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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

聖書研究 

2016年1月21日 木曜集会 エレミヤ書31章1-40節
「新しい契約」三ツ本武仁牧師

 今日はエレミヤ書の31章に語られています神さまの言葉に耳を傾けたいと思います。
 エレミヤ書31章は、南ユダ王国が、バビロニア帝国による、二回目の捕囚が行われた後に、エレミヤによって語られたものです。二回目というのは、あの最後の王であったゼデキヤ王が、バビロニアへの反逆を諸外国と計略していることが見破られて、悲惨なかたちで、連行されていった、あの捕囚でありました。

 このときのイスラエルの民、というのは、ですからもはや滅亡寸前であった、空前の灯火であった、そういうこともできるかと思います。預言者エレミヤは、そのような事態にならないように、いままで、非常に厳しい叱責の言葉を、南ユダの人々に語ってきたのでした。そこでなかには、エレミヤの言葉に耳を傾け、悔い改めていった人々もいたわけですけれども、しかし国全体としては、そうはならなかったのです。ゼデキヤ王に関していえば、最後まで、自分の力を過信し。傲慢な心で、つきすすんでいこうとしたのでした。

 エレミヤはいま、自分の言葉に聞き従わず、失敗した者を前にしているのです。そこで彼は何を語ったのか。だから言っただろうと、くどくどとお説教をはじめたのか、というとそうではないんですね。今日のところを読まれてみなさんは何をお感じになったでしょうか。わたしたちは今日のところで、ある意味で耳を疑うような体験をいたします。いままでこのエレミヤ書の前半以上を通して、エレミヤから語られる厳しい言葉に、聴き慣れてきたわたしたちにとって、今日のこのところで語られている言葉は、はたして同じエレミヤの言葉なのだろうか、という、そういう思いいたします。
 ある人は、だから彼は預言者なのだ、といいます。つまりこれは人間業じゃない。ふつうあんなに厳しいことを言う人が、こんな手のひらを返したような優しい言葉を、しかもこのような自業自得の悲惨にある者に向かって語れるものじゃない、これは、やはり、エレミヤがあくまでも、神の言葉を預かる器であったから、こういうことができたのだ、というのです。確かにそうだと思います。

 そして、またそれだけに、この31章の慰めの言葉、励ましの言葉、希望の言葉は大変深く心に響くのです。前回の30章にも、慰めの言葉が、大きく出てきていましたけれども、今日のこの31章は、エレミヤ書の一つの頂点であると同時に、聖書全体の頂点だという人もいるほどに、聖書の中心、つまり、イエス・キリストの福音の響きが、はっきりと聞こえてくる旧約聖書の言葉として、大変需要なところであります。

 最初に31章の1節から3節に、次のようにありました。
 そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は、荒れ野で恵みを受ける。イスラエルが安住の地に向かうときに。遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。

 主なる神は、わたしはイスラエルのすべての部族の神となる、と宣言された、というのです。すべての部族、というのは、つまりいまエレミヤが預言を語っている相手である南ユダ王国に属した部族だけではく、すでに100年以上前に滅びてしまった、北イスラエルに属した部族も含めて、全イスラエルがふたたび、再興されて、神さまのもとに集められる、ということです。南ユダと北イスラレルは長く敵対しあっていたわけですけれども、そういう関係をも回復に導くということでもあります。
そして、これはまた、新約聖書を知っているわたしたちにとっては、イエスさまの十二弟子を中心として始まった、世界の教会の民の交わりのことだ、というふうに受けとめてよいわけですが、もっといえば、全人類の神、いうことです。いま神さまは、天地創造のはじめに戻って、わたしは全人類の神となる、とうことを高らかに宣言されたのです。本当の神さまは、宗教を超えて全人類の神である、ということを、そのような、人間の思い、南ユダ王国の人の思いを超えた、全体的回復ということを、ここで語っておられるのです。

 続いて10節から14節では次のように言われています。
 諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる」主はヤコブを解き放ち、彼にまさって強い者の手から贖われる。彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て、主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは穀物、酒、オリーブ油、羊、牛を受け、その魂は潤う園のようになり、ふたたび衰えることはない。

 ここには、わたしたち新約聖書に生きる者には、はっとさせられる言葉が出てまいります。神さまは、羊飼いが群れを守るように、新しいイスラエルを守ってくださる、というのです。ヤコブというのは全イスラエルを代表する名前ですけれども、神さまは、イスラエルを苦しめる者から、購ってくださる、というのです。「贖う」というのは、買い戻す、救い出す、という意味をもつ言葉です。わたしたちはイエス・キリストを、良い羊飼い、として、またわたしたちの贖い主、救い主として、信じ、そう告白しているわけですけれども、そのわたしたちのキリスト信仰に深くつながる言葉が、ここでも語られています。

 また15節から17節には次のようにありました。

 主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、なく声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないから。主はこう言われる。泣き止むがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。と主はいわれる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある。と主はいわれる。息子たちは自分の国に帰ってくる。

 このところの前半の部分はみなさんどこかで聞き覚えがあるのではないでしょうか。新約聖書のマタイによる福音書2章18節に出てまいります。
 あのヘロデ王が、救い主誕生の知らせを聞いて恐れ、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を虐殺するという、痛ましい出来事がありました。その事件についてマタイは、17節で、こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。と語り、このところを引用したのです。ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルはこどもたちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。こどもたちがもういないから。

 ラマというのは、一説によれば、バビロン捕囚のとき、人々が連行されていくとき通った町の名前だといいます。しかし、それ以上にこのラマという町には、ヤコブの妻であったラケルの墓があったのです。さきほどはヤコブがイスラエル民族の代名詞だ、ということを申しましたけれども、ラケルもまた同じなのです。ラケルはイスラエル民族の産みの母である、という意味では、もっと深い意味があるかもしれません、エレミヤの時代、戦争や捕囚で、若者の多くは皆死んでしまったのです。その悲しみのことがここで言われています。エレミヤ書で、神さまは、エレミヤを通して、その深い悲しみに目を止められながら、慰めと希望の言葉をここで語ってくださっているのです。

 そして、その言葉が、マタイ福音書に引用されたことの意味は、その慰めと希望が、イエス・キリストによってもたらされる、ということを伝えるためであります。マタイでは引用されなかった、16節17節の、あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある、との御言葉こそは、イエス・キリストによって、すべての民の上に成就していったのです。

 18 節19節には次のようにありました。

 わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。あなたはわたしを懲らしめ、わたしは馴らされていない子牛のように懲らしめを受けました。どうか、わたしを立ち返らせてください。わたしは立ち返ります。あなたは主、わたしの神です。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ、若いときのそしりを負ってきました。

 エフライムというのは、このときにはすでにない北イスラエルのことですけれども、その民が、悔い改めの告白、罪の告白をしている姿が語られています。これは大変素直な告白でありますけれども、それ以上に、ここで意味深いのは、そのような告白を、聞き、受け入れてくださっている神さまの決意のほうなのです。

 20節で、神さまはこういわれるのです。
 エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしはさらに、彼を深く心にとめる。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない、と主はいわれる。

 エフライムは北イスラエルのことだと申しましたけれども、それと同時に北イスラエルは、神に背いた全て人間を代表しているのです。その神に背く、わたしたち人間の、その罪
は確かに深いのです。神以外のものを神とする、というのは、結婚にたとえるならば、その結婚相手以外のものになびいていった行為に等しい、親子にたとえるならば、親の財産を食いつぶした放蕩息子に等しい、ことだと聖書はいいます。それほどにわたしたちの罪は深刻であり、許しがないものであるわけですけれども、いま神さまは、そのような罪の中にあるわたしたち人間の、その罪の告白に耳を傾けてくださり、その告白を受け入れ、ゆるしてくださるのだ、というのです。
 なぜなら、ということで、神さま自身が次のように告白されるのです。エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしはさらに、彼を深く心にとめる。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられない。

 ここで神さまが、彼のゆえに、胸が高鳴る、と言われた、この「胸が高鳴る」と訳された言葉は、とても重要な言葉である、といわれています。ハーマーというのがヘブライ語の、この言葉の発音ですけれども、この「ハーマー」というヘブライ語のもともとの意味は、痛む、であります。しかしそれだけでなく、このハーマーには愛する、慈しむ、という意味もあります。ですからこのハーマーという愛は、痛みをつきぬけた愛、痛みに基礎づけられた愛、だというふうにもいわれています。

 そして、聖書のいう神の愛、わたしたちが聴き慣れているこの「神の愛」というこの愛を考えるとき、じつは、このエレミヤ書全体に流れているこのハーマーという愛、痛みをつきぬけた愛、痛みに基礎づけられた愛、ということがわからないと、本当には、聖書のいう神の愛は見えてこないのです。つまり、あのイエス・キリストの十字架の愛、イエス・キリストの十字架の死と復活に示された神さまの愛というのが見えてこないのであります。

 一言でいえば、この神さまの、わたしたち人間に対する痛み、こそが、神の独り子なるイエス・キリストの十字架の死に示されていることであり、その痛みをつきぬけて示された愛こそが、イエス・キリストの復活の喜びなのです。神さまが痛まれた、苦しまれたのは、愛する相手が、あるいは愛するわが子が、もう関係を破棄しなければならないほどの罪を犯してしまったからです。神さまご自身が決めたルールに従ったら、もう関係は回復できないのです。でも、神さまはわたしたちを憐れみ、なんとかその関係を回復しよう願い、決心してくださいました。それが神の独り子の十字架の死と復活、という御業によって示されたのです。十字架の死だけでは、単に神さまも苦しまれた、で終わってしまいます。それでは不十分であるどころか、まったく神さまの御心を読み違えてしまいます。神さまも苦しまれたのだから、わたしたちも苦しみに耐えよう、という話で終わってしまいます。しかし、そうではく、聖書は、神さまの、痛みにつきぬけた愛をかたっているのです、それがイエス・キリストの十字架の死と復活という御業に示された神さまの愛の勝利なのです。

 ですから、わたしたちは神さまに慰められるだけでなく、神さまから希望を与えられるのです。わたしたちが人生で背負った苦しみは、すべて、未来の希望につながっているのです。そのことを信じて、わたしたちは生きていくことができるのです。

 最後にもう一つ、今日のところで重要なのは、最初にも触れましたけれども、新しい契約、つまり新約ということが、旧約聖書に出てきるということです。それが31節以下であります。
  31-34節を読む

 新しい契約とは何でしょうか、もちろんそれは新約であり、福音であります。わたしはその名を何度も口にしていますけれども、じっさいにはエレミヤ書には、まだ福音という言葉は出てきていません。イエス・キリストはまだ出てきていません。イエス・キリストの日こそ、エレミヤが33節でいう「来るべき日」であります。

 そこで、わたしたちは、反対に今日のところから、新約聖書からわたしたちは何をとくに学ぶべきか、神さまがわたしたちに与えくださった新しい契約とは、どのような契約であるかを知らされるのです。
 それは、神さまの痛みに基礎づけられた愛、その愛を心に刻む、ということです。それが、かたちをとって示されたのが、イエス・キリストの十字架の死と復活である、ということです。そのことを心に刻む、それがわたしたちの礼拝であり、洗礼であり、聖餐式であり、伝道であるといっても過言ではないと思います。そういう新約にわたしたちは預かっているのです。
 自分の心の板に、イエスさまの十字架と死と、その死だけではなくて復活を刻む、つまり神さまのわたしたちに対する痛み、というだけでなくて、その痛みをつきぬけた愛を刻むのです。そのとき、わたしたちは赦され、愛され、永遠の命に生かさる、それが福音であります。
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聖書研究 

2016年1月7日(木)エレミヤ書30章1-24節

 「回復の約束」三ツ本武仁牧師

 エレミヤ書の30章に入りました。エレミヤ書は31章から大きな方向転換を迎えると一般的に言われているのですが、この30章には、その31章の大転換の序章のようなところがあると思います。最初に「回復の約束」とありますように、エレミヤはここで、イスラエルの回復を約束してくださる神の言葉を語り出すのです。

 いままで、エレミヤ書に付き合ってきてくださった皆様にはもうお馴染みの説明になると思いますけれども、エレミヤとその言葉は、非常にダイナミックな、振り子のようなものであります。どういう振り子かといいますと、激しい怒りと深い慈しみの間を、揺れ動きながら、その狭間で苦しむ、そういう振り子です。

 ただし、その振り子も、前半はどちらかといえば、激しい怒りというトーンが中心でありました。振り子ですから、本当は、平等に振れなければいけないのですけれども、じっさいに怒りの側に偏って振れていたわけです。みなさんがエレミヤはしんどい、とこぼされたのもそれが大きな原因であったか、と思います。

 けれども、これも全くの偶然たまたまですけれども、新しい年を迎えた、この年のはじめにあたった第30章から、エレミヤ書の内容は明らかに変わってまいります。怒りよりも憐れみ、滅びよりも回復、裁きよりも赦しが語られるようになっていくのです。

これまで、このままではダメだ、このままでは滅びるぞ、だから、悔い改めなさい、という、どちらかというと、厳しい口調で神の言葉を語ってきたエレミヤでした。その激しい怒号にかき消されるようにして、愛の言葉がありました。しかしここからは、まだ若干の厳しさは今日のところなのでは残っていますけれども、しかし、それはもはや脇役であって、圧倒的な、愛と憐れみ、赦しと癒しの言葉は全面に出てくるのです。

まず1節から2節に次のようにあります。
(よむ)
見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る。と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。

ここでイスラエルといわれているのは、このエレミヤの時代からすれば、もう100年以上前に滅びてしまっている北イスラエル王国のことです、ユダというのが、エレミヤが相手にしている、ユダ王国のことです。

エレミヤはじっさいにはこれから滅びされようとしているユダの人々に向かって、深い慰めの言葉を神から託されそれを紡ぎ出しています。いま絶望の瀬戸際にあり、そしてじっさいに絶望を味わっていく、そのところで、繰り返し読まれるものとして、この「繁栄を回復する」という言葉は大きな意味をもちます。「繁栄の回復」は「運命の回復」とも訳せる言葉です。神さまは、運命に傷つき、絶望の淵を彷徨っていた人々に、そのあなたの運命をわたしは回復させる、と語ってくださったのです。これは本当に、当時のユダの人々にとって、大きな慰めとなり、また驚くべき言葉でもあったでしょう。
そして、このことは、聖書の中心テーマであることも思います。聖書は、あらゆる時代のあらゆる人々に、勇気と希望と励ましを与えてくれるものです。けれども、じっさいにはそのことが非常にわかりにくい箇所もあります。これまでのエレミヤがまさにそうであったといえます。けれども、ここでははっきりと、慰めの言葉が語られています。いや、これまで、苦しい厳しい言葉に耐えてきたからこそ、この慰めの言葉も深く心に響いてくるのかもしれません。

ここで、もう一つ重要なことは、いまバビロン捕囚の民となっている、あるいは、これからなろうとしている、ユダ王国の人々だけのこととして、このことが語られているのではない、ということです。それは、キリストを信じて信仰者となったものすべてに語られている、ということも確かにそうですけれども、ここでは直接的に北イスラエル王国の回復も告げられているのです。

それは、ユダ王国にとってみれば、かつてのダビデ王時代に統一王国であった頃の同胞です。けれども、その北王国は、もう100年の前にアッシリア王国に滅ぼされてしまって、この時代は変わり果てていました。
イエスさまの時代に、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かったという話が出てきますけれども、あのサマリア人こそは、変わり果てた北イスラエルの人々なのです。いろいろな民族の血が混ざって、当時のユダヤ人から見れば、純粋なユダヤ人とはいえない、もはや穢れた民族それがサマリア人でした。だからそこには大きな差別の壁がありました。

 聖書は、エレミヤは、さらっと語っていますけれども、このイスラエルとユダの繁栄の回復というのは、実にものすごい方向転換が語られているのです。

 差別しあって憎しみあっているあなたがたの関係が回復される、そういうかたちで、あなたがたの繁栄は回復する、運命は回復する、というのです。

 ですから、これは、ユダの人々がこのときには正直には喜べなかった、言葉であったかもしれません。回復のメッセージは嬉しいし励まさせる、でも、あの北イスラエルとの関係が回復するなんて、そんなこと、冗談じゃないと思っていたかもしれません。

そして、じっさいユダ王国の民は、捕囚から60年後にエルサレムへの帰還が許されてからも、そういう思いは引きずっていたわけで、そのことが、さらにそれから400年以上あとにあって来られたイエスさまによって、あのよきサマリア人のたとえ、などでその問題を指摘されていくわけです。

ですから、そういうわけで、ユダの民の根本的な回復はまだまだ先、ということになるわけで、今日の30章にも、よく読めば、神さまの懲らしめだとか、神さまの激しい怒りということも、出てきます。けれども、最初に申しましたように、それでも全体的に回復へ向かっている、そういう神さまの決断というか、方向ということが、はっきりしてきているのです。

たとえば、12節13節で、お前の切り傷は癒えず、打ち傷は痛む、お前の訴えは聞かれず、傷口につける薬はなく、いえることもない、と宣言されますが、しかしそれが17節に至ると、さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう、と主はエレミヤを通して語ってくださっています。

ところで21節を、わたしたちは、どう受けとめたら、よいでしょうか。
ひとりの指導者が彼らの間から、治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので、彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて、わたしに近づくであろうか、と主は言われる。

これはメシア預言だといわれています。メシア、つまり救い主イエス・キリストの到来と、そのご支配を預言する言葉だと言われています。命をかけて主なる神に近づくとは、イエスさまの十字架の死を意味しています。そのイエス・キリストの御業を通して、新しいイスラエルの民、すなわち教会の救いが、完成されたのです。

22節の、こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる、とは、ですから、イエス・キリストを通して、あなたたちはわたちの民となり、わたしはあなたたちの神となる、という祝福された交わりに、わたしたちは入れられる、ということです。

前後しますが、20節に「ヤコブの子らは、昔のようになり、その集いは、わたしの前に固く立てられる。とあります。

この「昔のように」という言葉には深い意味があって、神さまが人間を出迎えてくださった時のように、という意味合いがあります。聖書は天地創造から始まっていますけれども、その最初の神と人との関係は、深い愛で結ばれていたのです。イスラエルの回復というのは、究極的には、この神と人との愛の関係の回復であります。

新しい一年、このような恵みに言葉から始められましたことを感謝し、今日示されました回復、ということを、心に止めながら、みなさんと共に歩んでいきたいと願います。

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木曜日聖書研究(2015年10月1日) 

2015年 10月1日(木)エレミヤ書20章1-18節
「エレミヤの告白」三ツ本武仁牧師

 今日はエレミヤ書の20章から学びたいと思います。

 20章は、内容的には大きく3つに分かれていることが分かります。最初は、内容的には19章からの続きとなっている1節から6節です。19章は砕かれた壺、という見出しがありましたけれども、エレミヤが、陶工から買った壺をもって、エルサレムの主だった人々を連れて、神殿の外の南側にあるベン・ヒノムの谷へ行って、神の言葉を語ります。そこでは、主なる神が思いもしなかった悲惨な出来事が繰り広げられていました。主なる神の民であるイスラエルの民が、その主なる神を捨てて、他の神々に、自分の願望を叶えていただこうと、無実の人々や、自分の息子までも、その神々のいけにえとして捧げていたのです。

 そこはやがて、ゲヘナ、地獄と呼ばれるようになります。自分の願望を満たすために、他の人々の人生を犠牲にすることこそ地獄である、というメッセージがそこには込められていると思います。エレミヤはそこで、持っていた壺を砕き、もはやイスラエルは、この砕かれた壺のように、神さまによって砕かれるだろう、と告げるのです。
 陶工の壺も、その製作途中であれば、いくらでも作り直すことができる、あなたたちも、悔い改めたら、いくらで神さまは、あなたたちを作り替えてくださっただろう。しかし、もうそれも手を遅れのところまできてしまった。あなたたちは、もう固くなってしまって、作り変えることはできない。あなたたちはもはや砕いて壊すしかない、というのです。

 エレミヤはそのようなことを、ベン・ヒノムの谷のトフェトと呼ばれる小高い丘で語ったあと、エルサレム神殿に戻ってきました。そのことが19章の14節で語られていました。そして、エルサレム神殿の庭で、ちょうどイエスさまが、異邦人の庭で、語ったように、エレミヤは、すべての民に向かって次のように語りました。19章の最後の15節です。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都と、それに属するすべての町々に、わたしが告げたすべての災いをもたらす。彼らはうなじを固くし、わたしの言葉に聴き従おうとしなかったからだ。」

 今日の20章の1節から6節は、エルサレム神殿でのこのエレミヤの言葉を発端に展開されていきます。エレミヤが以上のような厳しい神の言葉を、エルサレム神殿の中で宣言したとき、それを聴いていた人々の中に、神殿の最高監督者がいました。20章の1節にありますように、それは祭司のバシュフルという人物です。そしてこのバシュフルは、2節にありますように、ただちにエレミヤを捕らえさせて鞭で打たせ、エレミヤをベニヤミン門に拘留したのです。

 これは、見方を変えれば、確かにバシュフルは正しかったということもいえます。バシュフルは、いってみれば警察みたいなものです。どこかの山奥でなら、すぐに警察に捕まることもないでしょうけれども、わたしたちの社会の真ん中で、公共の施設で、人々を脅かすような発言や行動をとったならば、ただちに警察に尋問されて、場合によっては拘留されることもあるでしょう。それは警察の大切な責任であり、役割だといえます。物騒な社会に生きている私たちが、いまもし、エレミヤとバシュフルのこの場面に出会ったなら、間違いなく、バシュフルに拍手を送ってしまうのではないでしょうか。

 そういう意味で、本当に神の言葉にしろ、その言葉を伝える預言者にしろ、なかなか理解しがたいものである、ということは、よく心に留めておく必要があるでしょう。神の言葉は、耳に心地よい言葉ではないのです。すんなりと受け入れられる言葉ではないのです。わたしたちを、そのままにさせてくれない言葉なのです、わたしたちに、生き方の変更を求めてくる、面倒くさい言葉なのです。

 バシュフルに拘留されたエレミヤは、そのところから叫びました。3節です。主はお前の名をバシュフルではなく『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。主はこういわれる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。・・・・6節」

 このようにエレミヤは、たとえ捉えられたとしても、口を閉じず、そして、バシュフルを1つの象徴として、そのような旧来の体制が、いま崩されていく、それは具体的に、バビロニア帝国によって滅ぼされ、その民はバビロンに連行されていくだろう、という、預言を語るのです。

 けれども、このように言い放ったエレミヤですが、エレミヤは、神の命じる通り神の言葉を語り、そのために鞭打たれ、拘留されていく中で、さきほど言いました、神の言葉のしんどさ、ということを、実は、エレミヤその人こそ嫌というほど経験しているのだ、ということが、このあとの7節から出てきます。エレミヤの告白と見出しされている部分です。

 7節―9節
 
 世界三大告白文学というのがあります。1つはトルトイの『懺悔』、もう1つはジャンジャック・ルソーの『告白』そして、最後がアウグスティヌスの『告白録』です。わざと時代の新しいものから言ったのですが、最後のアウグスティヌスの『告白録』に、わたしは、神学生時代に心酔していまして、これ以上の文学はない、と思っていました。それを周りの人にも公言していたのですけれども、あるとき、忘れもしない旧訳聖書の講義で、今年引退された旧訳聖書学の教授であった向井孝史という教授が、旧訳聖書の中にもっとも古い告白録があるのを知っていますか? と学生に聞いたのです。わたしはどきっとしました。先生はわたしにこの質問をしているのだ、と勝手に想像いたしました。
 わたしは、旧約聖書のどこに告白録があるのか知りませんでした。ほかの学生たちも誰も
答えられませんでした。すると向井教授はエレミヤ書を読んだことがないのか?と少し呆れられて、エレミヤ書20章の7節を開きなさい、と言われたのです。

 そして、この1節から7節を読まれました。エレミヤの苦悩があなたたちにわかるか?と教授は聞きました。もう語りたくない、もう語りたくない、とどんなに思っても、語れ、語れ、と心の底から聞こえてくるんだ・・・・。教授はそのように言いました。

 これが実は告白しますと、わたしのエレミヤ書との出会いであります。衝撃を受けました。大変印象深い講義でした。福音を語る牧師もまた、こういうものだ、と教えられた思いがしました。その言葉が人々から世間からバカにされ、意味のないものと扱われることもある。自分でもそれに耐えられない思いに駆られるときもある。こんな言葉語りたくないという衝動に語れることもある。けれども、それではなぜ、牧師が牧師として立っていくか、というと、ほかでもない、神ご自身が、それでもあなたはわたしの言葉を語りなさい、イエス・キリストの福音を伝えなさい、と心のそこから語りかけてくる。神さまわたしの負けです、と言わざるを得ない状態におかれる。だから、語らざるを得ないのだ、それが牧師だ、とそう教えられた思いがしました。いや、それはきっと牧師だけの問題ではない、クリスチャンになる、クリスチャンとして生きる、ということは深い部分で、そういうことだろうとおもうのです。

 20章の14雪から18節を、ある注解書では、13節までと分けて「絶望の深み」と題していました。神の言葉を語っているのに、人々から、ののしられ、鞭打たれ、拘留される、誰も自分の語る神の言葉に耳を傾けようとしない、そのような中で、神の言葉をそれでも語らなくてはならない自分の使命に対して、エレミヤは極度に落ち込んでいきます。
 ここでエレミヤが自分の誕生に向かって投げつける呪いの言葉の中に、その思いがもっとも苦々しいかたちで表現されている、といえます。

 エレミヤは冒涜寸前のきわどい言葉を吐き出しています。自分の親を呪うことは、神を呪うに等しい大罪でした。エレミヤはかろうじて、その罪は犯していませんけれども、代わりに「母がわたしを生んだ日」を呪い、「父に、男の子の誕生を知らせて、父を喜ばせた人」を呪っています。
 エレミヤは、本当に深く傷つき、失望していたことが、伝わってきます。それはもはや万策つきたと感じて、呆然としている失望、あなたは失敗者だとレッテルを貼られた人の失望であります。
 しかし、エレミヤの失望が、ただの失望ではないことに、わたしたちは同時に気付かされます。エレミヤはその深い失望を、神さまのせいにも、自分のせいにしも、人のせいにしていません。エレミヤがしていることは。その深い失望を、そのまま、ほかならない、神さまにぶつけている、ということです。18節で、彼は、ほかならない神さまに問いかけています。「なぜ、わたしは母の胎から出て、労苦と嘆きにあい、生涯を恥の中で終わらねばならいのか」なぜでしょうか、とエレミヤは、失望の中から、主なる神に問いかけるのです。

 しかし、20章はここで終わっています。21章は、また違う内容へと移っていきます。このエレミヤの問いに神さまになにも答えてくれてはいません。

 20章の7節から最後の18節までは、7節から18までの一直線の流れ、というよりも、繰り返し、くり返し、エレミヤの心の中に、立ち現れてきた、想念であったといわれています。18節からまた7節に戻るのです。

 エレミヤには自分の使命が意味のないものに思われて苦悩することが、しばしばあったのです。エレミヤには自分の人生から底が抜け落ちてしまったように思える日があったのです。エレミヤには自分の使命への疑いを抑えることができない日があったのです。エレミヤはその疑いとともに生きなければならなりませんでした。エレミヤは神さまを疑いました。エレミヤは自分自身を疑い、自分が嫌で仕方がありませんでした。これがエレミヤが涙の預言者といわれるもう一つの理由です。闇はエレミヤに迫り、エレミヤを飲み込む寸前でした。しかし、エレミヤは、それでも、その闇の中で、まばたく光を見た預言者なのです。どんな深い闇にも消すことのできない光を見てしまった人、それがエレミヤなのです。

 その何者にも消すことのできない光に導かれていったエレミヤのように、わたしたちも、そのエレミヤが預言されたイエス・キリストの光に導かれて、いかなる闇、いかなる疑い、いかなる不安の中をも、進んでいきたい、と願います。

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木曜日聖書研究(2015年9月17日) 

エレミヤ書 18章1-23節
「陶工の手中の粘土」三ツ本武仁牧師

 今日はエレミヤ書の18章に入ります。18章には、神とイスラエルの関係を「陶工(つまり陶器職人)とその職人の作品の材料となる粘土、またその作品である(器)」にたとえています。聖書は、神と民(あるいは人)とのかかわりを、「羊飼いと羊」「ぶどうの木とその枝」「夫と妻」「花婿と花嫁」といったたとえで表現しています。エレミヤ書でも、これまでに主なる神と、イスラエルの民の関係が、夫と妻、花婿と花嫁にたとえられてきました。聖書はそのような日常的なたとえを使って神と人とのかかわりをわたしたちに示すのです。

 今回のエレミヤの場合、その「陶工と粘土(あるいは器)」のたとえは、単に、言葉として示されたというだけでなく、じっさいにエレミヤがそのような現場に立ち会って示された預言であった、ということが、大変興味深いことであります。預言者エレミヤは主によって、陶器師の家とその仕事場に下って行くように命じられます。そこで、エレミヤは彼らの仕事を見ながら、神がイスラエルの民になそうとすることを示されたのです。それは次のようなものでした。3節の後半から6節までをもう一度お読みいたします。
 
 「彼は(彼というのは陶工ですが)彼は、ろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で1つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか。と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」

 イスラエルは、まな板の上の鯉だ、と主なる神は言われるのです。そして主なる神は、そのように陶工が粘土をこねて器を作ることも、その作った器が気に入らなければ壊すこともできる、ということをエレミヤに示したうえで、さらに次のような言葉をエレミヤに託したのです。7節から10節です。

 「あるとき、わたしは1つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとすることを思いとどまる。またあるときは、一つの民や王国を建て、また植えることを約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す。」
 
 内容はとてもわかりやすい、と思います。陶工とその手中にある粘土に、主なる神とイスラエルの民の関係が明らかにされています、イスラエルの民はこれを聴いて、ああ、そうだ、と思ったのではないでしょうか。わたしたちは神さまに作られたものであった、だから、神さまに対して逆らうなんて、とんでもないことだ、そんな自由はわたしたちにはない、神さまの言うことを聴いて、悔い改めて、神さまに立ち返ろう、ときっと思ったのではないでしょうか。

 いいえ、そうではなかったのです。今日のところで大変興味深いのは、この後であります。エレミヤは以上のような自分自身がじっさいに体験した預言をイスラエル民に示して、次のように言いました。11節です。「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちはみな、悪の道から立ち返り、お前たちの道と行いを正せ」ところがこれに対して、イスラエルの民、ユダの民はこう答えたといいます。12節です。
 
 「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。」

 そしてこれに対して、主なる言葉が「国々に訪ねて見よ、だれがこのようなことを聞いたであろうか」・・・という言葉に始まる、主なる神の深い失望と怒り、そして、それならばもうなすすべがない、ということからの、イスラエルを敵の前に散らす、という厳しい裁きの宣言となっていきます。そして、それがバビロニア帝国による、エルサレムの破壊というかたちで実現していくことになるわけです。
 
 それにしても、神さまに対して、それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから、とイスラエルの民が言い放ったという、このことをわたしたちはどう受け取止めたらよいのでしょうか。
 1つは、イスラエルの民というは、特別に恩知らずの恥知らずの民であった、自分たちちをこれまで愛し導いてくださった神に、よくもこんなことが言えたものだ、と呆れしかない、ということでしょう。
 しかしもう1つは、いや、これはイスラエルの民だけの問題ではない、わたしたち人間はみな、自分が神さまに愛をこめてつくっていただいたものだということを、全く考えもしなければ、そのことへの感謝もなにもない、ただあるのは、自分勝手に生きたい、自分さえ幸せになれればよい、というそういう自己中心的な思いしかない、そして、こんな悪魔みたいなことを平気でいえる、それがわたしたちである、ということです。
 いったい、どちらでしょうか。
 実は、もう1つ考えられると思います。それは、このようなひどい背きの言葉を、本当にイスラエルの人々は口にしたのだろうか。もしかしたら、本当はこんなひどいことはいっていなかったし、思ってもいなかったのではないか。けれども、彼らの生き方や、決断していくこと、結局彼らが大事にしていくことは、神さまを、あなたが何を言っても無駄です、わたしたちは好きなように生きていくのです、という、そういう不遜な暴言と同じことであった、ということです。

 わたし自身は、この最後のことが事実ではないか、と思います。そして、その場合、わたしたちにも、このような神さまに対する、大きな不遜な態度というのは十分に起こりうるし起こっているのではないか、と思うわけです、自分たちはそんなつもりはない、神様に背こうなんてそんなことは考えていない、けれども、じっさいは、神さまを心から傷つけ失望させ、もう神さまが、わたしたちの顔をまともに見られないようなことをしてしまっていないだろうか。そういう恐れを感じます。

 先日、キリスト教関係の新聞を見ていましたら、先週の9月8日に明治学院大学のキリスト教研究所で日本キリスト教会横浜海岸教会牧師の上山修平(うえやま・しゅうへい)先生が「被造物のうめきが聞こえる-聖書から見た福島原発事故-」と題して講演会を行われた、という記事がありました。上山先生は高校時代に洗礼を受けられ、大学で機械工学科を専攻されて、東芝医療機器事業部に勤務し、放射線CT開発に関わった方です。その後神学校に入学し牧師となられましたが、2010年3月までは東日本大震災被災地の日本キリスト教会仙台黒松教会で牧師として牧会に携わっておられました。上山先生は、自分の経歴から得た知識を活かしながら、日本で生じた福島原発事故について新約・旧約の複数の聖書の御言葉の箇所と照らし合わせ、神様の御言葉に沿って脱原発の道を歩んでいく必要性があることを強調されていました。
 その中で、上山先生がとくに注目し引用された聖書の言葉がエレミヤ書でありました。
 スリーマイル、チェルノブイリ、東海村臨界事故などの事故は以前から生じており、その度に脱原発の運動が取り組まれて来たがこうなってしまった現実の中で上山先生は、エレミヤ書25章が今回の原発事故と重なって多くの問題を考えさせられたと言います。25章3節には預言者エレミヤが「23年間語り続けたのに」かかわらず、イスラエル民族がエレミヤを通して語られた主のことばを聞かず、「自分の手で造った物をもって、私を怒らせ、災いを招いた(25・7)」ことが書かれています。一方で、東日本大震災による福島原発事故はチェルノブイリ原発事故から25年目に生じた。この事実を先のエレミヤ書の御言葉に対比して、「原爆体験を持つ唯一の国民が原発立国の先頭を走り、諸外国に原発を売り込もうと意気込んでいた矢先に起こった今回の事故。神様の御旨が隠されているのではないか」と問いかけられていました。エレミヤ書37章2節にはエレミヤによって主のことばが与えられ続けてきたにもかかわらず、「王も家来も国の民も主のことばに聞き従わなかった」ことが書かれていますが。このことから、上山先生は「為政者だけでなく、私たち国民一人ひとりにも責任があり、日本は今も放射性核種を世界中にまき散らしている加害者であることを忘れてはならないと思う」と語っておられました。

 わたしたちはまだエレミヤ書の25章も37章も学んでいませんけれども、そのような悲劇に至る伏線のところを今学んでいるのだ、とこの記事を読ませていただいて、改めてわたしたちの学びの大切さに気づかされました。
 18章で、もう1つの大きな問題は、18節から明らかにされていきます、人々が預言者エレミヤを黙らせようとして、エレミヤに殺害する計画をたてはじめた、ということです。
 ユダの人々の言葉として18節に「我々はエレミヤに対して、計略をめぐらそう」とあって、20節にエレミヤの言葉で「彼らはわたしの命を奪おうとして、落とし穴を掘りました」と訴えられています。
 かつては同郷のアナトトの仲間たちによる脅迫がありましたが、ここではユダの人々がひそかにエレミヤを暗殺しようとの陰謀があったことが明らかにされています。ユダの人々は、エルサレムには正しく任職された「祭司」や「賢者」や「預言者」がいるし、そのような公の人々は、エレミヤがいうような危機が訪れることなど何も語っていないじゃないか、だからエレミヤの言葉になんか耳を貸さなくたっていいのだ、むしろ、あんな不吉なやからは殺してしまえ、というのです。このところは、ちょうど今礼拝で学んでいます、マルコ福音書のエルサレム神殿での祭司長たちとイエスさまとの間の対立を彷彿させるものだと思います。

 そして、神さまは、御子イエス・キリストを通して、エレミヤの時代にはなし得なかったことを、行ってくださいました。御子イエスの十字架の死と復活による、わたしたち人間の罪の贖いと、救い、そして、新しい命に生きる希望を、与えてくださったのです。イエスさまを通して、救われるはずのないわたしたちが、そのめぐみによって、神さまの愛のまなざしのうちに生きるものへとされたのであります。

 イエスさまを通して、わたしたちは陶工が愛してやまない器だと宣言されたのです。陶工は「ろくろ」によって粘土をかたちづくり、器を作ります。「ろくろ」とは、いわば陶工が、その粘土に自分の思いを伝えるためのなくてはならない道具であります。では、わたしたちにとって「ろくろ」とは何でしょうか。それは、神さまの言葉を聞くための、この集会の集まりであり、何よりも主日礼拝でありましょう。「ろくろ」は、くり返しくり返し回転して、粘土を陶工の願う器へとかたちづくっていきます。わたしたちはくり返しくり返し集会で礼拝でイエスさまの御言葉を聴いて、主なる神のみ心にそうものへち形作られていくのであります。祈りましょう。

category: 集会

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木曜日聖書研究(2015年9月3日) 

2015年 9月3日(木)エレミヤ書第16章

預言者の孤独

わたしたちの新共同訳の聖書では、1―13節は「預言者の孤独」と題されています。
エレミヤに主なる神さまの言葉が望んで、生涯妻子を持ってはならないこと、誰の葬儀にも顔をだしてはならないこと、そして友人たちとの楽しいパーティーにも参加してはならないことが告げられた、というのです。エレミヤという人は、そういう孤独な生涯を生きるように神に命じられた人であったということです。
これは確かに大変な孤独な人生であり、また人々から後ろ指さされるような人生であったということがいえるでしょう。一言でいえば変わり者、ということになります。ただここで小見出しに「預言者の孤独」とありますけれども、旧約の預言者がみな、そのような孤独な人生を歩むように神から命じられたか、というと決してそうではありません。結婚ということについていえば、イザヤをはじめ、他の預言者たちの中には妻子のある預言者がおりました。
ですから厳密には「預言者の孤独」ではなく「預言者エレミヤの孤独」であります。エレミヤという人にとっては、そのような孤独が強いられたのです。それはなぜか、といいますと、そのような孤独な歩みによって、これから起こるであろう、イスラエルという国全体の孤独を告げるためであります。エレミヤに、主なる神の言葉がイスラエルの民に対する、厳しい裁きの言葉が望んだのです、そのことをエレミヤは単に言葉で警告するだけでなく、その生涯の生き方を通して、人々に警告するように主に求められたのです。一番最初に、エレミヤが召命をうけたとき、彼が逃げ腰になったというのも、ここに及んで痛くわかります、エレミヤに同情したくなります。
イスラエルの国が死体の山となるような、そんな悲惨な状況が訪れる、これは歴史的には、これから起こるバビロニアの攻撃とバビロン捕囚の史実を語っているわけです。それは、イスラエルの先祖たちが、主なる神を捨てて、現世利益的な世の神々のほうに心惹かれていった、そのことに対する報いである、と主はいわれます。そしてその悲惨の警告として、エレミヤは孤独な生涯を生きるように神に命じられたのです。

ここでわたしたち人間の罪ということについて少し考えてみたいと思います。
そのままの人間というのは、どんなに世間的にはいい人であっても、所詮は自己中心的な思いの塊である、というのが、聖書の人間理解であります。そして世の神々、人間がつくりだした神々というのは、そのような人間の自己中心的な思いに答えてくださる神さまとして信じられる神さまであります。
わたしたちもそのことを時々ごちゃごちゃにして、イエスさまの父なる神さまも、そのような、わたしたちの自己中心的な願望に答えてくださる神さまだと考えてしまいやすいのです。けれども、主なる神さまと、わたしたちとの関係というのは、あくまでも、わたしたちが、主なる神さまのみ心に聞きしたがっていく、というところにあります。礼拝に行くのも、こうして集会にくるのも、本来は、わたしたちが楽しいからそこへ行く、ということではなく、それが主なる神さまのみ心であるから、そこへ行き、その交わりに入り、そしてそこで主なる神のみ心を共に聞く、ということにあるのです。

そこでわたしたちが与えられる主なる神さまの言葉というのは、愛の言葉であります。神は愛なり、といわれているように、主なる神は、わたしたちに愛の言葉を与えくださるのです。けれども、その愛、というのは、わたしたち人間から普通に湧き出てくる愛とは全く異質の愛であります。ギリシャ語ではアガペーの愛と言われていますけれども、それは、本来愛せないものを愛するという、ときの愛です。ですからそれは親子の愛ではない、友情のような愛でもない、わたしたちには上手く言葉に表せないような愛です。

また聞きの話しで申し訳ないのですけれども、昔、日本ではないある外国の国で、殺人事件が起こって、ある夫婦が自分の子どもを殺されたのです。裁判では、その犯人の死刑がほぼ確実であったといいます。ところが、その夫婦は、その裁判が進んでいく、ある段階で、その犯人の罪をわたしたちはゆるす、と公言した、といいます。その夫婦は、こう言ったといいます。わたしたちは子どもを殺されて、もちろん悲しいし、苦しい。けれども、その犯人も、やはり神さまの子どもである、その神さまの子どもの命を奪うようなことは、わたしたたちにはできない。だから、わたしたちは、神さまの前に立つものとして、この人をゆるします、この人の死刑をわたしたちはのぞみません、と。

わたしたちはじっさい悲しいし苦しい、でも、やはり神さまの前に立つものとしてあなたをゆるします。この夫婦の思いと言葉こそ、主なる神さまご自身が、実はわたしたち人間すべてに対して、抱いている思い、愛、なのではないか、わたしはそのように思うのです。

そして、そういう複雑なといいますか、計り知れない神さまの深い愛の実態を知るためには、エレミヤ書で語られている、主なる神の思いを知ることがとても大切なのであります。ここには、新約聖書でイエスさまに示された、神さまの愛の内実が語られているのです。なんでイエスさまが十字架にかけられて殺されなくてはならなかったのか、そのことがなかなかわたしたちにはわかりません、ピンときません。神さまの愛というものを、さきほど申しましたように人間的に考えているうちは、十字架の愛なんて、わかりっこないのです。ですから、そういう神の愛を語ることは、なかなか人々には理解されません。そういう意味で、神さまの愛の厳しい面を語ることは、人に嫌われ孤独になる、預言者の孤独、というのは、そういうことだと思います、

けれども、いま申しましたように、それでも、それは神さまの愛なのです。厳しい言葉ですけれども愛なのです。今日の1節から16節の大変厳しい言葉も神さまの愛であります。けれども、ここで終わったら、わたしたちにはそれが愛であったということがわからないでしょう。イエスさまの十字架も、十字架の死で終わっていたら、それが神さまの愛であったとはわからないのです。復活があって、十字架の死もまた神の御業であったのだとわかるわけです。

そのイエスさまの復活に相当する部分が、今日の14節以下であります。
14節から15節
ここで、重要なのは、イスラエルの民にとって、もはや過去の昔話にすぎなくなってしまったような、出エジプトのとき「生きておられた神」を、いまの彼らがじっさいにまきこまれつつある悲劇のただ中に、まさに生きておられる神として経験する、ということです。神は生きておられる。いま、わたしたちの只中に、神は生きて働いておられる、そのことを知らないとき、そのことが信じられないとき。当然ながらその信仰は死んだ信仰となります。

わたしたちたちの神はいま生きておられる。その信仰にいきる、ということは、同時に、わたしたち自身が、過去の思い出にいきるのではなく、また、いたずらに将来の期待や不安に生きるのでもなくて、いまこのときを、目を覚まして生きる、ということを意味しています。いま、私たちは神に生かされているのです、ですから、その日その日を、主なる神のみ声をききつつ、主なる神と共に、生きる、イエス・キリストにあって、喜びと感謝と祈りに生きる、のであります。20年ほどまえアメリカ人の女性の医者さんが、チリで水難事故にあって九死に一生をえました。その人は一度、川底に沈んで、死んだと告白しています。天国に一度行ったというのです。けれども、美しい天国の門のところで、イエスさまから、あなたにはまだやることがあると、いわれて、それで、後ろを振り返ったら、この世に生き返ったといいます。地上の人々からすれば、川底に沈んでいたその人をすくい上げて、人工呼吸をしいた中で、彼女は息をふきかえしたのです。でもその人にとっては、神さまを、イエスさまを、そして天国を体験して戻ってきた、素晴らしい経験だったというのです。その人がいうのです。いつもよろこんでいなさい、たえず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、この聖書の言葉は本当だ、人生とはまさにこの言葉とともに生きることであると。もちろん、普通のわたしたちには理解しがたい経験ではありますけれども、でも、そのような経験をした人が、やっぱり聖書のいうことは本当であった、とはっきり言ってくださったことには大いに慰められる思いがするのであります。

主は生きておられるのです。16節の「見よ、わたしは多くの漁師を使わして、彼らを釣り上げさせる」というのは、イエスさまの最初の弟子たちが漁師たちであったことを思い起こさせるものであります。

17節以下に「彼らはわたしの前から身を隠すことができず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる」とあって、これも大変厳しい、人間の罪に対する裁きの言葉でありますけれども、そのような裁きが、イエスさまによって、イエス様ご自身の十字架の死によって贖われた、ということにつながっていくのです。こういう厳しい、恐ろしい裁きの言葉をわたしたちはできれば聞きたくない。もっと耳に心地よい言葉だけ聴いていたいのですけれども、人間に対するこういう厳しい裁きの思いが神さまにあって、その厳しい裁きをイエスさまが背負ってくださったのだ、ということがわからないと、イエスさまの十字架が、非常にあいまいなものになってしまうのです。それは同時に、復活のよろこびのあいまいになってしまう、ということです。いま生かされている喜び、人生は主にある喜びと感謝と祈りである、ということがあいまいになってしまうのです。

19節から21節は、じつに、イエス・キリスト、福音の到来を預言する言葉だということができるでしょう。・・・。

わたしたちのために神の裁きを受けて死んでくださった方、しかし、復活されて、今も生きて、わたしたちに命の言葉、愛の言葉を、語ってくださっているわたしたちの主イエス・キリストの言葉を、預言者エレミヤの言葉から、また新しく実りの秋に向かって、みなさんとともにつみとっていきたいと願います。

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