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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

イースター合同礼拝2017 

2017年4月16日(日) 使徒言行録2章24-28節
「主イエスと共に復活の喜びに生きる」三ツ本武仁牧師

 このあいだ教会の方のお父さんが、急に死んでしまいました。その方にとっては大好きなお父さんでしたので、とっても悲しいことでした。でもしばらくして、春になったらお庭にチューリップがたくさん咲いたのです。それをみてその人は、あっと思ってとても感動したのです。それはお父さんが、死んでしまう少し前に、急に思い立って植えた、チューリップだったのです。チューリップの球根を、お父さんがお庭に植えていたのです。そして、しばらくして、そのお父さんは病気で死んでしまいましたれども、そのあとで、お庭にそのお父さんが植えたチューリップが見事に育って花を開かせたのです。このお話しを聞いて、わたしもとても感動しました。神さまが、その人に、安心しないってメッセージを送ってくださったんだな、と思いました。大好きなお父さんが死んでしまったその人に、神さまは、やさしく、涙をぬぐいなさい、安心しなさい、あなたのお父さんは、わたしと共に生きていますよ、復活の命に生きていますよ、そう、教えてくださったのだとおもうのです。

 復活の命の喜びに生きる、それは、死ぬことなんか全然怖くない、悲しくない、怖いもの知らずになる、ということではありません。死ぬということ、誰かが死ぬ、自分が死ぬ、それはやはり悲しいことですし、怖いことです。でも、その死ということを経験しても、悲しい、つらい、といって、真っ暗な夜の中にいつまでもいるようにはならない、また必ず希望が与えられる、神さまを信じて、安心して、笑顔を取り戻すことができる、そんなふうに生きていけるようになるということです。

 それから、復活の命に生きるというのは、人生の失敗にあっても絶望しなくていい、必ず、またチャンスがやってくる、いやその失敗にも実は意味がある、と信じることができる、ということでもあります。・・・みなさんは「ぐるんぱのようちえん」という絵本をご存知でしょうか。(絵本の表紙)ぐるんぱはぞうさんですが、大きくなったので、働きにいきます。でもどの仕事をしてもうまくいきません。いくつもいくつも職場を転々とすることになります。自分は何をやってもだめだなーとぐるんぱはがっかりします。でも最後にどうなったでしょう。それまで、やってきたすべてのことが、幼稚園の仕事に役にだったのです。(絵本の最後)

 このあいだオリンピックでも活躍したアイススケートの浅田真央さんが引退します、という記者会見を開かれました。そのことが新聞に載っていましたけれども、以前、ある小学校で、浅田真央さんのことをテーマにした授業があったそうです。それはどんな授業であったか、というと、浅田さんみたいなすごい選手になりましょう、という授業ではありませんでした。そうではなくて、「失敗することの大切さを学ぶ」という授業だったそうです。
 浅田選手は、前回の冬のオリンピックで、演技に失敗してしまい、最初16位になってしまったのです。もうメダルは狙えない状況でした。普通であれば、気持ちは落ち込んで、やるきもでない、そういう状況だったと思います。でもそんな中でも、浅田選手は、落ち着いて次の演技をして、すばらしい最高の演技をしたのです。最初が16位でしたから、結果的には6位までにしか上がれませんでした。でも、その姿勢と演技に世界中の人々が拍手を送りました。世界中の人々に、勝ち負けよりも大切なことを、感動的に教えてくれたのです。

 「失敗することの大切さ」を学ぶ、そのときはだめだった失敗だった、無駄だったと思ったものが、じつはそうではない。万事が益となる。そのことを信じることができる。それも復活の命に生きる、ということではないでしょうか。

 今日読みました聖書のことばは、イエスさまのお弟子さんであったペトロという人が、イエスさまは復活なさったということが本当にわかって、ああ本当にイエスさまは、救い主であったと、人々にイエスさまのことを伝えるようになった、そのときの言葉の一部です。

 ペトロは、復活されたイエスさまと出会って、昔の王様ダビデの言葉を思い出しました。ダビデ王が残した言葉は、じつはイエスさまのお言葉だったのだ、と言うのです。それはこんなお言葉でした。

 わたしはいつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、み前にいるわたしを喜びで満たしてくださる ・・・

 このイエスさまのお言葉が、イエスさまの十字架の死とそして復活によって、現実のことになったのですよ、それはイエスさまを信じる人みんなにとっても、そうなのですよ、とペトロはいうのです。イエスさまを信じることで、このわたしたちにも、天の父なる神さまが、いつも共にいてくださることがわかる。だから、何があっても動揺しない、何も心配しないでいい。心は楽しみに満たされ、口からは喜びの歌が溢れ出てくるようになる。体も希望に満ちて、いきいきしてくる。死後の世界も、いまのこの人生も、イエスさまを信じていれば万事が益となっていく。天の父なる神さまは、イエスさまを通して、そのような、まことの命、復活のよろこびの命へ、わたしたちを導いてくださるんですよ、と、そう、いうのです。

 イエスさまのご復活は、わたしたちにそのような、大きな希望と喜びを与えてくださいました。この復活の恵みに感謝して、共に神さま、イエスさまを信じて、感謝と喜びをもって、生きていきたいと願います。お祈りいたしましょう。

 主なる神さま
 イエスさまのご復活に心から感謝いたします。イエスさまのご復活によって、わたしたちも復活の命のよろこびに生きるものとされました。わたしたちにとって一番不安な死のときも、あなたが共にいてくださって守ってくださること、人生のいろいろな悲しみや、失敗も、すべて新しい希望につながっていることを信じて心楽しみ、よろこびに満ちて生きていくことができますように、わたしたちをこれからも復活のよろこびでみたし、守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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棕櫚の主日礼拝 

2017年4月9日(日) イザヤ書52章13―53章12節
「わたしのために苦難を背負ってくださった方」三ツ本武仁牧師

 この朝は棕櫚の主日の礼拝をご一緒に守っています。棕櫚の主日というのは、ガリラヤからずっと旅をしてこられたイエスさまが、いよいよエルサレムに入ってこられたとき、人々が感動して、棕櫚の葉、なつめやしの葉を掲げたり、地面に敷いたりして、お迎えしたことに由来しています。ホサナ、ホサナと言って人々はイエスさまを迎えた、といいます。ホサナというのは、わかりやすいえば「万歳!」ということですが、本来の意味は、「どうか救ってください」という意味です。人々はイエスさまを「救ってください」と言って迎え入れたのです。・・・けれども、この出来事には、人々の大きな誤解と、不思議な神さまの御計画が隠されていました。イエスさまの時代より160年ほど前、やはりホサナ、ホサナという歓呼の声で、エルサレムに迎え入れられた人物がいました。当時シリアの国によって支配されていたエルサレムを、多くの人々の血を流しながらも武力によってそれを奪い返し、エルサレムにいっときの独立をもたらした、マカバイオスのユダという軍人です。彼は勇ましい軍馬にまたがって、棕櫚の葉の中をゆうゆうと入場したのです。

 しかし結局、この独立も、イエスさまの時代にイスラエルを支配していたローマ帝国によって失われてしまったのです。人々は失望落胆しました。しかし、いま新たに、不思議な力をもった人が現れたのです。ホサナ、ホサナと言ってイエスさまを迎え入れた人々が期待していたのは、ユダのような英雄的軍人の再来、いやユダよりももっとすごい、あのダビデ王のように、イスラエルの統一国家を再建してくれるような救い主だったのです。

 しかし、それは大きな誤解でありました。イエスさまは確かに本当にわたしたちの救い主であります。けれども、そういうかたちで、武力によって国を再建するという、この世の王様のようなかたちで、わたしたちを支配し、救ってくださる救い主ではなかったのです。では、どのような救い主だというのか、どのようにして、イエスは、わたしたちに希望を与え、平和を与え、幸せを約束してくれるというのか。じつは、この棕櫚の主日に、イエスさまは、ちゃんとヒントを与えてくださっていたんですね。イエスさまは勇ましい軍馬によって入場したのではなく、子ロバにのって入場されたのです。子ロバですから、イエスさまをお載せするのも大変だったろうなあ、とも思うのですけれども、乗り物はその人自身を象徴しているわけです。・・・ナポレオンは、勇ましい軍馬にまたがった自分の姿を描かせています、それは、自分はそういうものだ、強い勇ましい軍馬のような英雄だ、ということを示しているわけです。しかし、イエスさまは、子ロバにのって入場されたのです。子ろばは、イエスさまという重たい荷物を背負ってふらふらしていたかもしれません。それはイエスさまが、子ろばをいじめているわけではなくて、それがわたしだ、ということを示していたわけです。興奮状態の人々はそのサインには気付かなかったでしょう。いや、気づかない、気づくことができない、本当のことが見えていない、まさに、そこに、あなたたち人間の問題があるのだ、あなたがたが救われなければならない本当の問題はそこにあるのだ、その人間の問題をすべて背負って、わたしは今から、この子ロバのように、ふらふらしがら、十字架の道を歩んでいく、そのことがこの棕櫚の主日にイエスさまが人々に示されたことであったのです。

 そしてそのことは、はるか昔から預言されていたのです。イエスさまが現れる、600年ほど前、バビロン捕囚という、イスラエルがバビロニア帝国に完全に滅ぼされて、その首都バビロンに人々が連行されて奴隷となる、というイスラエル人にとって忘れたくても忘れることのできない大きなつらい事件がありました。けれどもその体験の中で「主のしもべの歌」という一連の預言の歌が、何者かによって歌われ、記録されたのです。書物としては、旧約聖書のイザヤ書の中に収められていますけれども、時代背景からしてもイザヤ自身が歌ったものではない、謎の歌であります。その歌の中のとくに今日読んでいただきましたイザヤ書52章13節から歌われている歌は、「主のしもべの苦難と死」を歌っています。そこにイエス・キリストの十字架が預言されているのです。イエスさまご自身、この苦難のしもべはわたしのことである、と福音書の中で暗示されているのです。

 教会がこの世に生まれたばかりのころ、まだ新約聖書がなかったとき、その時代の人々にとっての最高の福音書とは、この今日のイザヤ書の箇所でした。使徒言行録の中に、あるエチオピアの宦官がイエスを救い主と信じる経緯が語られていますけれども(使徒8:32-34)、そのとき彼が信仰にいたったのは、まさに、このイザヤ書の言葉とイエス・キリストの出来事のつながりに目が開かれたからです。また昔も今の多くのユダヤ人クリスチャンが、なぜイエスさまを信じるようになったか、というそのもっとも多い理由は、やはりこのイザヤ書の御言葉の中に、イエスさまを認めたからだ、と告白しているのです。

 このように、ここには、十字架を背負われるイエス・キリストの姿が、歌われています。しかし、そこで見落としてはならないのは、まずその最初の52章13節ですけれども、「見よ。わたしのしもべは栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」と、このように復活の預言から始まっていることです。また最後の53章12節でも「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける」とありますように、やはり復活の喜びで締めくくられていることです。イエス・キリストの十字架の苦難は、単なる悲劇ではない、大事なことは、それほどの苦難と悲劇が、わたしたちを罪から救うために必要であったということ、そして、そのようにしてイエスさまがわたしたちのために苦難を背負ってくださったことによって、わたしたちの罪は確かにゆるされ、イエスさまとともに復活の命の喜びに生きるものとされたのだ、というそのことを見つめることであります。

 それにしても、イエスさまがわたしたちのために背負ってくださった苦難の重さは大変な重さであったことを、知らされるのです。53章の1節には「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」とあって、これから歌うことになる、主の背負われた苦難の大きさに、ただただ信じられない、そんなことがあるのだろうか、という驚きが告白されています。自分たちの救い主がそんなふうにやってこられるとは思ってもいなかった、というのです。

 続く2節には「乾いた地に埋もれた根から生えでた若枝のようにこの人は主の前に育った」とあります。乾いた地に埋もれた根から、元気な若枝が育つわけがありません。ここには「若枝」という言葉がもつ本来の明るさ、瑞々しさを否定するニュアンスがこめられています。みずぼらしい若枝、すぐに枯れてしまいそうな若枝だというのです。「見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」わたしたちのところにこられた救い主は、そのような姿であったというのです。ただしこれは、イエスさまがじっさいにどのようなお顔立ちであったか、姿様子であったか、ということを表しているのではないでしょう。そうではなく、イエスさまが逮捕され、鞭打たれ、十字架を背負ってボロボロになられた、そのときの悲劇を言い表しているわけです。

 いやそれ以上に大きな問題は、そのように鞭打たれ、十字架を背負い、痛みをおい、その中で軽蔑され、見捨てられていくイエスさまを、人々は、わたしたちは、自業自得のことだと、見ていた、見ている、というのです。4節ですけれども「彼が担ったのは、わたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」・・・病という言葉は、罪という言葉と置き換えることができると思います。「彼が担ったのは、わたしたちの罪、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」・・・棕櫚の主日に、人々は大きな誤解をしていた、と最初に申しました。勇ましい軍人的な英雄として救い主を期待していた、と申しました。それも大きな誤解であったわけですけれども、ここに、もう一つのわたしたちが犯している決定的な誤解が示されているのです。

 わたしたちがイエスさまを思うとき、やさしいイエスさまを思う、教師としてのユーモアと知性に富んだイエスさまを思う。あたたかい癒し人、カウンセラーとしてのイエスさまを思う。どれも大切なイエスさまの姿です、決してそれは間違いではないでしょう。けれども、それらすべても、たった一つのことを誤解したままであるならば、何の意味もないのです。それは、イエスさまの十字架は、イエスさまの罪のためではなかった、いやそれはわかる、わかっているとわたしたちは思う。でも、もう一歩踏み込んで、本当はこのわたし自身がその罪のゆえに、受けなければならなかった懲らしめ、苦難を、イエスさまがわたしの代わりに受けてくださったのだ、ということ、そのことが本当にわかっているだろうか、ということです、それほど大きな罪を背負っている自分自身にわたしたちはきづいているだろうか、ということです。

 もちろん、わたしたちはその罪から救われたのです。それが福音です。けれども、イエスさまの十字架を深く心にとめて、そのみ苦しみを思うときに、それが本当は自分が受けるべき苦しみであったということ、それなのに、イエスさまがその苦難を引き受けてくださったことによって、自分にはその懲らしめの代わりに、神さまの平安が与えられた、ということ、それがどれほど大きな信じがたいほどの恵みであるか、そのことをわたしたちは日々何度も確認する必要があるのではないでしょうか。そうではないと、すぐにわたしたちは、イエスさまを誤解して、「神の手にかかり、打たれた」という、何かよそよそしい、他人事のように十字架の出来事をみてしまうのです。しかしそうではない、「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打たれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」5節でそのように歌われている、この歌をいつも思い起こすものでありたいとおもうのです。

 6節には「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」と歌われています。羊は聖書によく出てきます、象徴的な動物ですけれども、ここではとくにその羊の弱さ、ということが、わたしたち人間の弱さと重ねて歌われています。まさに自分の罪の大きさを知らない弱さ、それを見ようとも聞こうともしない弱さであります。じっさいに羊は目が悪い動物であります。自分の罪が見えてない、その問題の大きさが見えてない、それゆえに、道を誤り、あらぬ方角に向かっていってしまう。・・・2005年にトルコの国でじっさいに起こった事故ですけれども、羊飼いが朝食を食べようとちょっと目を離したすきに、1匹の羊が何を思ったか、向こうのがけ目掛けてジャンプをして、15メートルの谷間に落ちてしまった。とそれにつづいて、次々に羊たちが同じことを繰り返し、結局450匹もの羊がみな死んでしまった、といいます。まさに、わたしたちは、そういう死に向かっている、大切なことが見えてない羊だというのです。

 しかし、そのような弱い羊であるわたしたちのところへ、まことの羊飼いであるイエスさまが来てくださって、正しい道へ、命の道へと導いてくださった、しかし、どのようにして導いてくださったのか、驚くべきことに、羊飼いであるその方が、まるで、いけにえの羊のようになって、自分の命と引き換えに、わたしたちを死の淵から救ってくださったというのです。

 神の手にかかり、彼は打たれた、ある意味では確かにそうです。イエスさまは神さまのみ心を信じて、神の手にかかり、打たれたのです。なぜなら、イエスさまは、この苦難の背後に神さまの大きな恵みの御計画があることを知っておられたからです。最初に申しましたように、この苦難のしもべの歌は、ただ悲劇の苦難を告げて終わるものではありません。そこには復活の命の預言も歌われています。イエスさまはいまも生きて、わたしたちと共にいてくださり、死を超えた永遠の命に生きておられます。そして、その喜びは、イエスさまによって救われたわたしたちにも与えられているのです。

 罪から救われたわたしたちは、復活の命に生かされています。それは死後の天国の約束だけのことではありません。わたしたちのいまのこの人生も復活の命に生かされているのです。それはどういうことでしょうか。それは、わたしたちの人生にたとえどのような苦難、不幸、悲しみが起ころうとも、その全てを主が共に背負ってくださっている、そのことを知って、慰められ、力を与えられ、生きる希望が与えられるのです。人生が復活していくのです。万事が益になると信じることができるのです。イエスさまはその恵みに全ての人を招いておられます。ですから、わたしたちはその希望と平安を携えて、すべての人の、とくに苦難の中にある人の隣人になることができるのです。そこにまたわたしたち人間仲間の復活があるのです。・・・わたしたちのために、大きな苦難を背負ってくださり、それによって復活の大きな喜びを与えてくださった主に感謝しつつ、次週のイースターを主にあって共に喜んで迎えたいと願います。祈りましょう。

 主なる神さま、イエスさまが人々の前に現れるはるか昔に、イエスさまの十字架の死と復活が預言されている、そのところを味わい知ることができましたことを感謝いたします。わたしたちは自分の罪を誤解し、またイエスさまがどのような救い主であるかを、誤解してしまう弱い羊のようなものでありますけれども、本当に、そのような罪をすべてイエスさまが背負ってくださり、復活の命へと招き入れてくださった、そのめぐみを深く覚えるものとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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受難節第5主日礼拝 

2017年4月2日ローマの信徒への手紙 第8章26-30節 
「万事が益となる」三ツ本武仁牧師

 新年度のはじめに選ばせていただきました聖書の箇所はローマの信徒への手紙の第8章26~30節であります。その理由は、その中の28節のみ言葉が、今年度の香里教会の標語聖句として選ばせていただいた箇所だからです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」・・この御言葉をとくに心にとめて、2017年度の香里教会はその船旅を進めていきたいと思うのです。

このローマ8章28節の御言葉には、信仰者に与えられる幸い、祝福がはっきりと告げられています。「万事が益となるように共に働く」。・・・「万事が」であります。全ての事です。それはですから、私たちにとって好ましい、喜ばしい事だけでない、悲しいこと、辛いこと、苦しい事も含めた全ての事が、私たちの益となるように共に働く、と言われている、そのところにこのみ言葉の深い意味があり、また私たちへの深い慰めと励ましがある、ということができます。私たちのこの世の人生には、じっさい多くの悩みや苦しみがあります。どうしてこんな目に遭わなければならないのか、と思うようなことが起ります。・・・人生には三つの坂がある、といわれます。一つは、上り坂、順調に何ごとも上手くいくときです。もう一つは、下り坂、逆境のとき、何をやっても上手くいかないときです。そして、それに加えてもう一つ「まさか」という坂がある、といいます。「まさか」そんなことが私に起こるなんて、そういう突然の驚くような出来事が時として私たちには降りかかってきます。なんでこんな病気になってしまったんだろう、なんでこんな辛いことが起こってしまったんだろう、そういうことが私たちにはあります。そういう体験の中で、このみ言葉は、苦しみ悲しみも最終的には私たちの益となるように働くのだと語り、それを信じて、忍耐して、その苦しみ悲しみを受け入れていくようにと私たちを励ましてくれるのです。そして事実、苦しみや悲しみのまっただ中にいる時には分からなくても、後になって、あの時のあの苦しみによってこういう恵みが与えられた、あの苦しみが結果的には確かに益となったと気づかされることが起ります。そういう時に私たちはこの28節のみ言葉は真実だったと感じるのです。私自身についていえば、高校生のときに、皮膚の病気が悪化して、そのときはとても、前向きな気持にはなれませんでしたし、それが将来の益になるとは、そのときは正直考えていませんでしたけれども、しかし、今思えば、そのような経験の中で、私は自分で聖書を買って読む、ということをしているんですね。そして、それが今の自分につながっている・・・不思議だなと思うのです。万事が益となる、そういう慰めと勇気を、この28節は私たちに与えてくれるのです。

 パウロは「万事が益となるように共に働く」そのことを「私たちは知っています」と言います。・・・「万事が益となればよいと願っています」とか「万事が益となること期待しています」と言っているのではないのです。そうではなく、万事が益となること、そのことをはっきりと知っている、確信している、絶対にそうだ、と言っているのです。これはすごいことです。いったいそのようなパウロの確信はどこから来るのでしょうか。

 さきほど申しましたように、私たちは自分の人生経験から、この御言葉の真実に気づかされるように、パウロもきっと彼自身の人生経験から、万事が益となる、という確信に至ったのだと思います。でも、それだけではないのです。それだけではないというよりも、パウロのこの確信は、実はもっと深いところに根ざしています。それは何かを知ることが、今日の大事なテーマであります。

それを知るためには、この28節の前後、今日読みました26節から30節の言葉、さらにいえば、このローマの手紙の第8章全体の文脈の中で、何が語られているのか、を見ていかなければなりません。
そこでまず26節ですけれども、そこには「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」とあります。パウロは私たちがかかえている様々な弱さの中心に、「どう祈るべきかを知らない」ことがあるというのです。私たちの弱さは、天の神さまにどう祈るべきかを知らないことにある、というのです。それは、つまり神さまとの間に良い関係を築くことができていないということです。わたしたちかた、自分勝手な願いを一方的に神さまに告げることはあるとしても、あるいはまた、不平不満をぶつけることはあるとしても、神さまとの間に、あたたかい愛と信頼に基づく関係を築くことができない、そこに私たち人間の決定的な弱さがあるのです。けれども、その弱い私たちのために、神さまはご自身の「霊」を私たちの内に宿らせて下さった、ということをパウロはこの第8章において語っています。そして、その霊が私たちの内でどのような働きをして下さっているか、それが実に第8章全体のテーマなのですけれども、今日の26節の後半には、その霊が、言葉に表せないうめきをもって私たちのために執り成しをして下さっている、と語られているのです。「執り成し」というのは、両者の間にたって、そこによい関係を築くために労することです。神さまにどう祈ったらよいかを知らない私たちのために、神の霊が、神さまと私たちの間に立ってそのように執り成しをして下さっているというのです。

私たちの内に宿って下さっている神さまの霊が、言葉に表せないうめきをもって、神さまにちゃんと祈れない私たちのために、私たちに代って、祈って下さっている、というのです。・・・これは一体何のことを言っているのでしょうか。・・・この霊とは、イエス・キリストの霊であります、聖霊であります。・・・そして、昨年度の最後、つまり先週、先々週とわたしたちは、イエスさまが弟子たちに教えてくださった「主の祈り」のことを学びましたけれども。その「主の祈り」もここに深く関係してくるのです。なぜなら主の祈りは、イエス・キリストご自身を表しているのであって、その祈りの一つ一つは、本来、私たちが自分では神さまに向かって祈れない、祈ろうとしない内容なのです。普通の私たちは、神さまに向かって、お父さん、と親しく呼びかけようなどとは思ってもみませんし、祈りといっても、自分の一方的な願いや欲求ばかりであって、そうやって自分の栄光を求めてはいても、神さまの栄光を求めようなどとはしません。今日の糧があるのは当たり前だと思っていますし、あるいは自分で得たものだと当然のように思っていて、今日の糧を、神さまに願い求めよう、感謝しようなどとは思いもよりません、そして人の罪を厳しく批判したり、人を攻めるばかりで、自分の罪についてなどあまり真剣に考えないのです。だから自分の罪を赦してくださいなんて祈らない・・・しかし、まさに主の祈りは、私たちの中にはないそのような祈りを祈るようにと、わたしたちを日々導いてくれているのです。

私たちは主の祈りを祈ることによって、神さまの霊、イエス・キリストの霊、聖霊で満たされて、神の子とされて、神に向かって「アッバ、父よ」と親しく呼びかけて祈ることができるのです。ですから今日の27節で、「人の心を見抜く方は『霊』の思いがなんであるか知っています」とありましたけれども、その「霊の思い」というのは、私たちをそのようにして、本来の姿へ、神の子として生きるようにしようとしてくださっている、そのようなイエスさまの私たちへの憐れみの思いです。私たちはどう祈ったらよいかを知らない、神さまとの関係を築くことができない弱い者だけれども、神さまの霊の執り成しによって、イエス・キリストによって、神さまは私たちを神の子として知っていて下さり、私たちとの間に父と子という関係を持って下さっている、というのです。・・・28節はそれを受けて、私たちは一つのことを知った、知っています、という、それが「万事が益となるように共に働く」ということだ、というのです。
ですから、「万事が益となるように共に働くということを知っています」と確信をもって言うことができるのは、神さまによって、イエスさまによって私たちが、「神を愛する者」とされたから、なのです。イエスさまによって、神を愛する者とされた者、それが信仰者、クリスチャンなのです。

26節には、霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる、とありました。神からの霊、聖霊であるイエス・キリストが、わたしたちのために言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる、それはどういうことでしょうか。いまは受難節でありますけれども、まさにこれは、イエスさまの十字架の出来事について語っているのです。じっさいは一方的なわたしたちの罪、自己中心的な思いのゆえに、壊れてしまっていた、神さまとわたしたちとの愛の関係は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、いやされ、とりなされたのです。霊のうめきとは、そのためになされたイエスさまの十字架の上での叫びです。その痛みによって、わたしたちの罪はゆるされ、神さまとの関係は回復されたのです。そういうことを通して、わたしたちは神さまを仰ぎ見るものとされました。神さまを愛する者とされたのです。でもその場合の愛とはどういう愛でしょうか? 単純な愛ではないと思うんですね。・・・たとえばそれは、自分の命よりも大切な自分の愛する子どもが、瀕死の病にかかってもう絶望的な状態だという状況にあったとして、そのとき、誰かが、その人自身の命と引き換えに、その子の命を生かしてくださったようなものだとおもうのです。その時、私たちには確かに我が子を生かさた喜びがある、でもそれだけじゃない、そのために死んでくださったその人へ感謝がある、いや単に感謝という言葉だけでは言い尽くせない、言葉では表せない深い思いが残るとおもうのです。そのような思い、それがイエスさまを通して、私たちに与えられた神さまへの思いなのです。そしてそれがわたしたちがイエスさまを通して神さまを愛する者とされた、ということなのです。

そして、そのとき、私たちは、もはや自分の思いではなく、神さまのみ心が行われることをこそ求めるようになるではないしょうか。イエスさまを通して神さまを愛する者となった私たちは、神さまのみ心が自分の上に、またこの世界に実現することを願い求めるようになるのではないでしょうか。28節に即して言うなら、「万事が益となる」というその「益」を、自分の願いが叶うこと、自分の思い通りになることと考えてそれを求めるようには、もはやわたしたちはならないのではないでしょうか。そうではなく、神さまのみ心こそが成ること、それこそが益だと認めることができるようになるのではないでしょうか。まさにそれこそが、本当の意味で、わたしたちが、万事が益なる、ということを知っているということなのです。・・・この人生において、私たちの願いや望みはそのままには実現しないかもしれません。苦しみや悲しみからの救いも、自分が願っているような仕方では実現しないかもしれません。でも、それでも、イエスさまのとりなしによって、私たちの父となって下さった神さまのみ心が全てのことにおいて実現するなら、それこそが私たちにとっても真実の益であると信じることができる、それが神さまを愛するということであり、神さまを信じて生きるということなのです。

 神を愛する者たちは、「御計画に従って召された者たち」でもあると言われています。神さまを愛して生きることは、私たちがそのように努力することによって身に着けるようなことではなくて、神さまご自身が私たちを召して下さることによってこそ実現するのです。じっさいの私たちは、神を愛することのできない者たちです。どう祈ったらよいかを知らない者たちです。神さまとの良い関係を自分で築くことができない、それは神さまを愛することができていないからです。それが私たちの現実の姿です。しかし、そのような私たちを神さまが召して下さっているのです。「召す」というのは「呼ぶ」という言葉です。神さまが親しく私たちの名前を呼び、神さまの救いの恵みの中へと招き入れて下さり、私たちのことを神の子として下さっているのです。その神の召しによって私たちは神を愛する者とされるのです。それは私たちが努力して実現することではなくて、全ては神さまの御計画によることなのです。神さまは救いの御計画によって、独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの全ての罪を赦し、復活によって永遠の命の約束を打ち立てて下さいました。そのキリストによる救いの恵みに今私たちは招き入れられています。私たちが教会の礼拝にこのように集っていることがその証拠です。これも、神の御計画、つまり神さまのみ心なのです。私たちは自分の努力や熱心さによってではなくて、神の御計画によって召され、キリストと結び合わされ、神の子とされることによって、神を愛する者として生きることができるし、神のみ心によって万事が益となるように共に働くことを確信することができるのです。

神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを私たちは知っています。2017年度、私たちは、この御言葉を繰り返し、思い起こし、イエスさまを通して神さまを愛する者とされた私たちには、主にあって万事が益となるように共に働くことを、たえず確信して歩んで生きていきたい、と願います。祈りましょう。

天のお父様、新しい年度がはじまりました、新しく役員が立てられ、各奉仕者が立てられて、香里教会が、新しい船出をいたします。その旅路の中で、いろいろなことがわたしたちに待ち受けていることと思いますが、共にたえず主の祈りを祈りつつ、聖霊に満たされ、すべてはあなたにあって万事が益となっていくことを確信して、希望をもって進みゆくものとならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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受難節第4主日礼拝 

2017年3月26日(日)ルカによる福音書11章1-4節
「主の祈りを祈りつつ生きる」三ツ本武仁牧師

 今年度最後の礼拝で読みます聖書の箇所は、先週と同じ箇所とさせていただきました。イエスさまが弟子たちに「主の祈り」を教えてくださった、というところです。主の祈りを味わいつつ、今年度最後をしめくくりたいと思うのです。主の祈りは、その最初に、神さまを「父よ」と呼びかけることに始まります。しかもイエスさまは、アッバ父よ、と祈られました。それは、小さな子どもが父親を完全に信頼しきっている、その中で発せられる、ことばであります。「お父さん」と本当に素直に、ゆだねきって神さまに心を向けておられるのです。そして、イエスさまは、あなたたちもそうしなさい、と言われているのです。

 神様に「父よ」「お父さん」と呼びかけつつ、神様の子供として、神さまに全く信頼して生きること、そのような神さまとの愛の交わりの世界を、イエスさまは私たちと神さまとの間に開いて下さったのです。そしてそれが、イエスさまが私たちに信仰を与えてくださった、ということなのです。キリスト教の信仰とは、何かの思想や信条を持つことではありません。そうではなく神様との親しい交わり、愛の対話に生きること。神様に語りかける祈りの言葉を持っているということ、それが私たちの信仰です。そしてその信仰こそが、この世の様々な事柄の中で、わたしたちが正しい関係、正しい道を選び進んでいく力となっていくのです。・・・以前、聞いた話ですけれども、ある人が若い時洗礼を受ける、ということを決心して、そのことを自分の父親に言いましたら、クリスチャンではないその父親が、そうかお前は神さまの子どもになってしまうのか、寂しそうにされたそうです。洗礼を受けることによって神さまの子どもになる、ということがわかっていた、という意味では、そのお父さんも、どこかで聖書の話を聞いたことがあるのだろう、ということが分かるわけですけれども、しかし、それでお父さんが残念がることは、実際には何もないのであって、その人が、神さまを父と呼んで、神さまの子どもになる、そのことによって、肉親であるそのお父さんのことをも、大切にし、また他の人々との関係も、正しく整えられていくのです。イエスさまは私たちに、そのようなまことの命に生きるための祈りを与えて下さったのです。

 先週はその「主の祈り」の前半部分を味わってきたわけですけれども、本日は、その後半部分、ルカによる福音書第11章の3節、4節のところをご一緒に読みたいと思います。
 「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」これが後半の最初の祈りであります。わたしたちの通常の主の祈りでは「我らの日用の糧を今日もお与えください」となっています。・・・最近悪い癖がついてしまいして、いま木曜日の集会のあとには、婦人会の方々が美味しいお昼を準備してくださるんですね。聖書の学びの最後に、主の祈りを祈る、そのときにふと、今日のお昼は何がでるのかな、と考えてしまっている、そういう悪い癖がついてしまいました。・・・それはさておきまして、ここで「糧」と訳された言葉の原文は「パン」となっています。いつもお昼にパンばかり出たらかなわんなあ、ということではありませんで、ここで「パン」というのは、私たちが地上で肉体をもって生きていくために必要な全てのものを代表しています。ルカの4章4節にはイエスさまがサタンの誘惑と戦う中で、「人はパンだけで生きるものではない」といわれた場面がありましたけれども、ここでの「糧」はその「パン」と同じです。人間が生きていく上では、パンも、地上でのいろいろな必要ももちろん大切だけれども、しかし、それだけで、人は人として生きていけるのではない、いや、いくらそのように地上での必要を満たされたとしても、肝心なものがなければ、人は生きていけない」そういう意味で、イエスさまは「人はパンだけで生きるのではない」と言われたのです。では、パンよりもっと必要な大切なものは何か、それは「神さまのみ言葉」だ、と言われたのでした。

 しかし、そこで注意しなければならないのは、イエスさまは、パンなんかなくても、地上のいろいろな必要なんかなくても、神の言葉だけあればいいのだ、と言っておられるのではない、ということです。そうではなくて、「神さまのみ言葉」を求めていく、「神さまの御言葉」に従っていく、その中でこそ、パンも、またさまざまな生活の必要も満たされていくのだ、ということなのです。霞を食って生きろ、ということではない。パンは、生活の必要は、私たちが肉体をもってこの地上を生きて行く上で、やはり必要なものです。そのことを、わたしたちと同じ、この弱い肉体をもって生きてくださったイエスさまは十分知ってくださっている、だから、そうした必要をやせ我慢するんじゃなくて、神さまに心を向けて、素直に、それを願い求めなさい、と教えてくださっているのです。
本当にすべては神さまによって恵み与えられるものなのだ、この今の命も出会いも皆そうだ、ということです。昨年暮れに発行された『ひこばえ』に、病気の経験を振り返られて、生きることは奇跡である、と書いてくださった方がいます、また、自分の病気、家族の病いの中にあっても日々感謝です、と語ってくださった方がおられますが、まさにそのことに目覚めて生きる、それがとっても大事なことであって、そのことを日々心に刻んで生きるために、イエスさまは「我らの日用の糧を今日もお与えください」と神さまに祈り求めるようにと教えて下さったのです。

 この聖書では「必要な」とあるところが、わたしたちの通常の主の祈りでは「日用の」となっています。これは元々の原語が「必要な」とも訳せるし、「日用の」つまり「日毎の」というふうにも訳せるということです。「日用の、日ごとの」と理解する場合には、一日一日を、神様が与えて下さる御言葉と糧によって生きていくのだ、というふうに受け止めることができると思います。
旧約聖書の出エジプト記において、神さまは、荒れ野を旅していくイスラエルの民のために、マナという天からのパンを降らせて与えてくださいました。マナは毎日与えられて、それを民は、その日の分だけを集めて食べたのです。明日や明後日の分まで集めて取っておいたものは、腐って食べることができませんでした。このことは、神様の民は毎日、その日その日に神様から与えられる糧によって生きるのだ、ということをイスラエルの民に教えるための神様による教育でした。神の民となる、つまり信仰をもって生きるとは、ある意味では、「その日暮らし」をするということなのです。一日一日、その日の糧を神様から与えられて、それによって養われて生きるのです。明日や明後日の分まで蓄えておいて、それで安心する、という生き方ではないのです。蓄えによって安心を得ようとするのは、自分が持っているもの、人間の力に頼り、それを拠り所としようとすることになります。信仰生活とはそういうものではないのです。わたしたちの信仰生活は、毎日新たに神様から糧をいただいて、その日その日を生きる、ということです。それこそが、神様を信じて生きるということです。

 後半の第二の祈りは、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」です。これは、実際の原文に忠実な訳となっています。これによって、この祈りは自分の罪の赦しを神様に願い求める祈りであることがはっきり分かります。私たちがいつも祈っている言葉は「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」となっています。これだと、私たちに罪を犯している者がいる、ということが大前提で、そこから、その人を赦した自分の罪の赦しを当然のごとく願う、というふうに聞こえなくもありません。

しかしこの祈りは基本的に、「わたしたちの罪を赦してください」という祈りなのです。そしてその前提には、自分は神様の前に罪人なのだ、ということがあります。私たちの罪は、神様との関係を破壊してしまっています。神様との交わり、対話に生きることを不可能にしています。罪のゆえに私たちは、祈ることを失い、神様と共に生きることができなくなっているのです。しかもその罪は、自分の力で償ったり、何か善いことをすることによって帳消しにできるような生易しいものではないと、聖書はいうのです。私たちには自分の罪をどうすることもできないのです。もう罪を犯さないようにしようといくら決心して努力しても、結局罪を重ねていくことしかできないのです。ただ、この罪は、神様によって赦していただくしかありません。神様による赦しなしには、私たちの罪の問題は解決しないのです。この祈りはその赦しを願い求めなさい、ということなのです。それは普通に考えれば、ずうずうしいことです。さんざん罪を犯し、神様に背き逆らっておいて、今さら赦してくださいなどと言えた義理ではないのです。しかし、まさにイエスさまは、私たちがそのように祈ることができるようになるためにこそ、人となってこの世に来て下さり、そして十字架にかかって死んで下さったのです。イエスさまが私たちの罪を全て背負って十字架の上で死んで下さったことによって、私たちはこのずうずうしい祈りを祈ることができるのです。「主の祈り」と主イエスの十字架はこのように密接に結び合っています。私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスが「こう祈りなさい」と命じて下さったからこそ、私たちは安心して、「罪を赦してください」と祈ることができるのです。

 「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」・・・それではこの言葉は何のために付け加えられているのでしょうか。それは、私たちが、神様が与えて下さる罪の赦しの恵みを本当に受けて、その中で生きるためです。イエスさまによって与えられている、神様との新しい関係に生きるため、と言い換えることもできるでしょう。神様による罪の赦しの恵みは、私たちが自分に対して罪を犯す人を赦すことの中でこそ体験されていくのです。人の罪を赦すことの中でこそ私たちは、神様が私たちの罪を赦して下さった、そのみ心を感じ取ることができるのです。ああ、自分は赦されているんだ、その喜びに生き続けることと、自分に対して、人が罪を犯した、犯していると思う、その罪を赦して生きることとは切り離せない、1つのことなのです。
 神さまに罪を赦されている、その喜び、それは、また神さまとの関係が回復されて、神さまの自分が愛の交わりに生かされている、その喜びです、その喜びの中に生き続けたい、ですよね。ですから、そのためにこそ、私たちは、自分に負い目のある人を赦すべきなのです。

自分に対して罪を犯している人のことが、「自分に負い目のある人」と言われています。人が自分に対して犯している罪は「負い目」「負債」つまり借金として描かれているのです。それを赦すとは、借金を帳消しにすることです。すると、貸した金が返って来ないわけですから、自分は損をすることになります。人の罪を赦すとは、そのような損害を、苦しみを引き受ける、ということなのです。しかし、そういう具体的な体験を通してこそ、私たちは、私たちの罪を赦して下さる神様のみ心を知ることができるのです。・・・私たちの罪を赦して下さるために、神様の独り子イエス・キリストが、十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。神様が私たちのためにそのような損害を、苦しみを引き受けて下さったことによって、私たちは罪の赦しの恵みをいただいたのです。ですから、イエスさまの十字架がわかる、という、そのことの深いところにあるのは、「赦す痛み」ということです。わたしたちは「ゆるす痛み」を通して、本当の意味で、十字架を知り、十字架の主に出会うことができるのではないでしょうか。難しいことです。でもそのことは忘れないでいたいと思うのです。

 最後の第三の祈りは、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」です。私たちが祈っている言葉では「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」となっています。
誘惑とは、私たちを神様のもとから引き離し、神様を信じ、従っていく道からそらせようとするあらゆる力、誘いのことです。要するに信仰を失わせようとする力です。神様との交わりに生きることを妨げる力です。この世には、私たちの人生には、そういう誘惑が満ちています。それはいわゆる「罪への誘惑」という分かりやすいものから、一見それと分からないものまで様々です。・・・まさに主の祈りの一つ一つの祈りを、そんなもの無駄な意味のない祈りだと思わせる力こそが、ここでいう「誘惑」なのです。ですからそれは自分の名誉欲だったり、人を支配しようとする思いだったり、自分の力で糧を得て生きているかのように錯覚することだったり、神様の養い、育みを信じることなく自分でなんとかしようとすることだったり、神様が自分の罪を赦して下さることを信じることなく絶望してしまうことだったり、また神様の赦しをいただいていながら、人の罪を赦そうとしないことだったりする・・・。それらの誘惑に遭わせないでください、そう祈るようにと、イエスさまはここで教えて下さったのです。

じっさいには、このような誘惑は私たちがこの世を生きる限り常に私たちにつきまとってきます。しかしその中で、これらの誘惑に負けてしまい、イエスさまが十字架の死と復活によって与えて下さった神様との新しい関係を失ってしまうことがないように守って下さいと、私たちは神様に祈るのです。それもまた、ずうずうしい祈りだとも言えます。神様が私たちを誘惑に遭わせているわけではありませんし、誘惑に負けるのは私たちなのですから、それと戦うべきなのも私たちなのであって、神様にお願いするような筋合いではないのです。しかしイエスさまは、このように祈りなさいと私たちに命じて下さったのです。「主の祈り」を教えて下さることによってイエスさまは、イエスさまの父であり、私たちの父ともなって下さった神様が、これらの誘惑から私たちを守り、神様とのよい交わりの中を生き続けることができるようにして下さる、と約束して下さったのです。

以上のように「主の祈り」には、私たちに与えられている神様とのよい関係が描き出されています、そしてその「主の祈り」を祈りつつ生きることによってこそ、私たちはその神さまとの正しい関係の中に留まり続けることができるのです。このような「主の祈り」を与えられていますことを、改めて感謝しつつ、新しい年度も、日々主の祈りを祈りつつ生きるものでありたい、と願います。最後に主の祈りをみなさんと共に祈って、最後の祈りとしたいと思います。

 天にまします、我らの父よ、願わくは、御名をあがめさせたまえ、み国をきたらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ、我らをこころみにあわせず、悪より、救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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このたびいのちのことば社より『洗礼とは何か』(2016年7月)に続いて『聖餐とは何か』が出版されることになりました。
詳しくは「いのちのことば社」のホームページ(リンク参照)をご覧ください。

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2016年7月10日出版 『洗礼とは何か』
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