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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第1主日礼拝 

2017年12月31日ルカによる福音書 第18章1-8節
「気を落とさず」 三ツ本武仁牧師

 ルカによる福音書を読み進めてきまして、本日から第18章に入ります。ここで主イエスは弟子たちに、あるたとえを話されました。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」と始まっています。そして、この裁判官のことは6節では「不正な裁判官」だと言われているのです。

そこでまずこの「神を畏れず」という「畏れる」という言葉ですけれども、これは「畏敬」の「畏」であり、「畏れかしこむ」という意味の字が使わされています。しかし、もともとの原文の言葉には、もちろん、そういう意味もあるのですけれども、それ以上にはっきりした意味としては、恐怖する、という意味での「恐れる」という意味があるのです。これはここだけでなくて、主を畏れることは知恵の初め、と言われる聖書の有名な言葉において同じであります。聖書では、神さまを畏れ敬うことと、神さまを恐怖して恐れることは一つのことなのです。

神様を恐しい方として恐れる、これは、じっさいにとても大事な感覚であり、信仰の基礎であります。以前にも申しましたように、マルティン・ルターの信仰の出発点もここにあるのです。ただし、神様を恐しいと思うというのは、神様はいつ何をするか分からない気まぐれな暴君だと思ってこわがる、ということではありません。そういう恐れから生じるのは、「触らぬ神に祟りなし」という感覚であって、それは信仰の出発点でも何でもありません。そうではなく、神様を恐しいと思うとは、私たちがたとえ全ての人々に自分の罪を隠しおおすことができたとしても、神様はそれを見ておられ、お怒りになり、お裁きになる、という感覚です。そのような神様への恐れがあるところには、誰も見ていなくても、自分の生き方、生活を吟味し、正し、整えていくということが生じるのです。前にも申しましたように、わたしが山形に派遣された時、感心しましたことの1つは、山形が日本で犯罪率が一番低い県である、ということでしたけれども、その要因の一つに、山岳信仰の影響がどうもあるらしい、ということで、山形は四方が山に囲まれているわけですけれども、その山から、亡くなったご先祖が自分たちを見ている、というそういう信仰が生きていて、それが犯罪抑止力になっているわけです。こういうことは、私は決して馬鹿にできない、大切なことだと思うのです。

しかし、そういう恐れがないなら、人に見えなければ、知られなければ、あるいは知られたとしても特に不都合がなければ、何をしてもよい、という思いが生じるのです。今年も世を騒がせた不正問題の根本もここにあると思うのです。そして、それは同時に、「人を人とも思わない」そういう心と一つだ、というのです。「人を人とも思わない」というのは、これは文字通りには、人のことを顧みない、気にしない、ということですが、人を人として愛さず、大事にせず、傍若無人にふるまうということです。大事なのは、「神を恐れず」と「人を人とも思わない」が一つになっていることです。神を恐れることなく、つまり神の怒りや裁きを見つめることなく生きるところには、人を人とも思わない、隣人を尊重しない、傍らに人無きが如く振舞う傲慢な生き方が生まれる、ということです。逆に言えば、人を人として本当に尊重し、愛する生き方は、自分の思いと言葉と行動をいつも見ておられ、罪に対してはお怒りになる神様を恐れる思いのある所にこそ生じるのです。

 さて、そのような、神を恐れず人を人とも思わない裁判官が裁きを行っているこの町に、一人のやもめがいました。「やもめ」とは夫に死に別れた女性のことですけれども、聖書においては、社会のなかで、弱く、小さくされた者の代表として出てまいります。先週のクリスマス礼拝では、イエスさまが、最も弱く、小さく、命をゆだねるよりない飼い葉桶の中の幼な子として来てくださった、そこに深い意味がある、わたしたちの大切にしなければならないもの、思い起こさなければならないもの、それは、この世にあって、弱く、小さくされた者であり、そのような人々へのあたたかいまなざしと配慮であり、また自分たち自身もそのような者であるという自覚である、という話をさせていただきましたけれども、その意味で、今日たまたまですけれども、社会的な弱く小さくされたものである「やもめ」が登場しますことは、意味深いことだと思うのです。

そのような、地位も力も財産もない一人のやもめが、この裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていたのです。「相手」と呼ばれている人とこのやもめの間にどんな争いがあったのかは分かりませんが、想像できるのは、この「相手」は社会的な地位もあり、富や力を持っているのだろうということです。このやもめは、そういう強い相手から自分を守ってくれるようにと裁判官に願ったのです。社会的弱者を守ることも裁判官の本来の役目だからです。

しかも、「来ては」こう「言っていた」と訳されているように、何度も何度も繰り返しやって来て願い続けたのです。裁判官は「しばらくの間は取り合おうとしなかった」と4節にあります。それはこのやもめの訴えが正当なものでなかったからではありません。4節後半で彼自身が「自分は神など恐れないし、人を人とも思わない」と言っていることから分かるように、彼はこのやもめの主張が正しいことを知りつつ、それを無視していたのです。そこには、この訴えを取り上げても自分に何の得にもならないし、むしろ地位も権力もある「相手」の肩を持っておいた方が得だという計算が働いているのです。それは裁判官にあるまじき罪であり不正です。しかしこの町でその不正を裁くべき人は彼自身ですから、彼を裁くことができる者はこの町にはもはやいないのです。それができるのは神様だけですが、彼はその神を恐れていない、つまり神の裁きなどないと思っているのです。だから彼はもはや怖いものなしです。この世における自分の損得だけを考えて生きることに躊躇はないのです。これが「神を恐れず人を人とも思わない」者の生き方です。神を恐れないがゆえに、自分の損得だけを考えて生きていられるのです。このやもめは、このような裁判官の下に置かれているのです。

 さて、イエスさまは、このようなたとえ話を何のためにお語りになったのでしょうか。1節の最初に語られているように、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えるためでした。イエスさまは、このやもめの姿に、気を落とさずに絶えず祈る者の姿を見ておられるのです。ここでは「気を落とさずに」という言葉が大切です。私たちは、祈りにおいて、気を落としてしまうことがあります。それは、祈っても自分を取り巻く目に見える現実がいっこうに変わらないという経験の中で起ることです。私たちを取り巻くこの世の現実はまことに厳しいものであり、祈ってもその現実がどうなるものでもない、と感じることがしばしばです。目に見える現実の重さに、私たちの祈り、神様に願い求める心がおしつぶされ、信仰そのものが萎えてしまいそうになるのです。

私たちが置かれているそのような状況を、イエスさまは、神を恐れず人を人とも思わない裁判官の下にいるやもめの姿によって描いておられます。このやもめは、自分の正当な権利を守ってくれるようにと裁判官に訴え出ています。しかし彼女をめぐる現実において支配しているのは、「神を恐れず人を人とも思わない」不正な裁判官なのです。だから彼女の正当な訴えはことごとく無視され、取り合ってもらえないのです。それはまさに気落ちさせられずにはおれないような現実です。もう訴えても無駄だ、どうせ相手にしてもらえない、とあきらめてしまっても不思議ではない事態です。私たちは皆、それぞれ事柄は違っても、まさにそういう現実の中を生きているのではないでしょうか。しかしこのやもめは、そのような現実の中で、気を落とさずに絶えず求め続けたのです。

 彼女は何を祈り、求め続けたのでしょうか? それは「正しい裁きが行われること」です。地位や権力、お金がある者たちだけが守られるのではなく、弱い者、貧しい者、小さくされた者たちの正当な権利が守られ、支えられる、そういう裁きが行われることです。それは言い換えれば、そのような正義によってこの社会が支配されることです。「裁き」と「支配」とは深く結びついています。支配している者が裁きを行うことができるのです。そして、どういう裁きが行われているかに、どういう者が支配しているかが現れるのです。

今、このやもめに生きている世界は、「神を恐れず人を人とも思わない」力に支配されているのです。そこに「神を恐れ、人を人として大切にする」正しい裁き、正しい支配が確立することをこのやもめは願い求めています。しかも、気を落とさずに絶えず求めていたのです。しかし、なぜ、このやもめは、そのように気を落とさずに、祈り続けることができたのでしょうか?

それは、このやもめが、目に見える現実の背後で、神様こそがこの世を支配しておられることを信じているからです。神様の裁きとご支配は既に揺るぎなく確立している、そのことを信じているがゆえに、その裁きと支配が目に見える仕方でも確立することを願い、祈ることができるのです。それは、前の17章に語られていた、「神の国が来る」という信仰を、このやもめは抱き続けることができていた、ということなのです。つまり、このやもめは、すでにイエスさまによって神の国は来ている、という福音を受け入れつつ、しかし、いまだそれは完成していない、だから忍耐して、神の国を、すでに、と、いまだに、の間にしっかりと立って、待ち望み続ける、そういうまことの信仰に生きていたのです。

目に見える現実においてはあいかわらず、神を恐れず人を人とも思わないような力が支配しているのです。その中で、信仰者は、主イエスによって既に実現している目に見えない神の国を信じて、未だ完成していない神の国を待ち望みつつ忍耐して生きるのです。その信仰の歩みにおいては、気を落とさずに絶えず祈ることが大切なのです。そのことをイエスさまは、このやもめの姿に託して、弟子たちをはじめとした私たち信仰者に伝えようとされているのです。

 あの不正な裁判官は、5節でこう言っています。「しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。彼がこれまでの方針を変えて、彼女のために裁きをしてやろうと決心したのはなぜかというと、彼女が「うるさくてかなわないから」だというのです。取り合わないでいると、「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」からだ、と。つまりしつこく願い続ける彼女を前にして彼が考えているのは、ここでも自分の損得です。損得だけで生きているこの人は、訴えの内容が正しいからではなくて、自分に迷惑がかかるのを防ぐために、いまやもめの願いを叶えてやろうというのです。

そして、このようなことを語った上で、イエスさまは6節以下でこうおっしゃいました。「それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる』」。主イエスはここで、私たちの祈りを聞いて下さる神様を、「不正な裁判官」と重ね合わせておられます。私たちはそれにとまどいを感じます。神様はこの不正な裁判官のように、自分の損得だけを考えて裁きをなさる方なのだろうか、神様が私たちの祈りを聞いて下さるのは、「うるさくてかなわないから」なのか、私たちがしつこく祈ることによって神様は「さんざんな目に遭わ」され、これはたまらん、と重い腰を上げて下さるのだろうか、などと思ってしまうわけです。しかし、そうではありません。イエスさまは確かにここで不正な裁判官と神様とを重ね合わせておられます。しかし、そこで語ろうとしておられるのは、「神様は私たちの祈りに応えて確かに裁きを行って下さる、つまり神の国を完成して下さる」ということです。6節以下のみ言葉が語っているのはまさにそのことです。神は「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」、そんなことはない、「神は速やかに裁いてくださる」のだ、神様の裁きとご支配が、つまり神の国が完成されるのだ、だからそれを信じて、気を落とさずに絶えず祈り続けなさい、と、そうイエスさまはこのたとえによって語ろうとしておられるのです。

 最後の8節の後半に「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とあります。「人の子が来るとき」という言葉からも、ここが17章後半の「神の国が来る」という話の続きであることが分かります。17章において、「神の国が来る」ことが、「人の子が現れる」と言われており、あるいはその日が「人の子の日」と呼ばれているのを私たちは見てきました。「人の子」とはイエスさまご自身のことです。その人の子主イエスが、もう一度この世に来られる、しかもそれは、稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように起こる、そしてその時に、救われる者と滅びる者、命を保つ者とそれを失う者とがはっきりと分けられる、つまり裁きが行われる、ということが、17章で語られていました。それが、本日のところに語られている「神が裁いて下さる時」です。神の国の完成の時です。

その時、人の子は、つまり私は「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とイエスさまは言っておられるのです。その「信仰」とは、神の国の完成を信じて、この世の目に見える現実によって気を落とさずに絶えず祈り続ける信仰のことです。イエスさまは私たちがそのような信仰に生きることを求め、期待して、このように語っておられるのです。

 この世の厳しい現実のなかで、果たして私たちは、このイエスさまの期待に答えて、神の国を信じ、かつ待ち望んで、御国がきますようにと祈り続けることができるでしょうか? それは、ちょうど今年の年間標語聖句にありましたように、主にあって万事は益となる、とそう信じて、祈り続けることとつながっていると思います。今年の私達香里教会の信仰生活を振り返ってみましたときに、いろいろなことがありました。転出をする人があり、入院をする人があり、手術をする人がありました。関係がギクシャクしてしまうこともありました。またその他にもそれぞれにいろいろなことがあったと思います。万事が益となるとは思えないようなつらいこと悲しいこと、不安なこともあったことと思います。しかしまたどうでしょうか。その中にあって、しかしああやはり万事は益となるのだと、そのような希望を垣間見させていただいたこともあったのではないでしょうか。いや、必ず、万事は益となる、それは見させていただいていなくても、そうなるという信仰に、わたしたちは支えられて、この一年を生かされて来たのであります。

そして、そのような信仰にたち続け、生き続けることができましたのは、ひとえにこうして共に一年を通して、共に礼拝を守り、礼拝へと立ち返らせていただき、主からの励ましと兄弟姉妹からの励ましを、みえるかたち見えないかたちで様々にいただいてきたからではないでしょうか。そのことに改めて感謝しつつ、来年もまたみなさんと共に、気を落とさずに、主を信じ、御国を信じて、絶えず祈り続ける歩みをなしていくものでありたい、と願うのであります。お祈りいたしましょう。

 主なる神、2017年の最後の主の日を、このようにあなたを礼拝をし、様々な困難の中にあっても、気を落とさず祈り続けなさい、との御言葉をいただけましたことを心から感謝いたします。今年一年をふりかえり、ああ、本当にそうだ、と思えることに感謝であり、また、来年も、その思いで、あなたに共に祈り続けるものとなれますように、どうか香里教会の信仰の群れを、来る年も守り導いてくださって、弱いわたしたちに、時に神の国を垣間見させてくださり、信仰の火をともし続けるものとならせてください。今年一年を改めて感謝しつつ、この祈りを主のみ名によって、み前におささげいたします。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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アドベント第3主日礼拝 

2017年12月17日(日)ルカによる福音書17章20-37節
「命を保つ者」 三ツ本武仁牧師

 先週の礼拝においては、ルカによる福音書の第17章20、21節を読みました。そこには、ファリサイ派の人々がイエスさまに、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたことと、それに対するイエスさまのお答えが語られていました。本日はその続き、22節以下を読んでいきます。21節まではファリサイ派の人々に対するお言葉だったのが、22節からは弟子たちに対するお言葉となっているのです。この相手の違いが、語られる内容の違いを生んでいます。基本的に同じ問題が続いているわけですけれども、イエスさまは御自分の弟子たちに向かってさらに深く、またある意味では厳しく、この問題について語られていかれるのです。

 弟子たちというのは、イエスさまを救い主と信じて従ってきた人々です。また彼らはイエスさまによって派遣されて、神の国の福音、つまり主イエスによって神の国、神様のご支配が今や実現している、という喜びの知らせを宣べ伝えていました。それは、わたしたちに置き換えれば、こうして教会に集まって、キリストを通して、神さまを礼拝し、信仰を証していた、ということです。

 けれども、その弟子たちに対してイエスさまはおっしゃったのです。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」。「人の子」とは、イエスさまご自身のことです。ですからこれは「主イエスの日」と言い換えることができます。それは、イエスさまを通して神の国が実現する日、神の国が完成する日のことです。つまり、イエスさまは、「あなたがたが、神の国の到来、完成を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、それを見ることはできないだろう」と、そうイエスさまはおっしゃったのです。・・・えっと思うわけです。前回はイエスさまに敵対していているファリサイ派に向かって、神の国はあなたがたの間にある、いまあなたがたの間に来ているわたしこそ、神の国の実現なのだ、と語られたではありませんか?それなのに、いま、イエスさまを信じ、従って来ている弟子たちには、そして、わたしたちに向かっては、あなたたちは、神の国を見たいと望みながらも、それを見ることができない、と言われるのです。これは、どういうことなのでしょうか。

 これは、はじめに申しましたように、相手が、弟子たち、つまり、イエスさまを信じ従っている人々、信仰者だからこそ、あえて語られたことだといえるでしょう。主イエス・キリストを信じる信仰者には、すでに、イエス・キリストが共にいてくださる、という信仰の喜びがあります。そしてそのイエスさまによって、神の国、神様のご支配がこの世界に、私たちのところに到来したのだという、喜びがあり信仰があります。この世界を、また私たちの人生を、本当に支配し導いているのはイエスさまであり、また、そのイエスさまを遣わして下さった父なる神様であることを私たちは信じているのです。それがクリスチャンであります。しかし、ではクリスチャンは、その喜びだけ見つめていればいいのか、自分はもう救われているから、というそういう意味での自己満足の世界に生きていいいのか、ということです。すではなく、それと同時に、その喜びとともにクリスチャンは、この地上にあっては、その神の国とはほど遠い悲しい現実、厳しい現実があることを、むしろイエスさまを信じ、神の国を信じるがゆえにこそ、むしろ、しっかりと見つめていかなければならないのです。

クリスチャンは、イエスさまを信じ、神の国を信じつつも、それが今はまだこの地上に完全には完成していない、そのことを認めざるを得ない、そういう葛藤を経験するのです、神の国は、クリスチャンにとっては、イエスさまにおいて既に実現していると共に、未だ完成していない、そういう「すでに」と「いまだ」という、二面的なかたちで受け止めるべきものとしてある、ということです。それは、この後語られていきますように、すでに来られたキリストと、やがて来られる再臨のキリストの間を生きる、ということでもあります。また、ある人は、そのような信仰に生きる教会のことを、既に到来した神の国と、しかしいまだ来ていない神の国の間を旅する、旅人だと表現しました。

 これは一見難しい、理解し難い、あるいは、何か雲をつかむようなことだと思われるかもしれませんが、しかし、よくよく考えてみれば、わたしたちの日常にもそういうことはよくあるのではないでしょうか? たとえば、一週間後に、長くあっていなかった懐かしい家族や、大切な友人に会えると、そういう約束がなされている、という場合に、わたしたちは、まだその約束の日にはなっていなくても、まるですでにそのことが実現しているかのような喜びの中で、その日を待ち望みつつ生活していくのではないでしょうか。そして、その間に、仕事や人間関係で少々のトラブルがあったとしても、その日を楽しみにすることで、なんとかその場をしのいでいくし、またそのような喜びがあるからこそ、そうした問題にも誠実に向き合っていくのではないでしょうか。このアドベントの時節に、クリスマスを待ち望みながら生きる、ということもそういうことです。イエスさまによって既に神の国は実現している、約束されている、しかし同時に、いまだそれは完成していない、その中を生きる信仰とは、そういう意味で成熟した信仰だといえるのではないでしょうか。

 前回の、イエスのことを信じておらず、したがってイエスさまもそのみ言葉も、受け入れようともしないファリサイ派の人々に対しては、イエスさまはこういうことは言われませんでした。むしろ、イエスさまは、「既に」神の国はあなたがたの間に来ているよ、ということだけを彼らには強調されたのです。これはたとえば、クリスチャンの方が、そうではない家族の方に向かって、イエスさまを受け入れることは、天国の切符を手にすることだよ、とわかりやすく説明することに似ていると思います。信仰の最初のとっかかりは、もちろんそれでいいわけです。けれども、すでにイエスさまを信じ従っている弟子たち、その喜びにあずかって、イエスさまによる神の国を受け入れている信仰者に対しては、それがしかし、「未だ」完成していない現実をしっかりと見つめつつ、その中でいかに生きるかが語られなければならなかったのです。

 イエスさまは23節で、「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」。と言われます。神の国、神様のご支配を見たいと願いつつも、それが見ることのできないもどかしさの中にある私たちに、神の国は「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と言う人々が現れる。その人々は、ここにこそ神の国が見える、あそこにそれを実現する人がいる、と言って、人々を自分のところに集めようとする・・・。

 現に今も、「私は再臨のメシアだ」と言っているカルト教団の教祖がいます。かつてのオウム真理教などもまさに、そうでありました。そういうものはこれまでにも繰り返し現れてきたし、これからも現れるのです。しかし、イエスさまはここで、そういう話を信じるな、そういう教えに惑わされて「出て行ってはならない」と言われるのです。

 私たちの信仰において大切なことは、「既に」と「未だ」の間の緊張関係にしっかり留まり、そこから出て行かないことなのです。「既に」を否定してしまったらファリサイ派と同じになってしまいます。また「未だ」を否定して「既に」のみを語る、つまり「ここに神の国が実現している」と言う人々のところに出て行ってしまうと、この世の現実を正しく把握することができなくなり、本当の意味での責任ある生き方ができなってしまうのです。本当の責任、というのは、森有正というクリスチャン思想家が言っていましたように、天と地の両方に責任を持つ生き方であります。天国が保証されているからといって、地上の生活をなおざりしてはならない。しかしまた地上の生活ばかりを考えて、わが国籍は天にありと、心を高くあげることができないと、結局はこの地上にあって無責任な生き方をしてしまうのです。本当の意味での責任ある生き方は、神の国は、すでに来ているけれども、同時にいまだに完成していない、という緊張感の中に、立ち続けることによって果たしていくことができるのであります。

 24節には、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」という話になぜ惑わされなくてよいのか、という、その根拠が語られています。「稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」。人の子が現れる、つまりイエスさまの再臨によってついに神の国が完成するその時には、「稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように」それが実現する。つまり一瞬にして、しかも誰もがはっきりと見ることができる仕方でそれは起る、だから、なにも心配しなくていい、とイエスさまは言われるのです。いや、むしろ、そんなことを心配している場合ではなくて、あなたたちにはもっと大事な、目を向けていくべきことがあるよ、とイエスさまは言われます。それが25節です。

 「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」。・・・人の子が、イエスさまが、稲妻のように現れ、再臨されて、神の国が完成する、そのようにしてこの世が終わることが語られたわけですけれども、しかし先ず、そのことよりももっと大事なこととして、その前に起らなければならないことがある。あなたたちが、しっかりと見つめなければならないことがある、それは、わたしが、主イエスが、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥される、ということだ。・・・「排斥されることになっている」とあります。それは、神様のみ心によって必ずそうならなければならない、ということです。十字架の出来事であります。イエスさまが、多くの苦しみを受け、十字架につけられ、今の時代の者たちから排斥されるということが先ず起らなければならない、なぜか、わたしたちの罪のためです。本当は神の国など望むことなどできない、それがわたしたちの罪の現実なのです。でも、それを、イエスさまは、ご自身の十字架によって、その罪を覆ってくださり、神の国に通じる道を開いてくださったのです。だから、わたしが十字架を背負ってあなたたちを導くから、あなたたちも、この世にあって様々につらいこと悲しいことがあるけれども、十字架を背負っていくわたしを信じてついてきてほしい、また反対に、自分中心になって、自己満足で生きるのではなくて、わたしがあなたのために十字架を背負っていることに気づいてほしい、そこにこそあなたがたの目を向けてほしい、そこに本当の意味で神の国は実現していくのだ、と、そうイエスさまは言っておられるのです。

 そこで、26節以下には、このキリストの十字架にこそ、心を向けて、神の国の恵みにあずかっていくとは、どういうことかが、語られていくのです。ここに出てきます旧約聖書の出来事、ノアの時代の人々のことや、ロトの時代の人々の姿は、迫ってくる滅びの中で、そこから救われるために必要な「悔い改め」への招きを真剣に受け止めることのできなかった人々の姿を物語っているといえます。これを、新約聖書に置き換えて、私たちの問題として考えるならば、イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによる罪の赦しの恵みが示され、そのことによって「神の国は既にあなたがたの間にある」と宣言されているにもかかわらず、そのことを忘れて、あいかわらず、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりという、そういう目に見える地上の生活にばかりに、心を奪われてしまっている、ということです。・・・しかし、あなたたちは、そうであってはならない、とイエスさまは言っておられるのです。

 31節には、「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない」とあります。家財道具や自分の大切なものを取りに行くな、というのです。そしてそれが32節で、ソドムの滅亡におけるロトの妻の話と結びつけられています。ソドムから逃げていく時に、ロトの妻は後ろを振り向いたために塩の柱となってしまった、それは、ソドムに遺してきた家族や財産、あるいは自分の生まれ育った町への愛着、これまでの生活の思い出へのこだわりによってだ、ということでしょう。神様による救いにあずかること、十字架の主を信じて、その歩みにこそある神の国に目を向けて行くのでなく、自分の過去の歩みに捕われてしまうことが戒められているのです。それは、神様の恵みではなくて自分の持っているものによって生きようとすることだからです。言い換えれば、私たちの思いや計画を超えて、これからの私たちの人生に神さまが用意してくださっている恵みのご計画に、目を向けて、そのことを信じて歩んでいくのではなく、自分の過去にとらわれ、またその過去を、神さまの恵みとしてではなく自分が築いてきたものとして受け止めて、そこに心がとらわれてしまっている。そのことが33節では、「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」と言われているのです。

 今日の説教題は「命を保つ者」とさせていただいたわけですけれども、私たちは、自分の命を自分で生かそうとします。食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりという人間の営みは全てそのためになされています。そこにおいて私たちは、自分の持っている財産や能力や人間関係を用いて何事かを成し遂げようとするし、あるいは自分が成し遂げてきた事にこだわり、それにしがみつこうとします。しかし、そのようにして自分で自分の命を生かそうとすることは、洪水が迫っているのに箱舟を無視すること、滅亡が迫っているのにソドムに留まること、そして滅んでいく町を振り返って塩の柱になってしまうことであり、命を失うことにつながるのだ、というのです。

 しかし「それを失う者は、かえって保つ」。それは主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とにおいて神の国が実現していることを信じ、そのイエスさまに従っていくことです。それは、この世的な豊かさや、成功や、そうしたこの世的なものよりも、主の十字架にこそ、わたしたちの本当の豊さや喜びがあることを信じて、十字架の道を歩んでいく、ということです。そのように歩む者は、イエスさまを通して、神様が与えて下さっている肉体の死を超えたまことの命、永遠の命を保つ者となる、神の国を受け継ぐものになるのです。

 34節以下には、二人の男ないし女が共にいても、人の子の日、神の国の完成の時には、その一人だけが救いにあずかる、というようなことが語られています。けれども、これは、救われるのは二人に一人、五十パーセントだ、ということではありません。神の国の完成にあずかる、救いにあずかることは、誰かと一緒に、自分もついでに、というものではない、一人一人が、自分の救いのために、命を保つ者となるためにしっかりと自覚を持って歩まなければならない、ということなのです。イエスさまは私たち一人一人に、箱舟をただ眺めているのではなくて、それに自分から乗り込むようにと招いています。またソドムの町を出て、後ろを振り返らずに、自分から走ることを求めておられるのです。それこそが、神の国、神様のご支配を信じる信仰において、「既に」と「未だ」の間を、十字架を見つめつつ生きていく私たちに求められている姿勢なのです。

 最後の37節には、「主よ、それはどこで起こるのですか」という弟子たちの問いに対して、「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」という、これは当時のユダヤの諺で「死体があればそこには自然にはげ鷹が集まって来る、条件が整えば自然にそれは実現する」という意味の諺であったようですけれども、それを用いたイエスさまのお答えが語られています。弟子たちの質問は、神の国の実現をどこで知ることができるのか、ということだったのでしょう。つまり、これだけ聞いても、このときの弟子たちには、まだイエスさまのおっしゃることがわかっていなかったということです。それは、当然といえば当然です。このときの弟子たちには、まだイエスさまが自分たちのため、世界人類のために十字架に死なれる、ということなど考えも及ばなかったからです。イエスさまは、この諺によって、御自分の十字架の出来事を暗示されたのでしょう。それは、神の国はどこで知ることができるか、それはこれから起こるわたしたちの十字架の出来事を通して、知ることができる、ということです。そして弟子たちは、やがて、そのことを経験し、復活の主と出会うのです。わたしたちも、主の十字架を見つめつつ、イエスさまによって、神の国が「既に」来ているとともに、しかし、「まだ」それは完成していない、という、その緊張関係の中にしっかり留まる、そのことを通して、天と地に責任を果たし、まことの命を保つ者となっていきたいと願います。お祈りいたしましょう。

 主なる神さま、アドベント第3主日、いよいよ主の降誕の祝祭を間近に控えたこのとき、あなたのみ国を待ち望むことと、御子イエスを待ち望むこととが、深く一つに結び合わされていますことを味わい知ることができましたことを感謝いたします。御子がすでに来てくださった、その喜びとともに、まだ御子を知らない多くの人々がいるこの世界に、わたしたちが責任をもって歩み、まことのクリスマスを迎えるものとなれますように、わたしたちひとりびとりを聖霊で満たし、守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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降誕前第5主日礼拝 

2017年11月26日(日)ルカ17章1-10節
「ゆるす心と真心の奉仕の源」三ツ本武仁牧師

 今日からルカによる福音書は第17章に入ります。今日はその最初の1節から10節ですけれども、先ず確認しておきたいのは、これらの教えが誰に対して語られたのか、ということです。1節に「イエスは弟子たちに言われた」とあります。これらの教えは弟子たち、つまりイエスさまに従っている人々、信仰者に対する教えなのです。これまで読んできた16章の話も、もちろん弟子たちも聞いてわけですけれども、それらはむしろ、イエスさまと敵対していた、ファリサイ派の人々を教えて導く意図で語られたものであったわけです。しかし、この17章の1節~10節は、そのような者たちのいない所で、弟子たちのみを相手として語られた教えです。私たちは今日のところから、主イエスを信じる信仰者として生きるとはどういうことかを教えられるのです。

 とくに、イエスさまを信じる信仰者として生きるとはどういうことか、その根本的なことが今日の7節以下に語られています。そこで7節以下にまず注目したい、と思いますけれども、そこに「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合」とあります。「僕」とイエスさまが言われる場合、それはいまの時代にはそぐわないのですけれども、それは、その時代に即していえば、単なる雇い人・雇われ人を指すのではなくて、奴隷ということを意味しています。当時の社会には、雇い主がいれば、その雇い主と契約を結んで給料をもらって働いている人もいたわけですけれども、それとは別に奴隷という立場もあったのです。

奴隷を使って畑仕事や家畜の世話をさせることは当時珍しいことではありませんでした。奴隷を使っている人は、「その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか」とイエスさまは言っておられます。これも別にイエスさまがひどい差別をしている、ということではなくて、当時の奴隷は、そういうことをしていたわけです。当時の奴隷というのは、日中は畑仕事や家畜の世話をして、帰って来たら今度は主人の食事の用意をし、給仕をする、そういうことを全て終えてからようやく自分の食事をすることができたのです。そういう僕と主人の関係が9節で「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」と言い表されています。奴隷はその労働に対して主人に感謝されることを期待すべきものではないし、主人は奴隷の労働に対して給料を払う必要もない、それが主人と奴隷の関係でした。

繰り返しますけれども、これは今は時代錯誤もはなはだしい奴隷制度をイエスさまが認めている、いうことではありません。当時の人々にとっては、こういうことが当たり前だったわけです。つまり、こういう話をすれば、当時の人々は何をイエスさまが語ろうとしているか、よくわかったのです。そのような、当時の人々にとっての日常的なことを弟子たちと確認した上で、イエスさまは、「あなたがたも同じことだよ」とおっしゃったのです。・・・何が同じなのでしょうか。

「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合」と語り始められたところでは、「あなたがた」は奴隷を使う主人の立場にいることが前提とされていました。弟子たちの中にはそういう人もいたのでしょう。しかし「あなたがたも同じことだ」と言われているのは、僕、奴隷とあなたがたは同じだということです。それゆえに、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と、イエスさまはおっしゃったのです。ここに、イエスさまを信じる信仰者として生きるとはどういうことかの根本が示されているのです。信仰者とは、イエスさまの僕として生きる者なのです。僕は、雇い人とは違います。雇い人は、雇い主に労働を提供し、その対価、見返りを受けるのです。しかし僕は、給料や見返りを求めて働くのではありません。主人の感謝すら期待すべきではないのです。僕は命じられたことは何でもしなければなりません。そしてそれを全て果たしたとしても、それは何ら立派なこと、褒められるべきことではなくて、「しなければならないことをしただけ」なのです。信仰者として生きるとは、主イエスの、そして主イエスの父であられる神様の、このような僕として、主人に仕えて生きることなのです。

 さてそれでは、わたしたちの主人、主であるイエスさまが、僕である私たちにお命じになること、私たちが「しなければならないこと」とは何でしょうか。それが1節から4節に語られているのです。・・・そこでまず1節、2節には、「これらの小さい者の一人をつまずかせる」者は不幸だ、ということが語られています。「不幸だ」というのは、幸福か不幸か、運がいいか悪いか、ということではありません。このようにならないように気をつけなさい、ということです。「小さい者の一人をつまずかせる」者になるな、とイエスさまは命じておられるのです。つまずかせるとは、人がつまずいて転んでしまう原因となる、障害物を置いて邪魔をする、ということです。そこで見つめられているのは勿論「信仰の歩みにおいて」ということです。人の信仰の歩みの邪魔をし、その人が神様を信じ信頼して喜んで神様に仕えて生きることができなくしてしまうこと、それがここでいう「つまずかせる」ことです。信仰者として生きるための元気や勇気を失わせることと言ってもよいでしょう。

1節には「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」とあります。信仰者として生きていく中で、つまずきは避けられない、つまりその歩みが妨げられ、元気や勇気を奪われてしまうようなことは必ず起ってくるのです。いつも順風満帆で、元気に喜んで神様に仕えていくことができる、などという信仰者はいません。信仰の歩みには、様々なつまずき、障害が生じます。しかし、それをもたらす者は不幸である、とイエスさまは言っておられます。ただでさえ、つまずきに満ちた中を歩んでいる仲間・神の家族の兄弟姉妹の歩みを、さらに輪をかけて、混乱させ、つまずかせるようなことはしてはならない、とイエスさまはおっしゃるのです。

 「これらの小さい者の一人を、(つまずかせてはならない)」とあることにも注目しなければなりません。つまずきに陥るのは多くの場合小さい者、弱い者なのです。それは社会的地位がどうとか、経済的に豊かであるか貧しいかということではありません。信仰が小さく弱い人がつまずくのです。それらの人々をつまずかせるのは、信仰が一見、大きく強く見える人です。そのような人が、その信仰を言わばふりかざして、信仰者たるものこうでなければならない、と言って、そのような強い信仰に生きることのできないでいる小さく弱い人を批判し、傷つけ、それによって勇気や元気を奪い、つまずかせているのです。イエスさまは、ご自分に従い仕える信仰者たちに、つまり私たちに、そのようなことはしないでほしい、小さく弱い人をつまずかせないようにと願っておられます。そしてそれこそが、主の僕として生き、主に仕えることにおいて第一に考えなければならないのはこのことなのです。

そしてこれは、先ほどの、信仰者は雇い人ではなく僕である、ということと結びついています。今、強い信仰を持っている人が小さく弱い人をつまずかせるのだと申しました。自分の信仰をふりかざし、信仰者たるものこうでなければならないと言う人は、雇い人としての感覚で生きているのです。つまり雇い人は、仕事をできるだけ立派にこなし、成果をあげ、それによって雇い主に褒めてもらい、給料をあげてもらおうとします。仕事がどれだけできるかによって、雇い人の価値が決まるのです。信仰者も時として、神様に対してそのような思いを持ってしまいます。信仰者として少しでも立派になり、よい成果をあげ、神様に褒めてもらおうとする、価値の高い者になろうとする、そういう思いによって、自分の信仰と実践を誇り、そういう実践ができていない人を批判したり、蔑んだりするようになるのです。

しかし私たちは、神様の雇い人ではありません。僕なのです。僕は、自分の仕事を誇ることも、それによって主人に褒められることも、ましてや何かの酬いを期待することもできません。僕はどんなに働いたとしても、「しなければならないことをしただけ」なのです。そのことを忘れ、自分が神様に労働を提供し、その見返りを求めることができる者であるかのように思ってしまう時、私たちは信仰者としてのあるべき姿を失ってしまいます。つまり主の僕ではなくなってしまうのです。そしてそれによって、小さく弱い者をつまずかせる者となってしまうのです。逆にいえば、本当の意味での「強い信仰」とは、自分が僕であることをしっかりわきまえ、また信仰の兄弟姉妹の一人一人もまた、自分と同じ主の僕であることを認め、その人と共に歩むことができる信仰、ということなのでしょう。

 次に、3節、4節には、「もし兄弟が罪を犯したら」ということが語られています。その時には、「戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」とあります。信仰の兄弟姉妹の間で起る罪にどう対処するか、ということです。これは私たちにとってもまことに身近で、現実的な、そして大変難しい問題であります。イエスさまはそこで先ず、「戒めなさい」と言っておられます。罪をそのままにしたり、見て見ぬふりをしてしまってはいけない、きちんと、それを指摘し、戒め、その人を悔い改めへと導くようにと、言われるのです。もちろん、ここで言われている「悔い改め」とは、前回にもお話しましたように、神さまに立ち返る、ということで、その人が、誰かに頭を下げる、ということではありません。逆にいえば、誰かを戒めることができる人、というのは、神さまに立ち返っている人であります。神さまに立ち返る、そのことをいい加減にして、ただ表面的な仲良しの交わりを築くことは主の求めておられることではないのです。また、それでは本当の意味で、主の僕として生きることにはならないのです。

そこでしかし、この戒めることにおいて忘れてならないのは、「悔い改めれば、赦してやりなさい」ということです。戒めるのは、赦すためです。赦すことによって良い交わりを回復すること、これこそが「戒め」の目的なのです。また、さらにイエスさまは、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言っておられます。これは、マタイ福音書の18章において「七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃったのと同じことです。兄弟の罪は、無条件に赦しなさい、ということです。そのような赦しの思いの中でこそ、本当に相手の罪を戒めることができる、ということなのです。

 さてそこで5節には、弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」とイエスさまに願ったことが語られています。小さく弱い者をつまずかせるなという教えも、無条件に赦すという思いをもって兄弟を戒めよという教えも、どちらもとても難しいことだと私たちは感じます。信仰がよほど増し加えられなければ、とてもそのような生き方はできないと思うのです。ですから、4節までのみ言葉を聞いた弟子たちがこのように願った気持ちはよく分かります。しかし、イエスさまはそれに対して、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とおっしゃいました。「からし種」は粉のように小さな粒です。その一粒ほどの信仰があれば、驚くような奇跡を行うことができる、というのです。

このことによってイエスさまが言おうとしておられるのは、信仰とはそもそも大きいとか小さいとかいうのではない、また優れているとか、劣っているとかいうのではない、ということです。「からし種一粒の信仰」とは「小さいけれど質が高い」信仰という意味ではないのです。そうではなく、信仰とは、「ある」か「ない」かのどちらかだ、とイエスさまは言っておられるのです。私たちが自らに問い、吟味すべきことは、自分にはどれくらい信仰があるか、以前に比べて信仰がどのくらい増したか、ではなくて、そもそも自分には信仰が「ある」のか「ない」のか、なのです。

そして信仰が「ある」とは、主の僕として生きているということです。主がお命じになることを行い、命じられたことをみな果たした上で、「わたしは取るに足りないも僕です。しなければならないことをしただけです」と言うことです。それは謙遜でも何でもありません。僕としてはそれが当然のことです。それを謙遜などと思ってしまうならば、とたんにそれは、信仰ではなくなってしまうでしょう。そのときは自分が僕であるとは思っておらず、神様に労働を提供する雇い人のような気分でいる、ということです。

信仰が「ある」とは、自分は主の僕である、主に仕える者である、とはっきりわきまえていることです。そのことをわきまえているなら、私たちは、同じ僕である小さい者をつまずかせることのない者となることができます。また、イエスさまが罪人である私のために十字架にかかって死んで下さることによって、本当に悔い改めているとは言えない私を無条件に赦して下さり、主の僕として下さった、その無条件の赦しに共にあずかっている兄弟姉妹を、自分も無条件で赦すという思いをもって、兄弟の罪を、主の十字架に照らして戒める者となることができるのです。そして、それは、イエスさまが言われるように、桑の木が海に根を下ろすことに匹敵するような驚くべき奇跡的な業であります。人を悔い改めへと導く、回心へと導く、それこそは奇跡なのです。しかし、それはもちろん、私たちの力によってではなく、主イエスの十字架と復活における神様の恵みの力によって、そのことが実現するのです。

 僕は主人に感謝されることも、褒められることも、酬いを与えられることも期待すべきものではありません。しかし、恵み深い主は、じっさいには私たちのところに、ご自分のひとり子を、わたしたちと同じ僕として、いや、むしろわたしたちに仕える僕として送ってくださり、その尊い命を通して、わたしたちが、最後まで、神さまに仕えて生きていくことができる道を開いてくださいました。わたしたちが、その御子イエスに支えられ、主の僕であることをわきまえ、主のみ心に従って主に仕えて生きようとすることを、主は、心から喜んで下さり、そして、永遠の命の喜びと平安にあずからせて下さるのです。そのことに今日あらためて目覚めて、最後まで主の僕として生きることができますように、祈りを合わせましょう。

 恵みふかい主なる神さま
 わたしたちは、あなたのことを主よ主よ、と呼びながら、自分が主の僕であることを、見失って、あなたに向かって、身分不相応な要求ばかりをしている者でありました。しかし、今日、あなたは御言葉によって、わたしたちが、あなたの僕であることをわきまえて生きることこそが、わたしたちの信仰であり、ゆるす心、と真心の奉仕の源であり、また、まことの平安と喜びの源であることを示されて、感謝いたします、何よりもあなたの御子イエスが、わたしたちと同じあなたの僕となって、今日も共に歩んでくださっていることを覚え、その御後にしたがっていくものとなれますように、主のみ名によって、祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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降誕前第6主日礼拝 

2017年11月19日 ルカによる福音書 第16章19-31節
「み恵みに生かされて」三ツ本武仁牧師

 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第16章19節以下には、イエスさまがお語りになった一つのお話・物語が記されています。この物語を通してイエスさまはあることを私たちに教えようとしておられるのです。それは何なのでしょうか。私たちは何をこの物語から読み取ればよいのでしょうか。

 これは一人の金持ちと貧しいラザロの話です。金持ちは、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」いました。一方ラザロは、「できものだらけの貧しい人」で、この金持ちの門前に横たわっていました。それは21節にあるように「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」からですが、原文をみますと、「腹を満たしたいものだ」という訳はちょっと弱いです。そのことをとても強く願っていた、というニュアンスの言葉が使われています。生きるか死ぬか、そういう切羽つまった空腹感を抱きつつ、ラザロはこの金持ちの門前にいたのです。

それでは、この金持ちはラザロのこのような願いを無視し、手を差し伸べなかったのでしょうか。20節の、ラザロが彼の門前に「横たわり」という言葉に注目したいと思います。ここは原文を直訳すれば「置かれていた」となります。つまりラザロは誰かによって金持ちの門前に置かれていたのです。ラザロが自分で歩くことのできない障碍を持っていたというのであれば、誰かが毎日彼をこの金持ちの門前に運んできて、そこに置いたということになるでしょう。しかしラザロは「できものだらけ」ではあっても歩くことができなかったわけではありません。それではなぜ「置かれていた」という言い方がなされているのでしょうか。それは、この金持ちによって門前に置かれていた、ということなのではないでしょうか。つまりこの金持ちは、ラザロが毎日自分の門前に来るのを認め、受け入れていたのです。

それはラザロを自分の家の食卓から落ちる物で養ってあげるためです。つまりラザロが「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと強く願っていた」というのは、願っていたがそれは実現しなかった、ということではなくて、そういう願いをもって彼は毎日この金持ちの門前に来ており、そして、その願い通りにそこで養われていたのです。つまり、この金持ちはラザロを無視し、見て見ぬふりをしたわけではない、自分にできる範囲のことでラザロを支えていたのです。

 けれども、この二人が死んだ後それぞれどうなったでしょうか。ラザロは、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」のです。アブラハムは、神様の民イスラエルの最初の先祖であり、神様の救いにあずかる人々の代表です。そのすぐそばということは、ラザロは神様の救いにあずかる人々の喜びの宴席において最もよい席を与えられたということでしょう。しかし、それに対してあの金持ちは、陰府において、炎にさいなまれ、もだえ苦しむようになった、というのです。・・・私たちがここですぐ思うのは、ラザロは天国へ行き、金持ちは地獄に落ちたのだ、ということです。・・・しかし、よく読めばわかりますように、イエスさまは、決して、ラザロは良い行ないをしたから天国へ行ったとは語っていませんし、金持ちも何か悪い罪を犯したから地獄に落ちたのだとは語っていないのです。

25節のアブラハムの言葉に注目したいと思います。炎の中でもだえ苦しんでいる金持ちが、アブラハムに向かって「わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、わたしの舌を冷やさせてください」と願ったのに対して、アブラハムはこう答えています。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。生きている間に良いものをもらっていた者と悪いものをもらっていた者との立場の逆転が、死において起ったのだとアブラハムは言うのです。

では、このそれぞれがもらっていた悪いものと良いものとは何でしょうか。また、だれがそれらを与えたのでしょうか。ふつうは、これは神さまからラザロは悪いものをもらっていたし、金持ちは神さまからよいものをもらっていたと受け止められるでしょう。でもわたしは、今回あらためてこの話を読んでいて、これはそういうことではないのではないか、と思いました。・・・ラザロは、周囲の人々から、お前は何か悪いことをしたからこんな不幸をいただいたんだ、とそういう悪いレッテルをもらい、金持ちは、周囲の人々から、あなたは人生に成功したから、きっと正しいお方だ、という良いレッテルをもらっていた、そういうことなのではないでしょうか。

また、もしもこの物語が、この金持ちは自分の門前にいる貧しいラザロに助けの手を差し伸べなかったから地獄に落ちたのだ、と語ろうとしているなら、このアブラハムの言葉は、「お前は自分の門前にいたラザロを助けようとしなかった、それなのに今になって自分を助けるためにラザロを遣わしてくださいと言うのは虫がよすぎないか」というふうになっているはずです。つまりこのアブラハムの言葉からも、この話が、金持ちがラザロを助けなかったために炎の苦しみを受けることになった、と語ろうとしているのではないことが分かるのです。むしろ、先ほど申しましたように、彼はラザロをそれなりに助け、支えていたのです。ラザロを遣わしてくださいという願いも、「私がいつも助けてやっていたあのラザロを遣わして、せめて私の舌を冷やさせてください」という願いであったと考えるのが自然ではないでしょうか。

 それではなぜ、この金持ちは炎の中で苦しむことになったのでしょうか。またラザロはなぜアブラハムのすぐそばの宴席に迎えられたのでしょうか。物語の続きを読んでいくことによってそれが見えてきます。アブラハムは金持ちの願いを断り、たとえそうしてやろうと思ったとしても、私たちとお前たちの間には大きな淵があって行き来することはできないのだ、と言っています。すると金持ちは、それではラザロをまだ生きている自分の兄弟たちのところに遣わして下さいと願います。それは、「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせて」もらうためだというのです。つまり、このままではこの金持ちの兄弟たちも、この炎の苦しみに陥ることになる、というのです。

しかし、アブラハムは「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言って、それも断ります。この言葉の意味は後でまた考えたいと思いますけれども、金持ちは、そこで、しかし、なお食い下がって。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。というのです。・・・ここに大事なポイントがあります。彼の五人の兄弟たちが、こんな苦しい場所に来ないですむためには、「悔い改める」ことが必要なのです。ということは、つまり、この金持ちが今、炎の中でもだえ苦しんでいるのは、悔い改めなかったからだということです。

自分の身近な所にいる助けを必要としている人に手を差し伸べないという罪を犯したから、炎の苦しみに陥ったのではなくて、悔い改めなかったからそうなったのだ、というのです。悔い改めとは何でしょうか? 聖書のいう悔い改めとは、自分が神さまの前に正しくはない、と自覚するところにはじめて生まれてくる方向転換であります。しかし、この金持ちは、周囲の人々から正しい人だという良いレッテルをもらっていたために、それに甘んじて、自分でもついその気になって、神さまの前に自分を低くできなくなっていたのです。・・・

神様のもとで、神様の恵みによって守られ、養われ、生かされている、それが自分の本来のあり方であることに気付き、本来の居場所である神様のもとへと帰って来ること、それが聖書のいう「悔い改める」ということです。自分が本来神様のもとで、神様に守られ、養われることによってこそ生きることができる者なのに、自分の力で、また自分が持っているもので生きていけるように錯覚して、その神様のもとを飛び出してしまい、その結果どうにもならなくなっているということを認めること、それが聖書のいう「悔い改め」なのです。そのように悔い改めるとき、本来の自分の居場所である神様のもとに帰って来るとき、私たちは、羊が、羊飼いに導かれて、青草の原に休み、憩いの水のほとりに伴われるように、魂を生き返らせていただき、まことの平安に安らぐことができるのです。

 あの金持ちが炎の中でもだえ苦しむことになったのは、そのような悔い改めが、彼の中にはなかったからです。そしてまだ生きている彼の五人の兄弟たちも、それがない、というのです。彼らはみな、自分が神様のもとで、神様に守られ養われることによってこそ本当に生きることができる、ということは思いもかけずに、自分の力で、また自分が持っているいろいろな意味での財産で、十分に生きていける、生きている、と、思っています。それらが実際には全て、神様から与えられたものであることに気付いていません。そのような生き方では、永遠の命に、まことの平安にあずかることはできないのです。

・・・それに対してあのラザロはどうでしょうか?、彼は死んでのち、アブラハムの宴会に招かれます。天国の食卓にあずかっています。永遠の命の恵みに生かされているのです。なぜでしょうか。なぜならラザロは、生きているとき、不幸の中で、人々から、お前は、罪深いからそうなったのだ、と、冷たいレッテルを貼られ、またじっさい金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たすことを願うしかないような貧しさの中で、自分の力、自分の持ち物によって生きることなどとうてい考えられない、ただ人の情けにすがって生きる以外にない、そういう生活を強いられてきました。しかし、そのような中でラザロは、自分でも知らず知らずのうちに、じつは周りの人々を通して働いている神様の恵みにすがって生きていたのです。困難の中に生きざるを得ない状況の中で、我知らずに、神さまに近づいていった、といってもよいかもしれません。・・・何もかっこつけようがない、ただ神様のお恵みにすがって生きるよりない、そのような、ある意味では情けない姿、それがラザロの姿でありますが、しかし、まさにそれこそが、わたしたちが信仰に生きる、という、その本来の姿なのではないでしょうか。イエス・キリストの尊い命を犠牲にして、その十字架によって、この自分がようやく救われている、そのような聖書の告げる救いの出来事を受け入れる、ということは、私たちには、もはや、何のかっこつけようもない、ただ神さまの前に、自分の弱さ、情けなさをさらけ出して、ただ神さまのそのみ恵みにすがって生きるということなのです。

けれども、わたしたちは、すぐにそのことを忘れて、自分の力で、自分が持っているものによってなんとかしようとします、その自分の持てるものは自分のものだと勘違いしていく。また反対に、よいものを与えられていないといって不平をいう。そのことによって、神様の恵みに生きる世界から、こぼれ落ちていってしまう、迷い出でて行ってしまうのです。今日のこの金持ちの姿は、そのようにして本来の神さまの前にある人間のあり方を失い、自分の力で生きられると思っている本当の意味での、神の前における罪人の姿を表しているのです。

この金持ちは、この世的な意味では、決して悪い人間であったわけではありません。何かひどい犯罪を行ったわけではありません。むしろ、自分の家の門前に、ラザロが通って来ることを許し、彼に残飯を与え、彼なり、貧しい者を、支えてきたのです。そういう意味であたたかい善意は彼の中にもあったのです。けれども、彼には、人間にとって最も大切な、「神の前にへりくだり、神さまに立ち返る、悔い改める」ということが失われてしまっていたのです。

 ラザロを兄弟たちのところに遣わして下さいと願う金持ちに、アブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と言いました。これは、平たくいえば、聖書があるでしょう、ということです。聖書をちゃんと読み、神様のみ言葉にしっかり耳を傾ければよいでしょう、ということです。そうすれば、こんな苦しい場所に来ることがないようにするには、悔い改めることが必要だということが分かるはずだ、とイエスさまは言われるのです。

私たちも、聖書のみ言葉を、今日もこうして礼拝の中で、読みまた聞いています。聖書はわたしたちに、わたしたちは、本来、神様の恵みによってこそ生かされている者でありながら、その神様のもとを飛び出して、好き勝手に生きる罪に陥っている者であること、そしてその結果、わたしたちは苦しみの中で行き詰まっていること、しかし、その私たちを救うために、神様が独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し、神様の子として下さっていること、だから、私たちが、このキリストを受け入れるならば、わたしたちは、神に立ち返る、悔い改めへと導かれて、救いの恵みにあずかって生きることができるのだ、ということを、語っています、その聖書のメッセージを、礼拝では繰り返し、示され、語られているのです。

けれども、あの金持ちは先ほど読んだように、「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と言いました。これは、聖書を読み説教を聞いているだけでは、不十分です。そんなことでは、悔い改めなんかできません、ということです。それはこの金持ちが、じっさいの自分自身の体験から感じたことなのでしょう。私も聖書の言葉を聞いてきました、でもそれに本当に耳を傾け、悔い改めることはできませんでした。しかし、もしも死んだラザロが復活して彼らに現れ、「先に死んだあなたがたの兄さんは炎の中でもだえ苦しんでいますよ」と告げてくれたら、兄弟たちは悔い改めるでしょう、と、そう言っているのです。けれども、それに対してアブラハムはこう答えるのです。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。・・・

私たちも、聖書の言葉や説教だけではどうもピンと来ない、もっとはっきりとした目に見える奇跡などによって、神様がおられる証拠が示され、そのみ心が何であるかを明らかにしてもらえれば信じることができるのになあ、と思うことがあるのではないでしょうか。・・・けれども、悔い改めが起るのは、奇跡を見ることによってではないのです。聖書を通して神様が私たちに語りかけておられるみ言葉を本当に聞こうとする思いがなければ、いくら奇跡を体験しても、仮にそれに驚くことはあったとしても、それで、神さまの前に立ち返ることができるわけではないのです。・・・自分は神様の恵みによってこそ本当に生きることができるということに気付き、自分の本来の居場所に帰ろうとする、そういう悔い改めは、神さまの「み言葉」を聞くことによってこそ与えられます。「み言葉」によってこそ、神様は私たちを悔い改めへと、救いへと招いて下さるのです。わたしたちが、今日、新しく御言葉と出会い、そのみ言葉によって、心から悔い改めることができるように、神さまのもとに立ち返ることができるように、そして、私たちが、ラザロのように、まことの命に、この世の命を超えた、永遠の命に生きるものとなれますように、祈りをあわせましょう。

主なる神さま
 今日、主がわたしたちに語ってくださいました「金持ちとラザロ」の物語は、神様のもとで恵みによって守られ、養われ、生かされることこそが、わたしたちの本来のあり方であること、だから、あなたたちも神様のもとへと帰って来なさい、そのような悔い改めをしなさい、と教えてくださるものでありました。どうか、わたしたちが、自分の命も賜物も家族も友人も財産もみなすべて、あなたから恵みいただいたものであることに目覚め、あなたに心から立ち返りつつ、そのようなみ恵みに生かされて、あなたと隣人とに仕えていくものとなれますように、わたしたちを聖霊でみたし守り導いてください。主のみなによって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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宗教改革500周年記念礼拝 

2017年10月29日(日)ローマ3章28節、コリント一9章19-23節
 「キリスト者の自由」三ツ本武仁牧師

この朝は、宗教改革500周年記念礼拝として、特別な思いをこめて主日の礼拝を守りたい、と思います。今日の讃美歌はすべてルターの作詞曲であります。ルターは当時たくさんの讃美歌を作詞作曲したシンガーソングライターでありました。
わたしたちの教会は、もちろんキリスト教の教会でありますけれども、世界を見渡しますと、キリスト教の教会にもいろいろな教派というものがございます。そのうちの代表的な教派が、カトリック教会とプロテスタント教会だということができるかとおもいます。
そして、わたしたちは、そのうちのプロテスタント教会の信仰を受け継ぐ教会であります。そのプロテスタント教会がルターによってはじまったのが、いまからちょうど500年前、1517年なのです。

1517年、いったいその頃の日本は何をしていたのだろうか、と少し調べてみました。そうしますと、その頃の日本は室町時代、という時代のど真ん中でありました。足利尊氏という人が、征夷大将軍になって、幕府を築いたのが室町時代です。しかし、その室町時代のど真ん中といいますのは、応仁の乱という、権力争いの内乱が続いて、そのあといわゆる下克上という、社会秩序の混乱が起こって、戦国時代に突入していく、そういう時代でありました。京都にはその頃、銀閣寺が建立されています。いま映画でも話題になっています天下分け目の関ヶ原の戦いが1600年ですから、織田信長ですとか、豊臣秀吉とか、そういう人たちが生まれる少し前であります。

では1517年にどういうことでプロテスタント教会が始まったのでしょうか、その年の10月31日にドイツ人のカトリック教会の修道士であり、当時大学の神学の教授として活躍していたマルチン・ルターが、当時のカトリック教会のまちがった教えに対する抗議文を、教会の扉に貼り付けたのです。それが大きな問題となり、宗教改革、キリスト教教会の改革が始まりました。ただし、ここで注意していただきたいのは、ルターは、もともとはカトリックから離れた別の教会をつくりたいと考えていたわけではない、ということです。ルターが考えていたのは、あくまでも当時の教会がまちがいを正して、よくなってほしい、ということでした。そして、じっさい、当時の教会の中にとどまった人々にも、ルターと同じような考えを持っていた聖職者たちはたくさんいたのです。そしてそのような人々が、当時の教会を内部改革していきました。それがいまのカトリックであります。日本に最初にキリスト教を伝えたといわれる、あのフランシコ・ザビエルは、カトリックのなかに新しく生まれた改革的な組織イエズス会のメンバーでした。ですから、いまのカトリックは、ルターが批判したカトリックとは違うのです。そしてまた、ルターの願いは、カトリックとプロテスタントが分裂していくことではなく、同じ1つの教会として、共に祈りを合わせ、力をあわせて歩んでいくことです。そのことはしっかりと心に留めておきたいとおもいます。

それではマルチン・ルターはいったい、当時の教会の教えの何に抗議し、何を明らかにしたのでしょうか、また彼はいったいどのような人であったのでしょうか。そのことを今日はともに御言葉に照らしながら学んでいきたいとおもいます、

古代から中世にいたる西ヨーロッパは、信仰的というだけでなく、社会全体が、ローマ・カトリック教会に属していました。ローマ教皇が、いわば絶対的な権力を持つようになっていきました。まずそこに、大きな問題、誘惑が潜んでいたといえます。なぜなら、聖書が教えていることは、目に見えない主なる神さまこそが絶対的な方である、ということであったからです。それに対して、人間がいくら権力を持ったとしても、それはながくは続かない、人間の力は神の力のまえに無に等しい、それが聖書の根本的な教えであります。だから決して自分を絶対化してはならない。その意味で、イエスさまの一番弟子であったペトロの信仰を受け継ぐ者が、教皇と呼ばれ、権力を持ってしまったことは、不幸なことでありました。そしてその誘惑、試練に当時の教皇は負けてしまったのです。そして、自分のもとに富を集め、軍隊まで持つようになっていきました。

それが、広い意味での、宗教改革の発端であった、ということがいえます。このままではいけない。それはルターではなくても、聖書を読んでいれば誰でも気づくことです。聖書で語られているイエスさまはそのような権力者とはまったく正反対のお方であったからです。エルサレムに入場されるとき、この世の王や将軍は軍馬にまたがって入場しましたが、イエスさまは、ロバの子、ちいろばに乗って入場されたのであります。そしてまた教皇の原点である一番弟子のペトロなどは、まさに、そういう自分の弱さをいやというほど思い知らされて、涙を流して、繰り返し回心していった人物であったからです。

そうです。聖書を読んでいるものにはそのことがわかっていたのです。けれども、当時の聖書はすべてラテン語で書かれていました。古代ローマの言語として、よって最初の教会が大切にしてきた言語として、ラテン語が当時は聖なる言葉とされていました。ですから聖書はラテン語でなければならない、仏教のお経が、梵字で書かれて読まれているのと同じ理屈だと思います。

そして、当時の教会は、一般民衆が聖書を読めないことをいいことに、たとえば教皇の権力は絶対的であるとか、教皇に従っていれば天国に行ける、であるとか、そして、ついには教会が発行している、しょくゆう状、免罪符を買えば、よい行いをしなくても、救われる、ということを、さも聖書に書いてあるかのように、主張していたわけです。

ドイツ人でありドイツ語を母国語として育ったルターが、聖書をラテン語から、ドイツ語に翻訳した理由はここにあります。つまり、わたしたちは騙されないために、そして真実を正しく知るために、聖書に書いてあることを、ちゃんと自分で読み、自分の耳で聞かなければならない、ということです。そして、さらに、大事なことは、じっさいルターが聖書を自分でよむなかで気づいたこと、発見したことです。それは、さきほどの免罪符の問題で、免罪符を買えば、よい行いが伴わなくても、救われる、という、この考え方は、二重の意味で、おかしい、ということでした。

二重の意味でおかしい、といいますのは、第一に、免罪符を買えば、よい行いをしなくてもよい、これは、おかしい、これはある意味でこどもでもわかる、インチキでありますけれども、なぜ、それでも、人々がそれでも免罪符を買ったのでしょうか、それは、救われない、ということを恐ろしさ、悲惨というもの、地獄の恐ろしさ、ということが、当時の人々の心を強く捉えていたからだと思われます。

地獄絵図というものがありますけれども、そういう地獄を経験したくない。人間の宗教心、何かに頼りたい、という思いは、地獄への怖れ、得体の知れないものへの恐怖感によって最初に育まれていくのではないでしょうか? そしてある意味で、人間の歴史は、そういう得たいの知れないも、人間を脅かす恐怖の謎を、次次に解明していった歴史であるともいえます。ウィルスをやっつけるワクチンの発明、手術の技術の向上などがまさにそうだといえます。そして人間は、そういうものを解明していくなかで、向上していくなかで、次第に、地獄を恐れなくなっていった、それが一つには、現代社会において、宗教が力を失ったかに見える理由ではないでしょうか。しかしルターの生まれた頃にはまだまだ解明されない、地獄ような現実がたくさんありました。その極めつけが、ルターが生まれる200年くらい前に、ヨーロッパではペストという伝染病が大流行して、人口の3分の1が死亡した、ということがあります。まさに、地獄のような現実が人々の生活をおびやかしていました。そこに、地獄を恐れる思い、なんとかしてそこから救われたいという思いも育まれていったのだとおもいます。

けれども、ふりかえって科学技術の向上した現代でも、やはり、人間の思いや計算をはるかに超えた、恐怖をわたしたちは経験することがあります。まさに地獄絵図のようなことを経験することは依然としてある。あの東日本大震災が起こったあと、地獄絵図の絵本がこどもたちのあいだでよく読まれるようになった、というのは、そういう理由であったとおもいます。

マルチン・ルターという人もじっさいそういう恐怖を経験をした人でした。彼は、ドイツのザクセン地方、アイスレーベンという村に、炭鉱夫の子として生まれました。ルターの父は炭鉱夫といっても、むしろ炭鉱主というべき人で、もともと貧しい農夫でしたが、炭鉱夫に転身し、努力によって、炭鉱主となり、ある程度の財力をもつようになって、そうしてその蓄えで、息子のルターを立身出世させるべく、勉学をつませ、大学へと進学させ、やがては法律家になって一家を支えてほしい、と、そういう夢を抱いていました。

しかし、ルターは、そのような親の敷いたレールの途中で、期せずして、方向転換を強いられたのです。それが、地獄のような経験、恐怖体験だったのです。道をあるいている途中、雷に打たれそうになり、あやうく死にかけたのです。一説によれば、そのとき友人と歩いていて、友人が雷に打たれて死んだといいます。ともかく、彼は、そのような死を身近に感じる体験をして、宗教心に目ざめるのです。そして、法律家になる道を捨てて、修道会に入り、神学を学び、教会の司祭となり、また神学部の教授となっていきました。

父は最初は猛反対であったといいます。しかし、やがて、ルターのことを理解していくのであります。さて、ルターは、神学部の教授になり、聖書の言葉を研究し、学生たちに教えていく中で、さきほど読んでいただきました聖書箇所の最初のローマの信徒の手紙3章28節の言葉、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」から大きな発見をしました。免罪符を買えば救われる、ということが二重の意味でおかしい、というその二番目のおかしさに気づいたのです。よい行ないをしなくても地獄から救われるために、免罪符を買う、という、その根拠の根底を覆す発見をルターはしたのです。それは、わたしたちの救いは、そもそもよい行いにあるのではない、ということです。といいますか、神さまの前に本当の意味でよい行いができるのは、できたのは、ただ一人イエス・キリストだけである、ということです。そしてそのイエス・キリストによって、わたしたちすべての者は、よい行いのできない罪人でありながら、救われたのだ、罪ゆるされたのだ、という、それが福音であります。その福音を受け入れればよい、その福音を受け入れれば、免罪符なんて買う必要などない、というよりも、その福音に目ざめ、その喜びに生かされていく中で、わたしたちは、本当の意味で、よい行いをすることができるものになっていく、でも、そのようになされた「よい行い」はあくまでも、神さまへの感謝の応答であって、それが、わたしたちを救うわけではない、あくまでも、わたしたちの救いは、イエス・キリストがもたらしてくださった救いを、受け入れる。そこにかかっているのです。

このことは、ルターは、神学教授の時代、その大学の塔の中で、一人聖書を黙想する中で発見したといわれています。そこで、この体験は「塔の体験」と言われています。わたしが大事だと思うのは、ルターはこのとき、免罪符がどうこうということを超えて、聖書を一人深く黙想していくなかで、そこに記されている、イエス・キリストの福音の真実が、深く彼の心にはいってきて、そして、その福音に目覚めて本当に喜びに満たされた、ああ、わたしはイエス・キリストによって救われたんだ、と感動した、ということです。

ルターが世の中を変えたのではなく、聖書の真実が、ルターという一人の人間を通して、この世に真実へと導いた、といってもよいでしょう。そして、わたしたち一人一人もそういう器として、ここに招かれ、聖書の御言葉を味わうものとされている、ということです。

ルターはそのような塔の体験を経て、1517年10月31日、聖書に照らし、イエス・キリストの福音に照らして、当時の教会が明らかにまちがっていることを95箇条かかげて、それを教会の門に貼り付けました。その文章は、そもそも教会の指導者に読んでもらいたい文章でしたから、ルターはラテン語でそれを書いたのです。しかし、その重要性に気づいたルターの仲間によってそれがドイツ語に訳され、そして、それがグーテンベルクの活版印刷技術によって、たちまちドイツ中に広まって、期せずして、大きな運動となっていったわけです。

今日は最後に、そのようにして当時の教会と対決することになったルターが、その格闘のなかで書いた三大論文のなかで、一番重要とされる「キリスト者の自由」の中のルターの言葉をいくつかご紹介して終りたいとおもいます。「キリスト者の自由」は95か条の事件の3年後、1520年に執筆されました。ルターがこの論文で最初に引用した聖書の言葉が、さきほど読んでいただきました聖書箇所の後半、コリントの信徒への手紙一の9章19節であります。すなわち、「わたしたちはだれに対しも自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と、この言葉をもとに、ルターは、2つの命題を論文の最初にかかげたのです。

一、 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何者にも従属しない。

二、 キリスト者はすべてのものに奉仕するしもべであって、何者にも従属する。

 すなわち、クリスチャンは、まったく自由でありながら、同時に、すべての人に仕えるものである、すべての人のために祈るものである、とルターはいうのであります。・・・ルターは続けます。キリストの信仰のみによって救われる、これにより、救われるための他の行いから、わたしたちは、自由になるのです。これがキリスト者の自由であります、よってなすことはなさず、怠けて気ままにふるまう、ということではないのです、

つまりさきほど言いましたように、よい行いによらずに救われるからといって、よい行いをしない、ということではないのです。むしろ、救われた喜びのなかで、その自由のなかで、よい行いをしていく、それがクリスチャンだということです。

またルターは次のようにも言っています。聖書の言とキリストとをよく自己のうちに形成し、この信仰を不断に鍛錬し、かつ強からしめることが、キリスト者のつとめるべきただ一つの行いであり、修業であります。・・・、つまり、もしクリスチャンに修業とよぶべき業があるとすれば、それは、わたしたち一人ひとりをゆるし活かしてくださる福音のメッセージに耳を傾け、神さまがそのようにして救ってくださったわたしたちをどう用いようとされているのか、そのことを聞き取っていくこと、それが、わたしたちの修業だというのです。その意味では、御言葉が告げ知らされるこの礼拝こそ、わたしたちの修業の場だともいえるでしょう。

さらにルターは言います。「キリストが僕となったように、私たちも隣人のしもべとなり、隣人の必要を満たすために喜びをもって生きるのです。わたしたちも一人のキリストとして隣人に接するのです。」と。わたしたちも一人のキリストとして隣人に接する、どきっとする言葉です。それは無理だと思うような言葉です、しかしルターはさらにこう続けています。「神が飢え渇くわたしたちをキリストによって満たしてくださったように、私たちも隣人に対して同じように、その喜びをもって仕えるべきであります」・・・。神さまが、怖れと不安のなかにあり、飢え乾いていたわたしたちを、イエス・キリストによって、その独り子をたまわることによって、安らがせ、癒し、満たしてくださった。そのよろこび、その平安にあずかるならば、わたしたちには、そのように自分にしてくださったキリストと同じように、隣人に心からの愛をもって関わっていくことができる、そのようにして、わたしたちはすべての人のしもべとなっていくことができる、というのです。

聖書の言葉を自分の耳で、自分にわかる言葉で聞き、読み、そして何よりも聖書の言葉が正しく伝えらえられるなかで、わたしたちは、キリストの福音に、生かされ、その喜びに満たされていきます。そして、それが自分の生き方を、またこの世を正しい方向へと導いていく力となっていく、そのような福音の力が、この宗教改革500周年に、ふたたび、わたしたちのなかに、そして世界に広がっていくように、そのことを願いつつ、祈りを合わせたいと思います。

主なる神さま、この朝は宗教改革500周年記念礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。500年前、独りのあなたのしもべによって、聖書の言葉が、そこに示されたイエス・キリストの福音が、すべてを超えて大きな大きな恵みであり、力であり、慰めであることを示されたことに思いを馳せ、感謝いたします。どうか、今新たに、わたしたちのなかに、ふかく聖書の言葉が息づき、イエス・キリストが息づいてくださって、その福音その喜びに満たされた自由な心で、あなたに仕え隣人に仕え、み心にかなった歩みをしていくものとなれますように。そしてますますわたしたちの教会が、主の教会にふさわしく成長していきますように、聖霊でみたし守り導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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