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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第5主日礼拝 

2017年1月22日(日)ルカ福音書9章37―45節
「いやしと十字架」三ツ本武仁牧師

 先週の金曜日から同志社香里高校での聖書の授業が始まりまして、遅まきながら、初出勤してきました。生徒たちには二学期のあいだは新島襄の生涯について教えてきたのですけれども、三学期は、新島襄がいよいよ大学設立という大きな夢に向かって、その募金集めのために日本中そして世界を旅していく、その中で、病に倒れ、天に召されていくその直前までを先週は、やってきました。偶然にも、明日の1月23日は、その新島襄の召天日なんですね。46歳11ヶ月という若さで、新島襄は天に召されていったのです。実は、わたしもいま46歳なんです。・・・厳密には46歳と3ヶ月になりますけれども、大変感慨深い思いがいたしました。

その新島襄ですが、彼は遺言のなかで、自分は生涯敵をつくらないように心がけてきた。もし皆さんの中で、私に対して、釈然としない思いを抱いている人がいたら、どうかいま、ゆるしてほしい。わたしの胸の中には、一点の曇りもありません、・・・とそのように述べています。これは聖書のイエスさまの教えに基づくものであることは一目瞭然でありますけれども、人生の最期に、わたしの胸には、一点の曇りもありません、と、そのように私たちは言えるでしょうか。全ての人をゆるします、ゆるしています。だからみなもわたしのことをゆるしてください、そういう言葉を、残すことができるでしょうか。わたしはこのような言葉を残すことも、キリスト者としてやはり大変大きな業ではないか、と思わされました。

 さて、ルカによる福音書を読みすすめていますけれども、先週は、イエスさまのお姿が山の上で栄光に輝き、そこにイスラエル人なら誰でも伝え聴いている、偉大な人物モーセとエリヤが天使ように現れて、イエスさまと話し合っておられる姿を、選ばれた三人の弟子たちが、垣間見ることがゆるされた、という、いわゆる山上の変貌、というところを読みました。そのことを通して弟子たちには、イエスさまが確かに、先祖から伝えられている救い主であることが、はっきりと示されたわけですけれども、今日のところでは、その出来事の翌日、山からイエスさまと三人の弟子たちが降りてこられた、そのところでの出来事が語られています。

 そこでイエスさま一行は大勢の群衆に迎えられるのですけれども、そのなかで一人の男が、自分の一人息子を癒してほしいとイエスさまに願った、というのです。この男は、自分の息子は悪霊に苦しめられているというのです。悪霊を追い出し、人々の病をいやしてくださる、それがイエスさまの働きの一つであったことはいままで見てきた通りであります。今日のところの問題はそのことではないのです。この男の人はさらにイエスさまにこう言ったのです。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」

 イエスさまがちょうど山に行かれていた頃、この男性は、麓に残っていた弟子たちに、自分の息子を苦しめる悪霊を追い出して、息子をいやしてくださるように頼んだのです。でも、そのような業が弟子たちにはできなかったのです。今日のところのポイントはまずここにあります。なぜ、弟子たちはそのような業ができなかったのでしょうか。

 それは当然ではないか、と思われる方もあるかもしれません。そのような奇跡的な業というのは、イエスさまご自身だからこそできることであって、ただの人間にすぎない、またまだまだ半人前の弟子たちに、そんなだいそれたことできるわけがないじゃないか、そう思われる方も少なくないと思います。クリスチャンをイエス・キリストの弟子だというなら、わたしたちだって、そんな業はできない、しろといわれたら困ってしまう、わたしたちはそう思ってしまいます。・・・しかし、以前ともに読みました箇所に、こんなことが語られていたのを覚えておられるでしょうか。この9章の1節のところです。121ページです。そこにはイエスさまが、弟子たちに、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能とをお授けになって、各地に派遣された、とあったではありませんか? そして実際、彼らは自分たちの遣わされた町々でそのような体験をしたのです。だからこそ、この男の人も弟子たちに向かって、自分の息子のいやしてくださいと頼んだのでしょう。弟子たちには、そのような奇跡的な業ができたはずなのです。いやしの業ができたはずなのです。わたしたちもそうなのです。・・・最初に申しました新島襄は、まさにそのような意味で、イエスさまに近い働きをしたのではないでしょうか。でも、このとき、弟子たちにはそれができなかった、それは、なぜだったのだろうか、ということです。

 イエスさまは、そのように弟子たちが、御自分のいない間に、いやしの業ができなくなってしまっていた、その姿を見ておっしゃいました。41節です。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたとともにいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

 このお言葉も、以前申しましたようにイエスさまのお怒りの言葉ではなく、お叱りのお言葉であります。イエスさまは弟子たちの不甲斐ない姿をみて、イライラして、怒っておられるのではないのです。このように訳されている日本語からは怒っておられる、ようにしか受け止められないかもしれませんが、じっさいはそうではありません。よこしまな時代、と訳された、この時代という言葉は訳すのが難しい言葉ですけれども、ようするにそこに生きている人々のことです。つまり弟子たちを含めた、その息子の父親も含めた、そして群衆を含めた人々のことです。そしてよこしま、とは日本語では悪いあくどい、といった意味合いですけれども、原文ではむしろ、まっすぐに見ることができない、ゆがんでしまっている状態をさす言葉になっています。つまりこうです。あなたたちの信仰はどうしてしまったのか、どうしてまっすぐに見ることができないのか、あなたたちには信仰があるではないか、だから、まっすぐに見ることができるはずではないか。そのようにイエスさまは弟子たちを励ましておられるのです。

・・・そして、後半の「いつまでわたしはあなたがたとともにいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」というところは、イエスさまが本当はわたしたちに我慢したくないのに、いやいや我慢してくださっている、ということではなくて、わたしはいつもあなたがたとともにいるではないか。という、そういうお言葉なのです。我慢しなければならないのか、と訳されたことには確かに理由があるのですけれども、その「我慢」という言葉が、どこから出てきているか、それがわかれば、この言葉は納得がいきます。イエスさまの我慢、つまり、イエスさまが耐え忍んでわたしたちのためにしてくださったこと、そしてそのみ業のゆえに、イエスさまは今まさに、わたしたちとともにいてくださっているのです。

 逆にいいましたら、このイエスさまが耐え忍んでなさってくださった御業、それゆえにわたしたちといつも共にいてくださる、その御業がちゃんと見えていたならば、弟子たちも、あるいはその子の父親にも、その息子を、悪霊から救い出し、その病をいやすことができたのです。わたしたちもそうです。わたしたちも、イエスさまがわたしたちのためになしてくださったその御業がちゃんとみえているならば、自らもイエスさまのいやしにあずかれるし、またイエスさまのいやしを人々に分け与えることができるのです。

 では、わたしたちが見つめているべきイエスさまの御業とは何か、今日のところの後半には、そのことが語られています。

 あなたたちの信仰はどこにいったのか、どうしてまっすぐに見ることができないのか、わたしはいつもあなたがたとともにいるではないか。わたしが訳すなら、そのように語られ、弟子たちを励まされたイエスさまは、そのあとに、あなたの子供をここにつれてきなさい。と言われて、そして、その子供を悪霊から救い出し、いやし、そして父親にその子をお返しになりました。そこにいた人々は皆驚くわけですけれども、そこでイエスさまは弟子たちに言われたのです。44節です。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

 これは何のことでしょうか。「引き渡される」というのは、イエスさまのご受難、十字架の死のことを指す言葉です。ここには十字架という言葉は直接には出てきませんけれども、聖書に「引き渡される」とあったら、それはイエスさまの十字架と深く関わっている言葉なのです。十字架の死、そのみ苦しみを味わう、そのところまで徹底的に、イエスさまは、わたしたちと共にいてくださるのです。・・・教会員の方で、ある大きな試練に合われて、いまもその苦しみの中に生きておられる、わたしたちの兄弟姉妹の一人の方が、このあいだ、地区集会の席でいわれました。自分一人でこの十字架を背負っていると考えたらほんとうに耐えられない、しんどいけれども、この十字架をイエスさまが共に背負ってくださっている、と思えるから、がんばれるんです。・・・そのお言葉を聴きながら、こちらがまた励まされる、いやされる思いがいたしました。

 わたしたちの人生にふりかかる、一番つらいこと、一番悲しいこと、苦しいこと、それが聖書のいう十字架、ということです。その十字架を、わたしはあなたがたといつもともにいるそのために、背負っている。背負い続けている。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」コリント一の1章22節に出てきます、パウロが言った有名な言葉ですけれども、「十字架につけられたキリスト」この言葉を、ある先生は、十字架につけられたままのキリストと訳すべきだ、と言っておられます。十字架につけられたままのキリスト、ずっと、わたしたちのために十字架を背負ってくださっているキリスト、わたしたちが苦しいとき、つらいとき、いつも共にいてくださるために、そのことを耐え忍んでくださっているキリスト、このキリストに出会うことが、救いであり、いやしであり、復活なのです。イエスさまはそのことを、ここで弟子たちに伝えてくださったのです。

 イエス・キリストはまさに十字架の苦しみを通して、わたしたちの救い主となってくださいました。そのことの深い意味も、自分の苦しみを通してこそ見えてくるのです。そのようにして学び知った神の愛こそ、わたしたちをまことに生かす糧となっていくのです。

 ただし、今日のルカ福音書の最後のところに次のようにありました。45節です。「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」

 弟子たちは、その言葉が分からなかった。その言葉とは、イエスさまが引き渡される、ということ、つまりイエスさまの十字架の死のことです。そのことがどういうことか、なんのことかこのときの弟子たち分りませんでした。そして、聖書は、一方では、その言葉、十字架のことが理解できないように、まだこのときには弟子たちは隠されていた、といい、また他方では、弟子たちには、イエスさまの言われたことが、ただただ怖くて、それ以上、イエスさまにそれはどういうことか、と尋ねることができなかった、といいます。

 さきほど申しましたように、イエスさまの十字架がしっかりと見えていること、それが、わたしたちの本当の意味での救いであり、いやしであります。けれども、そのことはやはり弱いわたしたちには、隠されてしまう、見えなくなってしまうのです。それは、ペトロが山上で栄光に輝くイエスさまをみて感動したように、わたしたちもまた、やはりそのような力強い、かっこよい、救い主としてイエス・キリストを想像してしまうことによって、そうなってしまうことがありますし、また自分の人生にふりかかってきた悲しみや苦しみに向き合うことができない、そのようなわたしたちの恐れから、そうなってしまうこともあるでしょう。・・・いまこうしてこの礼拝の中では、イエスさまの十字架がはっきりと見えていても、わたしたちは、また礼拝を終えてそれぞれの生活の場に戻っていくとき、この世の忙しなさの中で、また人生の思い煩いの中で、イエスさまの十字架が見えてなくなってしまうのです。

 しかし、ある意味で、聖書は、それでいいのだ、と語っているのではないでしょうか。それぞれの生活の中で、わたしたちはイエスさまがわたしたちのために背負ってくださった十字架のその大切な意味を見失ってしまう、それが隠れてしまう。けれども、まさにそのようなわたしたちのために、イエスさまは耐え忍んでくださっている、十字架につけられたままのキリストでいてくださっている。・・・こうして繰り返し十字架の前に招かれ、礼拝において、聖書の御言葉を聞いて、ああそうであった、と思い起こしつつ、わたしたちは、イエスさまの忍耐とゆるしにただただ感謝する者とされ、そしてそのイエスさまの十字架にいやされ、力づけられつつ、そのようなイエスさまの救いの場へ、一人でも多くの人を招くことができるようにと祈り願い、行動する者とならせていただくのです。思えば、あの新島襄も、最後のとき枕元で、弟子に聖書を読んでもらったのでした。新島襄もまた、わたしたちと変わらない、一人も弱い、罪深い人間にすぎなかったのです。けれども、彼は、聖書の言葉に、イエス・キリストに繰り返し立ち返っていた、そこに彼の力の秘密があったのではないでしょうか。わたしたちもそうです。こうして主の招きにこたえて礼拝に出て、御言葉を聴く。そのときはじめて、わたしたちには、十字架が見えてまいります。そして、わたしのために十字架を背負ってくださったイエスさまの深い愛に打たれて、いやされ、人をゆるし、愛するものへと、変えられていくのです。祈りましょう。

 主なる神さま、あなたがわたしたちのために背負ってくださった十字架、その十字架のみ苦しみを見つめるところに、わたしたちのまことのいやしがあり、力がある、そのことを深く心に刻むものとならせてください。しかしまた弱いわたしたちは繰り返しそのことを忘れてしまう罪深いものであります。主よどうか、あなたの十字架を繰り返し見つめることができますように、御言葉に前にわたしたちを繰り返しまねいてください。主の御名によって祈ります。アーメン
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category: 礼拝メッセージ

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