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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第7主日礼拝 

2017年 2月5日(日)ルカ福音書9章51―62節
「主イエスに従う旅路」三ツ本武仁牧師

 先週の2月3日は、季節の変わり目を覚える節分でありました。季節の変わり目は風邪をひきやすいといいますけれども、ちょうどその日はキリスト教学校の授業があったのですが、たくさんの生徒がインフルエンザや風邪で休んでいました。わたしも声が枯れていますけれども、これは風邪ではなくて、その授業中に、わたしが節分の豆をくばったのがいけなかったのかもしれませんが、やけにテンションの高いクラスがあって、うるさくて、声を張り上げて授業をしたので、こんな声になってしまっただけです。ご安心下さい。
 それから昨年教会コンサートに来てくださったO先生ですけれども、なんと以前、先生の言葉がA新聞の「〇〇の言葉」に登場していたようです。その文章をご紹介したいと思います。「『うまく生きる』ことには役立ちません(たぶん)。けれども、「よく生きる」ためには欠かせないものです(ぜったい)」・・・これは音楽について先生が語られた言葉ですけれども、わたしはこれを読んで、信仰者である先生ですから、きっとわたしたちの信仰、聖書の言葉、そして礼拝ということにも当てはまることとして語られたのではないかな、と思いました。わたしたちの信仰、礼拝は『うまく生きる』ためには役立たないかもしれません。たぶん。けれども、『よく生きる』ためには欠かせないものなのです。ぜったい。そのことをあらためて心にとめて共に信仰生活に励みたいと思うのです。

さて、今日のところの最初の51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。これまでイエスさまの活動拠点はイエスさまの故郷でもあるガリラヤ地方であったわけですけれども、今日のところから、イエスさまはエルサレムへ向けての旅を始められるのです。すべての人を罪から救う、その神さまの御計画においてご自分が果たすべき御業を成し遂げられるために、であります。これまでのガリラヤでの話がイエスさまのお働きの第一段階とするならば、これからのエルサレムへの旅路はその第二段階ということができるでしょう。そしてエルサレムについてからのお働きが第三段階というふうにいえるのではないでしょうか。

 そこでガリラヤからエルサレムへ向けて旅が始まるわけですけれども、北のガリラヤ地方から南のエルサレムのあるユダヤ地方に向かう間にはサマリアと呼ばれる地方があります。そこでイエスさまはそのサマリアを通り抜けて、エルサレムへ向かおうとされたのですけれども、52節53節には「先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備をしようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」ということになってしまいました。

 これは、どういうことか、といいますと、当時のユダヤ人とサマリア人との間に対立があったのです。少しややこしい歴史的な問題がそこにあるのですけれども、簡単にいえば、ユダヤ人とサマリア人は仲の悪い隣人でありました。さすがに壁までは建てていなかったようですけれども、それくらいの思いで互にいがみあっていました。ですから、自分たちの領地を通過してユダヤ人の首都エルサレムへ向かおうという者など気に入らないわけです。そこでイエスさまとその一行はサマリアでは歓迎されず、むしろ敵意をもって迎えられたのです。

 そういうサマリア人の敵意に対して、弟子のヤコブとヨハネが、こちらも敵意をもってのぞんでいった、というのが54節で語られていることです。彼らは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったといいます。彼らは自分たちに敵意を向けてくるサマリア人に対して激しく怒り、「こんなやつら先生のお力で滅ぼしてしまってくださいよ」と言ったのです。・・・しかしイエスさまは、「そんなことは言ってはいけないよ」と弟子たちをたしなめられたんですね。

 ・・・イエス・キリストに従って歩む、クリスチャンとして歩む、その歩みの中で、私たちもこの弟子たちのような経験をすることがあるのではないでしょうか。私たちはしばしば、信仰者であるがゆえに、人々から歓迎されず、むしろ敵意を向けられるようなことがあります。いやそれは教会の外だけの問題ではなくて、教会の中でもそういうことが起こることがあります。そのようなとき私たちはどうするべきか。そういう事態をどう受け止めるべきか。そのことがここで教えられているのです。ヤコブとヨハネは腹を立てました。怒り心頭に達して、そんな連中は滅びてしまえ、と思ったのです。・・・しかしイエスさまは、そんな思いを抱いてはいけない。といわれるのです。敵意に敵意をもって返してはいけない、と言われたのです。これはとても大事な教えであります。

 私たちはともすると、自分たちがイエス・キリストを信じて生きている、その信仰を受け入れてもらえず、むしろ敵対してくるような人々に出会いますと、その人々を、自分たちが信じているその神さまに敵対してくる悪魔のように考えて、そんな人は滅ぼされるべきだ、とか、あるいはその人からサタンが出て行くようにと思ってしまうことがあります。実際、歴史をひもとけば、そういう思いから生じてしまった残虐な事件もあるのです。日本ではよく、唯一の神を信じる一神教は不寛容だから、そういうことが起こるのだ、と批判されることがありますけれども、しかし、今日のところで明らなのは、イエスさまご自身は、そのような不寛容な信仰とは無縁である、ということです。つまり、自分の信仰やキリスト教を批判する人に敵意を向けることは、イエスさまご自身の願いとは反することだ、ということなのです。

 ではイエスさまに従って生きるわたしたちは、そのような周りの批判や敵意のなかでどう歩んでいったらよいのでしょうか。・・・そのことが今日の後半の57節以下で語られています。「弟子の覚悟」という見出しがありますけれども、ここには問答形式で、3つのことが語られています。

 第一の問答は、イエスさまに向かって「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」とある人がいいますと、イエスさまにその人に向かって「狐には穴があり、空のとりには巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と返された、というものです。
 この問答は以前に出てきましたペトロの信仰告白の場面に重なるものがあると思います。この人はすばらしい信仰を表明したのです。どこへでもイエスさまに従っていきますと言ったのです。ペトロもそうでした。ペトロもあなたはだれがなんと言おうとわたしたちの救い主キリストです、とイエスへの信仰を告白したのです。そして、その意味では、わたしたち信仰者はみなそうであります。クリスチャンはみなイエスさまへの信仰を告白したものなのです。それで確かに、わたしたちは今クリスチャンとして生き、歩んでいるのです。・・・イエスさまは、そのようなわたしたちに言われます、そう確かにわたしは、あなたたちの救い主だ、あなたたちがどこにいってもわたしはあなたたちを守り、救い、導く、救い主だ、わたしは、あなたの羊飼いとして、あなたが死の陰の谷をゆくときも、必ずあなたを守り、憩いの泉へと導くものだ、・・・でも、忘れてはいけないよ、とイエスさまといわれるのです。しかし、そのわたしは、あなたたちのために十字架を背負った救い主なのだよ、「あなたはわたしの行くところならどこへでも従って来るというけれども、そのわたしには枕するところもないのだよ、安住の地などないのだよ。こころの休まる暇もないのだよ、そういう歩みをしていくわたしに、本当につき従っていけるというのか」・・・イエスさまはそのように問い返されているのです。

 蚤虱馬の尿する枕もと、学生時代にならった、松尾芭蕉の奥の細道で、芭蕉が寝苦しい野宿の情景を歌った俳句を、このイエスさまの「わたしには枕するところもない」という言葉を聴くたびにわたしは思い出すのですけれども、そのような困難な旅路についてくる覚悟はあるのか、と問われる、イエスさまのお答えは確かに厳しいものです。

つづく2つの問答でもそうです。二番目は、ある人がイエスさまに「わたし従いなさい」と言われたとき、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と答えたのに対して、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と答えられたといいます。そして三番目の問答では、ある人が「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言いますと、イエスさまはその人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と答えられた、というのです。

 自分を生み育ててくださった父または母の死を悼み、そのなきがらを尊敬をこめて葬ること、それは時代や文化を超えて、私たち人間にとって最も大切な営みの一つではないでしょうか。三番目の問答も、これは家族との、おそらくは両親との別れの場面ですよね。私たちは人生において、いろいろな意味で親と別れていく、巣立っていく、そういうことを経験いたします。結婚で家を出る、仕事で遠く家を離れる、そのような家族との別れのひと時をわたしたちはこれまでも大切してきましたし、これからお大切にしていくのではないでしょうか。イエスさまはそのようなことを大切にしてはいけない、と言われたのでしょうか。・・・決してそうではありません。

 ここでのイエスさまのお言葉の真意を、わたしたちはしっかりと受け止めなければなりません。ここで語られていること全てに共通しているものは何でしょうか。それは「旅立ち」ということです。人と別れること、生き別れにしろ、死に別れにしろ、さらにいえば、健康との別れ、若さとの別れ、ということも、私たちの人生にはあるのではないでしょうか。それらはみな、本当は新しい旅の始まりなのです。わたしたちに恵み与えられた、イエスさまへの信仰は、実は、わたしたちの人生のそのような様々な旅立ちのときにこそ、真価を発揮するのです。

 人生の出会いの中で、そこでわたしたちが大切な人と死に別れ、生き別れるとき、また自分自身の健康とわかれなければならないとき、その新しい旅立ちを妨げるものは何でしょうか。それは、その別れに対する悲しみであり、苦しみであります。その別れによって、すべてを失ってしまったような絶望へと導く力です、聖書はそれを死の力と呼びます。

 イエスさまは、私たちが、そのような死の力に支配されてしまうことをよくよく知っておられるのです。でもそのときこそ、わたしに従いなさい、十字架を背負って歩んでいくわたしに従いなさい。といわれるのです。いやむしろ、十字架を背負っていくあなたの十字架を、わたしが共に背負っている、だから安心して、その道を、わたしと共に歩んでいきなさい、といわれるのです。そのようにして人生における様々な旅立ちにおける十字架を、イエスさまとともに歩んでいく、そのとき、自分の力では到底かなわないような歩みを、わたしたちは、なしていくことになるのです。そもそも、そのようなイエスさまの十字架に従う、というのも、実は、わたしたちの力や才能によってできることではありません。十字架の主に従う、そのこともまた、わたしたちの十字架を、わたしたちのために、わたしたちよりも先に背負ってくださっているイエスさまと出会い、そのイエスさまの後ろ姿を見つめることによってこそ、恵み与えられていくものなのです。そのようにして十字架の主と共に歩んでいく、そのわたしたちの姿が伝道です。十字架の主に従って旅を続ける、それが神の国の福音をこの世に伝える業なのです。

 二番目の問答に出てきました、父の葬りということでいうならば、まさにいま私たちの教会が、愛する家族を、ただ自分たちの思いで葬るのではなく、教会にそのお柩をまねきいれ、愛する人のなきがらを交えて共に主を礼拝する、そのようなかたちで葬儀を行っていることは、イエスさまのここでの思いに沿った営みだということがいえるでしょう。まことに、わたしたち人間にとっては、神の国の福音が言い広められ、告げ知らせられるところでこそ、愛する者の、そして、自分自身の死と、本当の意味で向き合うことができるのです。単なる気休めではない、本当の慰めと希望のある葬りは、そこでこそできるのです。

 ですからイエスさまのお言葉は決して、葬儀などせずに伝道しなさい、家族などほうっておいて伝道しなさい、などということではありません。そうではなく、十字架の主と共に歩むそのところでこそ、わたしたちは、愛する者と、またその別れや出会いにおいても、本当に向き合って生きることができるのです、また、最初の問題にたちかっていえば、さまざまな敵意に対しても、敵意でかえすのではなく、まさに主イエスが黙って十字架を背負われた、その姿に従っていくことによってこそ、わたしたち自身の思いをこえて、その敵意の壁を崩すことができるのです、命の道を歩むことができるのです。そのようにして、神の国の福音を宣べ伝えていく者となっていきなさい、とイエスさまはいわれるのです。

 このあとわたしたちは主みからだのしるしであり、その救いの約束のしるしである聖餐式にあずかります。主イエスのからだなるパンと血なる盃は、まさに主イエスの十字架の出来事、その死と復活を指し示しています。わたしたちは主の十字架を通してまことの命にあずかるのです、そのことを思い起こしつつ、感謝して、共に聖餐にあずかりたいと思います。祈りましょう。

 主なる神さま
 まことにわたしたちの人生の様々な場面には外にも内にも敵がいます、そして、わたしたちをときにまどわし、混乱させ、また悲しみ苦しみに沈ませますけれども、いついかなるときも十字架の主に従いゆくこと、それが私たちの人生の旅路に与えられたゆるぎない道しるべであり、命の道であること、またそのようにしてあなたに従い、自分の十字架を背負ってゆく姿こそが福音伝道であることをしっかりと心に刻んでいくことができますように、わたしたちを聖霊でみたし、守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
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category: 礼拝メッセージ

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