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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第4主日礼拝 

2017年1月15日(日)ルカ福音書9章28―36節
「栄光はどこにあるか」三ツ本武仁牧師

 私たちは昨年の暮れ、クリスマス礼拝において、私たちの救い主イエス・キリストの降誕を祝い、喜びました。12月25日に、毎年、世界中の教会で、私たちはそのようにして本当のクリスマスを祝っています。しかし、イエスさまが地上の生涯を送っておられたときは、当然ながら、まだそのようなことは行われていなかったわけです。つまり、イエスさまがキリストである、救い主である、ということはまだ世界には認められていませんでした。イエスさまと出会った多くの人々はむしろ、この人はいったい何者だろうかと問い、疑問に思ったのです。その疑問を抱いた者の一人としてあのヘロデがおり、そして誰よりもそのような疑問の中に置かれたのが、イエスさまの一番近くにいた弟子たちであったわけです。

 弟子たちは、一切を捨ててイエスさまに従ってきたくらいですから、イエスさまの大きな力を知って感動し、すごい人だ、この人についていけば間違いない、と思っていたことでしょう。しかし、イエスさまのことを、この時点で、聖書が告白しているように、神の独り子、救い主であられるとほんとうに分かっていたか、というと、そうではなかったのであります。むしろ、あぶなっかしい信仰のままイエスさまにつき従っていた、というのが実情であろうと思います。ただただいったいこの方はどなたなのだろう?と イエスさまの癒しの業や、悪霊を追い出される力や、また自分たちや人々を救ってくださった、そのような御業を体験させていただきながら、ただただ不思議に思い、疑問に思いながらイエスさまについてきたのです。

 そのような中で、先週の読んだ9章18節以下で、イエスさまのほうから弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いが投げかけられたのです。
 わたしたちが信仰者になっていく上で、この体験は決定的に重要なことであります。イエスとは何者か、いろいろな人にも聞き、本を読み、なるほどと考えたりしている、そのように思い巡らしている間は、わたしたちはまだ本当の意味では信仰者に、クリスチャンにはなれないのです。そのようなイエス。キリストへの近づき方は、イエス・キリストについて考察し思想し研究することに過ぎないからです。そのようなことはある意味では大切なことですけれども、考察や思想や研究と信仰とは全く違うのです。その根本的な違いは何かと申しますと、考察や思想や研究の主人はあくまでも自分自身です。これに対して信仰の主人は、イエスさまご自身なのです。私たちの信仰は「あなたはわたしを何者だと言うのか」というイエスさまからの問いを受けることによって、そこに与えられていくのです。

 このイエスさまからの問いかけに、弟子たちを代表してペトロが「神からのメシアです」と答えました。イエスさま、あなたこそ、神さまが遣わしてくださった救い主キリストです、とペトロは信仰を告白したのです。ただし、このことの背後には、イエス様ご自身のとりなしの祈りがあったのだ、ということを先週お話いたしました。そしてこの告白は確かに正しい告白ではありましたけれども、それでもまだ弟子たちはほんとうにはイエスさまがキリストであることを十分にわかっているわけではなかった、どのようなことゆえにイエスさまがわたしたちの救い主であるのか、ということはまだこの時の弟子たちには見えていなかった、そういうことも先週お話させていただいたかと思います。

 イエスさまは御自分がどのようにして救い主としての働きをされるのかを語られました。それが前回の22節のところです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆる受難予告です。これは、イエスさまこそ救い主ですキリストですとの告白へと導かれたペトロをはじめとした弟子たちには、まったく信じられないことでした。それだけではありません。驚く弟子たちに、さらに驚くべきこと、理解しがたいことをイエスさまは語られたのです。23節です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」・・・イエスが救い主キリストであるなら、そのイエスに従っていく歩みは、連戦連勝の輝かしい歩みのはずだ、それが当時の弟子たちの思いであったでしょうし、またそれは私たちの思いでもあるのではないでしょうか。なぜその対象を信じるのか、それはそれによって生活安定が得られ、名誉や栄光のある人生を送れると思うからではないでしょうか。けれどもイエスさまは、私に従う者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってついて来なければならない、とおっしゃったのです。・・・

 これが先週までの聖書の流れであります。今日のところはその続きで、内容的にも深くつながっています。この日イエスさまは、ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブの三人の弟子をつれて山に登られました。そしてそこで彼らは、イエスさまのお姿が尋常ならぬ変化をとげられるのを目の当たりにするのです。「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」といいます。32節を見ますとそのことを「栄光に輝くイエス」と表現されています。イエスさまが神さまの栄光に輝いている、そのことが弟子たちにもはっきりとわかったのです。

 いささか俗なたとえで恐縮なのですけれども、某テレビ番組で、鑑定士たちが、その家の家宝を鑑定して、どれくらいの価値があるものかを、発表する、というものがあります。それで、すごい価値があると思っていたものが、たいした価値がないものであったり、たいしたものではない、と思っていたものが、とてつもなく高価なものであった、ということがわかって、本人も驚く、といった内容の番組なわけですけれども、・・・弟子たちは、イエスさまが、本物かどうか、正直わからない、半信半疑、その価値をどこかで疑っていたわけです。しかし、ここで、まさに鑑定士によって、本物どころか、自分たちが思っていた以上にすばらしい方であることが、はっきりと判明した、そのような体験をしたのです。

 じっさいイエスさまの、そのような栄光ある真実のお姿は、ずっと隠されていました。あのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになってから、十字架につけられて殺さるまで、イエスさまの地上での生涯においては基本的に、本来のイエスさまの栄光のお姿は隠されたままであったのです。宗教画は、イエス・キリストの降誕の時の様子や、その生涯の場面場面で、イエスさまを、どこか輝いた姿で描いていますけれども、それは後世の、その作者の信仰がそこに反映されているからであって、じっさいのイエスさまは、わたしたちと変わらない一人の人間の姿でありました。ですからその意味では、弟子たちがイエスさまのことをずっと
半信半疑であったのも仕方がないといえば仕方のないことであったわけです。けれども、今日のところで、彼らには、本当のイエスさまの姿が示されたのです。神の独り子であり救い主である、栄光に満ちたイエス・キリストの輝かしい姿を、彼らは垣間見ることができたのです。

 モーセとエリヤが現れた、というのは、さきほどの鑑定士ではありませんけれども、まさにしく、イエスさまの輝きが本物の輝きであることを証明するものでした。モーセは言うまでもなくあの出エジプトの指導者です。そしてこのモーセは、あの十戒を神から授かった人物として「十戒」に代表される神さまの掟、律法を代表する人物でありました。他方でエリヤは、預言者として、イスラエルの民が、神さまから心離れ、律法に従わなくなった時代に、人々を神さまに立ち返って生きるようにと導いた人でした。旧約聖書には、救い主が現れるとき、まずそれに先立って神さまはエリヤを再び遣わされる、との預言もなされています。ですから、エリヤは預言者を代表する人物なのです。・・・聖書というのは、その全体で、神さまの救いの歴史を語るものです。それは律法にはじまって、預言の時代を経て、そして救い主の到来に至る歴史であります。そのあとはさらに聖霊の時代、つまり教会の時代を経て、キリストの再臨へとつながっていくのですけれども、いまここで何が行われているのか、というと、まさにその聖書の救いの歴史が、モーセ、エリヤの時代を経て、ついにイエス・キリストに結ばれたのだ、という、そういう神さまのご計画が、弟子たちにはっきりと示された、ということなのです。
 
 31節には「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。
 ここには、私たちにとって大切な二つのことが示されています。まず一つは、イエスさまがエルサレムで遂げられる最期こそ、神の救いの歴史の中心なのだ、ということです。イエスさまが遂げようとしておられる「最期」と聞きますと、イエスさまのあの十字架の死のことを指しているように思われますけれども、ここで「最期」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「エクソドス」といいます。英語で出口のことをExsit エクシットといいますけれども、エクソドスはその語源なのです。「外への道、外へ出ること」というのがその本来の意味です。この同じ言葉は旧約聖書のある書物のタイトルになっています。「出エジプト記」です。出エジプトでは、エジプトからの脱出がテーマでありました。イエスさまはエルサレムで、そのようなエクソドスを成し遂げられた、というのが、ここでいうイエスさまが成し遂げられた最期なのです。それはどういうことでしょうか。それは、イエスさまの十字架の死と復活の御業を通して、わたしたち人間を罪の奴隷状態から解放し、そこから救い出し、神のもとに生きるまことの自由の中に生きるものとしてくださった、ということです。実にそれこそが、罪に落ちた人間を救うための神さまの御計画の最終目的であったわけです。モーセからエリヤの時代を経て、ついにその時が来た。そのことを「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」という言葉は示しているのです。

 それからもう一つは、弟子たちはここで栄光に輝くイエスさまの姿を垣間見ることができたわけですけれども、そのようなイエスさまの栄光に輝くお姿は、本来はどこで見るべきものであるのか、それはこれからイエスさまがエルサレムで遂げられるその最期、つまりその十字架の死と復活という御業を通して見なければならない、ということです。そのことを抜きにして、イエスさまの栄光の姿を見ようとする、それが弱いわたしたちの願望であるわけですけれども、イエスさまの栄光は、十字架の死と復活、その御業を見つめることにおいて、わたしたちに垣間見ることがゆるされていることなのだ、ということです。

 このことは、ですから、先週のところで、ペトロが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とお語りになったこととつながっているわけです。イエスさまが神のキリスト、救い主として栄光に輝くお方であることは、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださる、そのことにおいてこそ現れる、ということです。

 そのようにして、ペトロたちは、イエスさまが、モーセとエリヤと語り合い、神の栄光に輝いているお姿を見せていただきました。と、モーセとエリヤがイエスさまと話を終えて、そこから離れていこうとするのが見えました。ペトロは慌てます。そして「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。それは「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とありますけれども、しかし、ペトロがどのような思いになっていたかは、その言葉から察することができます。ペトロは、この栄光に輝くイエスさまのお姿、しかも偉大なモーセとエリヤがともにイエスさまといてくださっている、このすばらしい瞬間をずっと留めておきたかったのです。自分たちの先生は、モーセとエリヤのお墨付きの先生なのだ、その証拠をぜひ残しておきたい、そのような思いがペトロにはあったのだと思うのです。

 そのようなペトロの言動は、ある意味で、とても人間的で、大変よくわかるような気がするのです。わたしたちも、だれか著名な人のサインを求めたり、その人と会ったことを写真に残したりするじゃないですか。歴史的に有名な場所に行きたがるじゃないですか。そうしてそういう体験をした人がやっぱり羨ましいじゃないですか。ですからペトロの言動は決して笑えない、まさにわたしたちもペトロのようなことをしょっちゅうしているし、そういう思いをしょっちゅう抱いているのです。

 しかしそこで34節ですけれども、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中から包まれていくので、弟子たちは恐れた」ということになります。栄光に輝く三人の姿を雲が覆い隠してしまった。雲あるいはガスに覆われてしまう体験というのは皆様あるでしょうか。わたしは山形にいたころ、家族で、蔵王にあるお釜というカルデラ湖を見に行ったとき、ものすごい霧に覆われてしまって、結局その湖が見えなかった、という経験があります。まさに一寸先も見えない、場合によっては大変危険な状態になります。・・・そのように雲に霧に覆われてしまう状況は、聖書では、神さまが人と出会われるときの現象として、しばしば語られています。・・・じっさいこの後、神さまの声をペトロは雲の中から聴くことになるのです。ただし今日のところでは、この雲そのものにも、ペトロの思いに対する神さまからの暗黙の答えが示されていたと思うのです。今日のこの出来事は特別な出来事なのだよ、いつもどこでも誰にでも与えられるものではないのだ、神さまは、やがて弟子たちが、イエスさまの十字架の出来事の中にこそ、主に栄光を見ることができる日がくることを願いつつ、この時のこの出来事を雲で覆われたのではないでしょうか? 

 雲の中からペトロは神のみ声を聞きました「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け。」そして、その声がしたと思うと、そこにはイエスさまだけがおられました。これに聞け、とはどういうことでしょうか? それはイエス・キリストの言葉を聞け、ということです。イエス・キリストの御言葉を聞きつつ歩むこと、その御言葉に耳を傾け、従っていくこと、その中でこそ、私たちは栄光に輝く、まことの神であるイエスさまの本当のお姿と出会うことができるのです。イエスさまは十字架の道を歩んでいかれました。そのイエスさまの御言葉に聞き従うということは、十字架の道に従うということです。自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従っていく、ということです。それは一見困難に見える歩みです。でもその中でこそ、この世のものには代えることのできない、喜びと平安を私たちは経験させていただくのです。あなたの背負われた十字架に比べたら、わたしの十字架などなにものでしょう。と歌った人がいます。まさにそのようなかたちで十字架を軽くしていただきながら、わたしたちはまことの栄光の道を、本当の意味で光輝く道を歩んでいくことがゆるされるのです。祈りましょう。

 疲れたもの、重荷を負うものは誰でもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう 主なる神さま、わたしたちは、はっきりとした救いの保証がほしくて、あなたに何度もそのことを願ってきましたけども、あなたの御子が、わたしたちの罪のすべてを背負って十字架の道を歩んでくださった、その歩みの中にこそ、あなたの栄光があること、十字架を背負う、その静かな、隠された歩みの中に、わたしたちの命があることを、見るもの、見続けるものとなれますように、わたしたちを聖霊でみたし、まもり、導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン















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