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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第3主日礼拝 

2017年1月8日(日)ルカ福音書 9章18―27節
「イエスは私たちの救い主」三ツ本武仁牧師

 先週は元旦礼拝において、私たちがイエスさまの弟子として、イエスさまに従いゆく、その中でこそ、イエスさまが何者であるか、そのことを深く示されていく、従いゆくことのないイエスさまへの関わり方、関心においては決してイエスさまと本当には出会うことができない、だから、新しい年を迎えて、私たちは教会としてこの年を、何よりもイエスさまに従いゆく年にしましょう、とそのようなことを語らせていただきました。

 イエスは何者であるのか、この私たちの問いは、誰もが一度は抱く問いであります。それはたとえば祈りを通して、イエスさまにあなたはどなたですか、と問うということもあるでしょうし、あるいはイエス・キリストのことをこうして語り伝えている教会の牧師や信仰の諸先輩方に、そのことを問うということもあるでしょうし、あるいは様々な書物に学ぶことを通して、そのことを問う、問いはじめるのだと思います。
イエスとはどういう人か、イエスのこの教えはどういう意味か、この御業はどういうことか、・・・世界宗教の1つとしていまなお大きな影響力をもつ、キリスト教の創始者と目される、イエスという人物に、そのように関心をよせることは、ある意味で、この世に生まれたものとしては健全な、思いであるといえるのではないか、と思います。けれども、そのように私たちが問うているとき、イエスさまは、あくまでもイエスという一人の人物として私たちの観察の対象となっています、よくいえば、人類の歴史に偉大な足跡を残した一人の偉人の一人に過ぎないものとなってしまっているのです。

 もちろんはじめはそれでよいのであり、またそれ以外の方法は私たちにないわけですけれども、しかし、やがてある時に、これも信仰者として歩み始めた誰もが経験することですが、イエスが神である以上、その、まことの神であるイエスご自身から、私たちに問いかけてこられる、そのことを私たちは経験することになるのです。私たちがイエスさまに向かって「あなたはどなたですか?」と問うのではなく、反対に、イエスさまのほうから「あなたは私のことをどう思うのか」と問うてこられる、そのような経験をするのです。イエスさまからのこの問いに出会うことが、信仰の大きな一歩だということがいえるでしょう。今日のところでは、弟子たちがまさにそのような問いの前に立たされることになったことが語られているのです。

 イエスさまはただし、彼らにその問いを向けるに先立って、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。あなたたちの周囲の人々、世間の人々はイエスさまのことをどう言っているのか、そのことを問われたのです。弟子たちは、「『洗礼者ヨハネ』だと言っています。ほかに『エリヤだ』という人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』という人もいます」と答えました。先週も見ましたように、じっさいガリラヤではそういう噂が流れていたのであって、ヘロデにもその噂が届いたのです。弟子たちもまたそのような噂がじっさいにあることを、正直にイエスさまに伝えたのです。

 わたしたちであったらどう答えるでしょうか。この時代の日本では洗礼者ヨハネという名前も、エリヤという名前も、世間一般の人はほとんど知らないでしょう。ですから、イエス・キリストやキリスト教のことは知っていても、そのイエスを「洗礼者ヨハネ」や「エリヤ」だという人はまずいないでしょう。
・・・わたしが経験した中で圧倒的に多いのは、好意的な意見では、やはり偉大な人間だ、ということです。イスラム教がある意味ではその立場ですけれども、人間として立派なことをした人だという好意的な評価であります。しかし神ではない、というのです。神ではない、ということは、つまり信仰の対象ではない、自分がその身をすべてゆだねてよいような対象ではない、ということです。イエス・キリストのことを、どう思うにせよ、神ではない、信仰の対象ではない、と見なす点では、世間の評価、他の宗教のイエスさまへ評価は、どれも同じではないでしょうか。

 洗礼者ヨハネと思おうと、立派な偉い人だと思おうと同じです。それは根本的には、イエスさまは私たちの観察でき研究できる対象にすぎないとみなしている、ということです。そしてそのようにしてイエスさまを人間にすぎないと見なしている限り、イエスさまが何者であるかは、本当には知ることができないのです。けれども弟子たちは、イエスさまに従いゆくなかで、イエスさまのほうから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との問いかけを受けたのです。イエスさまとの何者かが私たちに本当にわかるのは、このように私たちからではなく、イエスさまのほうから、私たちに問いかけてこられるところにおいてなのです。

 それからもう一つ、イエスさまが「群衆は、わたしのことを何者だと言っているのか」と問われた上で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」とお問いになられた、そこには、わたしたちを、イエスさまが、わたしたちを一対一の関係へと導こうとされている、ということがいえるでしょう。人がどうこうではない、世間がどうこうではない、あなた自身はどうなのか、そのことがイエスさまとの関係では大切になってくるのです。

 しかし、また他方で、イエスさまがここで「あなたは」ではなくて、「あなたがたは」「わたしを何者だと言うか」と、あなたがた、という問われた方をしたことも忘れてはなりません。確かにイエスさまへの信仰は、イエスさまとわたし、という関係が大切になります。ペトロもその意味で、このあと一人でイエスさまに答えていきます。しかしイエスさまのこの問いかけは、弟子たち、つまりイエスさまに従って歩んでいる教会の群れに向けて語られているのです。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」このイエスさまの問いかけは、教会に集い、礼拝を守り、御言葉を聞きつつ歩んでいる人々、まさにいまここに集うわたしたちに向けて語られた言葉なのです。

 さてペトロは、そのような信仰の仲間を代表して、イエスさまに対し、「あなたは神からのメシアです」と答えました。メシアという言葉は原文ではクリストスという言葉になっています、このクリストスを日本語でそのまま表した言葉が、キリストという言葉です。キリストは救い主という意味であります。ペトロは、イエスさまのことを「あなたはキリストです。救い主です。」とその信仰を告白したのです。あなたをキリストだと信じます、と答えたのです。イエスさま、あなたは、この天地万物の造り主なる神ご自身であって、わたしたち人間の救いのためにこの世に来てくださった救い主です。ペトロはそう答えのです。・・・この信仰告白こそ、キリスト教会の根本です。わたしたちの拠り所なのです。教会においてその入会の儀式として授けられる、キリストの洗礼の恵み、永遠の命の約束も、この信仰告白の上に行われるところに、本当の意味をなしていくのです。

 このペトロの信仰告白の記事を読む上で、見落としてはならない大切なことが、最初の18節で語られています。18節をもう一度読んでみましょう。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」・・・ここには、イエスさまが一人で祈っておられ、その傍に弟子たちが共にいた、ということが語られています。なぜわざわざこんなことがここに語られているのでしょうか。それは、イエスさまがここで、ペトロの信仰を問うそのことに先立って、そのペトロを含めた、弟子たちのことを覚えて、彼らのために、彼らの信仰のためにとりなしの祈りをささげていてくださっていた、ということなのです。私たちにおいてもそれは同じことです。「あなたはわたしを何者だと言うのか」というイエスさまの問いかけの背後には、イエスさまご自身のわたしたちのための祈りが、とりなしが、愛があるのです。イエスさまご自身がわたしたちを、あなたこそキリスト、救い主です、という信仰告白へと導いて下さっているのです。
 
 ペトロの信仰告白はそのようにイエスさまの祈りに支えられてなされました。そのようになされた信仰告白であったわけですけれども、今日の後半の21節には、イエスさまだ弟子たちに「このことはだれにも話さないように」とお命じになったことが語られています。そして続く22節には「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆるイエスさまのご受難の予告が語られています。

 イエスさまは、ペトロの信仰告白のあと、それを人には話さないようにと言われ、ご自身の受難の予告をされました、これはいったいどういうことなのでしょうか。・・・イエスさまのことをキリストです、救い主ですと告白する、それは正しい答えでした。けれども、ではどういう理由で、イエスさまはキリストなのでしょうか。そのことが実はまだこのときのペトロ、そして他の弟子たちには十分に分かってはいなかったのです。イエスさまはどういうことによって、わたしたちの救い主なのでしょうか。超自然的な力によってそうなのでしょうか。英雄的な働きによってそうなのでしょうか。ある意味ではそれは正しい答えですけれども、ある意味ではそれは間違っているのです。

 イエスさまは、私たちのために、多くの苦しみを受け、人々から排斥されて殺されたのです。それは、わたしたちの罪を背負って、イエスさまが死んでくださったということなのです。そして、しかしイエスさまは三日目に復活するのです、わたしたちの命がイエスさまの命を通して、復活の命、永遠の命へと導かれたこと、そのことを神さまは、イエスさまの十字架の死と復活という御業によって示してくださったのです。・・・イエスさまがキリストである、救い主であると、ほんとうの意味でわかる、ということはこのことがわかる、ということです。・・・このことを抜きにして、イエスさまは救い主です、とその信仰を告白することも、ほんとうにはイエスさまに出会うことができない、のです。

 わたしたちのために十字架に死なれたイエス、そしてその業を通して、わたしたちを復活の命にあずからせてくださるために復活されたイエス、このイエスさまこそがキリストなるイエス、イエス・キリストなのです。

 そして23節でイエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。イエスさまご自身から「あなたはわたしを何者だと言うか」と問われ、「あなたこそ神からのメシア、キリスト、救い主です」と告白した者は、その救い主イエスに従って、その後について行く者になる、ということです。イエスさまは多くの苦しみを受け、排斥され、殺されることによって救い主として歩まれました。ですからそのイエスさまに出会いそのイエスさまを知った私たちは、イエスさまに従って、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従っていくのです。

 いや、それは無理だ、大変なことだ、そんなことはとてもできない、そのように私たちは思ってしまいます。けれども続く24節で、イエスさまは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われました。・・・つまり、自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくことは、ほんとうの意味で自分の命を救うことになるのです。なぜならば、そのようにして主に従って歩むところでこそ、私たちのすべての罪を引き受けて多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして三日目に復活して下さった救い主と出会い、その救い主が私たちを憐れみ愛してくださって、私たちのためにとりなしの祈りを捧げてくださっていることを知ることができるからです。先週も申しましたように、主イエスに従ってゆくことの中でこそ私たちは、主イエスが何者であるかを知ることができるのです。そして主イエスが何者であるかを知ることによって、ほんとうの意味で私たちは、新しく生き始めることができるのです。その新しい命、復活の命に目覚めて生きること、それが私たちの救いであり、喜びであり、一番大切なことなのです。

 27節には「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とあります。あなたがたの中には、生きている間に神の国を見ることができる者がいる、とイエスさまはいわれるのです。この言葉は、多くの場合、イエスさまの再臨の時を体験する者がいる、という意味だと受け止められていますけれども、必ずしもそのように受け止めなければならないわけではありません。・・・私たちはみな誰でも、生きて神の国を見ることができるのです。私たちが自分の思いを実現することによって命を得ようとするのではなく、そのような自分を捨てて、日々自分の十字架を背負って、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスに従って生きる中で、私たちは、主イエスの十字架と復活によって実現している神さまの恵みと愛のご支配という神の国を、確かに見るのです。先日しばらく教会をおやすみされているある方からお手紙をいただきましたが、そこには、昨年が予期せぬ苦難の年であったということ、けれども教会からのクリスマスカードの皆様のおはげましに救われ、折れそうだった心が少し元気になりましたとのお言葉がございました。まさに自分の十字架に苦しみつつ、それを背負って歩んでいかれている人の姿がそこにあるということを思わされ、こちらのほうが励まされる思いでありました。

 「あなたは私を何者だと言うか」イエスさまは、そのように私たちに問いかけることによって、「あなたこそ神からのメシア」キリスト、救い主です、という信仰告白へと私たちを導き、自分の十字架を背負って、主に従いゆく者としてくださいます。そしてそのようなわたしたちを、主は、み言葉によって常に養い、育み、私たちを、神の国を仰ぎ見て、揺るぎない希望と喜びに生きる者へと導いてくださっているのです。祈りましょう。

  「あなたはわたしを何者だと言うのか」主よ、あなたは、神からのメシア、私たちの救い主、キリストです、わたしたちのために十字架にかかり、命をささげて、わたしたちをまことの命へとすくい上げてくださった、救い主です。主よ、どうかわたしたちが、このまことの命の道を心から知って、もっとも大きな十字架を背負われたあなたのみあとを、自分に与えられた十字架を日々背負いつつ、歩んでいくものとならせてください。そこに命があり、そこに神の愛のご支配を見ることのできる喜びがあることを信じることのできるものへ、復活の命に生きるものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
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category: 礼拝メッセージ

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