08«1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.»10

キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

聖霊降臨節第16主日礼拝 

2017年9月17日(日)ルカ14章25-35節
「自分の十字架を背負って」三ツ本武仁牧師

 私たちが主イエスの弟子として、信仰者として、途中で挫折することなく最後まで歩み通していくために必要な備えとは何であるか、今日の聖書箇所には、そのことについて、一見すると大変厳しいことが語られています。26節「もし、誰かが、わたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらには自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」というのです。さらにまた、33節「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」とも言われているのです。明日は敬老の日で、祖父や祖母を労わり、感謝を表す日であるわけですけれども、ここには直接には、祖父や祖母を憎めとはありませんけれども、しかし、家族を憎まなければ、わたしの弟子ではありえない、というのですから、その意味では当然、祖父や祖母のこともそこに入ってくるわけであります。

 これを聞くと私たちは誰もが、「自分にはこんなことはとてもできない」と思わずにはおれないでないでしょうか。先週は大変嬉しい、洗礼式があったわけですけれども、まだ洗礼を受けておられない方々の中には、あの洗礼式を目の当たりにされて、ああ自分も受けてみようかな、と少し心動かされた方もおられるかもしれない、と思うわけですけれども、今日のところは、その思いを消し飛ばしてしまうような、「ああ無理だ、やっぱりやめよう」と思ってしまうような内容に思われるのではないでしょうか。ある意味で、この厳しさは、確かにそうだ、ということがいえるのかもしれません。信仰をもって生涯を歩むというのは、確かに、決して楽なことではない、ということがいえます。いいかげんな気持ちでは長続きしない、ということは確かにいえるのです。

 そのことを、28節以下に語られている二つのたとえ話は物語っているといえるでしょう。塔を建てようとする人のたとえと、他の王との戦いに赴こうとする王のたとえです。「塔を建てる」というのは、町を守るための砦や、ぶどう園を侵入者から守るための見張りの塔など、生活に必要な塔を建てるという話です。その時には、「造り上げるのに十分な費用があるか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」とあります。また他国の王に戦争を仕掛けようとする王は、自分の戦力と相手の戦力とを比較して、勝ち目があるかどうかを「まず腰をすえて考えてみないだろうか」とあります。そういうことをしっかり考え、準備しないで建て始めると、完成できずに物笑いの種になるし、戦争においてはまさに以前のわが国がそうであったように悲惨な結末を迎えることになるのです。これらは両方とも、最後までやり遂げるための準備がしっかりなければ、途中でつぶれてしまう、中途半端で終わってしまう、という警告です。どちらのたとえにおいても「腰をすえて」という言葉が用いられています。これは文字通りには「座って」という意味なのですが、「腰をすえて」というのはなかなか味のある訳だと思います。物事を最後までやり遂げるためには腰をすえて掛からなければなりません。主イエスの弟子となる、つまり信仰者として生きていくことにおいても、腰をすえて、しっかりとした備えを持って取り組まなければ、結局途中で挫折してしまう、ということになるのです。

 けれども、そのことを確かではあるけれども、私たちは、ここでイエスさまがお語りになったことを、ただ厳しいことが語られるといるだけだと受け止めてしまってはならないのです。・・・「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」を「憎む」ことが求められています。これはどういうことなのでしょうか。イエスさまの弟子となり、従っていくに際して、家族のことなどにかまっていてはいけない、家庭のことは放っておいて、ただ主イエスに従うことだけを考えよ、と言っているのでしょうか。そう捉えてしまって、この聖書の言葉につまずいてしまう、ということがあるようです。家族を憎めなどと、イエス・キリストはなんてひどいことを教えるのか、と、そう思ってしまうのです。もっともこのことは、その人と家族との関係が実際にはどうであるかにもよるという面もあるでしょう。家族、身内によってさんざん苦しめられ、家族であるがゆえに、そこから逃れられずにいるような人にとっては、この教えは解放を告げる教えと受け取られるかもしれません。じっさい、たとえば夫の暴力に苦しんで駆け込み寺のようにして教会に飛び込んで、そのままクリスチャンになった、という人も少なくないのです。

 しかし、イエスさまがここで語っておられることは、そういうことではないのです。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を「憎む」とはどういうことなのでしょうか。マタイによる福音書の第10章37、38節に、ここと同じ教えが語られています。そこにはこうあります。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」つまり、ここでイエスさまが「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を憎みなさい」と言っておられるのは、憎しみをもて、ということがおっしゃりたいのではなくて、そのような家族以上に、わたしを愛しなさい、ということなのです。

 「自分の命であろうとも、これを憎まないなら」と言われています。自分の命を憎むというのは、こんな命はいやだ、もう生きていたくない、と思うことではなくて、自分の命よりも主イエス・キリストをより愛し、大切にするということなのです。イエスさまがここで教えておられるのは、家族を、また自分の命を愛することをやめ、それらを憎むようになることではなくて、本当の意味で、家族を愛し、大切にし、また自分の命を愛し、大切にするためにこそ、それらを私たちに預けてくださった、主なる神を、イエス・キリストを第一に愛しなさい、ということなのです。

 33節の「自分の持ち物を一切捨てないならば」という教えも、「そんな無理なことなどできるわけがない」と私たちは正直思うわけです。しかし、自分の持ち物を捨てないというのは、それらにしがみつき、それらを頼りにし、それらによって安心を得ようとしているということです。しかしそれでは、主イエスの弟子として、主を中心とした、信仰者としての生き方になっていないということです。人生が、物事が順調に行っている間は、あるいは、そういう生き方でもなんの問題もないかもしれません。しかし様々な苦しみ、試練が襲って来る時に、私たちが何にこそ本当に依り頼み、何を拠り所として生きているのかが問われるのです。いざという時に本当に頼りにし、支えとなるものは何だと思っているのか、そのことが問われているのです。

 要するに問われているのは、私たちが本当に愛し、依り頼んでいる相手は誰なのか、何なのか、ということです。自分が持っているもの、自分の命、家族、様々な人間関係、財産なのか、それとも主イエス・キリストなのか、ということです。主イエスの弟子として、信仰者として生きるというのは、自分の持っているものを第一に愛し、それらに依り頼んで生きるのではなく、主イエスをこそ第一に愛し、主イエスにこそ依り頼んで生きていくことです。主イエスは私たちにそのことを求めておられるのです。・・・それは決して主イエスご自身のためではありません。イエスさまがそれで満足するとか、面目が保たれる、ということではないのです。それはむしろ私たちのためです。主イエスをこそ愛し、主イエスに依り頼む信仰によってこそ私たちは、本当の意味で、自分の命を、家族を、また与えられている様々な持ち物を、大切にして生き、また生かしていくことができるからです。

 私たちが自分の命を本当にかけがえのないものとして大切にしていくことができるのは、それが神様の恵みによって与えられたものであり、神様の独り子であられる主イエスが、ご自分の命を身代わりに与えて下さるほどにそれを大切に思って下さっていることを本当に身にしみて、知ることによってです。どんな苦しみや絶望の中にあっても、まさに命が失われていく中でも、あるいはこんな命はもういらないと私たちが思ってしまうような時にも、主イエス・キリストは、その私たちの命を心から愛し、私たちのために身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのだ、と知るとき、私たちは、自分をはじめとする人間の力や思いを超えた、本当に深い慰めと励まし、平安が与えられるので「す。その慰め、励まし、平安の中でこそ、私たちは、絶望の中から立ち上がり、この与えられている命を大切に生き抜いていくことができるのです。

 また私たちは自分の家族を、どんなに愛し、大切にしていても、自分の力で家族を救うことはできないし、支え切ることもできません。愛する者の命が、例えば病によって失われていくことを私たちはどうすることもできないのです。また自分のあるいは誰かの罪によって、愛し合っていたはずの家族が崩壊してしまうようなこともあります。私たちは家族によって支えられ、慰められ、励まされることも確かだけれども、その家族を本当に支え、守っていく力は、私たち自身の中には本来にはないのであります。

しかし、私たちが、主イエス・キリストを信じ、愛し、従い、依り頼んでいく時、主イエスが、私をも、私の家族をも、私たち以上に愛していて下さり、その一人一人の罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命の約束を与えて下さっていることを知らされるのです。この主イエスの救いの恵みの中で、その恵みに支えられて、私たちは、様々な人間の罪にもかかわらず、自分自身や自分の家族を本当に愛し、大切にしていくことができるのです。また私たちは、主イエスを愛し、主イエスに依り頼んで生きることによってこそ、自分の持ち物、財産をも本当に生かし、有意義に用いることができるのです。

 私たちは、主イエスの弟子となり、従っていくことによってこそ、自分の命をも、家族をも、隣人をも、そして自分の持ち物をも、本当に大切にし、有意義に用い、それによって隣人とよい交わりを築きつつ生きることができます。そのようにして私たちは、この世、この社会において、「地の塩」として生きていくことができるのです。34、35節には、「塩」についてのみ言葉があります。塩に塩気がなくなってしまったら、何の役にも立たないものになってしまう、と教えられています。主イエスは私たちが、塩味を失わずに、地の塩としての働きを維持していくことを期待しておられます。キリスト信者が失ってはならない塩味、それが、主イエスの弟子として、主イエスをこそ愛し、依り頼み、主イエスに従って生きるということなのです。信仰者としての人生を生き抜いていくためには、この塩味を失わないことが大切なのです。

 主イエスの弟子として「自分の十字架を背負って」いくというのはそういうことです。今日のところで特にみなさんの心にとめていただきたいのはこのことです。自分の十字架を背負って、と聞きますと、私自身がそれぞれの人生で背負いこんでいる、あの苦しみ、あの悲しみのことかと思います。そのようなそれぞれの人生の重荷、苦しみ、病という十字架を背負って、イエスさまに従いなさい、とそういうふうにここは読めます。しかし、もちろんそれはそうなのですけれども、しかし、私たちがそこで、第一に背負う十字架は、私たちが自分の家族や自分の命を第一にするのではなくて、主イエスこそを第一にしなさい、愛しなさい、と教えてられているのと同じように、主イエスの十字架をこそ第一に背負いなさい、ということなのです。あなたの人生には確かに、十字架と呼ぶべき重荷が確かにあるけれども、それ以上に、わたしの十字架、キリストの十字架をこそ、自分の十字架として背負いなさい、というのです。もちろん、その十字架は、じっさいには私たちに背負えきれる十字架ではありません。いや、本当は、わたしたちが背負わねばならない十字架でありながら、それを背負い切ることのできない私たちに代わって、イエスさまが、わたしたちのために背負って、背負い抜いてくださった十字架であります。

 それはわたしたちがその罪のためにかけられ、そこで死なねばならなかったはずの十字架です。しかしイエスさまが、それを背負い抜いてくださったことによって、神さまと和解のしるしとなり、罪の赦しのしるしとなり、復活のいのちのしるしとなった十字架であります。その十字架を、自分の十字架として背負ってよい、とおっしゃってくださっているのです。・・・ですから、この十字架を背負う歩みには、わたしたちの人生の十字架を背負うだけの歩みには決してない、希望と救いが約束されているのです。

 私たちはこの復活につながる、主イエス・キリストの十字架を自分の十字架として背負って歩むようにと求められているのです。その歩みの中で、主イエスが、私たちの人生の重荷を、共に背負って下さっているそのことを覚え、感謝しつつ、自分の命を、家族を、隣人を、そして自分の持ち物をも、本当に愛し、大切にし、有意義に用いて生きる力をいただくのです。祈りましょう。

 主なる神さま
 わたしたちは、自分の命、自分の家族、自分の仕事、自分の人生を、まさに自分、自分と自分のものであるかのように考え、自分中心になって、それをなんとしかしよう、なんとかしたい、ともがき苦しみ、かえって悲しみや苦しみをまし加えていました。しかし主よ、今日あなたがわたしたちを御言葉で照らしてくださり、そのようなわたしたちの罪を、イエス・キリストが十字架において、命をかけて滅ぼしてくださった、その恵みに感謝し、主を愛し、主の十字架をこの自分のための十字架として背負っていくときに、まことの平安に満たされた主の弟子として歩みが与えられることに目覚めて歩むものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
スポンサーサイト

category: 礼拝メッセージ

cm 0   tb 0   page top

聖霊降臨節第15主日礼拝 

2017年9月10日(日)ルカによる福音書 第14章15―24節
「主の食卓に着こう」 三ツ本武仁牧師

 先週は、私は自分の母教会である東京の経堂北教会の礼拝で奉仕をさせていただきました。20数年ぶりに母教会で礼拝をしてきたのですけれども、放蕩息子の帰還とはこういうものか、という嬉しい体験させていただきました。以前香里教会の教会員であった山室美恵さんと息子さんの秀樹さんも来てくださって、これも嬉しい再会の時も与えられました。大変恵みに満ちたひとときを与えられ、本当に感謝でありました。
 香里教会も、杉田典子先生がやはりひさしぶりに香里教会の講壇に立たれて、とても身の引き締まる説教をしてくださったと何人かの方から聴いております。一人ひとりの確かな信仰を土台として教会は立ち上がっていく、ということで、とくに聖書を毎日読むようにということであったそうですけれども、私もそれは実践していますので、ぜひ皆さんも、おくまでも自由な心でそれを心がけていただけたらと思います。

 さて、本日ご一緒に読む14章の15節から24節は、14章の前半のしめくくりであります。14章は、イエスさまがある安息日にファリサイ派の議員の家に食事に招かれたことからはじまって、その食卓における会話が今日のところまで続いているのです。今日のところは、その「食事を共にしていた客の一人」が、イエスさまに「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったことから、話が展開していきます。

 イエスさまはその前の14節までのところで、宴会に招待されてその席に着く、というたとえを用いて、神様による救いにあずかるとはどういうことかをお語りになりました。神様を、盛大な宴会を催してそこに人々を招いて下さる方として語られたのです。その宴会は勿論、この地上のどこかで開かれるものではありません。14節の最後には、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とあります。つまりこれはこの世の終わりに、正しい者たちが復活して永遠の命を与えられる。その人々が招かれてあずかる神の国の食事です。救いの完成とは、この神の国の食事に招かれることだ、とイエスさまは語られたのです。最初に申しました、経堂北教会で、私に洗礼を授けてくださった牧師は昨年天に召された四竈揚牧師でありましたけれども、広島で被爆をされた牧師でして、戦争反対、核兵器反対のメッセージを、ご自身とご家族の実体験に基づいて、それをキリスト教信仰の視点から説得力をもって語ることのできた貴重な方でありましたけれども、その先生が、この神の国での食卓について興味深いお話を、ある本のあとがきで語っておられました。それは、四竈先生の弟さんが、もう10年近く前に、脳卒中で突然に亡くなられたのですけれども、その前日、珍しくその弟さんから、四竈先生にお電話があって、何かと思って話を聞くと、今朝、不思議な夢を見た、両親が、ちゃぶ台に座って、お茶をすすっていて、二人が私をみて、よくきたね、と手招きする、そういう夢だったというのです。それで四竈先生は、その話も不思議だったし、そういう話をする弟のことも不思議に思っていたら、次の日にそういうことになって、びっくりされたわけです。それで四竈先生は、今まではそんなふうに考えたこともなかったけれども、天国というのは本当に身近な、近しい家族との団欒に招かれるようなものなんだろうと、そう綴っておられました。

 今日の聖書の話に戻りますと、イエスさまの話を聞いて、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った、この人の言葉は、イエスさまが語られたことへの素直な反応であると言えるでしょう。「神様が世の終わりに盛大な宴会を開き、永遠の命にあずかる人を招いて下さる。その食卓に着くことができる人はなんと幸せなことか、私もぜひその食卓に着きたいものだ」という思いです。そういう意味でこの人は、イエスさまの言葉を素直に、好意的に聞いていると言うことができます。ファリサイ派の議員の家での食事の席に集った人々の多くは、イエスさまが安息日に病人を癒すのかどうかと様子を伺っていたと1節にありました。そしてイエスさまは彼らに挑戦するように問いかけて癒しのみ業をなさいました。だからこの席にはイエスさまへの敵意や憎しみの思いが渦巻いていたと考えられるのですが、この人の言葉にはそういうことは伺えません。しかしそれではイエスさまがこの人の言葉を喜ばれたのかというと、決してそうではないのです。イエスさまは彼の言葉を受けて再びたとえ話をお語りになりました。そしてそのたとえ話は、この人が、イエスさまがこれまでお語りになったことの肝心な点を全く理解できていないことを明確にするものとなっているのです。この人はイエスさまのお言葉を好意的に聞き、それに素直に反応しましたが、実は肝心なことを何も分かっていなかったのです。そのことをイエスさまは知ってもらいたかったのです。では、その肝心なこととは何でしょうか。

 16節以下のそのたとえ話は、ある人が盛大な宴会を催そうとして大勢の人を招いた、ということから始まっています。そして準備ができたので僕を送り、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせたのです。当時の宴会はこのように、前もって招きを伝えておき、その時刻になったらもう一度招くという二重の招待がなされていたようです。ところが、先の招きを受けていた人々がいよいよという時になって次々に断り始めたのです。「畑を買ったので、見に行かねばなりません」「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」とそれぞれ理由をつけます。しかし、これらはどれも、命にかかわるほどの問題というわけではない、ということが大事な点であります。要するにそこには、この人たちが、この家の主人の招きと、自分の日常的な都合や事情のどちらを優先しているかが表れているのです。彼らは皆、自分の日常的な都合や事情を第一とし、この人の招待を二の次のこととしてそれを断ったのです。

 そこで、断られた主人は怒って、僕に「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と命じました。僕はそのようにして人々を宴会へと連れて来ましたが、まだ空席があります。主人はさらに「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言って、人々を「無理にでも」集めて自分の宴席をいっぱいにするのです。

 このたとえによってイエスさまは何を語ろうとしておられるのでしょうか。まず第一に言えることは、神の国の食事への招きが既になされているのに、それを断っている人々がいる、ということです。ここで、盛大な宴会を催そうとしているこの主人が神様を指していることは、明らかであります。神様の招きを、この人々は断っているのです。あれこれ理由をつけて、神の国の食事よりも自分の都合や当面の生活の問題を優先にしているのです。また、この人たちはそれぞれに豊かな生活をしているともいえます。畑を買うことができるし、牛を二頭ずつ五組、つまり十頭買うのも相当高額な買い物です。また妻を迎えて家庭を築く基盤を持っています。彼らはそこそこに豊かであり、自分で運用することができる財産があり、それゆえにいろいろと忙しくしているのです。そういう忙しさの中で、しかしいま、神の招きがないがしろにされ、後回しにされているのです。この主人は最後の24節で「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と宣言します。神様の招きをないがしろにするなら、神の国の食卓に着くことはできないのです。そして主人は、その人たちに代って、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を招きます。この人々こそが神の国の食卓に着くのだというのです。

 ここで私たちは、前回読んだ12節以下のイエスさまの教えを思い起こしたいと思います。宴会に人を招くときには、友人、兄弟、親類、近所の金持ちなどを、つまり自分でも宴会を催して招き返すことができる人を招くのではなくて、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい、とイエスさまはおっしゃいました。そして「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」、と言われたのです。

 それは、神さまの私たちへの愛、恵みというものは、私たちには到底お返しなどできないものであることを知っている、そういう信仰がある中で、できることであり、また、だからこそ、その人自身もまた、神さまの豊かな恵みにあずかって生きることができるからです。

 イエスさまは今日の21節で、まさにそれと同じことを、語っておられるのです。イエスさまのたとえは、私たちが、宴会を開く時にはどのような人を招待すべきか、ということを問いつつ、その奥底において、神様は、どのような人を神の国の食事にお招きになるのか、ということを語っているのです。そして、このことを、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったあの人は、全く分かっていなかったのです。

 つまりあの人は、12節以下の教えを、自分が人を招待する時にはどうすべきか、という教えとしてしか聞いていなかったのです。お返しのできないような人を招くことによって、つまり見返りを求めずに人に親切にするという善行を積むことによって、神様が報いて下さり、神の国で食事をすることができる幸いな人になることができる、そうなれる人は幸いだ、自分もそうなりたい、と彼は思ったのです。しかし、そういうこの人に対して、イエスさまは、「あなたは神さまの招きが全く分かっていないよ。神さまこそは、お返しなど自分にはできない、できていないと思っている人をこそ、招いてくださる方なのだよ、神さまのみ前で、自分を誇るもののない人、何か、神さまにこんなよいことをしてきましたと示すようなもののない人をこそ、神さまはご自身の食卓に招き、神の国の食事にあずからせて下さるのだよ。」、と語りかけておられるのです。

 そしてそこにはさらに、「あなたは、神の国で食事をする人は幸いだ、そうなれたらどんなに素晴しいか、と言っている。それはあなたが、神の招きを他人事のように、幸いな誰かに与えられるものと考えていて、今まさに自分自身が招かれていることに気付いていないということだ。招かれていたのに自分の都合や思いを並べ立ててそれを拒んでいる人々とは、あなた自身のことなのだよ」。という、そのようなイエスさまのみ心が示されているのです。

 イエスさまのたとえ話には、主人の恵みの宴会に人々を招く役割を担う「僕」が登場します。この一人の僕こそは、神様の独り子イエス・キリストご自身なのです。イエスさまによって、神様の招きが私たちに告げられているのです。しかし私たちはその招きを真剣に受け止めずに無視したり、いろいろな言い訳を言って断ってしまうのです。イエスさまが招いて下さっているのにそれに応えようとしない私たちの姿がここに描かれています。招かれるに相応しいところなど何もない、何のお返しもできない私たちを、神様は招いて下さっているのです、なぜか、それは主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったからです。

 主人は僕に、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言っています。神様が願っておられるのは、私たちが罪によって裁かれ滅びてしまうことではありません。一人でも多くの人が、救いにあずかり、神の国で食事の席に着くことをこそ願い望んでおられるのです。そのために、人々を「無理にでも」ひっぱって来ようとしておられるのです。来たい人は来なさい、来れる人は来なさい、ではなくて、ぜひ私のもとに来て欲しい、私の救いにあずかり、私の食卓に着いて欲しい、と願っておられるのです。

 神様が私たちに与えようと強く願っておられるこの救いにあずかるために私たちに求められていることはただ一つ、神様の招きを真剣に受け止め、それに応えて出かけることです。畑を買ったから、牛を買ったから、妻を迎えたから、これらは確かに人生における大事なことでしょう。どれも確かにいい加減にはできないことあります。しかしそれらを、神様の招きを無視したり、後回しにする口実とするのでなく、「招いて下さってありがとうございます」と言って、実際に出かけて行って主の救いの食卓に着くことが私たちに求められているのです。それが、洗礼を受けるということです。この朝、神様の招きに応えて洗礼を受け、この教会の一員となろうとしている方々があることはとても嬉しいことです。私たちのこの世の生活には、畑を買った、牛を買った、妻を迎えた、というような様々なことがあり、それらが神様の招きに応えて洗礼を受けることの妨げとなってしまうことがあります。あるいは、自分のような者は神様の救いには相応しくない、自分が招かれているはずはない、などと勝手に思い込んでしまうこともあるでしょう。しかし神様はそのような私たち一人一人を、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによって招いて下さり、私たちがその招きに応えることを根気強く待っていて下さるのです。

 神の国の食事を、今この地上において前もって味わうために備えられているのが、教会の礼拝において行われる聖餐であります。私たちはイエスさまによる神様の招きを信じて、それに応えて洗礼を受けることによって、聖餐の食卓に着くのです。聖餐のパンと杯は、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、肉を裂き血を流して死んで下さったことによって、私たちの罪の赦しを実現し、私たちに神様の救いをもたらして下さった、その既に与えられている恵みを思い起し、それにあずかり、感謝するために与えられています。そしてそれと同時にこの聖餐は、今は天において父なる神様の右の座に着いておられる主イエスが、この世の終わりにもう一度来て下さり、私たちに復活と永遠の命を与えて下さる、その救いの完成の時にあずかることを約束されている神の国の食事の先取りとして与えられている希望の食卓でもあるのです。

 主によって天国にまでつながる命が与えられたことを感謝し、だからこそ、今与えられている人生に感謝して、互いの人生を分かち合い、主のみ心にかなった教会として、主の食卓の中心とした交わりをこれからも続けていきたいと願います。

 祈りましょう
 主なる神さま、あなたの招きに答えて、あなたが備えて下さった食卓に共に着くことができます恵みを感謝いたします。世の様々な思い煩いを超えて、あなたの招きに答えていくものとなれますように、そしてまた新しく、あなたの招きに答える者が起こされますように、聖霊の導きが豊かにありますように、主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

cm 0   tb 0   page top

聖霊降臨節第14主日礼拝 

2017年8月27日(日)ルカによる福音書 第14章1-14節
「高ぶる者とへりくだる者」三ツ本武仁牧師

 私たちは生きているのではなく、生かされているのだ、この真実を、本当にその身をもって経験され、その姿でもって、そのことを証してくださった方が、先週も少しお話ししました。この8月2日に天に召された野村祐之(のむら・ゆうし)先生でありました。野村先生は、青山学院大学の神学部を出られて、アメリカにご留学され、アメリカで牧会などの働きをされたあと、母校の青山学院大学で教鞭をとってこられた方でしたけれども、42歳のときに末期肝硬変で突然倒れられて、その時死の宣告を受けられたのですけれども、アメリカで肝移植手術を受けられて、術後も非常に苦しまれたのですけれども、一時は本当に元気に回復されたのですが、今年70歳になられる年に、癌のため逝去されたのでした。

 その42歳からの闘病生活のことを綴られているのが『死の淵からの帰還』というこの本なのですけれども、信仰的な意味でも、また内容的にも大変勉強になり考えさせられる書物で、これまでの何度か読み返えさせていただいてきましたが、その中で、2つのことをご紹介させていただきたいと思うのですが、1つは「祈りの手」という話でして、これは野村先生が、肝移植をされたあとその拒否反応で、非常に苦しまれていたとき、夜中に朦朧となりながらも、ふと、目を覚ますと、誰かの大きな手で、ベッドの下から支えられている、そういう確かな感覚があって、その大きな手に支えられて、痛みが和らいでいる自分に気づくのです。そして、それはたくさんの人の祈りが大きな一つの手になって自分を支えているのだとはっと気づかれたそうです。そしてまたそのとき、なぜか自分の頭の中に、スウェーデンのある村の名前が浮かんできて、そこに電話をしてほしい、と付き添っていた奥さんに頼まれたのです。そのときは奥さんもびっくりして、結局連絡はされなかったのですが、しばらくして、お知り合いのある牧師から手紙が来て驚かれたのです。その手紙には、いまスウェーデンのある村にいて、それは野村先生が口にした村の名前であったわけですが、そこの教会で司式を頼まれ、とくにいま闘病中のあなたのことを祈った、教会員のみんなもあなたのことを祈ってくれた、遠く離れたスウェーデンの片隅でも、あなたのことを祈っていることを伝えたくてこの手紙を書いた、とあったのです。野村先生は、大変驚かれたということでしたけれども、主イエスの、そして多くの人々の祈りに支えられて自分は生かされている、そのこと実感された、それは大きな体験であった、といいます。

 また、もう一つは、そのような入院生活がようやく一段落について、入院後はじめて、外出がゆるされ、病院の外の庭園を、家族に付き添われて車椅子で散歩されたときのことですが、そのとき、その庭園の草木が、太陽に向かって、地中からプワーと吹き出している緑の風船のように見えたというのです。この地上はいのちのエネルギーに満ち溢れている、そして、またこの自分も、そのいのちのエネルギーの中で、生かされている存在なのだ、と知ったというのです。そしてそれ以来、草木を見るたびに、その場面を思い起こすようになった、ということですが、実は、こどもたちに人気のアニメ映画に「となりのトトロ」というかわいらしくも切ない映画があるのですが、その映画の一場面で、ちいさな姉妹が、トトロからもらったドングリを庭にまくと、ある晩、トトロがやってきて、お祈りのようなおなじないのようなことをする、すると、そのドングリが、ものすごい勢いせ成長して、命のエネルギーに満ちた巨木になっていく、そういう場面があるのですが、野村先生は退院後、ご自宅で、娘さんがたまたま見ていたその映画を見られて、びっくりされて、これはあのとき自分が見た光景と同じだと思われたそうです。わたしたちは、いのりによって支えられ、また、大きな命の中で、生かされているちっぽけな存在であること、そのことを野村先生は、ご自身の体験を通して、わたしたちにリアルに教えてくださった、そのように思うのであります。

 さて、礼拝においてルカによる福音書を読み進めていますが、本日から第14章に入ります。その冒頭の1節に、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが」とあります。主イエスがファリサイ派の人に招かれてその家で食事をする、という場面を、ルカによる福音書は度々描いています。7章36節以下にもそういう場面がありました。11章37節以下にもありました。ですからファリサイ派の人からこのように食事に招かれるのは少なくともこれで三度目です。そしてこの第14章において、この食事の席での話は24節まで続いています。この食事の席でイエスさまが、「宴会に招かれる」ということをめぐって語られた教えが24節まで続いているのです。イエスさまはこのように、宴会の席に着いて人々と飲み食いし、語り合うことを喜んでおられました。この後の15節以下では、神様による救いにあずかることを、盛大な宴会に招かれることに譬えておられます。救いにあずかることの譬えとして用いておられるのですから、宴会に連なり、食事を共にすることを、イエスさまは基本的に良いこと、恵みに満ちたこととして捉えておられるのです。

 しかし、この日のこの食事は、和気藹々とした楽しいものとは言えませんでした。「人々はイエスの様子をうかがっていた」と1節の終わりにあります。イエスさまを招いたファリサイ派の議員も、また共に招かれていた人々も、イエスさまのことを疑いの目で見つめ、監視していたのです。ファリサイ派の人の家での食事を重ねるごとに、イエスさまと彼らの間は次第に険悪になってきていたのです。

 イエスさまと彼らとの対立の要因の一つは、安息日についてのことでした。そのことが14章の1節から6節で語られていることでありますけれども、これは以前の13章の10節以下で語られていました、十八年間腰が曲がって苦しんでいた女性を、イエスさまが安息日に癒された、という話と内容的には同じことが語られています。安息日とは何か、ということを、イエスさまは、旅を続けながら、その町々の会堂やこうしたファリサイ派の人の家で繰り返し語ってこられたことが、わかります。その13章10節以下のところの説教で語らせていただきましたように、イエスさまによれば安息日とは、わたしたち人間が、神さまによって解放された、そのことを喜び祝いつつ、その喜びを隣人にも分かち与える日なのです。その意味で、安息日とは、すべての人が神さまによってゆるされ、生かされ、救いに導かれていることを覚えて感謝する日です。

 わたしたちの教会は、そのイエスさまの教えに基づいて主の日である日曜日に礼拝を守っているのです。ですから、礼拝に招かれているのは既にクリスチャンなった者たちだけではないのです。すべての人をイエスさま招いておられるのです。だからそのことを覚えて、求道者の方々に対してわたしたちは、あたたかく、あせらずに、神さまが与えてくださるその時を待って祈り続けていくことが大切なのです。そおれからまた、さまざまな思い煩いの中で、信仰につまずきを覚えている方があったとしても、その人に向かって、信仰が足りないとか、神さまにゆだねきっていないとかいうのは間違いであります。安息日は、そのような人々をも神さまが、愛し、支え、導こうとされている、そのことを覚える日であるからです。すべての人が神さまに救いに招かれ、いこいのほとりに招かれている、そのことを、わたしたちは見失ってはならないのです。

 さて、そのような安息日をめぐる対話のあと、7節には「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」ということが語られています。食事の席に招待された人々が、できるだけ上席に着こうとしている様子をイエスさまはご覧になったのです。ファリサイ派の議員の家でのこの食事の席に招かれていた人々は、3節にもあったように「律法の専門家たちやファリサイ派の人々」が多かったのです。この人たちは、いつも人々から「先生」と呼ばれて尊敬を受け、招待されればいつも上席に案内されていたのでしょう。だから自分は上席に着くものだという感覚が身についていたのではないでしょうか。

 イエスさまはそういう彼らの姿を見て、婚宴に招待されたら、というたとえを語られました。私たちの間でもそうですが、結婚の披露宴においては、招待した人の席を決めるのに気を使います。主賓のテーブルには誰に座ってもらうか、両家のバランスをどうするか、などをいろいろ考えなければならないわけです。そういう婚宴において、勝手に上席に座ってしまうと、自分よりも身分の高い人が招待されていて、「すみませんがもう少し下の方に移って下さい」などということになって恥をかく。むしろ末席の方に座っていて、招待した人に「あなたはもっと上席に着いて下さい」と言われる方が人々の前で面目を施すことになる、とイエスさまは言われたのです。

 わたしたち日本人は、このイエスさまの話を、間違ったかたちで受け止めてしまっていることが多いようです。日本人の文化は「恥の文化」ともいわれますけれども、名誉を第一とする日本人は、恥をかくことももっとも嫌うわけです。ですから、私たち日本人は、ここに出て来る人々のように我先にと「上席を選ぶ」ようなことはめったにしません。そんな恥ずかしいことするわけがない、と思うわけです。ですから、ここでイエスさまが言われていることは当たり前じゃないかと、思うわけです。

 けれども、このたとえでイエスさまが私たちに伝えようとされているのは、そういうことではないのです。・・・イエスさまがここで語ろうとしておられるのは、11節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。

 「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。これも確かに、一般的な教訓としても語られることです。日本人には先ほどの「恥の文化」に並んで「謙譲の美徳」という感覚もあります。自分を低くすることの美意識を見る感性であります。しかしイエスさまはここでそういう道徳を語っておられるのでしょうか。イエスさまが言っておられるところの「高ぶる」と「へりくだる」はどういう意味なのでしょうか。そのことは、12節以下のもう一つの教えと合わせて読んでいくことによって明らかになっていきます。そこではイエスさまは今度は、自分たちを招いた人、あのファリサイ派の議員にこうおっしゃったのです。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。これは人を宴会へと招く時の話です。招かれた人がどの席に着くか、というこれまでの話とは別のことのようにも思われます。しかし、この話は、「高ぶる者」とはどういう者であり、「へりくだる者」とはどういう者であるかを、伝えているのです。

 「友人、兄弟、親類、近所の金持ち」、これらがイエスさまの言われる「高ぶる者」なのです。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」、これらが「へりくだる者」です。わたしたちが普段考えていること、イエスさまがここで語っておられることはちょっとちがうのです。では、この両者の違いは何でしょうか。それは、「お返し」ができるかできないかです。宴会に招かれたら、今度は自分の方も宴会を催してその人を招待する、そのようにお返しをすることができる人と、貧しくて宴会を催すことなどとてもできず、お返しをすることができない人、という対比が見つめられているのです。そこでイエスさまは、その貧しくてお返しのできない人をこそ、宴席に、パーティーに招きなさいと教えられているのです。そうすることによってこそ、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と最後の14節にあります。これは、この世の終わりにおける神様の裁きにおいて、ということです。報いて下さるのは神様です。つまり、このように貧しい人を招くことをこそ、神様は喜んで下さるのだ、ということです。

 それはなぜでしょうか。それは、神様がそのことを喜んで下さるのは、神様ご自身がそのような方だからです。神様は、お返しができる者をではなくて、お返しなどできない、ただ恵みを受けることしかできない者をこそ招き、救いにあずからせて下さるのです。ですから、わたしたちが、そのように自分にお返しのできない人を招く、隣人とする、ということは、そのような神さまを知っている、という証なのです。その意味で、その人自身も、神さまの前に「へりくだる者」となれている、つまり、心からお返しのできない人を招く、ということを通して、その人は、自分は神さまの恵みに対して、とてもお返しなどできない、とるに足りないものであることを知っている、ということを証しているのです。

 これが、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉の意味です。高ぶる者とは、神様に対して、自分でお返しができる、自分の中にも、神様に与え、貢献することができるものがあると思っている者です。へりくだる者とは、神様の恵みをただ受けるだけで何のお返しもできない、神様に与えたり貢献するようなものを何も持っていない、と思っている者です。神様は、自分はお返しができる、と思っている者はむしろ退けて、何のお返しもできない、と思っている者をこそ招き、救いにあずからせて下さるのです。ですからこの「高ぶる、へりくだる」というのは、人間どうしの比較によって自分の方が上だと思って誇っているとか、自分は駄目だという劣等感によって卑屈になっている、ということではないのです。また「へりくだる」というのは、本当は自分でも立派なことはわかっているけれども、美徳して、へりくださってみせる、ということでもないのです。

 日本人には「恥の文化」「謙譲の美徳の文化」が根深くありますから、そのような感覚から、むしろ自分が人からどう思われるか、という感覚の中で、自ら末席に着く、ということをすることがあるわけですが、しかし、それは、ここでイエスさまが言われていることとは関係ないのです。むしろ、そういうことに囚われていて、肝心な、自分が神さまの前にどうなのか、神さまにお返しできている立派な者だと思うのではなく、とても神さまの恵みにはお返しなどできない者だということが、よくわかっていないままである、という意味では、たとえかたちだけは末席についても、全然ダメなわけです。

 イエスさまは、そういう人の目ばかり気にしているわたしたちに、そうではなく、まことの主人である神様がどのような者をご自身の宴会の席に招いて下さるのか、ということにこそ目を向けなさいと教えておられるのです。神様が招き、救いにあずからせて下さるのは、自分の力でいっぱしに生きていけると思っており、神様のために何かをすることができると自負しているような者ではなくて、自分の力ではとうていやっていくことができず、神様のために何かをすることなどとうていできない、と思っている者なのです。

 そしてこのことが、6節までの安息日における癒しの話と結びついています。イエスさまは13章では、十八年間病の霊に取りつかれて腰が曲がったままだった女性をお癒しになりました。そしてここでは、水腫を患っている男性をお癒しになりました。そしてどちらにおいても、安息日に癒しを行うことを批判する人々に対して、安息日であっても牛やろばに水を飲ませ、井戸に落ちた息子や牛を助けるのは当然ではないか、という話をなさいました。どちらも、そうしなければ生きていけない、死んでしまうという事態なのです。そのように救いを必要としている人、この救いなしには生きることができない人たちをこそ、神様は招き、救って下さるのです。この人々は、お返しをすることができない人、恵みをただ受けるしかない人です。・・・最初にお話しました野村先生の体験、証がここに重なるように思うのです。野村先生はその身をもって、わたしたち人間は、誰も自分の力で生きている者はいない、みな祈られ、聖霊の息吹を注がれて、人間として生かされている、その恵みに対して、わたしたちには何もお返しなどできない、そのことを示してくださったように思うのです。

 逆に、安息日の癒しを批判している人々は、自分たちにはそのような救いが必要だとは思っていないのです。自分たちには水が豊かにあり、あるいは井戸の外にいて、特にあわてて救いを求める必要がないのです。だから、安息日が終わるまで待つべきだ、と呑気に構えていられるのです。この人々は、「自分でお返しができる」と思っている人です。神様は、このような人、つまり「高ぶる者」を低くされ、あのお返しのできない人、つまり「へりくだる者」を高め、救いにあずからせて下さるのです。安息日におけるイエスさまの癒しのみ業によって、神様のこの招きと救いが明らかにされているのです。またイエスさまは、この救いのみ業を、「井戸に落ちた自分の息子か牛を助け出す」という思いでして下さっています。井戸に落ちた彼らは、自分でそこから上がって来ることはできないのです。引き上げてやらなければ、じきに死んでしまうのです。「へりくだる者」とは、自分がそのように井戸に落ちてしまっており、自分でそこから抜け出すことができないことを意識している者です。そういう者をこそ主イエスは、大切に思って下さり、井戸の底にまで降りて来て下さって、救って下さるのです。

 わたしたちの主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、罪の赦しを与え、私たちにこの神様の癒しと休みと慰めを、つまり本当の安息を与えるためにこの世に来て下さり、十字架の死への道を歩んで下さいました。安息日にイエスさまがなさった癒しのみ業は、主イエスの十字架の死によって私たちに与えて下さる癒し、休み、慰めを指し示しています。私たちはこの救いの恵みを受けるだけで、神様に何もお返しすることができない者です。しかし神様はそのような私たちをこそ、神の国の宴会の席へと招いて下さっているのです。祈りましょう。

主なる神さま
ただあなたの一方的な愛と恵みによって、救われ、安らぐものとされていること、そのようなあなたの恵みに対してそれに見合ったお返しなどとてもできないものであること、そのような、本当にへりくださった思いで、ただただあなたの救いの招きに感謝し、御子イエスのわたしたちへの愛に感謝して、あなたを仰ぎ見、あなたと共に生きるものとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

cm 0   tb 0   page top

聖霊降臨節第12主日礼拝 

2017年8月20日(日)ルカによる福音書第13章31―35節
「命をかけた救いへの招き」三ツ本武仁牧師

 敬愛する先生方が天に召されていかれました。教会員のMさんから、ご紹介いただいて、その書物などで多くを教えていただいておりました青山学院大学のM先生が8月2日に、そして、K教会の名誉牧師であったS先生が、8月15日にそれぞれ天に召されて、S先生は84歳でしたけれども、ご葬儀は昨日あったばかりであります。

 M先生のことはまた次回にお話させていただきたいとおもいますけれども、S先生は、多彩な方で、詩なども多く残されていますけれども、とくにこの「武士道とキリスト教」という本を出されたことでも知られる方でした。

 お父さんの時代から、牧師でありながら、同時に、小野派一刀流という戦国時代からつたわる古武術の宗家である、ということで、牧師と武道家という二足の草鞋をはいて、活躍した先生でありました、日曜日は礼拝の後、会衆席が片付けられて道場となり、三十人ほどの門下生が稽古をされていました。キリスト教と武士道の接点、深いつながりを探ることをご自身のライフワークとされて、先の本をだされたのでした。

 その全てをここでご紹介することはできませんけれども、武士道は愛することと見つけたり、と帯にもありますように、武士道の精神は愛(忠誠心)であるとして、しかしその武士道の愛の限界を超えたところに、キリスト教の愛(愛敵の教え)がある、ということや、武士の武という漢字は、戦いを止めるという意味をもつ、ということ、また、「キリスト教とは単なる知識や教養ではなく、人の生き死にを見つめるための「道」であって、それは決して西洋だけでなく、全人類のためのものである、この基本が理解されれば、必ず日本人もキリスト教信仰に触れることができるし、また逆に、日本人の精神にあったかたちで、キリスト教の教えを翻訳しなおすことが大切だ」ということを説いておられます。

 今日の聖書箇所にも、イエスさまが、33節で、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない、と語っておられるところがありますし、ほかの聖書箇所では、イエスさまがご自分のことを、わたしは道であり、真理であり、命である、と語っておられるところがあります。そのような人間の生きるべき道としてのイエス・キリストとその教えを指し示すことの大切さを、改めて心に留めていきたいとおもいます。

 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第13章31節以下のところを見ていきたいと思うのですけれども、今日のところもまた、謎のような言葉が連なっていて、何を語っているのか、ちょっと読んだだけでは分からない、という感じがするのではないかと思います。小見出しは、「エルサレムのために嘆く」となっていますけれども、イエスさまは今、エルサレムにおられるのではありません。イエスさまは今、ガリラヤからエルサレムへと向かう旅の途中にあるのです。

 そのガリラヤ地方を支配していたのが、31節に出てくるヘロデです。このヘロデのことは9章7節以下にも語られていました。そこを読むと、洗礼者ヨハネを捕え、その首をはねたのはこのヘロデであることが分かります。またそこには、このヘロデがイエスさまのうわさを聞いて、「この人はいったい何者だろう」と思い、イエスに会ってみたいと思った、とも語られています。しかしそれはイエスさまの教えを受けたいと思ったということではありません。彼は、自分の支配の妨げになるなら、ヨハネを殺したようにイエスさまをも殺してしまおうと思っていたのです。本日の箇所では、何人かのファリサイ派の人々がイエスさまのところに来て、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と告げています。ヘロデはいよいよイエスをさま抹殺しようという思いを固めたのです。

 ここから分かることは、イエスさまはこの時まだヘロデの支配している地域におられたということです。だからファリサイ派の人々はイエスさまに、その地域から立ち去るように、と忠告したのです。それはイエスさまのためを思っての忠告なのか、それともファリサイ派の人々がヘロデの殺意を口実にしてイエスさまをこの地域から追い出そうとしていたのか、それはわかりません。しかしとにかく彼らはイエスさまに、命が惜しかったらヘロデの支配する領域から出て行くようにと言ったわけです。

 それに対するイエスさまのお答えが32節です。イエスさまはヘロデのことを「あの狐」と呼んでおられます。狐には気の毒な感じがしますが、どこの国でも、狐という動物は、日本の昔話でもそうですけれども、ずる賢い人間のたとえとして用いられるようです。イエスさまはずる賢いヘロデにこう伝えなさいとおっしゃったのです。「わたしは、今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」。・・・

 イエスさまは、ここで、一つには、私が行なっているのは、悪霊を追い出し病気を癒すという、人々を苦しみから救うための業であって、ヘロデの支配を打倒しようとする政治的運動をしているわけではない、ということを語っておられます。そして、私はあなたがどう思おうと、この業を、これまでと同じようにこれからも変わらずに続けていく、と宣言しておられるのです。そしてもう一つ、ここでイエスさまが語っておられるのは、「三日目にすべてを終える」ということです。これが謎のような言い回しであるわけですが、この「三日目」は、一つには象徴的な数字であって、それは「もうじき」という意味が込められていると考えてよいでしょう。つまりこれは、「今私が行なっているこの業はもうじき終る。だからヘロデよ、心配しなくていい。お前がずる賢く計画をねって、私を殺そうとしなくても、私の働きはもうじき終るのだ」という意味であると考えることができるのではないでしょうか。

 そのようなことが、イエスさまが、ヘロデに伝えなさいと言われていることですが、それに続いてイエスさまは、今度は人々に語っていかれます。33節です。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。・・・今日も明日もその次の日も、イエスさまは進んで行こうとしておられるのです。イエスさまは誰に強制されることもなく、また脅されて方向転換をすることもなく、ご自分の道をまっすぐに歩いて行かれるのです。その行き先はエルサレムです。イエスさまはここで、私は今も、これからも、エルサレムへの道を進んで行くのだと宣言しておられるのです。エルサレムは、もはやヘロデの支配する領域ではありません。そこは当時ローマ帝国の直轄地になっており、総督ポンティオ・ピラトが支配しているのです。そういう意味では、「ヘロデの支配下から立ち去ってください」というファリサイ派の人々の勧めの通りになろうとしている、とも言えます。けれどもそれは、ヘロデによって殺されるのを恐れて、命を守るためにエルサレムへと逃れて行こうということではないのです。そのことを示しているのが、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」というお言葉です。イエスさまは、ヘロデの手を逃れて生き延びるためではなくて、預言者として死ぬために、エルサレムへと向かっておられるのです。

 イエスさまは、ご自分のことを預言者、と言われているわけですけれども、しかし、じっさいにはイエスさまは預言者ではなくて、これまでの預言者たちが指し示してきた、神の子、救い主、神の言葉そのもの、であるわけです。しかし、ここでは、今まで殺されてきた預言者たちとご自分とを重ねて、このように表現されたのだと思われます。わたしは、エルサレムで殺されるのだ、というのです。エルサレムという場所は、かつてこの地上にあって、神が、神の民の都として定められた聖地でありました。そこはですから本来、神のものであり、神の御子であるイエス・キリストのものなのです。しかし、イエスさまは、そこでわたしは死ぬのだ、殺されるのだ、といいます。イエスさまが救い主として、神様のみ言葉を語っても、エルサレムの人々は聞く耳を持たず、かえってイエスさまとその教えを拒み、十字架にかけて殺してしまう、そのことをイエスさまは知っているのです。・・・

 そしてこれを先ほどの32節の、三日目にすべてを終えるというみ言葉と合わせて読むならば、イエスさまは、エルサレムで死ぬことによってすべてを終える、と言っておられたことのもう一つの意味が見えてくるのです。それはイエスさまの十字架の死から三日目に起きた復活のことです。十字架の死と復活によって全てを終える。これらによって、イエス・キリストの地上におけるみ業が終わるのです。神様が、いま、もうすぐ、そのことをなそうとされている、その時期が近づいたので、イエスさまはそのことが起るエルサレムへと今向っておられるわけです。

 34節以下は、そのエルサレムを嘆く、イエスさまのお言葉が語られています。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。このお言葉は、イエスさまご自身の体験から出たと言うよりも、神さまとイスラエルの民のこれまでの長い歴史を踏まえたお言葉であると言うべきでしょう。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」というのは、イエスさまをお遣わしになった父なる神様のお言葉です。神様はこれまで繰り返し、エルサレムを中心とするイスラエルの人々を、ご自分の民として、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、集め、養い、育もうとしてこられたのです。そのために、預言者たちやその他の人々をお遣わしになったのです。「だが、お前たちは応じようとしなかった」。・・・イスラエルの人々は、主なる神様からの語りかけに応答しませんでした。彼らは預言者たちを殺し、神様から遣わされた人々を石で打ち殺すようなことをしたのです。神様が差し伸べておられる恵みのみ手を振り払い、むしろそのみ手に噛み付いて、あくまでも自分の思い通りに、自分中心に、自分が主人となって生きようとしたのです。

 それはしかし、イスラエルの人々だけの話ではないでしょう。彼らは私たち人間の代表です。私たちは誰もが皆、彼らと同じように、神様に背き逆らい、私たちを養い、守り、導いて下さろうとするみ手を振り払って、あくまでも自分の思い通りに、自己中心に、自分が主人になって生きようとしているのではないでしょうか。しかし雛は、めん鳥の翼の下に守られていなければ成長することも、いやそもそも生きることもできないのです。自分の力で、あるいは人間どうしの協力によって生きていくのだ、いけるのだ、と思っている私たちは、自分たちだけでなんとかやっていけると思っているヒヨコのようなものではないでしょうか。その結果私たちは様々なこの世の力に支配され、翻弄されて、自由でも何でもない、主人であるどころかむしろ奴隷のように束縛された悲惨な状態に陥っていくのです。苦しみや悲しみの中で、それを乗り越える力もなく、さりとて忍耐することもできずに絶望に捕えられていくのです。それらは全て、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」ということの結果なのではないでしょうか。エルサレムに対するイエスさまの嘆きは、そのまま私たち一人一人に対する嘆きなのです。

 反対に、身をひくくして、自己中心を捨てて、神さまにゆだねていくならば、私たちは、豊かたに成長し、その羽を広げて、飛び立つことができるようになります。・・・昔、テレビのドキュメンタリー番組で、海鷲の巣立ちの場面を見る機会がありました。巣には三羽の海鷲の子がいるのですが、年上の子からどんどん栄養をもらって、元気に巣立っていき、最後の一羽は、栄養も少なく、弱々しい姿で、何度も飛び立とうとするのですが、飛び立てないのです。飛び立てなければ、そのままその海鷲の子は巣の中で死ぬだけです。これまで自然の厳しさを映し出してきた番組だっただけに、この子も死んでしまうのだろう、と半ば諦めていました。しかし、その三男坊か三女かはわかりませんが、その海鷲は、ついに、羽を大きく広げて、大空に飛び立っていったのです。感動しました。わたしたちは、この海鷲と同じではないか、と思うのです。私たち自身の力は弱くとても、神さまにゆだねていくとき、私たちはちゃんと羽を広げて、飛んでいくことができるのです。

 最後の35節には、「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」とあります。これもまた謎のような言葉でありますが、このイエスさまのお言葉は、神様が預言者やその他の人々を遣わして、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、イスラエルの民を呼び集めて下さったのに、それに応じようとせず、その恵みのみ手を拒んだイスラエルの民、その家は、見捨てられてしまう、ということを言っておられます。

 『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時、それは、マラナ・タ、主よ、来てください、と待ち望んでいたイエス・キリストが来るとき、つまり、この世の終わりにイエス・キリストがもう一度来られる、という、聖書のいう、いわゆる再臨の時のことです。その時に、最後の審判が行われる。その最後の審判においては、神様の語りかけに応答せず、差し伸べられたみ手を拒み、振り払った者たちは、見捨てられ、滅ぼされてしまう、エルサレムのことを嘆いておられるイエスさまの嘆きはそれゆえの嘆きであったのです。

 しかし、この警告が、先ほどの、今日も明日も道を進み、三日目に、エルサレムにおける死と復活によって救いのみ業が完成される、というみ言葉に続いて語られていることに、大きな意味があると思うのです。イエスさまのこのお言葉を聞いている人々は、今、イエスさまのお姿を見ているのです。その教えを聞き、悪霊を追い出し、病気を癒しておられるみ業を見ているのです。しかし、そのイエスさまのみ業は、三日目に、つまりもうじき、終ってしまう。そうしたらもうイエスさまのお姿を見ることは、終わりの日の審きの時までできないのです。だから、今のうちに、イエスさまのお姿を見、そのみ言葉を聞くことができる間に、神様が差し伸べて下さっているみ翼の蔭に身を寄せなさい。神様の語りかけに応答して、差し出された手を握り返して、救いにあずかりなさい、とイエスさまは語りかけておられるのです。「見よ、お前たちの家は見捨てられる」というのは、「お前たちなんかもう地獄行きだ」という滅びの宣言ではなくて、あくまでも警告です。このままだとこうなってしまうぞ、しかし、今ならまだ間に合う、今のうちに、雛を羽の下に集めるめん鳥のようにあなたがたを救いへと招いておられる主なる神様のもとに立ち返りなさい、とイエスさまは語りかけておられるのです。そしてそれは、いまこのように礼拝の中で、主の御言葉を聞いている私たち、霊的にイエス・キリストと出会っている私たちにも、語りかけておられるのです。

 この招き、語りかけに対してどうするかは、私たちが決めることです。「だが、お前たちは応じようとしなかった」ということになるのか、それとも、この招きに応えてイエス・キリストが命をかけて与えてくださった救いにあずかるのか、それはこれからなのです。私たちにはなお、そのための時が与えられています。しかしその時はいつまでもあるわけではありません。タイムリミットはあるのだ、ということを忘れてしまってはならないのです。けれども、私たちがなすべきことは、そのタイムリミットはいつなのか、と詮索することではなくて、神様が主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現し、私たちにもあずからせようとしていて下さる救いへの招きを見つめ、その招きのみ言葉を真剣に聞いていくことです。そのことの中で、それぞれにとって最も良い時に、神様のこの招きに応えようという思いが、聖霊の働きによって与えられていくのです。祈りましょう

 主なる神さま
 あなたはいまも、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私たちを集めようしてくださっています。あなたは、御子イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、わたしたちを、みもとに集めようとしてくださっています。どうか、その主イエスの命をかけた招きに答えて、主のみ救いへの招きに答えて生きるものとなれますように、わたしたちを聖霊でみたし守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

cm 0   tb 0   page top

聖霊降臨節第11主日礼拝 

ルカによる福音書 第13章22-30節 
「狭い戸口から入る」とは 三ツ本武仁牧師

 以前こどもから、天国に行ける人の人数って何人か、と聞かれたことがあります。それから、また以前ある人から、天国ってそんなにたくさんの人がいっているのなら、いっぱいにならないのですか、と真面目に聞かれたことがありました。どちらも、たいへん質問に困ってしまいましたけれども、ある意味では、そのような問い、疑問は、当然のこととのように思います。

 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第13章22節以下には、ある人がイエスさまに「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたことが語られていました。イエスさま、この問いに答えて、その人だけにではなく、23節の終わりにあるように、周囲にいた「一同に」お語りになりました。それは、周囲の人々が皆、この人と同じ問いを抱いていることを感じ取られたからでしょう。「救われる者は少ないのか」という問いは、最初に申しましたことと同じく、多くの人々に共通するものなのではないでしょうか。私たちの心の中にもそういう問いがあるのではないでしょうか。救われる人は多いのだろうか、それとも少ないのだろうか、イエスさまは、あるいは聖書は、そのことについてどう言っているのだろうか、私たちも、そのことを知りたいと思っているのではないでしょうか。
 
イエスさまは、このような問いに対して、まず、24節以下で次のように答えられました。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。・・・このお答えは、救われる者が少ないか多いか、という意味でいえば、明らかに、少ない、ということを暗示しているように聞こえます。「入ろうとしても入れない人が多い」ということは、救いに入ることができる人は少ない、ということです。なぜ少ないのか。その理由は、そこに入るための戸口が狭いからだ、というのです。

 しかし、イエスさまはここで、狭い戸口から入るように「努めなさい」と言っておられます。イエスさまが語ろうとしておられるのは、救われる者が多いか少ないかという、そういう私たちが囚われているあれかこれかの議論への答えではなくて、救いに入るために「努めなさい」という勧め、促しなのです。この「努めなさい」という言葉は、勝利を目指して競技する、戦う、という意味です。狭い戸口から入るには戦いが必要なのです。しかし、それは他人を蹴落とすための戦いではありません。それはいわば、救いにあずかるための信仰の戦いです。狭くて入りにくいこの戸口こそ救いに通じるのだと信じて、そこから入ろうとする信仰の戦いです。イエスさまがここで人々に、つまり私たちに、求めておられるのは、「救われる者は多いのか少ないのか」と問い、その答えによって、身の振り方を考えるような生き方ではなくて、イエス・キリストを信じて従うことによってこそ救いが得られるという信仰の決断と、その狭い戸口から入ろうとする決意なのです。

「救われる者は多いのか少ないのか」という問いの根底には、先ほど申しましたように、神様はこころの広い方なのか、それとも反対に厳しい方なのか、それによって信じるか信じないか、従って行くか否かを決めよう、という人間の側の、人間中心的な思いがあります。つまり神が自分の思い、考え、願望に合っているのかどうかを確かめ、合っているならば信じようとしているのです。イエスさまは人々の中にあるこのような思いを見抜いて、そういう思いでいる限り、救いに入ることはできない、救われるためには、この戸口をくぐろうとする決断と熱心さが必要なのだ、と教えられているのです。この戸口は自分の寸法にぴったりフィットするかどうか、などと考えているのではなく、入りにくい狭い戸口を通って救いにあずかろうと努めるのでなければ、救いに入ることはできないのだ、と言っておられるのです。入ろうとしても入れない人が多いのはそのためです。それは、入れてもらえないのではなくて、本当に入ろうと努めることをせず、入れるか入れないか、入ろうかどうしようかと考えながら、この戸口の寸法を計ったり、ドアの仕組みを調べたりしながらうろうろしているからです。そういう人が多い、という意味で、救われる者は確かに少ないのです。それは神様が厳しい審き主だからではなくて、本当に真剣に救いを求めようとする人間が少ないからなのです。

 イエスさまは「狭い戸口から入るように努めなさい」という勧めを、25節では次のように言い換えておられます。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」。これも、「戸口」が重要な役割を果している「たとえ」です。一家の主人が夜になって、戸口を閉めて鍵をかける、そうしたらもう翌朝まで誰もその家に入ることはできないのです。このたとえのポイントは、戸口が閉じられる時が来る、そうしたらもう入ることはできない、ということです。この狭い戸口を入って救いにあずかることには、タイムリミットがあるのです。この戸口はいつまでも開いているわけではないのです。最終的なタイムリミットは、イエスさまがもう一度来られ、それによってこの世が終わる、終末の時だと聖書はいいます。しかしまた、私たちの1つの現実として、人生には、死というタイムリミットもあります。

この世の人生の最後、つまり死が、救いにあずかるためのタイムリミットだと、聖書が語っているわけではありません。その時は、誰にもわからないのです。死ということがまさにそうであるように、自分たちに与えられている時には限りがあることを覚えて、救いの戸口から入るように熱心に努めることが求められていることだけは確かであります。その意味で、わたしたちの人生はいつまでも先延ばしできない、限りあるものであることを知っていることは意味があると思うのです。じっさいイエスさまは、わたしたちに与えられた時に限りがあることを知り、だからこそいま、信仰の決断をすることを、これまでも繰り返し語ってこられました。

今日のところもそうです。主人が、つまり神様が戸を閉めてしまってからではもう遅いのです。「御主人様、開けてください」といくら戸を叩いても、「お前たちがどこの者か知らない」と言われてしまうのです。26節は、その時こんな言い訳をしてもそれは通らない、ということです。「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」。つまり、私たちもあなたと一緒にいたではありませんか、あなたの教えを聞いたではありませんか、ということです。この「あなた」とはイエスさまのことだと言えるでしょう。イエスさまのもとに集い、その教えを聞いた、礼拝に出席してみ言葉を聞いた、聖書を読み、その教えを生活の中で生かそうとしていたかもしれない、けれどもこの人々は、狭い戸口から入らなかったのです。本当にイエスさまによる救いにあずかろうと熱心に求めることをせず、信仰の決断をすることなく時を過ごしたのです。そしてそのうちに戸は閉められてしまいました。そうなったら、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われてしまうのです。

 「不義を行う者ども」と言われています。それは別にその人たちが特別に悪いことをした、大きな罪を犯した、ということではないでしょう。彼らは、イエスさまと一緒に食べたり飲んだりした、つまりイエスさまとの交わりに確かに生きていたのです。そして広場でイエスさまの教えを受けたのです。み言葉を聞いて、それを自分なりに受け止めて生きていたのです。いっしょうけんめい良い行いに励んでいたと言ってもよいでしょう。しかし彼らは救いに入ることができないのです。・・・それではどのような人々が救いにあずかるのでしょうか。28節には、「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」とあります。・・・「アブラハム、イサク、ヤコブ」はイスラエルの民の先祖です。その三人のみが神の国に入るということではなくて、その子孫である神の民イスラエルの代表としてこの三人の名前があげられているのです。つまり、神の国に入るのは神の民だということです。しかし、この話は、ここで外に投げ出されている人々もイスラエルの民だというのです。つまり、ただ血筋において、イスラエルの民であるからといって、神の国に入ることができるわけではない、ということです。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、主なる神様の呼びかけに応えて旅立ちました。自分の願う通りになることが保証されていることを確かめた上でではなく、先行きどうなるか分からない中で、主の示される道を、主と共に歩んでいったのです。

つまり彼らは、行く先を知らずとも、主なる神様を信じ、ゆだね、神さまと共に歩むという狭い戸口から入ったのです。今日の説教題は「狭い戸口から入る」とは? とさせていただきましたけれども、それは第一に、この信仰の先人たちのように、たとえ行く先を知らずとも、主なる神様を信じ、その前に身を低くして、ただ神さまにゆだね、神さまの導きに従って歩んでいくことなのです。彼らに罪がなかったわけではありません。いろいろな罪を犯し、失敗もしました。しかしその歩みの全ては、あの戸口の中での歩みだったのです。神の民とは、この歩みを受け継ぐ者たちのことなのです。

また「狭い戸口」と言えば、茶室の「躙り口」を思い出される方がいらっしゃるかもしれません。茶の湯、わび茶を開いた千利休はクリスチャンであったという説が今注目されていますが、高山右近をはじめとするキリシタン大名の弟子たちや、妻子がクリスチャンであって、そういう環境にいたことは確かであります。最初の茶会は南蛮寺で催されたわけですけれども、南蛮寺とは、つまり、西洋のお寺、教会であったわけです。
そこで千利休は、イエスさまが言われた「狭い戸口から入りなさい」というみ言葉を、茶室を建てる際に形として表したともいわれています。世間一般でどんなに地位や名声を得ている者であったとしても、天の御国に入るときには誰もが狭い戸口から頭を下げ、謙(へりくだ)ること無しには入れないことを茶室の戸口に表現した、というのです。

聖書に戻りますと、神の国には「すべての預言者たち」もいると言われています。預言者たちは、神様のみ言葉を聞き、それを人々に伝えました。主なる神様のみ言葉を受け、それによって生きた人々です。神の民とは、神様のみ言葉によって生きる人々です。神の国に入るのはそのような人々なのです。そして29節には、「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」とあります。

これの背後には、本日詩篇交読で読みました詩編107編3節があります。そこには主なる神様がご自分の民を、「国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から」とありました。全世界から、神の民が集められて、神の国で宴会の席に着くのです。その人々は、何か特別に良いことをしたのではありません。自分の善行の報いとして招かれたのではありません。彼らは、主なる神様の招きに応答したのです。呼びかけに応えて、与えられた時、チャンスを無駄にせずに、主と共に歩むという狭い戸口から入り、み言葉によって生きる民となったのです。そのことによってこそ、神の国の宴会の席に着くことができるのです。この招きは全ての人々に与えられています。イスラエルの民には真っ先に与えられていました。しかしイスラエルの人々はなかなかこの招きに応えようとせずに、むしろ後から招かれた異邦人たちの方が先にそれに応えて狭い戸口から神の国に入っている、ということが起っています。それが30節の、「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」というみ言葉の意味です。神様の招きに応えるかどうかは、私たちの決断に委ねられています。それゆえにこのように後の人が先になり、先の人が後になることが起るのです。神の国に入ることができないのは、罪を犯した人ではなくて、神様の招きのみ心を無視して、せっかく開かれている戸口から入ろうとしなかった人、あるいは入るチャンスを失い、そのうちに戸が閉められてしまった人なのです。

 神様は、罪のない清く正しい人間を招いておられるのではないのです。むしろ、深い罪を負い、それによって生じる様々な問題をかかえ、苦しみや悲しみ、嘆きの中にある私たちを招いて下さり、独り子イエス・キリストの十字架の死によってその罪を赦し、イエスさまの復活にあずかる新しい命、永遠の命の約束を与えようとしておられるのです。罪人である私たちを招いて下さるために、イエスさまは、十字架の死というまことに狭い、他の誰も入ることができないような深い苦しみの戸口を通って、天に上げられ、そのことによって私たちのが神の国に入るための戸口を開いて下さったのです。このイエスさまの苦しみと死とによる神様の招きのみ心を無視し、せっかく開かれている戸口から入ろうとしないとしたら、それはイエスさまの十字架の死と復活を無にすることになります。今この礼拝に集っている私たち一人一人には、その狭い戸口に入るための時が、チャンスが、神様によって与えられています。この戸口は確かに狭い戸口です。その先に続く道も、決して平坦なものではありません。この戸口さえ通ってしまえば全てが楽になるとか、何の問題も、悩みも苦しみもなくなる、などということもありません。私たちがかかえている罪だって、それによってなくなるわけではないのです。しかし、この戸口から入ることによって、相変わらず罪人であり、苦しみや悲しみを抱えている私たちの、その歩みの全体が、神様の救いへの招きの中に置かれます。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが共にいて下さる信仰の旅路を歩むことができるようになるのです。祈りましょう。

 主なる神さま
 私たちはつい人間的な思いで、この道は得か損か、正しいか間違っているか、と納得のいくまで、石橋を叩いて渡ろうとするものでありますけれども、私たち人間の罪の深さ、その悲惨は、確かな現実であります、その救いようのない悲惨は確かな現実であります。しかし、その救いようのないこの世を救ってくださる方が現れたと聖書いいます。神の独り子イエス・キリストがこの世に来てくださり、自分たちのあなたへの罪を忘れて、あなたを確かめているようなわたしたち、それゆえにすぐにでも裁かれ、滅ぼされて当然であるわたしたちの、その罪の身代わりとなって、その命を十字架にかけて、わたしたちを罪から救ってくださったと聖書はいいます。主よ、どうか、わたしたちがこのキリストを信じて、この身をゆだていくものとなれますように、そのような狭い戸口から入ることを、求めていくものとなれますように、聖霊でみたし、守り、導いいてください。主のみなによって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

cm 0   tb 0   page top

カテゴリ

リンク

カレンダー

最新記事