届いたのです。けれども、それを聞いたイエスさまは次のように言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」

 つまり、神の家族とは、肉のつながりにあるのではなくて、神の言葉を聞いて行なう、そのような人々の交わりのことである、というのです。イエスさまはいま自分を囲んでいる群衆たちに、その人々が神の言葉を聞いて行なう、本当の神の家族になることを願い、期待されて、そのように言われたのです。それは、この私たちにも期待されていることです。この私たちが神の言葉を聞いて行なう人になる、そのことを通して本当に神の家族になる、そのことをイエスさまは私たちに期待しておられるのです。
 そこで問題は、では神の言葉を聞いて行なう、とはどういうことなのか。何をすれば、神の言葉を聞いて行なうことになるのか、ということであります。そして、その答えをが、今日読んでいただいた後半の22節以下「突風を静める」という話の中に示されているのです。ある日、イエスさまは弟子たちとともに舟に乗り込み、ガリラヤ湖の向こう岸へと船出しました。その弟子たちの中にはペトロをはじめ、ガリラヤ湖のバリバリの漁師たちがおりましたから、舟をあやつるなど何でもないことであったでしょう。ところが突然、「突風が湖に吹き降ろしてきて、彼らは水をかぶり、危なくなった」というのです。つまり、思いがけない嵐が襲ってきて、ベテランの漁師たちであった彼らでも、どうにもならない、舟が沈みそうになるような危険な状態になってしまったのです。彼らは必死で、舟をこぎ、水をかきだします。ところがそのとき、ふとみるとイエスさまは眠っておられた、というのです。弟子たちはついにたまりかねて、イエスさまを起こし「先生、先生、おぼれそうです」と言いました。するとイエスさまは起き上がり、風と荒波とをお叱りになりました。と、いままで吹きすさんでいた風も荒れ狂っていた波も、たちどころに静かになって、凪になったのです。弟子たちは、びっくりしたことと思いますけれども、そこでイエスさまは言われたのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」


 「あなたがたの信仰はどこにあるのか」これは、ああもう自分たちは溺れ死んでしまうのだ、という恐怖の中でパニックになっていた弟子たちをたしなめる、イエスさまのお叱りの言葉です。・・・育児の世界では、よく怒ることと叱ることは違うということが言われています。子どもの態度にイライラした感情をそのままぶつけるのが怒る。そうではなくて子どもの成長を思ってより良い方向へ導くことを願って語りかけるのが叱る。じっさいはなかなか難しいわけですけれども、イエスさまのこのときのお言葉は、その意味では、まさにお叱りの言葉であって、弟子たちに向かって、信仰がないことを責めているのでも、気持よく眠っていたのを起こされてイライラして腹を立てておられたのでもないのです。・・・そうではなくて「よく考えてごらんなさい、あなたがたには信仰があるではないか、あなたがたの信仰はここにあるはずではないか、それなのにどうしたのか」と、弟子たちに既に与えられている信仰の力に気づかせようとしているお言葉なのです。

 私たちは、苦しみや悲しみの中で、あるいは突然の思いもよらない出来事に遭遇したとき、まさに湖の上で嵐に遭遇したこの弟子たちのように、あわてふためいてしまうことがあります。そういう時に、「あなたの信仰はどこにあるのか」「あなたには信仰があるでしょ」と気づかせてくれる信仰の友・家族を持っている、ということは本当に幸いなことだと思います。あるいは私たち自身が、後から振り返ってみて「あの時私の信仰はいったいどこへいってしまっていたんだろう」と恥ずかしく思い返すこともあります。いずれにせよ、そのようなときには、私たちが信仰者である、ということが前提になっています。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」というイエスさまのお言葉も、それは信仰のない人に向かって語られた言葉ではないのです。イエスさまを信じていない人に向かって語られた言葉ではありません。そうではなく、既にイエスさまを信じ、その信仰の道を歩んでいる者たちに向かって、そのことをイエスさまご自身が認めてくださっている上で、語ってくださっている、それは励ましの言葉、期待の言葉なのです。

 それではイエスさまは、いったい私たちに何を期待しておられるのでしょうか? それが、最初に申しました「神の言葉を聞いて行なう人になる」ということです。「神の言葉を聞いて行なう」それこそが、私たちに既に与えられている信仰であって、その信仰に目覚めるならば、どのような嵐の中でも、動揺せずに、しっかりと立っていくことができるのだ、とイエスさまは言われるのです。

 逆にいえば、今日の後半に語られている出来事、嵐の中で、動揺している弟子たちの姿というのは、「神の言葉を聞いても行わない人」の姿を表しているのです。・・・それはいったいどういうことなのか、もう一度、今日の後半の出来事を振り返ってみたいと思います。弟子たちは、「湖の向こう岸に渡ろう」という主イエスのみ言葉に従って、船出したのです。彼らのその舟にはイエスさまが乗り込んでおられます。イエスさまが共にいてくださる舟を、彼らは漕ぎ進めているのです。これは、神の言葉を聴いて、イエス・キリストを信じて、クリスチャンとして教会生活を歩んでいる姿です。そのような教会生活、信仰生活の旅路、この話でいえば船旅において、しかし、ときに嵐が襲ってくることがあるのです。舟が沈んでしまうのではないか、と思えるような時があるのです。そこで弟子たちは慌てふためき、「先生、先生、おぼれそうです」と悲鳴をあげたのです。イエスさまはそのことを「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とお叱りになったのです。つまり、この慌てふためいている弟子たちの姿が「神の言葉を聴いて行わない人」の姿なのです。ですから、この弟子たちとは反対の姿こそが「神の言葉を聴いて行う人」の姿なのです。

 弟子たちはイエスさまに叱られてしまったわけですけれども、では、あの嵐の中で、イエスさまに叱られないあり方、つまり、信仰がそこにちゃんとある姿とはどのようなあり方なのでしょうか? それは、たとえ嵐で舟が沈みそうになっても、この舟にはイエスさまが乗り込んでおられるのだ、そもそもこの船旅は神さまの、イエスさまの御計画によって始められたものなのだ、そのことに信頼して、パニックになることなく、舟を漕ぐもは漕ぎ続け、水を汲み出すものは汲出し続ける、自分に与えられた役割・使命を担い続けることです。イエスさまが弟子たちに期待しておられる、信仰がどこかへ行ってしまっていない姿、信仰がちゃんとそこにある姿とはそのような姿なのです。そしてそれこそが「神の言葉を聴いて行っている」姿なのです。

 私たちは「神の言葉を聴いて行う」ということの意味をしばしば間違って受け止めてしまいがちです。つまり、それを、何か神さまの命令を実行する、神さまの掟や戒めを守る、というふうに理解していることが多いのです。しかしそれは間違いです。神さまが御言葉によって私たちに語りかけておられることは、あれをしなさい、これをしなさい、あれはしてはいけない、これはしてはいけない、というようなことではないのです。これはよく誤解されることです。しかし神さまがその御言葉によって私たちに語りかけておられるのはそういうことではないのです。ではいったい何を神さまは私たちに語りかけておられるのでしょうか、聖書はイエス・キリストこそまことの神の言葉であるといいます。つまり、神さまが私たちに語りかけておられる言葉とは、神の独り子イエス・キリストによる救いです。神さまの独り子、まことの神であられる主イエスが、あのベツレヘムの馬小屋で、貧しい一人の赤ん坊として、この世に生まれて下さった、そしてその主イエスが成長して、神さまによる救いを告げる福音を人々に宣べ伝えてくださった。さらにそのイエスさまが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さった。そして、神さまはその主イエスを復活させ、私たちにも、復活と永遠の命の約束を与えて下さった。神さまのみ言葉が私たちに告げているのは、このようなイエス・キリストによって実現された救いの恵みなのです。ですから、それを聴いて行うとはどういうことでしょうか? それは、その神さまによる救いの恵みを信じて、時がよくても悪くても、イエス・キリストに信頼して、主と共に生きることです。(「あしあと」)

 私たちは、イエスさまに信頼して、救われて永遠の命へとつながっていく人生の船旅を続けるものです。その船旅がいつも順調ならいいのですけれども、しかし、その人生の船旅には、時に嵐が襲ってきます。家族や自分の病気や怪我、人とのいざこざや、争い、人への妬みや憎しみ、そういう嵐が襲ってくるのです。そのような嵐の中で弟子たちは、イエスさまが眠っていると思いました。イエスさまが眠っていると思う、というのは、イエスさまは何もして下さらない、自分の苦しみ悲しみに気づいてすら下さらない、いないとの同じだと思っている、ということです。そのような思いに陥るとき、私たちは、神さまの御言葉、その救いの御言葉を聞くことができなくなります。救いの約束を信じて待つことができなくなってしまうのです。

 しかし、そのような嵐に翻弄され、今にも沈みそうになっている私たちの舟に、イエスさまはちゃんと乗っておられるのです。そもそもこの船旅はイエスさまによって始められた船旅なのです。イエスさまによる救いの御業の約束という舟に私たちは乗っているのです。そのことを信じて、パニックに陥らずに、自分に与えられている働きを忠実に行っていくこと、それこそが神の言葉を聴いて行うことであり、信仰がどこかに行ってしまっていない姿なのです。神さまに与えられている自分の働き、使命ということで、それには、社会的にも目立つ評価されるものもあるでしょうけれども、必ずしも、そういうものばかりではない。むしろ圧倒的に多くの私たちの使命というのは目立たない、地味なものではないでしょうか。しかしそのような使命の大きさ小ささを私たちは人と比べる必要はない、それこそは神の御言葉を聴いて行う、ということから離れたことです。そうではなく、神さまに与えられている救いを信じ、その約束に感謝して、自分に与えられた命を自分なりに、神さまのために用いていく、それが神の言葉を聴いて行う人なのです。そしてその意味では、日常のいろいろな心配事や不安がある中でも、ともかくも今日礼拝に出て、神の言葉を聞きに来る、それはまさに神の言葉を聴いて行う人の姿です。礼拝で御言葉を聴いた後で何かをしなければならない、ということではなくて、むしろ、それぞれ人生の歩みの中から、いま礼拝に出て、救いの御言葉を聴いていることこそが、神の言葉を聴いて行っている人の姿なのです。そして、そのような人たちのことを、イエスさまは、この人たちこそ、わたしの家族、神の家族だ、と言ってくださっているのです。
 
 イエスさまは、私たちがそのような信仰に生き続けることを期待しておられます。けれども、弟子たちがそうであったように、私たちは、嵐の中でうろたえ、パニックになってしまうことがあります。漕いでいるオールから手をはなし、水をくむオケを投げ出し、イエスさまは眠っていると不平を言ってしまうのです。それはまさに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とイエスさまに言われてしまうありさまです。しかし、イエスさまは「先生、先生、おぼれそうです」とイエスさまに泣きつく弟子たちを、冷たくあしらわれる方ではありませんでした。弟子たちを憐れんでくださり、起き上がってくださり、風と荒波とをお叱りになって、嵐を静めてくださったのです。試練の中で、信仰がどこかへ行ってしまうような私たちであっても、主は憐れんでくださり、そのみ力によって私たちを守り、支えてくださるのです。

 イエスさまのそのような大きな救いの業を体験した弟子たちは「いったい、この方はどなただろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言いました。「いったい、この方
はどなただろう」この弟子たちの言葉には、いままで自分がそうだと思いこんでいたイエスさまのイメージが崩され、もっととてつもない大きな方であることに気づかされた、驚きの響きがあります。ここにも私たちの信仰の旅路にとって、とても大切なことを示されています。イエス・キリスト、その救いの恵み、その恵みの御計画が全てわかってしまうなどということは最後まで私たちにはないのです。それなのに私たちは時にイエス・キリストがわかったような気になってしまう。信仰生活が退屈になるということがあるとすれば、それはイエスさまのイメージが自分の中で固まってしまった時です。そして、そのようにイエスさまのイメージを固めてしまうということは、意識しているかいないかは別にしても、それこそが聖書が批判している偶像崇拝なのです。

 私たちは、主イエスの恵みの大きさ、深さに常に驚かされつつ「いったい、この方はどなたなのだろう」と問いつつ歩むことしかできないのです。しかしその歩みの中で私たちは、神さまの御言葉の大いなる力を体験させていただきます。私たちが実行することによってではなく、神さまご自身のみ力で御言葉の実が結ばれていくことを体験させていただくのです。そのような体験を、驚きを繰り返していく中で、私たちは、神さまのみ言葉を本当に神さまの御言葉として聴き、それをしっかり持ち続け、忍耐しつつ、その実現を待つものとされていきます。つまり御言葉にとっての「良い土地」にされていくのです。それが「神の言葉を聴いて行う人」の姿であり、信仰がどこかへ行ってしまっていない人の姿なのです。そしてそのような私たちのことを、イエスさまは、「この人たちは私の兄弟姉妹であり、家族である」と宣言してくださるのです。祈りましょう。
 主なる神さま
 今朝もこのようにあなたのみ言葉を聞くところに集う、あなたの家族の交わりに生かさましたことを感謝いします。人生の嵐の中で、動揺してしまう私たちを憐れんでくださり、あなたの確かなる救いの約束を信じ、最後まで、あなたにゆだねて生きるものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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