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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第6主日礼拝 

2017年1月29日(日)ルカ9章46-50節
「主イエスが受け入れてくださったように」三ツ本武仁牧師

 元旦礼拝でもご紹介しましたように、今月の『信徒の友』には香里教会のことが載っています。日毎の糧というコーナーで、毎日の聖書の言葉とその言葉についての黙想、そして全国の教団の中から教会が1つずつ選ばれて、その教会の祈りの課題を共に祈ることができるようになっています。香里教会はちょうど先主日の22日がその日に当たっていたのですけれども、先週はその私たちの祈りに応えて、全国から28通ものお葉書をいただきました(注:1月30日現在)。わたしは大変励まされました。ハガキホルダーに入れて掲示板の下においてありますので、ぜひ皆さんも手にとって目を通していただけたら、と思います。

 さて今日与えられましたルカ福音書の9章46節以下には、イエスさまに従っている弟子たちのあいだで起こった一つの論争、といいますか、仲違いのような話が語られています。
 弟子たちの間で、自分たちのうちの誰が一番偉いか、という議論が起こったというのです。誰が一番偉いか、などと聴くとなんとも子供じみた、しょうもないケンカを始めたものだ、と思ってしまいますけれども、要するに自分たちの中で、誰を中心にしていくべきか、誰の意見を最も尊重すべきか、そういうことで争いが起こってしまったのです。その点では、社会のあらゆる組織がそうであり、また教会もその例外ではないのです。いや、それはおかしいじゃないか、イエスさまがおられるのだから、教会はイエスさまが中心で、それで丸く収まるではないか、と思います。

 しかし、そんなに単純ではないのですね。私たちは、確かに救い主イエス・キリストのもとに集まっている者たちではあったとしても、そのもとで集まる者たちの間では、では誰がイエスさまの考えにもっとも正しく理解しているか、イエスさまに願いをもっとも忠実にかたちに表しているか、行動で示しているか、イエスさまに最も愛されているか、そういう思いが、そこには渦巻いていく、そして油断をすればすぐにそこに様々な、争いや妬みや差別や、足の引っ張りあいが起こってくる。それは、もうすぐ70年を迎えようとしている香里教会の歴史を紐解いてみても、明らかなことではないでしょうか。

 47節には「イエスは彼らの心の内を見抜き」とあります。弟子たちのそのような言い争いの根本にあるもの、どういう思いからこのような議論、争いが生じたのか、イエスさまは見抜かれたのです。そしてそのような彼らを教えて諭すために、ある一つの行動を起こされたのです。イエスさまはそこにいあせた一人のこどもの手をとり、その子を御自分のそばに立たせられました。そして言われたのです。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

 ・・・このイエスさまの振る舞いとお言葉を理解するためには、当時のユダヤ社会で子供がどのような存在であったか、ということを確認しておくことが必要だと思います。わたしたちの感覚では、こどもの存在、またその命を尊重することは当然である、という感覚があるかもしれません。もちろんいつの時代にも例外があって、新聞に時々報じられる幼児虐待の問題や、また反対に過保護という問題もありますけれども、私たちの多くには、こどもの人格とその命を一人の人間として尊重し、その成長をまもり、健全に育てるのが大人の義務である、という理解があるのではないか、と思います。つまり、その根底には、こどもは価値ある存在であるという考えがあると思うのです。しかし、今日のこのところでは、むしろ、これは今の社会ではなかなか理解しにくいことですけれども、こどもは人間として価値のない存在、一人の人間として受け入れるに足りない存在である、というそういう、当時の社会の常識をもとに、イエスさまは、ここで一人の子供の手をとり、ご自分のそばにたたせられて、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と語られたのです。

 当時の社会で価値のないものとされていた子供、その子供を受け入れることと、イエス・キリストを受け入れること、そして天の父なる神さまを受け入れることとが一つのこととして結び合わされています。神さまを受け入れるとは、神さまを信じるということです。自分にとって最も大切なものとして従っていくということです。それが、価値のないと思われているものを受け入れていくことと結び合わされているのです。これはですから、単にこどもを大目に見てやるとか、半人前でも我慢してやるとか、そういうことではありません。そうではなく、そのような自分たちが価値のないと思っている者、その社会がそのようなレッテルを貼ってしまっている人々を大切な自分たちの仲間として、尊重し、その人と共に歩んでいく、その言葉に丁寧に耳を傾けていく、そこに、じつはあなたたちを生かす命の道があるのだ、そういうことをイエスさまはおっしゃっているのです。

 この教えは一見、「自分たちのうちのだれが一番えらいか」という最初の弟子たちの議論、争いとは関係がないようにも思えます。しかし実はこれこそが、弟子たちの議論、そしてわたしたちの問の奥底に潜む、根本的な問題を見抜かれたイエスさまのお答えなのです。・・・誰が一番えらいか、誰が重んじられ、誰の意見や理解が正しいとされ、誰がその交わりの中心になるべきか、そのような争いがわたしたちの間で起こってくる原因には、わたしたちの中の小さな一人を受け入れようとしない思いがあるのです。自分たちの内で誰が一番えらいか、誰の意見に従うべきか、そのような思いが生まれる、その裏側には、反対にこの人の意見は聞かなくてもよい、軽んじてよい、受け入れなくてもよい、という、そういう思いがあるのです。弟子たちの、そして私たちの心の中に、共に歩んでいる人たちの中に序列をつけ、ある人は受け入れ、ある人は受け入れようとしない、そういう思いがある限り、「誰が一番えらいか」というこの弟子たちの議論は姿を様々にかえて繰り返されていきます。
 ・・・イエスさまは、当時軽んじられ、一人の人間として受け入れられていなかった子供を弟子たちに、受け入れるようと求めることによって、彼らの議論の背後にひそんでいる、そのような根本的な問題に気づかせようとなさったのです。

 48節の最後には「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最もえらい者である」とあります。ここで「最も小さい者」というのは、ですから、その社会、その交わりで小さくされた者、軽んじられ、意見が聞かれず、受け入れてもらっていない人のことです。そういう人を受け入れ、仲間として大切にしなさい。「最も小さい者こそ、最もえらい者である」ということでイエスさまは、そのような思いを語っておられるのです。しかし、ここでよく誤解されることは、だから社会で軽んじられている人は、教会では他の人たちの上に立つことができる、と理解してしまうことです。そう理解するならば、そこには、いわゆる逆差別が起こってきてしまうでしょう。社会において弱い立場の人がえらぶり、強い立場の人が片身の狭い思いをする、そのようなことをイエスさまはこの教会の交わりにおいて願っているのではありません。イエスさまが「最も小さい者こそ、最もえらい者である」と言われたのは、弟子たちが「誰がえらいか」ということで頭がいっぱいになっていたから、その頭を覚まさせるために、はっとすることを言われたまでです。

 大事なことは、私たちが、誰がえらいか、誰の意見こそ聞かれるべきか、という思いから離れて、どんな人の意見にもひとしく耳を傾け、その思いを大切にしていく、受け入れていく、ということなのです。
 しかし、ここにはそれ以上に、イエスさまのお言葉の中で、注目しておかなければならないことがあります。それはイエスさまが、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」といわれた、その最初の「わたしの名のために」というお言葉です。イエスさまは、道徳の問題として、倫理の問題として、一人の子供を受け入れなさい、つまり弱い立ち場の人を受け入れなさい、と言われたのではないのです。単に道徳的な問題として、誰も排除しない、仲の良い教会になりましょう、ということではないのです。ここは少し難しいことですけれども大事なところです。イエスさまは、わたしの名のためにそうしない、弱い立ち場の人を受け入れなさい、と言われました。「わたしの名のため」というのは、どういうことでしょうか。それは、イエスさまのみ名にふさわしく生きる上で、ということです。つまり、私たち自身がイエスさまのその歩みつき従っていく、そのところでこそ、小さくされた者が本当の意味で受け入れられていく、そのような交わりが生まれるのだ、ということなのです。

 ではイエスさまの歩みにわたしたちが従っていく、とはどういうことでしょうか。そのことは前回読みました、9章の44節でイエスさまが語られたことから見えてまいります。9章の44節でイエスさまは、いわば二回目となる、ご自分の受難の予告を語られました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」前回申しましたように、これはイエスさまの十字架の出来事を語っています。
 人々の手に引き渡され、苦しみを受け、十字架につけられて殺される、その主イエスに従い、その主イエスの弟子として歩むところにこそ、小さくされ、軽んじられ、価値のないものとされたような人を受け入れていく歩みが与えられるのです。それはなぜでしょうか。それはなぜならば、イエスさまが受けてくださった苦しみと十字架の死は、神さまが、まさに受け入れがたい罪人である私たちを受け入れてくださった出来事であるからです。
 私たちこそは、このように生かされ、神さまに命を授かりながら、その命の源である神さまのことを忘れ、そのめぐみに感謝することもせず、また隣人と互いに愛し合い、支えあって生きることのできない、無価値な、受け入れがたい者なのです。そのことを私たちに思い出させてくださるのがイエスさまの十字架です。神さまの前に無価値になってしまった、そのような私たちを、それでも愛し、あなたはわたしの目に高価で尊い、と再び宣言してくださるために、神さまは、大切な独り子であるイエスさまを遣わしてくださり、その十字架の死と復活によって、私たちすべての者を受け入れてくださったのです。このイエスさまの十字架による罪のゆるしを受け入れること、受け入れがたいものが十字架を通して受け入れていただいたことを、信じる、それが、私たちにめぐみ与えられた信仰であります。ですから、じつは、弱い人を受け入れるというのは、私たち自身の心がけとか、人間性とか、そういう問題ではないのです。そうではなく、問題は、イエスさまが十字架を通して、このわたしを、わたしたちを、受け入れてくださった、そのめぐみを見ることができているかどうか、そのような、本当の信仰者として生かされているか、生きているか、そのことにかかっているのです。

 今日の後半の、49節50節で語られていることも、基本的には、この今までのところと〃ことであります。弟子の一人であるヨハネが「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったのです。するとイエスさまは「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」とお答えになりました。

 ある人がイエスさまの御名によって、イエスさまのような業を、働いていたのです。悪霊を追い出していた、というのです。ヨハネが問題としたのは、そのことではありません。ヨハネが問題としたのは、その人が「わたしたちと一緒にあなたに、イエスさまに従わない」ということでした。・・・その人は、その人なりの仕方で、イエスさまに従っていたのです。イエスさまの十字架の御跡に従っていたのです。だからこそ、イエスさまの名によって悪霊を追い出すという不思議なみ業もできたのです。

 イエスさまの十二弟子がイエスさまに従っている中心的な人々であったことは確かです。しかしじっさいには、それ以上の人々がイエスさまを信じ、イエスさまに従っていた、そのことは福音書のほかのところでちゃんと語られていることです。この後の10章では、さっそく12弟子の他に72人の人々がイエスさまによって派遣されていくことが語られています。またこれまでにも、たとえばゲラサ地方でイエスさまに悪霊を追い出していただいた男の人や、長血の病をいやしていただいた女性など、イエスさまによって癒やされた人々も、それぞれの仕方でイエスさまに従っていった人々だといえるでしょう。

 同じイエス・キリストを信じながらも、十字架の主に従いながらも、その従い方においては違うかたちをとる、ということもあるのです。イエスさまはヨハネに向かって、「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」といわれました。ここでイエスさまのいわれる「あなたがたに逆らわない者」というのは、一緒に同じ仕方で、イエスさまに従う、という点においては一致していなくても、それぞれに十字架を担いながら、イエスさまに従っている人たちのことを言っておられるのではないか、わたしはそのように思うのです。それは、今日の教会が、カトリックやロシア正教会、そしてプロテスタント、プロテスタントの中の諸教派がその違いを超えて共に歩んでいく、そういうことの大切さ、ということも言えますし、またわたしたち香里教会という群れのことを考えてみましたときに、基本的には、洗礼を受け、香里教会に籍をおくものが、香里教会の会員ということになるわけですけれども、じっさいにはいまこうして、未受洗者の方、求道者の方、他教会員の方がともに一つとなって礼拝を守っているように、また受洗者であっても、様々な事情によって教会に来られない方もいる、そういうことも祈りに覚えながら共に歩んでいる、そういうそれぞれの事情や状況を、認め、受け入れていく、そのことの大切さをイエスさまはここで語っておられるのではないでしょうか。

 人それぞれ、主イエスに従い、礼拝を守り、また信仰に生きる、そのあり方は違ってよいのです。私たちは、それぞれが、自分の信仰の良心に基づいて、神さまが自分に与えてくださったと信じる働きをにない、行っていくのです。そのとき、自分のあり方とほかの人のあり方とが違う、ということは当然起こってくるでしょう。そこでもしわたしたちがどっちのあり方が正しいのか、と比べ始めるのならば、結局それは最初の弟子たちのしたような「だれが一番えらいか」という争いに支配されていくことになるのです。イエスさまは、そうであってはならない、といわれるのです。大事なことは、だれが正しくイエスさまに仕えているか、ということではなく、違う仕方ではあっても、十字架の道をゆくイエスさまに従い、自分の十字架を担いつつ歩んでいく、その兄弟姉妹の姿をみつめることです。考え方や、生き方や、仕え方、そこにばかり目を奪われているならば、わたしたちは、わたしだったらああはしない、あんな仕方は間違っている、という思いにとらわれてしまうでしょう。でも、イエスさまは、見るべきところはそこではない、といわれるのです。そうではなくて、その人がどんな十字架を背負って、わたしに従っているのか、そのように隣人の背負っている十字架について思い巡らす想像力、洞察力をこそ持ちなさい、といわれるのです。そのとき、わたしたちは、様々な違いをこえて一つになっていくことができるのです。

 先週のキリスト入門のときのことです、週報にありますように男女それぞれ6名の方が参加されたのですけれども、いつも参加されている方々が、まさに今自分の背負っておられる十字架について語られたんですね。家族の病気のこと、介護の大変さ、そんな話をし始められました。そうしましたら、その日はじめて参加された、ある意味ではもうベテランの教会員の方が、急に泣き出されて、言われたのです。みなさんのほうがえらい、みなさんのほうがずっとつらい思いをしている、教会ではいろいろなことを言う人もいるけれども、どうかやめないでほしい、そう言われたんですね。わたしも思わずじーんときてしまいました。そうお話になったその方も、じっさいは大きな十字架を背負いながら、この香里教会を支えてこられた方です。それだけにその言葉には重みがありました。互いの背負っている十字架を見つめ合うとき、そしてそのわたしたちの十字架を支えるために、イエスさまがわたちたちの十字架を背負って、先頭を歩んでくださっている、十字架につけられたまま、いつもわたしたちとともにいてくださっている、そのことを見つめるときにこそ、わたしたちは互に受け入れ合い、つかえあって生きる、まことの主のからだなる教会、神の家族となっていくことができるのです。祈りましょう。

 主なる神さま
 わたしたちは様々に考え方、生き方、生活の仕方に違いはありますけれども、あなたが黙って背負ってくださった十字架のもとに、互いの十字架をみつめあう、その中で、心から一つになっていく群れとなれますように、わたしたちの小さな群れをこれからもあなたの霊でみたし守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
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category: 礼拝メッセージ

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