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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第6主日礼拝 

2017年1月29日(日)ルカ9章46-50節
「主イエスが受け入れてくださったように」三ツ本武仁牧師

 元旦礼拝でもご紹介しましたように、今月の『信徒の友』には香里教会のことが載っています。日毎の糧というコーナーで、毎日の聖書の言葉とその言葉についての黙想、そして全国の教団の中から教会が1つずつ選ばれて、その教会の祈りの課題を共に祈ることができるようになっています。香里教会はちょうど先主日の22日がその日に当たっていたのですけれども、先週はその私たちの祈りに応えて、全国から28通ものお葉書をいただきました(注:1月30日現在)。わたしは大変励まされました。ハガキホルダーに入れて掲示板の下においてありますので、ぜひ皆さんも手にとって目を通していただけたら、と思います。

 さて今日与えられましたルカ福音書の9章46節以下には、イエスさまに従っている弟子たちのあいだで起こった一つの論争、といいますか、仲違いのような話が語られています。
 弟子たちの間で、自分たちのうちの誰が一番偉いか、という議論が起こったというのです。誰が一番偉いか、などと聴くとなんとも子供じみた、しょうもないケンカを始めたものだ、と思ってしまいますけれども、要するに自分たちの中で、誰を中心にしていくべきか、誰の意見を最も尊重すべきか、そういうことで争いが起こってしまったのです。その点では、社会のあらゆる組織がそうであり、また教会もその例外ではないのです。いや、それはおかしいじゃないか、イエスさまがおられるのだから、教会はイエスさまが中心で、それで丸く収まるではないか、と思います。

 しかし、そんなに単純ではないのですね。私たちは、確かに救い主イエス・キリストのもとに集まっている者たちではあったとしても、そのもとで集まる者たちの間では、では誰がイエスさまの考えにもっとも正しく理解しているか、イエスさまに願いをもっとも忠実にかたちに表しているか、行動で示しているか、イエスさまに最も愛されているか、そういう思いが、そこには渦巻いていく、そして油断をすればすぐにそこに様々な、争いや妬みや差別や、足の引っ張りあいが起こってくる。それは、もうすぐ70年を迎えようとしている香里教会の歴史を紐解いてみても、明らかなことではないでしょうか。

 47節には「イエスは彼らの心の内を見抜き」とあります。弟子たちのそのような言い争いの根本にあるもの、どういう思いからこのような議論、争いが生じたのか、イエスさまは見抜かれたのです。そしてそのような彼らを教えて諭すために、ある一つの行動を起こされたのです。イエスさまはそこにいあせた一人のこどもの手をとり、その子を御自分のそばに立たせられました。そして言われたのです。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

 ・・・このイエスさまの振る舞いとお言葉を理解するためには、当時のユダヤ社会で子供がどのような存在であったか、ということを確認しておくことが必要だと思います。わたしたちの感覚では、こどもの存在、またその命を尊重することは当然である、という感覚があるかもしれません。もちろんいつの時代にも例外があって、新聞に時々報じられる幼児虐待の問題や、また反対に過保護という問題もありますけれども、私たちの多くには、こどもの人格とその命を一人の人間として尊重し、その成長をまもり、健全に育てるのが大人の義務である、という理解があるのではないか、と思います。つまり、その根底には、こどもは価値ある存在であるという考えがあると思うのです。しかし、今日のこのところでは、むしろ、これは今の社会ではなかなか理解しにくいことですけれども、こどもは人間として価値のない存在、一人の人間として受け入れるに足りない存在である、というそういう、当時の社会の常識をもとに、イエスさまは、ここで一人の子供の手をとり、ご自分のそばにたたせられて、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と語られたのです。

 当時の社会で価値のないものとされていた子供、その子供を受け入れることと、イエス・キリストを受け入れること、そして天の父なる神さまを受け入れることとが一つのこととして結び合わされています。神さまを受け入れるとは、神さまを信じるということです。自分にとって最も大切なものとして従っていくということです。それが、価値のないと思われているものを受け入れていくことと結び合わされているのです。これはですから、単にこどもを大目に見てやるとか、半人前でも我慢してやるとか、そういうことではありません。そうではなく、そのような自分たちが価値のないと思っている者、その社会がそのようなレッテルを貼ってしまっている人々を大切な自分たちの仲間として、尊重し、その人と共に歩んでいく、その言葉に丁寧に耳を傾けていく、そこに、じつはあなたたちを生かす命の道があるのだ、そういうことをイエスさまはおっしゃっているのです。

 この教えは一見、「自分たちのうちのだれが一番えらいか」という最初の弟子たちの議論、争いとは関係がないようにも思えます。しかし実はこれこそが、弟子たちの議論、そしてわたしたちの問の奥底に潜む、根本的な問題を見抜かれたイエスさまのお答えなのです。・・・誰が一番えらいか、誰が重んじられ、誰の意見や理解が正しいとされ、誰がその交わりの中心になるべきか、そのような争いがわたしたちの間で起こってくる原因には、わたしたちの中の小さな一人を受け入れようとしない思いがあるのです。自分たちの内で誰が一番えらいか、誰の意見に従うべきか、そのような思いが生まれる、その裏側には、反対にこの人の意見は聞かなくてもよい、軽んじてよい、受け入れなくてもよい、という、そういう思いがあるのです。弟子たちの、そして私たちの心の中に、共に歩んでいる人たちの中に序列をつけ、ある人は受け入れ、ある人は受け入れようとしない、そういう思いがある限り、「誰が一番えらいか」というこの弟子たちの議論は姿を様々にかえて繰り返されていきます。
 ・・・イエスさまは、当時軽んじられ、一人の人間として受け入れられていなかった子供を弟子たちに、受け入れるようと求めることによって、彼らの議論の背後にひそんでいる、そのような根本的な問題に気づかせようとなさったのです。

 48節の最後には「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最もえらい者である」とあります。ここで「最も小さい者」というのは、ですから、その社会、その交わりで小さくされた者、軽んじられ、意見が聞かれず、受け入れてもらっていない人のことです。そういう人を受け入れ、仲間として大切にしなさい。「最も小さい者こそ、最もえらい者である」ということでイエスさまは、そのような思いを語っておられるのです。しかし、ここでよく誤解されることは、だから社会で軽んじられている人は、教会では他の人たちの上に立つことができる、と理解してしまうことです。そう理解するならば、そこには、いわゆる逆差別が起こってきてしまうでしょう。社会において弱い立場の人がえらぶり、強い立場の人が片身の狭い思いをする、そのようなことをイエスさまはこの教会の交わりにおいて願っているのではありません。イエスさまが「最も小さい者こそ、最もえらい者である」と言われたのは、弟子たちが「誰がえらいか」ということで頭がいっぱいになっていたから、その頭を覚まさせるために、はっとすることを言われたまでです。

 大事なことは、私たちが、誰がえらいか、誰の意見こそ聞かれるべきか、という思いから離れて、どんな人の意見にもひとしく耳を傾け、その思いを大切にしていく、受け入れていく、ということなのです。
 しかし、ここにはそれ以上に、イエスさまのお言葉の中で、注目しておかなければならないことがあります。それはイエスさまが、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」といわれた、その最初の「わたしの名のために」というお言葉です。イエスさまは、道徳の問題として、倫理の問題として、一人の子供を受け入れなさい、つまり弱い立ち場の人を受け入れなさい、と言われたのではないのです。単に道徳的な問題として、誰も排除しない、仲の良い教会になりましょう、ということではないのです。ここは少し難しいことですけれども大事なところです。イエスさまは、わたしの名のためにそうしない、弱い立ち場の人を受け入れなさい、と言われました。「わたしの名のため」というのは、どういうことでしょうか。それは、イエスさまのみ名にふさわしく生きる上で、ということです。つまり、私たち自身がイエスさまのその歩みつき従っていく、そのところでこそ、小さくされた者が本当の意味で受け入れられていく、そのような交わりが生まれるのだ、ということなのです。

 ではイエスさまの歩みにわたしたちが従っていく、とはどういうことでしょうか。そのことは前回読みました、9章の44節でイエスさまが語られたことから見えてまいります。9章の44節でイエスさまは、いわば二回目となる、ご自分の受難の予告を語られました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」前回申しましたように、これはイエスさまの十字架の出来事を語っています。
 人々の手に引き渡され、苦しみを受け、十字架につけられて殺される、その主イエスに従い、その主イエスの弟子として歩むところにこそ、小さくされ、軽んじられ、価値のないものとされたような人を受け入れていく歩みが与えられるのです。それはなぜでしょうか。それはなぜならば、イエスさまが受けてくださった苦しみと十字架の死は、神さまが、まさに受け入れがたい罪人である私たちを受け入れてくださった出来事であるからです。
 私たちこそは、このように生かされ、神さまに命を授かりながら、その命の源である神さまのことを忘れ、そのめぐみに感謝することもせず、また隣人と互いに愛し合い、支えあって生きることのできない、無価値な、受け入れがたい者なのです。そのことを私たちに思い出させてくださるのがイエスさまの十字架です。神さまの前に無価値になってしまった、そのような私たちを、それでも愛し、あなたはわたしの目に高価で尊い、と再び宣言してくださるために、神さまは、大切な独り子であるイエスさまを遣わしてくださり、その十字架の死と復活によって、私たちすべての者を受け入れてくださったのです。このイエスさまの十字架による罪のゆるしを受け入れること、受け入れがたいものが十字架を通して受け入れていただいたことを、信じる、それが、私たちにめぐみ与えられた信仰であります。ですから、じつは、弱い人を受け入れるというのは、私たち自身の心がけとか、人間性とか、そういう問題ではないのです。そうではなく、問題は、イエスさまが十字架を通して、このわたしを、わたしたちを、受け入れてくださった、そのめぐみを見ることができているかどうか、そのような、本当の信仰者として生かされているか、生きているか、そのことにかかっているのです。

 今日の後半の、49節50節で語られていることも、基本的には、この今までのところと〃ことであります。弟子の一人であるヨハネが「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったのです。するとイエスさまは「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」とお答えになりました。

 ある人がイエスさまの御名によって、イエスさまのような業を、働いていたのです。悪霊を追い出していた、というのです。ヨハネが問題としたのは、そのことではありません。ヨハネが問題としたのは、その人が「わたしたちと一緒にあなたに、イエスさまに従わない」ということでした。・・・その人は、その人なりの仕方で、イエスさまに従っていたのです。イエスさまの十字架の御跡に従っていたのです。だからこそ、イエスさまの名によって悪霊を追い出すという不思議なみ業もできたのです。

 イエスさまの十二弟子がイエスさまに従っている中心的な人々であったことは確かです。しかしじっさいには、それ以上の人々がイエスさまを信じ、イエスさまに従っていた、そのことは福音書のほかのところでちゃんと語られていることです。この後の10章では、さっそく12弟子の他に72人の人々がイエスさまによって派遣されていくことが語られています。またこれまでにも、たとえばゲラサ地方でイエスさまに悪霊を追い出していただいた男の人や、長血の病をいやしていただいた女性など、イエスさまによって癒やされた人々も、それぞれの仕方でイエスさまに従っていった人々だといえるでしょう。

 同じイエス・キリストを信じながらも、十字架の主に従いながらも、その従い方においては違うかたちをとる、ということもあるのです。イエスさまはヨハネに向かって、「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」といわれました。ここでイエスさまのいわれる「あなたがたに逆らわない者」というのは、一緒に同じ仕方で、イエスさまに従う、という点においては一致していなくても、それぞれに十字架を担いながら、イエスさまに従っている人たちのことを言っておられるのではないか、わたしはそのように思うのです。それは、今日の教会が、カトリックやロシア正教会、そしてプロテスタント、プロテスタントの中の諸教派がその違いを超えて共に歩んでいく、そういうことの大切さ、ということも言えますし、またわたしたち香里教会という群れのことを考えてみましたときに、基本的には、洗礼を受け、香里教会に籍をおくものが、香里教会の会員ということになるわけですけれども、じっさいにはいまこうして、未受洗者の方、求道者の方、他教会員の方がともに一つとなって礼拝を守っているように、また受洗者であっても、様々な事情によって教会に来られない方もいる、そういうことも祈りに覚えながら共に歩んでいる、そういうそれぞれの事情や状況を、認め、受け入れていく、そのことの大切さをイエスさまはここで語っておられるのではないでしょうか。

 人それぞれ、主イエスに従い、礼拝を守り、また信仰に生きる、そのあり方は違ってよいのです。私たちは、それぞれが、自分の信仰の良心に基づいて、神さまが自分に与えてくださったと信じる働きをにない、行っていくのです。そのとき、自分のあり方とほかの人のあり方とが違う、ということは当然起こってくるでしょう。そこでもしわたしたちがどっちのあり方が正しいのか、と比べ始めるのならば、結局それは最初の弟子たちのしたような「だれが一番えらいか」という争いに支配されていくことになるのです。イエスさまは、そうであってはならない、といわれるのです。大事なことは、だれが正しくイエスさまに仕えているか、ということではなく、違う仕方ではあっても、十字架の道をゆくイエスさまに従い、自分の十字架を担いつつ歩んでいく、その兄弟姉妹の姿をみつめることです。考え方や、生き方や、仕え方、そこにばかり目を奪われているならば、わたしたちは、わたしだったらああはしない、あんな仕方は間違っている、という思いにとらわれてしまうでしょう。でも、イエスさまは、見るべきところはそこではない、といわれるのです。そうではなくて、その人がどんな十字架を背負って、わたしに従っているのか、そのように隣人の背負っている十字架について思い巡らす想像力、洞察力をこそ持ちなさい、といわれるのです。そのとき、わたしたちは、様々な違いをこえて一つになっていくことができるのです。

 先週のキリスト入門のときのことです、週報にありますように男女それぞれ6名の方が参加されたのですけれども、いつも参加されている方々が、まさに今自分の背負っておられる十字架について語られたんですね。家族の病気のこと、介護の大変さ、そんな話をし始められました。そうしましたら、その日はじめて参加された、ある意味ではもうベテランの教会員の方が、急に泣き出されて、言われたのです。みなさんのほうがえらい、みなさんのほうがずっとつらい思いをしている、教会ではいろいろなことを言う人もいるけれども、どうかやめないでほしい、そう言われたんですね。わたしも思わずじーんときてしまいました。そうお話になったその方も、じっさいは大きな十字架を背負いながら、この香里教会を支えてこられた方です。それだけにその言葉には重みがありました。互いの背負っている十字架を見つめ合うとき、そしてそのわたしたちの十字架を支えるために、イエスさまがわたちたちの十字架を背負って、先頭を歩んでくださっている、十字架につけられたまま、いつもわたしたちとともにいてくださっている、そのことを見つめるときにこそ、わたしたちは互に受け入れ合い、つかえあって生きる、まことの主のからだなる教会、神の家族となっていくことができるのです。祈りましょう。

 主なる神さま
 わたしたちは様々に考え方、生き方、生活の仕方に違いはありますけれども、あなたが黙って背負ってくださった十字架のもとに、互いの十字架をみつめあう、その中で、心から一つになっていく群れとなれますように、わたしたちの小さな群れをこれからもあなたの霊でみたし守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
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降誕節第5主日礼拝 

2017年1月22日(日)ルカ福音書9章37―45節
「いやしと十字架」三ツ本武仁牧師

 先週の金曜日から同志社香里高校での聖書の授業が始まりまして、遅まきながら、初出勤してきました。生徒たちには二学期のあいだは新島襄の生涯について教えてきたのですけれども、三学期は、新島襄がいよいよ大学設立という大きな夢に向かって、その募金集めのために日本中そして世界を旅していく、その中で、病に倒れ、天に召されていくその直前までを先週は、やってきました。偶然にも、明日の1月23日は、その新島襄の召天日なんですね。46歳11ヶ月という若さで、新島襄は天に召されていったのです。実は、わたしもいま46歳なんです。・・・厳密には46歳と3ヶ月になりますけれども、大変感慨深い思いがいたしました。

その新島襄ですが、彼は遺言のなかで、自分は生涯敵をつくらないように心がけてきた。もし皆さんの中で、私に対して、釈然としない思いを抱いている人がいたら、どうかいま、ゆるしてほしい。わたしの胸の中には、一点の曇りもありません、・・・とそのように述べています。これは聖書のイエスさまの教えに基づくものであることは一目瞭然でありますけれども、人生の最期に、わたしの胸には、一点の曇りもありません、と、そのように私たちは言えるでしょうか。全ての人をゆるします、ゆるしています。だからみなもわたしのことをゆるしてください、そういう言葉を、残すことができるでしょうか。わたしはこのような言葉を残すことも、キリスト者としてやはり大変大きな業ではないか、と思わされました。

 さて、ルカによる福音書を読みすすめていますけれども、先週は、イエスさまのお姿が山の上で栄光に輝き、そこにイスラエル人なら誰でも伝え聴いている、偉大な人物モーセとエリヤが天使ように現れて、イエスさまと話し合っておられる姿を、選ばれた三人の弟子たちが、垣間見ることがゆるされた、という、いわゆる山上の変貌、というところを読みました。そのことを通して弟子たちには、イエスさまが確かに、先祖から伝えられている救い主であることが、はっきりと示されたわけですけれども、今日のところでは、その出来事の翌日、山からイエスさまと三人の弟子たちが降りてこられた、そのところでの出来事が語られています。

 そこでイエスさま一行は大勢の群衆に迎えられるのですけれども、そのなかで一人の男が、自分の一人息子を癒してほしいとイエスさまに願った、というのです。この男は、自分の息子は悪霊に苦しめられているというのです。悪霊を追い出し、人々の病をいやしてくださる、それがイエスさまの働きの一つであったことはいままで見てきた通りであります。今日のところの問題はそのことではないのです。この男の人はさらにイエスさまにこう言ったのです。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」

 イエスさまがちょうど山に行かれていた頃、この男性は、麓に残っていた弟子たちに、自分の息子を苦しめる悪霊を追い出して、息子をいやしてくださるように頼んだのです。でも、そのような業が弟子たちにはできなかったのです。今日のところのポイントはまずここにあります。なぜ、弟子たちはそのような業ができなかったのでしょうか。

 それは当然ではないか、と思われる方もあるかもしれません。そのような奇跡的な業というのは、イエスさまご自身だからこそできることであって、ただの人間にすぎない、またまだまだ半人前の弟子たちに、そんなだいそれたことできるわけがないじゃないか、そう思われる方も少なくないと思います。クリスチャンをイエス・キリストの弟子だというなら、わたしたちだって、そんな業はできない、しろといわれたら困ってしまう、わたしたちはそう思ってしまいます。・・・しかし、以前ともに読みました箇所に、こんなことが語られていたのを覚えておられるでしょうか。この9章の1節のところです。121ページです。そこにはイエスさまが、弟子たちに、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能とをお授けになって、各地に派遣された、とあったではありませんか? そして実際、彼らは自分たちの遣わされた町々でそのような体験をしたのです。だからこそ、この男の人も弟子たちに向かって、自分の息子のいやしてくださいと頼んだのでしょう。弟子たちには、そのような奇跡的な業ができたはずなのです。いやしの業ができたはずなのです。わたしたちもそうなのです。・・・最初に申しました新島襄は、まさにそのような意味で、イエスさまに近い働きをしたのではないでしょうか。でも、このとき、弟子たちにはそれができなかった、それは、なぜだったのだろうか、ということです。

 イエスさまは、そのように弟子たちが、御自分のいない間に、いやしの業ができなくなってしまっていた、その姿を見ておっしゃいました。41節です。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたとともにいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

 このお言葉も、以前申しましたようにイエスさまのお怒りの言葉ではなく、お叱りのお言葉であります。イエスさまは弟子たちの不甲斐ない姿をみて、イライラして、怒っておられるのではないのです。このように訳されている日本語からは怒っておられる、ようにしか受け止められないかもしれませんが、じっさいはそうではありません。よこしまな時代、と訳された、この時代という言葉は訳すのが難しい言葉ですけれども、ようするにそこに生きている人々のことです。つまり弟子たちを含めた、その息子の父親も含めた、そして群衆を含めた人々のことです。そしてよこしま、とは日本語では悪いあくどい、といった意味合いですけれども、原文ではむしろ、まっすぐに見ることができない、ゆがんでしまっている状態をさす言葉になっています。つまりこうです。あなたたちの信仰はどうしてしまったのか、どうしてまっすぐに見ることができないのか、あなたたちには信仰があるではないか、だから、まっすぐに見ることができるはずではないか。そのようにイエスさまは弟子たちを励ましておられるのです。

・・・そして、後半の「いつまでわたしはあなたがたとともにいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」というところは、イエスさまが本当はわたしたちに我慢したくないのに、いやいや我慢してくださっている、ということではなくて、わたしはいつもあなたがたとともにいるではないか。という、そういうお言葉なのです。我慢しなければならないのか、と訳されたことには確かに理由があるのですけれども、その「我慢」という言葉が、どこから出てきているか、それがわかれば、この言葉は納得がいきます。イエスさまの我慢、つまり、イエスさまが耐え忍んでわたしたちのためにしてくださったこと、そしてそのみ業のゆえに、イエスさまは今まさに、わたしたちとともにいてくださっているのです。

 逆にいいましたら、このイエスさまが耐え忍んでなさってくださった御業、それゆえにわたしたちといつも共にいてくださる、その御業がちゃんと見えていたならば、弟子たちも、あるいはその子の父親にも、その息子を、悪霊から救い出し、その病をいやすことができたのです。わたしたちもそうです。わたしたちも、イエスさまがわたしたちのためになしてくださったその御業がちゃんとみえているならば、自らもイエスさまのいやしにあずかれるし、またイエスさまのいやしを人々に分け与えることができるのです。

 では、わたしたちが見つめているべきイエスさまの御業とは何か、今日のところの後半には、そのことが語られています。

 あなたたちの信仰はどこにいったのか、どうしてまっすぐに見ることができないのか、わたしはいつもあなたがたとともにいるではないか。わたしが訳すなら、そのように語られ、弟子たちを励まされたイエスさまは、そのあとに、あなたの子供をここにつれてきなさい。と言われて、そして、その子供を悪霊から救い出し、いやし、そして父親にその子をお返しになりました。そこにいた人々は皆驚くわけですけれども、そこでイエスさまは弟子たちに言われたのです。44節です。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

 これは何のことでしょうか。「引き渡される」というのは、イエスさまのご受難、十字架の死のことを指す言葉です。ここには十字架という言葉は直接には出てきませんけれども、聖書に「引き渡される」とあったら、それはイエスさまの十字架と深く関わっている言葉なのです。十字架の死、そのみ苦しみを味わう、そのところまで徹底的に、イエスさまは、わたしたちと共にいてくださるのです。・・・教会員の方で、ある大きな試練に合われて、いまもその苦しみの中に生きておられる、わたしたちの兄弟姉妹の一人の方が、このあいだ、地区集会の席でいわれました。自分一人でこの十字架を背負っていると考えたらほんとうに耐えられない、しんどいけれども、この十字架をイエスさまが共に背負ってくださっている、と思えるから、がんばれるんです。・・・そのお言葉を聴きながら、こちらがまた励まされる、いやされる思いがいたしました。

 わたしたちの人生にふりかかる、一番つらいこと、一番悲しいこと、苦しいこと、それが聖書のいう十字架、ということです。その十字架を、わたしはあなたがたといつもともにいるそのために、背負っている。背負い続けている。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」コリント一の1章22節に出てきます、パウロが言った有名な言葉ですけれども、「十字架につけられたキリスト」この言葉を、ある先生は、十字架につけられたままのキリストと訳すべきだ、と言っておられます。十字架につけられたままのキリスト、ずっと、わたしたちのために十字架を背負ってくださっているキリスト、わたしたちが苦しいとき、つらいとき、いつも共にいてくださるために、そのことを耐え忍んでくださっているキリスト、このキリストに出会うことが、救いであり、いやしであり、復活なのです。イエスさまはそのことを、ここで弟子たちに伝えてくださったのです。

 イエス・キリストはまさに十字架の苦しみを通して、わたしたちの救い主となってくださいました。そのことの深い意味も、自分の苦しみを通してこそ見えてくるのです。そのようにして学び知った神の愛こそ、わたしたちをまことに生かす糧となっていくのです。

 ただし、今日のルカ福音書の最後のところに次のようにありました。45節です。「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」

 弟子たちは、その言葉が分からなかった。その言葉とは、イエスさまが引き渡される、ということ、つまりイエスさまの十字架の死のことです。そのことがどういうことか、なんのことかこのときの弟子たち分りませんでした。そして、聖書は、一方では、その言葉、十字架のことが理解できないように、まだこのときには弟子たちは隠されていた、といい、また他方では、弟子たちには、イエスさまの言われたことが、ただただ怖くて、それ以上、イエスさまにそれはどういうことか、と尋ねることができなかった、といいます。

 さきほど申しましたように、イエスさまの十字架がしっかりと見えていること、それが、わたしたちの本当の意味での救いであり、いやしであります。けれども、そのことはやはり弱いわたしたちには、隠されてしまう、見えなくなってしまうのです。それは、ペトロが山上で栄光に輝くイエスさまをみて感動したように、わたしたちもまた、やはりそのような力強い、かっこよい、救い主としてイエス・キリストを想像してしまうことによって、そうなってしまうことがありますし、また自分の人生にふりかかってきた悲しみや苦しみに向き合うことができない、そのようなわたしたちの恐れから、そうなってしまうこともあるでしょう。・・・いまこうしてこの礼拝の中では、イエスさまの十字架がはっきりと見えていても、わたしたちは、また礼拝を終えてそれぞれの生活の場に戻っていくとき、この世の忙しなさの中で、また人生の思い煩いの中で、イエスさまの十字架が見えてなくなってしまうのです。

 しかし、ある意味で、聖書は、それでいいのだ、と語っているのではないでしょうか。それぞれの生活の中で、わたしたちはイエスさまがわたしたちのために背負ってくださった十字架のその大切な意味を見失ってしまう、それが隠れてしまう。けれども、まさにそのようなわたしたちのために、イエスさまは耐え忍んでくださっている、十字架につけられたままのキリストでいてくださっている。・・・こうして繰り返し十字架の前に招かれ、礼拝において、聖書の御言葉を聞いて、ああそうであった、と思い起こしつつ、わたしたちは、イエスさまの忍耐とゆるしにただただ感謝する者とされ、そしてそのイエスさまの十字架にいやされ、力づけられつつ、そのようなイエスさまの救いの場へ、一人でも多くの人を招くことができるようにと祈り願い、行動する者とならせていただくのです。思えば、あの新島襄も、最後のとき枕元で、弟子に聖書を読んでもらったのでした。新島襄もまた、わたしたちと変わらない、一人も弱い、罪深い人間にすぎなかったのです。けれども、彼は、聖書の言葉に、イエス・キリストに繰り返し立ち返っていた、そこに彼の力の秘密があったのではないでしょうか。わたしたちもそうです。こうして主の招きにこたえて礼拝に出て、御言葉を聴く。そのときはじめて、わたしたちには、十字架が見えてまいります。そして、わたしのために十字架を背負ってくださったイエスさまの深い愛に打たれて、いやされ、人をゆるし、愛するものへと、変えられていくのです。祈りましょう。

 主なる神さま、あなたがわたしたちのために背負ってくださった十字架、その十字架のみ苦しみを見つめるところに、わたしたちのまことのいやしがあり、力がある、そのことを深く心に刻むものとならせてください。しかしまた弱いわたしたちは繰り返しそのことを忘れてしまう罪深いものであります。主よどうか、あなたの十字架を繰り返し見つめることができますように、御言葉に前にわたしたちを繰り返しまねいてください。主の御名によって祈ります。アーメン

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降誕節第4主日礼拝 

2017年1月15日(日)ルカ福音書9章28―36節
「栄光はどこにあるか」三ツ本武仁牧師

 私たちは昨年の暮れ、クリスマス礼拝において、私たちの救い主イエス・キリストの降誕を祝い、喜びました。12月25日に、毎年、世界中の教会で、私たちはそのようにして本当のクリスマスを祝っています。しかし、イエスさまが地上の生涯を送っておられたときは、当然ながら、まだそのようなことは行われていなかったわけです。つまり、イエスさまがキリストである、救い主である、ということはまだ世界には認められていませんでした。イエスさまと出会った多くの人々はむしろ、この人はいったい何者だろうかと問い、疑問に思ったのです。その疑問を抱いた者の一人としてあのヘロデがおり、そして誰よりもそのような疑問の中に置かれたのが、イエスさまの一番近くにいた弟子たちであったわけです。

 弟子たちは、一切を捨ててイエスさまに従ってきたくらいですから、イエスさまの大きな力を知って感動し、すごい人だ、この人についていけば間違いない、と思っていたことでしょう。しかし、イエスさまのことを、この時点で、聖書が告白しているように、神の独り子、救い主であられるとほんとうに分かっていたか、というと、そうではなかったのであります。むしろ、あぶなっかしい信仰のままイエスさまにつき従っていた、というのが実情であろうと思います。ただただいったいこの方はどなたなのだろう?と イエスさまの癒しの業や、悪霊を追い出される力や、また自分たちや人々を救ってくださった、そのような御業を体験させていただきながら、ただただ不思議に思い、疑問に思いながらイエスさまについてきたのです。

 そのような中で、先週の読んだ9章18節以下で、イエスさまのほうから弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いが投げかけられたのです。
 わたしたちが信仰者になっていく上で、この体験は決定的に重要なことであります。イエスとは何者か、いろいろな人にも聞き、本を読み、なるほどと考えたりしている、そのように思い巡らしている間は、わたしたちはまだ本当の意味では信仰者に、クリスチャンにはなれないのです。そのようなイエス。キリストへの近づき方は、イエス・キリストについて考察し思想し研究することに過ぎないからです。そのようなことはある意味では大切なことですけれども、考察や思想や研究と信仰とは全く違うのです。その根本的な違いは何かと申しますと、考察や思想や研究の主人はあくまでも自分自身です。これに対して信仰の主人は、イエスさまご自身なのです。私たちの信仰は「あなたはわたしを何者だと言うのか」というイエスさまからの問いを受けることによって、そこに与えられていくのです。

 このイエスさまからの問いかけに、弟子たちを代表してペトロが「神からのメシアです」と答えました。イエスさま、あなたこそ、神さまが遣わしてくださった救い主キリストです、とペトロは信仰を告白したのです。ただし、このことの背後には、イエス様ご自身のとりなしの祈りがあったのだ、ということを先週お話いたしました。そしてこの告白は確かに正しい告白ではありましたけれども、それでもまだ弟子たちはほんとうにはイエスさまがキリストであることを十分にわかっているわけではなかった、どのようなことゆえにイエスさまがわたしたちの救い主であるのか、ということはまだこの時の弟子たちには見えていなかった、そういうことも先週お話させていただいたかと思います。

 イエスさまは御自分がどのようにして救い主としての働きをされるのかを語られました。それが前回の22節のところです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆる受難予告です。これは、イエスさまこそ救い主ですキリストですとの告白へと導かれたペトロをはじめとした弟子たちには、まったく信じられないことでした。それだけではありません。驚く弟子たちに、さらに驚くべきこと、理解しがたいことをイエスさまは語られたのです。23節です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」・・・イエスが救い主キリストであるなら、そのイエスに従っていく歩みは、連戦連勝の輝かしい歩みのはずだ、それが当時の弟子たちの思いであったでしょうし、またそれは私たちの思いでもあるのではないでしょうか。なぜその対象を信じるのか、それはそれによって生活安定が得られ、名誉や栄光のある人生を送れると思うからではないでしょうか。けれどもイエスさまは、私に従う者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってついて来なければならない、とおっしゃったのです。・・・

 これが先週までの聖書の流れであります。今日のところはその続きで、内容的にも深くつながっています。この日イエスさまは、ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブの三人の弟子をつれて山に登られました。そしてそこで彼らは、イエスさまのお姿が尋常ならぬ変化をとげられるのを目の当たりにするのです。「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」といいます。32節を見ますとそのことを「栄光に輝くイエス」と表現されています。イエスさまが神さまの栄光に輝いている、そのことが弟子たちにもはっきりとわかったのです。

 いささか俗なたとえで恐縮なのですけれども、某テレビ番組で、鑑定士たちが、その家の家宝を鑑定して、どれくらいの価値があるものかを、発表する、というものがあります。それで、すごい価値があると思っていたものが、たいした価値がないものであったり、たいしたものではない、と思っていたものが、とてつもなく高価なものであった、ということがわかって、本人も驚く、といった内容の番組なわけですけれども、・・・弟子たちは、イエスさまが、本物かどうか、正直わからない、半信半疑、その価値をどこかで疑っていたわけです。しかし、ここで、まさに鑑定士によって、本物どころか、自分たちが思っていた以上にすばらしい方であることが、はっきりと判明した、そのような体験をしたのです。

 じっさいイエスさまの、そのような栄光ある真実のお姿は、ずっと隠されていました。あのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになってから、十字架につけられて殺さるまで、イエスさまの地上での生涯においては基本的に、本来のイエスさまの栄光のお姿は隠されたままであったのです。宗教画は、イエス・キリストの降誕の時の様子や、その生涯の場面場面で、イエスさまを、どこか輝いた姿で描いていますけれども、それは後世の、その作者の信仰がそこに反映されているからであって、じっさいのイエスさまは、わたしたちと変わらない一人の人間の姿でありました。ですからその意味では、弟子たちがイエスさまのことをずっと
半信半疑であったのも仕方がないといえば仕方のないことであったわけです。けれども、今日のところで、彼らには、本当のイエスさまの姿が示されたのです。神の独り子であり救い主である、栄光に満ちたイエス・キリストの輝かしい姿を、彼らは垣間見ることができたのです。

 モーセとエリヤが現れた、というのは、さきほどの鑑定士ではありませんけれども、まさにしく、イエスさまの輝きが本物の輝きであることを証明するものでした。モーセは言うまでもなくあの出エジプトの指導者です。そしてこのモーセは、あの十戒を神から授かった人物として「十戒」に代表される神さまの掟、律法を代表する人物でありました。他方でエリヤは、預言者として、イスラエルの民が、神さまから心離れ、律法に従わなくなった時代に、人々を神さまに立ち返って生きるようにと導いた人でした。旧約聖書には、救い主が現れるとき、まずそれに先立って神さまはエリヤを再び遣わされる、との預言もなされています。ですから、エリヤは預言者を代表する人物なのです。・・・聖書というのは、その全体で、神さまの救いの歴史を語るものです。それは律法にはじまって、預言の時代を経て、そして救い主の到来に至る歴史であります。そのあとはさらに聖霊の時代、つまり教会の時代を経て、キリストの再臨へとつながっていくのですけれども、いまここで何が行われているのか、というと、まさにその聖書の救いの歴史が、モーセ、エリヤの時代を経て、ついにイエス・キリストに結ばれたのだ、という、そういう神さまのご計画が、弟子たちにはっきりと示された、ということなのです。
 
 31節には「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。
 ここには、私たちにとって大切な二つのことが示されています。まず一つは、イエスさまがエルサレムで遂げられる最期こそ、神の救いの歴史の中心なのだ、ということです。イエスさまが遂げようとしておられる「最期」と聞きますと、イエスさまのあの十字架の死のことを指しているように思われますけれども、ここで「最期」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「エクソドス」といいます。英語で出口のことをExsit エクシットといいますけれども、エクソドスはその語源なのです。「外への道、外へ出ること」というのがその本来の意味です。この同じ言葉は旧約聖書のある書物のタイトルになっています。「出エジプト記」です。出エジプトでは、エジプトからの脱出がテーマでありました。イエスさまはエルサレムで、そのようなエクソドスを成し遂げられた、というのが、ここでいうイエスさまが成し遂げられた最期なのです。それはどういうことでしょうか。それは、イエスさまの十字架の死と復活の御業を通して、わたしたち人間を罪の奴隷状態から解放し、そこから救い出し、神のもとに生きるまことの自由の中に生きるものとしてくださった、ということです。実にそれこそが、罪に落ちた人間を救うための神さまの御計画の最終目的であったわけです。モーセからエリヤの時代を経て、ついにその時が来た。そのことを「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」という言葉は示しているのです。

 それからもう一つは、弟子たちはここで栄光に輝くイエスさまの姿を垣間見ることができたわけですけれども、そのようなイエスさまの栄光に輝くお姿は、本来はどこで見るべきものであるのか、それはこれからイエスさまがエルサレムで遂げられるその最期、つまりその十字架の死と復活という御業を通して見なければならない、ということです。そのことを抜きにして、イエスさまの栄光の姿を見ようとする、それが弱いわたしたちの願望であるわけですけれども、イエスさまの栄光は、十字架の死と復活、その御業を見つめることにおいて、わたしたちに垣間見ることがゆるされていることなのだ、ということです。

 このことは、ですから、先週のところで、ペトロが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とお語りになったこととつながっているわけです。イエスさまが神のキリスト、救い主として栄光に輝くお方であることは、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださる、そのことにおいてこそ現れる、ということです。

 そのようにして、ペトロたちは、イエスさまが、モーセとエリヤと語り合い、神の栄光に輝いているお姿を見せていただきました。と、モーセとエリヤがイエスさまと話を終えて、そこから離れていこうとするのが見えました。ペトロは慌てます。そして「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。それは「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とありますけれども、しかし、ペトロがどのような思いになっていたかは、その言葉から察することができます。ペトロは、この栄光に輝くイエスさまのお姿、しかも偉大なモーセとエリヤがともにイエスさまといてくださっている、このすばらしい瞬間をずっと留めておきたかったのです。自分たちの先生は、モーセとエリヤのお墨付きの先生なのだ、その証拠をぜひ残しておきたい、そのような思いがペトロにはあったのだと思うのです。

 そのようなペトロの言動は、ある意味で、とても人間的で、大変よくわかるような気がするのです。わたしたちも、だれか著名な人のサインを求めたり、その人と会ったことを写真に残したりするじゃないですか。歴史的に有名な場所に行きたがるじゃないですか。そうしてそういう体験をした人がやっぱり羨ましいじゃないですか。ですからペトロの言動は決して笑えない、まさにわたしたちもペトロのようなことをしょっちゅうしているし、そういう思いをしょっちゅう抱いているのです。

 しかしそこで34節ですけれども、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中から包まれていくので、弟子たちは恐れた」ということになります。栄光に輝く三人の姿を雲が覆い隠してしまった。雲あるいはガスに覆われてしまう体験というのは皆様あるでしょうか。わたしは山形にいたころ、家族で、蔵王にあるお釜というカルデラ湖を見に行ったとき、ものすごい霧に覆われてしまって、結局その湖が見えなかった、という経験があります。まさに一寸先も見えない、場合によっては大変危険な状態になります。・・・そのように雲に霧に覆われてしまう状況は、聖書では、神さまが人と出会われるときの現象として、しばしば語られています。・・・じっさいこの後、神さまの声をペトロは雲の中から聴くことになるのです。ただし今日のところでは、この雲そのものにも、ペトロの思いに対する神さまからの暗黙の答えが示されていたと思うのです。今日のこの出来事は特別な出来事なのだよ、いつもどこでも誰にでも与えられるものではないのだ、神さまは、やがて弟子たちが、イエスさまの十字架の出来事の中にこそ、主に栄光を見ることができる日がくることを願いつつ、この時のこの出来事を雲で覆われたのではないでしょうか? 

 雲の中からペトロは神のみ声を聞きました「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け。」そして、その声がしたと思うと、そこにはイエスさまだけがおられました。これに聞け、とはどういうことでしょうか? それはイエス・キリストの言葉を聞け、ということです。イエス・キリストの御言葉を聞きつつ歩むこと、その御言葉に耳を傾け、従っていくこと、その中でこそ、私たちは栄光に輝く、まことの神であるイエスさまの本当のお姿と出会うことができるのです。イエスさまは十字架の道を歩んでいかれました。そのイエスさまの御言葉に聞き従うということは、十字架の道に従うということです。自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従っていく、ということです。それは一見困難に見える歩みです。でもその中でこそ、この世のものには代えることのできない、喜びと平安を私たちは経験させていただくのです。あなたの背負われた十字架に比べたら、わたしの十字架などなにものでしょう。と歌った人がいます。まさにそのようなかたちで十字架を軽くしていただきながら、わたしたちはまことの栄光の道を、本当の意味で光輝く道を歩んでいくことがゆるされるのです。祈りましょう。

 疲れたもの、重荷を負うものは誰でもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう 主なる神さま、わたしたちは、はっきりとした救いの保証がほしくて、あなたに何度もそのことを願ってきましたけども、あなたの御子が、わたしたちの罪のすべてを背負って十字架の道を歩んでくださった、その歩みの中にこそ、あなたの栄光があること、十字架を背負う、その静かな、隠された歩みの中に、わたしたちの命があることを、見るもの、見続けるものとなれますように、わたしたちを聖霊でみたし、まもり、導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン















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降誕節第3主日礼拝 

2017年1月8日(日)ルカ福音書 9章18―27節
「イエスは私たちの救い主」三ツ本武仁牧師

 先週は元旦礼拝において、私たちがイエスさまの弟子として、イエスさまに従いゆく、その中でこそ、イエスさまが何者であるか、そのことを深く示されていく、従いゆくことのないイエスさまへの関わり方、関心においては決してイエスさまと本当には出会うことができない、だから、新しい年を迎えて、私たちは教会としてこの年を、何よりもイエスさまに従いゆく年にしましょう、とそのようなことを語らせていただきました。

 イエスは何者であるのか、この私たちの問いは、誰もが一度は抱く問いであります。それはたとえば祈りを通して、イエスさまにあなたはどなたですか、と問うということもあるでしょうし、あるいはイエス・キリストのことをこうして語り伝えている教会の牧師や信仰の諸先輩方に、そのことを問うということもあるでしょうし、あるいは様々な書物に学ぶことを通して、そのことを問う、問いはじめるのだと思います。
イエスとはどういう人か、イエスのこの教えはどういう意味か、この御業はどういうことか、・・・世界宗教の1つとしていまなお大きな影響力をもつ、キリスト教の創始者と目される、イエスという人物に、そのように関心をよせることは、ある意味で、この世に生まれたものとしては健全な、思いであるといえるのではないか、と思います。けれども、そのように私たちが問うているとき、イエスさまは、あくまでもイエスという一人の人物として私たちの観察の対象となっています、よくいえば、人類の歴史に偉大な足跡を残した一人の偉人の一人に過ぎないものとなってしまっているのです。

 もちろんはじめはそれでよいのであり、またそれ以外の方法は私たちにないわけですけれども、しかし、やがてある時に、これも信仰者として歩み始めた誰もが経験することですが、イエスが神である以上、その、まことの神であるイエスご自身から、私たちに問いかけてこられる、そのことを私たちは経験することになるのです。私たちがイエスさまに向かって「あなたはどなたですか?」と問うのではなく、反対に、イエスさまのほうから「あなたは私のことをどう思うのか」と問うてこられる、そのような経験をするのです。イエスさまからのこの問いに出会うことが、信仰の大きな一歩だということがいえるでしょう。今日のところでは、弟子たちがまさにそのような問いの前に立たされることになったことが語られているのです。

 イエスさまはただし、彼らにその問いを向けるに先立って、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。あなたたちの周囲の人々、世間の人々はイエスさまのことをどう言っているのか、そのことを問われたのです。弟子たちは、「『洗礼者ヨハネ』だと言っています。ほかに『エリヤだ』という人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』という人もいます」と答えました。先週も見ましたように、じっさいガリラヤではそういう噂が流れていたのであって、ヘロデにもその噂が届いたのです。弟子たちもまたそのような噂がじっさいにあることを、正直にイエスさまに伝えたのです。

 わたしたちであったらどう答えるでしょうか。この時代の日本では洗礼者ヨハネという名前も、エリヤという名前も、世間一般の人はほとんど知らないでしょう。ですから、イエス・キリストやキリスト教のことは知っていても、そのイエスを「洗礼者ヨハネ」や「エリヤ」だという人はまずいないでしょう。
・・・わたしが経験した中で圧倒的に多いのは、好意的な意見では、やはり偉大な人間だ、ということです。イスラム教がある意味ではその立場ですけれども、人間として立派なことをした人だという好意的な評価であります。しかし神ではない、というのです。神ではない、ということは、つまり信仰の対象ではない、自分がその身をすべてゆだねてよいような対象ではない、ということです。イエス・キリストのことを、どう思うにせよ、神ではない、信仰の対象ではない、と見なす点では、世間の評価、他の宗教のイエスさまへ評価は、どれも同じではないでしょうか。

 洗礼者ヨハネと思おうと、立派な偉い人だと思おうと同じです。それは根本的には、イエスさまは私たちの観察でき研究できる対象にすぎないとみなしている、ということです。そしてそのようにしてイエスさまを人間にすぎないと見なしている限り、イエスさまが何者であるかは、本当には知ることができないのです。けれども弟子たちは、イエスさまに従いゆくなかで、イエスさまのほうから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」との問いかけを受けたのです。イエスさまとの何者かが私たちに本当にわかるのは、このように私たちからではなく、イエスさまのほうから、私たちに問いかけてこられるところにおいてなのです。

 それからもう一つ、イエスさまが「群衆は、わたしのことを何者だと言っているのか」と問われた上で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」とお問いになられた、そこには、わたしたちを、イエスさまが、わたしたちを一対一の関係へと導こうとされている、ということがいえるでしょう。人がどうこうではない、世間がどうこうではない、あなた自身はどうなのか、そのことがイエスさまとの関係では大切になってくるのです。

 しかし、また他方で、イエスさまがここで「あなたは」ではなくて、「あなたがたは」「わたしを何者だと言うか」と、あなたがた、という問われた方をしたことも忘れてはなりません。確かにイエスさまへの信仰は、イエスさまとわたし、という関係が大切になります。ペトロもその意味で、このあと一人でイエスさまに答えていきます。しかしイエスさまのこの問いかけは、弟子たち、つまりイエスさまに従って歩んでいる教会の群れに向けて語られているのです。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」このイエスさまの問いかけは、教会に集い、礼拝を守り、御言葉を聞きつつ歩んでいる人々、まさにいまここに集うわたしたちに向けて語られた言葉なのです。

 さてペトロは、そのような信仰の仲間を代表して、イエスさまに対し、「あなたは神からのメシアです」と答えました。メシアという言葉は原文ではクリストスという言葉になっています、このクリストスを日本語でそのまま表した言葉が、キリストという言葉です。キリストは救い主という意味であります。ペトロは、イエスさまのことを「あなたはキリストです。救い主です。」とその信仰を告白したのです。あなたをキリストだと信じます、と答えたのです。イエスさま、あなたは、この天地万物の造り主なる神ご自身であって、わたしたち人間の救いのためにこの世に来てくださった救い主です。ペトロはそう答えのです。・・・この信仰告白こそ、キリスト教会の根本です。わたしたちの拠り所なのです。教会においてその入会の儀式として授けられる、キリストの洗礼の恵み、永遠の命の約束も、この信仰告白の上に行われるところに、本当の意味をなしていくのです。

 このペトロの信仰告白の記事を読む上で、見落としてはならない大切なことが、最初の18節で語られています。18節をもう一度読んでみましょう。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは『群衆は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」・・・ここには、イエスさまが一人で祈っておられ、その傍に弟子たちが共にいた、ということが語られています。なぜわざわざこんなことがここに語られているのでしょうか。それは、イエスさまがここで、ペトロの信仰を問うそのことに先立って、そのペトロを含めた、弟子たちのことを覚えて、彼らのために、彼らの信仰のためにとりなしの祈りをささげていてくださっていた、ということなのです。私たちにおいてもそれは同じことです。「あなたはわたしを何者だと言うのか」というイエスさまの問いかけの背後には、イエスさまご自身のわたしたちのための祈りが、とりなしが、愛があるのです。イエスさまご自身がわたしたちを、あなたこそキリスト、救い主です、という信仰告白へと導いて下さっているのです。
 
 ペトロの信仰告白はそのようにイエスさまの祈りに支えられてなされました。そのようになされた信仰告白であったわけですけれども、今日の後半の21節には、イエスさまだ弟子たちに「このことはだれにも話さないように」とお命じになったことが語られています。そして続く22節には「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆるイエスさまのご受難の予告が語られています。

 イエスさまは、ペトロの信仰告白のあと、それを人には話さないようにと言われ、ご自身の受難の予告をされました、これはいったいどういうことなのでしょうか。・・・イエスさまのことをキリストです、救い主ですと告白する、それは正しい答えでした。けれども、ではどういう理由で、イエスさまはキリストなのでしょうか。そのことが実はまだこのときのペトロ、そして他の弟子たちには十分に分かってはいなかったのです。イエスさまはどういうことによって、わたしたちの救い主なのでしょうか。超自然的な力によってそうなのでしょうか。英雄的な働きによってそうなのでしょうか。ある意味ではそれは正しい答えですけれども、ある意味ではそれは間違っているのです。

 イエスさまは、私たちのために、多くの苦しみを受け、人々から排斥されて殺されたのです。それは、わたしたちの罪を背負って、イエスさまが死んでくださったということなのです。そして、しかしイエスさまは三日目に復活するのです、わたしたちの命がイエスさまの命を通して、復活の命、永遠の命へと導かれたこと、そのことを神さまは、イエスさまの十字架の死と復活という御業によって示してくださったのです。・・・イエスさまがキリストである、救い主であると、ほんとうの意味でわかる、ということはこのことがわかる、ということです。・・・このことを抜きにして、イエスさまは救い主です、とその信仰を告白することも、ほんとうにはイエスさまに出会うことができない、のです。

 わたしたちのために十字架に死なれたイエス、そしてその業を通して、わたしたちを復活の命にあずからせてくださるために復活されたイエス、このイエスさまこそがキリストなるイエス、イエス・キリストなのです。

 そして23節でイエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。イエスさまご自身から「あなたはわたしを何者だと言うか」と問われ、「あなたこそ神からのメシア、キリスト、救い主です」と告白した者は、その救い主イエスに従って、その後について行く者になる、ということです。イエスさまは多くの苦しみを受け、排斥され、殺されることによって救い主として歩まれました。ですからそのイエスさまに出会いそのイエスさまを知った私たちは、イエスさまに従って、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従っていくのです。

 いや、それは無理だ、大変なことだ、そんなことはとてもできない、そのように私たちは思ってしまいます。けれども続く24節で、イエスさまは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われました。・・・つまり、自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくことは、ほんとうの意味で自分の命を救うことになるのです。なぜならば、そのようにして主に従って歩むところでこそ、私たちのすべての罪を引き受けて多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして三日目に復活して下さった救い主と出会い、その救い主が私たちを憐れみ愛してくださって、私たちのためにとりなしの祈りを捧げてくださっていることを知ることができるからです。先週も申しましたように、主イエスに従ってゆくことの中でこそ私たちは、主イエスが何者であるかを知ることができるのです。そして主イエスが何者であるかを知ることによって、ほんとうの意味で私たちは、新しく生き始めることができるのです。その新しい命、復活の命に目覚めて生きること、それが私たちの救いであり、喜びであり、一番大切なことなのです。

 27節には「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とあります。あなたがたの中には、生きている間に神の国を見ることができる者がいる、とイエスさまはいわれるのです。この言葉は、多くの場合、イエスさまの再臨の時を体験する者がいる、という意味だと受け止められていますけれども、必ずしもそのように受け止めなければならないわけではありません。・・・私たちはみな誰でも、生きて神の国を見ることができるのです。私たちが自分の思いを実現することによって命を得ようとするのではなく、そのような自分を捨てて、日々自分の十字架を背負って、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスに従って生きる中で、私たちは、主イエスの十字架と復活によって実現している神さまの恵みと愛のご支配という神の国を、確かに見るのです。先日しばらく教会をおやすみされているある方からお手紙をいただきましたが、そこには、昨年が予期せぬ苦難の年であったということ、けれども教会からのクリスマスカードの皆様のおはげましに救われ、折れそうだった心が少し元気になりましたとのお言葉がございました。まさに自分の十字架に苦しみつつ、それを背負って歩んでいかれている人の姿がそこにあるということを思わされ、こちらのほうが励まされる思いでありました。

 「あなたは私を何者だと言うか」イエスさまは、そのように私たちに問いかけることによって、「あなたこそ神からのメシア」キリスト、救い主です、という信仰告白へと私たちを導き、自分の十字架を背負って、主に従いゆく者としてくださいます。そしてそのようなわたしたちを、主は、み言葉によって常に養い、育み、私たちを、神の国を仰ぎ見て、揺るぎない希望と喜びに生きる者へと導いてくださっているのです。祈りましょう。

  「あなたはわたしを何者だと言うのか」主よ、あなたは、神からのメシア、私たちの救い主、キリストです、わたしたちのために十字架にかかり、命をささげて、わたしたちをまことの命へとすくい上げてくださった、救い主です。主よ、どうかわたしたちが、このまことの命の道を心から知って、もっとも大きな十字架を背負われたあなたのみあとを、自分に与えられた十字架を日々背負いつつ、歩んでいくものとならせてください。そこに命があり、そこに神の愛のご支配を見ることのできる喜びがあることを信じることのできるものへ、復活の命に生きるものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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元旦礼拝(降誕節第2主日礼拝) 

2017年1月1日(日)ルカ福音書9章7―17節
「主イエスに従いゆく年として」三ツ本武仁牧師

 主の年2017年を迎えました。先週は12月25日のクリスマスの日が日曜日で、 大阪女学院のハンドベル部のみなさんも参加してくださって盛大なクリスマス礼拝をもつことができました。祝会のあと、片付けが終わって、顧問のS先生とわたしが最期にこの礼拝堂に残ったんですけれども、S先生いわく、この日の演奏がいままで一番良かったのだそうです。高校三年生にとっては最期の演奏だとおっしゃっていましたから、その最期の演奏となった香里教会で一番よい演奏ができた、というのは、こちらとして大変光栄なうれしいいことでした。

 そのクリスマスを経て、今日2017年の最初の日曜日も一月一日で、こうして礼拝から新しい年を始めることができています。日本ではまだあまり馴染みがないですけれども、クリスマスというのはじつは12月25日から、週報に書いてありますように、公現日と呼ばれる1月6日までの十二日間をいいます。年をまたいでクリスマスなのです。ですからメリークリスマス、アンドハッピーニューイヤーというわけです。

 けれども、日本ではまだ馴染みがないと申しましたように、わたしたちはやはりお正月、元旦、というのもまた特別に大切にしたい心情がどうしてもあります。今日のこの日、元旦はやはりわたしたちにとって大きな節目であります。昔から一年の計は元旦にあり、と申しますように、この新しい年のはじめに、よし今年はこれこれのことをしよう、これこれに挑戦してみよう、こういうふうに生きてみよう、と考え、計画を立てている人もいるのではないでしょうか。かうゆうわたしも、昨年は実は年のはじめに「なるべく歩く」という地味な目標をたてて、なんとか最期まで、実行できたように思います。今年はまだ決めていないのですけれども、やはり何か一年の目標、計画を立ててみたいと考えています。

 しかしまた私たちは、こうして主の教会につながるクリスチャンであります。クリスチャンとして教会として、私たちはどのような抱負を抱き、どのような計画をもってこの新しい一年を迎えるべきなのでしょうか。そのことを問いつつ、この朝与えられました聖書の御言葉にともに耳を傾けてみたいと思うのです。

 私たちは昨年からルカによる福音書を読みすすめていますけれども、イエスさまのガリラヤでの伝道が活発に行われていき、その噂がガリラヤ中に広まっていったことが、これまでのところには語られていたと思います。今日のところは、そのイエスさまの噂が当時のガリラヤの領主であったヘロデの耳にも入ったことから語られています。ヘロデはイエスさまの噂を聴いて戸惑ったのです。なぜヘロデは戸惑ったのでしょうか。

人々はイエスさまのことを、『ヨハネが死者の中から生き返った』と噂したり、『エリヤが現れたのだ』と噂をしたり、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』とも噂していたといいます。
 
 ヨハネというのはあの洗礼者ヨハネのことです。そのヨハネをヘロデは牢屋に閉じ込めた、ということがこのルカ福音書では3章の19節で語られていました。ヨハネが自分の罪を指摘して批判したので、ヘロデはそれに怒ってヨハネを捕らえたのでした。その後ヨハネは無残にもヘロデに殺されてしまったのです。イエスさまはそのヨハネの生き返りだとの噂が流れたのです。それからイエスさまは「エリヤの再来だ」という噂も流れたようです。エリヤについて知るためには旧約聖書の学びが必要になりますけれども、彼はイスラエルの誰もが尊敬する偉大な預言者の一人であります。昔のそのような預言者の生き返りがイエスさまだというのです。

 ヘロデは、しかしそのような噂を鵜呑みにするような人物ではありませんでした。その意味でヘロデは極めて冷静な現実主義者です。ただヘロデは、9節ですが、「ヨハネなら、わらしが首をはねた」と言ったあと、彼は「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」と言って、「イエスに会ってみたいと思った」のです。ヘロデの戸惑いの理由はここにあります。ヘロデは自分が殺したヨハネが生き返って、自分に復讐しに来たのだろうか、と思って戸惑ったのではありません。そうではなく、そのような噂になるほどのイエスという男はいったい何者なのだろうか、「イエスとは何者か」それが知りたい、そういう思いを強く抱いている自分がいる、そういう自分自身に戸惑ったのです。そしてイエスさまに会ってみたいと彼は強く思ったのです。

 そのような思い、イエスとは何者か知りたい、という思いは、ある意味で世界中の誰もが一度は抱く思いなのではないでしょうか。なかでも、こうして信仰を求め、礼拝に集い、聖書の言葉を学び、人生の糧としたいと願っているわたしたちにとって、それは必ず通る道だということができるかと思います。

 ここで語られているヘロデのそのような問いと願い、イエスさまが何者であるか知りたい、イエスさまと出会いたい、という問いと願いは、実は私たちすべての者の問いと願いなのです。ヘロデがヨハネを暴力的な仕方で殺した、ということで、私たちはヘロデに悪いイメージしかもてないわけですけれども、しかし、ここで語られているヘロデの思いは、ある意味では私たちすべての人間の正直な思いなのです。

 ではそのようなヘロデの問いと願い、すなわち私たちの問いと願いに、イエスさまにどのように答えてくださるのでしょうか。そのことが今日の10節以下で語られていることなのです。

 10節以下には、イエスさまがなさった有名な奇跡が語られています。イエスさまが、男さけで五千人という、ですから女性や子どもたちを合わせればもっとたくさんの人々を、五つのパンと二匹の魚で満腹になさった、という奇跡です。イエスさまによってそのような驚くべき奇跡が行われたのです。しかし、この奇跡の最大の特徴は、それがイエスさまから直積に群衆に行われたのではなくて、弟子たちの手を通して、また弟子たちの持っていた僅かなパンと魚を用いて行われた、ということです。五つのパンと二匹の魚、それがいったい五千人以上の人々の何の役に立つというのでしょうか? ほんのわずかの腹の足しにもならない。イブ賛美礼拝でお話しました、チリの鉱山の崩落事故で閉じ込められた33人の場合よりももっとひどい、一人分は米粒にもならないほどだといえるでしょう。何の役にも立たない、それが弟子たちのもっているものです。五つのパンと2匹の魚とはそういうことです。しかし、イエスさまはこのことを確認した上で、その「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」のです。そうしますと「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」というのです。さきほども申しましたように、この奇跡は、弟子たちの手を通して、弟子たちの持っていたものを用いて行われました。全ては弟子たちを通して行われたのです。

 この五千人の奇跡こそは最初に申しました「イエスとは何者か」というわたしたちの問いの答えなのです。「イエスとは何者か」この問いは、イエスさまに関わりを持てば持つほどに深まっていきます。弟子たちは、イエスさまと出会い、イエスさまに従う者となり、いまイエスさまと共に歩んでいるわけです。そしてイエスさまによって遣わされて、その御業にために用いられるというすばらしい体験もしました。そのような中で彼らこそは「イエスさまとはいったい何者なのだろうか」という問いを深めていった者たちなのです。

 イエスさまのすばらしい業を見、その恵みを体験するにつれて「イエスさまとは何者か」という問いが深まっていく、いや、もっと正確にいうならば、そのことが問われていくのです。わたしたちはイエスさまとの関わりが深まっていくほどに、むしろイエスさまのほうから「あなたは、わたしを何者だと思うのか」とより深く問われていくのです。そのことは次回の聖書箇所で、ペトロがイエスさまへの信仰告白をする、その場面でさらに深く見ていくことになります。

 ともあれ今日のところで弟子たちは、イエスさまが自分たちをも含めた、青草の上の多くの人々、五千人以上もの人々の空腹を満たし、その命を養い育んでくださる方であることを、弱い小さな自分たちを用いられつつ、圧倒的なかたちで体験しました。本日、ともに交読しました詩篇は23編でした。主の神さまは、わたしの羊飼いであって、わたしを青草の原に休ませて、憩いの水のほとりに導いてくださり、魂を生き返らせてくださる、と詩篇は歌っていました。またそのまことの羊飼いなる主は、わたしが苦しい時であっても、わたしのために食卓を整えてくださり、わたしを豊かに養ってくださる、とも歌っていました。弟子たちはまさに、イエスさまを通して、この詩篇で歌われていることを体験したのです。

 つまりイエスさまとは何者であるか、イエスさまは、わたしのまことの羊飼いである、そのことを知ったのです。イエスさまはこの奇跡を通して、弟子たちの問いに答えてくださったのです。「わたしは何者であるか、わたしはあなたがたのまことの羊飼いである。あなたがたをいついかなるときも支え守り、豊かに養い、育む救い主なのだ」そのことをイエスさまは示してくださったのです。

 しかもイエスさまはこの奇跡を、弟子たちの持っているものを用いて、また弟子たちを通して行ってくださいました。彼らが持っていたものは、ほんとうに僅かであった、小さなものであったのに、それが、イエスさまが用いて下さることによって、多くの人々を養い、育んでくださる恵みの食卓の材料となったのです。また弟子たち自身も、何の力もない者たちであるにもかかわらず、イエスさまは彼らを、多くの人々を養う恵みの食卓の給仕として用いて下さったのです。

 ・・・私たちもこの弟子たちと同じなのです。イエスさまに従い、イエスさまと共に歩み、イエスさまに仕えていく、つまりイエスさまの弟子として歩んでいく、その中でこそ、私たちは恵みに満ちたイエスさまのお姿と出会うことが許されるのです。そのようにして「イエスさまとは何者であるのか」そのことの答えを示されていくのです。あのヘロデは、結局最後までイエスさまとは何者であるか知ることができませんでした。その意味では最後まで、彼は戸惑い続けて生きたのです。このあと、イエスさまがやがて逮捕されていく中で、ヘロデにはイエスさまと出会うチャンスが与えられることになります。けれども、そこで、イエスさまはヘロデには何も答えはくださいませんでした。イエスさまの弟子となって従っていくことのない中では、イエスとは何者か、というその本当の答えは最後まで与えられないのです。

 その意味では、イエスさまに養われたあの五千人の群衆も、同じだということができます。奇跡の体験を味わいながらも、群衆の中にとどまり続け、イエスさまの弟子として一歩を踏み出さないでいる、そのような人々にも最後までイエスさまは謎のままで終わってしまうのです。・・・しかし、そこから私たちが抜け出し、そのような恵みを与えてくださったイエスさまを信じ、イエスさまに従うことを決意し、イエスさまを主人として、その弟子として歩んでいくならば、いよいよ私たちにとってイエス様が何者であるかがはっきりとしていきます。イエスさまによる救いの約束を確かなものとしていくことができるのです。・・・こうして主日ごとに礼拝を守りつつ、イエスさまに従いゆく中で、まことの羊飼いなる主イエスに養われ、育まれ、憩いの水のほとりに伴われ、魂を生き返らせていただきながら、私たちはイエスさまは何者であり、また自分は何者なのかを見出していくのです。

 新しい年、2017年がそのようにして主イエスに従いゆく中で、主の恵み深さを味わい知らされていく喜びと慰めに満ちた一年となりますように、そのことを、私たち香里教会の一年の抱負とし計画としていきたいと願います。祈りましょう。

 主なる神さま、あなたはまことの羊飼いであり、わたしたちはあなたに養われ導かれる羊の群れであります。そのことをこの一年のはじめに深く刻み、険しい山間をいくときも、深い森をさまようときも、あなたが必ず探し出して連れ帰ってくださり、養ってくださる、そのことを信じて、歩むものとならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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