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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

受難節第4主日礼拝 

2018年3月11日 ルカによる福音書 第19章41-48節
「神の招きに答える時」三ツ本武仁牧師

 今日のルカ福音書の19章の41節から47節には、二つのことが語られています。第一は、イエスさまがエルサレムの都のために泣かれたということ、そして、その涙の中でお語りになったみ言葉であります。そしてここで語られている第二のことは、45節以下の、イエスさまがエルサレム神殿の境内で商売をしていた人々を追い出したという話です。「宮清め」と呼ばれる、怒りに満ちたいささか乱暴なイエスさまのお姿がここには描かれています。泣いたという話に続いて、怒って乱暴なことをなさったという、どちらも珍しく感情的になっておられるイエスさまのお姿が、ここに語られているのです。今日東日本大震災の7周年にあたえる日に、たまたまこの聖書箇所が当たってわけですけれども、あの時も思えば、多くの人々の涙が流され、怒りが噴出した時でもありました。

 そこで、この珍しく感情をあらわにしておられるイエスさまのお姿を語る二つの話の内、今日は、後の方の「宮清め」の話から先に見ていきたいと思います。イエスさまが神殿の境内で商売をしていた人々を追い出したというこの話は、四つの福音書の全てに語られています。ルカではイエスさまが「そこで商売をしていた人々を追い出し始めた」と語られていますが、マルコ福音書を見ますと、それはもう少し詳しく、イエスさまが「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返した」と語られています。

神殿の境内で商売をしていた人々とは、両替人や鳩を売る者たちでした。どうしてこういう人々が神殿の境内に店を出しているのでしょうか。この両替人は、観光客のために例えばドルを円に両替するようなことをしていたのではありません。彼らがしていた両替は、一般のお金を神殿専用のお金に両替することでした。神殿で神様に捧げることができたのは、神殿専用の清いお金だけだったのです。つまりこの両替は、人々が神様に献金をするためになされていたのです。鳩を売る者というのも、エルサレム土産の鳩を売っていたのではありません。この鳩も、神様に犠牲として捧げるためのものです。経済的に余裕のある人は、羊を犠牲として捧げます。しかし、羊を用意するだけのお金のない人は、その代わりに鳩を捧げることができる、と旧約聖書の律法に記されています。

また、神様に犠牲として捧げる動物は、どこにも傷がないことを祭司によって認定してもらわなければなりませんでした。自分の家から持って来た鳩は、途中で傷がついたりして捧げることができないかもしれません。それで多くの人はお金を出して祭司の認定ずみである犠牲用の鳩を買って捧げたのです。つまりこれらの商売はどれも、神殿で神様を礼拝する人々の便宜をはかるためになされていたのです。そういう店が、神殿の境内で開かれていたのです。ですから私たちは、このエルサレム神殿の境内の様子を、何か日本の神社のお祭りの時に、たくさんの屋台が立ち並ぶ様子と同じように考えてしまってはいけないのです。そうではなく、神殿での礼拝の便宜をはかるために商売をしていた人々を、イエスさまは、追い出されたのです。

 イエスさまはなぜそんなことをなさったのでしょうか。イエスさまは次のように言われました。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」。ここで「わたし」というのは主なる神様です。主なる神様の家、つまり神殿は「祈りの家」と呼ばれ、人々が神様に祈るための場でなければならない。それなのに、今やその神殿が、商売のために利用されてしまっている、じっさい、これは、観光名所となるような有名な教会やお寺や神社で、いまでも起こっている現象であるわけです。そこで得る収入が、その国や地域を支える、大切な財源になっている、それは決して否定できない事柄だと思いますけれども、その一方で、肝心の礼拝そのものが、中身のない、虚しいものとなってしまっている、イエスさまはそのことに対して、激しく怒ってこのような乱暴な振る舞いに及ばれたのです。

礼拝が、清いお金や傷のない犠牲を捧げることによって、つまり、かたちだけ整えさえすれば、それで成り立つと、考えられるようになってしまった・・・。それに対してイエスさまは、それではいけないのだ、と言われて、「祈り」を強調なさったのです。祈りがければ礼拝ではない、神の家は祈りの家であると。・・・ですから、ここで注意しなければならないのは、その意味で、このイエスさまがいわれる「祈り」ということも、かたちだけ整えればそれでよい、というものではない、ということです。もう少しいうと、祈り、というのは、私たちが神さまに向かって、あれをしてください、これをしてください、と願う、それだけが祈りではない、いや、それは実際には本当の祈りではない、ということなのです。

そうではなくて、イエスさまがここで求められている祈り、というのは、むしろ、私たちが神のみ言葉を聴くことによって、自分が変えられていくような祈りです、はっと気づかされて、自分が変えられていく体験をする、それが本当の祈りなのです。自分だけが一方的に祈るというのではなく、私たちに今、新しく語りかけてこられている、神様と出会い、そのみ言葉をしっかり聞き、生きて働きかけておられる神様ときちんと向き合い、神様とのそういう正面からの交わり、応答の関係の中で、私たちのほうがむしろ変えられていく、それが本当の意味での祈りなのです。そういう祈りの家、それが神の家であり、神殿である、とイエスさまは言われるのです。

今日は3・11東日本大震災7周年の日でありますけれども、震災ということで、東日本大震災よりも、16年前に起こった阪神淡路大震災を経験した教会のあるエピソードを思いだします。その震災のあと、被災した兵庫県のある教会で礼拝がもたれるのですが、ある女性の信徒の方が、その礼拝で、信仰告白がなされるとき、われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず、というところを、みながそう告白している中、一人、大きな声で、われは天地の造り主全能の父なる神を信じません、と告白したのだ、そうです。会衆はみなびっくりしたそうですけれども、それを誰も咎める気は起こらなかった、その気持ちは痛いほどよくわかったからと、その教会の牧師は言っておられました。そういう苦しい不信を抱えながら、そういうものを抱えつつ被災地の教会はそれでも、共に礼拝を守りながら歩んでいった、そして、やがて、その女性の、天地の造り主を信じない、という告白が、以前の、天地の造り主を信ず、という告白へと戻っていった、そこにまた教会全体の深い慰めと癒しが起こっていたのだ、というのです。

 さて、イエスさまがエルサレムを見て泣いたという41節以下に戻りたいと思います。イエスさまはなぜ涙を流されたのでしょうか。その思いは42節以下に語られています。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。一見、ちょっと怖いことが言われていますけれども、ここでイエスさまは、エルサレムの人々が「平和への道」をわきまえていないことを嘆いておられるのです。そのために彼らは平和に至ることができず、やがて恐しい破局に襲われる、というのです。攻め寄せる敵に包囲され、ついに陥落して徹底的に破壊され、多くの人々の命が奪われてしまうと。

エルサレムにおいて、このことは、じっさいに、この後、紀元70年に実現したことでありました。ローマ帝国に対する反乱を起こしたユダヤ人たちが、ローマ軍に打ち破られ、エルサレムは籠城戦の末に陥落し、徹底的に破壊され、多くの人々が殺されたのです。イエスさまは、一つには、そのことを見越して、予見されて、そのようなエルサレムの人々の運命を幻に見られて、泣かれたのでしょう。けれども、イエスさまのこの涙、嘆きは、エルサレムの人々のそのような過酷な運命を悲しんでいるというだけではないのです。イエスさまは、むしろ、そもそも、そのようなことが起る根本的な原因を見つめて泣いておられるのです。それは、人々が、平和への道を知らない、ということです。それは別に言い方をすれば、「神の訪れてくださる時をわきまえていない」ということです。このことを見つめて、イエスさまは、涙を流して泣かれたのです。

 「神の訪れてくださる時をわきまえない」とはどういうことでしょうか。神様の独り子、まことの王イエス・キリストが、王の都であるエルサレムに来たのに、そのことを全くわきまえておらず、迎えようとしなかった、その人々は、平和への道を知らず、神の訪れの時をわきまえず、その結果、滅びるしかない者となってしまった、そのことをイエスさまはここで嘆いておられる、そのように読むこともできるかもしれません。

けれども、イエスさまのこの嘆きは、今を生きる私たちのための嘆きでもあるのです。イエスさまは私たちのためにも涙を流されたのです。それは、先ほどの「宮清め」におけるイエスさまの怒りと同じであります。本当の祈りを失ってはならない、という私たちへの熱いイエスさま思い、そして、神の訪れの時をわきまえてほしい、という私たちへ熱いイエスさまの思い、が、一つとなって、わたしたちに迫ってくるのです。

イエスさまがエルサレムに来られたことも、確かに、神さまの決定的な訪れの時でした。しかし、神さまの訪れはその時にだけ起ったのではありません。イエス・キリストが人間としてこの世に生まれて下さり、神の国の福音を宣べ伝えて下さり、そして十字架にかかって死んで下さり、父なる神様がそのイエスさまを復活させて下さった。そして、天に昇られたイエスさまのもとから、聖霊が遣わされて、地上に教会が誕生し、私たちがそこへと今日もこうして招かれているのです。

今日も今も天の父は、独り子イエス・キリストによって私たちを訪れ、働きかけ、語りかけ、私たちと正面から向き合う交わりを結ぼうとしておられるのです。この神の訪れをわきまえ、それをしっかりと受け止めて応答し、神様と向き合っていくことこそが、今日ここでイエスさまの言われる「祈る」ということの中心にあることです。そのような祈りの家になることを願われて、教会はこの世に与えられているのです。その礼拝において私たちは、神様からの語りかけを聞き、その働きかけに応え、つまり神の訪れをわきまえ、それに応答して、神様との交わりに生きていく、そして、そこに、この世の損得や、苦悲しみをも包み込んでいく、神さまの深い慰めに満ちた命、喜びに満ちた命の道が与えられていくのです。万事が益となる、そのことが、単純な意味ではなくて、本当に深い意味で、わかってくる時が、わたしたち一人一人に与えられていくのです。

神様が私たちを訪れて下さり、私たちと正面から向き合って、私たちと豊かな交わりをもって下さる、そのことをわきまえずに生きるところでは、私たちが生まれつき持っている自己中心的な様々な思い、願い、欲望がどこまでもふくれあがっていくのです。そして、人と人との欲望のぶつかり合いである争いや戦いが必ず生じていくのです。本当の平和への道は、私たちの自己中心的な思い、願い、欲望が、神様の訪れによって、そのみ言葉とみ業とによって打ち砕かれ、私たちがその神様のみ心に従う者となる所にこそ、開かれていくのです。

 「宮清め」におけるイエスさまのお姿は、怒りに満ちており、乱暴で暴力的ですらあります。私たちが普通に抱いているイエスさまのイメージとは違うと言えるでしょう。しかし、これもまたやはり、イエスさまの真実のお姿なのです。イエスさまは、私たちの礼拝が、祈りが、信仰が、主なる神様と真実に向き合うものとなっていないことに対しては、このように、真剣にお怒りになるのです。しかし、そこで忘れてならないのは、その怒りと同時に、イエスさまは私たちのために涙を流して下さっている、ということです。つまり私たちのことを本当に愛して下さっているのです。愛しているからこその怒りです。よく怒ってくれる人がいるのは幸せなことだ、と言われますけれども、・・・そうしょっちゅう、怒られるばかりというのもかないませんが、しかし、イエスさまは私たちを愛するがゆえに、このように怒ってくださったのです。

・・・私が小学校三年生の頃、杉山先生という大好きな先生がいたのですが、あるとき、わたしがしたことに先生がものすごく怒られて、いつも優しい先生なので、さすがにショックを受けましたけれども、よく見るとその先生が泣いていまして、三ツ本くんがこんなことするとは思わなかった、と言って、泣かれたのです。なにをしたのかは今でも恥ずかしく言えませんけれども、ともかくも、今日のこのイエスさまの涙と怒りをわたしは、この小学校三年生のときの甘酸っぱい思い出とともに、思わないではいられないのです。

イエスさまの怒りにどれほど深い愛が示されていたか、イエスさまは、それはイエスさまご自身がわたしたちを救うために十字架にかかって死んでくださるほどに、愛してくださったのです。そのような大きな愛をもって、私たちに主は臨んでくださっているのです。今日も、この礼拝の中で、主イエス・キリストは、この赦しの恵みをもって私たちを訪れて下さっています。この訪れをわきまえて主イエスと向き合い、その招きに答えて、心から祈るものとなっていく、心からの礼拝をささげるものとなっていく、そのことによって、真の平和への道を示され、主ある喜びをもって、その道をしっかりと歩んでいきたいと願います。祈りましょう。

主なる神さま、自分中心な思いの中で、あなたと本当に向き合うことのできないわたしたちのところへ、今日はあなたの御子イエスが訪れてくださり、あなたと向き合い、あなたの御言葉を心の奥深くで聞く、まことの祈りに生きるものへ、そしてそのようにして平和の道をわきまえる者へと招いてくださっていますことを感謝いたします、怒りと涙をもって、ときに激しくわたしたちを正してくださる主の深い愛に打たれつつ、またそのために十字架に命をささげてくださったあなたの大きな愛に答えて生きるものとならせてください。また7年目を迎える東日本大震災の被災地の上に、震災の痛みの中にある一人一人の上にあなたの深い慰めとお癒しがありますように、この祈りを、主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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受難節第2主日礼拝 

2018年2月25日(日)ルカによる福音書第19章11-27節
「豊かな人生の源」三ツ本武仁牧師

 本日ご一緒に読むルカによる福音書第19章11節以下には、イエスさまがお語りになった一つのたとえ話が記されています。それは小見出しにもあるように、「ムナのたとえ」と呼ばれているものです。このたとえ話をもって、9章51節から始まったエルサレムへの旅が終わります。この後の28節からは、イエスさまがエルサレムに入られたこと、いわゆる「エルサレム入城」が語られます。そこから、イエスさまのご生涯の最後の一週間、いわゆる受難週が始まります。ご生涯の最後にエルサレムに入り、そこで捕えられ、十字架につけられて殺される、このたとえ話はその直前に語られたのです。今年はいまはまだ受難週ではありませんが、受難節には入っていますので、そのことは特に心に留めておきたいと思うのです。

11節には、「イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」とありました。イエスさまがこのたとえを話されたのは、「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」なのです。「神の国」とは「神様の王としてのご支配」という意味です。神様のご支配がいよいよ現れ、実現する、それが「神の国が現れる」ことです。人々は、イエスさまがエルサレムに入ることによって、それが実現することを期待していたのです。

このときユダヤの地は、異邦人であるローマ帝国に支配されていました。イスラエルは国としての独立を失っているのです。しかしまことの王、つまり救い主がエルサレムに来て即位するなら、そのローマの支配を打ち破り、神様の王国であるイスラエルを回復して下さる、そのようにして、神の国が現れ、実現する、そういう救い主の到来をユダヤの人々は長年待ち望んでいました。そこにイエスという人が現れ、神の国の到来を告げ、病人を癒し、悪霊を追い出しつつ、今エルサレムへと向っている。このイエスこそ待ち望んだ救い主ではないか、神様の王国を実現して下さる方ではないか、かつての幕末の日本で、尊皇攘夷論といって、再び天皇の権威を絶対化し、排他的な国づくりをしようという、そういう考えが現れたことがありましたけれども、それと似たような期待がイエスさまに対して、人々の間にも高まっていたのです。イエスさまのこのたとえ話は、そのような期待を抱いている人々に対して語られたのです。

 このたとえ話はこのように始まります。12節、「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」。ですから、これは明らかに、人々が抱いているそのような期待を意識しているのです。王の位を受けようとしているある立派な家柄の人、それは人々が王として即位することを期待しているイエスさまご自身のことを指しています。そしてこれは、エルサレムにおいて、人々がイエスさまに期待しているのとは違うことが起ることを語っているのです。人々は、イエスさまがエルサレムですぐに王となることを期待しているわけですが、この話においては、この人は王の位を受けるために遠い国へ旅立つのです。

遠い国に旅立った者は、しばらくこの地からはいなくなります。私はこれからエルサレムに登るが、そこから遠い国へ旅立ち、あなたがたの間からいなくなるのだ、とイエスさまは言っておられるのです。エルサレムから旅立っていなくなる、それはイエスさまがエルサレムにおける十字架の死と復活を経て天に昇り、父なる神様のみもとに帰られるということを示しています。それによって、イエスさまはエルサレムから、いやこの地上からいなくなるのです。

しかしそれは同時に、いつまでもいないままなのではない、ということをも示しています。イエスさまがいなくなるのは、王の位を受けて再び帰って来るためであり、必ず戻って来るのです。それは、いわゆるキリストの再臨のことを意味しているといえるでしょう。先日、詩人の八木重吉の生涯について書かれた本を読んでいましたら、八木重吉も最後はこのキリストの再臨に対する信仰を深めていったということが書かれていましたけれども、そういうキリストの再臨に関わることが今日のところにも示されているのです。

そのような場面と状況が語られた上で、13節にこうあります。「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」。王の位を受けるために旅立とうとしている主人が、十人の僕たちに、自分が旅に出て不在である間になすべきことを命じたのです。その命令を受けた僕たちがどうしたか、それがこのたとえ話の内容の中心でしょう。主人が王となって帰って来るのを待っている僕たち、それは、イエス・キリストを信じる信仰者の姿なのです。

旅立つに際して主人は、「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」。つまり一人に1ムナの金を渡し、それを用いて商売をせよと命じました。実はこれと同じようなたとえ話が他にあります。マタイによる福音書の第25章にある、いわゆる「タラントンのたとえ」です。そのタラントンのたとえと本日の箇所のムナのたとえは兄弟のような関係にあります。しかしそこには明確な違いもいくつかあります。まず、僕たちに預けられた金額が全く違います。タラントンのたとえに用いられているタラントンという単位は、ムナという単位の60倍の価値があります。つまり1タラントンは60ムナなのです。
 
もう一つの違いは、タラントンのたとえでは人によって与えられている金額が違うということです。そこには「それぞれの力に応じて」という言葉があって、この金額の違いは神様からそれぞれの人に与えられている能力、タレントの違いを表しています。能力、才能を意味するタレントという言葉は、このタラントンから生まれたのです。それに対して、このムナのたとえにおいては、十人の人それぞれに1ムナが渡されています。皆同じものを与えられているのです。ですからこのムナは、能力、才能を意味してはいません。皆に同じように与えられているものが見つめられているのです。

 タラントンのたとえにおいては、5タラントン預けられた者は5タラントンを、2タラントン預けられた者は2タラントンを儲けました。元手が違えば、生じる実りも違うわけです。そして主人はその二人を全く同じ言葉で褒めています。大事なのは実りの大小ではなくて、神様から与えられているタレントを生かして用いたかどうかなのです。しかしこのムナのたとえでは、同じ1ムナから、ある者は10ムナを、ある者は5ムナを儲けました。この場合は元手が同じですから、儲けの違いは用いた者の力の違いということになります。そして主人は、10ムナ儲けた者には10の町の、5ムナ儲けた者には5つの町の支配権を与えています。同じ1ムナを用いてあげた成果の違いが、この酬いの違いにもなっているのです。つまりムナのたとえにおいては、私たち信仰者に神様から皆同じものが与えられているけれども、人によってそれをどう生かし、どれだけの実りを生むかが違ってくるのです。それでは、その、私たち一人一人に平等に与えられている1ムナとは何を意味しているのでしょうか。

 先ほど申しましたようにこれは私たちそれぞれの能力や才能ではありません。人によって様々に違っているものではないのです。ただ単に、わたしたち一人一人に平等に与えられているもの、といえば、まず考えられるのは「命」でありましょう。学校なので教える場合は、そのような答えでよいかもしれません。しかし、今日のところは、厳密にいえば、主の僕として生きる信仰者の一人一人に、皆同じく与えられているものが見つめられているのです。ですから、それは「信仰」ではないでしょうか。それ以外の点では様々に違っているこの私たち信仰者一人一人に、等しく与えられているのもの、それは、イエス・キリストを信じる信仰なのです。その信仰は、このたとえに即して言えば、主イエスこそ救い主であられ、まことの王として私たちを、そしてこの世界を支配なさる方である、と信じる信仰です。そのイエスさまのご支配は、今、この世界に、誰の目にも明らかな仕方では確立していないけれども、しかしイエスさまは確かにまことの王として戻って来られる。そのことを信じて、イエス・キリストを待ち望みつつ、主の僕として、主のみ心を行なって生きる、それが私たち一人一人に与えられている信仰であり、信仰に基づく生活なのです。主イエス・キリストを信じる信仰者は、誰もが皆、この信仰を与えられています。それが私たち一人一人に預けられている1ムナなのです。

 そこで、いまイエスさまが不在であるこの世において、その信仰を、その1ムナをどう用いていくか、それが私たちに問われているのです。この1ムナの、つまり信仰の価値を認めて、それを真剣に受け止め、そこに示されている神様の約束を信じて生きるなら、そこには豊かな実りが与えられていくのです。それが10ムナを儲けた人の姿が示していることではないでしょうか。また、その人ほどには、与えられた信仰を十分に認めて生かすことはできなかった、ときには信仰を疑い、信仰から離れてしまった、そして、信仰よりも自分を頼りに生きて、行き詰まっていった。でも、それでも、それなりに信仰をもってやはり生きてきた、それがここでいう5ムナ儲けた人の姿なのではないでしょうか。そういう意味では互の私たちは、1ムナの信仰をそれなりに生かしていたとしても、とても10ムナなんてもうけられない、せいぜいこの5ムナの人くらいものではないか、と考えてみてよいのかもしれません。

 けれども、さらにこのイエスさまの話には、三人目の僕が登場するのです。彼は、主人から預けられた1ムナを布に包んでしまっておいたのです。つまりそれを全く用いることなく、主人が帰ってきた時そのまま返したのです。すると、その僕は主人から厳しく叱られ、持っている1ムナも取り上げられてしまいます。あのタラントンのたとえにも、同じ三人目の僕が出てきます。1タラントンを預けられたその僕は、やはりそれを用いることなく、土を掘って隠しておいたのです。

21節のこの僕の言葉は、タラントンのたとえにおける三人目の僕とほぼ同じです。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。この三人目の僕の姿は何を示しているのでしょうか。タラントンのたとえにおいては、神様から与えられているタレント、能力、才能を生かすことなく、用いなかったということになります。そしてそれが、三人の内で最も少ない額を預けられた人だったところに、この人が、他の人に与えられているものと自分に与えられているものとを見比べてひがんでしまった、自分に与えられたものを見つめるのではなく、自分に与えられていないモノを見つめてしまった、恵みを数えるのではなく、不満を数えてしまった、そうやって神さまを恨んでしまった、それがこのタラントのたとえの三人目の下僕の問題でありました。

しかし、今日のこのムナのたとえにおいては、それとは全く違うことが見つめられています。彼に預けられていた1ムナは先ほど申しましたようにイエスさまを信じる信仰です。イエスさまが王となって戻って来るという約束を信じることです。この人はその1ムナを全く用いなかった、というのは、つまり、信じなかったのです。信仰を与えられながら信じない、というのは、矛盾のような、奇妙な感じがしますけれども、言ってみれば彼の信仰は、当時の多くの人々が、イエスさまに対して抱いていたような、ご利益的な信仰であったわけです。ご利益信仰の内実は、神さまが自分のいうことを聞いてくれることであって、自分が神さまに従うということではないのです。この世的な損得を超えて、神さまを信じていくところに、本当の幸いがあり、喜びがあるわけですけれども、そういう信仰をこの三人目の下僕は用いなかったのです。それが望ましいことだと思っていないからです。それはつまり、イエスさまの支配を本当には望んでいなかった、ということなのです。

彼は、1ムナを用いなかった言い訳としてこう言っています。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。この僕は主人が厳しい、恐ろしい人だと思っているのです。それはつまり、そんなご利益的ではない、この世的には、つらい中でも、損に見えるような状況にあっても万事が益となると信じて生きていくなんて、厳しいことだ、恐ろしいことだ、と、そう思っているということです。だから心の中では、そんな人に王になってもらいたくないのです。

ですからこの三人目の僕は、この話の14節に出てきた、「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」という人たちと重なります。そして、この話の最後で、三人目の僕は持っているものまでも取り上げられてしまうのです、そしてさらには、27節でこうあります、「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」・・・。なんだか随分物騒な、恐ろしいことが語られていると思います。これは簡単に解釈できないところだと思いますけれども、しかしこれは、本当は私たちを、まことの喜びへと導こうとしてくださっているイエスさまを、自分を裁く、厳しい恐ろしい方だと誤解して、拒否しまっている、そして、万事を益としてくださるイエスさまにゆだんえることができなくなってしまっている、という、そのこと事態が、すでにこの人自身に、厳しい恐ろしい裁きを課してしまっている、ということなのではないでしょうか。

 私たちはこれまで、18章の終わりから19章の始めにかけて、この三人目の僕とは正反対に、救い主イエス・キリストとの出会いと、その救いを真剣に求めた人々の姿を見てきました。エリコの町の門の外に座っていた、目の見えなかった物乞いは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けて、主の救いにあずかりました。徴税人ザアカイは、なんとかして主イエスを見ようとしていちじく桑の木に登りました。そのザアカイの下で主イエスは立ち止まり、彼の名を呼び、「急いで降りて来なさい。今日私はあなたの家に泊まる」と宣言して下さいました。ザアカイは、イエスさまのその語りかけに従って急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えたことによって、救いがザアカイの家にももたらされたのです。これらの人々は、自分に与えられた1ムナをかけがえのない大切な価値あるものとしてそれを生かしたのです。イエスさまが自分の王となって下さることを心から求めたのです。それによって、彼らの信仰は豊かな救いの実りを生んだのです。もしも彼らが、イエスさまとの出会いを求めて叫ばず、またイエスさまを見ようともせず、また呼びかけられても自分が登っている木から降りて来ようとしなかったならば、彼らの救いはなかったのです。1ムナを布に包んでしまっておいた、とはそういうことではないでしょうか。

 私たちが、それぞれに預けられている1ムナの信仰の価値を認め、それを生かしていく。それが私たちの人生を豊かなものにしていく源です。具体的には、そうして与えられた信仰を足がかりにして、こうして礼拝に集い、主を共に賛美し、信仰の仲間と共に、励ましあい、祈りあって、生きていくのです。それによってこそ、私たちに等しく与えられた信仰は、私たちの人生において、五倍あるいは十倍の実りを生み、また苦難の中にある隣人を支え助けていく力もそこに与えられていくのであります。お祈りいたしましょう。

 主よ、あなたから今日お預かりした1ムナの信仰を、私たちが、人生を本当に豊かなものにしていくためにあなたが与えてくださったものと信じ、それを用いていくものとならせてください。1ムナの信仰をもって、礼拝に向かい、1ムナの信仰をもってあなたを賛美し、1ムナの信仰をもってあなたに感謝し奉仕するものとならせてください。そして、その信仰が、私たちの思いを超えて、五倍十倍の実を結ぶことを、この世にあって善き業をもたらし、隣人愛を生み出していくことを信じるものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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受難節第1主日礼拝 

2018年2月11日ルカ福音書第19章1-10節
「今日、救いがこの家を訪れた」 三ツ本武仁牧師
 キリスト教は、宗教というよりも、イエス・キリストとの出会いの出来事です。わたしたちは、イエス・キリストと出会うことで、いつからでも、どこからでも、新しく生まれ変わらせていただけるのです。本日の19章1節以下にはまさに、主イエス・キリストによって新しく生まれ変わり、そのことによってまことの喜びの人生を生き始めた人の話が、印象深く語られています。

 その人はザアカイという人です。ザアカイはエリコという町の徴税人の頭で、金持ちだったと2節にあります。「徴税人の頭で金持ち」というだけで、この人が当時のユダヤ人たちの間でどのような立場にあったか、また人々からどのように思われていたかが分かります。彼が集めていた税金はユダヤを支配しているローマ帝国に納める税金でした。それを同胞であるユダヤ人から徴収するのですから、ザアカイは人々からは、敵に魂を売った売国奴と見なされ、神の民を裏切り、神に逆らうどうしようもない罪人として断罪され、また憎まれ、軽蔑されていました。もちろん、そんな役割を好き好んで担う人はいないわけですが、当然そこには役得が与えられていたのです。ローマに納める分以上に取り立てたお金は、自分の懐に入れることができたのです。彼が金持ちだったのはそういう理由によってなのです。それもまた、当然ながら、人々から憎まれる理由でした。そういうザアカイが住むエリコの町に、イエスさまが来られたのです。

3節には、ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」とあります。ここにもう一つ、ザアカイの特徴が語られています。彼は背が低かったのです。

 ザアカイは背が低かった。それは確かに意味深い彼の大きな特徴だと思いますが、ただそのことだけに意味があるのではないと思うのです。そのために群衆に遮られて、イエスさまが道を通って行かれる姿を彼は見ることができなかった、ここにこそ深い意味があると思います。これは、ザアカイは背が低かったので前に人々がいるとその向こうを見ることができなかった、という単なる物理的な問題ではありません。彼が人々と親しい、良い関係にあるならば、人々は背の低い彼に場所を譲って前に出してくれたでしょう。しかし誰もそういうことをしてくれなかった。むしろ故意にザアカイの前に立ち塞がって見えないようにしている、ということが「群衆に遮られて見ることができなかった」という言葉には感じられます。そこにエリコの町の人々のザアカイに対する敵意、憎しみが見て取れますし、またザアカイの孤独がにじみ出ていると思うのです。

 ところでザアカイは「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。イエスさまの評判はこのエリコの町にも伝わっていました。18章の終わりに語られていたように、イエスさまがエリコに入る時にも大勢の群衆が周りを取り囲んでいたのです。その噂のイエスさまを自分も見てみたいとザアカイは思ったわけですが、彼の思いは群衆たちとは少し違っていただろうと思うのです。群衆たちは、神の国の到来を告げ、奇跡を行なっているというイエスは、預言者たちが預言してきた、来たるべき救い主なのではないか、というそういう期待をもって、あるいは、そのことを確かめようとして、イエスさまのところにつめかけていたのだと思うのです。しかし、ザアカイがイエスさまを見たいと思ったのは、そういうことによってではなくて、この方が、自分と同じ徴税人たちを嫌ったり蔑んだりせずに、むしろ迎え入れているという、ザアカイにとって無視できないことを聞いたからでしょう。この福音書の15章の冒頭に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」とありました。徴税人であったザアカイは、このようなイエスさまの姿を伝え聞いて、そのことで徴税人の立場から興味を惹かれて、そのように自分たちを受け入れてくれているイエスという人を一目見てみたいと思ったのではないでしょうか。

 しかし、群衆の敵意によって邪魔されてしまった。そこで彼は、「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」と4節にあります。イエスさまが通っていかれる道端の木の上から、群衆に邪魔されることなくイエスさまを見ようとしたのです。背の低い彼が、先の方へとあわてて走っていき、一生懸命に体を伸ばし、枝をつかみ、足をかけて木によじ登っていく姿、というのは、想像すると、こっけいで、面白い姿でありますけれども、しかしそこには、彼の必死の思い、何とかして、イエスさまを見たいという願いもまた感じられるように思います。そして、このようなザアカイの姿は、この話の前の18章で、イエスさまが、エリコの町に入ろうとしておられたとき、道端で物乞いをしていた目の見えない人が「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、イエスさまに必死に叫び続けた姿と重なるように思うのです。

ザアカイの心の奥底にも、そのような必死の叫びがあったのではないでしょうか。しかし、ザアカイの場合は、まだ自分の心の奥にあるその叫びには気付いていません。彼は、あの物乞いのように自分からイエスさまに呼びかけて、救いを願おうとは思っていません。イエスさまと正面から出会おうと思ってはいないのです。ただ、徴税人をも迎え入れているという噂のイエスとはどんな人なのか、その顔を見てみたいというだけ。それ以上の計画は彼にはなかったでしょう。でも、そうはいっても彼はあわてて走って行って木によじ登りました。それは、どうでもよいと思っていることをしている者の姿ではありません。彼の心の奥底にある、自分でも気づいてない、イエスさまに憐れみを求める思い、救いを求める切なる叫びが、彼を知らず知らずのうちに、そのような行動へと駆り立てていったのではないでしょうか。

 このようにしてザアカイは、いちじく桑の木の上から、下を通っていくイエスさまを見ていました。そして、本来なら、やがてイエスさまは、彼の下を通り過ぎていく、それを木の上でこっそり見て、それで終り、またこっそり木から降りて家に帰っていく、そして、それまでと変わることのない日常に戻っていく。「ああ、あれが噂のイエスであったか、なるほど、あんな顔していたのか。」と、そんなふうに時々は今日のこの出来事を思い出すことはあっても、それはそれであって、彼の人生には特に変化もないままであったはずでした。

ところが、そこで全く想定外の出来事が起ったのです。5節です「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』」。・・・なんとイエスさまが、全く面識もないはずの自分の名前をお呼びになったのです。木の上から見下ろしているザアカイを見上げて、驚くでもなく、むしろ彼がそこにいることを、もともと知っておられたかのように、彼の目をしっかりと見つめながら、「ザアカイ」と、そうイエスさまが彼の名前を呼んだ時、彼ははっきりと感じ取ったに違いありません。・・・ああ、この方は、自分の全てを知っておられる、・・・自分がどのような者であり、どのような人生をこれまで歩んできたのか、そして今、この町で徴税人の頭として、金持ちにはなっているけれども、人々から憎まれ、嫌われ、蔑まれている、誰も自分に好意を持ってくれる人もない、また自分でも、それで結構だ、嫌うなら嫌え、憎むなら憎めと開き直っている、こっちにはローマがついているんだ、その権力にものを言わせて、お前たちから金を取ってやる、それでおあいこだ、そう思って生きている、・・・でも、でも、さらに深い心の中には、どんなに財産があっても満たされないさびしさ、虚しさ、悲しみ、愛を求めている、救いを求める叫びがある、それを必死に押さえつけながら、この世での徴税人の頭という役回りを演じている、だってもう自分にはそれしかない、そのようにしか生きられない、そう思って生きている、そのことを今の今まで、自分でもはっきりとは気づいていなかった、でも、いまこのイエスという人に出会ったとき、わかった、この人は、そのことを知っている、私の知らない、私の本当の姿を知っている、彼はそういう衝撃を受けたのです。

 人間は皆4つの顔を持っていると言われます。1つは自分だけが知っている自分の顔、密室の自分の顔です。もう1つは、自他ともに認める自分の顔、公での自分の顔です。さらに1つは、自分では意識していないけれども、他の人たちは気にしている、知っている自分の顔、ひそひそと噂されるような、そういう自分の顔です。しかし最後に、もう1つ、私たちには決定的な顔があるのです。それは自分でもわからず、また他の人からも指摘されたことのなかった自分の顔です、それは、神の前での自分の顔、イエス・キリストと向き合ったときはじめて現れる自分の顔です、それは私たちの持つ顔の中で、一番うつくしい顔です。一番輝いている顔です。その顔で生かされる、それがクリスチャンであります。それは命の根源に照らされた顔です。本当の命に生かされた顔です。ザアカイの顔はいままさに、そのような今までの彼にはなかった輝きに照らされ始めのです。

 イエスさまはザアカイに、「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、ここは前の聖書では「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」となっていました。イエスさまはここで、ザアカイに「泊めてくれないだろうか」と願ったのではないのです。「きょう、あなたの家に泊まることにしているから」とおっしゃったのです。つまりこれは依頼ではなくて宣言です。正確に訳せば「今日私はあなたの家に泊まらなければならない」となります。英語で言えばmustに当たる、「こうしなければならない」という言葉が使われています。そこには、これは神様のご意志であるからそうしなければならない、という意味が込められています。今日ザアカイの家に泊まるのは、神様のみ心だ、ということです。

 またイエスさまは、「急いで降りて来なさい」とおっしゃいました。「急げ」と言っておられるのです。するとザアカイは「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」のです。「急ぐ」のはそこに「喜び」があるからです。イエスさまがザアカイの都合も意志も問わずに、今日あなたの家に泊まる、と一方的に宣言なさったことは、ある意味でまことに非常識なことでしょう。しかし、ザアカイはそれを迷惑に思うどころか、心から喜んだのです。じっさい、これまでに、彼の家に客として来る人などいませんでした。食事に招待しても普通の人は誰も応じてくれません。まして、誰かが泊まっていくことなどとうてい考えられなかったのです。彼の家に泊まるということは、自分もザアカイと同じ罪人の仲間ですと世間に公言するようなものだからです。しかし、いまイエスさまは、そのようなことを全く気にせず、敢えて彼の家に押し掛け、泊まっていくと宣言なさいました。ザアカイにとってそれは驚くべき喜びだったのです。しかも、このザアカイに与えられた喜びは、単に、さびしい自分に客が来たということにとどまる喜びではありませんでした。他ならない、キリストを、救い主を自分の家に迎え入れることが許された、そこから溢れてくる喜びだったのです。

 イエスさまを家にお迎えしたザアカイは、イエスさまの前に立ち上がって言いました。8節です「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。ここに、ザアカイが新しい人間へと生まれ変わったことが具体的に示されています。人々の敵意と憎しみ、蔑みの中で、自分も人々を憎み、恨み、法外な取り立てをすることによって仕返しをし、そのためにますます、人々に嫌われ、憎まれていくという悪循環に陥っていた彼が、すっかり変えられ、新しくされて、隣人を愛し、助け、良い関係を築いていく、そのことを志す者へ、新しく生き始めることができたのです。憎しみがさらなる憎しみを生む悪循環から抜け出すことができたのです。けれども、ここでわたしたちは、ザアカイは財産の半分までも貧しい人々に施す、と宣言するまでに新しくされたけれども、そこまではとても自分にはできない、と悩む必要はありません。ザアカイはこれらのことをしたから救いを得たのではありません。救われ、新しくされ、新しい命を生き始めた結果、ザアカイの場合は、その賜物によって、このようにすることができた、わたしたちもまた、わたしたちの賜物によって、それぞれに別の何かみこころにかなったことができるようにされていく、そのように受け止めてよいのです。

8節におけるザアカイの言葉が示しているのは、彼が頭や心の中だけでなく、その生活において、本当に新しくされた、生まれ変わった、ということです。そして、その新しい命はどこから始まったのかというと、財産の半分を施しますと言ったことからではなくて、彼があのいちじく桑の木から急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えたことからです。彼の新しい命は、この喜びからこそ生まれたのです。イエスさまはザアカイの名を呼んで、「今日私はあなたの家に泊まる」と宣言なさいました。そのようにして彼のところを訪れ、出会って下さったのです。彼自身は全く期待もしていなかったし、想定もしていなかったけれども、イエスさまの方から押し掛けて来られたのです。そのことによって彼は、それまでの人生において、全く体験したことのない驚くべき喜びを知り、その喜びによって、新しくされたのです。

 罪の中にいる私たちは、皆、徴税人ザアカイのように生きているのではないでしょうか。神様に背き逆らい、そっぽを向いているがゆえに、神様を愛することができずに自分の運命を恨み、隣人をも愛することができずに憎み、傷付け、その憎しみが憎しみを呼び、増幅させていくような悪循環を繰り返しながら生きているのではないでしょうか。けれども、そのような罪人である私たちのために、神様は、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、イエスさまは、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さって、私たちの罪の赦しを成し遂げて下さいました。じっさいザアカイの家に泊まったことで、イエスさまはふたたび、人々のつぶやきを受けることになりました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と非難されたのです。そしてこの非難が、やがて十字架の出来事へとつながっていくのです。わたしたちを救うために、キリストは十字架につけられたのです。受難節に入りましたことのとき、このことは深く心にとめておきたいと思うのです。

しかしまた、父なる神は、そのイエスさまを復活させて、私たちの新しい命の、先駆けとして下さったのです。私たちが罪から救われ、あらゆる人生の問題が根源から解決されるのは、復活して今日も生きて働いておられるイエス・キリストと出会うことによってです。イエスさまが私たちの人生を訪れて下さり、特にイエスとは関係はないと思っている、思い込んでいる、この私たちの名前を親しく呼んで下さり、そして「今日私はあなたの家に泊まる」と宣言して下さることによってなのです。

そのことが、今日、まさにここで、私たちに起っていることです。この礼拝に集っている私たち一人一人に向かって、イエスさまは、「今日私はあなたの家に泊まる」と宣言しておられます。私たちの方は、そんな期待を持ってここへ来たのではないかもしれません。イエスというのはどんな方なのか、どんな教えを宣べ伝えているのか、いちじく桑の木の上からちょっとのぞいてみよう、という思いでここへ来た方もおられるかもしれません。しかし、私たちの思いはどうであれ、今も生きて働いておられる私たちの救い主イエス・キリストは、今、私たちのところにも来てくださっているのです。「今日私はあなたの家に泊まる」と語りかけて下さっているイエスさまを、今日私たちが、喜んでお迎えするなら、私たちもザアカイのように、まことの命へ導かれ、新しく生まれ変わる恵みをいただけるのです。お祈りいたしましょう。

急いで降りてきなさい、今日はあなたの家に泊まることになっている、主よ、あなたが、私たちの全て、私たちの罪の全て知っておられる上で、憐れんでくださり、そのように呼びかけてくださっている、その招きに、私たちは今日喜んで答えます、どうぞ、わたしの家にお泊りください、そして、あなたの救いに預からせてください。ずっとあなたが共にいてくださって、わたしたちを新しい命へと導き、あなたに従って愛の業に励むものとならせください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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降誕節第6主日礼拝 

2018年2月4日  ルカによる福音書第18章35-43節
「わたしを憐れんでください」三ツ本武仁牧師

 みなさんも教会に入られて、お気づきになられたことと思いますが、受付の奥に、お茶の準備や、聖餐式の道具の準備や片付けをする流し台、キッチンが、先週の間に設置されて、それに伴って、二階と集会室と、1階の牧師室のレイアウトを変更いたしました。工事のごっついおじさん、お兄さんに混じって、みなさんからも、違和感ないですね、と褒められ(?)ながら、一緒に、いろいろと作業をさせていただきまして、わたしは主に、二階のゴミだしや、レイアウト変更を中心にお手伝いさせていただきました。二トントラック一回では足りないくらいのゴミが出まして、香里教会はだいぶダイエットいたしました。ある方が、少しの箇所でも、やっぱり改装するというのは嬉しいですね、とおっしゃっていましたけれども、わたしたちの信仰も、この会堂とともにそうありたい、少しでも日々新しくされていきたいと思うのです。また先週は香里教会の現在最高齢であられるKさんの面会に、姉妹がおられるホームを、牧師夫妻とYさんと訪問する機会が与えられて、あたたかい交わりの時を与えられ、感謝でした。

 さて、本日の箇所はルカ福音書の18章35節以下でありますけれども、その冒頭の35節には、「イエスがエリコに近づかれたとき」とあります。エリコという町は、ヨルダン川が死海に流れ込むあたりの近くにあります。北の方のガリラヤから、サマリアを通ってエルサレムへと向かって来られたイエスさまの一行にとって、エリコはその旅の途中で立ち寄られた最後の町なのです。

すると、そこに、「ある盲人が道端に座って物乞いをしてい」ました。障碍を持った人を保護したり、その生活を支え、また自活を助ける、という理解や感覚は当時の社会にはありませんでした。先取りすれば、そういう新しい感覚はイエスさまから、ヨーロッパに広がっていったわけですけれども、いま目が見えないこの人は、物乞いをして人々の施しを受けることによってしか生きることができなかったのです。それでこの日も、いつものように道端に座って物乞いをしていたわけですが、今日はやけに多くの人々が群れをなしてエリコの町に入って行こうとしている、ということを彼は敏感に感じ取ったのです。

彼が、「これは、いったい何事ですか」と人々に尋ねると、「ナザレのイエスのお通りだ」といいます。それを聞いたとたん彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めるのです。彼は既に、ガリラヤのナザレ出身のイエスという人が「神の国はあなたがたの間に来ている」と語りつつ旅をしており、様々な病気を癒し、悪霊を追い出している、ということを聞いていたのでしょう、それで、そのイエスに、ぜひお会いしたいと日頃から思っていたのでしょう。そのイエスがまさに今自分の前を通って行こうとしているというのです。こんなチャンスは二度とないかもしれません。けれども、当然ながら、目の見えない彼には、イエスさまが今どこにおられるのか分かりません。自分から近付いて行くこともできません。そこで、大声を上げたのです、そうやって叫ぶことで、イエスさまに自分のことを気付いてもらおうとしたのです。

 けれども、そのような彼を「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」と39節にあります。「先に行く人々」という言葉は、前の聖書では「先頭に立つ人々」となっていました。イエスさま一行の先頭に立っている人々、それは、つまりイエスさまの前を歩いていたイエスさまの弟子たちのことではないでしょうか。苦しみの中でイエスさまの憐れみをひたすら求める一人の人の切実な叫びを、こともあろうに弟子たちが黙らせようとした、ということを聖書は語っているのです。それは、先週読んだ31節から34節で、イエスさまがこれから上るエルサレムで、ご自分が受ける苦しみと死、そして復活を予告なさったけれども、弟子たちはそのお言葉が何も分からなかった、つまり主イエスがご自分の苦しみと死そして復活によって救いのみ業を実現しようとしておられることを弟子たちは全く分かっていなかった、ということとつながると言えるでしょう。

イエスさまによる救いが分かっていなかった弟子たちは、その救いを叫び求める人を黙らせるようなことをしてしまうのです。これは私たちにとって他人事ではありません。イエスさまによる救いを信じ、洗礼を受けて教会に連なり、イエスさまに従っているはずの私たちが、こともあろうに、イエスさまによる救いを切実に求めている人々とイエスさまご自身の間に立ちふさがって、救いを求める声をおしつぶしてしまうようなことをしてしまうことがあるのです。それはそれで、私たちが信仰生活の中で、深く心に止めておかなければならないことだと思います。しかし今、この盲人の物乞いの人は、そのように叱りつけて黙らせようとする弟子たちを物ともせず、ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。一度や二度叫んであきらめてしまったのでなく、イエスさまに気付いてもらえるまで、ひたすら叫び続けたのです。

彼はイエスさまに、「ダビデの子よ」と呼びかけています。ダビデは、旧約聖書に出てくる、イスラエル王国の基礎を築いた王です。イスラエルの王を代表するのがダビデなのです。そして旧約聖書には、このダビデの子、つまりその子孫に、イスラエルを治め、その繁栄を回復させてくれる、まことの王が生まれるという預言が語られているのです。それが「救い主」です。ですから、ここで彼がいう「ダビデの子」という呼び方は、皆が期待し、待っている「救い主」という意味が込められているのです。彼は、イエスさまに向かって「ダビデの子よ」と呼びかけることで、イエス様、あなたこそ救い主です、と、イエスさまへの信仰を表したのです。

 そして、彼はそれに続けて、「わたしを憐れんでください」と叫びました。それは彼が、自分の惨めさを深く感じていたということです。私たちは、日常の中で、この「憐れんでください」という言葉に抵抗を覚えることがあるのではないでしょうか。そんなことを人に言ったり神に願ったりするのは、それこそ惨めったらしくていやだ、と思っているのではないでしょうか。しかし、そのように思う私たちは、本当は自分が見えていないのです。人間の悲惨ということが見えていないのです。それが分かっていないから、私たちは、表面的なところばかり気にして、いろいろと取り繕ったり、体裁を整えることにばかり気を使って、生きているのです。惨めったらしいのはいやだ、というのはそういうことです。

しかし今、目の不自由なこの人は、この時代、この社会のなかで、目が見えないために物乞いをするしかなく、人々の憐れみを受け、何がしかのものを施してもらうことによってしか生きることができない、そういう長年の苦しみの中で、自分の惨めさをいやという程知らされてきたのです。自分の力や努力によっては、また誰であれ人間の力によっては、そこからの救いは得られないこと、また表面的な支えや助けは、ある程度は役には立っても、根本的には、救いを与えてくれるものではないことを体験してきたのです。自分のそのような苦しみ、悲しみ、惨めさを、どうすることもできず、どう取り繕うこともできない、そういうことを嫌というほど知っていたがゆえに、この人は、今、自分の前を通って行こうとしておられるイエスさまに、「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんでください」と、なりふりかまわず一途に、叫び求めることができたのではないでしょうか。弟子たちに叱られようと、周りからどう見られようとも、彼らはそれで叫び続けた、その原動力はそこにあったのです。

 この「憐れんでくだい」という言葉でいつも私が思い出すのは、わたしに洗礼をさずけてくださいました四竈揚牧師が、よく説教の中で、「わたしたちには「主よ憐れんでくだい(キリエ・エレイソン)としか、言い様のないときがあります」と言われたいたことです。キリエ、エレイソンというのは、先週、小林仁さんがおっしゃっておられましたように、ギリシャ語で「主よ」という意味の「キリエ」と、ラテン語で「憐れみたまえ」という意味の「エレイソン」が結びついて出きた言葉です。合わせて「キリエ、エレイソン、主よ、憐れみたまえ」となるわけですけれども、先生は広島で中学生のとき被爆を経験した人でしたけれども、そういう人間の悲惨というものを嫌というほど経験されて、そういうことを言われているのだな、と改めて思わされるのです。

 わたしを憐れんでください。イエスさまは彼のこの叫びを聞き取って下さいました。40節に「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた」とあります。イエスさまは立ち止まり、ご自分のもとに彼を呼んで下さったのです。これは、ちょっと不思議な感じもします。相手は目の見えない人です。立ち止まって呼ぶのでなくて、その人のところへ行ってやることこそが親切というものではないのでしょうか。このイエスさまの姿はずいぶん不親切なのではないか、と私たちはふと感じてしまいます。けれども、ここに、イエスさまと私たちの関係、私たちがイエスさまと繋がり、キリストの救いにあずかるとは、どういうことかが示されているのです。つまり、イエスさまは、私たちをご自分のもとへと呼んで下さり、招いて下さっている、のです。私たちは、その招きに応えてイエスさまのもとへ行く。そこに救いが与えられるのです。既に読んできた14章には、宴会に招待されていたが招きを断って出かけなかった人はそれにあずかることができない、というたとえ話がありました。イエスさまの招きに応じて私たちも出かけることが大切なのです。私たちは今まさに、そのようにイエスさまの招きに応えて、この礼拝へと出かけてきて、主のみ前に立っています。礼拝に出る、それは、イエスさまの救いの招きに答え、その救いに預かる、という営みなのです。

 それから、もう一つ大事なことがあります。「イエスは立ち止まって」ということです。イエスさまは立ち止まり、そこに彼を呼ばれたのです。イエスさまが立ち止まった、その歩みとは、どのような歩みだったでしょうか。それはエルサレムへと上って行く歩みです。先週申しましたように、そこで私たち人間の傲慢による苦しみと辱めを受け、十字架にかけられて殺されるために、そしてその罪を滅ぼして、復活するために、わたしたちを復活の命に導くために、いまイエスさまはエルサレムに向かって歩んでおられるのです。十字架の道を歩むイエスさまは、そこへ、十字架のもとへ、十字架による救いのもとへと、彼を、そして私たちを呼ばれるのです。

 その招きに答え、み前に近づいた彼に、イエスさまは「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。彼はこの問いに答えて、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言いました。この願いを受けてイエスさまは彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。すると彼はたちまち見えるようになるのです。イエスさまの神としての力は、実際にこのような癒しを、奇跡をなさったのでしょう。しかし、同時にイエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」と、言われました。それは、彼が自分の信仰の力で、このような癒しを獲得した、ということではありません。彼は、どうしようもない惨めさの中で、イエスさまこそダビデの子、救い主であられると信じて、その憐れみを切に求め、それに寄りすがっていきました。イエスさまはその彼の姿を「あなたの信仰」と呼んで下さり、あなたのその信仰があなたを救った、と宣言して下さって、彼の目を開いて下さったのです。

 43節には「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」とあります。目が見えないために物乞いをして生きて来なければならなかった人が、見えるようになったのです。「イエス様、ありがとうございました」と丁寧にお礼を言って、神をほめたたえながら、見たいと思っていたあれこれのものを見に行った、あの人この人に会いに行った、そして新しい仕事を捜しに行った、となるのが自然というか、当然のことだと私たちは思います。しかし彼は、「神をほめたたえながら、イエスに従った」というのです。つまり、彼は、この日からイエスの弟子の一人になったのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ時から、彼がイエスさまの弟子になりたいと思っていたわけではないと思います。しかし、彼は、自分の惨めさの中から、イエスさまに救いを求め、イエスさまの問いかけに導かれて、自分の本当の願いを語ることができた、そして「あなたの信仰があなたを救った」という、思いがけない、あたたかい愛のみ言葉をいただいて、肉の目を開かれたというだけでなく、別のもっと深い意味でも目を開かれたのです。

彼は、自分の根本的な願いは、目が見えるようになることだと、今の今まで思っていたのです。それこそが自分の惨めさの根源だと思っていたのです。しかし今、イエスさまによって目を開かれたことによって、目が見えないことよりももっと深い問題があったことに、目が見えるようになること以上に自分が本当に願い求めていたこと、自分に本当に必要なことがあったことに、気付かされたのです。その問題とは、いままで、自分は、本当に信頼して人生を委ね、従っていくことのできる方と出会うことができていなかった、ということであります、そして、本当に願い求めていたこと、本当に必要なこととは、人生を委ねて従っていくに足る方と出会い、その人に従っていくことだ、ということです。彼は今、その出会いを与えられ、イエスさまの弟子となり、従って行ったのです。

そのイエスさまは今、エルサレムへと、つまり十字架の苦しみと死、そして復活へと向かって歩んでおられます。それは、彼も含めた私たち全ての人の罪を赦し、永遠の命を与えるための歩みです。自分のために十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命の約束を与えて下さる主イエス・キリストに従っていくという新しい人生を、彼は与えられたのです。それこそが、彼が本当の意味で目が見えるようになったということなのです。イエスさまに招かれ、み前に進み出る礼拝に集っている私たちにも、主は今、「何をしてほしいのか」と語りかけておられます。そのイエスさまの促しに、私たちも応えていきたいのです。お祈りいたしましょう。

主よ、目が見えるようになりたいのです。私たちは、見るべきものを見ることができていません。私たちを生かし、導いていて下さるあなたの恵みを見ていないために、あなたを心から愛することができず、また隣人の苦しみや悲しみを見ようとしないために、慰めや支えを与えることができません。どうか私たちを憐れんでください。私たちの閉ざされた目を開き、この私のために十字架の苦しみと死への道を歩んでおられるあなたのお姿を見つめさせて下さい。そしてあなたに人生を委ね、従っていく弟子として下さい。そして、苦しみや悲しみの中にある隣人を見つめる目を開き、精一杯支えていくことのできる者として下さい。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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降誕節第5主日礼拝 

2018年1月28日(日)ルカによる福音書第18章31-34節
「受難と復活によって」三ツ本武仁牧師

 教会の暦では、今年は2月の14日、バレンタインデーが灰の水曜日で、その日から、受難節に入ります。バレンタインデーから受難節、というのもある意味で、意味深いものがありますけれども、今日の聖書箇所は、イエスさまがその受難の予告をされた、というところであります。

 イエスさまは今、エルサレムへと向かう旅路を歩んでおられますが、それは、エルサレムにおいて、異邦人に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打たれて殺されるため、そして三日目に復活するためである、というのです。そのことをイエスさまは弟子たちに前もってはっきりとお告げになったのです。小見出しに「イエス、三度死と復活を予告する」とありますように、イエスさまがご自分の受難を予告なさったのはこれで三度目です。一度目と二度目はいずれも9章に語られていました。その二度の予告の後、9章51節から、イエスさまははっきりとエルサレムに向けて歩み始められたのです。

 そのイエスさまの受難ですが、「異邦人に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打たれて殺される」という、その中の「乱暴な仕打ちを受け」という言葉に今日は注目してみたいと思います。この「乱暴な仕打ちを受け」は、前の聖書では「はずかしめを受け」と訳されていました。「乱暴な仕打ち」というと肉体的暴力という感じですが、「はずかしめ」というともっと精神的な事柄という感じです。じっさい、これはその両方の意味を含んだ言葉なのです。

 この言葉の原語のギリシャ語は「ヒュブリゾー」という言葉ですが、その元の名詞形は「ヒュブリス」といいます。そしてそのヒュブリスは、日本語にすると「傲慢」という意味になるのです。とくにその「傲慢」というのは、神さまを侮るという傲慢、神など恐れることはない、というそういう意味での傲慢を指しています。ですから、イエスさまが、「乱暴な仕打ちを受けた」というのは、人々の神を恐れる傲慢のもとで苦しみを受けた、ということを意味しているのです。

ちなみに、ギリシャ神話には、この「ヒュブリス」という名前の女神が出てくるのですが、ご存知でしょうか。「傲慢の女神」であります。そして、この女神の夫、というのが、戦いの神「ポレモス」といって、このポレモスは、ヒュブリスが大好きで、そのあとをいつもついてまわるのです。ヒュブリスの行く所にはいつもポレモスがついて回る。つまり傲慢こそ戦い、戦争の源であるということです。今の世の中を見ても、それは確かにそうだなあ、と思うのです。

話を元に戻しますと、イエスさまが、異邦人に、つまり神様を知らない人々に引き渡され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて殺された、それは、肉体的にも精神的にも、人間の傲慢による苦しみをお受けになったということだ、ということです。イエスさまを苦しめ、死に追いやったのは人間の傲慢です。それは、人間の数々の罪の中で、特に傲慢の罪がイエスさまを苦しめ、死なせたのだということではありません。人間の罪の本質は傲慢だということです。神を侮り、神など恐れない、そのような傲慢こそは、人間の罪の根本、根源なのです。

 聖書が語る人間の罪は、神様によって造られ、生かされている人間が、造り主である神様の下で生きることをやめ、自分が主人になって、自分の思い通りに生きようとすることです。神様に従うのでなく、神を退けて自分が神の立場に立ち、自分の思い、考え、主張を絶対化すること、それが罪なのです。それはつまり神様に対する人間の傲慢です。最初の人間アダムの罪以来人間は、この神様に対する傲慢の罪の中にあるのです。その傲慢のゆえに、私たちは生まれつき、神様は勿論、隣人をも、愛することができずにむしろ憎んでしまい、傷つけてしまうことを繰り返しています。造り主である神様を傲慢に退け、自分こそが主人となって生きようとしている者が、隣人に対してだけは謙遜に、人を尊重し生かすようなことができるはずはありません。隣人に対する様々な具体的な罪、悪、それによる人間関係のいろいろな問題は、私たちがお互いに対して傲慢であることに原因があります。それは根本的にはこの神様に対する傲慢から生じて来ているのです。

先週読みましたこの18章の18節以下には、十戒の掟を子供の頃からしっかり守っていますと言う議員に、イエスさまが、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っているものを売り払い、貧しい人々に分けてやり、わたしに従いなさい」とおっしゃったことが語られていました。持っているものを手放して、イエスさまに従うというのは、今日の話に照らして言えば、自分の持っているものに頼り、それを誇る傲慢を捨てて、キリストを通して神をこそ第一にして生きるものとなる、ということです。そこに、あなたの本当の平安の道が開かれる、神の国は開かれる、永遠の命の道は開かれるのだ、とイエスさまはおっしゃったのです。しかし、この議員は、とてもそれはできない、と言ってイエスさまの前を悲しく立ち去っていきました。彼は自分の中の傲慢を捨てることができなかったのです。

 このようにイエスさまは、傲慢こそが、神様の救いにあずかることを妨げ、神様の祝福から人間を遠ざけている根本的な問題、つまり罪の本質であることを見つめておられます。けれども、そのことを通して、イエスさまが語ろうとしておられるのは、だから、わたしたちが傲慢な思いを捨て、へりくだって謙遜になることが大切だ、というような道徳的な教えではありません。イエスさまの教えを聞いた人々は、前の26節で「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。つまり、この傲慢の罪を捨てて謙遜になり、神様の救いにあずかれる人など誰もいないのではないか、という感想を彼らは抱いたのです。そしてイエスさまもそれを受けて、「人間にはできないことも、神にはできる」とおっしゃいました。人間にはできない、つまり、傲慢を離れ、謙遜になって神様の救いにあずかることは、人間の力でできることではない、傲慢な者になったらだめだ、謙遜になろう、と私たちが思い努力することによっても、それが実現することはない、ということです。なぜでしょうか。

宗教改革者のカルヴァンは、人間はマイナスの括弧で括られている存在だ、といいました。マイナスとは罪のことです。今日のところでいえば傲慢、ということです。わたしたち自身の内には、どこかで、これは神さまにも人にも正しい生き方をしているのではないか、という自負があるかもしれません、また周りの人も、あなたは立派な生き方をしている、と認めてもらえるようなことがあるかもしれません、確かに私たち人間の目にはそう見えることはあると思います。でも、それでもやはり、それはマイナスの括弧の中の業にすぎない、とカルヴァンはいうのです。わたしたちは根本的に神から離れた罪の存在なのです。だからどんなに努力しても、謙遜になろうとしても、それで私たちの罪がなくなるわけではないのです。

 しかし「人間にはできないことも、神にはできる」。私たちがこの傲慢の支配から救い出されて義とされ、神の国、神様の救いにあずかる者となることは、神様ご自身のみ業によってこそ実現するのです。その神様のみ業の実現のために、神様の独り子であられる主イエス・キリストが、人間となってこの世に来て下さったのです。イエスさまは、どのようにしてこの神様の救いのみ業を成し遂げて下さるのでしょうか。それは、私たち人間のどうしようもない傲慢の罪による苦しみを引き受け、肉体的にも精神的にも「乱暴な仕打ちを受け」て、人間の傲慢の犠牲となって死んで下さることによってです。そのことが、本日のこのイエスさまご自身による受難の予告に語られているのです。「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」。イエスさまはこのようにして、私たちの傲慢がもたらす、肉体的精神的なありとあらゆる苦しみをご自分の身に負って下さり、それによって死んで下さったのです。つまり私たちの傲慢が、神様の独り子である主イエスを殺したのです。

 しかしそれで終りではありません。それに続いて「そして、人の子は三日目に復活する」ということもここに予告されているのです。私たちの傲慢の犠牲となって死んで下さったイエスさまを、父なる神様が復活させて下さったのです。それは、神様の恵みが私たちの傲慢の罪に打ち勝ったということです。人間の傲慢がもたらした死が、神様の恵みによって打ち破られ、新しい命、永遠の命が切り開かれたのです。神様が独り子主イエスの復活によって、私たちの傲慢の罪に打ち勝って切り開いて下さったこの新しい命にあずかることによってこそ、私たちは神の国、神様の救いにあずかることができます。「人間にはできないことも、神にはできる」という神様の救いが、この主イエスの復活において実現するのです。主イエスはそのことをもここで予告しておられるのです。31節の後半には「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」とあります。それはつまりイエスさまがここで語られたご自身の受難と復活による救いは、預言者たちが書いたこと、つまり旧約聖書に語られていることの実現だ、ということです。預言者たちが既にこのことを書き記していた、それはつまり、主イエスの受難と復活は父なる神様のみ心によることだ、ということです。どうしようもなく傲慢の罪に捕えられている私たちを救うために、主なる神様は、ご自分の独り子をこの世に遣わし、その独り子が私たちの傲慢の犠牲となって死んで下さることによって、そしてその独り子を死者の中から復活させて下さることによって、私たちの罪を赦し、新しくして、神様の祝福の下に生きることのできる者として下さる、そのような救いのみ業をなさることを決意して下さり、そのご計画を預言者たちによって書き記させて下さったのです。その神様のご意志、ご計画を実現するために、イエスさまは今、エルサレムへと上って行こうとしておられるのです。

 この受難の予告が語られた相手は、31節の初めに「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた」とあるように、十二人の弟子たちです。イエスさまを信じ、従い、エルサレムへの旅路を共に歩んでいる弟子たちにこそ、この受難の予告は語られたのです。神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たち人間の傲慢の罪を背負い、その犠牲となって死んで下さることによって、また神様がその主イエスを復活させて下さることによって、罪の赦しと永遠の命が与えられるという救いのみ言葉は、イエスさまの弟子たち、つまりイエスさまを信じて従い、み言葉を求めて礼拝に集っている私たち信仰者にこそ告げ知らされているのです。

 しかし34節には、「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」とあります。イエスさまの十字架と復活によって与えられる救いを告げるみ言葉は、イエスさまに従う弟子たちに、つまり礼拝に集う私たちにこそ告げ知らされます。しかし同時に、それを聞いた私たちが、そのみ言葉を理解できない、私たちにはそれが隠されていて分からない、ということが起るのです。それはイエスさまのお言葉が難しいからではありません。では、弟子たちは、また私たちは、何が分からないのか、なぜ理解できないのでしょうか。

イエスさまが語られたこと、それは、イエスさまの苦しみと死が、私たちの傲慢の罪の結果なのだということ、私たちの傲慢の犠牲となって主イエスが十字架にかかって死んだのだ、ということ、そして父なる神様がその主イエスを復活させて下さることによって、私たちをこの傲慢から解放し、神様が恵みによって与えて下さる神の国、救いを、子供のように受け入れる者として下さるのだ、ということです。つまり、「人間にはできないことも、神にはできる」という神様の救いのみ業が、イエス・キリストの十字架の死と復活において実現しているということです。

けれどもこのみ言葉は、それを聞いても、誰もがそのことをすぐに理解し、信じることができるわけではないのです。それは理解力の問題ではなくて、神の国は私たちにとって隠された真理だからです。子供のように神の国を信じて受け入れ、自分の持っているものにではなくただ神様の恵みに依り頼むということ、これはその人が人間的に優れているとか、理解力があるとか、熱心で努力家であるとか、そういう理由によってできるものではないのです。

 この時このみ言葉が分からなかった弟子たちは、後に、復活なさったイエスさまと出会い、そして聖霊のお働きを受けることによって、心を開かれて、主イエスの十字架と復活による救いを告げるみ言葉を信じて受け入れ、そのみ言葉を宣べ伝える者となりました。今は隠されている神の国の真理が、聖霊の働きによって示され、分かり、その真理によって生きる者となることを、弟子たちはやがて体験していったのです。私たちもそれと同じ体験を与えるのです。イエスさまの苦しみと死が、私たちの傲慢の罪によるものであること、そしてイエスさまの十字架と復活によって、神様が私たちの傲慢の罪を赦して、新しい命を与えようとして下さっていること、そのことは、なかなか本当には私たちには分かりません。半信半疑の思いを抱いていたり、いやむしろそこにどんな救いがあるのか全く分からないという人もいるでしょう。けれどもそのように今は分からなくても、こうして、礼拝生活を送っていき、イエスさまと共に歩んでいくならば、復活して今も生きておられるイエスさまが、必ずいつの日かわたしたちと出会って下さり、聖霊のお働きによってこの救いの恵みを示し、信じさせて下さる時が来るのです。

私たち一人一人の人生にも受難と呼ぶ以外ないようなことが起こることがあります。その深い悲しみの中にあって、なぜこんなことが起こったのかわからない、そういうつらい気持ちで生きておられる方もあるでしょう。このような悲しみのどこに、神様のみ心があるというのか、という問いに苦しんでいる方もあるでしょう。その神様のみ心は、確かに今は隠されていて、分かりません。しかし、私たちは、その問いを心に抱きつつ、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエス・キリストのみ言葉を聞き、主イエスに従って、苦しみの中にある人々に寄り添いつつ共に歩んでいきたいのです。その中でこそ、今は隠されている神様のみ心が、聖霊のお働きによっていつか示される時が来るのであります。お祈りいたしましょう。

主なる神さま、自分中心にいきたいと願うわたしたちには、何度聞いても、あなたの十字架の救いのみ業が、わかりません、ピンときません、でも、こうして共に十字架を見上げ、教会の交わりに生かされていくなかで、あなたご自身が、聖霊が働いてくださって、わたしたちを、作り替えてくださる、まことの命に、復活の命に生きるものへと導いてくださる、そのことを信じて、これからも礼拝を大切にして歩んでいくものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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