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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

聖霊降臨節第6主日礼拝 

2017年7月9日ルカによる福音書 第12章22-34節
「神の国を求めなさい」三ツ本武仁牧師

 先週に続いて、ルカによる福音書第12章22節以下のみ言葉に聞きたいと思います。イエスさまはご自分に従って来ている弟子たちに、「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とお語りになりました。

 「思い悩むな」というイエスさまの教えは、先週も申しましたように、私たちの命と体とを本当に養い、装っているのは誰なのか、それは私たち自身なのか、それとも天の父なる神様なのか、という問いかけであります。この問いは、私たちが神様を本当に信じているのかそうでないのか、という問いかけなのです。神様を本当に信じているとは、自分の命、人生を神様が養い、装い、守り導いて下さると信じるということです。しかし、そうではなく、自分の命と人生は最終的には自分で養い、装い、守らなければならないのだと思っているならば、その人は神様を本当に信じてはいないのです。自分の命や人生を自分で養い、装い、守ろうとして、そのために必要な食べ物や衣服やその他の様々なものを必死に求める、そういう思い悩みは、神様を本当に信じていないところに生じます。その思い悩みの中にいる者は、人生を養い装うための様々なものを自分で獲得し、自分の倉に蓄えようとします。その蓄えを豊かに持つことで安心を得ようとするのです。

 イエスさまは12章の16節以下で、そのような人の姿を描いたたとえ話を語られました。この金持ちが愚かだったのは、自分が得たもの、倉に蓄えた財産によって、自分の命と体を養い装うことができる、これで人生、生きていけると思ってしまったことです。私たちも、この人のように大金持ちにならなくても、自分の能力、技術、資格、その他何であれ自分が手に入れ身につけたものによって自分の命を、人生を養い、装うことができると思ってしまう時に、この人と同じ愚かさに陥り、決定的なことを見過ごしにしてしまうのです。それは、私たちに命と体を創り、与えて下さり、それを養い導き、そしてお定めになった時にそれらを取り去られるのは主なる神様だ、ということです。この神様が天の父として私たちを愛し、養い、装い、導いて下さることを知り、この神様に命と体を委ねて生きることこそが、本当に賢い生き方です。そしてそこにこそ、思い悩み、不安、心配からの解放が与えられるのです。

 けれども、イエスさまはここで、あなたがたはこのようにして思い悩み、心配から解放されるのだ、ということだけを語っておられるのではありませんでした。31節に、「ただ、神の国を求めなさい」とあります。「思い悩むな」というのは、ある意味で、これこれをするな、という否定的な命令だといえますが、「ただ、神の国を求めよ」というのは、積極的な命令だということがいえるのではないでしょうか。思い悩むな、ということと、神の国を求めよ、というのはワンセットなのです。思い悩まないで、何をするのか、本日はそのことに目を向けていきたいと思います。

 「ただ」神の国を求めなさい、と訳されています。それは、神の国「のみ」を求め、他のものを求めるな、という意味にも取れます。しかし、この「ただ」と訳されているのは「のみ」という言葉ではありません。前の30節で世の異邦人たちが「何を食べようか、何を飲もうか」ということを切に求めていることが語られたのを受けて、あなたがたはそういうものではなく、神の国をこそ求めなさい、と言っているのです。その「あなたがた」とは、30節後半で「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と語られたその「あなたがた」です。つまり、神様が天の父として自分のことを愛し、養い、装って下さることを知っている、信じている、信仰者である「あなたがた」です。そのようなあなたがたであるならば、当然のこととして、「神の国」をこそ求めなさい、と言われているのです。

 「神の国」というのは「神様のご支配」という意味です。天の父である神様が養い、装って下さることを知っている者は、その神様のご支配をこそ求めるのです。「そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とあります。「これらのもの」とは、30節の「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」の「これらのもの」です。つまり、私たちの命と体を養い、装い、守るのに必要な全てのもの、異邦人が切に求めて思い悩んでいるものです。それらは、神の国、神様のご支配を求めていくところに、加えて与えられる。つまりそれらのものが私たちに必要であることをご存じである神様が、それらのものを与えて下さるのです。だから、私たちが本当に求めるべきものは、命と体を養い装うためのあれこれではなくて、神様のご支配なのです。

 この「神の国を求めなさい」という教えも、私たちに対する問いかけです。あなたが本当に求めているものは何か、神の国、天の父である神様のご支配か、それとも自分で必要なものを手に入れて命と体を養い、装うこと、つまり神様ではなくて自分の支配を求めて生きているのか、という問いがここにもあるのです。

 私たちは、自分の人生を「成功」させたいと思っています。そのためには、自分の能力を高め、仕事において業績をあげ、充実した日々を送らなければならないと思っています。そしてその業績の対価として富を得たいと願っています。あるいは、たとえ給料は安くても、自分の能力、特技、性格に合った働きをして、生きている充実感を得たいと願っています。あるいは家庭を守り、家族を支え、子供を育てることに自分の使命を覚え、そこに充実を感じている、ということもあるでしょう。お金には全くならない奉仕の活動や、社会の問題との取り組みに充実を感じている人もいるでしょう。そのように私たちはいろいろなことによって、自分が自分であることを確かめ、自分らしさを生かし、人生を充実させ、有意義なものとする、いわば「生き甲斐」を求めています。ある意味で、それは人間として当然のことであります。けれども、これらのものを求めていく中で、私たちがかえって思い悩みに陥っていることも現実なのではないでしょうか。人生を成功させたい、自分の能力を生かし、業績をあげ、豊かになりたい、という願いは、それがうまくいっている時にはまさに充実感、喜びとなります。けれども願った通りにならないことだってあります。実力が足らずに、また運にも見放されて、仕事を失い、貧しさの中に落ち込むことだってあります。そのような中で、私たちは劣等感に苛まれ、人に対するねたみ、憎しみの思いを募らせてしまうこともしばしばあるのではないでしょうか。

 人生の充実や生き甲斐を求めることは決して間違ったことではないはずなのに、どうしてこのようなことになってしまうのでしょうか。それは、私たちが、自分のものとして獲得する生き甲斐や充実感によって、言い換えれば「自己実現」によって、自分の命や体を養い、装い、守ることができる、要するにそれらのものによって人生、生きていくことができると思ってしまっているからです。

 イエスさまは、そこから私たちを救い出して下さるために、「神の国をこそ求めなさい」と語りかけておられるのです。私たちを本当に愛し、命と体を与え、それを養い、装って下さる父なる神様のご支配こそ、私たちを本当に生かすものであり、私たちが本当に求めていくべきものなのです。この神様のご支配の中でこそ、「これらのものは加えて与えられる」のです。それは、食べ物や着物など、人生を養い装うものを神様がついでに、おまけのように与えて下さる、ということではありません。私たちが自分の人生の充実を求め、生き甲斐を求めていくこと、自分の能力や特技を生かして有意義な人生を送ろうとすること、それらの私たちの願いや努力の全ては、天の父である神様が、私たちの命と体とを養い、装って下さるその恵みの中に位置づけられてこそ、祝福されたものとなる、ということです。さらには、この神様のご支配をこそ求めていくところには、たとえ自分の願い求めている「成功」が得られず、世間の人々からは「失敗」だ「負け組」だなどと言われてしまうようなことになったとしても、それでも自分は得をしたのだ、と肢体不自由になられながらも、口で絵筆をとって、心に迫る詩画を描き続けておられる星野富弘さんが言われるように、なおそこで、天の父である神様の愛に信頼して神様の養いと装いを求め続けるという歩みが加えて与えられるのです。

 イエスさまはこの神様の愛を私たちに確信させるために、32節で「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とお語りになりました。私たちが小さな群れであり、恐れずにはおれない者であることをイエスさまはよくご存知なのです。じっさい最初の頃の教会は、強大なローマ帝国の中で吹けば飛ぶような小さな群れでした。そしてそこにユダヤ人たちによる迫害、またローマ帝国による迫害が起こってきました。イエス・キリストを信じていると公言することによって命をも奪われてしまうかもしれないという危機の中で、当時の信仰者たちの間には深い恐れがあったのです。今日の日本の社会の中で教会が置かれている状況も、ある意味でそれと似ているといるのではないでしょうか? 私たちも、日本の社会の中で吹けば飛ぶような小さな群れです。表立った迫害は今はないし、キリスト信者だからと言って殺されてしまうようなことはありません。しかし私たちも、この当時の信仰者が感じていたのと根本的には同じ恐れを感じているのではないでしょうか。それは、神様が天の父として私たちを愛し、命と体を養い、装い、守って下さっているというのは本当だろうか、この神様のご支配、神の国は本当に実現するのだろうか、という恐れです。迫害の下にある信仰者たちにとっても、根本的な恐れはこのことだったのです。神の国、神様のご支配を信じることができれば、迫害にも耐えることができます。しかしその神の国に疑いが生じる時、深い恐れと絶望が私たちを捕えるのです。

 ともすればこのような恐れに捕えられていく私たちに、イエスさまは「恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と語って下さっています。私たちの父である神様が、私たちへの愛によって、喜んで、神の国を与えて下さる。そのために、神様の独り子イエス・キリストがこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。天の父なる神様が私たちに喜んで神の国を与えて下さることは、このイエスさまの十字架の死と、さらにその死の力を打ち破って神様が与えて下さった復活とにおいて示されています。私たちは、神様が、み子イエス・キリストの十字架の死と復活によって打ち立て、与えて下さった神の国、神様の恵みのご支配を信じて、それをこそ求めて生きるのです。そこに、天の父が私たちの命と体とを養い、装って下さるその愛の中を、思い悩みから解放されて生きる信仰者としての歩みが与えられるのです。

 思い悩みから解放されて、私たちはどのように生きるのでしょうか。33節がそれを語っています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。自分の持ち物を売り払って貧しい人々に施すことによって、盗まれることも、虫に食われることもない天に富を積むことが、思い悩みから解放された私たちの生き方だと教えられています。私たちはこれを読むとすぐに、自分の持ち物を売り払って施すことなどとてもできない、と思ってしまいます。でもこのことは、今読んできた文脈からすれば、自分の持っているもの、蓄えているもので自分の命と体を養い、装う必要はもうない、父なる神様が私たちの命と体を養い、装って下さるのだから、私たちはもう、自分が持っているものにしがみつくのでなく、むしろそれらを自由に用いることができる、自分のためよりも、神様のみ心に適うことのためにそれを献げていくことができる、ということです。この教えは、「こうしなければならない」という義務を語っているのではなくて、信仰者にはそのような自由が与えられているのだ、ということを教えているのです。この自由に生きることこそ、貪欲からの解放です。父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じることによってこそ私たちは、自分のものを人のために用いていくことができるという、本当の自由に生きる者となるのです。

 「富を天に積め」とありますが、それは、施しなどの良い行いをすることによって言わば神様に貸しをつくり、その報いとして救いを得ようという話ではありません。「富」というのは、私たちが頼りにしているもの、より頼んでいるものです。それをどこに置くか、が問われているのです。それを天に積むとは、神様にこそより頼むことです。地上に富を積むとは、自分自身により頼んで生きることです。持ち物を売り払うことが天に富を積むことになるのは、それが自分の蓄えにではなくて神様により頼むことだからです。そのようにして天に積んだ富は、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない、それは、天の父なる神様の愛により頼むことこそが私たちにとって本当に確かな支えであることを語っています。地上に積んだ富、つまり自分自身により頼んで生きることは、まことに不確かな、危うい、愚かなことなのです。

 「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と最後の34節にあります。これも今申しましたように、本当に頼りにしているもの、より頼むものをどこに置いているか、ということです。人生を養い装うのは自分自身だ、と思っているならば、その人は自分により頼んでおり、つまり富を自分に積もうとしており、その心は地上にあって天にはないのです。しかし信仰に生きるとは、父なる神様が自分の命と体を養い、装って下さることを信じ、その神様により頼むことです。それが富を天に積むことであり、神の国をこそ求めて生きる姿なのです。そこに、思い悩みや不安から解放され、自分中心の思いから自由になって、自分に与えられているものを他者のために用いていくことができる新しい歩みが与えられるのです。それは野原の花のように目立たない、誰にも気づかれない歩みかもしれません。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった、とイエスさまは言って下さるのです。祈りましょう。

 天の父なる神さま
 わたしたちが思い悩みの苦しみから救われるために、また思い悩みから生じる憎しみから救われるために、あなたは神の国をこそ求めなさい、と命じられました。そうすれば、すべてのものは加えて与えられる、と教えてくださいました。あなたが、イエスさまを通して、本当にわたしたちひとりひとりを愛してくださっている、そのことに目覚めたとき、わたしたちは、あなたを心から信じて、あなたのみ国をこそ求めていきるものへと変えられていきます。そして、その喜びの中で、ふりかえれば、必要なものはすべて、必要なときにあなたが加えて与えてくださっていることを感謝のうちに経験できるものとなれるのです。そのような歩みがどうかわたしたちのうちに実を結びますように、わたしたちを聖霊でみたし、あなたへの確かな信仰を与えてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第5主日礼拝 

2017年7月2日(日)ルカによる福音書 第12章22-34節
「思い悩むな」三ツ本武仁牧師

 「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とイエス・キリストは語られました。これは今の日本の社会では、イエスさまが語られた状況とは全く違う状況の中で、全く違う意味で、しかし、やはりじっさいに起こっていることだ、といえるのではないか、と思います。
スーパーに行けばたくさんの食材が溢れ、町には、様々な味覚を楽しめるレストランが立ち並び、ファストフードの店も様々にあり、健康食品やダイエット食品まであります。じつに様々な食べ物が溢れていて、私たちはその中で、そのような意味で、じっさい今日は何を食べようかと迷って生活しています。また、何を着ようかということに関しては、以前CSで同じ箇所を説教したときには、これはお母さんや、奥さんには言わないほうがいいですよ、女の人はゆっくりとお洋服を選びたいんですよ、せかしたら嫌われてしまいますよ、という話をしたことがありましたけれども、京阪百貨店に行けば、それこそ、おしゃれな、さまざまな洋服のお店があるわけです。何をきようかしら、と悩む人は悩むのだろうと、思うのであります。

 「何を食べようか、何を着ようか」と言った時に、私たちがピンと来るのはむしろそういういわば贅沢な思い悩みなのではないでしょうか。しかしイエスさまがこれを語られた時の状況はそれとは全く違うのです。ここでイエスさまが言われているのは、その日その日をどうやって生きていくか、どう命をつないでいくか、というそういう誠に深刻な、思い悩みです。「命のことで、体のことで」という言葉がそれを表しています。その日生きるための食べ物、着物にも事欠くような生活をしていた人々に向かって、イエスさまは今日のこの言葉を語られたのです。

 しかしでは、そのような思い悩みは私たちに全く関係がないか、というと、それもまた違う、と思われるのです。いまの日本には、さきほど申しましたような贅沢な思い悩みに溢れてはいますけれども、その反面、こどもの貧困という問題があり、厳しい経済状況のなかで、まさにその日その日の命と体のために思い悩んでいる人々もいるのであります。
それからまた、命のこと、体のことで、思い悩む、ということは、考えれば、それは人間である以上、みな等しく抱えている問題だということもいえるのではないでしょうか。

 とくに今の日本では高齢化社会という現実の中で、老老介護が問題となり、老後の生活への不安をかかえている人がたくさんいます。介護を必要とするようになったら誰が面倒を見てくれるのか、施設に入るとしたらどれだけお金がかかるのか、子供や孫たちに迷惑をかけたくない、そのように思い悩んでいる人も多いのでないでしょうか。そのことはまた来週のサムエル会の講演会のテーマでありますから、共に学んでいきたいと思いますけれども、さらにまた、私たちには人間関係の中での思い悩みがあります。家庭においても、職場、学校においても、地域社会においても、人間関係のストレスが非常に高まっています。

 現代の私たちがかかえる思い悩みはそのように、複雑にかつやはり深刻なかたちで、やはり生き死にに関わる問題としてあるわけです。現代を生きる私たちはそれぞれに、人にはなかなか分かってもらえない複雑な思い悩みをかかえて生きています。そのような思い悩みは、イエスさまの時代の人々が抱いていたものとは全く違うかもしれませんが、しかし、どちらも深刻な、生き死にに関わる問題であることには変わりはないのです。

 そういう私たちに、イエスさまは今日、「思い悩むな」とおっしゃるのです。しかし、それはどうでしょうか。それは下手をすれば「驚くべき無神経な言葉」として聞こえてしまうのではないでしょうか。もし、わたしたちが、じっさいに悩み苦しんでいる人に向かって、いきなり「思い悩むな」と言ったとしたら、どうなるでしょうか。その人との間に余程の信頼関係があり、その人のかかえている問題を本当によく知っていて、その苦しみ悩みに深く同情し、親身になってそれを共に担っている、というのであればよいでしょうが、そうでない限り、「なんて無神経な。無責任なことを言うな」と相手に嫌な思いをさせるだけになってしまうのではないでしょうか。・・・しかもイエスさまは、ここで「思い悩まないでもいられますよ」とか「思い悩むことはないんですよ」と言ったのではないのです。「思い悩むな」ときっぱりと命令なさったのです。何を根拠に、そんな驚くべき命令を語ることができるのでしょうか。

 続く23節をみますと、イエスさまは「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」と言われています。これもちっと腑に落ちないと思います。食べ物は命を養うためにあり、衣服は体を守るためにあるのだから、食べ物や衣服より命や体の方が大切な、肝心なものである、というのは確かにそうだろう、でも、その命を養い、体を守るために必要な食べ物や衣服がなくて思い悩んでいるわけです。そこにこんなことを言われても、どうしようもない、と思うわけです。・・・けれども、この23節のお言葉の意味は、その後の24節以下を読み進めていくことによって分かってきます。24節以下には、烏のこと、野原の花のことを考えてみなさい、ということが語られています。烏について、何を考えてみよと言われているのでしょうか。・・・烏は種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないが、それでも神様が彼らを養っていてくださる、それを考えてみよ、というのです。野原の花についても、同じです、花は働きもせず紡ぎもしない、そして明日になれば炉の燃料にされてしまうようなものにすぎない、しかしその花を、神様が美しく装い、咲かせて下さっている、そのことを考えなさい、というのです。

 これは、鳥は何の心配もせず悠々と空を飛んでいるではないか、花も何の苦しみも持たずに美しく咲いているではないか、そういう姿をお手本として、あなたがたも思い悩まずに歩みなさい、ということではありません。私たちは人間であり、鳥や花ではないのですから、そんな鳥や花のように生きたくても、生きられるものではありません。すこし調べてみましたら「花のように、鳥のように」という歌謡曲が昔歌われていたようです。花のように、鳥のようになれたら幸せなのに、という憧れを歌っている。でもじっさいはそうではない、という、そういう哀愁がその歌にはありましたけれども、イエスさまは、そういうことを言われているのではないのです。これはそういう話ではなくて、鳥も野原の花も、神様が養い、装って下さっている、そのことから、私たちの命も体も、神様が養い、装って下さっていることを知りなさい、ということなのです。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」という23節の言葉の意味もここから分かって来ます。食べ物や衣服よりも、命と体の方が大切な、肝心なものだ。そしてその肝心な命と体は、神様が養い、装って下さっているのだ、イエスさまはそのことを私たちに見つめさせようとしておられるのです。

 24節の後半に「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」とあり、28節には「明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」とあります。烏や野原の花のことを考えてみなさいとイエスさまが言っておられるのは、神様はそれら以上に私たちのことを大切に思い、養い装って下さっている、ということを示すためです。鳥も花も、そして人間も、皆神様がお創りになり、養い装っておられるものです。そして神様はご自分の被造物の中で、私たち人間を、とりわけ大事なものとして創り、大切に養い、装って下さっている。それは、旧約聖書の創世記の初め天地創造の物語も語っていることです。だから思い悩むな、とイエスさまは言われるのです。

 ですから、そうしますと、この「思い悩むな」という命令は、つまるところ「神様を信じなさい」という命令なのだ、ということが分かってきます。神様を信じることを抜きにして、心配事があっても思い悩まなくていい、そのうち何とかなる、ということを言っているのではありません。だからイエスさまは28節の終わりで、「信仰の薄い者たちよ」と言っておられるのです。思い悩むのは信仰が薄い者たちです。「薄い」と訳されているのは「小さい」という言葉ですが、それは信仰の大きさを他の人と比較しているのではありません。信仰が小さいというのは、信仰が信仰として機能していないということです。逆に信仰が信仰として機能しているとは、簡単に言えば、本当に信じている、ということです。それが機能していないということは、本当には信じてはいない、ということです。つまり信仰は、大きい小さい、厚い薄いというものではなくて、「本当に信じている」か「信じていない」かのどちらかなのです。そして神様を本当に信じている人は、神様が自分の命と体を養い、装い、守って下さると信じているのであって、そこにこそは、思い悩みからの解放が与えられるのです。

 30節には、そのことがよりはっきりと語られていきます。「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ」とあります。「それ」というのは、何を食べようか、何を着ようかという思い悩みのことです。そのように思い悩みは異邦人たちがしていることだと言うのです。異邦人とは、神様の民でない人々、まことの神様を知らない人々、つまり神さまを本当には信じていない人々のことです。何を食べようか、何を着ようかという思い悩みは、神様を信じていない人々が、だから自分で自分の命と体とを養い、装わなければならないと思って、食べ物や衣服を切に求めていくところに生じるのだ、というのです。しかしあなたがたはそのような者たちとは違う、とイエスさまは30節の後半で言っておられます。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。これこそが、本日一番注目していただきたいみ言葉であります。まことの神様を知らない、信じていない人々は、自分で自分の命と体を養い、装わなければならないと思い、「何を食べようか、何を着ようか」と必死になって思い悩んでいる。しかしあなたがたには、命と体を養い装う食べ物や衣服が必要であることをご存じであり、また、ただご存じであるだけでなく、あなたがたを父として心から愛し、必要なものを必要な時に必要なだけ与えて下さる神様がおられるのだ。あなたがたはその神様の子どもとされているのだから、父である神様の愛を信じて、自分の命と体とを神様に委ねて、安心して生きることができる、そしてそこに、思い悩みから解放された歩みが与えられるのだ、とイエスさまは言っておられるのです。

 ですから、「思い悩むな」というイエスさまの教えは、つまるところ、私たちの命と体とを本当に養い、装うのは誰なのか、それは私たち自身か、それとも天の父である神様か、という問いに行き着くのです。神様を信じる者とは、自分の命、人生を養い、装い、守り導いているのが父なる神様であると信じている人です。そうでなくて、自分の命と人生は自分で養い、装い、守らなければならない、と思っているならば、その人は神様を本当には信じてはいないのです。「思い悩むな」というイエスさまの命令は、あなたはこの二つの生き方の内どちらを選ぶのか、という問いなのです。私たちが命と体のことで思い悩みつつ生きるか、そういう思い悩みから解放されて生きるか、それはつまるところ、天の父なる神様を信じるか信じないかということです。自分で自分の命を、人生を養い、装い、守らなければならないと思っているならば、当然、そのために必要な食べ物や衣服その他の様々なものを必死に得ようとすることになるでしょう。

 最初に、現代の社会において私たちが抱いている様々な思い悩みをあげましたが、イエスさまはそのような思い悩みの中にいる私たちに、「思い悩まなくてよいのだ」ではなくて、「思い悩むな」とお命じになります。それは、「あなたに命と体を与え、それを養い、装い、守り、導いておられる父なる神様を信じなさい。その父なる神様によって養われ、装われなさい、そして神様があなたに与えて下さる使命に生きる者となりなさい。そこにこそ、思い悩みから解放された人生が与えられるのだ」という促しなのです。自分の願っているとおりに生きることにではなく、神さまがこの自分に願っている生き方を見出していく、そこに思い悩みからの解放が与えられるのです。教会員の方で、まさに生き死にの経験をされた人が、今生かされてある喜びの中で、イエスさまに感謝しつつ、これからの生涯を、いままで自分を支えてくれた伴侶のために捧げたい、と言われた、それもまた、神さまの願う生き方を見つけられて、思い悩みから解放された、ということではないか、と思うのであります。
そのようなイエスさまの命令、促しに従って生きるなら、私たちは、神様が自分の人生を、栄華を極めたソロモンも足下にも及ばないほどに美しく装って下さることを体験していくことができます。

 「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」というみ言葉は、神様の独り子であるイエス・キリストを信じ、従っていくことの中でこそ本当に分かります。天地を創り、私たちに命を与え、それを養い、装って下さる神様は、その独り子である主イエスを一人の人間としてこの世に遣わして下さり、そのイエスさまが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。この独り子の死によって神様は私たちの罪を赦して下さり、さらにイエスさまを復活させることによって、私たちが神様の子とされて新しい命を生きる道を開いて下さったのです。私たちは、救い主イエス・キリストと結び合わされる洗礼によって、その十字架の死と復活にあずかり、罪を赦され、新しくされて、神様の子として、神様を父と呼んで生きる者とされるのです。主なる神様が私たちを天の父として本当に愛して下さっていることは、この主イエス・キリストの十字架の死と復活によってこそ分かります。それゆえに、主イエスを信じ、従って行く弟子、信仰者にこそ、思い悩みからの解放が与えられるのです。ですから「思い悩むな」という命令は、主イエス・キリストを信じ、従う者となりなさい、という勧め、うながしでもあるのです。祈りましょう。

 主なる神さま
 イエスさまの時代に人々が本当に食べ物を着るものもないという状況にここに集うわたしたちの多くはありませんけれども、しかしまた貧富の差が激しい複雑な社会の中で、やはり昔も今も変わらない命にかかる思い悩みをかかえているわたしたちであります。そのわたしたちを今日、あなたは御言葉で照らし、思い悩むな、イエス・キリストを通して、神さまを、その愛を本当に信じる者になりなさい、と命じられました。イエスさまを通して、どれほそあなたがわたしたちを掛け替えのないものとして愛してくださっているか、そのことに目覚めて生きるものとなれますように、聖霊でわたしたちを満たし、導いてください。主のみ名によっていのります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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聖霊降臨節第4主日礼拝 

2017年6月25日(日)ルカによる福音書第12章13-21節
「人は何によって生きるか」三ツ本武仁牧師

 みなさんと一緒にルカによる福音書を読みすすめていて、いまはその12章にさしかかっています。12章は、その1節にありましたように、イエスさまと弟子たちが、当時のユダヤの指導者たちからの敵意と、たくさんの群衆の関心のまなざしに囲まれている中で、イエスさまが語られた教えが語られています。その中で、前回の12節までは、まずは弟子たちに対して語られたお言葉であったわけですが、今日のところは、群衆の中のある人の願いにイエスさまが答えられた、というところであります。

 この人はイエスさまに、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願いました。イエスさまにこんな財産の問題を願うなんてお門違いだと思うかもしれません。しかしこれは当時の人々の感覚からすれば当然のことでした。先生と呼ばれていた当時のユダヤ人の宗教的指導者たちは、聖書を、律法を教える者であったわけですけれども、それは聖書に、律法に基づいて人々の生活の指導をしていたということでもあるわけです。ですから彼らはじっさいにこのような民事訴訟に関わる事柄、財産問題なども律法に基づいて指導し、もめ事の調停をしていたのです。一般の人々、群衆たちは、イエスさまもきっとそういう先生の一人なのだろうと、考えていました。この人は、その意味ではイエスさまを信頼して、このようなことを願い出たわけですけれども、しかしイエスさまはこの人のこのような求めに対して、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言って退けられたのです。

 これは一見すると、冷たいお言葉に聞こえるわけですけれども、じっさいはそうではありません。イエスさまはこのお言葉によってこの人に、ご自分の働きとユダヤの指導者たちの働きとの違いをはっきりと示そうとしておられるのです。ユダヤの指導者たちは、先ほども申しましたように、律法に基づく生活の仕方を教え、もめ事を調停する裁判官や調停人の役割を果していました。つまり人々の生活のニーズに答え、便宜をはかる働きをしていたのです。しかしイエス・キリストのお働きはそのようなものではないのです。そのことを私たちも忘れてはなりません。私たちも、自分の生活におけるいろいろな問題の手っ取り早い解決を求め、何らかの便宜をはかってもらおうとしてイエスさまのもとに来るなら、イエスさまは同じように、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言って私たちの求めを退けられるのです。

 しかしイエスさまは、今日のこの人の願いを退けてそれでおしまいにはなさいませんでした。続けて群衆一同に向かって、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と語られたのです。この人の質問を機に、逆に人々に一つの教えを、というよりも問いかけをお与えになりました。ここで「貪欲に注意しなさい」という「貪欲」とは前後関係からすると、「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」というこの人の願いを指していることになります。そのように願うことは貪欲だ、とイエスさまはおっしゃったのです。

 しかし、そう言われた彼はおそらく心外だったでしょう。「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願った彼がどのような状況にあったのか、正確には分かりませんけれども、想像できることは、「兄弟」と言われているのが長男で、彼は次男以下の立場だったのだろうということです。当時のユダヤの遺産相続においては、長男が父の家や財産を受け継いで家督を継ぎ、次男以下は何がしかの分け前をもらう、ということだったようです。つまり遺産を受け継いだ長男は弟である彼に、彼の取り分を与える義務があるのです。この人からすればそれを受け取ることは自分の正当な権利です。その正当な取り分を兄が渡してくれないので彼はイエスさまにあのように願ったのだと思われるのです。そうだとすれば彼は別に貪欲なことを言っているわけではない。貪欲なのはむしろ兄の方であって、彼はむしろその貪欲の犠牲者だといえるのです。その彼が自分の正当な取り分を得たいと願うことが「貪欲」と呼ばれるなんて、納得がいかない、彼ばかりでなく私たちも当然そう思います。

 そのような疑問を抱きつつ、次のお言葉を読んでいきたいと思います。イエスさまは続いて「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」とおっしゃいました。実はこれこそが、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」という教えの根拠なのです。ここのつながりを理解することが、本日の箇所を理解するための鍵となります。「貪欲に用心しなさい」という教えを私たちは普通、自分の正当な取り分以上にあれもこれもと求めることへの戒めと理解します。貪欲とは、自分に与えられているものを越えて、もっともっとと求め、そのために人のものを奪ったりすることだと思っているのです。だからまた、自分の正当な取り分を求めることは貪欲ではない、と思うわけです。ところがイエスさまは、「貪欲に用心しなさい」というお言葉に続いて、「有り余るほどのものを持っていても、人の命はそれによってどうすることもできないのだ」とおっしゃいます。・・・「貪欲」を先ほどのように、自分の分を越えて欲しがること、と理解していたのでは、ここはつながりません。人の命はその人が持っているものによってどうすることもできないということと、自分の正当な取り分を越えて求めることとは関係がないからです。・・・ですから、ここで私たちは、「貪欲」という言葉の意味について、大胆な発想の転換を求められているのです。イエスさまがここで「貪欲」と言っておられるのは、自分の正当な取り分を越えて欲しがることではなく、自分が持っているものによって自分の命を得ることができる、生きることができると思うことなのです。

 「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」・・このお言葉は、どんなに豊かな財産を持っていても、その財産によって命を買い取ることはできない、私たちの人生を決定づけるものは財産ではない、ということを語っています。「財産」と訳されている言葉は前の口語訳聖書では「持ち物」となっていました。つまりそれはお金という意味での財産だけの話ではないのです。私たちが、それがあることによって人生が決定づけられると思っているものは「お金」だけとは限らないでしょう。神さまから与えられた能力や才能も一種の財産といえるのではないでしょうか。また健康や体力も、その意味では一つの財産といえるのではないでしょうか。それらを有り余るほど持っていたら、人生どんなによいだろうか、と私たちは思います。また私たちは、それぞれに与えられている環境や状況によっても人生を左右されます。家庭環境や職場の状況、生きている時代の状況などにおいても、恵まれている人もいればそうでない人もいる。そういう点においても、豊かに持っている人と持っていない人の違いを感じるのです。

 しかしイエスさまはここで、それらのものを有り余るほど持っていても、それによって人の命、人生が決定づけられることはない、と教えておられるのです。そして、それらのものによって命が、人生が決定づけられると思ってそれらを求めることを「貪欲」と言っておられるのです。この人は、自分の正当な取り分を超えて何かを求めていたわけではありません。しかし、遺産を受け継いでそれによって自分の人生を築いていこうとしているという意味において、イエスさまの言っておられる貪欲に陥っていたのです。・・・ということは、私たちは誰もが皆、貪欲に陥っていると言わなければならないでしょう。私たちは、自分の分を超えて人のものまで欲しがったり、奪い取ったりはしていないかもしれませんが、しかし自分が何を持っているかによって人生が決定づけられるとは思っています。生まれつき与えられているものであれ、努力して獲得したものであれ、自分が持っている広い意味での財産に依り頼んで人生を築こうとしています。イエスさまはそれをここで、「貪欲」と呼んでおられるのです。あなたの心はそういう貪欲に支配されているのではないか、イエスさまは私たち一人一人にも問いかけておられるのです。

 イエスさまはここで一つのたとえ話を語られました。従来の倉を取り壊してより大きな倉を建てなければならないほどの有り余る収穫を得た金持ちの話です。収穫を全部しまいこんだ彼は自分自身に「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言いました。しかし神様は彼に「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」とおっしゃったのです。この話は、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」という先ほどの教えを具体的にわかりやすく話してくださったものです。・・・じっさい私たちの人生においては「これから先何年も生きて行く」つもりでいる人が、その日の内に、突然の病で、あるいは事故で、命を失うということがあります。明日自分が生きているかどうかを、私たちは知ることができません。どんなに豊かな財産を蓄えても、それで死を免れることはないし、突然死んでしまったら、その財産は確かに誰か他の人のものになってしまうのです。

 神様はこの金持ちのことを「愚かな者よ」と言っておられますが、彼のどこが愚かだったのでしょうか。明日生きているかどうか分からないという人生の空しさを知らず、あくせく働いてだれの手に渡るとも知らずに財産を積み上げてしまったことが愚かだったのでしょうか。だとしたら、愚かでなく賢く生きるとは、いつ死ぬか分からないのだからそんなにあくせくせず、その日その日を楽しく生きていくことなのでしょうか。そうではありません。彼が愚かだったのは、自分が得たもの、蓄えたものによって命を得ることができる、生きることができると思ったことです。持っているものによって人生が決まると思ったことです。つまり、イエスさまの言われる「貪欲」に彼は陥っていたのです。ですから、愚かな者でなく賢い者となって生きるとは、この貪欲から解放されることです。自分が持っているもの、得たものによって人生が決まるという迷信から解放されることです。・・・ではどうしたら、その迷信から解放されるのでしょうか。それは、私たちの人生を本当に決定づけるものが何であるかを知ることによってです。私たちの人生を本当に決定づけるもの、それは、私たちのものとして蓄えられる何かではなくて、私たちに命を与え、人生を導き、そして、私たちはこの肉体の死を一度は経験しますけれども、その後においても、永遠の命にわたしたちを生かし、導いてくださる愛なる神様です。その神様がおられることを知ることによってこそ私たちは、自分が何を持っているかによって人生が決まるという迷信から、そして、そのような貪欲から解放されるのです。

 イエスさまが私たちに教えて下さっているのは、私たちに命を与え、私たちを日々導き、そしてお定めになった時に、この世の命を取り上げられますが、しかしさらに永遠の命へ生かし、天国へと導いてくださる神様がおられる、ということです。私たちは、明日の朝生きているかどうかを誰も知りません。それゆえに、「今夜、お前の命は取り上げられる」というお言葉は、私たち皆に対して語られています。しかしそれをどう聞くかは、信仰のあるなしによって天と地ほども違うのです。天の父なる神様が人生の主であられることを知らず、この神様との関係を持たずに生きている者にとっては、これは恐ろしい言葉、人生の空しさを思わせる言葉でしょう。しかし、私たちを本当に愛して下さっている父なる神様を知っている者は、この言葉を恐れずに聞くことができます。そこにも神様の父としての恵み、守り、導きがあることを知っているからです。そのことを私たちは、イエス・キリストのご生涯全体を通して、とりわけ十字架の死と復活によって知らされています。神様は、独り子であるイエスさまを、私たちと同じ人間としてこの世に遣わし、そのイエスさまが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、そのことによって罪を赦し、私たちをもご自分の子として下さいました。そこに、罪人である私たちへの神様の愛がはっきりと示されています。そしてさらに父なる神様は、十字架にかかって死んだイエスさまを三日目に復活させて下さいました。そのみ業によって、死んでしまえばそれでおしまいなのではなくて、その先に、神様が死に勝利して与えて下さる新しい命があることを示して下さったのです。

 先日、次のようなイエスさまとのふしぎな出会いについて、ある兄弟が語ってくださいました。その方は病気で倒れられて、地上の私達からすれば、生死をさまよったのです。しかし、本人は、そのとき、今までに見たことも行ったこともないような美しくて心地よい、花畑を歩いていたというのです。なんてすばらしいところだろう、ずっとここにいたいなあ。とそう思っていると、後ろから自分を呼ぶような声が聞こえて、ふりむくと、光輝く人がおられて、まだここには来てはいけない、お前にはまだやるべきことがあるだろう、と、そういう威厳に満ちた言葉を聞いて、はっとすると、まるで雲にのるように、すっと、そこから移動して、気づいたら、病院のベッドで寝ていた、というのです。その方はいまだいぶ元気を快復されて、わたしは洗礼を受けて本当によかった、あのとき、イエスさまに言われた「わたしのやるべきこと」とはこれからの生涯、妻を大切にすることだと思っています、と私と奥様の前で、話してくださいました。

 イエス・キリストにあって、私たちは、たとえ今夜、自分の命が取り上げられるとしても、父なる神様の愛、恵みが自分をしっかりと捕えていること、そして肉体の死の彼方になお神様の恵みによる復活と永遠の命が約束されていることを信じることができるのです。そしてそれゆえに私たちは、たとえ今夜、命が取り去られるとしても、今日、自分に与えられている務めをしっかりと果たし、その実りを神様に委ねることができるのです。ですから私たちは「今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」という言葉を、人生の空しさを語る言葉として読むのではありません。明日生きているかどうか分からないという現実は、私たちに空しさや絶望を与えるのではなくて、父なる神様の恵みに信頼して、明日のことを神様にお委ねして、今日を精いっぱい生きることへの促しとなるのです。

 貪欲から解放されて新しく生きるとき、私たちの日々の生活は変わっていきます。今日のところから言えば、自分の正当な権利を主張することに、こだわらなくなる、ということもその一つだといえるでしょう。もちろんイエスさまはここで、自分の正当な取り分を得てはいけないと、わたしたちに言っておられるのではありません。けれども、自分は何によって生きているのか、生きようとしているのか、自分の持っているものに依り頼んで生きるのか、それとも父なる神様の恵みに信頼し、神さまにこそ依り頼んで生きるのか、そのことを常に繰り返し、振り返ることを私たちに求めておられるのです。

 そのとき私たちは、自分に与えられているものを、自分の倉にしまいこむだけでなく、兄弟姉妹のために、隣人のために用いていくという生き方へも導かれていくのです。このあいだやはりある教会員の方とお話しをしている中で、寄付の文化ということが話題になりました。アメリカには寄付の文化があるが、日本にはまだそれが根付いていない。アメリカでは大学でも、会社でも、個人の多額の寄付によって、施設や設備が整えられていくのだそうです。しかし、日本にはそういう文化がまだ乏しい、ということでした。今日のところに照らしてみるならば、それは福音が、その地に、またその人、その社会に根付いているかいないか、の違いだ、ということがいえるのではないでしょうか。思えば、わたしたち香里教会も、教会員の方の大きな寄付によるところが大きいのであります。むかし教会に自分の土地を寄付をしてくださったある教会員の方は、祈りが足りない。もっと祈らなければならない、よく言われていたそうです。それはつまり、神さまにより頼んでいるか、ということでしょう。自分は何によって生きているのか、生きようとしているのか、自分の持っているものに依り頼んで生きるのか、それとも父なる神様の恵みに信頼し、神さまにこそ依り頼んで生きるのか、そのことを常に繰り返し、自らに問いつつ、神さまに前にこそ豊かな歩み、そしてそれは振り返れば自分自身にとって確かに豊かな歩みとなる歩みを、なしていくものとなっていきたいと願います。

 祈りましょう。
 天の父なる神さま、人は何によって生きるか、わたしたちは、自分自身の能力、体力、経済力などにつねに心をとらわれ、そのことを気にし、人とくらべて一喜一憂しながら日々生きているまことにあなたの言われる貪欲にとらわれたものでありました。しかし、あなたは今日御言葉によってわたしたちを照らし、イエス・キリストを通して、あなたがわたしたちをこの肉体の命を超えて守り導いてくださっている方であることに目覚めることができましたことを感謝いたします。その恵みその喜びに生かされて、この世にあってそれぞれに与えられた賜物を惜しみなく隣人に分け与えていくものとなれますように、あなたの前に豊かなものとなれますように、わたしたちを聖霊で満たし守り導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第3主日礼拝 

2017年6月18日(日)ルカ12章8-12節
「差し伸べられたみ手を」三ツ本武仁牧師

 本日の聖書箇所はルカによる福音書の12章の8節から12節であります。そこで、その最初の8節、9節を見ますと、次のようなイエスさまのお言葉が語られています。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」
 
 ここで「だれでも人々の前で、自分をわたしの仲間であると言い表す」とありますこの「言い表す」という言葉は、もともとは「同じ言葉を語る」という意味の言葉です。つまり、イエスさまと同じ言葉を語る、ということです。そして、この「同じ言葉を語る」という言葉は、「言い表す」と訳されるほかに、「告白する」という意味でも、聖書で用いられています。

 つまり、イエスさまを自分の仲間であると人々の前で言い表す、というのは、イエス・キリストと同じ言葉を語る、ということであり、そしてそれは、イエス・キリストへの信仰を告白する、ということなのです。

 日本では「告白」といいますと、誰か好きな人に、自分のその思いを告白する、というようなとき、若者は「こくる」というそうですけれども、そういう場合や、何か人には隠してきた秘密を打ち明ける、という場合に告白する、というように使われているのではないでしょうか。しかし、わたしたちが、イエス・キリストへの信仰を告白する、信仰告白をする、というのは、そういうこととは全く違うのです。そうではなくて、信仰を告白するというのは、代々の教会が信じ、言い表してきた同じ信仰の言葉を、イエス・キリストご自身にまでさかのぼる、イエス・キリストを信じる言葉としてうけつぎ、その同じ信仰に生きていく、ということです。日本基督教団信仰告白を毎回礼拝でわたしたちは告白しているわけですけれども、その信仰告白は、そういう意味で大切なものなのです。

 そのようにして、人々の前で、イエス・キリストへの信仰を告白し、イエスさまの仲間である、弟子であると言い表す。それならば「人の子も天使たちの前で、その人の仲間であると言い表す」と言われています。「人の子」というのはイエス様ご自身のことです。私たちがイエス・キリストへの信仰を人々の前で告白するならば、イエスさまご自身が天で、私たちのことを、これは自分と同じ言葉を語る者、わたしの仲間、わたしの友であると言い表してくださる、というのです。しかし、もしも私たちが、人々の前でイエスさまなど「知らない」というのであれば、つまり、イエスさまとの関係を否定し、拒むなら、イエスさまもわたしたちのことを、「知らない」と言われる、というのです。

 ここで語られていますことを考えますときに、その一つのポイントは、「人々の前で」イエス・キリストとの関係をどう言い表すか、ということだといえるでしょう。心の中で信じているだけというのはダメではありませんけれども、しかしそれでは不十分だということです。信仰は、心の中に隠し持っているだけでは本物にはならない、それを人々の前で言い表す。使徒パウロはローマの信徒への手紙の10章10節でつぎのように語っています。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」・・・心で信じた、その信仰を口で言い表す、そこに救いが与えられるのです。洗礼を受ける、教会の礼拝の中で、人々の前で、洗礼式にあずかる、ということの意味の一つもそこにあります。私たちが洗礼を受ける、というのは、人々の前に、自分をイエスさまの仲間、イエス・キリストを信じる者であると言い表すことなのです。そのようなわたしたちに対して、イエスさまも、この人は私の仲間、友、わたしと共に生きている者だと宣言してくださるのです。

 ちなみに聖餐式というのは、この信仰の告白があって、はじめて意味をもつ儀式です。イエス・キリストが聖餐においてそこに霊的に本当に臨んでくださり、わたしたちを力づけてくださる、その恵みの体験は、ひとえに信仰の告白があってはじめて与えられるものなのです。洗礼はその信仰告白のはっきりとしたしるしです。イエスさまが命じられたしるしです。ですから、聖餐式のまことの恵みにあずかりたいと願う人はぜひ洗礼を受けていただきたいのです。

 さて、つづく10節には「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」とあります。これはちょっと戸惑う、謎のような言葉ですけれども。ただ一つはっきりしていますことは、こういうことをしたら赦されるが、こういうことをしたら赦されない、という、赦されるか赦されないかの、重要な境目について語られている、ということでしょう。場合によっては赦されない罪がある、というのです。それは聖霊を冒涜することだ、と言うのです。しかし、いったいどういうことをしたら聖霊を冒涜することになるのか、それがここを読んだだけでは、ちょっとよく分からないものですから、ここを読んで不安になられた方もおられるのではないかとおもいます。もしかしたら、自分はすでに聖霊を冒涜するようなことをしてしまっているのではないか、そのように心配になるところであります。

 そこで、このあとの11節、12節を見ますと、こうあります。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたとき、言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」このことばは、わたしたちが、信仰ゆえの迫害をうけ、逮捕され、裁判を受けるという、そういう厳しい状況を念頭において語られています。そういう厳しい状況の中で、人々の前で何を語ればいいか、それは、言うべきことは聖霊が教えてくださる、とイエスさまは言われるのです。

 つまり、10節でいう「聖霊を冒涜する」というのは、信仰の迫害という厳しい状況の中で、何を語るか、そのことは聖霊が教えてくださるのに、それに逆らって、ありいは、聖霊を求めることをせずに、語るべきことを語らないこと、とそういうふうに受け止めることができるのではないでしょうか。

 そうかー、ではいまわたしは迫害のようなむかしのクリスチャンたちが経験したような厳しい状況ではないから、あの遠藤周作の小説『沈黙』のような、ことは今の日本にはないから、そのような心配は、わたしたちはしなくていいのかな、ふとそんなふうにも思ってしまします。でも、はたして、そう言い切れるか、ということであります。

 6月5日の朝刊に岐阜県にすむ76歳のある牧師が、「聖書の教えも監視対象だった」という題名で、次のような投稿を寄せていました。「聖書の教えも監視対象だった 「共謀罪」法案を考えるとき、35年ほど前に盛岡で出会った先輩牧師と、アメリカ人宣教師夫妻の話しを思い出します。先輩牧師はいつも特高警察のことを口にしていました。礼拝中にもやってきて教会員を監視。特に説教の内容は詳細に調べてメモをとったそうです。キリスト教関連の書籍は没収され、戻ってきませんでした。聖書の教えさえも思想調査の対象だったのです。宣教師夫妻は1941年末の早朝、自宅に踏み込んできた6人の警官にスパイ容疑で引き立てられました。夫の宣教師は165日間刑務所に。日本での布教計画を記した論文がやり玉に挙げられたのです。準備段階の行為や思考でさえも処罰対象とする「共謀罪」法案は、治安維持法と何ら変わりありません。信教・思想の自由を狙い撃ちし、人権を根底から破壊する恐ろしい法案です。監視や言論統制におびえる社会が必ずや出現します。・・・

 そのようにありました、そういうことが心配されている法案がまさに、先週国会で可決成立したばかりであるわけですけれども、そういうことが今や現実としてある、ということ、そしてまた、そのような、目に見える迫害ということではなくても、無宗教という宗教が蔓延している、いまの日本で、クリスチャンである、ということは、やはりある種の迫害といいますか、無理解や偏見の目にさらされることがあるということは、日々の生活の中で、わたしたちが肌身に感じていることではないでしょうか。そのようなかで、わたしたちが、聖書のいうように、聖霊を冒涜してしまう、聖霊に逆らって、聖霊を求めずに、語るべきことを語らないようなことになってしまう、そういうことは決してないといえるだろうか、むしろ十分にそういうことはあるのではないでしょうか・・・・・・いざというとき信仰をあいまいにし、人々の前で信仰を語ることをためらってしまう、それがわたしたちの多くの正直な現実ではないでしょうか。なかには、そうではない、しっかりと堂々と信仰を証して生きておられる方もあるかもしれませんが、そうでない人のほうが多いのでないか。しかし、では、その場合、人々の前でしっかりと信仰を証できなかった人々は、聖霊を冒涜したということで、赦されない罪を犯してしまった、ということになるのでしょうか。

 この問題を考えますときに、わたしたちはイエスさまの一番弟子であったペトロのことを思い起こしたいと思うのです。ぺトロは、イエスさまが逮捕され、大祭司による裁きを受けている時に、その中庭に入ってそっと成り行きをうかがっていました。その時、周りの人から「あなたもあのイエスの仲間だろう」と言われて、三度「そんな人は知らない」と言ったのです。まさに、人々の前でわたしを知らないという者、になってしまったのです。イエスさまを否定する言葉を語ってしまったのです。

 先ほど申しましたことからすれば、もう彼はイエス・キリストの救いにあずかることはできない、というのが当然の道理であります。しかし、ペトロは、イエスさまのご復活ののち、再び弟子として、信仰者として、歩み出すことができました。そして最初の教会の指導者の重要な一人となっていったのです。それは彼が、イエスさまは人々の前で知らないと言った罪をゆるされた、ということです。彼はどのようにしてゆるされ、あたらしくされたのでしょうか。それはひとえに、復活なさったイエスさまが彼に出会ってくださり、語りかけてくださり、招いて下さったことによるのです。イエスさまは「あなたが私のことを『知らない』と言ったその罪を、私はすべて背負って十字架にかかって死んだ。そのことによってあなたの罪はゆるされている。あなたはわたしとの絆を否定したけれども、わたしは十字架の死と復活によって、そのことを乗り越え、あなたとの絆をもう一度結び直したいのだ、」そういって、彼に手をさしのべてくださったのです。そこでペトロはそのイエスさまの手を自分からも握り返した・・・。そのことによって、彼の罪はゆるされ、イエス・キリストを信じ従う者として新しく生き始めることができたのです。

 私たちはこのペトロの姿から「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」というみ言葉の意味を知ることができます。私たちはぺトロのように、イエスさまを知らないと様々なかたちで言ってしまうことがあるのです。神さまの愛を疑い、イエスさまとの絆を軽んじ、否定するようなことを言ったり、したり、してしまいます。しかし、そのような罪人であり、赦されない、滅びるしかない私たちのために、その私たちの罪をすべて背負って、イエス様は十字架にかかり、死んでくださり、私たちの罪を赦してくださっているのです。イエス・キリストへの信仰はふしぎであります。イエス・キリストへの信仰とは、イエス・キリストなんてもう信じない、と言ったものをもゆるし救ってくださるイエス・キリストを信じる信仰なのです。

 聖霊なる神は、今私たち一人ひとりに働いて、このイエスさまによる罪の赦しの恵みを示し、与えようとして下さっています。イエスさまが聖霊のお働きによって、私たちに、手を差し伸べて下さっているのです。私たちが、その救いのみ手を、自分からも手をのばして握り返すならば、私たちのすべての罪は赦されます。どんなに人の子の悪口を言ったとしても、イエスさまを否定するようなことを言ったとしても赦されるのです。ですから、聖霊を冒涜するとは、さらにいえば、おぼれているこの私のために、イエスさまの差し伸べてくださったみ手を、振り払うことです。さきほど遠藤周作の『沈黙』について少し触れましたけれども、最近話題になったその映画では、激しい迫害の中、キリスト教を捨てることを強いられた宣教師のロドリゴは、人々を救うために、キリスト教を捨てる。けれども、それから40年が過ぎて、彼が死の時を迎え、仏式で火葬されていく、その中で彼の手にはしっかりと十字架がにぎられていたのでした。それこそは、信仰を捨てる者にも手を差し伸べてくださるイエスさまのみ手を握り返すということであった、と思うのです。

 わたしたちはこの礼拝において聖霊のお働きを受け、イエス・キリストによる赦しの恵み、救いにあずかり、そこから、それぞれの生活へと、人々の前へと、遣わされていきます。そこで、人々の前で、どのような言葉を語るか、自分をイエスの仲間、友、イエス・キリストを信じる者だとはっきり言い表す言葉を語ることができるか、が問われています。それが私たち信仰者の日々の課題です。それはしかし重い課題であります。けれども、そこで「何をどう言い訳しようか、何を言おうかと心配し」なくていいのです。「いうべきことは聖霊がそのときに教えてくださる」とイエスさまは言われるのです。求めれば、聖霊が、私たちに信仰の言葉を与えてくださるのです。求めなさい、そうすれば与えられる、イエスさまのお言葉を信じて、聖霊を求めて、日々歩んでいく、転んでもまた聖霊を求めていく、イエスさまのさしのべてくださったみ手を、にぎり返していく。そこに教会の道は、これまでも開かれてきたし、これからも、開かれていくのです。そのような歩みができるように、イエスさまのさしのべてくださるみ手を、今日もにぎりかえすことができますように、祈りを合わせたいとおもいます。祈りましょう。

 主なる神さま、わたしたちはいま、御子イエスのお言葉を信じ、あなたに聖霊を求めます。聖霊なる神が、わたしたちを満たしてくださり、信仰の言葉を与えてくださいますようにと願います。日本は、あなたを信じる者にとって、昔もいまも必ずしも住み良い国だとは言えません。しかし、そもそも教会は、この世にではなく、あなたに属するものであるがゆえに、その最初から、この地上のどこにあっても、試練と苦難の中にあることを覚えるものです、しかしその中にあって、あのペトロにはじまる信仰の諸先輩方が、繰り返し、あなたの差し伸べてくださったみ手を握り返して、信仰の道を歩みなおしていきましたように、そしてそこに教会の道が開かれていきましたように、わたしたちも、ころんでも、たおれても、そこにさしのべてくださるあなたのみ手を、しっかりと握り返しつつ、歩んでいくものとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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聖霊降臨節第2主日礼拝 

2017年6月11日(日)ルカ12章1-7節
「主を畏れることは知恵のはじめ」三ツ本武仁牧師

 先週のペンテコステ、聖霊降臨日を経て、本日から再びルカ福音書を読みすすめていきます。今日はその12章からでありますけれども、1節の始めには「とかくするうちに」とあります。この前の11章の37節以下のところには、イエスさまがファリサイ派の人から食事の招待を受けたときの出来事について語られていました。イエスさまはそこでファリサイ派の人々と律法学者たちに厳しい批判を語られたのです。その結果、11章の最後53節54節にありますように、彼らはイエスさまに対して激しい敵意を抱くようになりました。「とかくするうちに」というのは、そのような状況になっていく中で、ということであります。

 そのような中で、しかしまた多くの群衆がイエスさまのところに集まってきました。イエスさまへの敵意が大きくなっていく一方で、イエスさまへの関心も高まっていったのです。わたしたちもこの世を生きていく中で、自分の考えや意見が、反対されたり、興味を持たれたり、ということを経験することがあります。そこで私たちは、やはり反対されるよりは、興味を持ってもらっているほうがよい、とも正直にいえば思うわけですけれども、しかし、この両方は、全く違うようでいて、根本的には同じものです、つまりどちらも世間の目です。今日のところでイエスさまは、そのような冷たかったり、興味本位だったりすり世間の目にさらされています。そのような中で、イエスさまは今日語っていかれるわけですけれども、しかし、イエスさまが直接お話しになったのは、そのような世間の人々に向けてではありませんでした。イエスさまが今日第一に心を向けておられるのは弟子たちであります。弟子たち、つまりイエスさまの従っていこうとする者たちに、イエスさまは今日お話しになったのです。

 そこでまずイエスさまが弟子たちに向かって語られたのは「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言うことでした。「パン種」というのは、パンを焼くときに入れるイースト菌のことです。それはごく少量でも、それが入ると、パンの生地全体に影響を及ぼし、全体を発酵させ、膨らませて、パンをつくるわけです。イエスさまはパン種など使ったらダメだと云われているのではもちろんありません。ファリサイ派の間違った教えが、どれほど人々に悪い影響を与えているか、救われるべき人を、かえってつまずかせてしまっているか、そのことにたとえて、そのように言っておられるわけです。

 そのファリサイ派のパン種とは偽善である、とイエスさまは続けられます。ファリサイ派の問題は偽善にある、というのです。偽善というのは、見せかけの善ということです。11章の37節以下でイエスさまがファサイ派について語られたことは、ファリサイ派というのは人々にいわば聖書の言葉、神さまの教えを、伝える立場にあったわけですけれども、それがかたちだけで、中身のない、見せかけの教えになってしまっている、彼らは正義の実行と神さまへの愛をおろそかにしている、とイエスさまは言われました。神さまとの間に愛の交わりがあって、はじめて、聖書の教えは生きた教えになるのです。正義の実行も、神さまがこんな自分を愛してくださっている、というその応答として喜んでなされていくものであるわけです。でも神さまの愛を感じていない、そのような者が聖書の教えを人にとく、というのはそもそも無理があるわけです。ですから、その意味でこの問題は、ファリサイ派の人々だけの問題ではなくて、神さまとの関係が壊れてしまっている人間全ての問題です。神さま中心ではなく、自分中心になってしまっているわたしたち全ての問題なのです。じっさい牧師はまさにこうして聖書の言葉を教えるということをしているわけですから、誰よりも肝に銘じてこのところ読まなければいけないのですけれども、ともすると、わたしたちはそのような偽善に陥ってしまうのです。
 
 それをどんなに隠して、かたちだけ繕ってみせても、みんな神さまにはバレていますよ、神さまの目には誤魔化せませんよ、そう言っておられるのが、3節であります。「だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」神さまの目には、神さまの耳にはすべてが見られ、聞かれているんですよ、というのです。
 けれども、前回も申しましたように、イエスさまがそのようなことを指摘されるのは、そのようなわたしたちを裁くためではなくて、そのところから救ってくださるためです。そのことを弟子たちに伝えるために、いまここでイエスさまは語られているのです。

では、イエスさまは、どのようしてわたしたちをそのような偽善に陥ることから救ってくださるのでしょうか。今日のところの4節以下で、イエスさまは次のように弟子たちに語られました。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」・・・なぜ、わたしたちは偽善に陥ってしまうのか、神さまへの愛がないからだ、とさきほど申しましたけれども、神さまへの愛がないとき、同時にわたしたちがしていること、それはここでイエスさまのこの言葉によれば、「わたしたちの体を殺すことはできても、それ以上は何も私たちにできないような者を」恐れているとき、なのです。つまりこれは何を云われているか、というと、人間を恐れている、世間の目を恐れている、ということです。最初に申しましたように、このことをイエスさまが弟子たちに語られているとき、その背後には、ファリサイ派や律法学者たちのイエスさまへの敵意が大きくそびえ立っていました。また好奇の世間の目が輝いていました。そのような世間の視線に弟子たちがいままさに圧倒され、その現実を怯えていることをイエスさまはよく知っておられたのです。

 しかしそこでイエスさまは続けられるのです。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ、言っておくが、この方を恐れなさい。」・・・私たちがほんとうに恐れるべき相手は人間ではない、世間ではない、神さまだ、と言われるのです。その神さまは「わたしたちを殺した後で、わたしたちを地獄に投げ込む権威を持っている方」だと言われるのです。なんだか今日は、怖い話になってきました。地獄絵図を見るような恐ろしい思いがするわけですけれども、しかし、ここでイエスさまが語っておられることの中心にあるのは、人間の命を、ほんとうに支配しているのは人間ではない、神さまだ、ということです。神さまこそが、私たちの命を、私たちの肉体の命が終わる死においても、そしてその死の後でも、支配し、導いておられる、そのことにイエスさまは、私たちの目を向けさせようとしておられるのです。

 イエスさまは、私たちの信頼すべきお方は誰か、私たちの愛すべきお方は誰か、というふうにはここでは問われませんでした。本当に恐れるべきお方は誰か、という言い方をなされました。なぜでしょうか。それはさきほども申しましたように、このとき弟子たちがまさに恐れに囲まれていたからです。そして、それはこのときの弟子たちだけの問題なのだろうか、ということです。イエスさまは本当にとことん私たちによりそってくださる方です。わたしたちもまた多くの恐れに取り囲まれて生活しているのです。人生のいろいろな苦しみ悲しみ悩みがわたしたちにはあるのです。それが私たちを日々恐れさせています。そのような苦しみや悲しみがもたらす恐れによって、自分が壊れてしまうのではないか、ということを私たちも経験しているのです。

 しかしまたそのような中で、いくら周りから「恐れることなんかない」と言われても、無理であります。また一生懸命自分にそう言い聞かせても、それで恐れがなくなるか、というと、それはなかなか難しいのであります。
 恐れからの解放というのは、そのような恐れのある現実から目をそらすところに与えられるのではないからです。そうではなく、むしろ、わたしたちが本当に恐れるべき方がほかにおられる、ということを知るといいますか、体験する、そのところにこそ、与えられるのだ、とイエスさまは言われるのです。天の父なる神さまこそ私たちが本当に恐れるべき方だとイエスさまは言われるのです。しかし、ではそれはどのような恐れなのでしょうか。

 あなたがたが死んだ後、あなたがたを地獄に投げ込む権威を持っておられる方だと、イエスさまは言われました。まさに恐ろしい権威を神さまは持っておられるのです。陶器職人が自分のこの陶器は失敗作だと言って火に投げ込む、それは陶器職人の自由であります。神さまがわたしたちをつくられたのですから、確かに神さまにはそのようにわたしたちを投げ捨てることも自由なのです。そういう権威、自由が神さまにはある。でも、イエスさまがここで伝えたいことは、そういうことではないのです。神さまがそういう厳しい恐ろしいことをされる、ということでありません、そうではなく、むしろ、そのような権威のある方でありながらも、じっさいは、そのようなことはなさらない、わたしたちが、どんなに欠けた器であろうとも、その一つ一つの意味を知っていてくださり、大切にしてくださり、その欠けた器一つ一つに、ご自分の恵みを豊かに注いでくださる方なのです。欠けがあるなら、その恵みはこぼれてしまうではないか、わたしたちは思います。しかし、そうじゃないのです、神さまの恵みは、尽きることがない恵みです、むしろその欠けから、神さまの愛が、恵みが、周りに溢れ出て、周りにその恵みを分け与えることができるのです。

 「5羽のすずめが二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽でさえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは雀よりもはるかにまさっている」イエスさまは今日のところの最後でそのように語ってくださいました。
 わたしたちが神さまを恐れるのは、確かに、神さまがわたしたちを地獄に投げ込むこともできる、そういう意味で確かに恐ろしい方であるけれども、イエスさまのおっしゃりたいことの中心は、そのようなところにあるのではなくて、むしろ、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えておられる、それほどに、あなたがたのことを、大切に思ってくださっている、その神さまを恐れなさい、そうすれば、もう何も恐れることはないのだ、ということなのです。

 ですからそのような恐れは、恐怖するという意味での恐れというよりも、恐れ敬う、という、畏敬の念を覚える、という意味での畏れである、ということがいえるかと思います。漢字で書くと、全く違う漢字になります。今日の説教題は「主を畏れることは知恵のはじめ」と題させていただきましたけれども、この説教題に使いました「畏れ」、畏敬の念という意味での畏れを神さまに対して抱くこと、それこそが、わたしたちをあらゆるこの世の恐れから自由にしてくれるのです。

 では、どうすれば、わたしたちは、そのような方として神さまを知ることができるでしょうか、どうすれば、わたしたちをすずめにまさって愛してくださり、わたしたちの髪の毛一本すらも大切に思ってくださっている方として神さまを知ることができるのでしょうか。
 実にそのためにイエスさまは来てくださったのです。イエスさまは神の子でありながら、わたしたちと同じ人の姿となり、わたしたちと同じこの限りある肉体をまとわれ、その痛み、その苦しみ、その悲しみ、世間の冷たい風たりの全てを味わってくださいました。罪もないのに、十字架の死という、人間が一番さらされたくないものに、ご自分がさらされることを引き受けてくださり、自分の問題で死刑になるような者の、その同じドン底まで来てくださったのです。そして、そのようなイエスさまに心を開いた死刑囚に、永遠の命を約束してくださったのです。つまり、イエス・キリストは、わたしたちがこの世で恐れている、その恐れの全てを、味わい、その恐れにわたしたちと同じように、苦しんでくださる、そういうかたちで、わたしたちと本当に共にいてくださる神となってくださったのです。インマヌエル、神われと共にいます、というのは、主がわたしたちと恐れを共にしてくださる、ということです。

 そのイエスさまに目が開かれたとき、まさに、いまわたしたちが恐れているこの世のあのことこのことを、そんなもの大丈夫だと突き放すのではなくて、その恐れを共に引き受けて、十字架の道を歩んでくださっているイエスさまに目が開かれたとき、わたしたちは、主イエス・キリストという神さまを本当に畏れる、畏怖するものとされるのです、これこそ、わたしたちをこの世の様々な恐れから解き放ってくださるのであります。・・・先週、ペンテコステの記念写真をもって、施設におられるある姉妹をお訪ねしました。姉妹は訪問を喜んでくださり、写真を懐かしそうに眺めておられました。しばらく、そうやって嬉しそうにされていましたが、ふと思い出したように言われたのです。先生、最近、となりに座った人が、わたしのことを、ぼけてる、ぼけてる、と何度もしつこく言うので、つい頭にきて、ぼけてなんかいません、と強く言い返したんです。そうやって、つらかったことをうち明けてくださいました、それで、二人で、そのことを神さまにお祈りいたしました。そうしましたら、またしばらくして姉妹は言われたのです。あまりしつこくぼけてる、ぼけてる、言われるからついかっとなって怒ってしまったけれども、ちょっとつよく言い過ぎたかもしれません、ほんとうに少しぼけているのかもしれませんね。こうして先生とお話しをできたらすっと楽になりました。そう言ってまた笑顔になられました。・・・ぼけてる、と言われた、その言葉は、姉妹にとって腹が立つことであったとともに、それが本当だったら、と思うと怖かったんだと思うのです。その現実が恐ろしかったのだと思います、でも、姉妹は、牧師とともに神さまに祈るなかで、きっと本当に恐れるべきかた、わたしたちをとことん愛し、わたしたちを命にかえても守り導いてくださるイエス・キリストを心にお迎えすることができたのだと思うのです。わたしたちもみな油断すればすぐに恐れにとりつかれていきます。しかし、その中で、この姉妹のように、イエス・キリストをこそ恐れ敬う信仰を抱き続けることができるように、聖霊を求め、祈りを合わせたいと思います。

 主なる神さま、あなたは、この世の様々なことを恐れ苦しんでいるわたしたちの、その恐れを本当に知っていてくださり、そのようなわたしたちを憐れんでくださって、御子イエスをこの世に送ってくださいました。御子が神の身分でありながら、その全てをわたしたちのために捨ててくださり、わたしたちの恐れを共に味わい、その重荷を共に背負って歩んでくださっている、その姿にどうか目が開かれますように、そして、あなたに対するまことの恐れ、畏敬の念、畏怖の心をもつものとならせてください。あなたを畏れるその中で、この世のすべての恐れからわたしたちが解き放たれ、最後まであなたの道を歩んでいくことができますように。主のみなによっていのります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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