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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

聖霊降臨節第10主日礼拝 

2017年8月6日(日)ルカによる福音書第13章10-21節 
「安息日―解放と平和の記念日」三ツ本武仁牧師

 みなさまのお祈りのおかげで、CSのファミリーキャンプが無事に終わりました。ほっとしたところでありますけれども、今日は、平和聖日であります。72年前、日本は戦争をしていた、そして、その戦争が終わってから、日本はもう二度と戦争をしない国を目指して歩んでいます。そのことを覚えて、戦争が終わった8月の第一主日を、日本の教会では、平和聖日と定めています。とくに今日は8月6日であり、広島に原爆が投下された日であります。そのことを深く心に刻みながら、礼拝を守りたいと思います。

 本日はご一緒に、ルカによる福音書第13章10~21節を読みます。ここには二つの話が語られています。第一は、イエスさまが安息日にある会堂で病気の女性を癒したという奇跡の話、もう一つは18節以下の、イエスさまが語られた「からし種」と「パン種」によるたとえ話です。この後半の18節以下のたとえ話は、17節までのところのイエスさまと人々との会話を受けて語られています。そこで先ず18節以下のたとえ話から見ていきたいと思います。イエスさまはここで、「神の国」を「からし種」と「パン種」にたとえておられます。神の国というのは、神さまの恵みのご支配という意味です。この神の国、神様の恵みのご支配こそが人間の救いである、と聖書は語っているのです。ですから「神の国」は「神様による救い」と言い換えることができます。イエスさまはその神の国のたとえをいろいろなかたちでお語りになられましたが、今日のところでは、それが「からし種」と「パン種」にたとえられているのです。

 からし種は、粉のように小さな種です。ですからこれは「小さいもの」を表すたとえとして用いられます。イエスさまは他の所で、「からし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことができる」とおっしゃいました。それは、ほんの小さな信仰でも、それが本物の信仰ならば大きな力を発揮するのだ、ということを言うためです。ここでも同じように、小さなからし種でも、それが蒔かれ、芽を出し、成長していくと、やがて空の鳥が巣を作るような大きな木になる、ということが語られています。神の国、神様のご支配、私たちの救いも、最初はちっぽけな、あるのかないのか分からないようなものでも、やがて大きな、誰の目にも明らかなものとなる、ということが、このたとえによって語られているのです。これは分かりやすいたとえだと言えるでしょう。けれども、ここで「からし種」にたとえられているちっぽけな、あるのかないのか分からないものとは何を指しているのでしょうか。

 神の国がたとえられているもう一つのものは「パン種」です。パン種とはパン生地を発酵させる酵母、いわゆるイースト菌です。それが三サトンの粉に混ぜられるとあります。聖書の後ろの付録にある「度量衡および通貨の表」を見ると、一サトンは12.8リットルだそうです。ですから三サトンは40リットル近くの粉です。一つの家庭で一度に用いられる量をはるかに超えたかなりの量だと言えます。そのくらいの量の粉を発酵させるためにどれくらいのパン種が必要なのか、パン焼きの知識のない私には分かりませんが、いずれにせよ粉全体の量に比べれば、ずっと少ないものでしょう。しかしこのパン種は、からし種のように小さいもののたとえというだけではなくて、ほんの僅かな、何の影響もないように思われるものが混ぜられることによって全体が影響を受け、変わっていく、ということのたとえとして用いられています。それは良い意味でも悪い意味でも、です。例えば、以前12章の1節でイエスさまは「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と語られたことがあります。それは、悪い意味ででした。しかし、本日の所は、良い意味で用いられています。神の国、神様のご支配の完成、実現に至る歩みにおいて、目立たない小さなこと、あってもなくても大して影響はないように思われることが実は大きな意味を持ち、用いられていく、ということがこのたとえの意味でしょう。では、そのからし種やパン種にたとえられているものは何なのか、本日の最初の10節以下から、そのことをご一緒に考えていきたいと思います。

 今日の最初の10節以下には、イエスさまが安息日にある会堂で教えておられた時のことが語られています。エルサレムへの旅の途中において、イエスさまは安息日ごとにユダヤ人たちの会堂に入り、そこで行われている礼拝に参加され、そこでみことばを語ってこられました。そこでこの日、イエスさまがおられた会堂に、「十八年間も病の霊に取りつかれている女」がいました。「病の霊」という言葉からは、この人はいわゆる悪霊に取り付かれていたのだと思われるわけですが、この女性の「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができない」というその症状がイエスさまによって、癒され、解消し、治った、ということがここに語られているのです。

 イエスさまは、その癒しを行うに際して、「婦人よ、病気は治った」とおっしゃいました。すると、彼女はたちどころに、ずっと曲がったままだった腰がまっすぐになったのです。このイエスさまがお語りになった言葉は、直訳すると、「婦人よ、あなたはあなたの病気から解放された」となります。イエスさまは、今日のところでは、「あなたは病気から解放された」と宣言することによって、癒しをなさったのです。

・・・ルカ福音書の第4章の16節以下には、イエスさまがその宣教活動の始めに、お育ちになったナザレの町の会堂で、ある安息日にお語りになった説教が記されています。イエスさまはそこで次のような聖書の言葉を朗読なさいました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。これはイザヤ書61章の言葉です。そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスさまはお語りになったのです。つまり、捕われている人の解放という救いが今日実現した、あなたがたは捕われから、圧迫から、解放されたのだ、という宣言です。イエスさまが安息日に会堂で語っておられたのはこのことでした。本日の箇所のこの日、この会堂においても、イエスさまはこれと同じ解放の実現を告げる説教をお語りになり、そしてその説教と共に、その解放を一人の女性に具体的に告げて、「あなたはあなたを捕えている病気から解放された」とおっしゃったのです。このイエスさまの宣言によって、この女性の病気は癒されました。実はこの「病気」という言葉は、「弱さ、無力さ」という意味でもあります。ですから、イエスさまのお言葉は、「あなたは、あなたを捕えている弱さ、無力さから、それによる悩み苦しみから解放された」という意味でもあるのです。

 教会では毎週の主の日の礼拝において、牧師を通して、イエスさまによるこの解放の恵みを告げる御言葉が基本的には語られているのです。イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様が主イエスを復活させて下さったことによって、あなたがたはもはや罪と死の支配から解放されているのだ、というみ言葉が、毎週、語られているのです。そして、私たちはある時、そのみ言葉が、まさに自分自身に対して語られていることに気付きます。つまり「自分」へのメッセージとして、「あなたは罪から解放されたのだ」というイエスさまの宣言を聞くことになるのです。それが信仰の始まりです。今日の礼拝の中でも、そういう人が現れることを願っていますけれども、信仰とは、イエスさまの解放の宣言が、様々な具体的な悩みや苦しみ、弱さや罪をかかえているこの自分に向かって語られていることに気付かされることなのです。

 ・・・ところが、イエスさまによるこのような解放、癒しのみ業を見た会堂長が腹を立てたということが14節以下に語られています。罪の中にある者には、イエスさまの福音はなかなか受け入れらないのです。彼は群衆に、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言ったのです。安息日は、一切の仕事を休むべき日だと確かに聖書にあるのです。週の七日目を安息日として聖別し、その日にはいかなる仕事もしてはならない、そういうことが確かに、主なる神様がイスラエルの民に与えた十戒には記されているのです。

会堂長はユダヤ人たちの宗教的指導者として、人々にこの戒めをきちんと守らせようとしたのです。そしてそのことに基づいて彼は、イエスさまを批判したのです。安息日に病人を癒したイエスは律法に違反している、と彼は思ったのです。しかし、そこでイエスさまは彼にこう言われました。15節です。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。これは特に説明の必要はないお言葉でしょう。安息日であっても、つないでいる牛やろばを解いて水を飲ませることはするのです。それなのに、十八年間サタンに、先ほどの言葉では病の霊に縛られていたこの人をその束縛から解き、解放してあげることを、どうして安息日にしてはならないのか。このことに腹を立てるこの会堂長は、律法を形式的、外面的に守ることによって自分の正しさを主張し、人を批判している、まさに偽善者であります。そういう律法主義者、形式主義者をやりこめたイエスさまのこのお言葉はまことに痛快であります、17節に「こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」とあるのはうなずけるのであります。

 しかし私たちはここで、イエスさまのお言葉のそのような痛快さを楽しんでいるだけでいいのでしょうか。私たちはイエスさまのこのお言葉の意味を正しく受け止めなければなりません。つまりこれは、安息日にだって牛やろばに水をやることは許されているのだから、病気の人を癒して何が悪い、という開き直りではないのです。イエスさまはここで、安息日の本当の意味、主なる神様が十戒においてそれを定め、その日にはいかなる仕事もしてはならないとお命じになったその本当のみ心は何なのかを、示そうとしておられるのです。

 安息日の本当の意味は何でしょうか。何のために私たちは休みなさい、と命じられているのでしょうか。旧約聖書の申命記の第5章12節以下にそのことは詳しく語られています。なぜ安息日に仕事を休むのか、この命令は基本的に、イスラエルの民の中で、長老のような立場の高い者に向けて語られた命令なのです。なぜ、その人たちに、主は休みなさい、と命じられたのか。それは、その人自身が休むためと言うよりも、その人の下でいつも働かされている者たち、部下たち、そしてまた労働の道具とされた牛やろばなどの家畜にも休みを与え、体力を回復させるためなのです。そのような人々や家畜を憐れみ、愛し、慈しみ、生かすためです。なぜ、そうするのか、それはじっさいにそうしなければ、その人々や動物たちが弱ってしまう、場合によっては死んでしまう、ということももちろんありますけれども、それとともに、今は長老のような立場の人々が、かつて自分たちが、エジプトの地でそのように奴隷であった、そのような苦しい立場から、神さまによって解放されて、救い出された、そういう経験があった、そのことを感謝して思い起こすためなのです。神さまに救われ、解放されていまの自分たちはあるのだ、それがイスラエルの民の信仰の出発点なのです。それを思い起こす、それが安息日の意味です。

今日は最初に申しましたように平和聖日であるわけですけれども、今日のこのイエスさまの安息日における解放宣言と重ねて考えるならば、平和聖日とは、戦争の悲惨さ、罪の悲惨さを知る者として、その軛から解放されているいまの平和がどれほど尊いものであるか、と、戦争から解放されていることを喜び、感謝する日である、ということができるか、と思います。

安息日とは、神様によって自分たちがかつて与えられた解放と平和を記念し、感謝し、その思いから、今度は自分たちが今、捕われの中にある人々に、その解放の恵みを分け与え、共にその恵みにあずかるための日です。十八年に及ぶ苦しみからこの女性を解放することは、安息日にしてもよいことどころか、安息日にこそ相応しいことなのです。

 私たちにとっての安息日は、主イエスの十字架と復活によって実現した罪と死の支配からの解放とそれによって与えられた平安・平和の記念日である主の日、日曜日です。この主の日に、私たちは礼拝に集い、聖書のみ言葉とその説き明かしを通して、主イエス・キリストによって実現した私たちの解放を告げる説教を聞きます。そしてそこには、イエスさまが私たち一人一人に個別に語りかけて下さっている「私があなたのために十字架にかかって死に、そして復活したのだから、あなたはあなたを捕えている弱さ、罪、問題から既に解放されているのだ」という宣言、平和宣言が響いているのです。

 ですから、神の国をたとえているからし種とパン種とは、私たちが礼拝において与えられている、イエスさまによるこの「解放の宣言・平和宣言」のことです。それはからし種のように、今はまことにちっぽけな、あるのかないのか分からないようなものです。しかしこの種は、蒔かれたならば必ず成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作るほどになるのです。またそれはパン種のようなものです。粉全体の量に比べて、つまり私たちの一週間の生活における様々な困難な問題、悩みや苦しみ、悲しみ、それらの原因となっている弱さや罪と比べると、礼拝において告げられるイエスさまによる解放の宣言、罪の赦しの恵みはまことに僅かな、何の力もない、私たちの現実を変える力などないように思われます。けれども、このパン種が混ぜられると、やがて全体が膨れていくのです。イエスさまによる解放の宣言・平和宣言は、私たちの歩みに、人生に、神様と隣人との関係に、やがて大きな力を、影響力を発揮し、その全体を変えていくのです。しかもそれは粉が発酵しておいしいパン生地に変えられていくような良い変化です。今日私たちは聖餐式にともにあずかり、キリストのからだなるパンをいただきます。私たちは、イエスさまの十字架と復活による解放の恵みの記念日であるこの主の日に教会に集い、キリストを通して神様を礼拝し、そして聖餐を守ることによって、イエスさまによる解放の宣言という恵みのパン種をこの身に練り込んでいただき、私たちの歩み全体がそれによって祝福され、おいしいパンとなっていくのを、つまり、神の国が実現していくのを、楽しみに希望をもって生きることができるのです。祈りましょう。

主なる神さま
 今朝は日本にかつて戦争があり、そして終戦を迎えた、そのことを覚える平和聖日でありますけれども、今日与えられましたみ言葉から、私たちの毎週の主日こそは、主がわたしたちにご自身の命を通して、私一人ひとりにまことの平和と自由を与えてくださった、そのことを記念する記念日であることを覚え感謝いたします。軍隊による戦争はなくても、内に外に争いの絶えない、罪深い私たちが、まことの主の平和にあずかっていきるものとなれますように、わたしたちを聖霊でみたし守り導いてください。主のみなによって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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聖霊降臨節第9主日礼拝 

2017年7月30日(日)ルカ福音書13章1-9節
「悔い改めの実を結ぶ」三ツ本武仁牧師

 今日からルカによる福音書の第13章に入ります。その13章は、「ちょうどそのとき」という言葉で始まっています。先週12章の最後のところを読みましたけれども、そこには、イエスさまが、わたしたちの分裂し争いの絶えない罪の現実に対して、わたしたちをそこから救うために神の火をわたしたちの中に投じられる、ということを語られていましたけれども、そのようなことが語られたちょうどその時、何人かの人が来て、イエスさまに向かって「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ということを伝えたというのです。

 これは、神殿で動物のいけにえをささげて礼拝をしようとしていた時に、その境内でガリラヤの人々を殺した、ということだと思われます。神様を礼拝しようとしていたガリラヤ人たちが、事もあろうにその礼拝の場で、ピラトによって無惨に殺されてしまった、という出来事がイエスさまに伝えられたのです。ピラトはローマ帝国のユダヤ総督です。このピラトのもとで、イエスさまは十字架につけられるのです。そのピラトは、ユダヤ総督として、かなり残虐なことをしたことが記録に残っています。まさに人間の罪の現実であります。この1節に語られていることはそのままには記録には残っていないようですが、ピラトならこういうこともしただろう、ということは十分に考えられたようです。

 問題は、イエスさまにこのことを伝えた人々はどのような思いでこのことをイエスさまに伝えたのだろうか、ということです。その思いは、2節から3節におけるイエスさまのお答えからある程度、推察することができます。イエスさまは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。つまりこの出来事を伝えた人々は、礼拝中に殺されてしまうような災難に遭ったこのガリラヤ人たちは、他の多くの人々よりも特別に罪深い者たちで、その罪に対する神様の裁きとしてこのような罰を受けたのだろう、と思っていたのです。

 この人々の思いは、もっと一般化して言うと、悲惨な目に遭った人は神様に裁かれたのであって、自分の犯した罪の罰を受けたのだ、ということです。こういう考え方を、因果応報の教え、応報思想と言います。それは、全ての事柄は神様のご支配の下にあるという信仰と共に、物事には必ず原因があって結果があるという、合理的な考え方に基づいています。だから、悲惨な出来事、不幸は神様の裁きによることであり、そのような目に遭う人には、それ相応の罪があったに違いない、ということになるのです。ですからここに語られている出来事に即して言えば、神殿で礼拝をささげている最中に殺されてしまったあのガリラヤ人たちは、実は大変罪深い人々だったに違いない、神様に犠牲をささげるという敬虔な行為を装っていても、神様は全てをお見通しで、彼らの隠された罪をあのような仕方でお裁きになったのだ、ということになるのです。そしてこれを告げた人々は、イエスさまが、確かにその通りだと答えられるのを期待して、このようなことを伝えたのだと思われるのです。

 けれどもイエスさまは、彼らのそのような思いに対して、「決してそうではない」ときっぱりと否定しておられます。そして4節において、今度はイエスさまの方から、やはり最近起ったある出来事を持ち出されたのです。それは、シロアムの塔が倒れて18人の人々が死んだ、という事故のことでした。ヨハネ福音書に「シロアムの池」というのが出て来ます。ここでいう「シロアム」とはそれと同じ場所です。その場所にあった塔が倒れて18人が死ぬという事故があったのです。そういう事故を、因果応報的に考えるならば、そんな悲惨な事故で死んだ人々は他の人々よりもきっと罪深い者だったに違いない、ということになってしまうわけです。しかしイエスさまは、この人々が「エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。イエスさまは、悲惨な死に方をした人々は特別に罪深い者たちだったという因果応報の思想をはっきりと否定されたのです。

 原因があるから結果がある。こも因果応報思想は、人間の心の中に自然にあるものだといえます。私たちは、自然災害や事件、事故のニュースを聞く時、どうしてこんなことが起るのか、なぜこの人々はこのようなことで死ななければならなかったのか、という疑問を抱きます。そしてそこで、その人々が特別に罪深い人々だったからバチが当たったのだ、と説明できるなら、ある意味でほっとするのです。しかしそのような説明ができないとき、わたしたちは納得できず、「神様はなぜこんなひどいことをなさるのか」という疑問ないし抗議の思いを抱きます。そしてそのような苦しみ、悲惨な出来事が自分にふりかかって来た時には、「私がいったいどんな悪いことをしたというのか」という悲しみや怒りやいらだちを覚えるのです。これらは全て、罪に対する罰という因果応報の関係が成り立っているべきだ、という思いから生じていることです。そうでなければ納得できない、という思いが私たちの中にはあるのです。神様がこの世の全てのことを支配し導いておられる、と信じれば信じるほど、この疑問は深くなると言えるでしょう。

 しかしイエスさまは、私たちの中にもあるこのような応報思想に対して、「それは違う」とおっしゃいます。その代表的な箇所が、ヨハネによる福音書の第9章のはじめのところにあります。生まれつき目が見えない人について、弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねたのに対してイエスさまは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃったのです。つまり、誰かの罪の結果、罰としてこのような苦しみ、不幸が生じているのではない、そこには因果関係はない、ということです。不幸や悲惨な目に遭っている人がいる時に、あの人は自分の犯した罪の罰を受けているのだとか、先祖の罪のバチが当たったのだなどと考えるべきではない、とイエスさまは繰り返し語っておられるのです。

 それではなぜこんな悲惨な出来事が起るのでしょうか。本日の箇所においてイエスさまはその答えを語ってはおられません。つまりあのガリラヤ人が殺されたのは何故かとか、シロアムの塔が倒れて死んだ人々は、なぜそんな目に遭ったのかということは語られていないのです。ただイエスさまがこの二つの出来事を通して語っておられるのは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」ということです。二度繰り返されているこのみ言葉こそ、イエスさまがここで語ろうとしていることの中心です。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、これは私たちの思いを大きく転換させようとするお言葉です。私たちは、悲惨な出来事を見聞きする時に、あるいは自分がその中に陥る時に、「なぜ」と問います。理由や原因を知ろうとするのです。そしてその理由が自分には納得できるとかできないとかと言います。しかしイエスさまは、あるいは聖書全体は、苦しみの理由や原因を示そうとはしません。それは、納得できる理由を見出すことが、苦しみの解決や救いになるわけではないからです。イエスさまが、そして聖書が私たちに教え示して下さるのは、原因や理由ではなくて、その苦しみの中で私たちが歩むべき道、目指すべき方向です。それは具体的には「悔い改める」ということなのです。

 ただしここで誤解をしないようにしなければなりません。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というお言葉は、神様に裁かれて滅ぼされないですむためには、あるいは神の裁きによる苦しみから逃れるためには、自分の罪を認めて悔い改めることが必要だ、ということではないのです。もしそうなら、罪を犯す者はその報いとして滅びや苦しみを受け、悔い改める者はその報いとして救われる、ということになって、結局は応報思想になってしまいます。滅びの原因は罪であると言うことと、救いの原因は悔い改めであると言うことは、同じことの裏と表なのです。しかしイエスさまがここで言っておられるのはそういうことではありません。イエスさまは、苦しみの原因や理由をさぐり、それを取り除くことで救いを得ようとするのではなくて、自分自身の心をしっかりと神様に向け、神様と相対しなさい、と言っておられるのです。悔い改めるとはそういうことです。つまりそれは、それまで神様から顔を背け、あさっての方を向いていた心を、神様の方へと向き変えること、神様と正面から向き合うことです。苦しみの中での救いは、苦しみの原因を探り求めることによってではなくて、神様と本当に向き合うことによってこそ与えられるのです。

 このことは、旧約聖書の「ヨブ記」が語っていることでもあります。今、ぶどうの会で「ヨブ記」を学んでいますけれども、ヨブはある日突然苦しみのどん底につき落とされてしまいます。それはヨブが何か罪を犯したからではありません。原因は全く別のところにあるのです。しかしそこに友人たちが現れ、「お前がこのような苦しみに遭っているのは何か罪を犯したからだ。その罪を認めて悔い改めよ。そうすればまた幸せになれる」と言います。つまり、応報思想に基づく悔い改めを勧めるのです。しかしヨブはそれに激しく反発します。この苦しみの原因は自分の罪にあるのではない、神が何の理由もなく自分を苦しめているのだ、と言って、神様に抗議し、神様を断罪していくのです。そのヨブが、しかし最後に悔い改めるのです。

しかしそれはヨブが自分の苦しみが罪の報いだったと認めてその罪を悔い改めた、ということではありませんでした。主なる神様ご自身が彼の前に現れ、語りかけて下さったことによって、彼は、神様こそが主であり、この世界と自分とを支配しておられる方であることを認めざるを得ない状況に立たされたのです。言い換えれば、自分が主人ではないことをヨブは認めたのです。そういう体験を彼はしたのです。それがヨブの悔い改めです。本当に悔い改めるとは、自分の理屈、人間の理屈によって納得できるとかできないとかいうことをやめて、主なる神様のご支配を認め、それに服するようになることです。そして、そういう本当の悔い改めは、したり顔で神様の正しさを説き、苦しみは罪の結果だから悔い改めよと教える友人たちにではなく、神様と正面から向き合い対決していったヨブにこそ起る、ということをヨブ記は語ってもいます。イエスさまもここで、応報思想における罪の報いとしての滅びをきっぱりと否定し、苦しみの原因を問うのではなくて悔い改めるようにと教えることによって、ヨブのような、神様としっかり向き合うところにこそ与えられる悔い改めを求めておられるのです。

 そこでイエスさまは一つのたとえ話をお語りになりました。ぶどう園に植えられた一本のいちじくの木の話です。何故ぶどう園にいちじくの木なのか、ということについて、注解書にはいろいろな説明がなされていますし、そのことに象徴的な意味を読み込もうとする向きもあります。しかしこのたとえ話のポイントはそこにはありません。大事なことは、このいちじくの木が、植えられてからもう3年になるけれども、実を実らせたことがない、ということです。ぶどう園の持ち主は、7節にあるように「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ている」のです。しかし「見つけたためしがない」。ここには、この主人が、いちじくの木の実りを期待していることが示されています。ぶどう園の目的はぶどうを栽培してぶどう酒を得ることですが、この主人はそこにいちじくの木をも植え、それが実を実らせることを願っているのです。このいちじくの木の実り、それはイエスさまが人々に求めておられる悔い改めを象徴しています。

 しかしこのいちじくの木は、三年待ったけれども一度も実を実らせていない。それは、なかなか悔い改めようとしない頑な私たち人間の姿です。そのようないちじくの木に対して主人は怒り、「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と言います。ここに、悔い改めようとしない私たちに対する神様の怒りと裁きが語られています。悔い改めて神様こそが主であられることを認めようとしない私たちは、神様の怒りと裁きへの道を歩んでいるのです。

 しかしここには「園丁」が登場します。土地を無駄にふさいでいるこのいちじくを切り倒せと言う主人に対してこの園丁が、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言うのです。主人の、つまり神様の怒りと裁きを前にして、切り倒されそうになっているいちじくの木のために執り成しをする園丁、それは、悔い改めようとしない罪人である私たちのために、父なる神様との間に立って執り成しをして下さる主イエス・キリストです。この園丁、イエスさまの執り成しのおかげで、私たちはなお切り倒されずに、裁かれて滅ぼされずに歩むことが許されているのです。園丁は、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言っています。このいちじくが実を実らせるように、一生懸命世話をしてくれるのです。イエスさまは私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。つまりご自分の命を、私たちのための肥やしにして下さったのです。そのようにして、私たちが実を実らせるように、つまり、悔い改めて神様のもとに立ち帰るように、道を開いて下さっているのです。

 悔い改めは、神様こそ自分の主人であることを認め、その神様としっかりと向き合うことです。それは決して簡単なことではありません。私たちは、神様と向き合うのではなく、自分のことばかりを見つめています。自分の苦しみや悲しみ、嘆きのみを見つめ、そのために因果応報の教えに捕われ、苦しみの原因を見出してそれを取り除こうと必死になり、その結果神様を恨んだり、あるいは神様がいるのにこんな悲惨なことが起るなんて納得できない、とますます神様からそっぽを向いていくのです。また自分のことばかりを見つめている私たちは、自分と他の人を見比べて、自分を誇り人を蔑んでみたり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりと、常に一喜一憂しています。そこには、平安も、喜びも、慰めも、本当には得られないのです。私たちは、この自分のことばかりを見つめている目を、神様の方に向き変えることがなかなか出来ません。まことに頑なな、悔い改めようとしない私たちなのです。

 しかしそのような私たちのために、神様の独り子であられる主イエス・キリストが人間となって私たちのところに来て下さり、十字架にかかって死んで、復活して下さいました。イエスさまによって、私たちが悔い改めて神様と向き合って生きる者となるための道が開かれたのです。イエス・キリストの十字架を通して神様に向き合い、ヨブのように真剣にそのみ心を求めていく時に、神様ご自身が私たちにみ顔を示して下さり、悔い改めて神様と共に生きる者として下さるのです。そこにこそ、苦しみや悲しみの中にあっても支えられ、慰められ、平安を与えられて生きる道があるのです。祈りましょう。

 主なる神さま、この世の様々な不条理、悲惨な現実の中で、わたしたちはついそれらの問題を因果応報的にとらえ、自分から遠い問題については確かにそうなるはずだ、と考えたり、また反対に、特に自分のことにおいては、因果応報を受け入れられずに苦しむものでありますけれども、今日イエスさまが、そのような私たちに道を示してくださいました。それが因果応報であるかないかを問うのではなく、ただ神さまこそが自分自身の主である、そのことに打たれて、神さまを主と仰いで生きていくこと、それが悔い改めであり、そこに、わたしたちの平安と救いがある。その道をわたしたちに与えてくださるためにイエスさまが来てくださいました、主の十字架を通して、日々悔い改めて生きるものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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聖霊降臨節第8主日礼拝 

2017年7月23日(日)ミカ書第7章1-7節 ルカによる福音書 第12章49-53節
「まことの平和をもたらすため」三ツ本武仁牧師

 今日のルカ福音書のところは油断して読むと、誤解してしまうところです。
 51節にイエスさまの次のようなのお言葉があるのです。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。これはびっくりするようなお言葉です。主イエス・キリストは、地上に平和をもたらすために来て下さった、それが、私たちが普通に思っていることです。そしてそれは確かに正しい理解であります。じっさいこのルカによる福音書において、イエスさまがお生まれになる時には、天使の軍勢が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美を歌ったことが語られていました。イエスさまの誕生は、この地に平和をもたらす出来事なのです。私たちが信じ礼拝している神様は平和の神であって、そのみ子であるイエスさまを信じ従っていくところには平和が与えられる、それは、聖書の基本的な教えであります。けれども本日の箇所のこのみ言葉は、そういう私たちの常識を覆すようなことを語っているようにも思えるのです。

 「わたしは地上に平和をもたらすために来たのではない。むしろ分裂をもたらすために来た」。これと同じことをイエスさまは49節で「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言う言い方で語っておられます。分裂をもたらす、火を投ずる、これはここで同じことを指しています。イエスさまが私たちに分裂をもたらし、この地上に火を投じられる、それはいったい、どういうことなのでしょうか。

 今日は私たちの礼拝では珍しく、旧約聖書と新約聖書の二箇所を、聖書箇所として読んでいただきました。読まれてみてすぐにお分かりになられたか、と思いますけれども、今日のルカ福音書の、イエスさまが語られた12章53節のことば、「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」という、その言葉は、ミカ書の7章6節の言葉から採れたものなのです。

 51節に「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っているのか、そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」とあって。そして、それに続いて52節で、「今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである」とある、そしてさらにさきほどの53節「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」というミカ書の言葉が反映された言葉が置かれているわけです。

 ですから、これをちょっと読むと、イエスさまが、もたらす分裂というのは、53節で語られているような、家族の間を引き裂くような分裂なのだ、というふうに読めてしまうのです。そのように読んでしまっている人は意外と多いようです。じっさいそういう誤解をしてしまっても仕方のない、そういう紛らわしい文章になっています。でもさきほど申しましたように53節は、旧約聖書のミカ書の引用です。それはミカ書の7章1節から6節までに語られている、「民の腐敗」を語る言葉の締めくくりとして語られた言葉です。いかに人間が腐敗しているか。争いが絶えない生き物であるか。私利私欲にはしり、自己中心的なものであるか、特に3節の「彼らの手は悪事にたけ、役人も裁判官も報酬を目当てとし、名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す」というのは、まるでいまの日本の政治を預言しているんじゃないか、と思えるほど、ピタリと来るわけですけれども、それはいまの日本の政治に始まった問題ではなくて、ずっと人間がもっている罪の問題だ、ということが、ここに示されているわけです。その締めくくりの6節をイエスさまは引用されたのです。ですから、そのような状態がイエスさまがもたらそうとされている分裂であるわけがないのです。今日読んでいただいたミカ書の7章の7節の言葉は「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」と、そのように主にある希望を語るミカの預言の言葉でありました。イエスさまはもちろん、この言葉を知っておられたはずです。

 イエスさまは、むしろご自身が引用されたミカ7章6節のような、罪の悲惨の中で引き裂かれたしまったわたしたちの社会、人間の関係の、その罪をほろぼして、回復してくださり、わたしたちをその罪の悲惨から救ってくださるために、つまり、6節ではなく、この7節の実現のため、救いの実現のためにこそ来てくださったのです。ですから、今日のところで語られている分裂ということの正しい理解は、罪のために様々な意味において引き裂かれ、分裂ししまっている、そのわたしたちを、その分裂した状態からすくうために、イエスさまが、逆に私たちの内に、一つの分裂をもたらす、その火を投じられるということなのです。マイナスとマイナスがかけ合わさってプラスになるように、イエスさまは分裂というマイナスの状況にあるわたしたちに、あえてもう一つの分裂を掛けて、プラスにしてくださる、ということです。
 
 あるドイツの牧師がここでイエスさまが語られたことは、『私はあなたがたの内に一つの火を、殺すと共に生かす火をともすために来た。私はあなたの人生の中に一つの火を投げ込むことによってあなたを救うために来た』」ということだと解釈しています。イエスさまは私たちの内に、「殺すと共に生かす火」を、わたしたちをある意味で殺すけれども、それで終りではなく、それによってむしろ真実に生き返らせ、新しく生かす神からの火を投ずるためにこの世に来られたのです。

 50節には、「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。文脈からしてこれは、この火を投ずるために、私には受けねばならない洗礼がある、ということです。イエスさまご自身が洗礼を受けることによって、この火が、神からの火、殺すと共に生かす火がこの世に投じられるのです。では、このイエスさまが洗礼を受けるとはどういうことでしょうか。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことはルカ福音書では第3章に語られていました。しかしここでの洗礼は「これから受けねばならない洗礼」ですから、既に受けたその洗礼のことではありません。50節の後半には、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とあります。イエスさまは深く苦しむことによってこの洗礼を受けることになるのです。ですからこの洗礼は、イエスさまがこれから受ける十字架の死を意味しています。苦しみを受け、十字架にかけられて死ぬ、そういう意味での洗礼をイエスさまはこれから私たちのために受けようとしておられるのです。そしてそのことによって神から火が、地上に、私たちの間に、投じられる、ということなのです。

 私たちは、イエス・キリストと出会い、その十字架の苦しみと死とによって自分のための救いが、罪の赦しが実現したことを信じて、洗礼を受け、キリスト信者、クリスチャンとなります。それは言い換えれば、イエスさまの十字架の苦しみと死とによって私たちの心に火が投げ込まれ、その火が燃え上がる、ということです。洗礼を受けるとは、イエスさまによって心の中にそのような火を投じられることなのです。それは神からの火です。神からの火は、私たちの全てを一旦、焼き尽くします。神さまに作られたものでありながら、神さまではなく、自分自身を主人としなければ気がすまない、そのような罪に支配され、神様に逆らい、隣人を傷つけている古い私たちが、この神からの火によって焼き尽くされ、死ぬのです。

 しかしこの神からの火は、私たちをそのように殺すと共に生かす火なのです。古い、罪に支配された私たちを焼き付くし殺すけれども、それで終りではなく、私たちをそこから新しく生き返らせ、新しく生かす火です。そのようにして私たちを救って下さる火です。洗礼を受けてキリスト信者となるとは、この神からの火によって古い自分が焼き尽くされて死に、罪を赦されて、神様の子どもとして新しく生きる者とされるという救いにあずかることなのです。私たちの受ける洗礼は、イエスさまによって投じられたこの神の火によって古い自分が焼き尽くされて死に、同時にその火によって新しい命を与えられて生きるという救いの徴です。ですからキリストの洗礼を受けた者の内には、このイエス・キリストによって投じられた神の火が燃えているのです。

 そして、この神の火が、私たちの中にある分裂・対立を引き起こすのです。その分裂は、罪にある私たちが持っている古い火と、この神さまからの新しい火の間の分裂・対立です。罪にある私たちの中にある火、私たちが自分で焚き付け、燃え上がらせようとする火、それは、私たちの自己中心的な欲望の火、そしてまた、私たちの自己中心的な理想の火です。欲望と理想はだいぶ違うと思われるかもしれません。しかし、それを私たちが神さま抜きに、自分の力で実現しようと熱心に努力していく中では、そこには理想を実現しようという欲望が生まれてくるのです。平和運動や、そしてキリスト教も油断をすれば、その理想は偉大であっても、その内実は、平和と程遠いものになってしまうのもそのためであります。

 しかし、イエスさまが私たちの内に投じる神の火は、これらの、人間の火、私たちの火と真っ向から対立するものです。神の火を投じられることによって私たちは、自分の中にある火、自分が努力して燃え上がらせようとする火、人間の理想の火であったり、あるいは信仰という火であっても、それを自分で燃え立たせて歩もうとすることの間違い、限界をはっきりと示されるのです。そして、そのように生きてきた古い自分が、神からの火によって焼き滅ぼされるのです。

 神の火が、古い私たちの火を滅ぼそうとするとき、その罪に慣れしたしんできた古い私たちは、そのことに激しく抵抗します。自分の持っているもの、自分の努力、自分の熱心、自分の信仰、自分の掲げる理想の火によって歩みたいという、古い私たちの思いが、神の火と対立していくのです。そのような対立が、私たち自身の中に起るし、またこの神の火によって歩もうとする時に私たちと周囲の人々との間にも起ってきます。イエスさまが投ずる火はそういう意味で、私たちの間に平和ではなく、分裂を、対立を確かに引き起こすのです。

 しかし、この火によって生じる分裂、対立は、私たちが自分で燃え立たせようとしている人間の火どうしの間で起る、既に私たちがいやというほど体験している分裂、対立とは全く違うものです。人間が燃え立たせる火どうしの対立は、憎しみを生み、究極には、戦争や殺戮を引き起こし、双方を傷つけ、憎しみが憎しみを増幅させていくという、何の希望も与えない悲惨な対立です。しかしイエスさまが投じて下さる火は、このような憎しみに捕えられてしまっている私たちを焼き滅ぼすことによって新しく生かす火なのです。私たちが自分の欲望と表裏一体である憎しみから解放され、憎しみが憎しみを生む悪の連鎖を断ち切って平和を打ち立てていくための道は、イエス・キリストの十字架の苦しみと死によって打ち立てられた罪の赦しの恵みと、そして主イエスの復活によって神様が私たちにも約束して下さった、神の子として生きる新しい命の恵みをいただくことにこそあります。私たちはその恵みにあずかるために洗礼を受け、イエスさまによって心の中に神様の火を燃え立たせていただいて、その火によって新しく生かされていくのです。

 今日のルカ福音書は『時を見分ける』と見出しのある54節以下、そして『訴える人と仲直りする』と見出しのある57節以下、12章の最後のところも一緒に読んでいただきました。これらの箇所も、以上のようなイエスさまによって投じられた新しい火、神さまからの火、ということとを念頭において読むときに、よく分かってきます。イエスさまが「いまの時を見分けなさい」と言われる、そのいまの時とはどういう時を指しているのでしょうか。それはある国のある時代の状況だけを指す「時」ではないのです。そうではなくもっと根本的な、この世の人間の現実、という時です。イエスさまの言われる今の時とは、この世の人間の有り様のことです。ここに最初に上げましたミカ書の言葉が思い出されるのです。民の腐敗という人間の有り様は、旧約聖書の預言者ミカが活躍した時代、その場所だけの問題ではないのです。それはまたイエスさまが地上を歩まれたときのイスラエルの人々だけの問題でもない。聖霊の時代、教会の時代と呼ばれる、イエスさまが天にのぼられた後の私たちの世界のありようもまた、依然として、そのような悲惨の中にあります。ですから、今の時をどう見分ける、とはどういうことか、それは神さまに造られた者でありながら、神さまに背き続けるという、その人間の引き裂かれた姿、分裂した姿を見分けよ、ということです。

 そして最後の57節から59節は、訴える人と仲直りしなさい、ということが語られています。これはつまり、お互いに言い分があって、それを主張し合う限り、どこまでいっても対立していくしかない、そのような現実にあって、しかし、その中で、キリストにあって、その十字架の火、神の火を投じられたあなたがたは、もはや互いに自分を通そうとする自分の火にこだわるのではなく、むしろイエス・キリストの十字架の火、神の火に導かれて、相手との和解の道を探し求める、そのような方向を目指して生きなさい、という勧めなのです。

 この世の火、人間の火どうしの対立の炎がそこら中に燃え上がり、私たちから平和を奪い、恐れさせ、不安にしています。しかし、だからこそ私たちは、イエスさまが投じて下さる火を、私たちを焼き滅ぼすと同時に新しく生かして下さる火を祈り求め、この火のもとにしっかりと留まり、この火によって新しくされ、イエスさまが私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって示して下さった愛に生きる者となりたいのです。イエスさまが投じて下さる神の火を受け、その火によって燃やされていくことによってこそ、私たちは、この世界の平和のために本当に貢献していくことができるのです。祈りましょう。

 天の父よ、まことの平和をもたらすために、あなたの火を、私たちの内に投じてください、あなたの火によって、わたしたちの中の火、自分中心の火を滅ぼしてくださり、あなたの火によって生きる、まことの平和の人とならせてください。主のみ名によっていのります。アーメン



category: 礼拝メッセージ

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聖霊降臨節第7主日礼拝 

2017年7月16日(木)ルカ福音書12章35-48節
「信仰の目を覚まして」三ツ本武仁牧師

 今朝私たちに与えられました聖書の箇所はルカ福音書の12章35節から48節であります。その最初の38節でイエスさまは「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言われました。それはどういうことか、といいますと、続く36節にありますように「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」ということです、そしてそのような人とは、さらに続く37節以下で言われていますように、主人に仕える僕のことです。僕、召使いが、主人の帰りを、ちゃんと目を覚まして準備して待っている、そういう状況が語られているのです。つまりイエスさまは、ここであなたがたもそのような僕として生きなさい、弟子たちにと教えておられるのです。

 さて36節によりますと、この主人は婚宴に出かけています。イエスさまがここでたとえに用いられた婚宴は、私たち日本人の考える婚宴とはだいぶ異なっています。ユダヤの婚宴は何日にも渡ってお祝いされました。その日にちも終わる時間も決っていません。招待された人がいつまでいるか、いつ帰るのかは分かりませんでした。ですから、出かけた主人を待っている僕は、いつ主人は帰るだろうかと、緊張して待ち続けることになります。主人の帰りは今日なのか、明日なのか、明後日なのか、真夜中なのか、夜明けなのか、予測がつかないのです。つまりイエスさまはそれが信仰者の生き方だと教えておられるのです。

 40節には「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とあります。「人の子」とはイエスさまご自身のことです。イエスさまが思いがけない時に帰ってこられる、というのです。これは何のことを言われているのでしょうか。これは「キリストの再臨」のことです。キリストが再び臨んでくださる、キリストが再びこの地上においでになる、それがキリストの再臨であります。今日一つみなさんの心に留めていただきたいのは、わたしたちの信仰の大切な一つの側面は、キリストの再臨を待ち望むことである、ということです。わたしたちは何を信じているのか、キリストの再臨を信じているのです。こう言いますと、えっと驚かれる方も多いかもしれません。別にそんなこと信じてなかった、いや、わたしの信じたいのはもっと別の、神さまを信じることで、わたしたちの心が平安になり、幸せになることです、と言われる方もあるかもしれません。もちろん、そのことを否定しているのではありません。むしろ、そのことの保証は何か、そのためになくてはならないものは何か、それは実はキリストの再臨なのです。

 神の子イエス・キリストが、この世を、私たちを、罪から救うために、わたしたちと同じ人間として来てくださり、その罪の贖いのために、自ら十字架の死を引き受けてくださった。そして、それによって、神さまと人間の関係が回復して下さった、そのしるしがキリストの復活でした。そしてその復活されたキリストは今は天におられ、この地上にはおられません。今は聖霊がわたしたちを導いてくださっているのです。しかし、この聖霊の時代の最後に、キリストが栄光の姿で、この地上に再びおいでになる、それは、世の終わり、であると同時に、神の国の完成の日でもあります。それは、この地上をそれぞれに苦難をかかえながらも、自分の十字架を背負って、キリストの十字架に従って歩んで来た信仰者にとっては、その十字架からの解放の日、まったき平安、まったき救いの日です。それはキリストの再臨において、訪れるのです。

 しかし、イエスさまがたとえで教えてくださっていますように、キリストの再臨を待ち望む、という、そのような私たちの信仰には、一つの緊張が伴います。それは、それがいつなのか、わたしたち人間には分からない、という緊張であります。イエスさまは39節で「家の主人は、泥棒がいつやって来るか知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」と言っておられます。これにはイエスさま独特のユーモアがこめられています。イエスさまはここでご自分を泥棒にたとえているのです。泥棒がいつ入るか、その忍び入る家の主人にあらかじめバレてしまっているなら、泥棒の商売は成り立ちません。泥棒とはいつ盗みに来るかわからないから泥棒なのです。怪盗なんとかは、予告してから宝石を盗むようですけれども、それはまた別の話であります。泥棒はいつ盗みに来るかわからない。キリストの再臨も、それがいつなのか、人間にはわからない、ということです。だから、泥棒が入ってこないように、ある種の緊張感をもって、わたしたちは確かに日頃生活しているわけですが、そのように、緊張感をもって、キリストの再臨を待ち望みなさい、と教えておられるのです。

 そして37節でイエスさまはこう言われています。「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」・・・ここにはそのように緊張感をもってキリストの再臨を待ち望んで生きたものに与えられる幸いが語られています。それはまず、キリストご自身が、わたしたちに仕えてくださる、という幸いです。さきほど、キリストの再臨の日こそは、まったき平安の日であり、まったき救いの日だ、と申しましたけれども、キリストご自身がわたしたちを食事の席につかせ、わたしたちに仕えてくださる、それは、キリストの再臨によって、私たちが罪なき者の平安と喜びに満たされる、そのような恵みにあずかることができる、ということです。

 それからもう一つは43節44節ですけれども「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」・・・主人の僕とは、ある意味で、主人ものを預かっている管理人でもあるわけですが、キリストの再臨を待ち望んで生きたものは、その報いとして、主人の全財産の管理を任せられる、それはつまり、神さまとの全き信頼の関係の中に生かされるものとなる。被造物としての人間が本来持っていた、神さまとの全き関係、深い信頼関係に生かされる、そのような恵みに預かる者とされる、ということです。

 クリスチャンは、すでに救われた者であるとともに、しかし、いまだに完全には救われていない者であると言われています、つまり「すでに」と「いまだに」の間の緊張の中を旅するものである、というのです。そこででは、その旅になくてはならない指針、目印は何か、それは、キリストの再臨を待ち望む、という生き方、信仰なのです。しかしそれは、どうでしょうか? さきほども申しましたように、私たちには普段あまり意識されていないことなのではないでしょうか?

 45節以下には、主人の帰りを待っているという緊張感を失ってしまった僕の姿が語られています。「もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰ってきて、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」・・・「下男や女中を殴る」殴ることは、もちろん良くないことですが、ここでもっと問題なのは、この僕がまるで自分が主人のような態度になって、周囲のものを主人にではなく、自分に従わせようとしはじめた、ということです。「食べたり飲んだり、酔うようなことになる」というのも、暴飲暴食という罪を犯した、ということも、もちろん良くないことですけれども、それ以上にここで問題とされているのは、彼が主人から他のみんなのために預けられていたものを、まるで自分のものであるかのように錯覚して、それらを自分勝手に、自分の欲望を満足させるために用いるようになった、ということです。

 つまり、ここに描かれているのは、自分が主人の僕であることを忘れ、自分が主人であるかのように振舞う者の姿なのです。私たちはこれをよむと、じつに罪深い僕だと思うわけですが、彼がそのようになってしまったのは「主人の帰りは遅い」と思ってしまったことによるのです。つまり、キリストの再臨を待ち望む、その生き方、その緊張感を失ってしまったところに、そのような罪深い生き方は生じてきてしまうのです。そのことを考えましたとき、キリストの再臨を待ち望むなんて、そんな信仰がそんなに重要なのだろうか、と考えている限り、わたしたちもまた知らず知らずのうちに、このような態度をどこかで取ってしまっているのであり、そしてそれが、周りを、また結局は自分自身をも苦しめている、そういうことが見えてくるのであります。

 わたしたちの主イエス・キリストは必ずこの地上に再臨されるのです。しかしそれはまた私たちが予想しない日、思いがけない時であります。ですから、何に目を覚ますかといえば、まさに、そのこと、キリストは私たちの予想しない日に再臨される、という、そのことに目を覚まし、自分が僕であり、主人の帰りを待っている者であることに目を覚まして、しっかりとそれに備え、待っていること、そのような歩みが求められているのです。

 そして、そのような歩みこそが、先週読みました12章の31節で「ただ、神の国を求めなさい」ということなのです。神の国を求めるとは、神さまのご支配が完成する時が来るのを信じて待ち望むことです。その神の国とは、イエス・キリストの再臨において完成するのです。御国が来ますように、と主の祈りで私たちが祈っています。ですからあれは、キリストの再臨の日が来ますように、と祈っていることと同じなのです。

 今日のところでイエスさまは、神の国を求めるとは具体的にどうすることなのかを教えておられるのです。それはイエス・キリストの再臨を信じ、その救いの完成を信じて待つことです。神の国を求めることは、どうじに神の国を待つことなのです。その私たちに神さまは神の国を喜んで与えてくださるのです。キリストは必ず来てくださるのです。香里教会から枝分かれして誕生した教会にマラナ・タ教会があります。あのマラナ・タとは、主よ、来てください、という意味です。再臨信仰であります。それは奇妙な、風変わりな、非現実的な信仰ではありません。むしろ、人間の罪の現実、悲惨な現実を正直に見つめる者には見えてくる、まことの信仰なのです。

 最後の47節48節に次のようにありました。「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 先日、河北地区の仲間である交野教会で新しい牧師の就任式がありましたけれども、このところを読んで、その就任式での式辞の言葉を思い出しました。その式辞を語られた牧師は、牧師がいい加減なことをすれば、その牧師は誰よりも神さまから厳しく裁かれます。その覚悟が必要です、と語られたのです。おそらく私だけではなく、集っていた牧師は皆、はっと身が引きしまる思いがしたのではないか、と思います。牧師は誰よりも神さまから厳しく裁かれる、確かに聖書に書いてある言葉であります。じゃあ、そんなことになるくらいなら、牧師になんかならないほうがましなんじゃないか? 今日の最後の47節48節にも同じ疑問がわくわけです、主人の思いを知ってしまったがために、知らない人より厳しく罰せられるなら、知らないままでいたほうがましじゃないのか、この主人の思い。というのは、直接には、キリストの再臨を待ち望んで生きなさい、ということです。そんなこと知らないほうがましだったじゃないか、牧師がそんなことを言うから、かえってしんどいことになったじゃないか、と責められそうですけれども、決してそういうことではないのです。

 それはさきほどの牧師は誰よりも厳しい裁きを受ける、ということにもいえることです。その言葉を語ったあと、その牧師は続けていいました。しかし、また恵みもたくさんあります。牧師がいい加減なことをすれば、その牧師は誰よりも厳しい裁きを受ける。しかし、牧師の仕事には恵みもたくさんある。本当にそうであります。そして、それは主人の思い、つまり神さまのみ心を知って生きる、ということにもいえるのであります。さきほどは神さまのみ心とは、キリストの再臨を待ち望んで生きなさい、ということだ、と申しました。キリストの再臨なんて、ふだんめったに口にしないわけですから、みなさんを戸惑わせてしまったかもしれません。しかし、キリストの再論を待ち望んで生きなさい、という、その神さまのみ心の、さらのその中にある神さまのみ心とは何でしょうか。それは、いまはまだ神さまの支配が完成しているわけではない、それゆえに、いろいろとつらいこと、理不尽なこと、苦しい事、悲しいこと、腹立たしいことがあるかもしれない、でも恐れてはならない、わたしは必ず、あなたがたを守り導く、まったき平安、まったき救いへと招き入れる、あなたがたの天の父は、あなたがたに必要なものをあなたがた以上ご存知であり、必要なときに、必要なものを必ず備えてくださるのだ、だから安心しなさい、天の父は、あなたがたを深く愛してくださっているのだ、それが、キリストの再臨を待ち望んで生きなさい、と言われる、神さまのみこころの内実なのです。

 そのことに目を覚ましてわたしたちは生きるのです。それは、厳しい罰を恐れてびくびく生きることではありません。むしろ、神さまが自分に多くのものを与え、多くを任せてくださった、その恵みと信頼に感謝して、私たちも神さまを信頼して生きていくことです。そこに「思い悩み」からの解放が与えられるのです。主人の思いを知って、その愛と恵みに応えて目を覚ましている僕として生きる信仰者にこそ、そのようなまことの幸いが与えられます。イエスさまはその幸いへと私たちを招いておられるのです。祈りましょう。

 主なる神さま、キリストの再臨を待ち望んで生きる、どうか、そのような信仰がわたしたちのうちに与えられますように、それほどに、あなたが、罪深いわたしたちを省みてくださり、憐れんでくださって、私たちを守り導こうとしてくださっている、私たちに必要なものを備えてくださっている、あなたとわたしたちとの間の絆を、あなたのほうから愛をもって回復しようとしてくださっている、その恵みに目覚めて、恐れることなく、感謝のうちに、キリストの再臨、神の国の完成を待ち望みつつ生きるものとならせてください。マラナ・タ、主よ、来てください。主のみ名によっていのります。アーメン

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聖霊降臨節第6主日礼拝 

2017年7月9日ルカによる福音書 第12章22-34節
「神の国を求めなさい」三ツ本武仁牧師

 先週に続いて、ルカによる福音書第12章22節以下のみ言葉に聞きたいと思います。イエスさまはご自分に従って来ている弟子たちに、「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とお語りになりました。

 「思い悩むな」というイエスさまの教えは、先週も申しましたように、私たちの命と体とを本当に養い、装っているのは誰なのか、それは私たち自身なのか、それとも天の父なる神様なのか、という問いかけであります。この問いは、私たちが神様を本当に信じているのかそうでないのか、という問いかけなのです。神様を本当に信じているとは、自分の命、人生を神様が養い、装い、守り導いて下さると信じるということです。しかし、そうではなく、自分の命と人生は最終的には自分で養い、装い、守らなければならないのだと思っているならば、その人は神様を本当に信じてはいないのです。自分の命や人生を自分で養い、装い、守ろうとして、そのために必要な食べ物や衣服やその他の様々なものを必死に求める、そういう思い悩みは、神様を本当に信じていないところに生じます。その思い悩みの中にいる者は、人生を養い装うための様々なものを自分で獲得し、自分の倉に蓄えようとします。その蓄えを豊かに持つことで安心を得ようとするのです。

 イエスさまは12章の16節以下で、そのような人の姿を描いたたとえ話を語られました。この金持ちが愚かだったのは、自分が得たもの、倉に蓄えた財産によって、自分の命と体を養い装うことができる、これで人生、生きていけると思ってしまったことです。私たちも、この人のように大金持ちにならなくても、自分の能力、技術、資格、その他何であれ自分が手に入れ身につけたものによって自分の命を、人生を養い、装うことができると思ってしまう時に、この人と同じ愚かさに陥り、決定的なことを見過ごしにしてしまうのです。それは、私たちに命と体を創り、与えて下さり、それを養い導き、そしてお定めになった時にそれらを取り去られるのは主なる神様だ、ということです。この神様が天の父として私たちを愛し、養い、装い、導いて下さることを知り、この神様に命と体を委ねて生きることこそが、本当に賢い生き方です。そしてそこにこそ、思い悩み、不安、心配からの解放が与えられるのです。

 けれども、イエスさまはここで、あなたがたはこのようにして思い悩み、心配から解放されるのだ、ということだけを語っておられるのではありませんでした。31節に、「ただ、神の国を求めなさい」とあります。「思い悩むな」というのは、ある意味で、これこれをするな、という否定的な命令だといえますが、「ただ、神の国を求めよ」というのは、積極的な命令だということがいえるのではないでしょうか。思い悩むな、ということと、神の国を求めよ、というのはワンセットなのです。思い悩まないで、何をするのか、本日はそのことに目を向けていきたいと思います。

 「ただ」神の国を求めなさい、と訳されています。それは、神の国「のみ」を求め、他のものを求めるな、という意味にも取れます。しかし、この「ただ」と訳されているのは「のみ」という言葉ではありません。前の30節で世の異邦人たちが「何を食べようか、何を飲もうか」ということを切に求めていることが語られたのを受けて、あなたがたはそういうものではなく、神の国をこそ求めなさい、と言っているのです。その「あなたがた」とは、30節後半で「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と語られたその「あなたがた」です。つまり、神様が天の父として自分のことを愛し、養い、装って下さることを知っている、信じている、信仰者である「あなたがた」です。そのようなあなたがたであるならば、当然のこととして、「神の国」をこそ求めなさい、と言われているのです。

 「神の国」というのは「神様のご支配」という意味です。天の父である神様が養い、装って下さることを知っている者は、その神様のご支配をこそ求めるのです。「そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とあります。「これらのもの」とは、30節の「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」の「これらのもの」です。つまり、私たちの命と体を養い、装い、守るのに必要な全てのもの、異邦人が切に求めて思い悩んでいるものです。それらは、神の国、神様のご支配を求めていくところに、加えて与えられる。つまりそれらのものが私たちに必要であることをご存じである神様が、それらのものを与えて下さるのです。だから、私たちが本当に求めるべきものは、命と体を養い装うためのあれこれではなくて、神様のご支配なのです。

 この「神の国を求めなさい」という教えも、私たちに対する問いかけです。あなたが本当に求めているものは何か、神の国、天の父である神様のご支配か、それとも自分で必要なものを手に入れて命と体を養い、装うこと、つまり神様ではなくて自分の支配を求めて生きているのか、という問いがここにもあるのです。

 私たちは、自分の人生を「成功」させたいと思っています。そのためには、自分の能力を高め、仕事において業績をあげ、充実した日々を送らなければならないと思っています。そしてその業績の対価として富を得たいと願っています。あるいは、たとえ給料は安くても、自分の能力、特技、性格に合った働きをして、生きている充実感を得たいと願っています。あるいは家庭を守り、家族を支え、子供を育てることに自分の使命を覚え、そこに充実を感じている、ということもあるでしょう。お金には全くならない奉仕の活動や、社会の問題との取り組みに充実を感じている人もいるでしょう。そのように私たちはいろいろなことによって、自分が自分であることを確かめ、自分らしさを生かし、人生を充実させ、有意義なものとする、いわば「生き甲斐」を求めています。ある意味で、それは人間として当然のことであります。けれども、これらのものを求めていく中で、私たちがかえって思い悩みに陥っていることも現実なのではないでしょうか。人生を成功させたい、自分の能力を生かし、業績をあげ、豊かになりたい、という願いは、それがうまくいっている時にはまさに充実感、喜びとなります。けれども願った通りにならないことだってあります。実力が足らずに、また運にも見放されて、仕事を失い、貧しさの中に落ち込むことだってあります。そのような中で、私たちは劣等感に苛まれ、人に対するねたみ、憎しみの思いを募らせてしまうこともしばしばあるのではないでしょうか。

 人生の充実や生き甲斐を求めることは決して間違ったことではないはずなのに、どうしてこのようなことになってしまうのでしょうか。それは、私たちが、自分のものとして獲得する生き甲斐や充実感によって、言い換えれば「自己実現」によって、自分の命や体を養い、装い、守ることができる、要するにそれらのものによって人生、生きていくことができると思ってしまっているからです。

 イエスさまは、そこから私たちを救い出して下さるために、「神の国をこそ求めなさい」と語りかけておられるのです。私たちを本当に愛し、命と体を与え、それを養い、装って下さる父なる神様のご支配こそ、私たちを本当に生かすものであり、私たちが本当に求めていくべきものなのです。この神様のご支配の中でこそ、「これらのものは加えて与えられる」のです。それは、食べ物や着物など、人生を養い装うものを神様がついでに、おまけのように与えて下さる、ということではありません。私たちが自分の人生の充実を求め、生き甲斐を求めていくこと、自分の能力や特技を生かして有意義な人生を送ろうとすること、それらの私たちの願いや努力の全ては、天の父である神様が、私たちの命と体とを養い、装って下さるその恵みの中に位置づけられてこそ、祝福されたものとなる、ということです。さらには、この神様のご支配をこそ求めていくところには、たとえ自分の願い求めている「成功」が得られず、世間の人々からは「失敗」だ「負け組」だなどと言われてしまうようなことになったとしても、それでも自分は得をしたのだ、と肢体不自由になられながらも、口で絵筆をとって、心に迫る詩画を描き続けておられる星野富弘さんが言われるように、なおそこで、天の父である神様の愛に信頼して神様の養いと装いを求め続けるという歩みが加えて与えられるのです。

 イエスさまはこの神様の愛を私たちに確信させるために、32節で「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とお語りになりました。私たちが小さな群れであり、恐れずにはおれない者であることをイエスさまはよくご存知なのです。じっさい最初の頃の教会は、強大なローマ帝国の中で吹けば飛ぶような小さな群れでした。そしてそこにユダヤ人たちによる迫害、またローマ帝国による迫害が起こってきました。イエス・キリストを信じていると公言することによって命をも奪われてしまうかもしれないという危機の中で、当時の信仰者たちの間には深い恐れがあったのです。今日の日本の社会の中で教会が置かれている状況も、ある意味でそれと似ているといるのではないでしょうか? 私たちも、日本の社会の中で吹けば飛ぶような小さな群れです。表立った迫害は今はないし、キリスト信者だからと言って殺されてしまうようなことはありません。しかし私たちも、この当時の信仰者が感じていたのと根本的には同じ恐れを感じているのではないでしょうか。それは、神様が天の父として私たちを愛し、命と体を養い、装い、守って下さっているというのは本当だろうか、この神様のご支配、神の国は本当に実現するのだろうか、という恐れです。迫害の下にある信仰者たちにとっても、根本的な恐れはこのことだったのです。神の国、神様のご支配を信じることができれば、迫害にも耐えることができます。しかしその神の国に疑いが生じる時、深い恐れと絶望が私たちを捕えるのです。

 ともすればこのような恐れに捕えられていく私たちに、イエスさまは「恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と語って下さっています。私たちの父である神様が、私たちへの愛によって、喜んで、神の国を与えて下さる。そのために、神様の独り子イエス・キリストがこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。天の父なる神様が私たちに喜んで神の国を与えて下さることは、このイエスさまの十字架の死と、さらにその死の力を打ち破って神様が与えて下さった復活とにおいて示されています。私たちは、神様が、み子イエス・キリストの十字架の死と復活によって打ち立て、与えて下さった神の国、神様の恵みのご支配を信じて、それをこそ求めて生きるのです。そこに、天の父が私たちの命と体とを養い、装って下さるその愛の中を、思い悩みから解放されて生きる信仰者としての歩みが与えられるのです。

 思い悩みから解放されて、私たちはどのように生きるのでしょうか。33節がそれを語っています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。自分の持ち物を売り払って貧しい人々に施すことによって、盗まれることも、虫に食われることもない天に富を積むことが、思い悩みから解放された私たちの生き方だと教えられています。私たちはこれを読むとすぐに、自分の持ち物を売り払って施すことなどとてもできない、と思ってしまいます。でもこのことは、今読んできた文脈からすれば、自分の持っているもの、蓄えているもので自分の命と体を養い、装う必要はもうない、父なる神様が私たちの命と体を養い、装って下さるのだから、私たちはもう、自分が持っているものにしがみつくのでなく、むしろそれらを自由に用いることができる、自分のためよりも、神様のみ心に適うことのためにそれを献げていくことができる、ということです。この教えは、「こうしなければならない」という義務を語っているのではなくて、信仰者にはそのような自由が与えられているのだ、ということを教えているのです。この自由に生きることこそ、貪欲からの解放です。父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じることによってこそ私たちは、自分のものを人のために用いていくことができるという、本当の自由に生きる者となるのです。

 「富を天に積め」とありますが、それは、施しなどの良い行いをすることによって言わば神様に貸しをつくり、その報いとして救いを得ようという話ではありません。「富」というのは、私たちが頼りにしているもの、より頼んでいるものです。それをどこに置くか、が問われているのです。それを天に積むとは、神様にこそより頼むことです。地上に富を積むとは、自分自身により頼んで生きることです。持ち物を売り払うことが天に富を積むことになるのは、それが自分の蓄えにではなくて神様により頼むことだからです。そのようにして天に積んだ富は、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない、それは、天の父なる神様の愛により頼むことこそが私たちにとって本当に確かな支えであることを語っています。地上に積んだ富、つまり自分自身により頼んで生きることは、まことに不確かな、危うい、愚かなことなのです。

 「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と最後の34節にあります。これも今申しましたように、本当に頼りにしているもの、より頼むものをどこに置いているか、ということです。人生を養い装うのは自分自身だ、と思っているならば、その人は自分により頼んでおり、つまり富を自分に積もうとしており、その心は地上にあって天にはないのです。しかし信仰に生きるとは、父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じ、その神様により頼むことです。それが富を天に積むことであり、神の国をこそ求めて生きる姿なのです。そこに、思い悩みや不安から解放され、自分中心の思いから自由になって、自分に与えられているものを他者のために用いていくことができる新しい歩みが与えられるのです。それは野原の花のように目立たない、誰にも気づかれない歩みかもしれません。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった、とイエスさまは言って下さるのです。祈りましょう。

 天の父なる神さま
 わたしたちが思い悩みの苦しみから救われるために、また思い悩みから生じる憎しみから救われるために、あなたは神の国をこそ求めなさい、と命じられました。そうすれば、すべてのものは加えて与えられる、と教えてくださいました。あなたが、イエスさまを通して、本当にわたしたちひとりひとりを愛してくださっている、そのことに目覚めたとき、わたしたちは、あなたを心から信じて、あなたのみ国をこそ求めていきるものへと変えられていきます。そして、その喜びの中で、ふりかえれば、必要なものはすべて、必要なときにあなたが加えて与えてくださっていることを感謝のうちに経験できるものとなれるのです。そのような歩みがどうかわたしたちのうちに実を結びますように、わたしたちを聖霊でみたし、あなたへの確かな信仰を与えてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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