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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

聖霊降臨節第3主日礼拝 

2017年6月18日(日)ルカ12章8-12節
「差し伸べられたみ手を」三ツ本武仁牧師

 本日の聖書箇所はルカによる福音書の12章の8節から12節であります。そこで、その最初の8節、9節を見ますと、次のようなイエスさまのお言葉が語られています。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」
 
 ここで「だれでも人々の前で、自分をわたしの仲間であると言い表す」とありますこの「言い表す」という言葉は、もともとは「同じ言葉を語る」という意味の言葉です。つまり、イエスさまと同じ言葉を語る、ということです。そして、この「同じ言葉を語る」という言葉は、「言い表す」と訳されるほかに、「告白する」という意味でも、聖書で用いられています。

 つまり、イエスさまを自分の仲間であると人々の前で言い表す、というのは、イエス・キリストと同じ言葉を語る、ということであり、そしてそれは、イエス・キリストへの信仰を告白する、ということなのです。

 日本では「告白」といいますと、誰か好きな人に、自分のその思いを告白する、というようなとき、若者は「こくる」というそうですけれども、そういう場合や、何か人には隠してきた秘密を打ち明ける、という場合に告白する、というように使われているのではないでしょうか。しかし、わたしたちが、イエス・キリストへの信仰を告白する、信仰告白をする、というのは、そういうこととは全く違うのです。そうではなくて、信仰を告白するというのは、代々の教会が信じ、言い表してきた同じ信仰の言葉を、イエス・キリストご自身にまでさかのぼる、イエス・キリストを信じる言葉としてうけつぎ、その同じ信仰に生きていく、ということです。日本基督教団信仰告白を毎回礼拝でわたしたちは告白しているわけですけれども、その信仰告白は、そういう意味で大切なものなのです。

 そのようにして、人々の前で、イエス・キリストへの信仰を告白し、イエスさまの仲間である、弟子であると言い表す。それならば「人の子も天使たちの前で、その人の仲間であると言い表す」と言われています。「人の子」というのはイエス様ご自身のことです。私たちがイエス・キリストへの信仰を人々の前で告白するならば、イエスさまご自身が天で、私たちのことを、これは自分と同じ言葉を語る者、わたしの仲間、わたしの友であると言い表してくださる、というのです。しかし、もしも私たちが、人々の前でイエスさまなど「知らない」というのであれば、つまり、イエスさまとの関係を否定し、拒むなら、イエスさまもわたしたちのことを、「知らない」と言われる、というのです。

 ここで語られていますことを考えますときに、その一つのポイントは、「人々の前で」イエス・キリストとの関係をどう言い表すか、ということだといえるでしょう。心の中で信じているだけというのはダメではありませんけれども、しかしそれでは不十分だということです。信仰は、心の中に隠し持っているだけでは本物にはならない、それを人々の前で言い表す。使徒パウロはローマの信徒への手紙の10章10節でつぎのように語っています。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」・・・心で信じた、その信仰を口で言い表す、そこに救いが与えられるのです。洗礼を受ける、教会の礼拝の中で、人々の前で、洗礼式にあずかる、ということの意味の一つもそこにあります。私たちが洗礼を受ける、というのは、人々の前に、自分をイエスさまの仲間、イエス・キリストを信じる者であると言い表すことなのです。そのようなわたしたちに対して、イエスさまも、この人は私の仲間、友、わたしと共に生きている者だと宣言してくださるのです。

 ちなみに聖餐式というのは、この信仰の告白があって、はじめて意味をもつ儀式です。イエス・キリストが聖餐においてそこに霊的に本当に臨んでくださり、わたしたちを力づけてくださる、その恵みの体験は、ひとえに信仰の告白があってはじめて与えられるものなのです。洗礼はその信仰告白のはっきりとしたしるしです。イエスさまが命じられたしるしです。ですから、聖餐式のまことの恵みにあずかりたいと願う人はぜひ洗礼を受けていただきたいのです。

 さて、つづく10節には「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」とあります。これはちょっと戸惑う、謎のような言葉ですけれども。ただ一つはっきりしていますことは、こういうことをしたら赦されるが、こういうことをしたら赦されない、という、赦されるか赦されないかの、重要な境目について語られている、ということでしょう。場合によっては赦されない罪がある、というのです。それは聖霊を冒涜することだ、と言うのです。しかし、いったいどういうことをしたら聖霊を冒涜することになるのか、それがここを読んだだけでは、ちょっとよく分からないものですから、ここを読んで不安になられた方もおられるのではないかとおもいます。もしかしたら、自分はすでに聖霊を冒涜するようなことをしてしまっているのではないか、そのように心配になるところであります。

 そこで、このあとの11節、12節を見ますと、こうあります。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたとき、言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」このことばは、わたしたちが、信仰ゆえの迫害をうけ、逮捕され、裁判を受けるという、そういう厳しい状況を念頭において語られています。そういう厳しい状況の中で、人々の前で何を語ればいいか、それは、言うべきことは聖霊が教えてくださる、とイエスさまは言われるのです。

 つまり、10節でいう「聖霊を冒涜する」というのは、信仰の迫害という厳しい状況の中で、何を語るか、そのことは聖霊が教えてくださるのに、それに逆らって、ありいは、聖霊を求めることをせずに、語るべきことを語らないこと、とそういうふうに受け止めることができるのではないでしょうか。

 そうかー、ではいまわたしは迫害のようなむかしのクリスチャンたちが経験したような厳しい状況ではないから、あの遠藤周作の小説『沈黙』のような、ことは今の日本にはないから、そのような心配は、わたしたちはしなくていいのかな、ふとそんなふうにも思ってしまします。でも、はたして、そう言い切れるか、ということであります。

 6月5日の朝刊に岐阜県にすむ76歳のある牧師が、「聖書の教えも監視対象だった」という題名で、次のような投稿を寄せていました。「聖書の教えも監視対象だった 「共謀罪」法案を考えるとき、35年ほど前に盛岡で出会った先輩牧師と、アメリカ人宣教師夫妻の話しを思い出します。先輩牧師はいつも特高警察のことを口にしていました。礼拝中にもやってきて教会員を監視。特に説教の内容は詳細に調べてメモをとったそうです。キリスト教関連の書籍は没収され、戻ってきませんでした。聖書の教えさえも思想調査の対象だったのです。宣教師夫妻は1941年末の早朝、自宅に踏み込んできた6人の警官にスパイ容疑で引き立てられました。夫の宣教師は165日間刑務所に。日本での布教計画を記した論文がやり玉に挙げられたのです。準備段階の行為や思考でさえも処罰対象とする「共謀罪」法案は、治安維持法と何ら変わりありません。信教・思想の自由を狙い撃ちし、人権を根底から破壊する恐ろしい法案です。監視や言論統制におびえる社会が必ずや出現します。・・・

 そのようにありました、そういうことが心配されている法案がまさに、先週国会で可決成立したばかりであるわけですけれども、そういうことが今や現実としてある、ということ、そしてまた、そのような、目に見える迫害ということではなくても、無宗教という宗教が蔓延している、いまの日本で、クリスチャンである、ということは、やはりある種の迫害といいますか、無理解や偏見の目にさらされることがあるということは、日々の生活の中で、わたしたちが肌身に感じていることではないでしょうか。そのようなかで、わたしたちが、聖書のいうように、聖霊を冒涜してしまう、聖霊に逆らって、聖霊を求めずに、語るべきことを語らないようなことになってしまう、そういうことは決してないといえるだろうか、むしろ十分にそういうことはあるのではないでしょうか・・・・・・いざというとき信仰をあいまいにし、人々の前で信仰を語ることをためらってしまう、それがわたしたちの多くの正直な現実ではないでしょうか。なかには、そうではない、しっかりと堂々と信仰を証して生きておられる方もあるかもしれませんが、そうでない人のほうが多いのでないか。しかし、では、その場合、人々の前でしっかりと信仰を証できなかった人々は、聖霊を冒涜したということで、赦されない罪を犯してしまった、ということになるのでしょうか。

 この問題を考えますときに、わたしたちはイエスさまの一番弟子であったペトロのことを思い起こしたいと思うのです。ぺトロは、イエスさまが逮捕され、大祭司による裁きを受けている時に、その中庭に入ってそっと成り行きをうかがっていました。その時、周りの人から「あなたもあのイエスの仲間だろう」と言われて、三度「そんな人は知らない」と言ったのです。まさに、人々の前でわたしを知らないという者、になってしまったのです。イエスさまを否定する言葉を語ってしまったのです。

 先ほど申しましたことからすれば、もう彼はイエス・キリストの救いにあずかることはできない、というのが当然の道理であります。しかし、ペトロは、イエスさまのご復活ののち、再び弟子として、信仰者として、歩み出すことができました。そして最初の教会の指導者の重要な一人となっていったのです。それは彼が、イエスさまは人々の前で知らないと言った罪をゆるされた、ということです。彼はどのようにしてゆるされ、あたらしくされたのでしょうか。それはひとえに、復活なさったイエスさまが彼に出会ってくださり、語りかけてくださり、招いて下さったことによるのです。イエスさまは「あなたが私のことを『知らない』と言ったその罪を、私はすべて背負って十字架にかかって死んだ。そのことによってあなたの罪はゆるされている。あなたはわたしとの絆を否定したけれども、わたしは十字架の死と復活によって、そのことを乗り越え、あなたとの絆をもう一度結び直したいのだ、」そういって、彼に手をさしのべてくださったのです。そこでペトロはそのイエスさまの手を自分からも握り返した・・・。そのことによって、彼の罪はゆるされ、イエス・キリストを信じ従う者として新しく生き始めることができたのです。

 私たちはこのペトロの姿から「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」というみ言葉の意味を知ることができます。私たちはぺトロのように、イエスさまを知らないと様々なかたちで言ってしまうことがあるのです。神さまの愛を疑い、イエスさまとの絆を軽んじ、否定するようなことを言ったり、したり、してしまいます。しかし、そのような罪人であり、赦されない、滅びるしかない私たちのために、その私たちの罪をすべて背負って、イエス様は十字架にかかり、死んでくださり、私たちの罪を赦してくださっているのです。イエス・キリストへの信仰はふしぎであります。イエス・キリストへの信仰とは、イエス・キリストなんてもう信じない、と言ったものをもゆるし救ってくださるイエス・キリストを信じる信仰なのです。

 聖霊なる神は、今私たち一人ひとりに働いて、このイエスさまによる罪の赦しの恵みを示し、与えようとして下さっています。イエスさまが聖霊のお働きによって、私たちに、手を差し伸べて下さっているのです。私たちが、その救いのみ手を、自分からも手をのばして握り返すならば、私たちのすべての罪は赦されます。どんなに人の子の悪口を言ったとしても、イエスさまを否定するようなことを言ったとしても赦されるのです。ですから、聖霊を冒涜するとは、さらにいえば、おぼれているこの私のために、イエスさまの差し伸べてくださったみ手を、振り払うことです。さきほど遠藤周作の『沈黙』について少し触れましたけれども、最近話題になったその映画では、激しい迫害の中、キリスト教を捨てることを強いられた宣教師のロドリゴは、人々を救うために、キリスト教を捨てる。けれども、それから40年が過ぎて、彼が死の時を迎え、仏式で火葬されていく、その中で彼の手にはしっかりと十字架がにぎられていたのでした。それこそは、信仰を捨てる者にも手を差し伸べてくださるイエスさまのみ手を握り返すということであった、と思うのです。

 わたしたちはこの礼拝において聖霊のお働きを受け、イエス・キリストによる赦しの恵み、救いにあずかり、そこから、それぞれの生活へと、人々の前へと、遣わされていきます。そこで、人々の前で、どのような言葉を語るか、自分をイエスの仲間、友、イエス・キリストを信じる者だとはっきり言い表す言葉を語ることができるか、が問われています。それが私たち信仰者の日々の課題です。それはしかし重い課題であります。けれども、そこで「何をどう言い訳しようか、何を言おうかと心配し」なくていいのです。「いうべきことは聖霊がそのときに教えてくださる」とイエスさまは言われるのです。求めれば、聖霊が、私たちに信仰の言葉を与えてくださるのです。求めなさい、そうすれば与えられる、イエスさまのお言葉を信じて、聖霊を求めて、日々歩んでいく、転んでもまた聖霊を求めていく、イエスさまのさしのべてくださったみ手を、にぎり返していく。そこに教会の道は、これまでも開かれてきたし、これからも、開かれていくのです。そのような歩みができるように、イエスさまのさしのべてくださるみ手を、今日もにぎりかえすことができますように、祈りを合わせたいとおもいます。祈りましょう。

 主なる神さま、わたしたちはいま、御子イエスのお言葉を信じ、あなたに聖霊を求めます。聖霊なる神が、わたしたちを満たしてくださり、信仰の言葉を与えてくださいますようにと願います。日本は、あなたを信じる者にとって、昔もいまも必ずしも住み良い国だとは言えません。しかし、そもそも教会は、この世にではなく、あなたに属するものであるがゆえに、その最初から、この地上のどこにあっても、試練と苦難の中にあることを覚えるものです、しかしその中にあって、あのペトロにはじまる信仰の諸先輩方が、繰り返し、あなたの差し伸べてくださったみ手を握り返して、信仰の道を歩みなおしていきましたように、そしてそこに教会の道が開かれていきましたように、わたしたちも、ころんでも、たおれても、そこにさしのべてくださるあなたのみ手を、しっかりと握り返しつつ、歩んでいくものとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン
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聖霊降臨節第2主日礼拝 

2017年6月11日(日)ルカ12章1-7節
「主を畏れることは知恵のはじめ」三ツ本武仁牧師

 先週のペンテコステ、聖霊降臨日を経て、本日から再びルカ福音書を読みすすめていきます。今日はその12章からでありますけれども、1節の始めには「とかくするうちに」とあります。この前の11章の37節以下のところには、イエスさまがファリサイ派の人から食事の招待を受けたときの出来事について語られていました。イエスさまはそこでファリサイ派の人々と律法学者たちに厳しい批判を語られたのです。その結果、11章の最後53節54節にありますように、彼らはイエスさまに対して激しい敵意を抱くようになりました。「とかくするうちに」というのは、そのような状況になっていく中で、ということであります。

 そのような中で、しかしまた多くの群衆がイエスさまのところに集まってきました。イエスさまへの敵意が大きくなっていく一方で、イエスさまへの関心も高まっていったのです。わたしたちもこの世を生きていく中で、自分の考えや意見が、反対されたり、興味を持たれたり、ということを経験することがあります。そこで私たちは、やはり反対されるよりは、興味を持ってもらっているほうがよい、とも正直にいえば思うわけですけれども、しかし、この両方は、全く違うようでいて、根本的には同じものです、つまりどちらも世間の目です。今日のところでイエスさまは、そのような冷たかったり、興味本位だったりすり世間の目にさらされています。そのような中で、イエスさまは今日語っていかれるわけですけれども、しかし、イエスさまが直接お話しになったのは、そのような世間の人々に向けてではありませんでした。イエスさまが今日第一に心を向けておられるのは弟子たちであります。弟子たち、つまりイエスさまの従っていこうとする者たちに、イエスさまは今日お話しになったのです。

 そこでまずイエスさまが弟子たちに向かって語られたのは「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言うことでした。「パン種」というのは、パンを焼くときに入れるイースト菌のことです。それはごく少量でも、それが入ると、パンの生地全体に影響を及ぼし、全体を発酵させ、膨らませて、パンをつくるわけです。イエスさまはパン種など使ったらダメだと云われているのではもちろんありません。ファリサイ派の間違った教えが、どれほど人々に悪い影響を与えているか、救われるべき人を、かえってつまずかせてしまっているか、そのことにたとえて、そのように言っておられるわけです。

 そのファリサイ派のパン種とは偽善である、とイエスさまは続けられます。ファリサイ派の問題は偽善にある、というのです。偽善というのは、見せかけの善ということです。11章の37節以下でイエスさまがファサイ派について語られたことは、ファリサイ派というのは人々にいわば聖書の言葉、神さまの教えを、伝える立場にあったわけですけれども、それがかたちだけで、中身のない、見せかけの教えになってしまっている、彼らは正義の実行と神さまへの愛をおろそかにしている、とイエスさまは言われました。神さまとの間に愛の交わりがあって、はじめて、聖書の教えは生きた教えになるのです。正義の実行も、神さまがこんな自分を愛してくださっている、というその応答として喜んでなされていくものであるわけです。でも神さまの愛を感じていない、そのような者が聖書の教えを人にとく、というのはそもそも無理があるわけです。ですから、その意味でこの問題は、ファリサイ派の人々だけの問題ではなくて、神さまとの関係が壊れてしまっている人間全ての問題です。神さま中心ではなく、自分中心になってしまっているわたしたち全ての問題なのです。じっさい牧師はまさにこうして聖書の言葉を教えるということをしているわけですから、誰よりも肝に銘じてこのところ読まなければいけないのですけれども、ともすると、わたしたちはそのような偽善に陥ってしまうのです。
 
 それをどんなに隠して、かたちだけ繕ってみせても、みんな神さまにはバレていますよ、神さまの目には誤魔化せませんよ、そう言っておられるのが、3節であります。「だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」神さまの目には、神さまの耳にはすべてが見られ、聞かれているんですよ、というのです。
 けれども、前回も申しましたように、イエスさまがそのようなことを指摘されるのは、そのようなわたしたちを裁くためではなくて、そのところから救ってくださるためです。そのことを弟子たちに伝えるために、いまここでイエスさまは語られているのです。

では、イエスさまは、どのようしてわたしたちをそのような偽善に陥ることから救ってくださるのでしょうか。今日のところの4節以下で、イエスさまは次のように弟子たちに語られました。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」・・・なぜ、わたしたちは偽善に陥ってしまうのか、神さまへの愛がないからだ、とさきほど申しましたけれども、神さまへの愛がないとき、同時にわたしたちがしていること、それはここでイエスさまのこの言葉によれば、「わたしたちの体を殺すことはできても、それ以上は何も私たちにできないような者を」恐れているとき、なのです。つまりこれは何を云われているか、というと、人間を恐れている、世間の目を恐れている、ということです。最初に申しましたように、このことをイエスさまが弟子たちに語られているとき、その背後には、ファリサイ派や律法学者たちのイエスさまへの敵意が大きくそびえ立っていました。また好奇の世間の目が輝いていました。そのような世間の視線に弟子たちがいままさに圧倒され、その現実を怯えていることをイエスさまはよく知っておられたのです。

 しかしそこでイエスさまは続けられるのです。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ、言っておくが、この方を恐れなさい。」・・・私たちがほんとうに恐れるべき相手は人間ではない、世間ではない、神さまだ、と言われるのです。その神さまは「わたしたちを殺した後で、わたしたちを地獄に投げ込む権威を持っている方」だと言われるのです。なんだか今日は、怖い話になってきました。地獄絵図を見るような恐ろしい思いがするわけですけれども、しかし、ここでイエスさまが語っておられることの中心にあるのは、人間の命を、ほんとうに支配しているのは人間ではない、神さまだ、ということです。神さまこそが、私たちの命を、私たちの肉体の命が終わる死においても、そしてその死の後でも、支配し、導いておられる、そのことにイエスさまは、私たちの目を向けさせようとしておられるのです。

 イエスさまは、私たちの信頼すべきお方は誰か、私たちの愛すべきお方は誰か、というふうにはここでは問われませんでした。本当に恐れるべきお方は誰か、という言い方をなされました。なぜでしょうか。それはさきほども申しましたように、このとき弟子たちがまさに恐れに囲まれていたからです。そして、それはこのときの弟子たちだけの問題なのだろうか、ということです。イエスさまは本当にとことん私たちによりそってくださる方です。わたしたちもまた多くの恐れに取り囲まれて生活しているのです。人生のいろいろな苦しみ悲しみ悩みがわたしたちにはあるのです。それが私たちを日々恐れさせています。そのような苦しみや悲しみがもたらす恐れによって、自分が壊れてしまうのではないか、ということを私たちも経験しているのです。

 しかしまたそのような中で、いくら周りから「恐れることなんかない」と言われても、無理であります。また一生懸命自分にそう言い聞かせても、それで恐れがなくなるか、というと、それはなかなか難しいのであります。
 恐れからの解放というのは、そのような恐れのある現実から目をそらすところに与えられるのではないからです。そうではなく、むしろ、わたしたちが本当に恐れるべき方がほかにおられる、ということを知るといいますか、体験する、そのところにこそ、与えられるのだ、とイエスさまは言われるのです。天の父なる神さまこそ私たちが本当に恐れるべき方だとイエスさまは言われるのです。しかし、ではそれはどのような恐れなのでしょうか。

 あなたがたが死んだ後、あなたがたを地獄に投げ込む権威を持っておられる方だと、イエスさまは言われました。まさに恐ろしい権威を神さまは持っておられるのです。陶器職人が自分のこの陶器は失敗作だと言って火に投げ込む、それは陶器職人の自由であります。神さまがわたしたちをつくられたのですから、確かに神さまにはそのようにわたしたちを投げ捨てることも自由なのです。そういう権威、自由が神さまにはある。でも、イエスさまがここで伝えたいことは、そういうことではないのです。神さまがそういう厳しい恐ろしいことをされる、ということでありません、そうではなく、むしろ、そのような権威のある方でありながらも、じっさいは、そのようなことはなさらない、わたしたちが、どんなに欠けた器であろうとも、その一つ一つの意味を知っていてくださり、大切にしてくださり、その欠けた器一つ一つに、ご自分の恵みを豊かに注いでくださる方なのです。欠けがあるなら、その恵みはこぼれてしまうではないか、わたしたちは思います。しかし、そうじゃないのです、神さまの恵みは、尽きることがない恵みです、むしろその欠けから、神さまの愛が、恵みが、周りに溢れ出て、周りにその恵みを分け与えることができるのです。

 「5羽のすずめが二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽でさえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは雀よりもはるかにまさっている」イエスさまは今日のところの最後でそのように語ってくださいました。
 わたしたちが神さまを恐れるのは、確かに、神さまがわたしたちを地獄に投げ込むこともできる、そういう意味で確かに恐ろしい方であるけれども、イエスさまのおっしゃりたいことの中心は、そのようなところにあるのではなくて、むしろ、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えておられる、それほどに、あなたがたのことを、大切に思ってくださっている、その神さまを恐れなさい、そうすれば、もう何も恐れることはないのだ、ということなのです。

 ですからそのような恐れは、恐怖するという意味での恐れというよりも、恐れ敬う、という、畏敬の念を覚える、という意味での畏れである、ということがいえるかと思います。漢字で書くと、全く違う漢字になります。今日の説教題は「主を畏れることは知恵のはじめ」と題させていただきましたけれども、この説教題に使いました「畏れ」、畏敬の念という意味での畏れを神さまに対して抱くこと、それこそが、わたしたちをあらゆるこの世の恐れから自由にしてくれるのです。

 では、どうすれば、わたしたちは、そのような方として神さまを知ることができるでしょうか、どうすれば、わたしたちをすずめにまさって愛してくださり、わたしたちの髪の毛一本すらも大切に思ってくださっている方として神さまを知ることができるのでしょうか。
 実にそのためにイエスさまは来てくださったのです。イエスさまは神の子でありながら、わたしたちと同じ人の姿となり、わたしたちと同じこの限りある肉体をまとわれ、その痛み、その苦しみ、その悲しみ、世間の冷たい風たりの全てを味わってくださいました。罪もないのに、十字架の死という、人間が一番さらされたくないものに、ご自分がさらされることを引き受けてくださり、自分の問題で死刑になるような者の、その同じドン底まで来てくださったのです。そして、そのようなイエスさまに心を開いた死刑囚に、永遠の命を約束してくださったのです。つまり、イエス・キリストは、わたしたちがこの世で恐れている、その恐れの全てを、味わい、その恐れにわたしたちと同じように、苦しんでくださる、そういうかたちで、わたしたちと本当に共にいてくださる神となってくださったのです。インマヌエル、神われと共にいます、というのは、主がわたしたちと恐れを共にしてくださる、ということです。

 そのイエスさまに目が開かれたとき、まさに、いまわたしたちが恐れているこの世のあのことこのことを、そんなもの大丈夫だと突き放すのではなくて、その恐れを共に引き受けて、十字架の道を歩んでくださっているイエスさまに目が開かれたとき、わたしたちは、主イエス・キリストという神さまを本当に畏れる、畏怖するものとされるのです、これこそ、わたしたちをこの世の様々な恐れから解き放ってくださるのであります。・・・先週、ペンテコステの記念写真をもって、施設におられるある姉妹をお訪ねしました。姉妹は訪問を喜んでくださり、写真を懐かしそうに眺めておられました。しばらく、そうやって嬉しそうにされていましたが、ふと思い出したように言われたのです。先生、最近、となりに座った人が、わたしのことを、ぼけてる、ぼけてる、と何度もしつこく言うので、つい頭にきて、ぼけてなんかいません、と強く言い返したんです。そうやって、つらかったことをうち明けてくださいました、それで、二人で、そのことを神さまにお祈りいたしました。そうしましたら、またしばらくして姉妹は言われたのです。あまりしつこくぼけてる、ぼけてる、言われるからついかっとなって怒ってしまったけれども、ちょっとつよく言い過ぎたかもしれません、ほんとうに少しぼけているのかもしれませんね。こうして先生とお話しをできたらすっと楽になりました。そう言ってまた笑顔になられました。・・・ぼけてる、と言われた、その言葉は、姉妹にとって腹が立つことであったとともに、それが本当だったら、と思うと怖かったんだと思うのです。その現実が恐ろしかったのだと思います、でも、姉妹は、牧師とともに神さまに祈るなかで、きっと本当に恐れるべきかた、わたしたちをとことん愛し、わたしたちを命にかえても守り導いてくださるイエス・キリストを心にお迎えすることができたのだと思うのです。わたしたちもみな油断すればすぐに恐れにとりつかれていきます。しかし、その中で、この姉妹のように、イエス・キリストをこそ恐れ敬う信仰を抱き続けることができるように、聖霊を求め、祈りを合わせたいと思います。

 主なる神さま、あなたは、この世の様々なことを恐れ苦しんでいるわたしたちの、その恐れを本当に知っていてくださり、そのようなわたしたちを憐れんでくださって、御子イエスをこの世に送ってくださいました。御子が神の身分でありながら、その全てをわたしたちのために捨ててくださり、わたしたちの恐れを共に味わい、その重荷を共に背負って歩んでくださっている、その姿にどうか目が開かれますように、そして、あなたに対するまことの恐れ、畏敬の念、畏怖の心をもつものとならせてください。あなたを畏れるその中で、この世のすべての恐れからわたしたちが解き放たれ、最後まであなたの道を歩んでいくことができますように。主のみなによっていのります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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ペンテコステ合同礼拝2017 

2017年6月4日(日)ペンテコステ合同礼拝
「聖霊の風に吹かれて」三ツ本武仁牧師

 今日は聖霊降臨日です。今から2000年以上前、十字架に死なれたイエスさまが復活された、その出来事に驚いている弟子たちに向かって、イエスさまは、わたしはもうすぐ天に戻っていくけれども、安心しなさい、わたしが去ったあと、あなたたちのところに聖霊を送ります。聖霊がくだると、あなたたちは力をうけますと、約束してくださいました。

 そして、復活されたイエスさまは天に帰っていかれた、そのあと、しばらくしてから、イエスさまのお約束通りに、聖霊が弟子たちのところにくださってきたのです、聖霊は、弟子たちに、イエス・キリストが今も共にいてくださることを、気付かせてくださいました。そのようにして弟子たちに力を与えてくださったのです。2000年以上、最初の弟子たちから、世界に広がる次の世代の弟子たち、またその次の世代の弟子たちと続いて、そうしていまのわたしたちにまで至る、この教会の歩みは、聖霊に満たされた人々の歩みなのです。

 では、聖霊に満たされると具体的にどういうことが起こるのでしょうか。今日の聖書箇所を見てみますと、その日、使徒たちが集まっていると、突然激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、彼らが座っていたその家中に響きわたり、続いて、炎のような舌がわかれわかれに現れて一人一人の上にとどまりました。そして使徒たちは聖霊に満たされて霊が語らせるままに他の国の言葉で話し出したといいます。

 ここで注目したいのは、この聖霊降臨の出来事を通して3つの壁が吹き飛ばされた、ということです。
 まず第一に、言葉の壁が吹き飛ばされました。そしてそれにともなって第二に、世界の様々な人間たちの間にあった人間同士の壁が吹き飛ばされました。・・・もちろん、この世界には、様々な言葉があります。日本語、英語、ドイツ語、中国語、じつに様々な言語があります。聖霊に満たされるまで、その言葉の壁は、人間たちにとっては、迷惑な壁だと思われていました。そんな言葉の壁なんかなければいいのに、みんな同じ言葉をはなせたらいいのにと思っていました、そして、そういうことを実際にしようとした人々もいます。それは、世の権力者たち、王様たちです。権力者や王様にとっては、みんなが自分と同じ言葉を話せば、支配しやすいわけです。ですから、自分たちが人々を支配しやすいように、自分の国の言葉をほかの人々にも話させようとしたのです。そうやって世界を一つにしよう、としました。でも、神さまはそのことをとても残念に思っておられました。

 いろいろな国の言葉を与えてくださったのも神さまです。ですから、聖霊に満たされて、言葉の壁が吹き飛ばされた、というのは、そういうふうに言葉が一つになったということではないのです。そうではなく、様々な言葉の違いを、恵みとして、祝福として、神さまが与えてくださった喜びとして、受け止めることができるようになった、ということなのです。じっさい違う国の言葉を学ぶことで、多くのことに気づかされ、感動することがたくさんあります。日本語では、うまく表現できないことを、ほかの国の言葉だとすっと表現できる、ということがあります。反対に、ほかの国の言葉にはない、微妙な感じを、日本語ではうまく表現しています。昨年出た話題の本に、イギリス人の若い女性の書いた『翻訳できない世界のことば』という本があります。その本によれば、たとえば、誰か来てるかなーと、期待して、何度も何度も外に出てみること、これはエスキモーの言葉で、イクトゥアルポクというそうです。教会の前で、誰かくるかなーと期待して待っている、牧師や教会学校の先生の姿にぴったりの言葉だな、と思いました。それから日本語には「木漏れ日」という言葉があります、木々の枝や葉の間から刺す日の光のことで、いまの季節はまさに木漏れ日が美しい季節ですけれども、これは、ほかの国の言葉にはない、美しい表現として紹介されていました。

 このように違う国の人々と、その言葉の違い、文化の違い、性格の違い、個性の違い、を大切にしながら、それを喜びとして共に生きていく、もちろん、同じ国の人の間でもそのようにして共に認め合って生きていく、それこそが神さまの願う姿なのです。

 そこで最後に、第三として、そうやって人間が聖霊に満たされて、神さまの願いにそって生きるようになっていく、そのところで、神さまと人間の間のへだたり、壁が吹き飛ばされました、神さまの愛に応えて、人間が神さまを仰いで、神さまを讃美して生きる、そのような神さまと人間との間の、愛の交わりが回復したのです。

 今日の「聖霊の風に吹かれて」という説教題は、昨年、ノーベル文学賞に輝いた、音楽家のボブ・デュランの有名な曲、「風に吹かれて」にヒントをえてつけました。「風に吹かれて」の英語の原題は「Blowin’ in the Wind」です。この曲は、まだアメリカで黒人の人々が差別されていた時代、キング牧師によってはじめられた黒人の公民権を求める運動、公民権運動のなかで、その賛歌として歌われた曲でした。ボブ・デュラン自身は、もともとユダヤ教徒でしたが、この公民権運動をへて、やがて洗礼を受けて、クリスチャンになりました。その歌の一番は次のように歌っています。

 人はどれだけ歩けば人として認められるのだろうか。白い鳩はどれだけ海を渡れば、安らぎの地にたどり着けるだろうか、砲弾がどれほど飛び交えば、争いは終わるのだろうか、友よ、その答えは風の中にある、その答えは風の中にある・・・

 白い鳩は平和のシンボルです。この地上に人と人の間の平和、国と国の間の平和が実現するのはいつか、その答えは、風の中にある、というのです。

 聖書では風は聖霊を象徴しています。ですから、答えは風の中にある、という、この風の中、というのは、わたしたちが、わたしたちすべての人の平和のために、十字架に死んでくださった、イエス・キリストを信じるとき、つまり聖霊に満たされたとき、はじめて、その平和は実現していくのだ、と歌っているように聞こえるのです。

 今日の聖書箇所より、もう少し後の使徒言行録の、二章の41節以下をみますと、この日に、3000人もの人々が使徒たちの仲間に加わり、みな一つになって神を讃美し、礼拝をし、聖餐式を守り、相互の愛の交わり、助け合って共に生活するようになったといいます。わたしたち香里教会も、そのような教会の歴史の中にあります。香里教会は今年で68歳になります。68年間、この香里の地において、みな一つになって神を讃美し、礼拝をし、聖餐式を守り、相互の愛の交わり、助け合って共に生活してきたのです。その歩みが、これからも聖霊に満たされて、続いていくように、次の世代、また次の世代に受け継がれていくように、今新たに、聖霊の風が吹いて、聖霊に導いていただけるように、祈りを合わせたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 主なる神さま、ペンテコステ、聖霊降臨日の恵みを感謝いたします。
 あなたはわたしたちに聖霊を送ってくださり、わたしたちの罪から生じた3つの壁を吹き飛ばしてくださいました。言葉の壁、人間同士の壁、そしてあなたとわたしたちの間の壁です。イエスさまが、わたしたちの罪をすべて引き受けてくださいましたから、わたしたちは、いまイエスさまを通して、すべてのことをあなたに感謝することができます。そして聖霊を受けた人々からキリストの教会が生まれました。わたしたち香里教会の群れは、この地にたって68年目を迎えます、これまでのあなたの導きに感謝いたしますとともに、どうかこれからも聖霊の風をわたしたちにふきつけてくださり、香里教会をまた世界の教会を守り、導いてください。主のみ名によっていのります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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復活節第7主日礼拝 

2017年5月28日 ルカによる福音書 第11章45-54節
「人を生かす神の御言葉」三ツ本武仁牧師

 本日ご一緒に読む聖書箇所はルカによる福音書第の11章45節以下でありますけれども、その冒頭の45節には「そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った」とあります。「そんなこと」とは「どんんなこと」だったのでしょうか。先週読んだ37節以下には、イエスさまがファリサイ派の人々に対して語られた厳しい批判の言葉が記されていました。「私たちをも」とは、このファリサイ派と共に私たちをも、ということです。イエスさまがファリサイ派に対してお語りになった言葉は、自分たち律法の専門家をも侮辱するものだ、と彼は言っているのです。ファリサイ派と律法の専門家とは一心同体と言ってもよい関係にありました。律法の専門家たちの中にはファリサイ派に属している人が多かったのです。それゆえにこの人は、ファリサイ派に対するイエスさまの批判を自分たち律法の専門家に対する批判として聞いたのです。
 
 この人の言葉を受けてイエスさまは、今度は律法の専門家たちに対して、先週の所と同じように「あなたたちは不幸だ」という言い方で批判されました。それが46節から52節です。そこで先ず46節には、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」とあります。ここに、律法の専門家に対するイエスさまの批判、あるいは怒りと言ってもよい思いが示されています。イエスさまが怒っておられるのは、「あなたがたのおかげで、律法は人々の重荷となってしまった」ということです。律法とは、旧約聖書において神様がイスラエルの民にお与えになったみ言葉であって、その中心があの「十戒」であるわけですが、それはもともとは決して民の重荷となるようなものではなかったのです。なぜなら律法は、これを守り行う者は神様の救いを得ることができ、これを守らない者は救われずに滅びる、というような、救われるための条件のようなものではなく、主なる神様によって、エジプトの奴隷状態から解放され、救われたイスラエルの民が、その恵みに心から感謝して、おのずから神様の民として喜んで生きていく、その具体的な表れとして示し与えられたものだったからです。律法は重荷であるどころか、神様の恵みのみ言葉なのです。ところが、そのような律法の本来の意味がいつしか忘れ去られ、これを守れば救いを得ることができる、守らなければ救いは得られないという、救いの条件と見なされるようになっていってしまったのです。

 このことで、私は最近、なるほどな、と感心したことがありました。それはあのキリスト教主義学校のある日の礼拝の中でのことなのですが、生徒会の会長であるひとりの生徒が、みんなに通学マナーを呼びかける、ということで、こんなことをしたのです。彼は、礼拝堂に座っている生徒たちに、向かって、突然で申し訳ありませんが、両手をあげて伸びをしてもらえませんか? と訴えたのです。そこで生徒たちがなんだなんだ、という感じで、ポツポツと両手をあげはじめました。なかには面倒くさそうに手を挙げている生徒たちもいたわけです。その様子を生徒会長がじっとみながら、ある程度してから、ありがとうございました。手をさげてください。と言いました。そしていうのです。みなさん、ぼくが両手をあげてくださいって言ったら、いやいやそうにあげましたよね。そうだと思います。でも、いつもみんな礼拝が終わったあと、あーって自由に両手をあげて、のびをして、あくびしているじゃないですか。でもいまはいやいやそうにする、この違いは何でしょうか。それは人に言われてするか、自分から積極的にするか、の違いなんですよ、自分で積極的にしたら、いやな思いもしないし、むしろ自由に楽しくできる、でも、人に言われてするとき、わたしたちは強制されているような窮屈ないやな思いがするんです。だから、とその生徒会長はいうのです。通学ルールも人に言われて守るのではなくて、自分から積極的に進んで守ってください、そうすれば、そんなこと苦もなくできるし、誰もいやな思いをしないですむんですよ・・・、と。いやー、えらい生徒会長があらわれたなーと感心したのであります。

 話をユダヤの律法に戻しますけれども、結局、そういうことです、律法の言葉は、もともとは恵みの言葉であって、神様への感謝、神さまへの恵みの応答であったわけです。たとえば偶像をつくってはならない、という十戒の第二戒の教えは、偶像をつくったら救われないぞ、ということが本来の意味ではなくて、目に見えないまことの神さまにすくわれた、その喜びに生きているあなたがたには、偶像なんかつくる必要なんかない、ということであったわけです。

 ところが、まさに、それが反対になっていったわけです。律法の言葉が、恵みのみ言葉から、破ってはならないといつもビクビクしていなければならない掟となっていってしまった。そのような言葉・掟はもはや重荷でしかありません。律法の専門家は、律法を重荷として人々に負わせる働きをしたのです。しかもそれは「背負いきれない重荷」だとイエスさまは言っておられます。神様による救いに感謝して、その恵みに応えて生きる生活へと人々を励まし導くために与えられた律法が、守らなければ救いにあずかることができない掟となってしまう時、それは「背負いきれない重荷」になるのです。そして律法の専門家たちは、「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」、つまり彼らの教えは、人々に律法を重荷として負わせるだけで、その重荷を背負って生きるための力や励ましは与えない、むしろ人を裁き、批判し、気落ちさせるだけで、神様を信じて生きることの喜びや慰めや励ましにはなっていない、ということなのです。

 また47節には「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ」とあります。彼ら律法の専門家たちの先祖が昔の預言者たちを殺したのだとイエスさまは言われたのです。預言者とは、神様のみ言葉を預かってそれを人々に語り伝えた人々です。神様はこれまでに多くの預言者を立て、お遣わしになりました。しかしその多くはその時代の人々に受け入れられず、迫害されたり殺されたりしたのです。預言者たちを殺す、それは神様のみ言葉を拒み、それに聞き従わないということです。それをしたのはあなたがたの先祖だ、ということはつまり、あなたがた律法の専門家たちが今していることは、昔、預言者を殺した人々のしたことと同じだ、ということです。律法を人間の掟にしてしまい、恵みのみ言葉を人々の重荷にしてしまっているあなたがたは、自らも神様のみ言葉に聞き従わず、またそれを人々からも奪い取っている、それは預言者を受け入れずに殺した昔の人々のしたことと同じではないか、ということです。

 このように、律法の専門家たちに対するイエスさまの批判は、大変厳しいものであります。そのことは50節、51節のイエスさまのお言葉にも示されています。「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」。殺された全ての預言者の血の責任が、今の時代の者たちに問われるのだとイエスさまは言っておられます。その殺された預言者の代表として、アベルとゼカルヤが挙げられているのです。

 アベルとは、創世記第4章の、あのカインとアベルの物語のアベルです。最初の人間アダムとエバの二人の息子がカインとアベルでした。その兄弟の間で、人類最初の殺人が、兄が弟を殺すというかたちで起ったのです。アベルはいわゆる預言者というわけではありませんでした。しかしあの殺人は、アベルの献げ物が神様に顧みられたのに対して、カインの献げ物は顧みられなかったことによって起りました。つまりアベルは神様と良い関係を持っていた、けれども、カインはそうではなかった。そのアベルがカインに殺された、そのことが、ここで、神様に従う預言者が殺されたという出来事の最初に位置づけられているのです。

 もう一人の、「祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤ」のことは、旧約聖書の歴代誌下第24章17節以下で語られています。ゼカルヤは、ユダ王国のヨアシュ王とその側近が主なる神様を捨てて異教の神々に仕えるようになった時に、神の霊を受けてそのことを諌めた、っして、そのために神殿の庭で殺された人です。まさに神のみ言葉を語ったために、それを受け入れない人々によって殺されたのです。彼は死に際して「主がこれを御覧になり、責任を追求してくださいますように」と言いました。イエスさまはこのことを受けて、アベルの血から始まり、このゼカルヤの血に至るまで、神様のみ言葉を語ったことによって殺された人々の血の責任が、「今の時代の者たち」に問われるのだとおっしゃったのです。

 「今の時代の者たち」とは誰のことでしょうか。それは、イエスさまというまことの預言者、預言者の中の預言者が来られたのに、イエスさまを拒み、その語るみ言葉に聞き従おうとせず、イエスさまに対して敵意を抱き、なんとかして殺してしまおうとさえ思っている者たちのことです。ですからそれは直接には、前回のファリサイ派の人々、そして今日の律法の専門家たちのことになるでしょう。53節、54節には、「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた」とあります。彼らはまさに、かつて預言者を殺した者たちがしたように、いまイエスさまを殺そうと企んでいるのです。そのことをイエスさまは見抜かれ、その責任はあなたがたに問われるのだ、と、言われたのです。

 神様のみ言葉を、み心とは全く違うものへとねじ曲げ、恵みのみ言葉を人々の重荷に変えてしまうこと、そのことを、イエスさまは厳しく批判されています。そのようなことは、神様から遣わされた預言者を殺してしまうのと同じことだ、というのです。そしてそのイエスさまの怒りはいまみましたように、直接にはファリサイ派の人々と律法の専門家たちに向けられています。けれども、いつもそうですけれども、それは本当に彼らだけの問題だといえるのだろうか、ということです。私たちはこのイエスさまの批判、お怒りを他人事のように聞いていていいのでしょうか? ・・・私たちもまた、神様のみ言葉を、み心とは全く違うものへとねじ曲げ、恵みのみ言葉を重荷としてしまっているのではないでしょうか。もし、私たちが聖書のみ言葉を、神様の恵みのみ言葉としてではなく、それを守り行なうことが、救いを得るための条件であるかのように捉えてしまっているのならば、私たちもまた、彼らと同じことをしているのではないでしょうか。・・・み言葉を、救いの条件のように捉えるようになると、ファリサイ派や律法の専門家たちのように、自分が頑張ってそれを守っていることに自分の正しさを見出したり、それを自分の拠り所、誇りとして生きるようになっていきます。しかしそこに必ずついてまわるのは、自分と他の人とをいつも見比べ、自分の方が上だと思えば安心し、逆の場合には不安を覚える、という歩みなのではないでしょうか。またそこには他の人のあら探しをし、人を慰め励ますのではなくて、かえって人を落胆させるような、言動が生まれてくるのではないでしょうか。私たちはしばしばそのように、神様の恵みのみ言葉をねじ曲げ、自分にとっても隣人にとっても重荷としてしまうようなことを繰り返しているのではないでしょうか。イエスさまのお怒りはそのようなことに対して向けられているのであって、私たちにとってそれは決して他人事ではないのです。

 けれども、前回もそうでしたが、イエスさまのこのお怒りは、ただお怒りで終わる、お怒りではないわけです。神さまの言葉に生きているようで、じっさいは自分をも隣人をも御言葉によって苦しめてしまっている、そういう私たちを、まさにそのような状況から救うためにこそ、イエスさまは来てくださったのです。「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる」とイエスさまはおっしゃいました。そのようにおっしゃったイエスさまは、この後どうなさったのでしょうか。イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人々の激しい敵意によって、捕えられ、十字架につけられて殺されたのです。イエスさまもまた、殺された預言者の一人に加えられたのです。しかし、イエスさまを捕え、殺した人々が、そのことの責任を問われて神様の裁きを受けたとは、この福音書も、他の箇所にもどこにも語られていません。「今の時代の者たちが責任を問われることになる」というみ言葉はいったいどうなってしまったのでしょうか。その責任は誰に問われたのでしょうか。驚くべきことに、イエスさまご自身がそれを引き受けて下さったのです。神様のみ言葉を拒み、ねじ曲げ、預言者を殺す私たちの罪の責任を、イエス・キリストご自身が引き受けてくださり、その罪を背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。そのことによって、私たちには、罪の赦しと、新しい命が与えられたのです。イエスさまのご生涯の全体から、私たちはこのことを見つめることを許されているのです。

 私たちは、神様の恵みのみ言葉をねじ曲げて、自分にとっても隣人にとっても重荷としてしまうようなことを繰り返しています。人に背負いきれない重荷を負わせ、自分では指一本もその重荷に触れようとしないのが私たちの姿です。しかしイエスさまは、私たちが自分でも背負い込み、お互いどうしの間でも負わせ合っている重荷に、指を触れるどころか、それを私たちから取り上げて、代って背負って下さったのです。そしてその重荷に押しつぶされるように、十字架の上で苦しみ、死んで下さったのです。このイエスさまの十字架の死によって、私たちは、神様のみ言葉を、律法を、重荷としてしまうような間違った信仰から解放されるのです。この主イエス・キリストを信じる信仰は、負いきれない重荷を背負わされてあえぎながら生きるような喜びのない歩みではありません。またみ言葉を守るべき掟と勘違いして、自分がそれをどれだけ守っているかに一喜一憂し、他の人と自分をいつも見比べながら歩むような、つまり人間ばかりを見つめて生きるものでもありません。私たちは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストをこそ見つめて生きるのです。そのことによってこそ、聖書に記されている神様のみ言葉を恵みのみ言葉として読み、聞くことができます。そのとき私たちは、神様の恵みのみ言葉を救いの条件へとねじ曲げ、自分にとっても隣人にとっても重荷でしかないものへと変えてしまう間違ったとらえ方から解き放たれていくのです。そして、主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みに感謝し、喜びをもって、自分からすすんで、それに応答していく、本当の喜びに満ちた信仰の生活を送っていくことができるのであります。お祈りいたしましょう。

 いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。主なる神さま 自分にも人にも重荷となっていた、あなたの言葉が、御子イエス・キリストの十字架の死による、罪の赦しによって、その重荷から解放され、あなたの御言葉を、あなたの恵みの御言葉として喜びをもって聞くことができるようになりましたことを感謝いたします。どうかその恵みのうちにとどまることができますように、御子イエスの十字架に、たえず目覚めて生きるものとならせてください、主のみ名によっていのります。アーメン

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復活節第6主日礼拝 

2017年5月21日(日)ルカによる福音書 第11章37-44節
「神の恵みの器として」三ツ本武仁牧師

 本日の聖書箇所には、イエスさまが、あるファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いた時のことが語られています。38節に「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」とあります。食事の席に着くに際してイエスさまが身を清めることをなさらなかったのを、このファリサイ派の人は不審に思ったのです。「不審に思った」とある言葉のもともとの意味は「驚いた、びっくりした」といった意味であります。身を清めることをせずに食事の席に着いたイエスさまに彼は、えっと、びっくりしたのです。それはなぜでしょうか。そのことは知るためには、わたしたちの常識ではわからない、ユダヤ教の事情を知る必要があります。

 先ず、「身を清める」ということについてですが、これは実際には、私たちが通常そうしますように、食事の前に手を洗う、という行為を指しています。けれども、その手を洗う、という行為の意味が、私たちの常識とは大きく違っているのです。私たちの場合、それは衛生的な意味でそうするわけです。しかし、ここで問題になっているのは「手を洗わないで食事をするなんて、非衛生的なんだろう」ということではないのです。そうではなく、これは宗教的な事柄なのです。ユダヤ教において、食事の前に手を洗うのは、お腹をこわさないためではなくて、宗教的な汚れを身に負ってしまわないためだったのです。

 わたしたち日本の風習にあてはめましたら、盛り塩などがその一例だといえるのではないでしょうか。日本の葬送儀礼においては、玄関に清めの塩を盛るわけです。そのような習慣が厳格に守られている社会があったとして、その中で、全くそのようなことをせずにすませてしまった、そのようなことが、ここでイエスさまが食事前に身を清めなかった、という振る舞いに当てはまるのです。

 そしてそこに、イエスさまを食事に招いた人がファリサイ派だったことが関係してきます。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ人たちの中でもとくに、神様の掟である律法を厳格に守り、神様の前に清い者であろうとすることに熱心であった、逆に言えば汚れた者となることを防ぐことに熱心であった、そして、そのような生活を人々にも教え勧めていた人々でした。だからこそこの人は、神さまの教えを宣べ伝えているイエスさまが、そのような宗教的な清さに無頓着であることに、驚き、そして不審を抱いたということなのです。

 けれども、そのように驚いているこのファリサイ派の人に向かって、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」と繰り返し語られたのです。42節、43節、44節で三度もその言葉を繰り返えされました。イエスさまはこの人の、ファリサイ派の、信仰のあり方を厳
しく批判なさったのです。その批判のポイントは最初の39節に示されています。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。・・・あなたたちは外側ばかりをいっしょうけんめいきれいにするけれども、内側は汚れに満ちているのではないか、とイエスさまは言われたのです。これと同じような批判が42節以下でも繰り返されています。42節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」とあります。ハッカは皆さん良くご存知のハーブです。ミントです。芸香は、初夏に黄色の花を咲かせ、種子や葉は香辛料、薬用として利用されます。そうしたものや野菜の十分の一を神さまに捧げる。確かに、自分の得た収穫の十分の一を神様に献げなさい、ということが律法には定められています。イエスさまはその定めを決してどうでもよいとか、こんなものは守らなくてよいとは言っておられません。「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」とあります。教会でも、収入の十分の一を神様に献げるというのは、「神様への献身と感謝のしるし」としての「献金」を考える上で、大切な基準であります。それはそれで大切な事柄でありますけれども、しかし、いまここでイエスさまが問題としておられるのは、ファリサイ派の人々が、そういうことは、きちんと神経質なほどに献げていながら、肝心な「正義の実行と神への愛」をおろそかにしている、つまり「しるし」だけで、「神さまへの献身と感謝」の「実践」がない、そのことをイエスさまは批判されているのです。

 それでは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じだ、といわれるのです。また43節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」とあります。会堂で上席に着くとか広場で挨拶されるというのは、人々に尊敬され、一目置かれるということです。神さまの教えに真面目に仕えている人たちの中には、人間的にも立派な人たちもいたことでしょう。そこで、そういう人たちを人々が尊敬する、ということも自然に起ってくることであったのでしょう。しかしここには、そういうことをこの人たちは「好んでいる」とあります。つまり、人に褒められ、尊敬され、重んじられることこそが、目的になってしまっている。・・・あなたたちは、神様に従い仕える生活を教え、神様にこそ栄光を帰すことを主張しているけれども、それが実際には建前になってしまっていて、本音においては自分の名誉、自分の栄光を求めているのでないか。・・・それは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じではないか、とイエスさまは批判しておられるのです。・・・そして彼らは他の人々をもそのような生き方へと引き込もうとしている。そのことをイエスさまは44節で、一つのたとえによって語っておられます。「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」。

 ・・・これはすこし私たちにはわかりにくいたとえですけれども、ここで「墓」とありますのは、墓石というのではなくて、死んだ人を埋めた場所のことです。・・・身を清める、ということの反対で、身を汚す、ということがユダヤ教社会で忌み嫌われていました。その身を汚すさいたるものが、死体に触れることでありました。・・・そういう意味でも、日本古来の宗教観とユダヤ教の宗教観はどこか似ていて興味深いのですけれども、・・それはともかく、墓石というものは、死者のことを記念する意味ももちろんあるのですけれども、それとともに、その死体を埋めてある場所に、人が間違って足を踏み入れて身を汚すことのないように、という、そのための目印としても、置かれたものでした。つまり、ここでイエスさまが言われているのは、あなたたちファリサイ派の人々は、人目につく墓石もない、死体の埋められた場所のようなものであって、清めに熱心のようでいて、じっさいは、人々はあなたがたによって、知らず知らずのうちに、かえって汚されているのだという、そういう酷しい皮肉なのです。

 十字架の死と復活によって、イエスさまは死の力に勝利された方であります、イエスさまの十字架の死と復活によって、もはや死は汚れたものではなくなったのです。それゆえに、まさに、死の問題、汚れの問題は、イエスさまにしか、解決できない問題なのです。それを、人間が、自分たちでできる、できている、と思うところに、様々なゆがみが、問題が起こってくるのです。ファリサイ派の人は、自分の清さ、正しさを求めるなかで、じっさいは神様よりも自分の栄光を求め、人よりも立派な者になることを求めるようになっていきました。そして、その中で、信仰の喜びも神さまへの感謝も感じなくなっていきました、そういう虚しい思いに生きていながら、自分の立場も守り、自分を正当化するために、そういう生き方を人にも勧めて、人々をつまずかせていたのです。

 わたしたちはこのような話を聞きますと、ついどこかの私利私欲にかられて新聞で悪い意味で話題になるような人々を思い浮かべてしまうわけですけれども、しかし、ここで私たちが考えなければならないことは、このように厳しくイエスさまに批判されるのは、そういう一部の人たちだけのことなのだろうか、ということであります。これは罪の中にある全ての人間の問題なのではないでしょうか。・・・とくに私たちクリスチャンは、イエスさまに救われた喜びの信仰生活を送っているはずでありますけれども、それがしかし、いつのまにか、喜びのない信仰生活になってしまっていないでしょうか。真面目で清く正しく生きることこそが信仰だと勘違いをし、そして自分の清さ正しさを量り、それをいつも他の人と見比べながら、誇ったり落ち込んだりという一喜一憂を繰り返すことになってはいないでしょうか。そうなると信仰をもって生きることは、非常に窮屈なものになっていきます。伸び伸びと自由に喜んで生きることができなくなります。もしわたしたちの信仰生活がそのような信仰生活となっているのであれば、それはまさしく、今日イエスさまに厳しく批判されている、このファリサイ派の人の信仰と同じではないでしょうか。

 けれども忘れてはならないのは、イエスさまはここで厳しく批判されているわけですけれども、まさにそのような、罪の縄目に縛られてどうにもならなくなっているわたしたちを救うために、来てくださったのだ、ということです。・・・イエスさまは40節で、「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」とおっしゃいました。杯やお皿にはみな外側と内側があります。私たち人間の外側と内側、外面と内面、人に見える部分と人の見えない心の中のことを、そのようにたとえているわけです、外面だけをきれいにしても、内面、心の中が汚れに満ちていたのでは何にもならない。確かにそうであります。いや、でも、どうやってわたしは自分の心の中をきれいにすることができるだろうか、と思います。しかし私たちがこのイエスさまのお言葉から本当に聞き取るべきなのは、外側も内側も神がお造りになった、と言われていることなのです。イエスさまはそのことにこそ私たちの目を向けさせようとしておられるのです。

 私たちの外側も内側も神様がお造りになった。そのことで思い起こすのは旧約聖書創世記の話です。創世記の第2章7節には神様が人間をお造りになったことについて、このように語られています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神様が土の塵で人を形づくられた、それが「外側」を造られたことに当ると言えるでしょう。そしてそこに「命の息を吹き入れられた」のです。土の塵で造られたのは私たちの外面、肉体です。神様はその肉体の中に命の息を吹き入れることによって、私たちを生きる者として下さいました。それは私たちに内面を、魂を与えて下さったということです。神様が吹き入れて下さった命の息、それは「霊」を意味する言葉でもあります。つまり私たちは、土の塵であるこの肉体に、神様の霊によって命を与えられて、はじめて生きるのです。神様の霊によって魂を、心を、内面の命を与えられて生きている、ギリシャ語で「人間」という言葉は、「上を見る者」という意味があります。上を、つまり神さまを見上げて、神さまを賛美して生きる、それが神さまの霊を注がれた、人間の本来の生き生きとした姿なのです。

 しかし、その命を、わたしたちは外側にこだわるばかりに、見失ってしまった、神さまに吹き入れられたいのちの息をこそ、大切にしなければならないのに、そこから目を逸らしてしまった、的をはずしてしまった、そしてそれによってわたしたちは本当の命を失ってしまった、神さまを見上げて、神さまを賛美して生きることができなくなってしまった、それがわたしたちの罪の姿であります。その罪のために、私たちの命は、魂は、神様とのよい交わりを失い、隣人とのよい交わりも失い、本来の活力と喜びを失ってしまったのです。・・・けれども、イエスさまは、その私たちを救うために、私たちの罪の赦して下さるために、十字架にかかって死んで下さったのです。そして、父なる神様が御子イエスを復活させることによって、新しい霊、聖霊、新しい命を、罪を赦されて生きる新しい魂を与えて下さったのです。

 クリスチャンとして生きるとは、神様が御子イエス・キリストによって実現してくださった、この新しい命の恵みにあずかって生きることです。41節には「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とあります。これは、自分の持っているもの、財産を貧しい人に施すという立派な行ないをすることによって、あなたは外側だけでなく内側も本当に清い者となることができる、ということではありません。そのように考えたら、それは結局、施しによって自分の清さ、名誉、栄光を求めるということになってしまいます。そうではなく、「ただ、器の中にある物を人に施しなさい」、この言葉の第一の意味は、いまから私、イエス・キリストによって与えられる、新しい器の中身、聖霊によって、その新しい命によって、生きなさい、ということです。

 「そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とイエスさまは言われます。自分の清さを溜め込もうとするのではなく、からっぽになって神様の恵みをいただき、神さまの恵みの器として、自分に恵まれたものを感謝して用いていくことによって、全てのものが清いものとなるのです。・・・わたしたちはやっぱり食事の前に手は洗ったほうがよいと思いますけれども、・・・そういうことではなくて、これは汚れているのではないか、こんなことをしたら汚れるのではないか、などとびくびく恐れることなしに、神様に与えられている自分の人生を大胆に、自由に、伸び伸びと生きることができるようになる、それが神の恵みの器として生きる生き方であります。

 「土の器」という歌があります。「欠けだらけの私 その欠けからあなたの光がこぼれ輝く、土の器 ヒビだらけの私 そのヒビからあなたの愛があふれ流れる こんな私でさえも 主はそのままで愛してくださる だから今主の愛に 応えたい 私の全てで 用いてください 主よ、私にしかできないことが 必ずあるから ♫」

 欠けの多い私たちだからこそ、神さまの愛が注がれていて、欠けたところがあるからこそ、まわりにその神さまの愛を輝かすことができるのです。神様の独り子である主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、その業によって罪の赦しを与え、神様の子どもとして生きる新しい命を与えて下さいました。その神様の愛を信じる者は、大胆に神様に信頼して生きることができます。そしてその信頼の中でこそ、自分のものを喜んで人に施すこともできるようになるのです。イエスさまによって、自分という器の中に、新しい命を注がれた、その感謝と喜びの中で、心から神さまと隣人を愛し、仕えていくものとなりたいと願います。祈りましょう。

 主なる神さま、欠け多きこの器をも、あなたはイエスさまを通して、愛してくださり、そこにあなたを仰ぎ見て生きることのできる、新しい命を注いでくださいました。感謝いたします。あなたの恵みの器として、新しい命への喜びと感謝を、あなたにそして隣人に、表していくものとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン

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