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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

お知らせ 

お知らせ

このたびいのちのことば社より『洗礼とは何か』(2016年7月)に続いて『聖餐とは何か』が出版されることになりました。
詳しくは「いのちのことば社」のホームページ(リンク参照)をご覧ください。

聖餐とは何か

2016年7月10日出版 『洗礼とは何か』
洗礼とは何か

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受難節第3主日礼拝 

2017年3月19日(日) ルカによる福音書 第11章1-4節
「祈りを教えてください」 三ツ本武仁牧師

 私たちの信仰生活の中心は何でしょうか、教会からしばらく離れていたというある人が、それでも、そんなわたしでも、祈って生きてきたのです、とお話ししてくださいました。まことに祈りとは、私たちの信仰生活の中心だということができるのではないでしょうか。

 今日のルカによる福音書第11章の冒頭に、「イエスはある所で祈っておられた」とあります。イエスさまは祈りの人であった、ということは聖書の随所で確認できます。祈りは、神様との一対一の対話です。神様の前に独りで立ち、語りかけるのです。たとえ仲間たちと一緒に祈るとしても、語りかけるのはそれぞれ自分です。自分と神様との間に一対一の人格的な関係がなければ、祈ることはできません。人格的な関係などと言うと難しく感じるかもしれませんが、要するに、祈る自分と相手である神様とが、どちらも生きており、意志を持っており、言葉を持っている者であることが意識されている、ということです。そういう関係がある所でこそ「祈り」は成り立つのです。相手がはっきりしない、意志や言葉を持っていないものに対しては、手を合わせて拝むことや、自分の願いを念じることはできても、本当の意味で「祈る」ことはできません。イエスさまが祈りの人であったということは、イエスさまが神様との間に人格的な関係を持っておられた、生きておられる神様との一対一の交わりに生きておられた、ということです。

 けれどもこのことは、イエスさまがただ自分と神様との交わりだけを大切にして生きておられたということではありません。聖書は、祈っておられるイエスさまの傍らに、常に弟子たちの姿があったことを語っています。イエスさまがお一人で祈っておられるとき、その周囲には常に弟子たちがいました。イエスさまの祈りによって弟子たちが支えられ、導かれている、ということを聖書は繰り返し語っているのです。本日の11章1節でも、祈っておられるイエスさまの傍らで、弟子たちが祈るイエスさまをお姿を見ていました。そしてイエスさまの祈りが終わると、その中の一人が、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのです。

 弟子たちはイエスさまに、「祈りを教えてください」と願ったのです。しかし彼らは、祈りを知らなかったわけではありません。祈ったことがなかったのでもありません。ユダヤ人である彼らは、毎日祈りの言葉を唱えていました。神様に祈ることは彼らにとって身近なことであり、生活の一部だったのです。その彼らが、「祈りを教えてください」と願ったことに先ず注目しなければなりません。彼らは、イエスさまが祈っておられるお姿を繰り返し見てきた中で、イエスさまの祈りが、ユダヤ人なら誰でも毎日祈っている祈りとは全く違うものであると感じたのです。それは何だったのだろうか、ということです。

 どのように祈っているかに、その人と神様との人格的な関係、交わりのあり方が現れるのです。イエスさまの祈りが弟子たちにとって、それまでの自分たち祈りと全く違うものに感じられたのは、イエスさまが神様との間に持っておられる交わりが全く異なっていたからです。弟子たちはイエスさまが神様との間に持っておられる、父と子の信頼と愛の交わりに驚き、自分たちが知らない、体験したことのない祈りの世界があることを感じたのです。それゆえに、「わたしたちにも祈りを教えてください」と彼らは願ったのです。そして、この願いに答えてイエスさまが、「祈るときには、こう言いなさい」と教えて下さったのが、私たちが祈っている、この礼拝においてもさきほど共に祈りました「主の祈り」なのです。

 このイエスさまの祈り、主の祈りが特別であることをよく表わしているのが、「父よ」という最初の呼びかけの言葉です。神様に向かって「父よ」と親しく呼びかける、これは弟子たちにとって本当に驚くべきことでした。ヨハネが弟子たちに祈りを教えていたと最初にありましたけれども、ヨハネも他の誰も決して神様に向かって「父よ」などと親しく呼びかけたりしませんでした。しかもイエスさま別のところで「アッバ、父よ」と呼んで祈っておられました。「アッバ」とうのは、幼な子が、自分の父親に甘えて呼びかけるときの言葉です。イエスさまは「お父さん」と神さまに呼びかけられて、そして、弟子たちにも、私たちにもそのように祈るようにと教えておられるのです。これは、案外私たちが見落としていることではいでしょうか。かく言う私自身も、考えてみれば普段の祈りにおいては、神さまに向かって「神さま」「主よ」と呼びかけることはあっても「父よ」「お父さん」とは呼びかけていなかったなと気づかされたのです。それで今週はなるべく意識して、神さまに向かって「お父さん」と語りかけてみたんですけれども、何か変な感じがして、これは何かな、と思って考えてみたら、お父さんと祈るとき、どうしても自分の肉親の父親のことが思い出される、ということに気づいたのです。みなさんもきっとそうだと思います。単にお父さん、と祈るならば、自分の肉親の父親のことが思い浮かぶのではないでしょうか。じつにそこに大きな意味があるのです。みなさんは自分の肉親のお父さんとの間にどういう関係が築いてこられたでしょうか、築いておられるのでしょうか?

 あるキリスト教関係のテレビ番組に、中小企業の社長さんが出演されました。その会社は祖父の代からの会社で、その方は三代目に当たるとのことでした。そしてその方は、父のこと、祖父のことを尊敬しているとおしゃっていました。会社を築き、また守ってきた祖父であり父ですから、ほんとうに立派な方々であったのだろうと思って話を聞いていました。しかし、そんな社長さんでも、高校のときに、人生が虚しくなって絶望したのだそうです。そして不思議な導きで、教会に行くようになって、そして礼拝に出るなかで、自分をありのままに受け入れてくださる、父なる神さまの存在を知って、クリスチャンになって、自分は生き返ったのだ、というのです。その中で、やがて会社を継ぐ決心をされ、そしていまのように父を、または祖父を尊敬するようになられた、というのです。外から見たら、この方の父親は会社の社長さんですから、立派なお父さんであったと思います。でも息子としては何かつまずくところがあったのです。しかしそれが、天の父なる神さま、自分をありのままに受け入れてくださる本当のお父さんである神さまに出会ったとき、肉親の父親を受け入れることができるようになったのです。そしてそれは、肉親の父親との関係に限ったことではないのです。父親は子どもにとっては最初の他人との出会いだとも言われます。実際に立派なよい父親もいるでしょうし、そうではない父親もいるのでしょう。でも聖書は、イエスさまは、本当のわたしたちのお父さんは、天の父なる神さまであって、そのお父さんは、わたしたちをあたたかく包み、愛し、ありのままに受け入れてくださる方なのだ、というのです。そして、そのお父さんにであったとき、私たちは、肉親の父親を本当の意味で、受け入れることができるし、そしてそれはすべての人間関係においてそうなっていくのです。本当の父なる神を知るとき、わたしたちのすべての人間関係は信頼と愛に満ちたものへと変わっていくのです。

 神さまを父と呼ぶことができる。神さまと信頼と愛に満ちた関係に生きることができる。それは実にイエスさまがそのご生涯の全てを通して、私たちに与えてくださったものです。とりわけ、イエスさまは、私たちの、神さまに対する罪を全て背負って十字架にかかって死んでくださったのです。肉親の父親との関係、そして、さまざまな人間関係につまづくことのある私たちですけれども、それはそもそもの、私たちの自己中心的な思い、罪によって、神さまと私たちとの関係が壊れてしまっているからだ、と聖書はいうのです。しかし、その壊れてしまった関係を、イエスさまが、その十字架によって取り持ってくださり、つくろってくださって、私たちの罪がゆるされ、私たちが神さまを父と呼び、神さまが私たちを子と呼んでくださる、そういう愛の関係を回復してくださったのです。ですからその意味で主の祈りは、十字架の祈りなのです。

 主の祈りは、このように、私たちを、イエスさまのご生涯全体を通して与えられた神様との新しい交わりへと招き入れるものです。主の祈りを祈るようになるというのは、私たちが、何か一つのお祈りの言葉を覚え、そらんじるようになる、というかたちだけのことではないのです。そうではなく、神様との新しい関係に入る、ということです。生まれつきの私たちは持っていない、神様を父と呼び、神様の子として、信頼と愛に生きる人格的関係を与えられるのです。それこそが、信仰を持つということです。信仰者になるとは、何かの信念を持つことでも、ある規範や規則に従って生きる者となることでもありません。神様との間に、父と子としての信頼と愛の関係を持つことです。その関係は私たちの努力や精進によって獲得するのではなく、主イエス・キリストの恵みによってのみ与えられるのです。父なる神様との間に父と子としての関係を持っておられたのは本来イエスさまだけです。しかしイエスさまはその恵みによって、この私たちをも、ご自身と父なる神様との交わりへと招き入れて下さったのです。その招きが、主の祈りなのです。

 「主の祈り」はこのルカ福音書11章の他に、マタイ福音書の6章にもあります。私たちが祈っている形により近いのはマタイの方です。ルカにおける主の祈りには、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」がありません。主の祈りは通常前半の三つと後半の三つの祈りに分けて考えられますが、前半の三つ目がルカにはなく、前半は二つ、後半が三つになっています。来週の今年度最後の礼拝でも今日と同じ箇所をもう一度味わって今年度をしめくくりたいと考えているのですけれども、今日はとくに、この前半の二つの祈りを中心に味わっていきたいと思います。

 「御名が崇められますように」これが第一の祈り求めです。私たちが祈っている言葉では、「願わくはみ名をあがめさせたまえ」ですけれども、私たちが用いている主の祈りの言葉は明治十年代の訳です。もう百三十年も前の日本語です。今この日本語の文章の意味を正確に理解している人はどれだけいるでしょうか。多くの人はこの祈りを、「私たちにみ名を崇めさせてください」という意味に理解していると思います。もちろん、それはそれで間違いではないのですけれども、しかしこの「崇めさせたまえ」というのは、「私たちにあなたのみ名を崇めさせて下さい」ということがその中心にあるのではなくて、むしろ神様ご自身が、み名を崇めて下さい、ということを尊敬を込めて求めている祈りなのです。神様がご自分のみ名を崇めるというのはおかしいと思うかもしれません。しかし「崇める」とは「聖なるものとする」というのが本来の意味です。ですから「み名を崇めさせたまえ」というのは「神様あなたがご自分の名を聖なるものとして下さい」という祈りなのです。

 神様がご自分のみ名を聖なるものとする。それはどういうことでしょうか。神さまなのだから、その名前ははじめから聖なるものではないのか、と思います。確かにそうです。神さまは聖なる方である、それが聖書の大前提であります。けれども、その聖なる方のことを聖なる方としながらも、忘れ、軽んじ、無視して、すき放題生きているのが、私たち人間の社会の現実ではないでしょうか。神さまにその初穂として選ばれたイスラエルの民でさえそうでした。神さまの聖なるみ名は現実の社会では人間によって汚されているのです。どこまでいっても、私たち人間は神さまの御名を汚してしまう。ですから、神さまは聖なる方ですけれども、そのことを人間は全く尊んでいない。・・・「御名が崇められますように」・・・ですからこの祈りは、神さま、あなたの聖なる御名を汚してしまった、このわたしたちの罪から、もう一度あなたご自身を取り戻してください、そしてもう一度、あなたが聖なる方であることをこの全地に知らしめてください、そしてそのことによって、このわたしたちを、どうぞ清めてください、というそういう祈りなのです。そして、この祈りに神さまは実際に答えてくださいました。どのようにしてか。イエスさまの十字架を通してであります。

 私たちは、神様を父として認めず、自分が主人になって生きようとする罪によって神様の聖なるみ名を汚しています。その結果、神様との間のよい関係を失い、自分のまことの父、造り主とな愛の関係を見失っているのです。しかし神様は、そんな私たちに、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、イエスさまが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦して下さいました。私たちが、まことの父である神様の子として、神様とのよい関係に生きることができるようにして下さったのです。それは同時に、神様が、私たちによって汚されたご自分の名を聖なるものとして下さったということです。このように、み名を聖なるものとして下さるのは神様ご自身であります。そしてそれは、私たちの救いのみ業でもあるのです。

 けれども、ここで大切なことがあります。私たちはこのみ業によって今や、神様を父と呼び、信頼し、愛して生きることができます。できています。しかしそのみ業はまだ完成してはいない、ということです。それが完成するのは、聖書がいう世の終わりの時、イエスさまの再臨の時です。ですから、その終わりの時を希望し、期待しながら、私たちは、「み名が崇められますように」と祈りつつ生きるのです。いまの恵みに感謝しつつ、その救いの完成、その約束を信じて、私たちは主の祈りを、祈りつつ生きるのであります。

 そして、そのように祈りつつ生きるとき、私たちの側でも、神様のみ名を汚すことなく、崇めて歩んでいく者へと作り変えられていきます。あるいはまた、私たちのそのような姿を見ることによって、私たちの力を越えて、人々が主なる神様を崇めるようになっていく、のです。ですから、その意味では確かに「私たちにみ名を崇めさせてください」という祈りは、文字通り、私たちに御名を崇めさせてください、ということになっていくのです。第一には、神様ご自身がみ名を聖なるものとして下さる、その恵みの中で、私たちはみ名を崇めていくのであります。

 最後に、前半の第二の祈り「御国が来ますように」を見ていきたいと思います。御国とは神様の国のことです。ここで「国」と訳されている言葉は本来「支配」という意味の言葉になっています。「神様のご支配が実現しますように」というのがこの祈りの本来の意味です。これもまた、私たちではなく、神様ご自身がして下さることである、ということが根本です。神の国は、私たち人間が建設するものではなくて、神様が来らせて下さるものなのです。そして、それは、イエスさまが来てくださったことによって決定的に実現したのです。神の国、つまり神様の私たちへのご支配は、イエスさまの十字架の死とそのご復活によって、私たちの罪が赦され、神さまが、私たちを神の子として新しく生かしてくださり、復活の命、永遠の命を約束して下さったことによって実現したのです。しかしこれも、まだ全て完成したわけではありません。それが完成するのは、イエスさまがもう一度この世に来られる時だと聖書はいいいます。ですから私たちはその時まで、イエスさまによって、神さまの愛と恵みのご支配が決定的に始まった、そのことを喜びつつ、同時に、それが完成する、その約束を信じて「御国が来ますように」と祈りつつ生きるのです。

 以上のように、前半の二つの祈りは、「父よ」という呼びかけによってイエスさまが招き入れて下さっているイエスさまご自身の祈りの世界、神様との間に父と子としての信頼と愛の関係を与えられて生きる者が、基本的に祈り求めることは何か、ということを示しています。それは神様のみ名が聖なるものとされ、崇められること、そして御国が、神様のご支配が実現することです。それらはいずれも、神様ご自身が、独り子イエス・キリストによって既に始め、決定的に押し進めて下さっていることです。そして、この世の終わりに完成すると約束して下さっていることです。主の祈りを祈ることをゆるされた私たちには、神様のこの救いのみ業とその完成が約束されている、その喜びと平安の中を、まことの父である神様に信頼しつつ生きるのです。

 キリスト信者、クリスチャンとは、この主の祈りを祈りつつ生きる者たちです。この祈りによってイエスさまは私たちを、ご自分の祈りの世界へと、父なる神様の子として生きる祝福へと招き入れて下さっています。今年度の最後を迎えるにあたって、今週来週とわたしたちは、まさにイエスさまご自身でもあるこの主の祈りを、改めて感謝して味わい、主の祈りを深く心に刻みつつ、しめくくりたいと願います。祈りましょう。

 父なる神さま、あなたのみ名が崇められますように、御国がきますようにと、わたしたちは祈ります。わたしたちの汚してしまったあなたの御名が主イエスを通してもう一度、聖なるものとされた、そのめぐみに感謝しつつ、あなたのみ国、あなたの愛と平和がこの世界全体に広がっていく、その約束を信じ、生涯、主の祈りとともに歩んで行く証人とならせてください。礼拝後にもたれますわたしたちの総会も、その恵みへのわたしたちの感謝の応答となりますように。聖霊で満たし守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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受難節第2主日礼拝 

2017年3月12日(日)ルカによる福音書 第10章38-42節
「一番大切な務め」三ツ本武仁牧師

今日は礼拝のあとに、婦人会の総会がありますけれども、偶然にも今日与えられました聖書箇所には、二人の婦人といいますか、女性が登場してまいります。マルタとマリアという姉妹であります。イエスさまがある村にお入りになられたときのことであったといいます。38節ですけれども「一行が歩いて行くうちに、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女がイエスを迎え入れた。」最初にイエスさまとその一行を家に迎え入れたのはマルタでありました。おそらくマルタは、前回までの話の流れからすれば、この村に先に遣わされてきたイエスさまの弟子たちがいて、その弟子たちからイエスさまのことを聞いて、何か心動かされて、じっさいにイエスさまが来られたとき、イエスさまを自分の家に迎え入れようと思ったのでしょう。マルタの中にイエスさまを信じて生きよう、イエスさまに仕えて生きよう、そういう信仰的な決断があった、それが今日のこの出来事の大切な前提であります。

つまりここにはマルタとマリアという姉妹が登場して、その二人の姿が対照的に描かれていく、そして42節に「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に、一見なっています。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタはそうではない、ということではないのです。イエスさまを家に迎え入れたのはマルタであった、そのようにはっきり最初に書かれているのです。それは今申しましたように、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、イエスさまと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後に、「彼女にはマリアという姉妹がいた」とマリアが登場します。このマリアもやがてイエスさまを信じる者となるわけですけれども、それはあくまでも姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだと言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となったのです。

 しかし、このように同じ信仰者となったマルタとマリアであったわけですけれども、聖書は、その二人の間の違いを浮き彫りにしていくのです。39節にありますように、マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っています。それに対してマルタは40節「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」のです。
私たちはここから、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の、特にご婦人会の方々の間でよく語られるのは、「私はマリア・タイプだ」とか「私はマルタ・タイプだ」というようなことではないでしょうか。その場合の「マリア・タイプ」ということで想定されているのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るという信仰生活が自分には合っているしその方が好ましいと感じているという人のことでしょう、そして「マルタ・タイプ」ということで考えられているのは、活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば愛餐会のための食事作りとか、バザーのための手芸品造りとか、あるいは会堂のお掃除とか、また教会の外におけるいろいろな奉仕活動に加わって活動するとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、という人のことではないでしょうか。
そして、それは女性だけの話ではなくて、今日は男性の会のサムエル会もあるわけですけれども、マルタとマリアのどちらかに親近感を覚えて、自分に近いものを感じるか、ということは男性もまた考えるのであります。そのようなことはもちろん決して悪いことではありません。その話題で場が盛り上がる、というのは、それはそれで楽しいことであります。ぜひ、今日は婦人会でもサムエル会でも、場がもたなくなったときは、あなたはマリアタイプ? それともマルタタイプ? というゲームをやっていただけたら、と思うのです。

ただ、これらのことは皆、先ほど申しましたように、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし、これはわたしたちと神さまとの関係、ということに関わることですけれども、あくまでも、聖書の言葉とわたしたちの関係は、私たちが中心ではなく、聖書が、神さま、イエスさまが中心である、ということであります。聖書は、ここで、マルタとマリアのタイプを分けて、あなたはどちらに当てはまるか、ということを語っているのでもないし、そして、これからお話しますように、実は、この話をそのまま読むときに感じるような、マルタはダメで、マリアのほうが優れている、ということを語っているのでもないのです。では、聖書は、このマルタとマリアの対照的な姿を通して、私たちに何を語っているのでしょうか。

 40節にありましたように、マルタはイエスさまと弟子たちを家に迎え入れて、いろいろのもてなしをしました。それは最初に申しましたようにマルタの信仰的な決断であって、そのようにしてマルタは、神の国の福音を宣べ伝えているイエスさまと弟子たちに仕え、その歩みを支えようとしたのです。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしていたわけではないし、ちゃんともてなさないと恥をかくと思っていたのでもないのです。彼女がせわしく立ち働いているのはその信仰のゆえなのです。イエスさまへの感謝に対する応答であります。それは差し引きなしに、イエスさまも十分に認めてくださる働きであったのです。

マルタの姿は、実に信仰者の誰もが見習うべき、イエスさまに仕えて生きる人の姿なのです。そのことは、マルタが「いろいろのもてなしのためにせわしく働いていた」という、このところで用いられている「もてなし」という言葉からも分かります。・・・東京オリンピック招致のためのスピーチで語られた「おもてなし」という言葉が、話題になったことはみなさんの記憶にも新しいことかと思います。そのスピーチでは、「おもてなし」とは「訪れる人を心から慈しみ、お迎えすること」だと説明されましたけれども、ここで聖書のいう「もてなす」と訳された言葉は、原文においては「ディアコニア」という言葉でありまして、このディアコニアというのは「キリストの愛の業にならう奉仕」という意味をもっている、キリスト教の世界では、とても重要な言葉であります。英語で執事のことをディーコンといいますけれども、その語源であります。

御言葉を聞くマリアの姿が礼拝を大切にしているクリスチャンの姿であるとすれば、イエスさま一行をもてなしているマルタの姿は、愛の奉仕の業を大切にしているクリスチャンの姿であります。そして、キリスト教会では、そのはじめから、この2つのこと、礼拝と奉仕ディアコニアを、いわば教会の二つの車輪の一つとして、共になくてはならない大切なものとして位置づけてきたのです。つまり、マルタとマリアは、二人合わせて一人のクリスチャンのあるべき姿だということができるのです。

かえってややこしいことをいうかもしれませんけれども、ピカソという画家、有名な画家ですので、みなさんもよく知っておられると思います。もともと大変デッサンの上手い画家でしたけれども、ある時期から、キュビズムと呼ばれる、大変ユニークな画法を生み出しました。いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めたのです。ですから、ある場合には女性の鼻が二つあったり、耳が三つあったりするわけです。わたしはあのピカソの絵にとても興味を惹かれた時期があったのですけれども、あるとき、じーとピカソの不思議なあの絵を見ていて、はっと、ああピカソは時間の流れも描いたんじゃないか、と感じたんですね。そしてあとで、ピカソの絵の意図が、そのわたしの感じたことと当たるも遠からずであったことを知って、とても嬉しく思ったことがありました。・・・ちょうどこのマルタとマリアの関係も、それに似ていると思うのです。御言葉を聞くことと、奉仕をすること、イエスさまの愛に答えて、生きること、このクリスチャンとしての一人の人間のあるべき姿が、二人の姉妹の姿として、同時にここに書かれている、そんなふうにわたしは思うのであります。

 しかし、今日の聖書が私たちに語っていることは、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じた、ということなのです。マルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、イエスさまの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対してイエスさまはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。・・・イエスさまはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。これは前の口語訳聖書では「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」となっていました。イエスさまはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなしの中で、キリストの愛の業に倣う奉仕の中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、御言葉を静かに聞いているマリアを非難するようになる、つまり、御言葉を聞くことは、本来マルタ自身にとっても大切なことであり、むしろそれこそがマルタの奉仕の原動力であったはずなのに、その大切さを見失っていくのであります。そして、そうやって御言葉をマルタが聞かなくなっていくとどうなるか、心が乱れて、もう喜んで奉仕することができなくなってしまうのです。

イエスさまはそのようにして心乱して、混乱してしまっているマルタに次のようにお語りになりました。42節です。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。・・・さきほど申しましたように、これは決してマルタがマリアより劣っている、という話ではないのです。でも、イエスさまはここではっきりと、マリアは良いほうを選んだ、と言っているではないか、そう思われるかもしれません。・・・ここで「必要なこと」と訳された言葉には、今日の説教題にいたしました「務め」という意味があります。それから「責任」という意味もあります。

御言葉を聞く、礼拝に出る、それは、一番大切な務めだ、責任なのだ、とイエスさまは言われるのです。そして、それは、マルタ、あなたにとって、まさにそうなのだ、とおっしゃりたかったのです。イエスさまはここでマルタに、「あなたのしていることはマリアに比べたら、意味がない」などと言っているのではないのです。何度も繰り返し申していますように、マルタはイエスさまを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕・ディアコニアはイエスさまへの感謝の応答として、クリスチャンにとってとても大事なことなのです。

 ただ、その奉仕が本当に生きるためには、つまりマルタが喜んで、感謝して奉仕するためには、御言葉を聞くことが必要なのだ、ということなのです。そして、それはわたしたち皆の問題であるのです。もし、わたしたちがイエスさまに仕えるその奉仕の中で、生活の中で、不平が出てきたり、あるいは他の人の信仰を悪くいうようなことが起こってくるとするならば、それは、わたしたちが御言葉を聞いていないからなのです。御言葉を聞くならば、わたしはそれぞれに自分に与えられた奉仕の業を、主に感謝して、喜んでなしていくことができるのです。

ではイエスさまはどのようなみ言葉を私たちに、語っておられるのでしょうか。イエスさまはそのお言葉の中心で語っておられること、それは、神様の独り子であるイエスさまが、私たちと同じようにこの世の苦難の中を歩んでくださり、そして私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって死んで下さった、そして復活された。そのことによって、私たちの様々な苦しみ、悲しみ、そういう重荷を、イエスさまがいつも共に背負ってくださりながら、わたしたちを、まことの命へ、永遠の命へ導いてくださる、その確かな約束をしてくださっている、ということであります。そのようにして、神の国、神様の恵みのご支配が実現するということです。そのイエスさまの御言葉に聞き入り、そしてその御言葉を本当に聞くことができるならば、イエスさまのもとに集い、その足もとに座ってイエスさまのみ言葉に聞き入るならば、わたしたちは、本当に喜んで、自発的に、奉仕に生きることができる、また先週の内容に照らしていえば、出会う人の隣人になることができるのです。

 「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを失ってしまうと、私たちの奉仕は自己実現や自己主張のための業になります。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでいないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難する思いが生じるのです。そのような歪んだ思いから抜け出すことは、奉仕の仕方や内容をいくら工夫して合理化しても、そういう小手先のことによってはできません。立ち戻るべきところは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そして私たちに教えているのです。マルタとマリアの二人の姿は、信仰者のタイプの違いではないのです。マリアのように御言葉を聞いて、そこで、わたしたちを愛し、守り、導いてくださるイエス・キリストに目覚めて、そこから本当に生かされて、感謝に満ちて、喜んで、奉仕していく、本来のマルタの姿となっていく、その全体が、一人のクリスチャンのあるべき姿です。御言葉に聞き入る、この一番大切な務めに目覚めつつ、それぞれに神さまから与えられた賜物を生かして、喜んで主にお仕えしていくものとなりたいと願います。祈りましょう。

 主よ、あなたの十字架の愛、その御言葉によってゆるされ、生かされ、いやされてあるその恵みに感謝して、心からのおもてなしを、あなたに、また隣人にささげていくものとならせてください、御言葉を聞くことと、感謝の奉仕に生きること、この2つを両輪として、歩んでいくものとなれますように、わたしたちを聖霊でみたし守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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受難節第1主日礼拝 

2017年3月5日(日)ルカによる福音書 第10章25-37節
「その人の隣人になりなさい」三ツ本武仁牧師

 今日から受難節に入りました。受難節は、正確には、灰の水曜日、と呼ばれる水曜日、ちょうど先週の水曜日から始まります。灰は、悔い改めのしるしです。なぜ、悔い改めの日が受難節の最初にあるのでしょうか。受難とは、イエスさまのご受難、十字架のみ苦しみんおことです。なぜ、イエスさまは十字架の苦しみを受けられたのでしょうか?ご自分が何か罪を犯したからでしょうか。あるいは、ただ一方的には罪を着せられたということだったのでしょうか。・・・聖書は、いやそうではない。イエスさまはわたしたちすべての人間の罪を背負って、わたしたちの身代わりになって、十字架におかかりになってくださり、わたしたちを、十字架の死から救ってくださったのだ、というのです。だから、受難節は、悔い改めのしるしである灰の水曜日から始まります。自分の罪を知り、悔い改めること、イエスさまがその私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったことを覚え、悔い改めつつ、感謝して歩むのであります。

 今日与えられました聖書の箇所、ルカによる福音書第10章25節以下には、イエスさまがお語りになったいくつかのたとえ話の中でも最もよく知られている「善いサマリア人」の話が語られています。

 この「善いサマリア人」の話それ自体は、読めば分かる単純なものでしょう。若干の説明を加えるならば、エルサレムからエリコへ下る道というのは、荒涼たる荒れ野の道であり、強盗や追いはぎがよく出没する危険な道でした。また、半殺しにされて倒れている人を見ながら道の向こう側を通って行った二人の人は、祭司とレビ人ですが、これはどちらも、ユダヤ人の宗教的指導者、神殿の礼拝を司り、それに奉仕する人です。先の「律法の専門家」とは、働きの内容こそ違いますが、立場としては似たような人だと言えます。追いはぎに襲われて倒れている人はユダヤ人です。同じユダヤ人の、しかも信仰の指導者である人々が、彼を見捨てて通り過ぎたのです。その後、「旅をしていたあるサマリア人」が、この人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。サマリア人は、ユダヤ人とは犬猿の仲にありました。ユダヤ人はサマリア人のことを宗教的な純粋さを失った民として軽蔑し、差別していました。サマリア人のほうでもユダヤ人とエルサレムの神殿に対して対抗意識を強く持っていました。ユダヤ人とサマリア人の間にはそういう敵対関係、敵意がありました。しかし、ここに出てくるサマリア人は、それような垣根を乗り越えて、ユダヤ人を助けたのです。

 この話をした上でイエスさまは律法の専門家に、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお問いになりました。答えははっきりしています。「その人を助けた人です」と彼は答えます。するとイエスさまは「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃったのです。

 この話においてイエスさまが彼に一貫して問いかけておられるのは、「あなたは自分が知っていること、分かっていること、その正しいことを、その通りに実行しているか、そのように生きているか」ということです。この人は、専門家だけあって律法のことをよく知っていました。その中心となる教えは何かを的確に捕えていました。しかしイエスさまに、あなたはそれを実行しているのか、その教えの通りに生きているのか、と問われた時、彼は言葉に窮してしまいました。そして、そのように生きていない自分を正当化しようとして、「わたしの隣人とは誰ですか」、隣人が誰であるかわかれば、わたしはその人を愛せるのです、と、自分の立場を弁護しようとしました。

 彼が「わたしの隣人とはだれですか」と、隣人を愛することについての言い訳をしたことは意味深いことだと思います。彼は、神様を愛することはよく分かるが、隣人を愛することがまだよく分からない、と言ったのです。つまり彼は、隣人を愛することができていなくても、神様を愛しているつもりではいるのです。神様を愛することはできているが、隣人を愛することがなかなか難しい、と思っているのです。しかしそれは誤魔化しであります。神様を愛することと隣人を愛することは1つだと、聖書はちゃんと言っているのです。それは二つのことではなくて一つのことなのです。隣人を愛することができないということは、神様をも本当には愛していないということなのです。じゃあ彼は神さまを愛しているつもりで、何を愛しているのか?・・・自分自身を愛しているのです。「善いサマリア人の話」に出てくる祭司やレビ人の姿はそのことを表しています。彼らは神様を愛し、神様に仕えていると自負していた人たちです。しかし目の前に倒れている一人の同胞に手を差し伸べることをしない、隣人を愛することができないのです。それは、つまり神様のことを本当には愛していないといいうことです。

 他方でこの話に出てくるサマリア人は、倒れている人に手を差し伸べ、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。この人こそ、本当に隣人を愛し、そして神を愛している人なのです。そしてまたここには、隣人を愛するとはどういうことかが示されています。彼がしたことの中心は何だったでしょうか、それはイエスさまの問いかけ、「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」という問いかけから分かります。この人は、ユダヤ人との間の敵意やわだかまりを乗り越えて、倒れている人の隣人になったのです。隣人を愛するとは、隣人になることです。律法の専門家は、「わたしの隣人とはだれですか」と問いました。それに対してイエスさまは、「隣人になった」人の話をなさったのです。つまり隣人とは「誰か」と「捜す」ものではなくて、無条件に「なる」ものだということです。いま目の前にいる人、自分が出会っているその人を隣人として受け入れることなのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」というみ言葉は、「あなたも、自分が出会う人々の隣人となりなさい」ということです。それが、隣人を愛するためのただ一つの道なのです。隣人とは誰か、誰を愛したらよいのか、と考えている間は、隣人を愛することはできません。大切なことは、人生の歩みの中でいま実際に出会っている人、出会う人の隣人になるかどうかです。その人の隣人になろう、とそういう思いで、人と出会い、人に接しているか、それとも、この人は自分にふさわしい隣人だろうか、そうでないだろうか、と考えて、そのような思いで、人を見定めているのか、「善いサマリア人」の話を通してイエスさまはそのことを私たちに問うておられるのです。

 けれども大事なことは、イエスさまはここで、そうやって自分を律して、人を見定める誘惑に打ち勝って、出会う人々全ての隣人となるならば、そのことによってあなたがたは神を確かに愛していると認められ、永遠の命を、神の救いを獲得することができるのだ、と言っておられるのではない、ということです。
 確かに、イエスさまのみ言葉を本当に聞き、そのように生きるならば、私たちは、神様を心から愛し、同時に出会う人々すべての隣人となって生きることができるはずです。・・・しかしじっさいの私たちは、この律法の専門家と同じように、イエスさまからの問いによって、自分が神様をも隣人をも愛することが出来ていない、ということ、結局は自分自身のみを愛しているのだ、ということに気付かされる者ではないでしょうか、そして苦しまぎれの言い訳や自己弁護ばかりしてしまう者ではないでしょうか。私たちはどこまでいってもそういう情けない者であり、神様をも隣人をも本当に愛することができない者なのです。それは聖書はわたしたちの罪だというのです。

 ・・・しかし大事なことは、そのような罪の中に倒れ伏している私たちを、イエスさまが、あのサマリア人のように憐れみ、私たちの隣人となって下さり、そのような罪の深みからの救いを与えて下さったのだ、ということなのです。わたしたちこそは、追い剥ぎに襲われた旅人である、ということに気づくことです。
 しかし、じゃあ、わたしたちは、もう隣人なんて愛さなくてもいいのだ、という話ではなくて、神も隣人も本当には愛せない、その罪の深みにある私たちの隣人となって、イエスさまが私たちを救ってくださった。そのことを思い起こして、感謝のうちにイエスさまの御言葉を繰り返し思い起こして生きていくことが大事なのではないでしょうか?

 具体的に言うならば、この「善いサマリア人」の話をいつも私たちは思い起しつつ、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスさまのお言葉を、自分に対して語られた励まし、勧めのみ言葉として聞き続けるのです。そのことの中で、私たちは、そのみ言葉のように生きる者へと不思議と変えられていくのです。

 最初に申しました受難節ということ、そして今日の聖書箇所に示された「その人の隣人になる」ということ、この2つのことを思いめぐらすなかで、わたしは「こころの時代」というNHKのテレビ番組で放映された渡辺和子さんのことを思い起こしました。渡辺和子さんは昨年の暮れの12月30日に89歳で天に召されましたけれども、1936年、渡辺和子さんが9歳のときにたいへん辛い経験をされました。当時陸軍の大将で教育総監であった父親が、あの歴史の残る226事件に巻き込まれ、寝ている中、自分の目の前で、銃殺されたのです。それは本当に言葉に表せない苦しみであったといいます。愛する父親を無残にも殺した相手をとてもゆるすことはできなかったといいます。けれども、事件から50年後、すでにシスターになっていた和子さんのところへ、事件を起こした将校たちの遺族から、亡くなった将校たちとそしてお父様も法要をしたいので一緒に参加してくださいと請われて、その記念式典に出られるのです。

 すると、そのあと遺族から将校たちのお墓参りに一緒に来てほしいといわれたのです。和子さんは正直にいえば、腑に落ちなかったといいます。先に父のお墓参りならわかるけれども、なぜわたしが、自分の父親を殺した相手のお墓参りに行かなければいけないのか。・・・けれども、促されるままに、将校たちのお墓の前に行き、そこで手を合わせ、祈られたのです。安らかにお眠りください、とこころのうちで祈られて、しかし、心の底ではやっぱり、はやくここから去りたいと思われたそうです、そして、お墓の階段を一段、二段とおりた、そのとき、そこに二人の男性が立っていて、目から涙を流していたのだそうです。二人は、和子さんの父親に止めをさした、二人の将校の弟にあたる人たちだったのです。そして二人は和子さんに言ったそうです。すみませんでした。本当はわたしたちのほうが先に、閣下のお墓参りに行かなければいけないのに、今日、和子さまが、先に、わたしたちの兄のお墓参りをしてくださいました。わたしたちの226事件はやっと今日終わりました。」そういって頭をさげて、そして和子さんにお父様のお墓の場所を聞かれたそうです。それ以来、その方々は、今日まで31年間、ずっと和子さんのお父様のお墓参りをしておられるのです。わたしたちは和子さんによって救われた、とその方々はいうのであります。

 わたしはこのエピソードの中に、今日のイエスさまの教えの隣人になる、ということのヒントが隠されているように思うのです。好きな人の隣人にならいつでもなれます。しかし許すことのできない人の隣人になることはわたしたちには、自分の力だけではやはりできないのです。けれども、わたしたちには、きっと、この和子さんの身に起こった出来事のように、きっと不思議な導きで、そのような相手と隣人になる、顔を合わせることになる時、場面が与えられるのです。それはまさに神さまが与えてくださった出会いであります。その出会いをかたくなに拒むのではなく、和子さんのように、そのまま受け入れるのです。神さまが与えられた出会いとしてそのまま受け入れる、そこにイエス・キリストが働いてくださるのです。そのとき、わたしたちは、自分の力ではとてもできない、その人の隣人になる、ということができるようになる、そしてそのことを通して、自分も救われ、また相手も救われていくのではないでしょうか。

 このあと私たちは聖餐の恵みにあずかります。主イエス・キリストが、ご自分のいのちをかけて、わたしたちの隣人となってくださり、友となってくださった、その愛を感謝して味わい、この身に主の言葉を染み渡らせて、その御言葉に生きるものとなりたいと願います。祈りましょう。

 その人の隣人になりなさい。主よ、あなたは わたしたちの隣人となるために、十字架の道を歩んでくださいました、その愛に確かに救われ、生かされている私たちであります。その感謝と喜びのうちに、わたしたちもまた、隣人を愛するものとなっていくことができますように、あなたが与えてくださる出会いの中で、その人の隣人になる道を選びとることができますように、その命の道に生き、その道を宣べ伝える、あなたの器となっていくことができますように、聖霊で満たし、守り、導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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降誕節第10主日礼拝 

2017年2月26日 ルカ福音書10章17―24節
「あなたの名は天に記されている」 三ツ本武仁牧師

 いま私の息子が小学校4年生で10歳なのですけれども、先週の火曜日に授業参観があって、「2分の1成人式」というのが行われたんですね。20歳の半分の10歳だから2分の1成人、というそうです。はじめ2分1成人という言葉を聞いたときは、どこかの宇宙人かと思いましたけれども、そうじゃないのです。20歳の2分の1である10歳を記念する式なのです。私がこどもの時分にはありませんでしたけれども、体育館に集まって、4年生全員で校歌を歌って、校長先生のご挨拶があって、そして4年生全員が一人ずつ、舞台の真ん中にたって、「お父さん、お母さん、いままで育ててくれてありがとう。ぼくは、わたしは、・・・になりたいです。これからあと10年、大人にあるまでよろしくお願いします」というようなことを言うんですね。それで保護者はみんな涙目になってしまうわけですけれども、そのあと2分の1成人式の歌というのがあって、閉会の言葉があって、終わりました。
 10年というのは、確かに一つの節目だと思います。いままで10年生きていて、そしてこれから10年生きたら20歳になる。いままでの10年を振り返り、そしてこれからの10年どう生きていくか考える、このことは、2分の1成人にかぎらず、誰にでも必要なものではないかな、とその授業参観の帰り道に思いました。10年先は、自分は天国にいるよ、と思っている人もいるかもしれませんけれども、今日は礼拝のあとに教会懇談会があります。わたしたちも10年前の香里教会を振り返りつつ、さらにいま、10年先の香里教会のことを見据えて、創立70周年記念委員会のみなさんが心をこめてこれまで積み上げてきてくださった議論を踏まえて、みなで意義深い話し合いのときがもてたらと願っております。

 さて、本日の聖書箇所は、イエスさまによって各地に派遣された七十二人の弟子たちが、その派遣された場所から、喜びつつ帰って来たところから始まります。彼らは何を喜んでいたのでしょうか。それは、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」ということです。以前読みました9章の初めにおいて十二人の使徒たちが派遣されたさいに、彼らはあらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けられて派遣された、とありました。今日のこの七十二人が「悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言っているのは、彼らもまた、十二人の使徒たちと同じように、イエスさまのみ力を受けて、神様の恵みのご支配の印として、病気の人や悪霊に取りつかれている人を癒すことができた、ということです。彼らはそういう喜ばしい体験を与えられたのです。

 彼らが「お名前を使うと」と言っているのは大事なことです。彼らの働きは全て、主イエス・キリストのお名前によってなされたのです。主イエスのことを宣べ伝える中でこそ、病気をいやし、悪霊を屈服させることができたのです。けれども「お名前を使う」というのは、イエスさまの名前を呪文のように用いたということではありません。彼らがイエスさまの名を使って何かをしたのではなくて、それをなさったのはあくまでも主イエスご自身だということです。イエスさまのみ業が自分たちを通して行われ、そのみ業のために用いられるというすばらしい体験を彼らは与えられた、ということです。

 さてそこでイエスさまは、この弟子たちの喜びの報告を聞いて答えられました。それが18節以下です。まず18節でイエスさまは「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」とおっしゃいました。サタンは悪魔と同じです。人間を神様から引き離し、恵みを失わせようとする力です。また聖書の別のところでは、サタンは病や障碍などの苦しみを引き起こすものでもあるとも語られています。

 けれども、そのようなサタンが「天から落ちるのを見ていた」とイエスさまは言われるのです。サタンのことを、堕落した天使という意味で、堕天使なんて言う言い方がありますけれども、ここで言われているのはその堕天使が、本当の意味で天から落ちてしまった、つまり、サタンが完全に、その悪魔的な力を失った、ということです。旧約聖書のヨブ記では、サタンが、人間の欠点や罪をあら探しして神様に言い付けるものとして登場してきますけれども、そのサタンが天から落ちたというのは、そのように人間を苦しめるサタンが、もはや人間を苦しめることができなくなった、ということです。今まで人間を支配し、病や様々な苦しみを与え、人々を罪に引きずり込んでいたサタンが、もはやその力を失ったのです。だからこそ、弟子たちは悪霊を屈服させることができたのです。悪霊の親玉であるサタンが天から落ちたので、悪霊も力を失ったのです。「悪霊さえも私たちに屈服します」という弟子たちの言葉を受けて、イエスさまが「サタンが天から落ちるのを見ていた」と言われたのにはそういうことであります。

 けれども、ここで大事なことは、サタンが天から落ちるのをイエスさまが見ておられたという、それはどの時点のことであったのか、ということです。イエスさまは9章51節で、エルサレムに向けて歩み出されていました。それは天に上げられる時期が近づいたことを意識なさったからであったとありました。サタンが天から落ちることは、このイエスさまが天に上げられる時期と深く結びついているのです。つまり、サタンが稲妻のように天から落ちたのは、イエス・キリストの十字架の死と復活、そして昇天によって、私たちの罪の赦しが実現した、その時のことなのです。

 でも、それはおかしい。この10章の時点では、まだイエスさまの十字架の死と復活は実現していないではないか、と思われるかもしれません。しかしここに出てくる七十二人とは、前回も申しましたように、私たち教会ことです。ここで見つめられているのは私たちのことなのです。私たち信仰者は、十字架につけられて殺され、復活して天に昇られたイエスさまによってこの世へと派遣されています。私たちにとってイエスさまは、サタンに勝利して既に天に上げられた方です。私たちにとっては、サタンは既に力を失い、天から落ちたのです。19節にあります「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」というこのイエスさまの言葉も、サタンがイエスさまによって滅びた、だから、もう何もあなたがたは心配しなくてよいのだ、ということであります。

 しかし、思えば、前の聖書箇所10章の3節では、イエスさまは72人を派遣なさるとき「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われていました。このお言葉と今日のイエスさまのお言葉とは全く正反対のように聞こえるのではないでしょうか。・・・
 イエスさまを信じる者、つまり私たち教会には、確かに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威が、イエスさまによって授けられています。私たちに害を加えるものは何一つありません。神様の独り子である主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様が死の力に勝利してイエスさまを復活させて下さり、そのイエスさまが天に昇り、今や父なる神様の右に座して私たちを、この世界を支配していて下さっている、それゆえに、私たちを神様の恵みから引き離そうとするサタンは既に力を失い、天から落ちている。・・・私たちはこの神様の恵みの勝利の下でこの世へと派遣され、そしてまた再び来られるイエスさまを待ち望みつつ、希望をもって歩むことができるのです。それがわたしたちの基本的な姿勢であります。

 しかしそこでなお私たちは、イエスさまが、七十二人の弟子たちを派遣される時「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と語られたことを忘れてはならないのです。これもまた、私たちの現実の姿なのです。私たちは、信仰を与えられてこの世に派遣されていく時に、やはり狼の群れに送り込まれる小羊のような体験をするのです。そこには大きな不安があり、恐れがあり、苦しみがあります。狼の群れの中で、小羊はもはや戦うことも逃げることもできません。ただ、食い殺されるしかないのです。いま上映されていいます話題の「沈黙」という映画のように、場合によっては私たちは、殉教の死へと追いやられることもあるのです。周囲の人々に自分の信仰を理解してもらえず、むしろ敵対してくるような状況の中へ、そのような自分の力ではどうしようもない現実の中へと、私たちは派遣されるのです。

 けれども、そのような厳しい現実の中で、主イエスの約束を信じて、なすべきことをなしていく、証をし、伝道を続けていく、その中で、その結果として、「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」という体験が与えられていくのです。「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」というみ言葉も、そのような歩みの中でこそ確かに示されていくのです。

 信仰を持って生きる人生は、この世的な意味での、安心や成功や幸福が保証された歩みではありません。さきほど申しました「沈黙」という映画、小説のように、迫害によって命を落とすことだってあるのです。「あなたがたに害を加えるものは何一つない」というのは、地上の人生のみに限って言えば、そうではないかもしれない。害を加えられ、殺されることだってある。・・・けれども、このイエスさまの約束は、地上における私たちの数十年の生涯だけを視野に置いて語られているのではないのです。そのことを語っているのが20節です。

 「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。・・・「悪霊があなたがたに服従する」ということを弟子たちは体験しました。それは彼らが地上の人生において、主イエスを信じて従い、主イエスの先駆けとして派遣されて神の国の福音を宣べ伝えていく中で体験したことです。信仰者の人生にはこのようなすばらしい体験、大いなる喜びが確かに与えられています。私たちはその約束をもちろん信じてよいのです。・・・けれどもイエスさまはここで、本当に喜ぶべきことは、しかしそのことではない、と言っておられるのです。あるいは、地上ではやはり苦しむことになるかもしれない。しかしそのことで何も悲観することはない、といわれるのです。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。信仰をもって生きる時、私たちは地上の人生において、悪霊をも服従させるようなすばらしい体験をすることもあります。しかしたとえそれができなかったとしても、私たちに与えられる本当の喜びはそれによっては左右されないのです。本当の喜びは、「私たちの名が天に書き記されている」ことにこそあるのだ、というのです。

 あなたがたの名が天に記されている、それは、神様が、ご自分の救いにあずからせる者として私たちの名を書き記して下さっている、ということです。先に天に召された信仰者たち、私たちの信仰の諸先輩方は、確かにいま、天の御国にあって、イエスさまにその名を呼ばれ、それに答えて生きているのです。そのような恵みの中に、私たちもやがては招かれ、加えられるのです。地上の人生においてどのようなことがあっても、信仰の歩みにおいて害を加えられ、志半ばで命を失うようなことがあっても、人生の戦いに破れて、望んでいた成果をあげることができなくても、あるいは誘惑に負けて罪を犯し、本来ならサタンに「この人はこんなひどい罪を犯した、こんな惨めな失敗をした」と神様の前で訴えられてしまうことがあっても、神様は、イエスさまを通してサタンを滅ぼしてくださったのであり、「あなたの名は私のもとに記されている。あなたは私の民、私の救いにあずかる者だ」と宣言して下さるのです。私たちの信仰は、このことを信じることです。柏木哲夫先生が積極的楽観主義、ということをいわれましたけれども、まさにここに、本当の意味での積極的楽観主義があり、私たちの本当に大きな喜びがあるのです。ですからその意味では、最初に冗談めかして申しました、10年後には天国にいるよ、というのもあながち間違った発想ではない、といえるかもしれません。深い意味では確かにそうなのです。わたしたちの名は天に記されているのです。そしてだからこそ、私たちは何事にも悲観的にならずに、安心して、自分の将来、そして教会の将来を積極的にとらえ、考えていくことができるのであります。

 21節以下には、イエスさまが聖霊によって喜びにあふれて「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と父である神様を賛美した言葉が記されています。21節の冒頭に「そのとき」とあるように、この賛美の言葉は20節までの所と結びついています。あなたがたの名が天に書き記されている、という大きな喜びを告げて下さったイエスさまが、聖霊に満たされて、私たちのその喜びをご自分の喜びとして喜び、神様をほめたたえて下さったのです。
 イエスさまがここで賛美しておられるのは、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ということです。「これらのこと」とは、いままでの18節から20節で語られてきたことです、その中心はもちろん「あなたがたの名が天に書き記されている」ということです。そのことが、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示されたのです。

 ここで幼子というのは、どういう意味でしょうか。幼い子供が親と手をつないで道を歩いています。すると横断歩道があります。親は赤だと止まります、するとその子を親にならって止まるのです。親は危険だから止まりますが、その子にはまだなぜ赤は止まらなければいけないか、わかってはいません。でも、親を信頼して止まるのです。そのように、親の言動に信頼しきっている幼子ような者に、神様は、「あなたがたの名が天に書き記されている」という恵みを示して下さるとイエスさまは言われるのです。
 ・・・最後の23、24節には「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」とあります。「あなたがたの見ているもの」とは、「あなたがたの名が天に書き記されている」という事実のことです。この恵みの事実を見、この恵みの言葉を聞くことができるのは、知恵ある者でも賢い者でもない。狼の群れの中に送り込まれた小羊のように無力な私たちが、自分ではどうすることもできない現実の中で、主イエス・キリストを信じ、イエスさまによる派遣を信じ、イエスさまに従って歩もうとするとき、イエスさまご自身が私たちの目と耳を開いてくださって、多くの人々が願いながらも見ることも聞くこともできないでいるこの喜びを与えて下さるのです。その恵みをこれからも見続ける者となれますように、祈りを合わせたいと思います。
 
 見よ、あなたの名は天に記されている、主なる神さま、この驚くべき約束の恵みの御言葉を心から感謝し、自分を捨てて、受け入れるものとならせてください。礼拝後には教会懇談会がもたれます、あなたがわたしたちの名を呼んでくださり、約束の言葉を聞かせてくださる、この香里教会を、70周年に向けて、みなでこれからも大切にしていくことができますように。聖霊で満たし守り導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン

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