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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

同志社香里中学校ロング礼拝 

同志社香里中学校 ロング礼拝 創世記45章1-8節
「人の計画、神の計画」三ツ本武仁牧師

6月になりました。だいたいこの頃になると、授業にも集中できなくなってくる。5月病と昔から言われていますけれども、大学に入学した人や、会社に入社した人が、自分と考えていたのとは違う、面白くない、新しい環境になじめない、友達ができない。上司がしんどい、なんていって、大学や会社に行かなくなってしまう。さらには、辞めてしまう。そういう人が増えるのがこの頃であります。
 わたしは2年前まで、みなさんと同じキリスト教の学校で、クラス担任をしていていました。そのときに、やっぱりこの5月6月頃、ぷつりと学校に来れなくなってしまう生徒がいました。三者面談をしても、家庭訪問をしても、メールでやりとりしても、だめでした。ほかにもっと方法があったかもしれない、と今さらに反省することもありますけれども、その生徒が辞めることになったときは本当に悲しかったです。
 わたしが教師をする最後の年、高校三年生の担任をしていて、やっぱりこの5月6月頃から学校にあまり来なくなって、推薦で行けたはずの大学もダメになってしまった生徒がいました。いろいろ家庭的な事情で悩みをかかえていた生徒で、キリスト教にも興味を示してくれた生徒でしたけれども、結局わたしのクラスで一人だけ、就職も進学も決まらずに卒業しました。どうしているのかな、今このように牧師をしながらも心のどこかでずっと気にしていました。そしたらほんのこの間、思いがけずその生徒からメールがありました。
 『先生、お久しぶりです。実は去年の5月からずっと、たこ焼き屋でアルバイトをしています。今年の4月からは実質店長のような立場で働いています。正社員の人に比べて給料は少ないし、休みはないけれど、めちゃくちゃ楽しいし、やりがいがあります。いままで心配かけてすみません。おれはすごく元気なので、先生もがんばってください。』
 文化祭で、わたしのクラスがたこ焼き屋の出店をして、この生徒を中心になってひぱってくれたことを懐かしく思い出しました。わたしはこのメールをもらって本当に嬉しかったです。

さきほど読んでいただいた、旧約聖書に出てくるヨセフは、人生の逆境、つらい出来事、しんどい出来事を、あることを受け入れることによって、乗り越えていった人です。

ヨセフはイスラエルの族長の一人ヤコブから生まれた12兄弟の中の11番目の息子でした。どういうわけか父ヤコブが特別に可愛がったこともあって、兄たちはヨセフを妬み、ある日ヨセフを騙して、穴に落とし、通りかかりの商人に売ってしまいます。そして、父のヤコブにはヨセフは獣に食べられしまったと嘘をつくのです。売りとばされたヨセフはエジプトで奴隷にされますが、様々な試練の中を不思議に守られながら、やがてエジプトの宰相の地位にまで登り詰めます。
 長い月日がながれ、やがてエジプトのヨセフの前にイスラエルの兄たちが現れる日が来ます。世界的な飢饉が起こり、イスラエルに食料がなくなったため、遠くエジプトまで食料を買い求めに来たのです。ヨセフはここで兄たちに復讐することもできました。じっさい彼の心は、複雑に揺れ動きます。しかしヨセフは自分の正体を兄たちに明かし、驚く兄たちにこう言ったのです。「わたしが今ここにいるのは、神さまのご計画だったのです。神は兄さんたちや父さんを救うために、わたしを前もってここに遣わしたのです。」「わたしをここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45章8節)
 ヨセフは、兄たちの過去の過ちを忘れたのです。より正しく言えば、ヨセフは過去の出来事を普通の視点とは違う視点から見ました。過去の歴史を変えることはできない、とよくいわれます。確かにそうかもしれません。しかし、現在のわたしたちが、同じ過去を違う視点から見る、ということはできるのです。

 辛い過去をもっている人、悲しい過去をもっている人がいるでしょう。いまがそうだ、という人もいるかもしれません。辛く悲しい過去を今もなおずっとひきずっている人もいます。
 
しかし、そのような過去を忘れて、前に向かって希望をもってわたしたちを生かすことのできる視点があります。それは、ヨセフがそのように捕らえることができたように、辛い過去の中にも、何か神さまのご計画があったのだととらえることです。

いまみなさんも、自分のしていることにどんな意味があるんだろうって悩んでいる人がいるかもしれません。じつは、もうずいぶん前ですけれども、みなさんの先輩で、わたしの今いる香里教会で洗礼を受けて、クリスチャンになられ、今は大学の先生として活躍されておられる方がいます。その方も、みなさんぐらいの頃、深く悩みをかかえていました。自分はいつか死ぬということ。死に向かって生きている自分に、どんな生きる意味があるんだろうと、その方は哲学的に宗教的に深く悩まれたのです。そしてやがてキリストを受け入れて、クリスチャンになられました。みなさんもきっと、いろいろと悩んでいるのだろう、と思います。
けれども、わたしは牧師ですからはっきり申し上げます。そのみなさんの悩みの中にもきっと神さまのご計画がある。みなさんの思いを超えた神さまの計画があるのです。そのことを忘れないでほしいと思います。みなさんが自分の思いをこえた神さまのご計画を信じて、希望をもって前に進んでいくことができますように、祈りをあわせましょう。

神さま、この朝は、同志社香里中学校の礼拝を守れましたことを心から感謝いたします。
中学生もいろいろ考え、悩みながら生きています。勉強のこと、部活のこと、友達のこと、家族のこと、将来のこと、ときにその前が見えなくなって押しつぶされそうになるこがあります。神さま、どうか、この一人ひとりが、それでも、必ず、その中にあなたの希望に満ちたご計画があることを信じて、前に向かって歩んでいくことができますように、主よ、どうぞ、生徒ひとりひとりを守り導いてください。
あわせました。同志社香里の先生方、職員のみなさま、保護者のみなさまの上に、あなたの限りない、恵みと祝福がありますように、お祈りいたします。
この祈りを尊き主イエス・キリストのみ名によってみ前におささげいたします。アーメン

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同志社香里中学校ロング礼拝 

2012年 9月26日(水)同志社香里中学校ロング礼拝
ルカによる福音書 19章1-8節
「降りてきなさい」三ツ本武仁牧師

おはようございます。
みなさんは今、自分のことが好きでしょうか? 嫌いでしょうか? 
たいがいは、好きなところもあれば、嫌いなところもある、というところかもしれません。

私自身のことをふりかえると、私は中学生のとき、自分のことがあまり好きではなかったと思います。そのもっとも大きな理由は、中学生時代の部活のことがありました。
私は小学生のときからサッカーが好きで、中学生になったら、友達といっしょにサッカー部に入りました。
今は、もっとそうでしょうが、当時もサッカーはとても人気がありました。それで、わたしの行った中学校でも、たくさんの人がサッカー部に入部しました。みんなとても上手でした。
そこで、わたしはレギュラー争いに敗れました。自分のサッカー技術の低さを思い知らされました。努力もしましたけれども、だめでした。
そして、ふと気がつきと、私は、サッカーが嫌いになり、部活にいかなくなってしまっていました。

このことは、私にとっては苦い思い出です。
でも、今、こうしてみなさんに素直にお話できるのは、私が今はもう、そのことを全く気にしていないからです。

けれども、自分はサッカーは下手なんだ、とずっと気にしている時期がありました。
そういうことを心理学では何というか知っているでしょうか?
自分の欠点や失敗がいつまでも忘れなれず、気になってしまう。その心を、コンプレックスといいます。

先ほど読んでいただた聖書のお話に出てくるザアカイという人は、そんなコンプレックスの塊のような人であったと思います。

徴税人ザアカイ、と書いてありましたけれども、彼の仕事は徴税人といいました。このザアカイやイエスさまの国イスラエルは、当時ローマ帝国という大きな力を持った国に支配されていましたので、イスラエルの人々に、そのローマ帝国へ税金を納めさせる、 そんな仕事でした。そして、その税金以上のお金を請求することで、自分の生活がなりたっている仕事であったので、人々からあまりよく思われていない、そんな仕事でした。
けれどもザアカイは、その徴税人の「頭(かしら)」であったとありますから、ある意味では、開き直っていたかもしれません。別に嫌われたっていいじゃん。かせぐだけかせいでやれって、そんな強気の一面もあったのではないかな・・・と思います。

しかし、心のどこかではやはり、満たされない思い、寂しさをかかえていた。それが、イエスさまが自分の住む町にやってきた、と聞いたときの、彼の様子から知ることができます。

ザアカイは、走っていって先回りし、いちじく桑の木にのぼって、イエスさまを待ち構えていた、というのです。

不思議なもので、私たち人間には、本能的に「本物」を見分ける能力がある程度備わっているようです。ザアカイという名前には、実は「純粋」という意味があります。ですから彼は、心のそこでは、やはり、自分は変わりたい、よくなりたい、と願い、その「きっかけ」をずっと求めていたのではないか・・・と思います。

そのザアカイに、思ってもみなかった素晴らしい出来事が起こったのです。
なんとイエスさまのほうから、ザアカイがこっそりのぼっていた、その木の下にまっすぐにやって来られて、こんなことを言われたのです。
「ザアカイ、いそいで降りてきなさい。今日はぜひ、あなたの家にとまりたい!」

イエスさまはザアカイの「孤独」を知っておられたのです。
ザアカイは自分のほうが先回りしている「つもり」でした。しかし、じっさいは、イエスさまのほうが、ザアカイの悩み、その心を先回りしておられたのです。

みなさんも今、それぞれにいろんな悩みをかかえて生きているのではないか、と思います。もっと頭よくなりたい、もっと部活で活躍したい、もっとかっこよくなりたい、もっときれいになりたい。・・・神さまは、みなさんのその悩みを全て知っておられます。

ですから、神さまに祈るということを、とても大切なことなんです。
馬鹿にできないことです。ぜひみなさん、一日に一度でもいいですから、心静かに、神さまに心を向ける時間をつくってください。そして、その心の思い、悩み、思い煩いを、何でも神さまに打ち明けてください。神さまはきっとあなたに何かふさわしい答えを示してくださいます。

イエスさまに愛されて、ザアカイは変わりました。
自分自身のためだけに貯めこんでいた、たくさんのお金を、生活に困っている人々にも分け与えることのできる愛のある人に変わったのです。

大切なことは、ザアカイ自身が、ほんとうに喜んで、それができるようになった、ということです。

わたしたちのコンプレックスというのは、実は、そのままでは自分を受け入れることができない。そのままでは自分は愛されないだろう、という思いの裏返しなのです。

イエスさまに愛され、愛を知ったザアカイは、自分のコンプレックスから解放されて、自由になったのです。

聖書は神さまは愛です、といいます。みなさんの一人ひとりは、神さまに愛されている大切な一人ひとりなんです。どうか、そのことを心にうけとめて、みなさんも、ザアカイのように、コンプレックスから自由になって、そして大胆に愛に生きる人になってほしいと願っています。

お祈りいたします。目を閉じて、心を静めてください。
わたしたちの愛のみなもとである神さま み名をあがめ賛美いたします
けさは、このように秋のすがすがしい朝を与えられて、同志社香里中学校の生徒のみなさん、先生方とともに礼拝を守れましたことを、心から感謝いたします。

10人いれば10の悩みのがある、といわれるように、私たちはみなそれぞれに悩みをかかえコンプレックスをかかえていますけれども、今日、あなたが与えてくださり示してくださったみ言葉にありましたように、わたしたち一人ひとりの、悩みや思いのすべてを、あなたはすでに知っていてくださり、そのわたしたちを、そのまま深く愛してくださっていると聞きました。

神さま、どうか、わたしたちが、あなたに愛され、生かされていることの喜びに、深く感謝して生きるものとなれますように、守り、導いてください。

同志社香里の生徒のみなさん、教職員のみなさん、そしてそのご家族の上に、あなたの祝福と恵みが豊かにありますように、お祈りいたします。

すべてをみ手にゆだね、この祈りを、主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげいたします アーメン

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同志社香里高等学校ロング礼拝 

2012年 9月19日(水) 同志社香里高等学校ロング礼拝
ルカによる福音書 10章 25-37節 「にじみでる愛」三ツ本武仁牧師

 おはようございます。
 今新聞では、中国で起こっている激しい反日デモのことが連日報道されています。たぶん私が知らなかっただけでしょうが、日本と中国の関係はほどほどに良いとういう勝手な印象を抱いていので、とてもショックを受けています。今回のことで、あらためて、国と国との関係というものが、とても繊細であること、わたしたちの安易に考える「平和」というものが、非常にもろいものであることを、教えられたように思います。
 
 ただ、今こうして聖書を手にとってみますと、2000年以上前のイスラエルというところで、イエスという人が現れて、人々に話し、働きかけられた事柄の背後にも、国と国とのあいだの緊張関係や、人と人との間の緊張関係があったことに気づかされます。

 イエスさまの時代は、ローマ帝国がヨーロッパ世界を支配していて、その国の圧力のもと、イスラエルの人々は苦しんでいました。また、イスラエルの人々同士も、また周囲の国の人々との関係も、非常にギクシャクしていました。
 そのような世の中に、イエスさまが示されたものが、一言でいえば、愛です。愛に生きる、ということ、互いに愛し合って生きる、ということ、神さまは、すべての人を等しく愛されている、だから、あなたがたも互いにに愛し合っていきなさい、とイエスは言われました。

 けれども、愛に生きるというのは、みなさんも経験があると思いますけれども、言うほど簡単なことではありません。たとえば、誰にだって好きな人がいれば嫌いな人もいるでしょう。信頼できる人もいれば、苦手な人もいると思います。その場合、好きな人を愛すること、信頼できる人を愛することなら、できるのではないか、と思います。けれども、聖書のいう愛というのは、そういう愛ではありません。イエスさまは敵をも愛しなさいと言われました。自分の損得や自分の願望や、自分の都合で愛するのは、本当の愛ではない。そうではなく、どんな人であっても、たとえ、その人が見ず知らずの人でもあっても、たとえ、その人が敵対している国の人であっても、あなたの愛をその人に与えなさい、とそういうのです。これは大変な難問ではないでしょうか。

 けれども、わたしは、このことで、みなさんに希望を持っています。みなさんの中には、そんなことはできない、と正直思っている人もいることでしょう。けれども、みなさんにはそれができるのです。その証拠をお話したいと思います。

 今日の聖書箇所のイエスさまの「たとえ話」には、追いはぎ(強盗)に襲われ、半殺しにされて道に倒れている旅人がでてきます。そこに三人の人が通りかかります。祭司、レビ人、サマリア人です。そして最後のイエスさまの質問は、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」というものでした。質問された人は答えます。「その人を助けた人です」と。読んでみればわかります。その人とは、サマリア人でした。そうです。他の二人は、倒れている人からむしろ遠ざかっていきましたが、サマリア人だけは、その倒れている人を憐れに思い、走りよっていき、手厚い手当てをし、自分の乗っていたロバに乗せて、ある宿まで運び、自分は何かの用があって一度その場を離れるけれども、またもどってくるから、それまでこの人を頼む、と言って、宿屋の主人にお金を渡すのです。倒れていた人は見ず知らずの他人なのに、です。

 この聖書箇所をもとに、神戸のある学校で、こんな質問をした先生がいます。「みんなはこの話の登場人物の中の誰に一番、自分は近いと思いますか?」生徒たちは、実にいろいろな答えをしたそうですが、「サマリア人に自分は近い」と答えた人はほとんどいなかったといいます。多くの生徒が、自分は祭司やレビ人のように振舞うだろうと書きました。なかには「宿屋の主人くらいならなれそうだ」という人や、「自分は追いはぎに襲われた人だ」とか、「自分は追いはぎに近い」とか、そんな答えもあったようです。みなさんならどうでしょうか?

 ところが、時を変えて、その同じ質問を、同じ学校で行ったとき、こんどは、生徒たちのほとんどが、「自分はサマリア人のように振舞うだろう」と書いたというのです。
 いったい何が起こったと思いますか。
 ヒントは、神戸、1995年1月17日、朝、5時46分です。
 わかる人いるでしょうか。
 そうです。阪神淡路大震災です。地震は人間にとっては、とても恐ろしいものです。深い悲しみをもたらすものです。わたしは阪神淡路大震災は直接には経験していませんけれども、この3月まで、4年間、山形の学校で働いていましたので、東日本大震災を、身近に経験しました。生徒たちを連れて、何度か、被災地へ瓦礫の撤去などのボランティアに行きました。たいへんです。家族を失った人の涙は、まだいやされていません。

 話を戻しますと、震災は、たいへん大きなマイナスですけれども、生徒たちの心を変えてしまった、ということを考えたとき、わたしはそこに、人間の思いを超えた何かの働きを感じざるを得ませんでした。
 みなさんの心の中には、偉大な愛が眠っているのです。愛することのできる立派な人もいるだろうけれども、自分とは関係がない、ということではないのです。あなたの中に、その立派な愛はちゃんと潜んでいます。眠っています。あのサマリア人のように、見ず知らずの人に、憐れみをかけ、あたたかく介抱する力は、あなたの中にすでにちゃんとあるのです。
 その愛があなたの心とからだからにじみ出てきて、サマリア人のように生きるようになってほしい、たとえあなたがどのような大学へ進学し、どのような職業につこうとも、憐れみ深い愛に生きる人となってほしい、それがイエスさまの願いであり、じっさい今世界が求めているのは、そのような人材なのです。
 遠い昔の時代も、今も、中東でも、アジアでも、愛は、変わることのないキーワードです。みなさんには、愛を求めて生きる人になってほしいと願っています。

 お祈りします。目をとじて心をしずめてください。
 わたしたちの愛の源である神さま、み名をあがめ賛美たします。
 この朝は、同志社香里高等学校の礼拝にまねかれ、生徒のみなさん、教職員のみなさまと共に礼拝を守れましたことを心から感謝いたします。
 今は困難な時代ですけれども、どうか、わたしたちが、その中にあっても愛に生きるものとなれますように。自分の心の中に眠る愛に目覚めて、その愛がにじみでるような生き方ができますように、わたしたちを、どうぞ、恵み、導いてください。
 どうか、今日一日のみなさんの学校生活が守られ、充実したものとなりますように、お守りください。
 さまざまな事情によって、今、ここに集いえない生徒の方や、先生方の上にも、あなたの恵みが豊かにありますようにお祈りいたします。
 すべてをみ手にゆだね、この祈りを、尊き主イエス・キリストのお名前によって、み前におささげいたします アーメン」

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