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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

聖霊降臨節第14主日礼拝 

2017年8月27日(日)ルカによる福音書 第14章1-14節
「高ぶる者とへりくだる者」三ツ本武仁牧師

 私たちは生きているのではなく、生かされているのだ、この真実を、本当にその身をもって経験され、その姿でもって、そのことを証してくださった方が、先週も少しお話ししました。この8月2日に天に召された野村祐之(のむら・ゆうし)先生でありました。野村先生は、青山学院大学の神学部を出られて、アメリカにご留学され、アメリカで牧会などの働きをされたあと、母校の青山学院大学で教鞭をとってこられた方でしたけれども、42歳のときに末期肝硬変で突然倒れられて、その時死の宣告を受けられたのですけれども、アメリカで肝移植手術を受けられて、術後も非常に苦しまれたのですけれども、一時は本当に元気に回復されたのですが、今年70歳になられる年に、癌のため逝去されたのでした。

 その42歳からの闘病生活のことを綴られているのが『死の淵からの帰還』というこの本なのですけれども、信仰的な意味でも、また内容的にも大変勉強になり考えさせられる書物で、これまでの何度か読み返えさせていただいてきましたが、その中で、2つのことをご紹介させていただきたいと思うのですが、1つは「祈りの手」という話でして、これは野村先生が、肝移植をされたあとその拒否反応で、非常に苦しまれていたとき、夜中に朦朧となりながらも、ふと、目を覚ますと、誰かの大きな手で、ベッドの下から支えられている、そういう確かな感覚があって、その大きな手に支えられて、痛みが和らいでいる自分に気づくのです。そして、それはたくさんの人の祈りが大きな一つの手になって自分を支えているのだとはっと気づかれたそうです。そしてまたそのとき、なぜか自分の頭の中に、スウェーデンのある村の名前が浮かんできて、そこに電話をしてほしい、と付き添っていた奥さんに頼まれたのです。そのときは奥さんもびっくりして、結局連絡はされなかったのですが、しばらくして、お知り合いのある牧師から手紙が来て驚かれたのです。その手紙には、いまスウェーデンのある村にいて、それは野村先生が口にした村の名前であったわけですが、そこの教会で司式を頼まれ、とくにいま闘病中のあなたのことを祈った、教会員のみんなもあなたのことを祈ってくれた、遠く離れたスウェーデンの片隅でも、あなたのことを祈っていることを伝えたくてこの手紙を書いた、とあったのです。野村先生は、大変驚かれたということでしたけれども、主イエスの、そして多くの人々の祈りに支えられて自分は生かされている、そのこと実感された、それは大きな体験であった、といいます。

 また、もう一つは、そのような入院生活がようやく一段落について、入院後はじめて、外出がゆるされ、病院の外の庭園を、家族に付き添われて車椅子で散歩されたときのことですが、そのとき、その庭園の草木が、太陽に向かって、地中からプワーと吹き出している緑の風船のように見えたというのです。この地上はいのちのエネルギーに満ち溢れている、そして、またこの自分も、そのいのちのエネルギーの中で、生かされている存在なのだ、と知ったというのです。そしてそれ以来、草木を見るたびに、その場面を思い起こすようになった、ということですが、実は、こどもたちに人気のアニメ映画に「となりのトトロ」というかわいらしくも切ない映画があるのですが、その映画の一場面で、ちいさな姉妹が、トトロからもらったドングリを庭にまくと、ある晩、トトロがやってきて、お祈りのようなおなじないのようなことをする、すると、そのドングリが、ものすごい勢いせ成長して、命のエネルギーに満ちた巨木になっていく、そういう場面があるのですが、野村先生は退院後、ご自宅で、娘さんがたまたま見ていたその映画を見られて、びっくりされて、これはあのとき自分が見た光景と同じだと思われたそうです。わたしたちは、いのりによって支えられ、また、大きな命の中で、生かされているちっぽけな存在であること、そのことを野村先生は、ご自身の体験を通して、わたしたちにリアルに教えてくださった、そのように思うのであります。

 さて、礼拝においてルカによる福音書を読み進めていますが、本日から第14章に入ります。その冒頭の1節に、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが」とあります。主イエスがファリサイ派の人に招かれてその家で食事をする、という場面を、ルカによる福音書は度々描いています。7章36節以下にもそういう場面がありました。11章37節以下にもありました。ですからファリサイ派の人からこのように食事に招かれるのは少なくともこれで三度目です。そしてこの第14章において、この食事の席での話は24節まで続いています。この食事の席でイエスさまが、「宴会に招かれる」ということをめぐって語られた教えが24節まで続いているのです。イエスさまはこのように、宴会の席に着いて人々と飲み食いし、語り合うことを喜んでおられました。この後の15節以下では、神様による救いにあずかることを、盛大な宴会に招かれることに譬えておられます。救いにあずかることの譬えとして用いておられるのですから、宴会に連なり、食事を共にすることを、イエスさまは基本的に良いこと、恵みに満ちたこととして捉えておられるのです。

 しかし、この日のこの食事は、和気藹々とした楽しいものとは言えませんでした。「人々はイエスの様子をうかがっていた」と1節の終わりにあります。イエスさまを招いたファリサイ派の議員も、また共に招かれていた人々も、イエスさまのことを疑いの目で見つめ、監視していたのです。ファリサイ派の人の家での食事を重ねるごとに、イエスさまと彼らの間は次第に険悪になってきていたのです。

 イエスさまと彼らとの対立の要因の一つは、安息日についてのことでした。そのことが14章の1節から6節で語られていることでありますけれども、これは以前の13章の10節以下で語られていました、十八年間腰が曲がって苦しんでいた女性を、イエスさまが安息日に癒された、という話と内容的には同じことが語られています。安息日とは何か、ということを、イエスさまは、旅を続けながら、その町々の会堂やこうしたファリサイ派の人の家で繰り返し語ってこられたことが、わかります。その13章10節以下のところの説教で語らせていただきましたように、イエスさまによれば安息日とは、わたしたち人間が、神さまによって解放された、そのことを喜び祝いつつ、その喜びを隣人にも分かち与える日なのです。その意味で、安息日とは、すべての人が神さまによってゆるされ、生かされ、救いに導かれていることを覚えて感謝する日です。

 わたしたちの教会は、そのイエスさまの教えに基づいて主の日である日曜日に礼拝を守っているのです。ですから、礼拝に招かれているのは既にクリスチャンなった者たちだけではないのです。すべての人をイエスさま招いておられるのです。だからそのことを覚えて、求道者の方々に対してわたしたちは、あたたかく、あせらずに、神さまが与えてくださるその時を待って祈り続けていくことが大切なのです。そおれからまた、さまざまな思い煩いの中で、信仰につまずきを覚えている方があったとしても、その人に向かって、信仰が足りないとか、神さまにゆだねきっていないとかいうのは間違いであります。安息日は、そのような人々をも神さまが、愛し、支え、導こうとされている、そのことを覚える日であるからです。すべての人が神さまに救いに招かれ、いこいのほとりに招かれている、そのことを、わたしたちは見失ってはならないのです。

 さて、そのような安息日をめぐる対話のあと、7節には「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」ということが語られています。食事の席に招待された人々が、できるだけ上席に着こうとしている様子をイエスさまはご覧になったのです。ファリサイ派の議員の家でのこの食事の席に招かれていた人々は、3節にもあったように「律法の専門家たちやファリサイ派の人々」が多かったのです。この人たちは、いつも人々から「先生」と呼ばれて尊敬を受け、招待されればいつも上席に案内されていたのでしょう。だから自分は上席に着くものだという感覚が身についていたのではないでしょうか。

 イエスさまはそういう彼らの姿を見て、婚宴に招待されたら、というたとえを語られました。私たちの間でもそうですが、結婚の披露宴においては、招待した人の席を決めるのに気を使います。主賓のテーブルには誰に座ってもらうか、両家のバランスをどうするか、などをいろいろ考えなければならないわけです。そういう婚宴において、勝手に上席に座ってしまうと、自分よりも身分の高い人が招待されていて、「すみませんがもう少し下の方に移って下さい」などということになって恥をかく。むしろ末席の方に座っていて、招待した人に「あなたはもっと上席に着いて下さい」と言われる方が人々の前で面目を施すことになる、とイエスさまは言われたのです。

 わたしたち日本人は、このイエスさまの話を、間違ったかたちで受け止めてしまっていることが多いようです。日本人の文化は「恥の文化」ともいわれますけれども、名誉を第一とする日本人は、恥をかくことももっとも嫌うわけです。ですから、私たち日本人は、ここに出て来る人々のように我先にと「上席を選ぶ」ようなことはめったにしません。そんな恥ずかしいことするわけがない、と思うわけです。ですから、ここでイエスさまが言われていることは当たり前じゃないかと、思うわけです。

 けれども、このたとえでイエスさまが私たちに伝えようとされているのは、そういうことではないのです。・・・イエスさまがここで語ろうとしておられるのは、11節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。

 「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。これも確かに、一般的な教訓としても語られることです。日本人には先ほどの「恥の文化」に並んで「謙譲の美徳」という感覚もあります。自分を低くすることの美意識を見る感性であります。しかしイエスさまはここでそういう道徳を語っておられるのでしょうか。イエスさまが言っておられるところの「高ぶる」と「へりくだる」はどういう意味なのでしょうか。そのことは、12節以下のもう一つの教えと合わせて読んでいくことによって明らかになっていきます。そこではイエスさまは今度は、自分たちを招いた人、あのファリサイ派の議員にこうおっしゃったのです。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。これは人を宴会へと招く時の話です。招かれた人がどの席に着くか、というこれまでの話とは別のことのようにも思われます。しかし、この話は、「高ぶる者」とはどういう者であり、「へりくだる者」とはどういう者であるかを、伝えているのです。

 「友人、兄弟、親類、近所の金持ち」、これらがイエスさまの言われる「高ぶる者」なのです。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」、これらが「へりくだる者」です。わたしたちが普段考えていること、イエスさまがここで語っておられることはちょっとちがうのです。では、この両者の違いは何でしょうか。それは、「お返し」ができるかできないかです。宴会に招かれたら、今度は自分の方も宴会を催してその人を招待する、そのようにお返しをすることができる人と、貧しくて宴会を催すことなどとてもできず、お返しをすることができない人、という対比が見つめられているのです。そこでイエスさまは、その貧しくてお返しのできない人をこそ、宴席に、パーティーに招きなさいと教えられているのです。そうすることによってこそ、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と最後の14節にあります。これは、この世の終わりにおける神様の裁きにおいて、ということです。報いて下さるのは神様です。つまり、このように貧しい人を招くことをこそ、神様は喜んで下さるのだ、ということです。

 それはなぜでしょうか。それは、神様がそのことを喜んで下さるのは、神様ご自身がそのような方だからです。神様は、お返しができる者をではなくて、お返しなどできない、ただ恵みを受けることしかできない者をこそ招き、救いにあずからせて下さるのです。ですから、わたしたちが、そのように自分にお返しのできない人を招く、隣人とする、ということは、そのような神さまを知っている、という証なのです。その意味で、その人自身も、神さまの前に「へりくだる者」となれている、つまり、心からお返しのできない人を招く、ということを通して、その人は、自分は神さまの恵みに対して、とてもお返しなどできない、とるに足りないものであることを知っている、ということを証しているのです。

 これが、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉の意味です。高ぶる者とは、神様に対して、自分でお返しができる、自分の中にも、神様に与え、貢献することができるものがあると思っている者です。へりくだる者とは、神様の恵みをただ受けるだけで何のお返しもできない、神様に与えたり貢献するようなものを何も持っていない、と思っている者です。神様は、自分はお返しができる、と思っている者はむしろ退けて、何のお返しもできない、と思っている者をこそ招き、救いにあずからせて下さるのです。ですからこの「高ぶる、へりくだる」というのは、人間どうしの比較によって自分の方が上だと思って誇っているとか、自分は駄目だという劣等感によって卑屈になっている、ということではないのです。また「へりくだる」というのは、本当は自分でも立派なことはわかっているけれども、美徳して、へりくださってみせる、ということでもないのです。

 日本人には「恥の文化」「謙譲の美徳の文化」が根深くありますから、そのような感覚から、むしろ自分が人からどう思われるか、という感覚の中で、自ら末席に着く、ということをすることがあるわけですが、しかし、それは、ここでイエスさまが言われていることとは関係ないのです。むしろ、そういうことに囚われていて、肝心な、自分が神さまの前にどうなのか、神さまにお返しできている立派な者だと思うのではなく、とても神さまの恵みにはお返しなどできない者だということが、よくわかっていないままである、という意味では、たとえかたちだけは末席についても、全然ダメなわけです。

 イエスさまは、そういう人の目ばかり気にしているわたしたちに、そうではなく、まことの主人である神様がどのような者をご自身の宴会の席に招いて下さるのか、ということにこそ目を向けなさいと教えておられるのです。神様が招き、救いにあずからせて下さるのは、自分の力でいっぱしに生きていけると思っており、神様のために何かをすることができると自負しているような者ではなくて、自分の力ではとうていやっていくことができず、神様のために何かをすることなどとうていできない、と思っている者なのです。

 そしてこのことが、6節までの安息日における癒しの話と結びついています。イエスさまは13章では、十八年間病の霊に取りつかれて腰が曲がったままだった女性をお癒しになりました。そしてここでは、水腫を患っている男性をお癒しになりました。そしてどちらにおいても、安息日に癒しを行うことを批判する人々に対して、安息日であっても牛やろばに水を飲ませ、井戸に落ちた息子や牛を助けるのは当然ではないか、という話をなさいました。どちらも、そうしなければ生きていけない、死んでしまうという事態なのです。そのように救いを必要としている人、この救いなしには生きることができない人たちをこそ、神様は招き、救って下さるのです。この人々は、お返しをすることができない人、恵みをただ受けるしかない人です。・・・最初にお話しました野村先生の体験、証がここに重なるように思うのです。野村先生はその身をもって、わたしたち人間は、誰も自分の力で生きている者はいない、みな祈られ、聖霊の息吹を注がれて、人間として生かされている、その恵みに対して、わたしたちには何もお返しなどできない、そのことを示してくださったように思うのです。

 逆に、安息日の癒しを批判している人々は、自分たちにはそのような救いが必要だとは思っていないのです。自分たちには水が豊かにあり、あるいは井戸の外にいて、特にあわてて救いを求める必要がないのです。だから、安息日が終わるまで待つべきだ、と呑気に構えていられるのです。この人々は、「自分でお返しができる」と思っている人です。神様は、このような人、つまり「高ぶる者」を低くされ、あのお返しのできない人、つまり「へりくだる者」を高め、救いにあずからせて下さるのです。安息日におけるイエスさまの癒しのみ業によって、神様のこの招きと救いが明らかにされているのです。またイエスさまは、この救いのみ業を、「井戸に落ちた自分の息子か牛を助け出す」という思いでして下さっています。井戸に落ちた彼らは、自分でそこから上がって来ることはできないのです。引き上げてやらなければ、じきに死んでしまうのです。「へりくだる者」とは、自分がそのように井戸に落ちてしまっており、自分でそこから抜け出すことができないことを意識している者です。そういう者をこそ主イエスは、大切に思って下さり、井戸の底にまで降りて来て下さって、救って下さるのです。

 わたしたちの主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、罪の赦しを与え、私たちにこの神様の癒しと休みと慰めを、つまり本当の安息を与えるためにこの世に来て下さり、十字架の死への道を歩んで下さいました。安息日にイエスさまがなさった癒しのみ業は、主イエスの十字架の死によって私たちに与えて下さる癒し、休み、慰めを指し示しています。私たちはこの救いの恵みを受けるだけで、神様に何もお返しすることができない者です。しかし神様はそのような私たちをこそ、神の国の宴会の席へと招いて下さっているのです。祈りましょう。

主なる神さま
ただあなたの一方的な愛と恵みによって、救われ、安らぐものとされていること、そのようなあなたの恵みに対してそれに見合ったお返しなどとてもできないものであること、そのような、本当にへりくださった思いで、ただただあなたの救いの招きに感謝し、御子イエスのわたしたちへの愛に感謝して、あなたを仰ぎ見、あなたと共に生きるものとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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聖霊降臨節第12主日礼拝 

2017年8月20日(日)ルカによる福音書第13章31―35節
「命をかけた救いへの招き」三ツ本武仁牧師

 敬愛する先生方が天に召されていかれました。教会員のMさんから、ご紹介いただいて、その書物などで多くを教えていただいておりました青山学院大学のM先生が8月2日に、そして、K教会の名誉牧師であったS先生が、8月15日にそれぞれ天に召されて、S先生は84歳でしたけれども、ご葬儀は昨日あったばかりであります。

 M先生のことはまた次回にお話させていただきたいとおもいますけれども、S先生は、多彩な方で、詩なども多く残されていますけれども、とくにこの「武士道とキリスト教」という本を出されたことでも知られる方でした。

 お父さんの時代から、牧師でありながら、同時に、小野派一刀流という戦国時代からつたわる古武術の宗家である、ということで、牧師と武道家という二足の草鞋をはいて、活躍した先生でありました、日曜日は礼拝の後、会衆席が片付けられて道場となり、三十人ほどの門下生が稽古をされていました。キリスト教と武士道の接点、深いつながりを探ることをご自身のライフワークとされて、先の本をだされたのでした。

 その全てをここでご紹介することはできませんけれども、武士道は愛することと見つけたり、と帯にもありますように、武士道の精神は愛(忠誠心)であるとして、しかしその武士道の愛の限界を超えたところに、キリスト教の愛(愛敵の教え)がある、ということや、武士の武という漢字は、戦いを止めるという意味をもつ、ということ、また、「キリスト教とは単なる知識や教養ではなく、人の生き死にを見つめるための「道」であって、それは決して西洋だけでなく、全人類のためのものである、この基本が理解されれば、必ず日本人もキリスト教信仰に触れることができるし、また逆に、日本人の精神にあったかたちで、キリスト教の教えを翻訳しなおすことが大切だ」ということを説いておられます。

 今日の聖書箇所にも、イエスさまが、33節で、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない、と語っておられるところがありますし、ほかの聖書箇所では、イエスさまがご自分のことを、わたしは道であり、真理であり、命である、と語っておられるところがあります。そのような人間の生きるべき道としてのイエス・キリストとその教えを指し示すことの大切さを、改めて心に留めていきたいとおもいます。

 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第13章31節以下のところを見ていきたいと思うのですけれども、今日のところもまた、謎のような言葉が連なっていて、何を語っているのか、ちょっと読んだだけでは分からない、という感じがするのではないかと思います。小見出しは、「エルサレムのために嘆く」となっていますけれども、イエスさまは今、エルサレムにおられるのではありません。イエスさまは今、ガリラヤからエルサレムへと向かう旅の途中にあるのです。

 そのガリラヤ地方を支配していたのが、31節に出てくるヘロデです。このヘロデのことは9章7節以下にも語られていました。そこを読むと、洗礼者ヨハネを捕え、その首をはねたのはこのヘロデであることが分かります。またそこには、このヘロデがイエスさまのうわさを聞いて、「この人はいったい何者だろう」と思い、イエスに会ってみたいと思った、とも語られています。しかしそれはイエスさまの教えを受けたいと思ったということではありません。彼は、自分の支配の妨げになるなら、ヨハネを殺したようにイエスさまをも殺してしまおうと思っていたのです。本日の箇所では、何人かのファリサイ派の人々がイエスさまのところに来て、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と告げています。ヘロデはいよいよイエスをさま抹殺しようという思いを固めたのです。

 ここから分かることは、イエスさまはこの時まだヘロデの支配している地域におられたということです。だからファリサイ派の人々はイエスさまに、その地域から立ち去るように、と忠告したのです。それはイエスさまのためを思っての忠告なのか、それともファリサイ派の人々がヘロデの殺意を口実にしてイエスさまをこの地域から追い出そうとしていたのか、それはわかりません。しかしとにかく彼らはイエスさまに、命が惜しかったらヘロデの支配する領域から出て行くようにと言ったわけです。

 それに対するイエスさまのお答えが32節です。イエスさまはヘロデのことを「あの狐」と呼んでおられます。狐には気の毒な感じがしますが、どこの国でも、狐という動物は、日本の昔話でもそうですけれども、ずる賢い人間のたとえとして用いられるようです。イエスさまはずる賢いヘロデにこう伝えなさいとおっしゃったのです。「わたしは、今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」。・・・

 イエスさまは、ここで、一つには、私が行なっているのは、悪霊を追い出し病気を癒すという、人々を苦しみから救うための業であって、ヘロデの支配を打倒しようとする政治的運動をしているわけではない、ということを語っておられます。そして、私はあなたがどう思おうと、この業を、これまでと同じようにこれからも変わらずに続けていく、と宣言しておられるのです。そしてもう一つ、ここでイエスさまが語っておられるのは、「三日目にすべてを終える」ということです。これが謎のような言い回しであるわけですが、この「三日目」は、一つには象徴的な数字であって、それは「もうじき」という意味が込められていると考えてよいでしょう。つまりこれは、「今私が行なっているこの業はもうじき終る。だからヘロデよ、心配しなくていい。お前がずる賢く計画をねって、私を殺そうとしなくても、私の働きはもうじき終るのだ」という意味であると考えることができるのではないでしょうか。

 そのようなことが、イエスさまが、ヘロデに伝えなさいと言われていることですが、それに続いてイエスさまは、今度は人々に語っていかれます。33節です。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。・・・今日も明日もその次の日も、イエスさまは進んで行こうとしておられるのです。イエスさまは誰に強制されることもなく、また脅されて方向転換をすることもなく、ご自分の道をまっすぐに歩いて行かれるのです。その行き先はエルサレムです。イエスさまはここで、私は今も、これからも、エルサレムへの道を進んで行くのだと宣言しておられるのです。エルサレムは、もはやヘロデの支配する領域ではありません。そこは当時ローマ帝国の直轄地になっており、総督ポンティオ・ピラトが支配しているのです。そういう意味では、「ヘロデの支配下から立ち去ってください」というファリサイ派の人々の勧めの通りになろうとしている、とも言えます。けれどもそれは、ヘロデによって殺されるのを恐れて、命を守るためにエルサレムへと逃れて行こうということではないのです。そのことを示しているのが、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」というお言葉です。イエスさまは、ヘロデの手を逃れて生き延びるためではなくて、預言者として死ぬために、エルサレムへと向かっておられるのです。

 イエスさまは、ご自分のことを預言者、と言われているわけですけれども、しかし、じっさいにはイエスさまは預言者ではなくて、これまでの預言者たちが指し示してきた、神の子、救い主、神の言葉そのもの、であるわけです。しかし、ここでは、今まで殺されてきた預言者たちとご自分とを重ねて、このように表現されたのだと思われます。わたしは、エルサレムで殺されるのだ、というのです。エルサレムという場所は、かつてこの地上にあって、神が、神の民の都として定められた聖地でありました。そこはですから本来、神のものであり、神の御子であるイエス・キリストのものなのです。しかし、イエスさまは、そこでわたしは死ぬのだ、殺されるのだ、といいます。イエスさまが救い主として、神様のみ言葉を語っても、エルサレムの人々は聞く耳を持たず、かえってイエスさまとその教えを拒み、十字架にかけて殺してしまう、そのことをイエスさまは知っているのです。・・・

 そしてこれを先ほどの32節の、三日目にすべてを終えるというみ言葉と合わせて読むならば、イエスさまは、エルサレムで死ぬことによってすべてを終える、と言っておられたことのもう一つの意味が見えてくるのです。それはイエスさまの十字架の死から三日目に起きた復活のことです。十字架の死と復活によって全てを終える。これらによって、イエス・キリストの地上におけるみ業が終わるのです。神様が、いま、もうすぐ、そのことをなそうとされている、その時期が近づいたので、イエスさまはそのことが起るエルサレムへと今向っておられるわけです。

 34節以下は、そのエルサレムを嘆く、イエスさまのお言葉が語られています。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。このお言葉は、イエスさまご自身の体験から出たと言うよりも、神さまとイスラエルの民のこれまでの長い歴史を踏まえたお言葉であると言うべきでしょう。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」というのは、イエスさまをお遣わしになった父なる神様のお言葉です。神様はこれまで繰り返し、エルサレムを中心とするイスラエルの人々を、ご自分の民として、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、集め、養い、育もうとしてこられたのです。そのために、預言者たちやその他の人々をお遣わしになったのです。「だが、お前たちは応じようとしなかった」。・・・イスラエルの人々は、主なる神様からの語りかけに応答しませんでした。彼らは預言者たちを殺し、神様から遣わされた人々を石で打ち殺すようなことをしたのです。神様が差し伸べておられる恵みのみ手を振り払い、むしろそのみ手に噛み付いて、あくまでも自分の思い通りに、自分中心に、自分が主人となって生きようとしたのです。

 それはしかし、イスラエルの人々だけの話ではないでしょう。彼らは私たち人間の代表です。私たちは誰もが皆、彼らと同じように、神様に背き逆らい、私たちを養い、守り、導いて下さろうとするみ手を振り払って、あくまでも自分の思い通りに、自己中心に、自分が主人になって生きようとしているのではないでしょうか。しかし雛は、めん鳥の翼の下に守られていなければ成長することも、いやそもそも生きることもできないのです。自分の力で、あるいは人間どうしの協力によって生きていくのだ、いけるのだ、と思っている私たちは、自分たちだけでなんとかやっていけると思っているヒヨコのようなものではないでしょうか。その結果私たちは様々なこの世の力に支配され、翻弄されて、自由でも何でもない、主人であるどころかむしろ奴隷のように束縛された悲惨な状態に陥っていくのです。苦しみや悲しみの中で、それを乗り越える力もなく、さりとて忍耐することもできずに絶望に捕えられていくのです。それらは全て、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」ということの結果なのではないでしょうか。エルサレムに対するイエスさまの嘆きは、そのまま私たち一人一人に対する嘆きなのです。

 反対に、身をひくくして、自己中心を捨てて、神さまにゆだねていくならば、私たちは、豊かたに成長し、その羽を広げて、飛び立つことができるようになります。・・・昔、テレビのドキュメンタリー番組で、海鷲の巣立ちの場面を見る機会がありました。巣には三羽の海鷲の子がいるのですが、年上の子からどんどん栄養をもらって、元気に巣立っていき、最後の一羽は、栄養も少なく、弱々しい姿で、何度も飛び立とうとするのですが、飛び立てないのです。飛び立てなければ、そのままその海鷲の子は巣の中で死ぬだけです。これまで自然の厳しさを映し出してきた番組だっただけに、この子も死んでしまうのだろう、と半ば諦めていました。しかし、その三男坊か三女かはわかりませんが、その海鷲は、ついに、羽を大きく広げて、大空に飛び立っていったのです。感動しました。わたしたちは、この海鷲と同じではないか、と思うのです。私たち自身の力は弱くとても、神さまにゆだねていくとき、私たちはちゃんと羽を広げて、飛んでいくことができるのです。

 最後の35節には、「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」とあります。これもまた謎のような言葉でありますが、このイエスさまのお言葉は、神様が預言者やその他の人々を遣わして、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、イスラエルの民を呼び集めて下さったのに、それに応じようとせず、その恵みのみ手を拒んだイスラエルの民、その家は、見捨てられてしまう、ということを言っておられます。

 『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時、それは、マラナ・タ、主よ、来てください、と待ち望んでいたイエス・キリストが来るとき、つまり、この世の終わりにイエス・キリストがもう一度来られる、という、聖書のいう、いわゆる再臨の時のことです。その時に、最後の審判が行われる。その最後の審判においては、神様の語りかけに応答せず、差し伸べられたみ手を拒み、振り払った者たちは、見捨てられ、滅ぼされてしまう、エルサレムのことを嘆いておられるイエスさまの嘆きはそれゆえの嘆きであったのです。

 しかし、この警告が、先ほどの、今日も明日も道を進み、三日目に、エルサレムにおける死と復活によって救いのみ業が完成される、というみ言葉に続いて語られていることに、大きな意味があると思うのです。イエスさまのこのお言葉を聞いている人々は、今、イエスさまのお姿を見ているのです。その教えを聞き、悪霊を追い出し、病気を癒しておられるみ業を見ているのです。しかし、そのイエスさまのみ業は、三日目に、つまりもうじき、終ってしまう。そうしたらもうイエスさまのお姿を見ることは、終わりの日の審きの時までできないのです。だから、今のうちに、イエスさまのお姿を見、そのみ言葉を聞くことができる間に、神様が差し伸べて下さっているみ翼の蔭に身を寄せなさい。神様の語りかけに応答して、差し出された手を握り返して、救いにあずかりなさい、とイエスさまは語りかけておられるのです。「見よ、お前たちの家は見捨てられる」というのは、「お前たちなんかもう地獄行きだ」という滅びの宣言ではなくて、あくまでも警告です。このままだとこうなってしまうぞ、しかし、今ならまだ間に合う、今のうちに、雛を羽の下に集めるめん鳥のようにあなたがたを救いへと招いておられる主なる神様のもとに立ち返りなさい、とイエスさまは語りかけておられるのです。そしてそれは、いまこのように礼拝の中で、主の御言葉を聞いている私たち、霊的にイエス・キリストと出会っている私たちにも、語りかけておられるのです。

 この招き、語りかけに対してどうするかは、私たちが決めることです。「だが、お前たちは応じようとしなかった」ということになるのか、それとも、この招きに応えてイエス・キリストが命をかけて与えてくださった救いにあずかるのか、それはこれからなのです。私たちにはなお、そのための時が与えられています。しかしその時はいつまでもあるわけではありません。タイムリミットはあるのだ、ということを忘れてしまってはならないのです。けれども、私たちがなすべきことは、そのタイムリミットはいつなのか、と詮索することではなくて、神様が主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現し、私たちにもあずからせようとしていて下さる救いへの招きを見つめ、その招きのみ言葉を真剣に聞いていくことです。そのことの中で、それぞれにとって最も良い時に、神様のこの招きに応えようという思いが、聖霊の働きによって与えられていくのです。祈りましょう

 主なる神さま
 あなたはいまも、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私たちを集めようしてくださっています。あなたは、御子イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、わたしたちを、みもとに集めようとしてくださっています。どうか、その主イエスの命をかけた招きに答えて、主のみ救いへの招きに答えて生きるものとなれますように、わたしたちを聖霊でみたし守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第11主日礼拝 

ルカによる福音書 第13章22-30節 
「狭い戸口から入る」とは 三ツ本武仁牧師

 以前こどもから、天国に行ける人の人数って何人か、と聞かれたことがあります。それから、また以前ある人から、天国ってそんなにたくさんの人がいっているのなら、いっぱいにならないのですか、と真面目に聞かれたことがありました。どちらも、たいへん質問に困ってしまいましたけれども、ある意味では、そのような問い、疑問は、当然のこととのように思います。

 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第13章22節以下には、ある人がイエスさまに「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたことが語られていました。イエスさま、この問いに答えて、その人だけにではなく、23節の終わりにあるように、周囲にいた「一同に」お語りになりました。それは、周囲の人々が皆、この人と同じ問いを抱いていることを感じ取られたからでしょう。「救われる者は少ないのか」という問いは、最初に申しましたことと同じく、多くの人々に共通するものなのではないでしょうか。私たちの心の中にもそういう問いがあるのではないでしょうか。救われる人は多いのだろうか、それとも少ないのだろうか、イエスさまは、あるいは聖書は、そのことについてどう言っているのだろうか、私たちも、そのことを知りたいと思っているのではないでしょうか。
 
イエスさまは、このような問いに対して、まず、24節以下で次のように答えられました。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。・・・このお答えは、救われる者が少ないか多いか、という意味でいえば、明らかに、少ない、ということを暗示しているように聞こえます。「入ろうとしても入れない人が多い」ということは、救いに入ることができる人は少ない、ということです。なぜ少ないのか。その理由は、そこに入るための戸口が狭いからだ、というのです。

 しかし、イエスさまはここで、狭い戸口から入るように「努めなさい」と言っておられます。イエスさまが語ろうとしておられるのは、救われる者が多いか少ないかという、そういう私たちが囚われているあれかこれかの議論への答えではなくて、救いに入るために「努めなさい」という勧め、促しなのです。この「努めなさい」という言葉は、勝利を目指して競技する、戦う、という意味です。狭い戸口から入るには戦いが必要なのです。しかし、それは他人を蹴落とすための戦いではありません。それはいわば、救いにあずかるための信仰の戦いです。狭くて入りにくいこの戸口こそ救いに通じるのだと信じて、そこから入ろうとする信仰の戦いです。イエスさまがここで人々に、つまり私たちに、求めておられるのは、「救われる者は多いのか少ないのか」と問い、その答えによって、身の振り方を考えるような生き方ではなくて、イエス・キリストを信じて従うことによってこそ救いが得られるという信仰の決断と、その狭い戸口から入ろうとする決意なのです。

「救われる者は多いのか少ないのか」という問いの根底には、先ほど申しましたように、神様はこころの広い方なのか、それとも反対に厳しい方なのか、それによって信じるか信じないか、従って行くか否かを決めよう、という人間の側の、人間中心的な思いがあります。つまり神が自分の思い、考え、願望に合っているのかどうかを確かめ、合っているならば信じようとしているのです。イエスさまは人々の中にあるこのような思いを見抜いて、そういう思いでいる限り、救いに入ることはできない、救われるためには、この戸口をくぐろうとする決断と熱心さが必要なのだ、と教えられているのです。この戸口は自分の寸法にぴったりフィットするかどうか、などと考えているのではなく、入りにくい狭い戸口を通って救いにあずかろうと努めるのでなければ、救いに入ることはできないのだ、と言っておられるのです。入ろうとしても入れない人が多いのはそのためです。それは、入れてもらえないのではなくて、本当に入ろうと努めることをせず、入れるか入れないか、入ろうかどうしようかと考えながら、この戸口の寸法を計ったり、ドアの仕組みを調べたりしながらうろうろしているからです。そういう人が多い、という意味で、救われる者は確かに少ないのです。それは神様が厳しい審き主だからではなくて、本当に真剣に救いを求めようとする人間が少ないからなのです。

 イエスさまは「狭い戸口から入るように努めなさい」という勧めを、25節では次のように言い換えておられます。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」。これも、「戸口」が重要な役割を果している「たとえ」です。一家の主人が夜になって、戸口を閉めて鍵をかける、そうしたらもう翌朝まで誰もその家に入ることはできないのです。このたとえのポイントは、戸口が閉じられる時が来る、そうしたらもう入ることはできない、ということです。この狭い戸口を入って救いにあずかることには、タイムリミットがあるのです。この戸口はいつまでも開いているわけではないのです。最終的なタイムリミットは、イエスさまがもう一度来られ、それによってこの世が終わる、終末の時だと聖書はいいます。しかしまた、私たちの1つの現実として、人生には、死というタイムリミットもあります。

この世の人生の最後、つまり死が、救いにあずかるためのタイムリミットだと、聖書が語っているわけではありません。その時は、誰にもわからないのです。死ということがまさにそうであるように、自分たちに与えられている時には限りがあることを覚えて、救いの戸口から入るように熱心に努めることが求められていることだけは確かであります。その意味で、わたしたちの人生はいつまでも先延ばしできない、限りあるものであることを知っていることは意味があると思うのです。じっさいイエスさまは、わたしたちに与えられた時に限りがあることを知り、だからこそいま、信仰の決断をすることを、これまでも繰り返し語ってこられました。

今日のところもそうです。主人が、つまり神様が戸を閉めてしまってからではもう遅いのです。「御主人様、開けてください」といくら戸を叩いても、「お前たちがどこの者か知らない」と言われてしまうのです。26節は、その時こんな言い訳をしてもそれは通らない、ということです。「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」。つまり、私たちもあなたと一緒にいたではありませんか、あなたの教えを聞いたではありませんか、ということです。この「あなた」とはイエスさまのことだと言えるでしょう。イエスさまのもとに集い、その教えを聞いた、礼拝に出席してみ言葉を聞いた、聖書を読み、その教えを生活の中で生かそうとしていたかもしれない、けれどもこの人々は、狭い戸口から入らなかったのです。本当にイエスさまによる救いにあずかろうと熱心に求めることをせず、信仰の決断をすることなく時を過ごしたのです。そしてそのうちに戸は閉められてしまいました。そうなったら、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われてしまうのです。

 「不義を行う者ども」と言われています。それは別にその人たちが特別に悪いことをした、大きな罪を犯した、ということではないでしょう。彼らは、イエスさまと一緒に食べたり飲んだりした、つまりイエスさまとの交わりに確かに生きていたのです。そして広場でイエスさまの教えを受けたのです。み言葉を聞いて、それを自分なりに受け止めて生きていたのです。いっしょうけんめい良い行いに励んでいたと言ってもよいでしょう。しかし彼らは救いに入ることができないのです。・・・それではどのような人々が救いにあずかるのでしょうか。28節には、「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」とあります。・・・「アブラハム、イサク、ヤコブ」はイスラエルの民の先祖です。その三人のみが神の国に入るということではなくて、その子孫である神の民イスラエルの代表としてこの三人の名前があげられているのです。つまり、神の国に入るのは神の民だということです。しかし、この話は、ここで外に投げ出されている人々もイスラエルの民だというのです。つまり、ただ血筋において、イスラエルの民であるからといって、神の国に入ることができるわけではない、ということです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、主なる神様の呼びかけに応えて旅立ちました。自分の願う通りになることが保証されていることを確かめた上でではなく、先行きどうなるか分からない中で、主の示される道を、主と共に歩んでいったのです。

つまり彼らは、行く先を知らずとも、主なる神様を信じ、ゆだね、神さまと共に歩むという狭い戸口から入ったのです。今日の説教題は「狭い戸口から入る」とは? とさせていただきましたけれども、それは第一に、この信仰の先人たちのように、たとえ行く先を知らずとも、主なる神様を信じ、その前に身を低くして、ただ神さまにゆだね、神さまの導きに従って歩んでいくことなのです。彼らに罪がなかったわけではありません。いろいろな罪を犯し、失敗もしました。しかしその歩みの全ては、あの戸口の中での歩みだったのです。神の民とは、この歩みを受け継ぐ者たちのことなのです。

また「狭い戸口」と言えば、茶室の「躙り口」を思い出される方がいらっしゃるかもしれません。茶の湯、わび茶を開いた千利休はクリスチャンであったという説が今注目されていますが、高山右近をはじめとするキリシタン大名の弟子たちや、妻子がクリスチャンであって、そういう環境にいたことは確かであります。最初の茶会は南蛮寺で催されたわけですけれども、南蛮寺とは、つまり、西洋のお寺、教会であったわけです。
そこで千利休は、イエスさまが言われた「狭い戸口から入りなさい」というみ言葉を、茶室を建てる際に形として表したともいわれています。世間一般でどんなに地位や名声を得ている者であったとしても、天の御国に入るときには誰もが狭い戸口から頭を下げ、謙(へりくだ)ること無しには入れないことを茶室の戸口に表現した、というのです。

聖書に戻りますと、神の国には「すべての預言者たち」もいると言われています。預言者たちは、神様のみ言葉を聞き、それを人々に伝えました。主なる神様のみ言葉を受け、それによって生きた人々です。神の民とは、神様のみ言葉によって生きる人々です。神の国に入るのはそのような人々なのです。そして29節には、「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」とあります。

これの背後には、本日詩篇交読で読みました詩編107編3節があります。そこには主なる神様がご自分の民を、「国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から」とありました。全世界から、神の民が集められて、神の国で宴会の席に着くのです。その人々は、何か特別に良いことをしたのではありません。自分の善行の報いとして招かれたのではありません。彼らは、主なる神様の招きに応答したのです。呼びかけに応えて、与えられた時、チャンスを無駄にせずに、主と共に歩むという狭い戸口から入り、み言葉によって生きる民となったのです。そのことによってこそ、神の国の宴会の席に着くことができるのです。この招きは全ての人々に与えられています。イスラエルの民には真っ先に与えられていました。しかしイスラエルの人々はなかなかこの招きに応えようとせずに、むしろ後から招かれた異邦人たちの方が先にそれに応えて狭い戸口から神の国に入っている、ということが起っています。それが30節の、「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」というみ言葉の意味です。神様の招きに応えるかどうかは、私たちの決断に委ねられています。それゆえにこのように後の人が先になり、先の人が後になることが起るのです。神の国に入ることができないのは、罪を犯した人ではなくて、神様の招きのみ心を無視して、せっかく開かれている戸口から入ろうとしなかった人、あるいは入るチャンスを失い、そのうちに戸が閉められてしまった人なのです。

 神様は、罪のない清く正しい人間を招いておられるのではないのです。むしろ、深い罪を負い、それによって生じる様々な問題をかかえ、苦しみや悲しみ、嘆きの中にある私たちを招いて下さり、独り子イエス・キリストの十字架の死によってその罪を赦し、イエスさまの復活にあずかる新しい命、永遠の命の約束を与えようとしておられるのです。罪人である私たちを招いて下さるために、イエスさまは、十字架の死というまことに狭い、他の誰も入ることができないような深い苦しみの戸口を通って、天に上げられ、そのことによって私たちのが神の国に入るための戸口を開いて下さったのです。このイエスさまの苦しみと死とによる神様の招きのみ心を無視し、せっかく開かれている戸口から入ろうとしないとしたら、それはイエスさまの十字架の死と復活を無にすることになります。今この礼拝に集っている私たち一人一人には、その狭い戸口に入るための時が、チャンスが、神様によって与えられています。この戸口は確かに狭い戸口です。その先に続く道も、決して平坦なものではありません。この戸口さえ通ってしまえば全てが楽になるとか、何の問題も、悩みも苦しみもなくなる、などということもありません。私たちがかかえている罪だって、それによってなくなるわけではないのです。しかし、この戸口から入ることによって、相変わらず罪人であり、苦しみや悲しみを抱えている私たちの、その歩みの全体が、神様の救いへの招きの中に置かれます。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが共にいて下さる信仰の旅路を歩むことができるようになるのです。祈りましょう。

 主なる神さま
 私たちはつい人間的な思いで、この道は得か損か、正しいか間違っているか、と納得のいくまで、石橋を叩いて渡ろうとするものでありますけれども、私たち人間の罪の深さ、その悲惨は、確かな現実であります、その救いようのない悲惨は確かな現実であります。しかし、その救いようのないこの世を救ってくださる方が現れたと聖書いいます。神の独り子イエス・キリストがこの世に来てくださり、自分たちのあなたへの罪を忘れて、あなたを確かめているようなわたしたち、それゆえにすぐにでも裁かれ、滅ぼされて当然であるわたしたちの、その罪の身代わりとなって、その命を十字架にかけて、わたしたちを罪から救ってくださったと聖書はいいます。主よ、どうか、わたしたちがこのキリストを信じて、この身をゆだていくものとなれますように、そのような狭い戸口から入ることを、求めていくものとなれますように、聖霊でみたし、守り、導いいてください。主のみなによって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第10主日礼拝 

2017年8月6日(日)ルカによる福音書第13章10-21節 
「安息日―解放と平和の記念日」三ツ本武仁牧師

 みなさまのお祈りのおかげで、CSのファミリーキャンプが無事に終わりました。ほっとしたところでありますけれども、今日は、平和聖日であります。72年前、日本は戦争をしていた、そして、その戦争が終わってから、日本はもう二度と戦争をしない国を目指して歩んでいます。そのことを覚えて、戦争が終わった8月の第一主日を、日本の教会では、平和聖日と定めています。とくに今日は8月6日であり、広島に原爆が投下された日であります。そのことを深く心に刻みながら、礼拝を守りたいと思います。

 本日はご一緒に、ルカによる福音書第13章10~21節を読みます。ここには二つの話が語られています。第一は、イエスさまが安息日にある会堂で病気の女性を癒したという奇跡の話、もう一つは18節以下の、イエスさまが語られた「からし種」と「パン種」によるたとえ話です。この後半の18節以下のたとえ話は、17節までのところのイエスさまと人々との会話を受けて語られています。そこで先ず18節以下のたとえ話から見ていきたいと思います。イエスさまはここで、「神の国」を「からし種」と「パン種」にたとえておられます。神の国というのは、神さまの恵みのご支配という意味です。この神の国、神様の恵みのご支配こそが人間の救いである、と聖書は語っているのです。ですから「神の国」は「神様による救い」と言い換えることができます。イエスさまはその神の国のたとえをいろいろなかたちでお語りになられましたが、今日のところでは、それが「からし種」と「パン種」にたとえられているのです。

 からし種は、粉のように小さな種です。ですからこれは「小さいもの」を表すたとえとして用いられます。イエスさまは他の所で、「からし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことができる」とおっしゃいました。それは、ほんの小さな信仰でも、それが本物の信仰ならば大きな力を発揮するのだ、ということを言うためです。ここでも同じように、小さなからし種でも、それが蒔かれ、芽を出し、成長していくと、やがて空の鳥が巣を作るような大きな木になる、ということが語られています。神の国、神様のご支配、私たちの救いも、最初はちっぽけな、あるのかないのか分からないようなものでも、やがて大きな、誰の目にも明らかなものとなる、ということが、このたとえによって語られているのです。これは分かりやすいたとえだと言えるでしょう。けれども、ここで「からし種」にたとえられているちっぽけな、あるのかないのか分からないものとは何を指しているのでしょうか。

 神の国がたとえられているもう一つのものは「パン種」です。パン種とはパン生地を発酵させる酵母、いわゆるイースト菌です。それが三サトンの粉に混ぜられるとあります。聖書の後ろの付録にある「度量衡および通貨の表」を見ると、一サトンは12.8リットルだそうです。ですから三サトンは40リットル近くの粉です。一つの家庭で一度に用いられる量をはるかに超えたかなりの量だと言えます。そのくらいの量の粉を発酵させるためにどれくらいのパン種が必要なのか、パン焼きの知識のない私には分かりませんが、いずれにせよ粉全体の量に比べれば、ずっと少ないものでしょう。しかしこのパン種は、からし種のように小さいもののたとえというだけではなくて、ほんの僅かな、何の影響もないように思われるものが混ぜられることによって全体が影響を受け、変わっていく、ということのたとえとして用いられています。それは良い意味でも悪い意味でも、です。例えば、以前12章の1節でイエスさまは「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と語られたことがあります。それは、悪い意味ででした。しかし、本日の所は、良い意味で用いられています。神の国、神様のご支配の完成、実現に至る歩みにおいて、目立たない小さなこと、あってもなくても大して影響はないように思われることが実は大きな意味を持ち、用いられていく、ということがこのたとえの意味でしょう。では、そのからし種やパン種にたとえられているものは何なのか、本日の最初の10節以下から、そのことをご一緒に考えていきたいと思います。

 今日の最初の10節以下には、イエスさまが安息日にある会堂で教えておられた時のことが語られています。エルサレムへの旅の途中において、イエスさまは安息日ごとにユダヤ人たちの会堂に入り、そこで行われている礼拝に参加され、そこでみことばを語ってこられました。そこでこの日、イエスさまがおられた会堂に、「十八年間も病の霊に取りつかれている女」がいました。「病の霊」という言葉からは、この人はいわゆる悪霊に取り付かれていたのだと思われるわけですが、この女性の「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができない」というその症状がイエスさまによって、癒され、解消し、治った、ということがここに語られているのです。

 イエスさまは、その癒しを行うに際して、「婦人よ、病気は治った」とおっしゃいました。すると、彼女はたちどころに、ずっと曲がったままだった腰がまっすぐになったのです。このイエスさまがお語りになった言葉は、直訳すると、「婦人よ、あなたはあなたの病気から解放された」となります。イエスさまは、今日のところでは、「あなたは病気から解放された」と宣言することによって、癒しをなさったのです。

・・・ルカ福音書の第4章の16節以下には、イエスさまがその宣教活動の始めに、お育ちになったナザレの町の会堂で、ある安息日にお語りになった説教が記されています。イエスさまはそこで次のような聖書の言葉を朗読なさいました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。これはイザヤ書61章の言葉です。そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスさまはお語りになったのです。つまり、捕われている人の解放という救いが今日実現した、あなたがたは捕われから、圧迫から、解放されたのだ、という宣言です。イエスさまが安息日に会堂で語っておられたのはこのことでした。本日の箇所のこの日、この会堂においても、イエスさまはこれと同じ解放の実現を告げる説教をお語りになり、そしてその説教と共に、その解放を一人の女性に具体的に告げて、「あなたはあなたを捕えている病気から解放された」とおっしゃったのです。このイエスさまの宣言によって、この女性の病気は癒されました。実はこの「病気」という言葉は、「弱さ、無力さ」という意味でもあります。ですから、イエスさまのお言葉は、「あなたは、あなたを捕えている弱さ、無力さから、それによる悩み苦しみから解放された」という意味でもあるのです。

 教会では毎週の主の日の礼拝において、牧師を通して、イエスさまによるこの解放の恵みを告げる御言葉が基本的には語られているのです。イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様が主イエスを復活させて下さったことによって、あなたがたはもはや罪と死の支配から解放されているのだ、というみ言葉が、毎週、語られているのです。そして、私たちはある時、そのみ言葉が、まさに自分自身に対して語られていることに気付きます。つまり「自分」へのメッセージとして、「あなたは罪から解放されたのだ」というイエスさまの宣言を聞くことになるのです。それが信仰の始まりです。今日の礼拝の中でも、そういう人が現れることを願っていますけれども、信仰とは、イエスさまの解放の宣言が、様々な具体的な悩みや苦しみ、弱さや罪をかかえているこの自分に向かって語られていることに気付かされることなのです。

 ・・・ところが、イエスさまによるこのような解放、癒しのみ業を見た会堂長が腹を立てたということが14節以下に語られています。罪の中にある者には、イエスさまの福音はなかなか受け入れらないのです。彼は群衆に、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言ったのです。安息日は、一切の仕事を休むべき日だと確かに聖書にあるのです。週の七日目を安息日として聖別し、その日にはいかなる仕事もしてはならない、そういうことが確かに、主なる神様がイスラエルの民に与えた十戒には記されているのです。

会堂長はユダヤ人たちの宗教的指導者として、人々にこの戒めをきちんと守らせようとしたのです。そしてそのことに基づいて彼は、イエスさまを批判したのです。安息日に病人を癒したイエスは律法に違反している、と彼は思ったのです。しかし、そこでイエスさまは彼にこう言われました。15節です。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。これは特に説明の必要はないお言葉でしょう。安息日であっても、つないでいる牛やろばを解いて水を飲ませることはするのです。それなのに、十八年間サタンに、先ほどの言葉では病の霊に縛られていたこの人をその束縛から解き、解放してあげることを、どうして安息日にしてはならないのか。このことに腹を立てるこの会堂長は、律法を形式的、外面的に守ることによって自分の正しさを主張し、人を批判している、まさに偽善者であります。そういう律法主義者、形式主義者をやりこめたイエスさまのこのお言葉はまことに痛快であります、17節に「こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」とあるのはうなずけるのであります。

 しかし私たちはここで、イエスさまのお言葉のそのような痛快さを楽しんでいるだけでいいのでしょうか。私たちはイエスさまのこのお言葉の意味を正しく受け止めなければなりません。つまりこれは、安息日にだって牛やろばに水をやることは許されているのだから、病気の人を癒して何が悪い、という開き直りではないのです。イエスさまはここで、安息日の本当の意味、主なる神様が十戒においてそれを定め、その日にはいかなる仕事もしてはならないとお命じになったその本当のみ心は何なのかを、示そうとしておられるのです。

 安息日の本当の意味は何でしょうか。何のために私たちは休みなさい、と命じられているのでしょうか。旧約聖書の申命記の第5章12節以下にそのことは詳しく語られています。なぜ安息日に仕事を休むのか、この命令は基本的に、イスラエルの民の中で、長老のような立場の高い者に向けて語られた命令なのです。なぜ、その人たちに、主は休みなさい、と命じられたのか。それは、その人自身が休むためと言うよりも、その人の下でいつも働かされている者たち、部下たち、そしてまた労働の道具とされた牛やろばなどの家畜にも休みを与え、体力を回復させるためなのです。そのような人々や家畜を憐れみ、愛し、慈しみ、生かすためです。なぜ、そうするのか、それはじっさいにそうしなければ、その人々や動物たちが弱ってしまう、場合によっては死んでしまう、ということももちろんありますけれども、それとともに、今は長老のような立場の人々が、かつて自分たちが、エジプトの地でそのように奴隷であった、そのような苦しい立場から、神さまによって解放されて、救い出された、そういう経験があった、そのことを感謝して思い起こすためなのです。神さまに救われ、解放されていまの自分たちはあるのだ、それがイスラエルの民の信仰の出発点なのです。それを思い起こす、それが安息日の意味です。

今日は最初に申しましたように平和聖日であるわけですけれども、今日のこのイエスさまの安息日における解放宣言と重ねて考えるならば、平和聖日とは、戦争の悲惨さ、罪の悲惨さを知る者として、その軛から解放されているいまの平和がどれほど尊いものであるか、と、戦争から解放されていることを喜び、感謝する日である、ということができるか、と思います。

安息日とは、神様によって自分たちがかつて与えられた解放と平和を記念し、感謝し、その思いから、今度は自分たちが今、捕われの中にある人々に、その解放の恵みを分け与え、共にその恵みにあずかるための日です。十八年に及ぶ苦しみからこの女性を解放することは、安息日にしてもよいことどころか、安息日にこそ相応しいことなのです。

 私たちにとっての安息日は、主イエスの十字架と復活によって実現した罪と死の支配からの解放とそれによって与えられた平安・平和の記念日である主の日、日曜日です。この主の日に、私たちは礼拝に集い、聖書のみ言葉とその説き明かしを通して、主イエス・キリストによって実現した私たちの解放を告げる説教を聞きます。そしてそこには、イエスさまが私たち一人一人に個別に語りかけて下さっている「私があなたのために十字架にかかって死に、そして復活したのだから、あなたはあなたを捕えている弱さ、罪、問題から既に解放されているのだ」という宣言、平和宣言が響いているのです。

 ですから、神の国をたとえているからし種とパン種とは、私たちが礼拝において与えられている、イエスさまによるこの「解放の宣言・平和宣言」のことです。それはからし種のように、今はまことにちっぽけな、あるのかないのか分からないようなものです。しかしこの種は、蒔かれたならば必ず成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作るほどになるのです。またそれはパン種のようなものです。粉全体の量に比べて、つまり私たちの一週間の生活における様々な困難な問題、悩みや苦しみ、悲しみ、それらの原因となっている弱さや罪と比べると、礼拝において告げられるイエスさまによる解放の宣言、罪の赦しの恵みはまことに僅かな、何の力もない、私たちの現実を変える力などないように思われます。けれども、このパン種が混ぜられると、やがて全体が膨れていくのです。イエスさまによる解放の宣言・平和宣言は、私たちの歩みに、人生に、神様と隣人との関係に、やがて大きな力を、影響力を発揮し、その全体を変えていくのです。しかもそれは粉が発酵しておいしいパン生地に変えられていくような良い変化です。今日私たちは聖餐式にともにあずかり、キリストのからだなるパンをいただきます。私たちは、イエスさまの十字架と復活による解放の恵みの記念日であるこの主の日に教会に集い、キリストを通して神様を礼拝し、そして聖餐を守ることによって、イエスさまによる解放の宣言という恵みのパン種をこの身に練り込んでいただき、私たちの歩み全体がそれによって祝福され、おいしいパンとなっていくのを、つまり、神の国が実現していくのを、楽しみに希望をもって生きることができるのです。祈りましょう。

主なる神さま
 今朝は日本にかつて戦争があり、そして終戦を迎えた、そのことを覚える平和聖日でありますけれども、今日与えられましたみ言葉から、私たちの毎週の主日こそは、主がわたしたちにご自身の命を通して、私一人ひとりにまことの平和と自由を与えてくださった、そのことを記念する記念日であることを覚え感謝いたします。軍隊による戦争はなくても、内に外に争いの絶えない、罪深い私たちが、まことの主の平和にあずかっていきるものとなれますように、わたしたちを聖霊でみたし守り導いてください。主のみなによって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第9主日礼拝 

2017年7月30日(日)ルカ福音書13章1-9節
「悔い改めの実を結ぶ」三ツ本武仁牧師

 今日からルカによる福音書の第13章に入ります。その13章は、「ちょうどそのとき」という言葉で始まっています。先週12章の最後のところを読みましたけれども、そこには、イエスさまが、わたしたちの分裂し争いの絶えない罪の現実に対して、わたしたちをそこから救うために神の火をわたしたちの中に投じられる、ということを語られていましたけれども、そのようなことが語られたちょうどその時、何人かの人が来て、イエスさまに向かって「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ということを伝えたというのです。

 これは、神殿で動物のいけにえをささげて礼拝をしようとしていた時に、その境内でガリラヤの人々を殺した、ということだと思われます。神様を礼拝しようとしていたガリラヤ人たちが、事もあろうにその礼拝の場で、ピラトによって無惨に殺されてしまった、という出来事がイエスさまに伝えられたのです。ピラトはローマ帝国のユダヤ総督です。このピラトのもとで、イエスさまは十字架につけられるのです。そのピラトは、ユダヤ総督として、かなり残虐なことをしたことが記録に残っています。まさに人間の罪の現実であります。この1節に語られていることはそのままには記録には残っていないようですが、ピラトならこういうこともしただろう、ということは十分に考えられたようです。

 問題は、イエスさまにこのことを伝えた人々はどのような思いでこのことをイエスさまに伝えたのだろうか、ということです。その思いは、2節から3節におけるイエスさまのお答えからある程度、推察することができます。イエスさまは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。つまりこの出来事を伝えた人々は、礼拝中に殺されてしまうような災難に遭ったこのガリラヤ人たちは、他の多くの人々よりも特別に罪深い者たちで、その罪に対する神様の裁きとしてこのような罰を受けたのだろう、と思っていたのです。

 この人々の思いは、もっと一般化して言うと、悲惨な目に遭った人は神様に裁かれたのであって、自分の犯した罪の罰を受けたのだ、ということです。こういう考え方を、因果応報の教え、応報思想と言います。それは、全ての事柄は神様のご支配の下にあるという信仰と共に、物事には必ず原因があって結果があるという、合理的な考え方に基づいています。だから、悲惨な出来事、不幸は神様の裁きによることであり、そのような目に遭う人には、それ相応の罪があったに違いない、ということになるのです。ですからここに語られている出来事に即して言えば、神殿で礼拝をささげている最中に殺されてしまったあのガリラヤ人たちは、実は大変罪深い人々だったに違いない、神様に犠牲をささげるという敬虔な行為を装っていても、神様は全てをお見通しで、彼らの隠された罪をあのような仕方でお裁きになったのだ、ということになるのです。そしてこれを告げた人々は、イエスさまが、確かにその通りだと答えられるのを期待して、このようなことを伝えたのだと思われるのです。

 けれどもイエスさまは、彼らのそのような思いに対して、「決してそうではない」ときっぱりと否定しておられます。そして4節において、今度はイエスさまの方から、やはり最近起ったある出来事を持ち出されたのです。それは、シロアムの塔が倒れて18人の人々が死んだ、という事故のことでした。ヨハネ福音書に「シロアムの池」というのが出て来ます。ここでいう「シロアム」とはそれと同じ場所です。その場所にあった塔が倒れて18人が死ぬという事故があったのです。そういう事故を、因果応報的に考えるならば、そんな悲惨な事故で死んだ人々は他の人々よりもきっと罪深い者だったに違いない、ということになってしまうわけです。しかしイエスさまは、この人々が「エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。イエスさまは、悲惨な死に方をした人々は特別に罪深い者たちだったという因果応報の思想をはっきりと否定されたのです。

 原因があるから結果がある。こも因果応報思想は、人間の心の中に自然にあるものだといえます。私たちは、自然災害や事件、事故のニュースを聞く時、どうしてこんなことが起るのか、なぜこの人々はこのようなことで死ななければならなかったのか、という疑問を抱きます。そしてそこで、その人々が特別に罪深い人々だったからバチが当たったのだ、と説明できるなら、ある意味でほっとするのです。しかしそのような説明ができないとき、わたしたちは納得できず、「神様はなぜこんなひどいことをなさるのか」という疑問ないし抗議の思いを抱きます。そしてそのような苦しみ、悲惨な出来事が自分にふりかかって来た時には、「私がいったいどんな悪いことをしたというのか」という悲しみや怒りやいらだちを覚えるのです。これらは全て、罪に対する罰という因果応報の関係が成り立っているべきだ、という思いから生じていることです。そうでなければ納得できない、という思いが私たちの中にはあるのです。神様がこの世の全てのことを支配し導いておられる、と信じれば信じるほど、この疑問は深くなると言えるでしょう。

 しかしイエスさまは、私たちの中にもあるこのような応報思想に対して、「それは違う」とおっしゃいます。その代表的な箇所が、ヨハネによる福音書の第9章のはじめのところにあります。生まれつき目が見えない人について、弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねたのに対してイエスさまは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃったのです。つまり、誰かの罪の結果、罰としてこのような苦しみ、不幸が生じているのではない、そこには因果関係はない、ということです。不幸や悲惨な目に遭っている人がいる時に、あの人は自分の犯した罪の罰を受けているのだとか、先祖の罪のバチが当たったのだなどと考えるべきではない、とイエスさまは繰り返し語っておられるのです。

 それではなぜこんな悲惨な出来事が起るのでしょうか。本日の箇所においてイエスさまはその答えを語ってはおられません。つまりあのガリラヤ人が殺されたのは何故かとか、シロアムの塔が倒れて死んだ人々は、なぜそんな目に遭ったのかということは語られていないのです。ただイエスさまがこの二つの出来事を通して語っておられるのは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」ということです。二度繰り返されているこのみ言葉こそ、イエスさまがここで語ろうとしていることの中心です。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、これは私たちの思いを大きく転換させようとするお言葉です。私たちは、悲惨な出来事を見聞きする時に、あるいは自分がその中に陥る時に、「なぜ」と問います。理由や原因を知ろうとするのです。そしてその理由が自分には納得できるとかできないとかと言います。しかしイエスさまは、あるいは聖書全体は、苦しみの理由や原因を示そうとはしません。それは、納得できる理由を見出すことが、苦しみの解決や救いになるわけではないからです。イエスさまが、そして聖書が私たちに教え示して下さるのは、原因や理由ではなくて、その苦しみの中で私たちが歩むべき道、目指すべき方向です。それは具体的には「悔い改める」ということなのです。

 ただしここで誤解をしないようにしなければなりません。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というお言葉は、神様に裁かれて滅ぼされないですむためには、あるいは神の裁きによる苦しみから逃れるためには、自分の罪を認めて悔い改めることが必要だ、ということではないのです。もしそうなら、罪を犯す者はその報いとして滅びや苦しみを受け、悔い改める者はその報いとして救われる、ということになって、結局は応報思想になってしまいます。滅びの原因は罪であると言うことと、救いの原因は悔い改めであると言うことは、同じことの裏と表なのです。しかしイエスさまがここで言っておられるのはそういうことではありません。イエスさまは、苦しみの原因や理由をさぐり、それを取り除くことで救いを得ようとするのではなくて、自分自身の心をしっかりと神様に向け、神様と相対しなさい、と言っておられるのです。悔い改めるとはそういうことです。つまりそれは、それまで神様から顔を背け、あさっての方を向いていた心を、神様の方へと向き変えること、神様と正面から向き合うことです。苦しみの中での救いは、苦しみの原因を探り求めることによってではなくて、神様と本当に向き合うことによってこそ与えられるのです。

 このことは、旧約聖書の「ヨブ記」が語っていることでもあります。今、ぶどうの会で「ヨブ記」を学んでいますけれども、ヨブはある日突然苦しみのどん底につき落とされてしまいます。それはヨブが何か罪を犯したからではありません。原因は全く別のところにあるのです。しかしそこに友人たちが現れ、「お前がこのような苦しみに遭っているのは何か罪を犯したからだ。その罪を認めて悔い改めよ。そうすればまた幸せになれる」と言います。つまり、応報思想に基づく悔い改めを勧めるのです。しかしヨブはそれに激しく反発します。この苦しみの原因は自分の罪にあるのではない、神が何の理由もなく自分を苦しめているのだ、と言って、神様に抗議し、神様を断罪していくのです。そのヨブが、しかし最後に悔い改めるのです。

しかしそれはヨブが自分の苦しみが罪の報いだったと認めてその罪を悔い改めた、ということではありませんでした。主なる神様ご自身が彼の前に現れ、語りかけて下さったことによって、彼は、神様こそが主であり、この世界と自分とを支配しておられる方であることを認めざるを得ない状況に立たされたのです。言い換えれば、自分が主人ではないことをヨブは認めたのです。そういう体験を彼はしたのです。それがヨブの悔い改めです。本当に悔い改めるとは、自分の理屈、人間の理屈によって納得できるとかできないとかいうことをやめて、主なる神様のご支配を認め、それに服するようになることです。そして、そういう本当の悔い改めは、したり顔で神様の正しさを説き、苦しみは罪の結果だから悔い改めよと教える友人たちにではなく、神様と正面から向き合い対決していったヨブにこそ起る、ということをヨブ記は語ってもいます。イエスさまもここで、応報思想における罪の報いとしての滅びをきっぱりと否定し、苦しみの原因を問うのではなくて悔い改めるようにと教えることによって、ヨブのような、神様としっかり向き合うところにこそ与えられる悔い改めを求めておられるのです。

 そこでイエスさまは一つのたとえ話をお語りになりました。ぶどう園に植えられた一本のいちじくの木の話です。何故ぶどう園にいちじくの木なのか、ということについて、注解書にはいろいろな説明がなされていますし、そのことに象徴的な意味を読み込もうとする向きもあります。しかしこのたとえ話のポイントはそこにはありません。大事なことは、このいちじくの木が、植えられてからもう3年になるけれども、実を実らせたことがない、ということです。ぶどう園の持ち主は、7節にあるように「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ている」のです。しかし「見つけたためしがない」。ここには、この主人が、いちじくの木の実りを期待していることが示されています。ぶどう園の目的はぶどうを栽培してぶどう酒を得ることですが、この主人はそこにいちじくの木をも植え、それが実を実らせることを願っているのです。このいちじくの木の実り、それはイエスさまが人々に求めておられる悔い改めを象徴しています。

 しかしこのいちじくの木は、三年待ったけれども一度も実を実らせていない。それは、なかなか悔い改めようとしない頑な私たち人間の姿です。そのようないちじくの木に対して主人は怒り、「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と言います。ここに、悔い改めようとしない私たちに対する神様の怒りと裁きが語られています。悔い改めて神様こそが主であられることを認めようとしない私たちは、神様の怒りと裁きへの道を歩んでいるのです。

 しかしここには「園丁」が登場します。土地を無駄にふさいでいるこのいちじくを切り倒せと言う主人に対してこの園丁が、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言うのです。主人の、つまり神様の怒りと裁きを前にして、切り倒されそうになっているいちじくの木のために執り成しをする園丁、それは、悔い改めようとしない罪人である私たちのために、父なる神様との間に立って執り成しをして下さる主イエス・キリストです。この園丁、イエスさまの執り成しのおかげで、私たちはなお切り倒されずに、裁かれて滅ぼされずに歩むことが許されているのです。園丁は、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言っています。このいちじくが実を実らせるように、一生懸命世話をしてくれるのです。イエスさまは私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。つまりご自分の命を、私たちのための肥やしにして下さったのです。そのようにして、私たちが実を実らせるように、つまり、悔い改めて神様のもとに立ち帰るように、道を開いて下さっているのです。

 悔い改めは、神様こそ自分の主人であることを認め、その神様としっかりと向き合うことです。それは決して簡単なことではありません。私たちは、神様と向き合うのではなく、自分のことばかりを見つめています。自分の苦しみや悲しみ、嘆きのみを見つめ、そのために因果応報の教えに捕われ、苦しみの原因を見出してそれを取り除こうと必死になり、その結果神様を恨んだり、あるいは神様がいるのにこんな悲惨なことが起るなんて納得できない、とますます神様からそっぽを向いていくのです。また自分のことばかりを見つめている私たちは、自分と他の人を見比べて、自分を誇り人を蔑んでみたり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりと、常に一喜一憂しています。そこには、平安も、喜びも、慰めも、本当には得られないのです。私たちは、この自分のことばかりを見つめている目を、神様の方に向き変えることがなかなか出来ません。まことに頑なな、悔い改めようとしない私たちなのです。

 しかしそのような私たちのために、神様の独り子であられる主イエス・キリストが人間となって私たちのところに来て下さり、十字架にかかって死んで、復活して下さいました。イエスさまによって、私たちが悔い改めて神様と向き合って生きる者となるための道が開かれたのです。イエス・キリストの十字架を通して神様に向き合い、ヨブのように真剣にそのみ心を求めていく時に、神様ご自身が私たちにみ顔を示して下さり、悔い改めて神様と共に生きる者として下さるのです。そこにこそ、苦しみや悲しみの中にあっても支えられ、慰められ、平安を与えられて生きる道があるのです。祈りましょう。

 主なる神さま、この世の様々な不条理、悲惨な現実の中で、わたしたちはついそれらの問題を因果応報的にとらえ、自分から遠い問題については確かにそうなるはずだ、と考えたり、また反対に、特に自分のことにおいては、因果応報を受け入れられずに苦しむものでありますけれども、今日イエスさまが、そのような私たちに道を示してくださいました。それが因果応報であるかないかを問うのではなく、ただ神さまこそが自分自身の主である、そのことに打たれて、神さまを主と仰いで生きていくこと、それが悔い改めであり、そこに、わたしたちの平安と救いがある。その道をわたしたちに与えてくださるためにイエスさまが来てくださいました、主の十字架を通して、日々悔い改めて生きるものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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