06«1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.»08

キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

聖霊降臨節第2主日礼拝 

2017年6月11日(日)ルカ12章1-7節
「主を畏れることは知恵のはじめ」三ツ本武仁牧師

 先週のペンテコステ、聖霊降臨日を経て、本日から再びルカ福音書を読みすすめていきます。今日はその12章からでありますけれども、1節の始めには「とかくするうちに」とあります。この前の11章の37節以下のところには、イエスさまがファリサイ派の人から食事の招待を受けたときの出来事について語られていました。イエスさまはそこでファリサイ派の人々と律法学者たちに厳しい批判を語られたのです。その結果、11章の最後53節54節にありますように、彼らはイエスさまに対して激しい敵意を抱くようになりました。「とかくするうちに」というのは、そのような状況になっていく中で、ということであります。

 そのような中で、しかしまた多くの群衆がイエスさまのところに集まってきました。イエスさまへの敵意が大きくなっていく一方で、イエスさまへの関心も高まっていったのです。わたしたちもこの世を生きていく中で、自分の考えや意見が、反対されたり、興味を持たれたり、ということを経験することがあります。そこで私たちは、やはり反対されるよりは、興味を持ってもらっているほうがよい、とも正直にいえば思うわけですけれども、しかし、この両方は、全く違うようでいて、根本的には同じものです、つまりどちらも世間の目です。今日のところでイエスさまは、そのような冷たかったり、興味本位だったりすり世間の目にさらされています。そのような中で、イエスさまは今日語っていかれるわけですけれども、しかし、イエスさまが直接お話しになったのは、そのような世間の人々に向けてではありませんでした。イエスさまが今日第一に心を向けておられるのは弟子たちであります。弟子たち、つまりイエスさまの従っていこうとする者たちに、イエスさまは今日お話しになったのです。

 そこでまずイエスさまが弟子たちに向かって語られたのは「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言うことでした。「パン種」というのは、パンを焼くときに入れるイースト菌のことです。それはごく少量でも、それが入ると、パンの生地全体に影響を及ぼし、全体を発酵させ、膨らませて、パンをつくるわけです。イエスさまはパン種など使ったらダメだと云われているのではもちろんありません。ファリサイ派の間違った教えが、どれほど人々に悪い影響を与えているか、救われるべき人を、かえってつまずかせてしまっているか、そのことにたとえて、そのように言っておられるわけです。

 そのファリサイ派のパン種とは偽善である、とイエスさまは続けられます。ファリサイ派の問題は偽善にある、というのです。偽善というのは、見せかけの善ということです。11章の37節以下でイエスさまがファサイ派について語られたことは、ファリサイ派というのは人々にいわば聖書の言葉、神さまの教えを、伝える立場にあったわけですけれども、それがかたちだけで、中身のない、見せかけの教えになってしまっている、彼らは正義の実行と神さまへの愛をおろそかにしている、とイエスさまは言われました。神さまとの間に愛の交わりがあって、はじめて、聖書の教えは生きた教えになるのです。正義の実行も、神さまがこんな自分を愛してくださっている、というその応答として喜んでなされていくものであるわけです。でも神さまの愛を感じていない、そのような者が聖書の教えを人にとく、というのはそもそも無理があるわけです。ですから、その意味でこの問題は、ファリサイ派の人々だけの問題ではなくて、神さまとの関係が壊れてしまっている人間全ての問題です。神さま中心ではなく、自分中心になってしまっているわたしたち全ての問題なのです。じっさい牧師はまさにこうして聖書の言葉を教えるということをしているわけですから、誰よりも肝に銘じてこのところ読まなければいけないのですけれども、ともすると、わたしたちはそのような偽善に陥ってしまうのです。
 
 それをどんなに隠して、かたちだけ繕ってみせても、みんな神さまにはバレていますよ、神さまの目には誤魔化せませんよ、そう言っておられるのが、3節であります。「だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」神さまの目には、神さまの耳にはすべてが見られ、聞かれているんですよ、というのです。
 けれども、前回も申しましたように、イエスさまがそのようなことを指摘されるのは、そのようなわたしたちを裁くためではなくて、そのところから救ってくださるためです。そのことを弟子たちに伝えるために、いまここでイエスさまは語られているのです。

では、イエスさまは、どのようしてわたしたちをそのような偽善に陥ることから救ってくださるのでしょうか。今日のところの4節以下で、イエスさまは次のように弟子たちに語られました。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」・・・なぜ、わたしたちは偽善に陥ってしまうのか、神さまへの愛がないからだ、とさきほど申しましたけれども、神さまへの愛がないとき、同時にわたしたちがしていること、それはここでイエスさまのこの言葉によれば、「わたしたちの体を殺すことはできても、それ以上は何も私たちにできないような者を」恐れているとき、なのです。つまりこれは何を云われているか、というと、人間を恐れている、世間の目を恐れている、ということです。最初に申しましたように、このことをイエスさまが弟子たちに語られているとき、その背後には、ファリサイ派や律法学者たちのイエスさまへの敵意が大きくそびえ立っていました。また好奇の世間の目が輝いていました。そのような世間の視線に弟子たちがいままさに圧倒され、その現実を怯えていることをイエスさまはよく知っておられたのです。

 しかしそこでイエスさまは続けられるのです。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ、言っておくが、この方を恐れなさい。」・・・私たちがほんとうに恐れるべき相手は人間ではない、世間ではない、神さまだ、と言われるのです。その神さまは「わたしたちを殺した後で、わたしたちを地獄に投げ込む権威を持っている方」だと言われるのです。なんだか今日は、怖い話になってきました。地獄絵図を見るような恐ろしい思いがするわけですけれども、しかし、ここでイエスさまが語っておられることの中心にあるのは、人間の命を、ほんとうに支配しているのは人間ではない、神さまだ、ということです。神さまこそが、私たちの命を、私たちの肉体の命が終わる死においても、そしてその死の後でも、支配し、導いておられる、そのことにイエスさまは、私たちの目を向けさせようとしておられるのです。

 イエスさまは、私たちの信頼すべきお方は誰か、私たちの愛すべきお方は誰か、というふうにはここでは問われませんでした。本当に恐れるべきお方は誰か、という言い方をなされました。なぜでしょうか。それはさきほども申しましたように、このとき弟子たちがまさに恐れに囲まれていたからです。そして、それはこのときの弟子たちだけの問題なのだろうか、ということです。イエスさまは本当にとことん私たちによりそってくださる方です。わたしたちもまた多くの恐れに取り囲まれて生活しているのです。人生のいろいろな苦しみ悲しみ悩みがわたしたちにはあるのです。それが私たちを日々恐れさせています。そのような苦しみや悲しみがもたらす恐れによって、自分が壊れてしまうのではないか、ということを私たちも経験しているのです。

 しかしまたそのような中で、いくら周りから「恐れることなんかない」と言われても、無理であります。また一生懸命自分にそう言い聞かせても、それで恐れがなくなるか、というと、それはなかなか難しいのであります。
 恐れからの解放というのは、そのような恐れのある現実から目をそらすところに与えられるのではないからです。そうではなく、むしろ、わたしたちが本当に恐れるべき方がほかにおられる、ということを知るといいますか、体験する、そのところにこそ、与えられるのだ、とイエスさまは言われるのです。天の父なる神さまこそ私たちが本当に恐れるべき方だとイエスさまは言われるのです。しかし、ではそれはどのような恐れなのでしょうか。

 あなたがたが死んだ後、あなたがたを地獄に投げ込む権威を持っておられる方だと、イエスさまは言われました。まさに恐ろしい権威を神さまは持っておられるのです。陶器職人が自分のこの陶器は失敗作だと言って火に投げ込む、それは陶器職人の自由であります。神さまがわたしたちをつくられたのですから、確かに神さまにはそのようにわたしたちを投げ捨てることも自由なのです。そういう権威、自由が神さまにはある。でも、イエスさまがここで伝えたいことは、そういうことではないのです。神さまがそういう厳しい恐ろしいことをされる、ということでありません、そうではなく、むしろ、そのような権威のある方でありながらも、じっさいは、そのようなことはなさらない、わたしたちが、どんなに欠けた器であろうとも、その一つ一つの意味を知っていてくださり、大切にしてくださり、その欠けた器一つ一つに、ご自分の恵みを豊かに注いでくださる方なのです。欠けがあるなら、その恵みはこぼれてしまうではないか、わたしたちは思います。しかし、そうじゃないのです、神さまの恵みは、尽きることがない恵みです、むしろその欠けから、神さまの愛が、恵みが、周りに溢れ出て、周りにその恵みを分け与えることができるのです。

 「5羽のすずめが二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽でさえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは雀よりもはるかにまさっている」イエスさまは今日のところの最後でそのように語ってくださいました。
 わたしたちが神さまを恐れるのは、確かに、神さまがわたしたちを地獄に投げ込むこともできる、そういう意味で確かに恐ろしい方であるけれども、イエスさまのおっしゃりたいことの中心は、そのようなところにあるのではなくて、むしろ、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えておられる、それほどに、あなたがたのことを、大切に思ってくださっている、その神さまを恐れなさい、そうすれば、もう何も恐れることはないのだ、ということなのです。

 ですからそのような恐れは、恐怖するという意味での恐れというよりも、恐れ敬う、という、畏敬の念を覚える、という意味での畏れである、ということがいえるかと思います。漢字で書くと、全く違う漢字になります。今日の説教題は「主を畏れることは知恵のはじめ」と題させていただきましたけれども、この説教題に使いました「畏れ」、畏敬の念という意味での畏れを神さまに対して抱くこと、それこそが、わたしたちをあらゆるこの世の恐れから自由にしてくれるのです。

 では、どうすれば、わたしたちは、そのような方として神さまを知ることができるでしょうか、どうすれば、わたしたちをすずめにまさって愛してくださり、わたしたちの髪の毛一本すらも大切に思ってくださっている方として神さまを知ることができるのでしょうか。
 実にそのためにイエスさまは来てくださったのです。イエスさまは神の子でありながら、わたしたちと同じ人の姿となり、わたしたちと同じこの限りある肉体をまとわれ、その痛み、その苦しみ、その悲しみ、世間の冷たい風たりの全てを味わってくださいました。罪もないのに、十字架の死という、人間が一番さらされたくないものに、ご自分がさらされることを引き受けてくださり、自分の問題で死刑になるような者の、その同じドン底まで来てくださったのです。そして、そのようなイエスさまに心を開いた死刑囚に、永遠の命を約束してくださったのです。つまり、イエス・キリストは、わたしたちがこの世で恐れている、その恐れの全てを、味わい、その恐れにわたしたちと同じように、苦しんでくださる、そういうかたちで、わたしたちと本当に共にいてくださる神となってくださったのです。インマヌエル、神われと共にいます、というのは、主がわたしたちと恐れを共にしてくださる、ということです。

 そのイエスさまに目が開かれたとき、まさに、いまわたしたちが恐れているこの世のあのことこのことを、そんなもの大丈夫だと突き放すのではなくて、その恐れを共に引き受けて、十字架の道を歩んでくださっているイエスさまに目が開かれたとき、わたしたちは、主イエス・キリストという神さまを本当に畏れる、畏怖するものとされるのです、これこそ、わたしたちをこの世の様々な恐れから解き放ってくださるのであります。・・・先週、ペンテコステの記念写真をもって、施設におられるある姉妹をお訪ねしました。姉妹は訪問を喜んでくださり、写真を懐かしそうに眺めておられました。しばらく、そうやって嬉しそうにされていましたが、ふと思い出したように言われたのです。先生、最近、となりに座った人が、わたしのことを、ぼけてる、ぼけてる、と何度もしつこく言うので、つい頭にきて、ぼけてなんかいません、と強く言い返したんです。そうやって、つらかったことをうち明けてくださいました、それで、二人で、そのことを神さまにお祈りいたしました。そうしましたら、またしばらくして姉妹は言われたのです。あまりしつこくぼけてる、ぼけてる、言われるからついかっとなって怒ってしまったけれども、ちょっとつよく言い過ぎたかもしれません、ほんとうに少しぼけているのかもしれませんね。こうして先生とお話しをできたらすっと楽になりました。そう言ってまた笑顔になられました。・・・ぼけてる、と言われた、その言葉は、姉妹にとって腹が立つことであったとともに、それが本当だったら、と思うと怖かったんだと思うのです。その現実が恐ろしかったのだと思います、でも、姉妹は、牧師とともに神さまに祈るなかで、きっと本当に恐れるべきかた、わたしたちをとことん愛し、わたしたちを命にかえても守り導いてくださるイエス・キリストを心にお迎えすることができたのだと思うのです。わたしたちもみな油断すればすぐに恐れにとりつかれていきます。しかし、その中で、この姉妹のように、イエス・キリストをこそ恐れ敬う信仰を抱き続けることができるように、聖霊を求め、祈りを合わせたいと思います。

 主なる神さま、あなたは、この世の様々なことを恐れ苦しんでいるわたしたちの、その恐れを本当に知っていてくださり、そのようなわたしたちを憐れんでくださって、御子イエスをこの世に送ってくださいました。御子が神の身分でありながら、その全てをわたしたちのために捨ててくださり、わたしたちの恐れを共に味わい、その重荷を共に背負って歩んでくださっている、その姿にどうか目が開かれますように、そして、あなたに対するまことの恐れ、畏敬の念、畏怖の心をもつものとならせてください。あなたを畏れるその中で、この世のすべての恐れからわたしたちが解き放たれ、最後まであなたの道を歩んでいくことができますように。主のみなによっていのります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

cm 1   tb 0   page top

ペンテコステ合同礼拝2017 

2017年6月4日(日)ペンテコステ合同礼拝
「聖霊の風に吹かれて」三ツ本武仁牧師

 今日は聖霊降臨日です。今から2000年以上前、十字架に死なれたイエスさまが復活された、その出来事に驚いている弟子たちに向かって、イエスさまは、わたしはもうすぐ天に戻っていくけれども、安心しなさい、わたしが去ったあと、あなたたちのところに聖霊を送ります。聖霊がくだると、あなたたちは力をうけますと、約束してくださいました。

 そして、復活されたイエスさまは天に帰っていかれた、そのあと、しばらくしてから、イエスさまのお約束通りに、聖霊が弟子たちのところにくださってきたのです、聖霊は、弟子たちに、イエス・キリストが今も共にいてくださることを、気付かせてくださいました。そのようにして弟子たちに力を与えてくださったのです。2000年以上、最初の弟子たちから、世界に広がる次の世代の弟子たち、またその次の世代の弟子たちと続いて、そうしていまのわたしたちにまで至る、この教会の歩みは、聖霊に満たされた人々の歩みなのです。

 では、聖霊に満たされると具体的にどういうことが起こるのでしょうか。今日の聖書箇所を見てみますと、その日、使徒たちが集まっていると、突然激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、彼らが座っていたその家中に響きわたり、続いて、炎のような舌がわかれわかれに現れて一人一人の上にとどまりました。そして使徒たちは聖霊に満たされて霊が語らせるままに他の国の言葉で話し出したといいます。

 ここで注目したいのは、この聖霊降臨の出来事を通して3つの壁が吹き飛ばされた、ということです。
 まず第一に、言葉の壁が吹き飛ばされました。そしてそれにともなって第二に、世界の様々な人間たちの間にあった人間同士の壁が吹き飛ばされました。・・・もちろん、この世界には、様々な言葉があります。日本語、英語、ドイツ語、中国語、じつに様々な言語があります。聖霊に満たされるまで、その言葉の壁は、人間たちにとっては、迷惑な壁だと思われていました。そんな言葉の壁なんかなければいいのに、みんな同じ言葉をはなせたらいいのにと思っていました、そして、そういうことを実際にしようとした人々もいます。それは、世の権力者たち、王様たちです。権力者や王様にとっては、みんなが自分と同じ言葉を話せば、支配しやすいわけです。ですから、自分たちが人々を支配しやすいように、自分の国の言葉をほかの人々にも話させようとしたのです。そうやって世界を一つにしよう、としました。でも、神さまはそのことをとても残念に思っておられました。

 いろいろな国の言葉を与えてくださったのも神さまです。ですから、聖霊に満たされて、言葉の壁が吹き飛ばされた、というのは、そういうふうに言葉が一つになったということではないのです。そうではなく、様々な言葉の違いを、恵みとして、祝福として、神さまが与えてくださった喜びとして、受け止めることができるようになった、ということなのです。じっさい違う国の言葉を学ぶことで、多くのことに気づかされ、感動することがたくさんあります。日本語では、うまく表現できないことを、ほかの国の言葉だとすっと表現できる、ということがあります。反対に、ほかの国の言葉にはない、微妙な感じを、日本語ではうまく表現しています。昨年出た話題の本に、イギリス人の若い女性の書いた『翻訳できない世界のことば』という本があります。その本によれば、たとえば、誰か来てるかなーと、期待して、何度も何度も外に出てみること、これはエスキモーの言葉で、イクトゥアルポクというそうです。教会の前で、誰かくるかなーと期待して待っている、牧師や教会学校の先生の姿にぴったりの言葉だな、と思いました。それから日本語には「木漏れ日」という言葉があります、木々の枝や葉の間から刺す日の光のことで、いまの季節はまさに木漏れ日が美しい季節ですけれども、これは、ほかの国の言葉にはない、美しい表現として紹介されていました。

 このように違う国の人々と、その言葉の違い、文化の違い、性格の違い、個性の違い、を大切にしながら、それを喜びとして共に生きていく、もちろん、同じ国の人の間でもそのようにして共に認め合って生きていく、それこそが神さまの願う姿なのです。

 そこで最後に、第三として、そうやって人間が聖霊に満たされて、神さまの願いにそって生きるようになっていく、そのところで、神さまと人間の間のへだたり、壁が吹き飛ばされました、神さまの愛に応えて、人間が神さまを仰いで、神さまを讃美して生きる、そのような神さまと人間との間の、愛の交わりが回復したのです。

 今日の「聖霊の風に吹かれて」という説教題は、昨年、ノーベル文学賞に輝いた、音楽家のボブ・デュランの有名な曲、「風に吹かれて」にヒントをえてつけました。「風に吹かれて」の英語の原題は「Blowin’ in the Wind」です。この曲は、まだアメリカで黒人の人々が差別されていた時代、キング牧師によってはじめられた黒人の公民権を求める運動、公民権運動のなかで、その賛歌として歌われた曲でした。ボブ・デュラン自身は、もともとユダヤ教徒でしたが、この公民権運動をへて、やがて洗礼を受けて、クリスチャンになりました。その歌の一番は次のように歌っています。

 人はどれだけ歩けば人として認められるのだろうか。白い鳩はどれだけ海を渡れば、安らぎの地にたどり着けるだろうか、砲弾がどれほど飛び交えば、争いは終わるのだろうか、友よ、その答えは風の中にある、その答えは風の中にある・・・

 白い鳩は平和のシンボルです。この地上に人と人の間の平和、国と国の間の平和が実現するのはいつか、その答えは、風の中にある、というのです。

 聖書では風は聖霊を象徴しています。ですから、答えは風の中にある、という、この風の中、というのは、わたしたちが、わたしたちすべての人の平和のために、十字架に死んでくださった、イエス・キリストを信じるとき、つまり聖霊に満たされたとき、はじめて、その平和は実現していくのだ、と歌っているように聞こえるのです。

 今日の聖書箇所より、もう少し後の使徒言行録の、二章の41節以下をみますと、この日に、3000人もの人々が使徒たちの仲間に加わり、みな一つになって神を讃美し、礼拝をし、聖餐式を守り、相互の愛の交わり、助け合って共に生活するようになったといいます。わたしたち香里教会も、そのような教会の歴史の中にあります。香里教会は今年で68歳になります。68年間、この香里の地において、みな一つになって神を讃美し、礼拝をし、聖餐式を守り、相互の愛の交わり、助け合って共に生活してきたのです。その歩みが、これからも聖霊に満たされて、続いていくように、次の世代、また次の世代に受け継がれていくように、今新たに、聖霊の風が吹いて、聖霊に導いていただけるように、祈りを合わせたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 主なる神さま、ペンテコステ、聖霊降臨日の恵みを感謝いたします。
 あなたはわたしたちに聖霊を送ってくださり、わたしたちの罪から生じた3つの壁を吹き飛ばしてくださいました。言葉の壁、人間同士の壁、そしてあなたとわたしたちの間の壁です。イエスさまが、わたしたちの罪をすべて引き受けてくださいましたから、わたしたちは、いまイエスさまを通して、すべてのことをあなたに感謝することができます。そして聖霊を受けた人々からキリストの教会が生まれました。わたしたち香里教会の群れは、この地にたって68年目を迎えます、これまでのあなたの導きに感謝いたしますとともに、どうかこれからも聖霊の風をわたしたちにふきつけてくださり、香里教会をまた世界の教会を守り、導いてください。主のみ名によっていのります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

cm 0   tb 0   page top

復活節第7主日礼拝 

2017年5月28日 ルカによる福音書 第11章45-54節
「人を生かす神の御言葉」三ツ本武仁牧師

 本日ご一緒に読む聖書箇所はルカによる福音書第の11章45節以下でありますけれども、その冒頭の45節には「そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った」とあります。「そんなこと」とは「どんんなこと」だったのでしょうか。先週読んだ37節以下には、イエスさまがファリサイ派の人々に対して語られた厳しい批判の言葉が記されていました。「私たちをも」とは、このファリサイ派と共に私たちをも、ということです。イエスさまがファリサイ派に対してお語りになった言葉は、自分たち律法の専門家をも侮辱するものだ、と彼は言っているのです。ファリサイ派と律法の専門家とは一心同体と言ってもよい関係にありました。律法の専門家たちの中にはファリサイ派に属している人が多かったのです。それゆえにこの人は、ファリサイ派に対するイエスさまの批判を自分たち律法の専門家に対する批判として聞いたのです。
 
 この人の言葉を受けてイエスさまは、今度は律法の専門家たちに対して、先週の所と同じように「あなたたちは不幸だ」という言い方で批判されました。それが46節から52節です。そこで先ず46節には、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」とあります。ここに、律法の専門家に対するイエスさまの批判、あるいは怒りと言ってもよい思いが示されています。イエスさまが怒っておられるのは、「あなたがたのおかげで、律法は人々の重荷となってしまった」ということです。律法とは、旧約聖書において神様がイスラエルの民にお与えになったみ言葉であって、その中心があの「十戒」であるわけですが、それはもともとは決して民の重荷となるようなものではなかったのです。なぜなら律法は、これを守り行う者は神様の救いを得ることができ、これを守らない者は救われずに滅びる、というような、救われるための条件のようなものではなく、主なる神様によって、エジプトの奴隷状態から解放され、救われたイスラエルの民が、その恵みに心から感謝して、おのずから神様の民として喜んで生きていく、その具体的な表れとして示し与えられたものだったからです。律法は重荷であるどころか、神様の恵みのみ言葉なのです。ところが、そのような律法の本来の意味がいつしか忘れ去られ、これを守れば救いを得ることができる、守らなければ救いは得られないという、救いの条件と見なされるようになっていってしまったのです。

 このことで、私は最近、なるほどな、と感心したことがありました。それはあのキリスト教主義学校のある日の礼拝の中でのことなのですが、生徒会の会長であるひとりの生徒が、みんなに通学マナーを呼びかける、ということで、こんなことをしたのです。彼は、礼拝堂に座っている生徒たちに、向かって、突然で申し訳ありませんが、両手をあげて伸びをしてもらえませんか? と訴えたのです。そこで生徒たちがなんだなんだ、という感じで、ポツポツと両手をあげはじめました。なかには面倒くさそうに手を挙げている生徒たちもいたわけです。その様子を生徒会長がじっとみながら、ある程度してから、ありがとうございました。手をさげてください。と言いました。そしていうのです。みなさん、ぼくが両手をあげてくださいって言ったら、いやいやそうにあげましたよね。そうだと思います。でも、いつもみんな礼拝が終わったあと、あーって自由に両手をあげて、のびをして、あくびしているじゃないですか。でもいまはいやいやそうにする、この違いは何でしょうか。それは人に言われてするか、自分から積極的にするか、の違いなんですよ、自分で積極的にしたら、いやな思いもしないし、むしろ自由に楽しくできる、でも、人に言われてするとき、わたしたちは強制されているような窮屈ないやな思いがするんです。だから、とその生徒会長はいうのです。通学ルールも人に言われて守るのではなくて、自分から積極的に進んで守ってください、そうすれば、そんなこと苦もなくできるし、誰もいやな思いをしないですむんですよ・・・、と。いやー、えらい生徒会長があらわれたなーと感心したのであります。

 話をユダヤの律法に戻しますけれども、結局、そういうことです、律法の言葉は、もともとは恵みの言葉であって、神様への感謝、神さまへの恵みの応答であったわけです。たとえば偶像をつくってはならない、という十戒の第二戒の教えは、偶像をつくったら救われないぞ、ということが本来の意味ではなくて、目に見えないまことの神さまにすくわれた、その喜びに生きているあなたがたには、偶像なんかつくる必要なんかない、ということであったわけです。

 ところが、まさに、それが反対になっていったわけです。律法の言葉が、恵みのみ言葉から、破ってはならないといつもビクビクしていなければならない掟となっていってしまった。そのような言葉・掟はもはや重荷でしかありません。律法の専門家は、律法を重荷として人々に負わせる働きをしたのです。しかもそれは「背負いきれない重荷」だとイエスさまは言っておられます。神様による救いに感謝して、その恵みに応えて生きる生活へと人々を励まし導くために与えられた律法が、守らなければ救いにあずかることができない掟となってしまう時、それは「背負いきれない重荷」になるのです。そして律法の専門家たちは、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」、つまり彼らの教えは、人々に律法を重荷として負わせるだけで、その重荷を背負って生きるための力や励ましは与えない、むしろ人を裁き、批判し、気落ちさせるだけで、神様を信じて生きることの喜びや慰めや励ましにはなっていない、ということなのです。

 また47節には「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ」とあります。彼ら律法の専門家たちの先祖が昔の預言者たちを殺したのだとイエスさまは言われたのです。預言者とは、神様のみ言葉を預かってそれを人々に語り伝えた人々です。神様はこれまでに多くの預言者を立て、お遣わしになりました。しかしその多くはその時代の人々に受け入れられず、迫害されたり殺されたりしたのです。預言者たちを殺す、それは神様のみ言葉を拒み、それに聞き従わないということです。それをしたのはあなたがたの先祖だ、ということはつまり、あなたがた律法の専門家たちが今していることは、昔、預言者を殺した人々のしたことと同じだ、ということです。律法を人間の掟にしてしまい、恵みのみ言葉を人々の重荷にしてしまっているあなたがたは、自らも神様のみ言葉に聞き従わず、またそれを人々からも奪い取っている、それは預言者を受け入れずに殺した昔の人々のしたことと同じではないか、ということです。

 このように、律法の専門家たちに対するイエスさまの批判は、大変厳しいものであります。そのことは50節、51節のイエスさまのお言葉にも示されています。「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」。殺された全ての預言者の血の責任が、今の時代の者たちに問われるのだとイエスさまは言っておられます。その殺された預言者の代表として、アベルとゼカルヤが挙げられているのです。

 アベルとは、創世記第4章の、あのカインとアベルの物語のアベルです。最初の人間アダムとエバの二人の息子がカインとアベルでした。その兄弟の間で、人類最初の殺人が、兄が弟を殺すというかたちで起ったのです。アベルはいわゆる預言者というわけではありませんでした。しかしあの殺人は、アベルの献げ物が神様に顧みられたのに対して、カインの献げ物は顧みられなかったことによって起りました。つまりアベルは神様と良い関係を持っていた、けれども、カインはそうではなかった。そのアベルがカインに殺された、そのことが、ここで、神様に従う預言者が殺されたという出来事の最初に位置づけられているのです。

 もう一人の、「祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤ」のことは、旧約聖書の歴代誌下第24章17節以下で語られています。ゼカルヤは、ユダ王国のヨアシュ王とその側近が主なる神様を捨てて異教の神々に仕えるようになった時に、神の霊を受けてそのことを諌めた、っして、そのために神殿の庭で殺された人です。まさに神のみ言葉を語ったために、それを受け入れない人々によって殺されたのです。彼は死に際して「主がこれを御覧になり、責任を追求してくださいますように」と言いました。イエスさまはこのことを受けて、アベルの血から始まり、このゼカルヤの血に至るまで、神様のみ言葉を語ったことによって殺された人々の血の責任が、「今の時代の者たち」に問われるのだとおっしゃったのです。

 「今の時代の者たち」とは誰のことでしょうか。それは、イエスさまというまことの預言者、預言者の中の預言者が来られたのに、イエスさまを拒み、その語るみ言葉に聞き従おうとせず、イエスさまに対して敵意を抱き、なんとかして殺してしまおうとさえ思っている者たちのことです。ですからそれは直接には、前回のファリサイ派の人々、そして今日の律法の専門家たちのことになるでしょう。53節、54節には、「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた」とあります。彼らはまさに、かつて預言者を殺した者たちがしたように、いまイエスさまを殺そうと企んでいるのです。そのことをイエスさまは見抜かれ、その責任はあなたがたに問われるのだ、と、言われたのです。

 神様のみ言葉を、み心とは全く違うものへとねじ曲げ、恵みのみ言葉を人々の重荷に変えてしまうこと、そのことを、イエスさまは厳しく批判されています。そのようなことは、神様から遣わされた預言者を殺してしまうのと同じことだ、というのです。そしてそのイエスさまの怒りはいまみましたように、直接にはファリサイ派の人々と律法の専門家たちに向けられています。けれども、いつもそうですけれども、それは本当に彼らだけの問題だといえるのだろうか、ということです。私たちはこのイエスさまの批判、お怒りを他人事のように聞いていていいのでしょうか? ・・・私たちもまた、神様のみ言葉を、み心とは全く違うものへとねじ曲げ、恵みのみ言葉を重荷としてしまっているのではないでしょうか。もし、私たちが聖書のみ言葉を、神様の恵みのみ言葉としてではなく、それを守り行なうことが、救いを得るための条件であるかのように捉えてしまっているのならば、私たちもまた、彼らと同じことをしているのではないでしょうか。・・・み言葉を、救いの条件のように捉えるようになると、ファリサイ派や律法の専門家たちのように、自分が頑張ってそれを守っていることに自分の正しさを見出したり、それを自分の拠り所、誇りとして生きるようになっていきます。しかしそこに必ずついてまわるのは、自分と他の人とをいつも見比べ、自分の方が上だと思えば安心し、逆の場合には不安を覚える、という歩みなのではないでしょうか。またそこには他の人のあら探しをし、人を慰め励ますのではなくて、かえって人を落胆させるような、言動が生まれてくるのではないでしょうか。私たちはしばしばそのように、神様の恵みのみ言葉をねじ曲げ、自分にとっても隣人にとっても重荷としてしまうようなことを繰り返しているのではないでしょうか。イエスさまのお怒りはそのようなことに対して向けられているのであって、私たちにとってそれは決して他人事ではないのです。

 けれども、前回もそうでしたが、イエスさまのこのお怒りは、ただお怒りで終わる、お怒りではないわけです。神さまの言葉に生きているようで、じっさいは自分をも隣人をも御言葉によって苦しめてしまっている、そういう私たちを、まさにそのような状況から救うためにこそ、イエスさまは来てくださったのです。「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる」とイエスさまはおっしゃいました。そのようにおっしゃったイエスさまは、この後どうなさったのでしょうか。イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人々の激しい敵意によって、捕えられ、十字架につけられて殺されたのです。イエスさまもまた、殺された預言者の一人に加えられたのです。しかし、イエスさまを捕え、殺した人々が、そのことの責任を問われて神様の裁きを受けたとは、この福音書も、他の箇所にもどこにも語られていません。「今の時代の者たちが責任を問われることになる」というみ言葉はいったいどうなってしまったのでしょうか。その責任は誰に問われたのでしょうか。驚くべきことに、イエスさまご自身がそれを引き受けて下さったのです。神様のみ言葉を拒み、ねじ曲げ、預言者を殺す私たちの罪の責任を、イエス・キリストご自身が引き受けてくださり、その罪を背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって、私たちには、罪の赦しと、新しい命が与えられたのです。イエスさまのご生涯の全体から、私たちはこのことを見つめることを許されているのです。

 私たちは、神様の恵みのみ言葉をねじ曲げて、自分にとっても隣人にとっても重荷としてしまうようなことを繰り返しています。人に背負いきれない重荷を負わせ、自分では指一本もその重荷に触れようとしないのが私たちの姿です。しかしイエスさまは、私たちが自分でも背負い込み、お互いどうしの間でも負わせ合っている重荷に、指を触れるどころか、それを私たちから取り上げて、代って背負って下さったのです。そしてその重荷に押しつぶされるように、十字架の上で苦しみ、死んで下さったのです。このイエスさまの十字架の死によって、私たちは、神様のみ言葉を、律法を、重荷としてしまうような間違った信仰から解放されるのです。この主イエス・キリストを信じる信仰は、負いきれない重荷を背負わされてあえぎながら生きるような喜びのない歩みではありません。またみ言葉を守るべき掟と勘違いして、自分がそれをどれだけ守っているかに一喜一憂し、他の人と自分をいつも見比べながら歩むような、つまり人間ばかりを見つめて生きるものでもありません。私たちは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストをこそ見つめて生きるのです。そのことによってこそ、聖書に記されている神様のみ言葉を恵みのみ言葉として読み、聞くことができます。そのとき私たちは、神様の恵みのみ言葉を救いの条件へとねじ曲げ、自分にとっても隣人にとっても重荷でしかないものへと変えてしまう間違ったとらえ方から解き放たれていくのです。そして、主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みに感謝し、喜びをもって、自分からすすんで、それに応答していく、本当の喜びに満ちた信仰の生活を送っていくことができるのであります。お祈りいたしましょう。

 いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。主なる神さま 自分にも人にも重荷となっていた、あなたの言葉が、御子イエス・キリストの十字架の死による、罪の赦しによって、その重荷から解放され、あなたの御言葉を、あなたの恵みの御言葉として喜びをもって聞くことができるようになりましたことを感謝いたします。どうかその恵みのうちにとどまることができますように、御子イエスの十字架に、たえず目覚めて生きるものとならせてください、主のみ名によっていのります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

cm 0   tb 0   page top

復活節第6主日礼拝 

2017年5月21日(日)ルカによる福音書 第11章37-44節
「神の恵みの器として」三ツ本武仁牧師

 本日の聖書箇所には、イエスさまが、あるファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いた時のことが語られています。38節に「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」とあります。食事の席に着くに際してイエスさまが身を清めることをなさらなかったのを、このファリサイ派の人は不審に思ったのです。「不審に思った」とある言葉のもともとの意味は「驚いた、びっくりした」といった意味であります。身を清めることをせずに食事の席に着いたイエスさまに彼は、えっと、びっくりしたのです。それはなぜでしょうか。そのことは知るためには、わたしたちの常識ではわからない、ユダヤ教の事情を知る必要があります。

 先ず、「身を清める」ということについてですが、これは実際には、私たちが通常そうしますように、食事の前に手を洗う、という行為を指しています。けれども、その手を洗う、という行為の意味が、私たちの常識とは大きく違っているのです。私たちの場合、それは衛生的な意味でそうするわけです。しかし、ここで問題になっているのは「手を洗わないで食事をするなんて、非衛生的なんだろう」ということではないのです。そうではなく、これは宗教的な事柄なのです。ユダヤ教において、食事の前に手を洗うのは、お腹をこわさないためではなくて、宗教的な汚れを身に負ってしまわないためだったのです。

 わたしたち日本の風習にあてはめましたら、盛り塩などがその一例だといえるのではないでしょうか。日本の葬送儀礼においては、玄関に清めの塩を盛るわけです。そのような習慣が厳格に守られている社会があったとして、その中で、全くそのようなことをせずにすませてしまった、そのようなことが、ここでイエスさまが食事前に身を清めなかった、という振る舞いに当てはまるのです。

 そしてそこに、イエスさまを食事に招いた人がファリサイ派だったことが関係してきます。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ人たちの中でもとくに、神様の掟である律法を厳格に守り、神様の前に清い者であろうとすることに熱心であった、逆に言えば汚れた者となることを防ぐことに熱心であった、そして、そのような生活を人々にも教え勧めていた人々でした。だからこそこの人は、神さまの教えを宣べ伝えているイエスさまが、そのような宗教的な清さに無頓着であることに、驚き、そして不審を抱いたということなのです。

 けれども、そのように驚いているこのファリサイ派の人に向かって、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」と繰り返し語られたのです。42節、43節、44節で三度もその言葉を繰り返えされました。イエスさまはこの人の、ファリサイ派の、信仰のあり方を厳
しく批判なさったのです。その批判のポイントは最初の39節に示されています。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。・・・あなたたちは外側ばかりをいっしょうけんめいきれいにするけれども、内側は汚れに満ちているのではないか、とイエスさまは言われたのです。これと同じような批判が42節以下でも繰り返されています。42節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」とあります。ハッカは皆さん良くご存知のハーブです。ミントです。芸香は、初夏に黄色の花を咲かせ、種子や葉は香辛料、薬用として利用されます。そうしたものや野菜の十分の一を神さまに捧げる。確かに、自分の得た収穫の十分の一を神様に献げなさい、ということが律法には定められています。イエスさまはその定めを決してどうでもよいとか、こんなものは守らなくてよいとは言っておられません。「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」とあります。教会でも、収入の十分の一を神様に献げるというのは、「神様への献身と感謝のしるし」としての「献金」を考える上で、大切な基準であります。それはそれで大切な事柄でありますけれども、しかし、いまここでイエスさまが問題としておられるのは、ファリサイ派の人々が、そういうことは、きちんと神経質なほどに献げていながら、肝心な「正義の実行と神への愛」をおろそかにしている、つまり「しるし」だけで、「神さまへの献身と感謝」の「実践」がない、そのことをイエスさまは批判されているのです。

 それでは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じだ、といわれるのです。また43節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」とあります。会堂で上席に着くとか広場で挨拶されるというのは、人々に尊敬され、一目置かれるということです。神さまの教えに真面目に仕えている人たちの中には、人間的にも立派な人たちもいたことでしょう。そこで、そういう人たちを人々が尊敬する、ということも自然に起ってくることであったのでしょう。しかしここには、そういうことをこの人たちは「好んでいる」とあります。つまり、人に褒められ、尊敬され、重んじられることこそが、目的になってしまっている。・・・あなたたちは、神様に従い仕える生活を教え、神様にこそ栄光を帰すことを主張しているけれども、それが実際には建前になってしまっていて、本音においては自分の名誉、自分の栄光を求めているのでないか。・・・それは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じではないか、とイエスさまは批判しておられるのです。・・・そして彼らは他の人々をもそのような生き方へと引き込もうとしている。そのことをイエスさまは44節で、一つのたとえによって語っておられます。「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」。

 ・・・これはすこし私たちにはわかりにくいたとえですけれども、ここで「墓」とありますのは、墓石というのではなくて、死んだ人を埋めた場所のことです。・・・身を清める、ということの反対で、身を汚す、ということがユダヤ教社会で忌み嫌われていました。その身を汚すさいたるものが、死体に触れることでありました。・・・そういう意味でも、日本古来の宗教観とユダヤ教の宗教観はどこか似ていて興味深いのですけれども、・・それはともかく、墓石というものは、死者のことを記念する意味ももちろんあるのですけれども、それとともに、その死体を埋めてある場所に、人が間違って足を踏み入れて身を汚すことのないように、という、そのための目印としても、置かれたものでした。つまり、ここでイエスさまが言われているのは、あなたたちファリサイ派の人々は、人目につく墓石もない、死体の埋められた場所のようなものであって、清めに熱心のようでいて、じっさいは、人々はあなたがたによって、知らず知らずのうちに、かえって汚されているのだという、そういう酷しい皮肉なのです。

 十字架の死と復活によって、イエスさまは死の力に勝利された方であります、イエスさまの十字架の死と復活によって、もはや死は汚れたものではなくなったのです。それゆえに、まさに、死の問題、汚れの問題は、イエスさまにしか、解決できない問題なのです。それを、人間が、自分たちでできる、できている、と思うところに、様々なゆがみが、問題が起こってくるのです。ファリサイ派の人は、自分の清さ、正しさを求めるなかで、じっさいは神様よりも自分の栄光を求め、人よりも立派な者になることを求めるようになっていきました。そして、その中で、信仰の喜びも神さまへの感謝も感じなくなっていきました、そういう虚しい思いに生きていながら、自分の立場も守り、自分を正当化するために、そういう生き方を人にも勧めて、人々をつまずかせていたのです。

 わたしたちはこのような話を聞きますと、ついどこかの私利私欲にかられて新聞で悪い意味で話題になるような人々を思い浮かべてしまうわけですけれども、しかし、ここで私たちが考えなければならないことは、このように厳しくイエスさまに批判されるのは、そういう一部の人たちだけのことなのだろうか、ということであります。これは罪の中にある全ての人間の問題なのではないでしょうか。・・・とくに私たちクリスチャンは、イエスさまに救われた喜びの信仰生活を送っているはずでありますけれども、それがしかし、いつのまにか、喜びのない信仰生活になってしまっていないでしょうか。真面目で清く正しく生きることこそが信仰だと勘違いをし、そして自分の清さ正しさを量り、それをいつも他の人と見比べながら、誇ったり落ち込んだりという一喜一憂を繰り返すことになってはいないでしょうか。そうなると信仰をもって生きることは、非常に窮屈なものになっていきます。伸び伸びと自由に喜んで生きることができなくなります。もしわたしたちの信仰生活がそのような信仰生活となっているのであれば、それはまさしく、今日イエスさまに厳しく批判されている、このファリサイ派の人の信仰と同じではないでしょうか。

 けれども忘れてはならないのは、イエスさまはここで厳しく批判されているわけですけれども、まさにそのような、罪の縄目に縛られてどうにもならなくなっているわたしたちを救うために、来てくださったのだ、ということです。・・・イエスさまは40節で、「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」とおっしゃいました。杯やお皿にはみな外側と内側があります。私たち人間の外側と内側、外面と内面、人に見える部分と人の見えない心の中のことを、そのようにたとえているわけです、外面だけをきれいにしても、内面、心の中が汚れに満ちていたのでは何にもならない。確かにそうであります。いや、でも、どうやってわたしは自分の心の中をきれいにすることができるだろうか、と思います。しかし私たちがこのイエスさまのお言葉から本当に聞き取るべきなのは、外側も内側も神がお造りになった、と言われていることなのです。イエスさまはそのことにこそ私たちの目を向けさせようとしておられるのです。

 私たちの外側も内側も神様がお造りになった。そのことで思い起こすのは旧約聖書創世記の話です。創世記の第2章7節には神様が人間をお造りになったことについて、このように語られています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神様が土の塵で人を形づくられた、それが「外側」を造られたことに当ると言えるでしょう。そしてそこに「命の息を吹き入れられた」のです。土の塵で造られたのは私たちの外面、肉体です。神様はその肉体の中に命の息を吹き入れることによって、私たちを生きる者として下さいました。それは私たちに内面を、魂を与えて下さったということです。神様が吹き入れて下さった命の息、それは「霊」を意味する言葉でもあります。つまり私たちは、土の塵であるこの肉体に、神様の霊によって命を与えられて、はじめて生きるのです。神様の霊によって魂を、心を、内面の命を与えられて生きている、ギリシャ語で「人間」という言葉は、「上を見る者」という意味があります。上を、つまり神さまを見上げて、神さまを賛美して生きる、それが神さまの霊を注がれた、人間の本来の生き生きとした姿なのです。

 しかし、その命を、わたしたちは外側にこだわるばかりに、見失ってしまった、神さまに吹き入れられたいのちの息をこそ、大切にしなければならないのに、そこから目を逸らしてしまった、的をはずしてしまった、そしてそれによってわたしたちは本当の命を失ってしまった、神さまを見上げて、神さまを賛美して生きることができなくなってしまった、それがわたしたちの罪の姿であります。その罪のために、私たちの命は、魂は、神様とのよい交わりを失い、隣人とのよい交わりも失い、本来の活力と喜びを失ってしまったのです。・・・けれども、イエスさまは、その私たちを救うために、私たちの罪の赦して下さるために、十字架にかかって死んで下さったのです。そして、父なる神様が御子イエスを復活させることによって、新しい霊、聖霊、新しい命を、罪を赦されて生きる新しい魂を与えて下さったのです。

 クリスチャンとして生きるとは、神様が御子イエス・キリストによって実現してくださった、この新しい命の恵みにあずかって生きることです。41節には「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とあります。これは、自分の持っているもの、財産を貧しい人に施すという立派な行ないをすることによって、あなたは外側だけでなく内側も本当に清い者となることができる、ということではありません。そのように考えたら、それは結局、施しによって自分の清さ、名誉、栄光を求めるということになってしまいます。そうではなく、「ただ、器の中にある物を人に施しなさい」、この言葉の第一の意味は、いまから私、イエス・キリストによって与えられる、新しい器の中身、聖霊によって、その新しい命によって、生きなさい、ということです。

 「そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とイエスさまは言われます。自分の清さを溜め込もうとするのではなく、からっぽになって神様の恵みをいただき、神さまの恵みの器として、自分に恵まれたものを感謝して用いていくことによって、全てのものが清いものとなるのです。・・・わたしたちはやっぱり食事の前に手は洗ったほうがよいと思いますけれども、・・・そういうことではなくて、これは汚れているのではないか、こんなことをしたら汚れるのではないか、などとびくびく恐れることなしに、神様に与えられている自分の人生を大胆に、自由に、伸び伸びと生きることができるようになる、それが神の恵みの器として生きる生き方であります。

 「土の器」という歌があります。「欠けだらけの私 その欠けからあなたの光がこぼれ輝く、土の器 ヒビだらけの私 そのヒビからあなたの愛があふれ流れる こんな私でさえも 主はそのままで愛してくださる だから今主の愛に 応えたい 私の全てで 用いてください 主よ、私にしかできないことが 必ずあるから ♫」

 欠けの多い私たちだからこそ、神さまの愛が注がれていて、欠けたところがあるからこそ、まわりにその神さまの愛を輝かすことができるのです。神様の独り子である主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、その業によって罪の赦しを与え、神様の子どもとして生きる新しい命を与えて下さいました。その神様の愛を信じる者は、大胆に神様に信頼して生きることができます。そしてその信頼の中でこそ、自分のものを喜んで人に施すこともできるようになるのです。イエスさまによって、自分という器の中に、新しい命を注がれた、その感謝と喜びの中で、心から神さまと隣人を愛し、仕えていくものとなりたいと願います。祈りましょう。

 主なる神さま、欠け多きこの器をも、あなたはイエスさまを通して、愛してくださり、そこにあなたを仰ぎ見て生きることのできる、新しい命を注いでくださいました。感謝いたします。あなたの恵みの器として、新しい命への喜びと感謝を、あなたにそして隣人に、表していくものとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

cm 0   tb 0   page top

復活節第5主日 

2017年5月14日 (日)ルカ福音書11章29―36説
「まことの光に照らされて」三ツ本武仁牧師

 こどもの礼拝では今月の愛唱聖句を「あなたの父母を敬いなさい」という十戒の言葉を揚げて覚えていますけれども、今日は母の日ということで、こどもたちは日頃のお母さんへの感謝の思いをこめてお母さんにかわいらしいプレゼントをつくりました。父の日は、みんな何をお父さんにプレゼントしてあげるのかな?と聞きましたら、無反応でありましたけれども・・・、私自身も、親孝行したい時分に親はなし、ということわざが、身近に感じるようになってきました。親を敬う、親に感謝の気持ちを表す、親孝行をする、これは大切なことだと思いますとともに、そう思える親があることもまた恵まれたことであると思うのであります。

 さて、本日の聖書箇所はルカによる福音書の11章の29節から36節でありますけれども、その最初の29節でイエスさまは、「いまの時代の者たちはよこしまだ」と語られています。イエスさまは人々に向かって、「あなたがたはよこしまだ」とおっしゃったのです。なぜ、そう言われるのか、ということですけれども、それは「しるしを欲しがるからだ」というのであります。「しるし」というのは、要するに、イエスさまが神さまからの救い主である、ということの目に見える証拠であります。それをみなければ、納得できない、信じることはできない、それが「しるしを欲しがる」ということです。そういうことは、正直にいえば、わたしたちもしていることですし、できれば、そういうしるしがみたいと思っている、そういうしるしが体験できたら洗礼を受けてもよい、と考えている人もいるようです。ですから、ここでイエスさまの言われる「今の時代の人々」という人々の中には、イエスさまの時代の人々だけでなくて、このまさにいまに生きるわたしたちも含まれるのであります。「よこしま」と訳された言葉のもともとの意味は単に「悪い」という意味です。しるしを求める、イエスさまに救い主の証拠を求める、それは悪いことだ、というのです。それはいったいどうしてなのか、なぜ、しるしを求めてはいけないのでしょうか。

その理由は、じつは、今日の後半の33節以下にあります「からだのともし火は目」と見出しされたところに示されていくのですけれども、そのことは、後でおいおい見ていくことにしまして、いまここでイエスさまは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とおっしゃいました。そのことに注目したいと思います。これは、いったい何のことでしょうか。今日のところは旧約聖書に出てくるある2人の人物に関わる話が出てきます。さいしょはヨナ書に登場するヨナの話です。ヨナのことはみなさんご存じでしょうか? ヨナは預言者として神さまに遣わされて、ニネベという外国の町へいくのです。ニネベの人々は聖書の神など信じていない、みな誰もが自分中心に好き勝手にいきている人々でした。ヨナはこのままではあなたたちは神さまの怒りによって滅ぼされるぞ、と、神の言葉を告げたのです。すると32節にありますように、ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて素直に悔い改めた、といいます。ですから、ニネベの人々は神さまの前に滅びることなく、救われたのです。ヨナのしるしとはですから、ヨナの説教、ヨナの告げた神さまのみ言葉のことです。つまり、イエスさまはここで、あなたがたは目に見える証拠としてのしるしを求めている、それを見たら納得してやろう、と思っている。けれども、わたしがあなたがたに与えるしるしは、神さまのみ言葉というしるしだ、というのです。

 もう一つは、旧約聖書の列王記という書物に出てきます、南の国の女王の話です。この女王はシェバの女王のことです。この女王は、アラビア半島の南のはしにある国の女王でしたが、ダビデ王の後のソロモン王の時代に、ソロモンが知恵に優れた王だと聞いて、はるばる、その知恵を求めて、エルサレムまでやってきたのです。サウジアラビアの王様がたくさんの家来をつれて日本にやって来た、という出来事が最近もちょっとしたニュースになりましたけれども、きっとああいう感じで、大勢の家来を連れてソロモンのところにやってきたのです。それはともかく、ソロモンの知恵というのは、ソロモン自身の知恵ではなく、神さまがソロモンにめぐみ与えてくださった知恵であった、と聖書には記さています。つまり、この女王は自分では気づいていなかったかもしれませんが、はるばる海を超えて、神さまの御言葉を聞きにやってきたわけです。イエスさまは、そのような女王の話をされて、31節ですけれども、ここにソロモンにまさるものがある、と言われたのです。

 つまり、この話と最初のヨナの話で、イエスさまがわたしたちに伝えようとなさっていることは、神さまの御言葉を聞く、ということ、神さまの御言葉を、謙虚に聞き続けること、そのことの大切さであり、また、そこに、わたしたちの救いがあるのだ、ということであります。前回のこの前の聖書箇所で、本当に幸いなのは、神の言葉を聞いて守る人だ、とイエスさまが言われていましたけれども、今日のところも、ずっと一貫して、そのことが語られているのです。
 わたしたちもつい、奇跡を求めてしまいます。何か不思議な体験に心を惹かれてしまいます。人がそのような体験をしたと聞くと、つい羨ましくなってしまったり、そういう体験のない自分は、神さまから愛されていないのだろうか、とか、信仰がないから、そういう体験ができないのだろうか、と考えてしまったりすることが、あるかもしれませんけれども、今日のところでイエスさまが語っておられるのは、そうではない、ということです。そういう目に見える証拠よりも、もっとも確か、ほんとうのしるしは、わたしが語る神さまの御言葉であり、そして、それを聞くことこそが、あなたがたが救われるためにもっとも大切なことなのだ、とイエスさまは言われるのです。ですから、その意味で、いまわたしたちが守っていますこの礼拝こそが、イエスさまが与えてくださった、わたしたちへのしるしだ、ということができると思います。礼拝に招かれている、そして礼拝を通して神さまの御言葉を聞くめぐみに預かっている、このことの中に、救いがあり、本当に幸いがあるのです。

 そこで後半の33節以下ですけれども、ここにはまず「ともし火」の話があります。ともし火は穴蔵の中や、升の下に置かれるべきではない、燭台の上にこそ置かれるべきものだ、そうすることによってこそ、その光が周囲を明るく照らすことができる、ということイエスさまは語られています。そしてこの話は最後の36節につながっていきます。「あなたの全身が明るく、すこしも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」・・・つまり、これは何を語っておられるか、というと、わたしたち自身は、ともし火に照らされて、はじめてその全身が明るく輝くのであり、またわたしたちの輝きが、周囲を照らすことにもなる、ということなのです。

 では、そうなるためにはどうすればよいのか、ということを語っているのが、その間の34節の「からだのともし火は目」という話なのです。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とあります。わたしたちの全身が、明るく照らされるかどうか、目によって決まるというのです。目が澄んでいれば、明るく照らされる、しかし目が濁っていれば、暗くなってしまう。・・・
 さきほどは、ともし火に照らされているかどうかが問題であったのに、こんどが、目が澄んでいるか濁っているかが問題だという、ちょっとわかりにくい感じがするわけですけれども、ここで「目が澄んでいる」というのは、わたしたちが考えるような、純粋であるとか、正直であるとか、そういう意味でではないのです。ここで「澄んでいる」と訳されている言葉のもともとの意味は「単純である」という意味です。「目が単純である」などというとへんな感じがしますけれども、要するに、まっすぐに、見るべきものをちゃんと見ている、見続けている、ということです。
 それに対する「目が濁っている」というのは、ですから、何かやましいところがある、というようなことではなくて、この「濁っている」と訳された言葉も、もともとの意味は、悪い、ということです。つまり目が悪い、つまり、見るべきものがちゃんと見えていない、あるいは、見るべきものをちゃんと見ようとしていない、ということなのです。では、まっすぐに、わたしたちが見るべきもの、見続けているべきものとは何でしょうか? それが、ともし火です。ともし火の光であります。

ここで濁っている、と訳された言葉が、じつは最初に、イエスさまが、いまの時代の者たちはよこしまだ、と言われて、その「よこしまである」という言葉と同じ言葉なのです。どちらも、もともとは悪いという意味だと申しました。つまり、いったいいまの時代の人々の、そしてわたしたちの、いったい何が悪いのか、しるしを求めてなんで悪いのか、というその最初の問いの答えは、それは、まっすぐに神さまのほうを向こうとしないから、あのニネベの人々や、南の国の女王のように、まっすぐに神さまの呼びかけに応えようとしないから、ともし火の光を、ちゃんと見続けようとしないからだ、ということなのです。

 どうして、わたしたちは、そのように、神さまの呼びかけにこたえて、その光を見続けようとしないのでしょうか。それは、わたしたちが光なんて必要ない、と思っているからではなくて、自分たちの中に光はある、と思っているからではないでしょうか。何か頼りになるものがちゃんと自分たちの中にある、と思っている、だからそんな、神さまの御言葉に聞きしたがって、その光を見続けるなんて、そんなことしなくてもよい、と思っている、それはもうどうしようもなく弱い人たちだけがすればよいのであって、自分はそれには当てはまらない、と思っているからではないでしょうか。
 しかし、また私たちが正直に自分を見つめるならば、わたしたちはほんの些細な失敗や挫折、物事が自分の思うようにならない、という出来事の中で、その自分の中にあるつもりの光がいともたやすく、消え失せてしまう、ということを経験しているのではないでしょうか。そして、光の消えたわたしたちは、不安や、悲しみ、怒りやねたみといった、暗い思いにとらわれていってしまうのです。

 自分の中にあるつもりの光、自分で努力して築いてきたつもりの光、それもみんな、本当は外からいただいた光なのです。自分一人で大きくなったような顔をして、という言葉がありますけれども、まさに、神さまの前にわたしたちは、実にしばしば、まるで自分一人で大きくなったような顔してしまっているのです。そして、それはそれですむ問題ではなくて、そのような生き方が結局は自分自身の光を消し去ってしまい、それゆえに周りを照らすどころか、暗い殺伐した状況を周りにつくりだしていってしまうのであります。

 私たちを外から照らす光、それはイエス・キリストです。イエスさまを通して示される神さまの御言葉です。イエス・キリストの十字架の死と復活による救いをわたしたちに告げてくれださる御言葉、神さまがその独り子のいのちをすら与えて、わたしたちを暗い罪の支配から解放してくださり、神の子として、光の子として、新しく活かしてくださる、めぐみの御言葉です。イエス・キリストご自身こそ、まことの神の御言葉なのです。この恵みの御言葉を聞き、その御言葉の光に照らされることによってこそ、私たちは、キリストの恵みの光に全身を明るく照らされて生きることができるのです。

 その光に照らされるとき、私たちは自分が明るく輝くことができる、平安と喜びに生きることができるだけでなくて、周囲をもその輝きで照らす者となることができるのです。つまり、ともし火を見つめることで、わたしたちも小さなともし火の役割を果たすことができるのです。33節に「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とありました。私たちが輝かす光は「入って来る人」に道を示し、その足元を照らすのです。「入って来る人」とは教会に入って来る人のことです。キリストの救いの中に入ってくる人のことです。私たち自身には何の力もないけれども、キリストの御言葉に聞きしたがっていく、その歩みの中。で、人を救いに導く、神さまの尊いお働きの御用に、用いられていくのです。

 今日は母の日ということですけれども、イエスさまの御言葉を見つめることができていなかったなら、とても、いまこうして、歩くことも立つこともできなかったけれども、深いかなしみと絶望の中で、イエスさまと出会い、その御言葉の光を見つめることができたことで、これまで、歩んでくることができた、いやただ自分だけが歩んでくることができた、というだけでなくて、その歩みを通して多くの、つらい思いをしている人々をも励まし支えるという、当初は自分でも思いもよらなかった、働きへと導かれたある一人の母のことを、最後にご紹介したいと思います。その母とは、娘さんのめぐみさんが拉致され、行方不明になってしまった、横田早紀江さんであります。政治的な問題で、ご本人の願っていること以上に、大きな話題になっていますけれども、そうした政治的な問題を取り除けば、そこには、愛する娘を、失って、悲しんでいる一人の母親がいるのであります。その早紀江さんが、あの2011年3月11日に起きた、東日本大震災によって被災し、家族を失い、家を失い、仕事を失い、故郷を失った人々に向かって、次のようなメッセージを語っておられます。すこし短くしてご紹介したいと思います。「洪水によって、突然、愛する者が煙のように姿を消してしまった。にわかに信じられない、受け入れがたいことです。どんなに苦しくて、耐え難いことでしょう。娘のめぐみが忽然と姿を消してしまった頃のさまざまなことが、ふと心によみがえりました。「どうか生きていて」と絶叫したくなるような気持ちで、私は毎日娘を探し回りました。何の手がかりもなく、時間だけがすぎました。生きる望みが絶たれたようで、心にむなしさが満ちるばかりでした。そんなとき、私は一冊の聖書を頂きました。「悲しみの最中、どうしてこんな分厚い本を読むことができるものですか」と思いましたが、涙にくれるしかない私は、いつしか聖書のページをめくるようになっていきました。・・・すこし聖書を知るうちに、自分のちっぽけさや、汚れに気づかされていきました。そして、私のように罪ある全ての人間を救うため、キリストが十字架の苦しみを体験され、血を流して死んでくださったことを知り、深い感動を覚えました。・・・どんなときも、輝く日の光が私たち全てに降り注がれています。野には花がさきます。全ての人が大きな力に包まれて、いっしょに生かされています。うつむくときも、背中に太陽の熱を感じます。誰も見ていないように思えるときにも、神さまはあなたを心にかけておられるのです。どうかあなたの上に神の平安がありますように」
そうです、わたしたちが見つめるべきその光は、実は、わたしたちをどのような時にあっても、あたたかく見つめてくださっている光なのです。イエスさまによって与えられたその光を信じ、見つめつつ、私たち自身が輝くとともに、周りをその輝きで照らすものとなりたいと願います。祈りましょう。

主なる神さま、わたしたちは目の悪いものであります。すぐにあなたの御言葉から目をそらし、自分の中に何か誇れる光があると自分中心になってしまう、その中、光を失い、道に迷うものであります。けれども、今日あなたが、わたしたちを御言葉の光のもとに招いてくださり、あなたの御言葉を聞かせてくださった、その恵みに感謝したします。まことに、あなたの御言葉は、わたしたちの足元を照らす光であります。どうか、終わりの日まで、あなたの光に照らされつつ、その道を歩んでいくものとなれますように、そしてまた、わたし自身も、周囲を照らす者とならせてください。主のみなによっていのります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

cm 0   tb 0   page top

カテゴリ

リンク

カレンダー

最新記事