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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第10主日礼拝 

2017年2月19日(日)ルカ10章1―16節
「今は収穫のとき」三ツ本武仁牧師

 今日読んでいただきましたルカによる福音の10章1節から16節には、イエスさまが72人もの弟子たちを各地に派遣された、ということが語られています。イエスさまの周りにはその中心となる12人の弟子たちがいた事に違いはありません。しかし、今日ここで語られていますように、じっさいにはそれ以上のたくさんの弟子たちがいたのです。

 この72人は、いまガリラヤでの宣教の働きを終えて、エルサレムへ向かおうとされているイエスさまの、いわば先駆けとして、先陣として、派遣されました。彼らは今からイエスさまが向かおうされている村や町の人々が、イエスさまを救い主として迎え入れる、そのための準備を、備えをするために派遣されたのです。

 この72人の姿、その使命は、わたしたち教会の姿、使命と重なっています。私たちも、主イエス・キリストによって神の国が確かに来たことをこの世に告げ知らせ、だからみなもイエス・キリストを信じて、神の国に、神さまのご支配のもとに共に生きましょう、と勧める、そのような使命を担っています。なかでも、ここで弟子たちが、「エルサレムへと向かう」旅路にあるイエスさまによって、その先駆けとして派遣された、ということにも大切な意味があります。私たちが宣べ伝える福音の中心は、神の独り子であるイエス・キリストがエルサレムでなさったことを伝えることなのです。つまり福音とは、イエスさまが、私たちの罪をすべて背負って、十字架にかかって死んでくださったこと、そしてわたしたちを復活の命に生かしてくださるために、復活され、いまは天上にあって、神さまとともに私たちを見守ってくださっている、それとともに、目には見えなくとも、いまこの地上に、とくに教会の交わりの中に霊的に共にいてくださる、そこに与えられる私たちの喜び、平安、慰めを伝えることです。

 さらにいえば、イエスさまの先駆けとして遣わされた、ということは、だから、やがて、イエスさまご自身が来られる、ということです。今は天にいます主イエスが、もう一度この地上においでになる、そのイエスさまを待ち望みつつ、そのイエス・キリストをいつでもどこでも迎えることができるように備えて生きる、そのような希望に生きつつ、世の人々にもその希望を、私たちは告げ知らせていくのです。

そのような使命を担う私たちであるわけですけれども、そこでまず注目したいのは、1節にありましたように、この72人が「二人ずつ」各地に遣わされた、ということです。ですから具体的には、36組がそれぞれ36の場所へと派遣された、ということになるわけですけれども、この「二人ずつ」ということには、私たちが、そのそれぞれの派遣の地、フィールドにあって、孤独の戦いをしなさい、と強いられているわけではない、ということが示されています。もちろん、わたしたちにはそれぞれに、固有の試練や困難が降りかかってくることがあります。この苦しみ・悲しみは誰にも理解してもらえないだろう、と心が塞がれてしまうこともあるでしょう。けれども、教会というのは、そもそも一人では成り立ちません。イエスさまも別のところで2人3人が私の名によって集うところにわたしもいる、とおっしゃっておられます。

・・・このあいだは1月の信徒の友の日毎の糧に掲載された、私たち香里教会のことを話題にしましたけれども、そのあとある方が、香里教会は恵まれていることがわかりました。ほかの教会をみたら、2人とか5人とか、そんな教会もあるんですね、と感慨深げにおっしゃっていました。そうです、教会には牧師と信徒2人だけなんて教会もじっさいにあるわけです。そういう教会に遣わされましたら牧師も信徒も確かに大変です。でもそれでも、教会は1人ではない。教会の使命は、決して1人で担うものではないのです。たとえ信徒が1人であっても、その信徒さんと牧師との二人三脚があり、祈りの交わりがあります。・・・私たちは、それぞれに信仰の動機やきっかけ、招かれたとき、受洗のときは違ったとしても、私たちは信仰の仲間とともに助け合って歩んでいくのです。逆にいいましたら、教会の問題、伝道の問題は、一人でかかえるものではない、ということです。教会の交わりの中で、言葉にして祈りにして、分かち合って、私たちは共に歩んでいくのです。そこに不思議と道が開かれていきます。それからまた、交換講壇がありましたけれども、このような牧師同士、教会同士の横のつながり、そういうことの大切さも、イエスさまが弟子たちを「二人ずつ」組にして各地に派遣してくださった、ということに含み持たれているのではないでしょうか。

 またさらにいえば、この「二人ずつ」ということには旧約聖書に基づく大切な理由があります。ユダヤ社会では裁判で何かの事件が裁かれるとき、そこでは最低2人の人の証言が一致していることが求められました。証言を2人以上で行ったのです。つまり、ここで「二人ずつ」というのは、私たちの伝道とは、証言である、証である、ということなのです。

伝道のためにわたしたちが語る福音は、神さまやイエス・キリストについての、説明や解説ではないのです。さきほど述べましたような、イエス・キリストの十字架の出来事をただ説明しても、それは相手に伝わらないのです。そうではなく、いったい自分はそのイエスさまによって、十字架の主と出会って、どうのように救われたのか、そしてどのような恵みにいまあずかっているのか、その証しをするのです。先日も、ご入院されている、ある教会員の方をお見舞いに行きましたら、「でもね先生、ほんとうに感謝しかないんです」と言われるのです。それがまさに、イエス・キリストによって自分が救われているという確かな証なのです。

ですから、その意味で伝道は難しいものではありません。神さまのことやイエスさまのことなど、深く知らなくてもいいのです。ただ自分が、どんな恵みにあずかって、いまこうして教会につながっているのか、その信仰によって、振り返ってみたら、こうして苦難を乗り越えてくることができた、その証を言葉で、またはその姿で語るのです、その意味でも、『ひこばえ』が大事なんですね。『ひこばえ』は私たちの証集ですよ。今回の『ひこばえ』にも心に残る証がたくさんにありました。その証がみのりを結んでいくのです。

 その実りですけれども、イエスさまは2節で「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とおっしゃっています。イエスさまはまずここで「収穫は多い」と断言してくださっています。約束してくださっています。このことを、私たちは忘れてはならないと思うのです。私たちがこうして教会として歩み、信仰を証しし、人々を教会に集会に招いて伝道していく、そこには豊かな収穫が約束されているのです。私たちの伝道には必ず多くの実りがあるのです。・・・いやー、とてもそうとは思えない。伝道しても伝道しても、実りなんかないじゃないか。そのように思われるかもしれません。

 しかし、イエスさまは言っておられます。「収穫は多いが、働き手が少ない」つまり、畑には、せっかく豊かな実りがあるのに、それらを収穫する人が少ないから、その実りを集められていない、と言われるのです。「だから、収穫のための働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。収穫のための働き手、それが必要なのだ、と言われるのです。・・・この言葉はしばしば、牧師が足りないのだ、だからもっと牧師になる人、牧師を目指す人が現れるように、祈ろう、というふうに受け止められていることが多いように思います。そういうことも確かに一つはいえるかもしれません。私も、だれか皆さんの中から牧師になりたい、という人が現れたら、どんなにすばらしいことだろうとも思います。しかし、イエスさまがここで語られていることは、そういうことなのでしょうか。・・・イエスさまはここで、いまここにいるあなたがた全員がそのまま、まさに「収穫のための働き手」なのだ、と言われているのです。

 それは、どういうことでしょうか。私たちは伝道と聞きますと、すぐに「種まき」ということを連想してしまいます。種まきが大事だ、一人でも多くの人に御言葉を伝える、こどもたちに御言葉を伝える、種まきが大事だ、確かにそれはそうです。しかし、ここでイエスさまは、私たちの役割について、全く新しいことに気づかせようとされています。それは、あなたたちの役割・伝道とは種まきということ以上に、収穫、刈り入れなのだ、というのです。そもそも種まきは、イエスさまご自身がすでになさっていることなのです。種とはイエスさまのみ言葉です。その御言葉という種を、畑にまき、水を与え、日を照らして育てていく、それは全て、基本的には、神さまが、イエスさまご自身がなさる業です。確かに、わたしたちを用いて、種まきをなさることもあるでしょう。でも、基本的にはイエスさまが、神さまご自身が、それはなさるのです。主なる神は、わたしたちが生まれる前からも、わたしたちの知らないところでも、わたしたちが思っている以上の、たくさんの種まきをしておられるのです。それらが、いま見事に実っている。その実りに気づきなさい、そして、その実りを収穫しなさい、それこそが、あなたたちに与えられた大切な使命だ。イエスさまはそう言われるのです。「収穫のための働き手を送ってくださるように願いなさい」というのは、ですからこれはイエスさま独特のユーモアです。誰かが外から、収穫のために働いてくれるように願いなさい、と言われているのではないのです。そうではなくて、あなたがた自身が、あなたこそが、収穫のための働き手であること、そのことに気づきなさい、というのです。

 2月の信徒の友には、このことと関連して心に残るエピソードが語られていました。ある地方の教会で教会生活をしていた女性が結婚を機に教会に行けなくなくってしまう、ということがあったそうです、ご主人が教会に行くことを固く禁じられてしまったのです。そこでこの女性は、日曜日のたびに、居間の片隅で涙を流しながらひとりで聖書を開き、か細い声で讚美歌を歌ってすごしていたそうです、やがて三人のこどもに恵まれましたが、その子供たちは、その母親の姿をみて育ったんですね。優しい母親が命がけで大切にしている、これはいったい何だろうか。そのことがずっと子供たちの心に刻まれていったんですね。やがて三人ともが教会に通って受洗します、そして、なんとご主人も、やがて教会に導かれて洗礼を受けた、というのです。

 これと少し似た話を、ある教会員の方からお聞きしたことがあります。その方のご友人の女性がやはり熱心な信仰者であったそうです。しかしその方のご主人は、彼女には大変優しい方であったそうですが、信仰だけは受け付けてくれなかったそうです。それもそのはず、そのご主人は、大学の先生で、専門はダーウィンの進化論だったのです。そもそも何でそんな二人がであったのだろうか、ということも興味深いところですけれども、この女性はそれでもいつかご主人が信仰に導かれることをずっと祈り続けていたそうです。しかし、やがてその女性が病気になり天に召されていかれるのです。ひとり残されたそのご主人がそれからどうなったか、やがてしばらくして、教会に行くようになられたんですね。そして聖書を読むようになられて、やがて言われたそうです。ここに書いてあることは本当だ、そして洗礼を受けられた、というのです。

 わたしたちの目には、もう枯れてしまった、実らなかったと思われる種も、神さまの目からみたら決してそうではないのです。神さまの目からみれば、その種はずっと生きていて、育まれ続けているのです。寒い冬の中でも、新しい春の兆しは芽生えているのです。わたしたちの役目は、そのようにして神さまが育て、養われ、育まれてこられた、実りを、そのときが来たら感謝して収穫することなのです。

 ・・・行きなさい、わたしはあなたがたを遣わす、3節でイエスさまはそのように言われ、その後、今日の最後の16節まで、いろいろと、その派遣された地で起こること、そのときどうするべきか、ということがいろいろと細々と語られています。今日はその一つ一つに丁寧に触れることはできませんけれども、ここで言われていることの中心は、イエスさまによってわたしたちに託された伝道の業はあくまでも平和をもたらすものである、ということです。無理な強引な伝道というのは、本来あり得ないのです。また反対に、わたしたちの伝道、証が拒否される、ということがあったとしても、それはあなたがたの責任ではない、と主は言ってくださっています。そのときは、わたしがあなたがたに与えた平和が、あなたがた自身にまた戻ってくるだけだ、と言われるのです。

そのような4節以下の内容を、すべて締めくくってまとめているのが16節です。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである、わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」・・・ここには、驚くべきことが語られています。わたしたちが弱い者ながらも、イエス・キリストへの信仰を人々の前に明らかにし、この信仰はすばらしいものだから、あなたにも、一緒に教会に行ってほしい、共に主を礼拝し、御言葉を聴いてほしい、洗礼を受けてほしい、そのように祈り、また証していく私たちの言葉、姿が、主イエスご自身のお言葉と、そして主イエスをお遣わしになった父なる神さまのお言葉と1つだというのです。・・いくらなんでも、そんな大それたことなどありえない。私たちにそんな力などあるわけがない、そのように私たちは思います。

 しかし、わたしたちはイエスさまの十字架によって確かに救われた者です。イエス・キリストの十字架のみ苦しみに、わたしたちは自分たちの十字架を軽くしていただき、いやされ、これまで確かに生かされてきました。それは本当のことではないでしょうか。真実ではないでしょうか。それであれば、そのようにしてわたしたちを活かし、いやし、救ってくださった主の御跡を、それぞれの十字架を背負いながら従っていく、その私たちの、姿、その祈り、その証に何の力もない、ということなどあるでしょうか。確かに、十字架の主のみあとに従う私たちは、主イエスと1つなのです。そのような私たちに、主は確かに実りを用意してくださっているのです、いまは収穫の時なのです。主は、私たちがそのことに目覚めて、希望をもって歩んでいくことを、望んでおられるのです。祈りましょう。

 行きなさい、わたしはあなたがたを遣わす。
 主なる神さま、あなたの派遣の御言葉を受けて、わたしたちがそれぞれにあなたに遣わされた地で、家庭で、職場で、教会で、あなたを信じ証していくその歩みの中に、あなたが確かに収穫を備えてくださっている、その約束を信じて希望をもって歩んでいくものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
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降誕節第7主日礼拝 

2017年 2月5日(日)ルカ福音書9章51―62節
「主イエスに従う旅路」三ツ本武仁牧師

 先週の2月3日は、季節の変わり目を覚える節分でありました。季節の変わり目は風邪をひきやすいといいますけれども、ちょうどその日はキリスト教学校の授業があったのですが、たくさんの生徒がインフルエンザや風邪で休んでいました。わたしも声が枯れていますけれども、これは風邪ではなくて、その授業中に、わたしが節分の豆をくばったのがいけなかったのかもしれませんが、やけにテンションの高いクラスがあって、うるさくて、声を張り上げて授業をしたので、こんな声になってしまっただけです。ご安心下さい。
 それから昨年教会コンサートに来てくださったO先生ですけれども、なんと以前、先生の言葉がA新聞の「〇〇の言葉」に登場していたようです。その文章をご紹介したいと思います。「『うまく生きる』ことには役立ちません(たぶん)。けれども、「よく生きる」ためには欠かせないものです(ぜったい)」・・・これは音楽について先生が語られた言葉ですけれども、わたしはこれを読んで、信仰者である先生ですから、きっとわたしたちの信仰、聖書の言葉、そして礼拝ということにも当てはまることとして語られたのではないかな、と思いました。わたしたちの信仰、礼拝は『うまく生きる』ためには役立たないかもしれません。たぶん。けれども、『よく生きる』ためには欠かせないものなのです。ぜったい。そのことをあらためて心にとめて共に信仰生活に励みたいと思うのです。

さて、今日のところの最初の51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。これまでイエスさまの活動拠点はイエスさまの故郷でもあるガリラヤ地方であったわけですけれども、今日のところから、イエスさまはエルサレムへ向けての旅を始められるのです。すべての人を罪から救う、その神さまの御計画においてご自分が果たすべき御業を成し遂げられるために、であります。これまでのガリラヤでの話がイエスさまのお働きの第一段階とするならば、これからのエルサレムへの旅路はその第二段階ということができるでしょう。そしてエルサレムについてからのお働きが第三段階というふうにいえるのではないでしょうか。

 そこでガリラヤからエルサレムへ向けて旅が始まるわけですけれども、北のガリラヤ地方から南のエルサレムのあるユダヤ地方に向かう間にはサマリアと呼ばれる地方があります。そこでイエスさまはそのサマリアを通り抜けて、エルサレムへ向かおうとされたのですけれども、52節53節には「先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備をしようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」ということになってしまいました。

 これは、どういうことか、といいますと、当時のユダヤ人とサマリア人との間に対立があったのです。少しややこしい歴史的な問題がそこにあるのですけれども、簡単にいえば、ユダヤ人とサマリア人は仲の悪い隣人でありました。さすがに壁までは建てていなかったようですけれども、それくらいの思いで互にいがみあっていました。ですから、自分たちの領地を通過してユダヤ人の首都エルサレムへ向かおうという者など気に入らないわけです。そこでイエスさまとその一行はサマリアでは歓迎されず、むしろ敵意をもって迎えられたのです。

 そういうサマリア人の敵意に対して、弟子のヤコブとヨハネが、こちらも敵意をもってのぞんでいった、というのが54節で語られていることです。彼らは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったといいます。彼らは自分たちに敵意を向けてくるサマリア人に対して激しく怒り、「こんなやつら先生のお力で滅ぼしてしまってくださいよ」と言ったのです。・・・しかしイエスさまは、「そんなことは言ってはいけないよ」と弟子たちをたしなめられたんですね。

 ・・・イエス・キリストに従って歩む、クリスチャンとして歩む、その歩みの中で、私たちもこの弟子たちのような経験をすることがあるのではないでしょうか。私たちはしばしば、信仰者であるがゆえに、人々から歓迎されず、むしろ敵意を向けられるようなことがあります。いやそれは教会の外だけの問題ではなくて、教会の中でもそういうことが起こることがあります。そのようなとき私たちはどうするべきか。そういう事態をどう受け止めるべきか。そのことがここで教えられているのです。ヤコブとヨハネは腹を立てました。怒り心頭に達して、そんな連中は滅びてしまえ、と思ったのです。・・・しかしイエスさまは、そんな思いを抱いてはいけない。といわれるのです。敵意に敵意をもって返してはいけない、と言われたのです。これはとても大事な教えであります。

 私たちはともすると、自分たちがイエス・キリストを信じて生きている、その信仰を受け入れてもらえず、むしろ敵対してくるような人々に出会いますと、その人々を、自分たちが信じているその神さまに敵対してくる悪魔のように考えて、そんな人は滅ぼされるべきだ、とか、あるいはその人からサタンが出て行くようにと思ってしまうことがあります。実際、歴史をひもとけば、そういう思いから生じてしまった残虐な事件もあるのです。日本ではよく、唯一の神を信じる一神教は不寛容だから、そういうことが起こるのだ、と批判されることがありますけれども、しかし、今日のところで明らなのは、イエスさまご自身は、そのような不寛容な信仰とは無縁である、ということです。つまり、自分の信仰やキリスト教を批判する人に敵意を向けることは、イエスさまご自身の願いとは反することだ、ということなのです。

 ではイエスさまに従って生きるわたしたちは、そのような周りの批判や敵意のなかでどう歩んでいったらよいのでしょうか。・・・そのことが今日の後半の57節以下で語られています。「弟子の覚悟」という見出しがありますけれども、ここには問答形式で、3つのことが語られています。

 第一の問答は、イエスさまに向かって「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」とある人がいいますと、イエスさまにその人に向かって「狐には穴があり、空のとりには巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と返された、というものです。
 この問答は以前に出てきましたペトロの信仰告白の場面に重なるものがあると思います。この人はすばらしい信仰を表明したのです。どこへでもイエスさまに従っていきますと言ったのです。ペトロもそうでした。ペトロもあなたはだれがなんと言おうとわたしたちの救い主キリストです、とイエスへの信仰を告白したのです。そして、その意味では、わたしたち信仰者はみなそうであります。クリスチャンはみなイエスさまへの信仰を告白したものなのです。それで確かに、わたしたちは今クリスチャンとして生き、歩んでいるのです。・・・イエスさまは、そのようなわたしたちに言われます、そう確かにわたしは、あなたたちの救い主だ、あなたたちがどこにいってもわたしはあなたたちを守り、救い、導く、救い主だ、わたしは、あなたの羊飼いとして、あなたが死の陰の谷をゆくときも、必ずあなたを守り、憩いの泉へと導くものだ、・・・でも、忘れてはいけないよ、とイエスさまといわれるのです。しかし、そのわたしは、あなたたちのために十字架を背負った救い主なのだよ、「あなたはわたしの行くところならどこへでも従って来るというけれども、そのわたしには枕するところもないのだよ、安住の地などないのだよ。こころの休まる暇もないのだよ、そういう歩みをしていくわたしに、本当につき従っていけるというのか」・・・イエスさまはそのように問い返されているのです。

 蚤虱馬の尿する枕もと、学生時代にならった、松尾芭蕉の奥の細道で、芭蕉が寝苦しい野宿の情景を歌った俳句を、このイエスさまの「わたしには枕するところもない」という言葉を聴くたびにわたしは思い出すのですけれども、そのような困難な旅路についてくる覚悟はあるのか、と問われる、イエスさまのお答えは確かに厳しいものです。

つづく2つの問答でもそうです。二番目は、ある人がイエスさまに「わたし従いなさい」と言われたとき、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と答えたのに対して、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と答えられたといいます。そして三番目の問答では、ある人が「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言いますと、イエスさまはその人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と答えられた、というのです。

 自分を生み育ててくださった父または母の死を悼み、そのなきがらを尊敬をこめて葬ること、それは時代や文化を超えて、私たち人間にとって最も大切な営みの一つではないでしょうか。三番目の問答も、これは家族との、おそらくは両親との別れの場面ですよね。私たちは人生において、いろいろな意味で親と別れていく、巣立っていく、そういうことを経験いたします。結婚で家を出る、仕事で遠く家を離れる、そのような家族との別れのひと時をわたしたちはこれまでも大切してきましたし、これからお大切にしていくのではないでしょうか。イエスさまはそのようなことを大切にしてはいけない、と言われたのでしょうか。・・・決してそうではありません。

 ここでのイエスさまのお言葉の真意を、わたしたちはしっかりと受け止めなければなりません。ここで語られていること全てに共通しているものは何でしょうか。それは「旅立ち」ということです。人と別れること、生き別れにしろ、死に別れにしろ、さらにいえば、健康との別れ、若さとの別れ、ということも、私たちの人生にはあるのではないでしょうか。それらはみな、本当は新しい旅の始まりなのです。わたしたちに恵み与えられた、イエスさまへの信仰は、実は、わたしたちの人生のそのような様々な旅立ちのときにこそ、真価を発揮するのです。

 人生の出会いの中で、そこでわたしたちが大切な人と死に別れ、生き別れるとき、また自分自身の健康とわかれなければならないとき、その新しい旅立ちを妨げるものは何でしょうか。それは、その別れに対する悲しみであり、苦しみであります。その別れによって、すべてを失ってしまったような絶望へと導く力です、聖書はそれを死の力と呼びます。

 イエスさまは、私たちが、そのような死の力に支配されてしまうことをよくよく知っておられるのです。でもそのときこそ、わたしに従いなさい、十字架を背負って歩んでいくわたしに従いなさい。といわれるのです。いやむしろ、十字架を背負っていくあなたの十字架を、わたしが共に背負っている、だから安心して、その道を、わたしと共に歩んでいきなさい、といわれるのです。そのようにして人生における様々な旅立ちにおける十字架を、イエスさまとともに歩んでいく、そのとき、自分の力では到底かなわないような歩みを、わたしたちは、なしていくことになるのです。そもそも、そのようなイエスさまの十字架に従う、というのも、実は、わたしたちの力や才能によってできることではありません。十字架の主に従う、そのこともまた、わたしたちの十字架を、わたしたちのために、わたしたちよりも先に背負ってくださっているイエスさまと出会い、そのイエスさまの後ろ姿を見つめることによってこそ、恵み与えられていくものなのです。そのようにして十字架の主と共に歩んでいく、そのわたしたちの姿が伝道です。十字架の主に従って旅を続ける、それが神の国の福音をこの世に伝える業なのです。

 二番目の問答に出てきました、父の葬りということでいうならば、まさにいま私たちの教会が、愛する家族を、ただ自分たちの思いで葬るのではなく、教会にそのお柩をまねきいれ、愛する人のなきがらを交えて共に主を礼拝する、そのようなかたちで葬儀を行っていることは、イエスさまのここでの思いに沿った営みだということがいえるでしょう。まことに、わたしたち人間にとっては、神の国の福音が言い広められ、告げ知らせられるところでこそ、愛する者の、そして、自分自身の死と、本当の意味で向き合うことができるのです。単なる気休めではない、本当の慰めと希望のある葬りは、そこでこそできるのです。

 ですからイエスさまのお言葉は決して、葬儀などせずに伝道しなさい、家族などほうっておいて伝道しなさい、などということではありません。そうではなく、十字架の主と共に歩むそのところでこそ、わたしたちは、愛する者と、またその別れや出会いにおいても、本当に向き合って生きることができるのです、また、最初の問題にたちかっていえば、さまざまな敵意に対しても、敵意でかえすのではなく、まさに主イエスが黙って十字架を背負われた、その姿に従っていくことによってこそ、わたしたち自身の思いをこえて、その敵意の壁を崩すことができるのです、命の道を歩むことができるのです。そのようにして、神の国の福音を宣べ伝えていく者となっていきなさい、とイエスさまはいわれるのです。

 このあとわたしたちは主みからだのしるしであり、その救いの約束のしるしである聖餐式にあずかります。主イエスのからだなるパンと血なる盃は、まさに主イエスの十字架の出来事、その死と復活を指し示しています。わたしたちは主の十字架を通してまことの命にあずかるのです、そのことを思い起こしつつ、感謝して、共に聖餐にあずかりたいと思います。祈りましょう。

 主なる神さま
 まことにわたしたちの人生の様々な場面には外にも内にも敵がいます、そして、わたしたちをときにまどわし、混乱させ、また悲しみ苦しみに沈ませますけれども、いついかなるときも十字架の主に従いゆくこと、それが私たちの人生の旅路に与えられたゆるぎない道しるべであり、命の道であること、またそのようにしてあなたに従い、自分の十字架を背負ってゆく姿こそが福音伝道であることをしっかりと心に刻んでいくことができますように、わたしたちを聖霊でみたし、守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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降誕節第6主日礼拝 

2017年1月29日(日)ルカ9章46-50節
「主イエスが受け入れてくださったように」三ツ本武仁牧師

 元旦礼拝でもご紹介しましたように、今月の『信徒の友』には香里教会のことが載っています。日毎の糧というコーナーで、毎日の聖書の言葉とその言葉についての黙想、そして全国の教団の中から教会が1つずつ選ばれて、その教会の祈りの課題を共に祈ることができるようになっています。香里教会はちょうど先主日の22日がその日に当たっていたのですけれども、先週はその私たちの祈りに応えて、全国から28通ものお葉書をいただきました(注:1月30日現在)。わたしは大変励まされました。ハガキホルダーに入れて掲示板の下においてありますので、ぜひ皆さんも手にとって目を通していただけたら、と思います。

 さて今日与えられましたルカ福音書の9章46節以下には、イエスさまに従っている弟子たちのあいだで起こった一つの論争、といいますか、仲違いのような話が語られています。
 弟子たちの間で、自分たちのうちの誰が一番偉いか、という議論が起こったというのです。誰が一番偉いか、などと聴くとなんとも子供じみた、しょうもないケンカを始めたものだ、と思ってしまいますけれども、要するに自分たちの中で、誰を中心にしていくべきか、誰の意見を最も尊重すべきか、そういうことで争いが起こってしまったのです。その点では、社会のあらゆる組織がそうであり、また教会もその例外ではないのです。いや、それはおかしいじゃないか、イエスさまがおられるのだから、教会はイエスさまが中心で、それで丸く収まるではないか、と思います。

 しかし、そんなに単純ではないのですね。私たちは、確かに救い主イエス・キリストのもとに集まっている者たちではあったとしても、そのもとで集まる者たちの間では、では誰がイエスさまの考えにもっとも正しく理解しているか、イエスさまに願いをもっとも忠実にかたちに表しているか、行動で示しているか、イエスさまに最も愛されているか、そういう思いが、そこには渦巻いていく、そして油断をすればすぐにそこに様々な、争いや妬みや差別や、足の引っ張りあいが起こってくる。それは、もうすぐ70年を迎えようとしている香里教会の歴史を紐解いてみても、明らかなことではないでしょうか。

 47節には「イエスは彼らの心の内を見抜き」とあります。弟子たちのそのような言い争いの根本にあるもの、どういう思いからこのような議論、争いが生じたのか、イエスさまは見抜かれたのです。そしてそのような彼らを教えて諭すために、ある一つの行動を起こされたのです。イエスさまはそこにいあせた一人のこどもの手をとり、その子を御自分のそばに立たせられました。そして言われたのです。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

 ・・・このイエスさまの振る舞いとお言葉を理解するためには、当時のユダヤ社会で子供がどのような存在であったか、ということを確認しておくことが必要だと思います。わたしたちの感覚では、こどもの存在、またその命を尊重することは当然である、という感覚があるかもしれません。もちろんいつの時代にも例外があって、新聞に時々報じられる幼児虐待の問題や、また反対に過保護という問題もありますけれども、私たちの多くには、こどもの人格とその命を一人の人間として尊重し、その成長をまもり、健全に育てるのが大人の義務である、という理解があるのではないか、と思います。つまり、その根底には、こどもは価値ある存在であるという考えがあると思うのです。しかし、今日のこのところでは、むしろ、これは今の社会ではなかなか理解しにくいことですけれども、こどもは人間として価値のない存在、一人の人間として受け入れるに足りない存在である、というそういう、当時の社会の常識をもとに、イエスさまは、ここで一人の子供の手をとり、ご自分のそばにたたせられて、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と語られたのです。

 当時の社会で価値のないものとされていた子供、その子供を受け入れることと、イエス・キリストを受け入れること、そして天の父なる神さまを受け入れることとが一つのこととして結び合わされています。神さまを受け入れるとは、神さまを信じるということです。自分にとって最も大切なものとして従っていくということです。それが、価値のないと思われているものを受け入れていくことと結び合わされているのです。これはですから、単にこどもを大目に見てやるとか、半人前でも我慢してやるとか、そういうことではありません。そうではなく、そのような自分たちが価値のないと思っている者、その社会がそのようなレッテルを貼ってしまっている人々を大切な自分たちの仲間として、尊重し、その人と共に歩んでいく、その言葉に丁寧に耳を傾けていく、そこに、じつはあなたたちを生かす命の道があるのだ、そういうことをイエスさまはおっしゃっているのです。

 この教えは一見、「自分たちのうちのだれが一番えらいか」という最初の弟子たちの議論、争いとは関係がないようにも思えます。しかし実はこれこそが、弟子たちの議論、そしてわたしたちの問の奥底に潜む、根本的な問題を見抜かれたイエスさまのお答えなのです。・・・誰が一番えらいか、誰が重んじられ、誰の意見や理解が正しいとされ、誰がその交わりの中心になるべきか、そのような争いがわたしたちの間で起こってくる原因には、わたしたちの中の小さな一人を受け入れようとしない思いがあるのです。自分たちの内で誰が一番えらいか、誰の意見に従うべきか、そのような思いが生まれる、その裏側には、反対にこの人の意見は聞かなくてもよい、軽んじてよい、受け入れなくてもよい、という、そういう思いがあるのです。弟子たちの、そして私たちの心の中に、共に歩んでいる人たちの中に序列をつけ、ある人は受け入れ、ある人は受け入れようとしない、そういう思いがある限り、「誰が一番えらいか」というこの弟子たちの議論は姿を様々にかえて繰り返されていきます。
 ・・・イエスさまは、当時軽んじられ、一人の人間として受け入れられていなかった子供を弟子たちに、受け入れるようと求めることによって、彼らの議論の背後にひそんでいる、そのような根本的な問題に気づかせようとなさったのです。

 48節の最後には「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最もえらい者である」とあります。ここで「最も小さい者」というのは、ですから、その社会、その交わりで小さくされた者、軽んじられ、意見が聞かれず、受け入れてもらっていない人のことです。そういう人を受け入れ、仲間として大切にしなさい。「最も小さい者こそ、最もえらい者である」ということでイエスさまは、そのような思いを語っておられるのです。しかし、ここでよく誤解されることは、だから社会で軽んじられている人は、教会では他の人たちの上に立つことができる、と理解してしまうことです。そう理解するならば、そこには、いわゆる逆差別が起こってきてしまうでしょう。社会において弱い立場の人がえらぶり、強い立場の人が片身の狭い思いをする、そのようなことをイエスさまはこの教会の交わりにおいて願っているのではありません。イエスさまが「最も小さい者こそ、最もえらい者である」と言われたのは、弟子たちが「誰がえらいか」ということで頭がいっぱいになっていたから、その頭を覚まさせるために、はっとすることを言われたまでです。

 大事なことは、私たちが、誰がえらいか、誰の意見こそ聞かれるべきか、という思いから離れて、どんな人の意見にもひとしく耳を傾け、その思いを大切にしていく、受け入れていく、ということなのです。
 しかし、ここにはそれ以上に、イエスさまのお言葉の中で、注目しておかなければならないことがあります。それはイエスさまが、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」といわれた、その最初の「わたしの名のために」というお言葉です。イエスさまは、道徳の問題として、倫理の問題として、一人の子供を受け入れなさい、つまり弱い立ち場の人を受け入れなさい、と言われたのではないのです。単に道徳的な問題として、誰も排除しない、仲の良い教会になりましょう、ということではないのです。ここは少し難しいことですけれども大事なところです。イエスさまは、わたしの名のためにそうしない、弱い立ち場の人を受け入れなさい、と言われました。「わたしの名のため」というのは、どういうことでしょうか。それは、イエスさまのみ名にふさわしく生きる上で、ということです。つまり、私たち自身がイエスさまのその歩みつき従っていく、そのところでこそ、小さくされた者が本当の意味で受け入れられていく、そのような交わりが生まれるのだ、ということなのです。

 ではイエスさまの歩みにわたしたちが従っていく、とはどういうことでしょうか。そのことは前回読みました、9章の44節でイエスさまが語られたことから見えてまいります。9章の44節でイエスさまは、いわば二回目となる、ご自分の受難の予告を語られました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」前回申しましたように、これはイエスさまの十字架の出来事を語っています。
 人々の手に引き渡され、苦しみを受け、十字架につけられて殺される、その主イエスに従い、その主イエスの弟子として歩むところにこそ、小さくされ、軽んじられ、価値のないものとされたような人を受け入れていく歩みが与えられるのです。それはなぜでしょうか。それはなぜならば、イエスさまが受けてくださった苦しみと十字架の死は、神さまが、まさに受け入れがたい罪人である私たちを受け入れてくださった出来事であるからです。
 私たちこそは、このように生かされ、神さまに命を授かりながら、その命の源である神さまのことを忘れ、そのめぐみに感謝することもせず、また隣人と互いに愛し合い、支えあって生きることのできない、無価値な、受け入れがたい者なのです。そのことを私たちに思い出させてくださるのがイエスさまの十字架です。神さまの前に無価値になってしまった、そのような私たちを、それでも愛し、あなたはわたしの目に高価で尊い、と再び宣言してくださるために、神さまは、大切な独り子であるイエスさまを遣わしてくださり、その十字架の死と復活によって、私たちすべての者を受け入れてくださったのです。このイエスさまの十字架による罪のゆるしを受け入れること、受け入れがたいものが十字架を通して受け入れていただいたことを、信じる、それが、私たちにめぐみ与えられた信仰であります。ですから、じつは、弱い人を受け入れるというのは、私たち自身の心がけとか、人間性とか、そういう問題ではないのです。そうではなく、問題は、イエスさまが十字架を通して、このわたしを、わたしたちを、受け入れてくださった、そのめぐみを見ることができているかどうか、そのような、本当の信仰者として生かされているか、生きているか、そのことにかかっているのです。

 今日の後半の、49節50節で語られていることも、基本的には、この今までのところと〃ことであります。弟子の一人であるヨハネが「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったのです。するとイエスさまは「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」とお答えになりました。

 ある人がイエスさまの御名によって、イエスさまのような業を、働いていたのです。悪霊を追い出していた、というのです。ヨハネが問題としたのは、そのことではありません。ヨハネが問題としたのは、その人が「わたしたちと一緒にあなたに、イエスさまに従わない」ということでした。・・・その人は、その人なりの仕方で、イエスさまに従っていたのです。イエスさまの十字架の御跡に従っていたのです。だからこそ、イエスさまの名によって悪霊を追い出すという不思議なみ業もできたのです。

 イエスさまの十二弟子がイエスさまに従っている中心的な人々であったことは確かです。しかしじっさいには、それ以上の人々がイエスさまを信じ、イエスさまに従っていた、そのことは福音書のほかのところでちゃんと語られていることです。この後の10章では、さっそく12弟子の他に72人の人々がイエスさまによって派遣されていくことが語られています。またこれまでにも、たとえばゲラサ地方でイエスさまに悪霊を追い出していただいた男の人や、長血の病をいやしていただいた女性など、イエスさまによって癒やされた人々も、それぞれの仕方でイエスさまに従っていった人々だといえるでしょう。

 同じイエス・キリストを信じながらも、十字架の主に従いながらも、その従い方においては違うかたちをとる、ということもあるのです。イエスさまはヨハネに向かって、「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」といわれました。ここでイエスさまのいわれる「あなたがたに逆らわない者」というのは、一緒に同じ仕方で、イエスさまに従う、という点においては一致していなくても、それぞれに十字架を担いながら、イエスさまに従っている人たちのことを言っておられるのではないか、わたしはそのように思うのです。それは、今日の教会が、カトリックやロシア正教会、そしてプロテスタント、プロテスタントの中の諸教派がその違いを超えて共に歩んでいく、そういうことの大切さ、ということも言えますし、またわたしたち香里教会という群れのことを考えてみましたときに、基本的には、洗礼を受け、香里教会に籍をおくものが、香里教会の会員ということになるわけですけれども、じっさいにはいまこうして、未受洗者の方、求道者の方、他教会員の方がともに一つとなって礼拝を守っているように、また受洗者であっても、様々な事情によって教会に来られない方もいる、そういうことも祈りに覚えながら共に歩んでいる、そういうそれぞれの事情や状況を、認め、受け入れていく、そのことの大切さをイエスさまはここで語っておられるのではないでしょうか。

 人それぞれ、主イエスに従い、礼拝を守り、また信仰に生きる、そのあり方は違ってよいのです。私たちは、それぞれが、自分の信仰の良心に基づいて、神さまが自分に与えてくださったと信じる働きをにない、行っていくのです。そのとき、自分のあり方とほかの人のあり方とが違う、ということは当然起こってくるでしょう。そこでもしわたしたちがどっちのあり方が正しいのか、と比べ始めるのならば、結局それは最初の弟子たちのしたような「だれが一番えらいか」という争いに支配されていくことになるのです。イエスさまは、そうであってはならない、といわれるのです。大事なことは、だれが正しくイエスさまに仕えているか、ということではなく、違う仕方ではあっても、十字架の道をゆくイエスさまに従い、自分の十字架を担いつつ歩んでいく、その兄弟姉妹の姿をみつめることです。考え方や、生き方や、仕え方、そこにばかり目を奪われているならば、わたしたちは、わたしだったらああはしない、あんな仕方は間違っている、という思いにとらわれてしまうでしょう。でも、イエスさまは、見るべきところはそこではない、といわれるのです。そうではなくて、その人がどんな十字架を背負って、わたしに従っているのか、そのように隣人の背負っている十字架について思い巡らす想像力、洞察力をこそ持ちなさい、といわれるのです。そのとき、わたしたちは、様々な違いをこえて一つになっていくことができるのです。

 先週のキリスト入門のときのことです、週報にありますように男女それぞれ6名の方が参加されたのですけれども、いつも参加されている方々が、まさに今自分の背負っておられる十字架について語られたんですね。家族の病気のこと、介護の大変さ、そんな話をし始められました。そうしましたら、その日はじめて参加された、ある意味ではもうベテランの教会員の方が、急に泣き出されて、言われたのです。みなさんのほうがえらい、みなさんのほうがずっとつらい思いをしている、教会ではいろいろなことを言う人もいるけれども、どうかやめないでほしい、そう言われたんですね。わたしも思わずじーんときてしまいました。そうお話になったその方も、じっさいは大きな十字架を背負いながら、この香里教会を支えてこられた方です。それだけにその言葉には重みがありました。互いの背負っている十字架を見つめ合うとき、そしてそのわたしたちの十字架を支えるために、イエスさまがわたちたちの十字架を背負って、先頭を歩んでくださっている、十字架につけられたまま、いつもわたしたちとともにいてくださっている、そのことを見つめるときにこそ、わたしたちは互に受け入れ合い、つかえあって生きる、まことの主のからだなる教会、神の家族となっていくことができるのです。祈りましょう。

 主なる神さま
 わたしたちは様々に考え方、生き方、生活の仕方に違いはありますけれども、あなたが黙って背負ってくださった十字架のもとに、互いの十字架をみつめあう、その中で、心から一つになっていく群れとなれますように、わたしたちの小さな群れをこれからもあなたの霊でみたし守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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降誕節第5主日礼拝 

2017年1月22日(日)ルカ福音書9章37―45節
「いやしと十字架」三ツ本武仁牧師

 先週の金曜日から同志社香里高校での聖書の授業が始まりまして、遅まきながら、初出勤してきました。生徒たちには二学期のあいだは新島襄の生涯について教えてきたのですけれども、三学期は、新島襄がいよいよ大学設立という大きな夢に向かって、その募金集めのために日本中そして世界を旅していく、その中で、病に倒れ、天に召されていくその直前までを先週は、やってきました。偶然にも、明日の1月23日は、その新島襄の召天日なんですね。46歳11ヶ月という若さで、新島襄は天に召されていったのです。実は、わたしもいま46歳なんです。・・・厳密には46歳と3ヶ月になりますけれども、大変感慨深い思いがいたしました。

その新島襄ですが、彼は遺言のなかで、自分は生涯敵をつくらないように心がけてきた。もし皆さんの中で、私に対して、釈然としない思いを抱いている人がいたら、どうかいま、ゆるしてほしい。わたしの胸の中には、一点の曇りもありません、・・・とそのように述べています。これは聖書のイエスさまの教えに基づくものであることは一目瞭然でありますけれども、人生の最期に、わたしの胸には、一点の曇りもありません、と、そのように私たちは言えるでしょうか。全ての人をゆるします、ゆるしています。だからみなもわたしのことをゆるしてください、そういう言葉を、残すことができるでしょうか。わたしはこのような言葉を残すことも、キリスト者としてやはり大変大きな業ではないか、と思わされました。

 さて、ルカによる福音書を読みすすめていますけれども、先週は、イエスさまのお姿が山の上で栄光に輝き、そこにイスラエル人なら誰でも伝え聴いている、偉大な人物モーセとエリヤが天使ように現れて、イエスさまと話し合っておられる姿を、選ばれた三人の弟子たちが、垣間見ることがゆるされた、という、いわゆる山上の変貌、というところを読みました。そのことを通して弟子たちには、イエスさまが確かに、先祖から伝えられている救い主であることが、はっきりと示されたわけですけれども、今日のところでは、その出来事の翌日、山からイエスさまと三人の弟子たちが降りてこられた、そのところでの出来事が語られています。

 そこでイエスさま一行は大勢の群衆に迎えられるのですけれども、そのなかで一人の男が、自分の一人息子を癒してほしいとイエスさまに願った、というのです。この男は、自分の息子は悪霊に苦しめられているというのです。悪霊を追い出し、人々の病をいやしてくださる、それがイエスさまの働きの一つであったことはいままで見てきた通りであります。今日のところの問題はそのことではないのです。この男の人はさらにイエスさまにこう言ったのです。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」

 イエスさまがちょうど山に行かれていた頃、この男性は、麓に残っていた弟子たちに、自分の息子を苦しめる悪霊を追い出して、息子をいやしてくださるように頼んだのです。でも、そのような業が弟子たちにはできなかったのです。今日のところのポイントはまずここにあります。なぜ、弟子たちはそのような業ができなかったのでしょうか。

 それは当然ではないか、と思われる方もあるかもしれません。そのような奇跡的な業というのは、イエスさまご自身だからこそできることであって、ただの人間にすぎない、またまだまだ半人前の弟子たちに、そんなだいそれたことできるわけがないじゃないか、そう思われる方も少なくないと思います。クリスチャンをイエス・キリストの弟子だというなら、わたしたちだって、そんな業はできない、しろといわれたら困ってしまう、わたしたちはそう思ってしまいます。・・・しかし、以前ともに読みました箇所に、こんなことが語られていたのを覚えておられるでしょうか。この9章の1節のところです。121ページです。そこにはイエスさまが、弟子たちに、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能とをお授けになって、各地に派遣された、とあったではありませんか? そして実際、彼らは自分たちの遣わされた町々でそのような体験をしたのです。だからこそ、この男の人も弟子たちに向かって、自分の息子のいやしてくださいと頼んだのでしょう。弟子たちには、そのような奇跡的な業ができたはずなのです。いやしの業ができたはずなのです。わたしたちもそうなのです。・・・最初に申しました新島襄は、まさにそのような意味で、イエスさまに近い働きをしたのではないでしょうか。でも、このとき、弟子たちにはそれができなかった、それは、なぜだったのだろうか、ということです。

 イエスさまは、そのように弟子たちが、御自分のいない間に、いやしの業ができなくなってしまっていた、その姿を見ておっしゃいました。41節です。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたとともにいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

 このお言葉も、以前申しましたようにイエスさまのお怒りの言葉ではなく、お叱りのお言葉であります。イエスさまは弟子たちの不甲斐ない姿をみて、イライラして、怒っておられるのではないのです。このように訳されている日本語からは怒っておられる、ようにしか受け止められないかもしれませんが、じっさいはそうではありません。よこしまな時代、と訳された、この時代という言葉は訳すのが難しい言葉ですけれども、ようするにそこに生きている人々のことです。つまり弟子たちを含めた、その息子の父親も含めた、そして群衆を含めた人々のことです。そしてよこしま、とは日本語では悪いあくどい、といった意味合いですけれども、原文ではむしろ、まっすぐに見ることができない、ゆがんでしまっている状態をさす言葉になっています。つまりこうです。あなたたちの信仰はどうしてしまったのか、どうしてまっすぐに見ることができないのか、あなたたちには信仰があるではないか、だから、まっすぐに見ることができるはずではないか。そのようにイエスさまは弟子たちを励ましておられるのです。

・・・そして、後半の「いつまでわたしはあなたがたとともにいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」というところは、イエスさまが本当はわたしたちに我慢したくないのに、いやいや我慢してくださっている、ということではなくて、わたしはいつもあなたがたとともにいるではないか。という、そういうお言葉なのです。我慢しなければならないのか、と訳されたことには確かに理由があるのですけれども、その「我慢」という言葉が、どこから出てきているか、それがわかれば、この言葉は納得がいきます。イエスさまの我慢、つまり、イエスさまが耐え忍んでわたしたちのためにしてくださったこと、そしてそのみ業のゆえに、イエスさまは今まさに、わたしたちとともにいてくださっているのです。

 逆にいいましたら、このイエスさまが耐え忍んでなさってくださった御業、それゆえにわたしたちといつも共にいてくださる、その御業がちゃんと見えていたならば、弟子たちも、あるいはその子の父親にも、その息子を、悪霊から救い出し、その病をいやすことができたのです。わたしたちもそうです。わたしたちも、イエスさまがわたしたちのためになしてくださったその御業がちゃんとみえているならば、自らもイエスさまのいやしにあずかれるし、またイエスさまのいやしを人々に分け与えることができるのです。

 では、わたしたちが見つめているべきイエスさまの御業とは何か、今日のところの後半には、そのことが語られています。

 あなたたちの信仰はどこにいったのか、どうしてまっすぐに見ることができないのか、わたしはいつもあなたがたとともにいるではないか。わたしが訳すなら、そのように語られ、弟子たちを励まされたイエスさまは、そのあとに、あなたの子供をここにつれてきなさい。と言われて、そして、その子供を悪霊から救い出し、いやし、そして父親にその子をお返しになりました。そこにいた人々は皆驚くわけですけれども、そこでイエスさまは弟子たちに言われたのです。44節です。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

 これは何のことでしょうか。「引き渡される」というのは、イエスさまのご受難、十字架の死のことを指す言葉です。ここには十字架という言葉は直接には出てきませんけれども、聖書に「引き渡される」とあったら、それはイエスさまの十字架と深く関わっている言葉なのです。十字架の死、そのみ苦しみを味わう、そのところまで徹底的に、イエスさまは、わたしたちと共にいてくださるのです。・・・教会員の方で、ある大きな試練に合われて、いまもその苦しみの中に生きておられる、わたしたちの兄弟姉妹の一人の方が、このあいだ、地区集会の席でいわれました。自分一人でこの十字架を背負っていると考えたらほんとうに耐えられない、しんどいけれども、この十字架をイエスさまが共に背負ってくださっている、と思えるから、がんばれるんです。・・・そのお言葉を聴きながら、こちらがまた励まされる、いやされる思いがいたしました。

 わたしたちの人生にふりかかる、一番つらいこと、一番悲しいこと、苦しいこと、それが聖書のいう十字架、ということです。その十字架を、わたしはあなたがたといつもともにいるそのために、背負っている。背負い続けている。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」コリント一の1章22節に出てきます、パウロが言った有名な言葉ですけれども、「十字架につけられたキリスト」この言葉を、ある先生は、十字架につけられたままのキリストと訳すべきだ、と言っておられます。十字架につけられたままのキリスト、ずっと、わたしたちのために十字架を背負ってくださっているキリスト、わたしたちが苦しいとき、つらいとき、いつも共にいてくださるために、そのことを耐え忍んでくださっているキリスト、このキリストに出会うことが、救いであり、いやしであり、復活なのです。イエスさまはそのことを、ここで弟子たちに伝えてくださったのです。

 イエス・キリストはまさに十字架の苦しみを通して、わたしたちの救い主となってくださいました。そのことの深い意味も、自分の苦しみを通してこそ見えてくるのです。そのようにして学び知った神の愛こそ、わたしたちをまことに生かす糧となっていくのです。

 ただし、今日のルカ福音書の最後のところに次のようにありました。45節です。「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」

 弟子たちは、その言葉が分からなかった。その言葉とは、イエスさまが引き渡される、ということ、つまりイエスさまの十字架の死のことです。そのことがどういうことか、なんのことかこのときの弟子たち分りませんでした。そして、聖書は、一方では、その言葉、十字架のことが理解できないように、まだこのときには弟子たちは隠されていた、といい、また他方では、弟子たちには、イエスさまの言われたことが、ただただ怖くて、それ以上、イエスさまにそれはどういうことか、と尋ねることができなかった、といいます。

 さきほど申しましたように、イエスさまの十字架がしっかりと見えていること、それが、わたしたちの本当の意味での救いであり、いやしであります。けれども、そのことはやはり弱いわたしたちには、隠されてしまう、見えなくなってしまうのです。それは、ペトロが山上で栄光に輝くイエスさまをみて感動したように、わたしたちもまた、やはりそのような力強い、かっこよい、救い主としてイエス・キリストを想像してしまうことによって、そうなってしまうことがありますし、また自分の人生にふりかかってきた悲しみや苦しみに向き合うことができない、そのようなわたしたちの恐れから、そうなってしまうこともあるでしょう。・・・いまこうしてこの礼拝の中では、イエスさまの十字架がはっきりと見えていても、わたしたちは、また礼拝を終えてそれぞれの生活の場に戻っていくとき、この世の忙しなさの中で、また人生の思い煩いの中で、イエスさまの十字架が見えてなくなってしまうのです。

 しかし、ある意味で、聖書は、それでいいのだ、と語っているのではないでしょうか。それぞれの生活の中で、わたしたちはイエスさまがわたしたちのために背負ってくださった十字架のその大切な意味を見失ってしまう、それが隠れてしまう。けれども、まさにそのようなわたしたちのために、イエスさまは耐え忍んでくださっている、十字架につけられたままのキリストでいてくださっている。・・・こうして繰り返し十字架の前に招かれ、礼拝において、聖書の御言葉を聞いて、ああそうであった、と思い起こしつつ、わたしたちは、イエスさまの忍耐とゆるしにただただ感謝する者とされ、そしてそのイエスさまの十字架にいやされ、力づけられつつ、そのようなイエスさまの救いの場へ、一人でも多くの人を招くことができるようにと祈り願い、行動する者とならせていただくのです。思えば、あの新島襄も、最後のとき枕元で、弟子に聖書を読んでもらったのでした。新島襄もまた、わたしたちと変わらない、一人も弱い、罪深い人間にすぎなかったのです。けれども、彼は、聖書の言葉に、イエス・キリストに繰り返し立ち返っていた、そこに彼の力の秘密があったのではないでしょうか。わたしたちもそうです。こうして主の招きにこたえて礼拝に出て、御言葉を聴く。そのときはじめて、わたしたちには、十字架が見えてまいります。そして、わたしのために十字架を背負ってくださったイエスさまの深い愛に打たれて、いやされ、人をゆるし、愛するものへと、変えられていくのです。祈りましょう。

 主なる神さま、あなたがわたしたちのために背負ってくださった十字架、その十字架のみ苦しみを見つめるところに、わたしたちのまことのいやしがあり、力がある、そのことを深く心に刻むものとならせてください。しかしまた弱いわたしたちは繰り返しそのことを忘れてしまう罪深いものであります。主よどうか、あなたの十字架を繰り返し見つめることができますように、御言葉に前にわたしたちを繰り返しまねいてください。主の御名によって祈ります。アーメン

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降誕節第4主日礼拝 

2017年1月15日(日)ルカ福音書9章28―36節
「栄光はどこにあるか」三ツ本武仁牧師

 私たちは昨年の暮れ、クリスマス礼拝において、私たちの救い主イエス・キリストの降誕を祝い、喜びました。12月25日に、毎年、世界中の教会で、私たちはそのようにして本当のクリスマスを祝っています。しかし、イエスさまが地上の生涯を送っておられたときは、当然ながら、まだそのようなことは行われていなかったわけです。つまり、イエスさまがキリストである、救い主である、ということはまだ世界には認められていませんでした。イエスさまと出会った多くの人々はむしろ、この人はいったい何者だろうかと問い、疑問に思ったのです。その疑問を抱いた者の一人としてあのヘロデがおり、そして誰よりもそのような疑問の中に置かれたのが、イエスさまの一番近くにいた弟子たちであったわけです。

 弟子たちは、一切を捨ててイエスさまに従ってきたくらいですから、イエスさまの大きな力を知って感動し、すごい人だ、この人についていけば間違いない、と思っていたことでしょう。しかし、イエスさまのことを、この時点で、聖書が告白しているように、神の独り子、救い主であられるとほんとうに分かっていたか、というと、そうではなかったのであります。むしろ、あぶなっかしい信仰のままイエスさまにつき従っていた、というのが実情であろうと思います。ただただいったいこの方はどなたなのだろう?と イエスさまの癒しの業や、悪霊を追い出される力や、また自分たちや人々を救ってくださった、そのような御業を体験させていただきながら、ただただ不思議に思い、疑問に思いながらイエスさまについてきたのです。

 そのような中で、先週の読んだ9章18節以下で、イエスさまのほうから弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いが投げかけられたのです。
 わたしたちが信仰者になっていく上で、この体験は決定的に重要なことであります。イエスとは何者か、いろいろな人にも聞き、本を読み、なるほどと考えたりしている、そのように思い巡らしている間は、わたしたちはまだ本当の意味では信仰者に、クリスチャンにはなれないのです。そのようなイエス。キリストへの近づき方は、イエス・キリストについて考察し思想し研究することに過ぎないからです。そのようなことはある意味では大切なことですけれども、考察や思想や研究と信仰とは全く違うのです。その根本的な違いは何かと申しますと、考察や思想や研究の主人はあくまでも自分自身です。これに対して信仰の主人は、イエスさまご自身なのです。私たちの信仰は「あなたはわたしを何者だと言うのか」というイエスさまからの問いを受けることによって、そこに与えられていくのです。

 このイエスさまからの問いかけに、弟子たちを代表してペトロが「神からのメシアです」と答えました。イエスさま、あなたこそ、神さまが遣わしてくださった救い主キリストです、とペトロは信仰を告白したのです。ただし、このことの背後には、イエス様ご自身のとりなしの祈りがあったのだ、ということを先週お話いたしました。そしてこの告白は確かに正しい告白ではありましたけれども、それでもまだ弟子たちはほんとうにはイエスさまがキリストであることを十分にわかっているわけではなかった、どのようなことゆえにイエスさまがわたしたちの救い主であるのか、ということはまだこの時の弟子たちには見えていなかった、そういうことも先週お話させていただいたかと思います。

 イエスさまは御自分がどのようにして救い主としての働きをされるのかを語られました。それが前回の22節のところです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆる受難予告です。これは、イエスさまこそ救い主ですキリストですとの告白へと導かれたペトロをはじめとした弟子たちには、まったく信じられないことでした。それだけではありません。驚く弟子たちに、さらに驚くべきこと、理解しがたいことをイエスさまは語られたのです。23節です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」・・・イエスが救い主キリストであるなら、そのイエスに従っていく歩みは、連戦連勝の輝かしい歩みのはずだ、それが当時の弟子たちの思いであったでしょうし、またそれは私たちの思いでもあるのではないでしょうか。なぜその対象を信じるのか、それはそれによって生活安定が得られ、名誉や栄光のある人生を送れると思うからではないでしょうか。けれどもイエスさまは、私に従う者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってついて来なければならない、とおっしゃったのです。・・・

 これが先週までの聖書の流れであります。今日のところはその続きで、内容的にも深くつながっています。この日イエスさまは、ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブの三人の弟子をつれて山に登られました。そしてそこで彼らは、イエスさまのお姿が尋常ならぬ変化をとげられるのを目の当たりにするのです。「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」といいます。32節を見ますとそのことを「栄光に輝くイエス」と表現されています。イエスさまが神さまの栄光に輝いている、そのことが弟子たちにもはっきりとわかったのです。

 いささか俗なたとえで恐縮なのですけれども、某テレビ番組で、鑑定士たちが、その家の家宝を鑑定して、どれくらいの価値があるものかを、発表する、というものがあります。それで、すごい価値があると思っていたものが、たいした価値がないものであったり、たいしたものではない、と思っていたものが、とてつもなく高価なものであった、ということがわかって、本人も驚く、といった内容の番組なわけですけれども、・・・弟子たちは、イエスさまが、本物かどうか、正直わからない、半信半疑、その価値をどこかで疑っていたわけです。しかし、ここで、まさに鑑定士によって、本物どころか、自分たちが思っていた以上にすばらしい方であることが、はっきりと判明した、そのような体験をしたのです。

 じっさいイエスさまの、そのような栄光ある真実のお姿は、ずっと隠されていました。あのベツレヘムの家畜小屋でお生まれになってから、十字架につけられて殺さるまで、イエスさまの地上での生涯においては基本的に、本来のイエスさまの栄光のお姿は隠されたままであったのです。宗教画は、イエス・キリストの降誕の時の様子や、その生涯の場面場面で、イエスさまを、どこか輝いた姿で描いていますけれども、それは後世の、その作者の信仰がそこに反映されているからであって、じっさいのイエスさまは、わたしたちと変わらない一人の人間の姿でありました。ですからその意味では、弟子たちがイエスさまのことをずっと
半信半疑であったのも仕方がないといえば仕方のないことであったわけです。けれども、今日のところで、彼らには、本当のイエスさまの姿が示されたのです。神の独り子であり救い主である、栄光に満ちたイエス・キリストの輝かしい姿を、彼らは垣間見ることができたのです。

 モーセとエリヤが現れた、というのは、さきほどの鑑定士ではありませんけれども、まさにしく、イエスさまの輝きが本物の輝きであることを証明するものでした。モーセは言うまでもなくあの出エジプトの指導者です。そしてこのモーセは、あの十戒を神から授かった人物として「十戒」に代表される神さまの掟、律法を代表する人物でありました。他方でエリヤは、預言者として、イスラエルの民が、神さまから心離れ、律法に従わなくなった時代に、人々を神さまに立ち返って生きるようにと導いた人でした。旧約聖書には、救い主が現れるとき、まずそれに先立って神さまはエリヤを再び遣わされる、との預言もなされています。ですから、エリヤは預言者を代表する人物なのです。・・・聖書というのは、その全体で、神さまの救いの歴史を語るものです。それは律法にはじまって、預言の時代を経て、そして救い主の到来に至る歴史であります。そのあとはさらに聖霊の時代、つまり教会の時代を経て、キリストの再臨へとつながっていくのですけれども、いまここで何が行われているのか、というと、まさにその聖書の救いの歴史が、モーセ、エリヤの時代を経て、ついにイエス・キリストに結ばれたのだ、という、そういう神さまのご計画が、弟子たちにはっきりと示された、ということなのです。
 
 31節には「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。
 ここには、私たちにとって大切な二つのことが示されています。まず一つは、イエスさまがエルサレムで遂げられる最期こそ、神の救いの歴史の中心なのだ、ということです。イエスさまが遂げようとしておられる「最期」と聞きますと、イエスさまのあの十字架の死のことを指しているように思われますけれども、ここで「最期」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「エクソドス」といいます。英語で出口のことをExsit エクシットといいますけれども、エクソドスはその語源なのです。「外への道、外へ出ること」というのがその本来の意味です。この同じ言葉は旧約聖書のある書物のタイトルになっています。「出エジプト記」です。出エジプトでは、エジプトからの脱出がテーマでありました。イエスさまはエルサレムで、そのようなエクソドスを成し遂げられた、というのが、ここでいうイエスさまが成し遂げられた最期なのです。それはどういうことでしょうか。それは、イエスさまの十字架の死と復活の御業を通して、わたしたち人間を罪の奴隷状態から解放し、そこから救い出し、神のもとに生きるまことの自由の中に生きるものとしてくださった、ということです。実にそれこそが、罪に落ちた人間を救うための神さまの御計画の最終目的であったわけです。モーセからエリヤの時代を経て、ついにその時が来た。そのことを「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」という言葉は示しているのです。

 それからもう一つは、弟子たちはここで栄光に輝くイエスさまの姿を垣間見ることができたわけですけれども、そのようなイエスさまの栄光に輝くお姿は、本来はどこで見るべきものであるのか、それはこれからイエスさまがエルサレムで遂げられるその最期、つまりその十字架の死と復活という御業を通して見なければならない、ということです。そのことを抜きにして、イエスさまの栄光の姿を見ようとする、それが弱いわたしたちの願望であるわけですけれども、イエスさまの栄光は、十字架の死と復活、その御業を見つめることにおいて、わたしたちに垣間見ることがゆるされていることなのだ、ということです。

 このことは、ですから、先週のところで、ペトロが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とお語りになったこととつながっているわけです。イエスさまが神のキリスト、救い主として栄光に輝くお方であることは、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださる、そのことにおいてこそ現れる、ということです。

 そのようにして、ペトロたちは、イエスさまが、モーセとエリヤと語り合い、神の栄光に輝いているお姿を見せていただきました。と、モーセとエリヤがイエスさまと話を終えて、そこから離れていこうとするのが見えました。ペトロは慌てます。そして「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。それは「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とありますけれども、しかし、ペトロがどのような思いになっていたかは、その言葉から察することができます。ペトロは、この栄光に輝くイエスさまのお姿、しかも偉大なモーセとエリヤがともにイエスさまといてくださっている、このすばらしい瞬間をずっと留めておきたかったのです。自分たちの先生は、モーセとエリヤのお墨付きの先生なのだ、その証拠をぜひ残しておきたい、そのような思いがペトロにはあったのだと思うのです。

 そのようなペトロの言動は、ある意味で、とても人間的で、大変よくわかるような気がするのです。わたしたちも、だれか著名な人のサインを求めたり、その人と会ったことを写真に残したりするじゃないですか。歴史的に有名な場所に行きたがるじゃないですか。そうしてそういう体験をした人がやっぱり羨ましいじゃないですか。ですからペトロの言動は決して笑えない、まさにわたしたちもペトロのようなことをしょっちゅうしているし、そういう思いをしょっちゅう抱いているのです。

 しかしそこで34節ですけれども、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中から包まれていくので、弟子たちは恐れた」ということになります。栄光に輝く三人の姿を雲が覆い隠してしまった。雲あるいはガスに覆われてしまう体験というのは皆様あるでしょうか。わたしは山形にいたころ、家族で、蔵王にあるお釜というカルデラ湖を見に行ったとき、ものすごい霧に覆われてしまって、結局その湖が見えなかった、という経験があります。まさに一寸先も見えない、場合によっては大変危険な状態になります。・・・そのように雲に霧に覆われてしまう状況は、聖書では、神さまが人と出会われるときの現象として、しばしば語られています。・・・じっさいこの後、神さまの声をペトロは雲の中から聴くことになるのです。ただし今日のところでは、この雲そのものにも、ペトロの思いに対する神さまからの暗黙の答えが示されていたと思うのです。今日のこの出来事は特別な出来事なのだよ、いつもどこでも誰にでも与えられるものではないのだ、神さまは、やがて弟子たちが、イエスさまの十字架の出来事の中にこそ、主に栄光を見ることができる日がくることを願いつつ、この時のこの出来事を雲で覆われたのではないでしょうか? 

 雲の中からペトロは神のみ声を聞きました「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け。」そして、その声がしたと思うと、そこにはイエスさまだけがおられました。これに聞け、とはどういうことでしょうか? それはイエス・キリストの言葉を聞け、ということです。イエス・キリストの御言葉を聞きつつ歩むこと、その御言葉に耳を傾け、従っていくこと、その中でこそ、私たちは栄光に輝く、まことの神であるイエスさまの本当のお姿と出会うことができるのです。イエスさまは十字架の道を歩んでいかれました。そのイエスさまの御言葉に聞き従うということは、十字架の道に従うということです。自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従っていく、ということです。それは一見困難に見える歩みです。でもその中でこそ、この世のものには代えることのできない、喜びと平安を私たちは経験させていただくのです。あなたの背負われた十字架に比べたら、わたしの十字架などなにものでしょう。と歌った人がいます。まさにそのようなかたちで十字架を軽くしていただきながら、わたしたちはまことの栄光の道を、本当の意味で光輝く道を歩んでいくことがゆるされるのです。祈りましょう。

 疲れたもの、重荷を負うものは誰でもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう 主なる神さま、わたしたちは、はっきりとした救いの保証がほしくて、あなたに何度もそのことを願ってきましたけども、あなたの御子が、わたしたちの罪のすべてを背負って十字架の道を歩んでくださった、その歩みの中にこそ、あなたの栄光があること、十字架を背負う、その静かな、隠された歩みの中に、わたしたちの命があることを、見るもの、見続けるものとなれますように、わたしたちを聖霊でみたし、まもり、導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン















category: 礼拝メッセージ

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