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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

お知らせ 

お知らせ

このたびいのちのことば社より『洗礼とは何か』(2016年7月)に続いて『聖餐とは何か』が出版されることになりました。
詳しくは「いのちのことば社」のホームページ(リンク参照)をご覧ください。

聖餐とは何か

2016年7月10日出版 『洗礼とは何か』
洗礼とは何か

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2016年10月16日 ルカ7章24-35節
「神の御心にかなった道」三ツ本武仁牧師

 先週は山崎英穂先生をお招きして、私たちが願っていた以上の、恵まれた礼拝と午後の愛餐会・講演会の時をもつことができました。先生からは早速、お手紙が届いていますので、掲示板に貼らせていただきました。皆さんに読んでいただけたらと思います。また、先生には実は別の件で、私自身も最近あることで、お世話になりました。先生は、私が最近翻訳しました『洗礼とは何か』という本の書評を書いてくださって、それが最近この小さな小冊子に掲載されたのです。先生が来てくださったつぎの日に届いたのですけれども、その記事も掲示板に貼らせていただきましたので、後で見ていただけたらと思います。今日の聖書箇所には洗礼者ヨハネのことが出てきますけれども、その内容は、実はこの『洗礼とは何か』という本の中で語られていることと重なるところがあります。洗礼を受けるとはどういうことか、洗礼者ヨハネとイエスさまとはどのような関係にあるのか、そのことが今日のところの一つのテーマともなっているからです。

今日のルカ福音書7章24節の冒頭に「ヨハネの使いが去ってから」とありました。牢獄に捕えられている洗礼者ヨハネから二人の弟子がイエスさまのもとに遣わされ、ヨハネの問いを伝えたことが、この前のところに語られていました。そのようなヨハネの問いに対してイエスさまがお答えになった言葉を、ヨハネに持ち帰って伝えるために、ヨハネの使いたちは帰って行ったのです。
そのあとのことが今日の24節以下の話です。イエスさまは、ヨハネの使いが去ったあと、群衆に向かって、つぎのように語りかけられました。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」・・・荒れ野というのは、見るべきものが何もない所です。私たちが住む日本にはこの荒れ野に当たるような場所がありません。荒れ野は人間の手が全く入っていない大自然です。けれども日本で大自然と言うと深い森であったり、原生林に覆われた山だったりして、都会の生活に疲れた人が時々そういう所へ行って癒されたりする所というイメージのほうが強いのではないでしょうか。しかし聖書の舞台となったイスラエルの荒れ野は、一面岩や砂しかない、ところどころにへばり着くようにほんの少しの緑がようやく生えているような所です。見るべきものは何もない、まして人を癒したり慰めたりするような所ではないのです。荒れ野は、人を寄せつけない、人間が生きることのできない世界です。

 あなたがたは何を見ようとしてわざわざそのような荒れ野に行ったのか、とイエスさまは問うておられるのです。今イエスさまのもとに集まっている群衆は、つい先頃、ぞろぞろとその荒れ野に出かけて行ったのです。何をしに行ったのか。それは洗礼者ヨハネを見るためでした。ヨハネは荒れ野に住み、人間の罪に対する神の怒りが差し迫っていることを語り、悔い改めを求め、その印である洗礼を授けていたのです。このヨハネを見るために荒れ野へ出かけて行った人々に対して、イエスさまは、あなたがたが見に行ったのは「風にそよぐ葦」か、それとも「しなやかな衣を着てぜいたくに暮らしている人」か、と問うています。
「風にそよぐ葦」、葦は川原に生えるイネ科の植物ですけれども、ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていましたから、荒れ野とはいえそこには「葦」ぐらいは生えていたでしょう。「風にそよぐ葦」とは、いわゆる「風見鶏」のような、世の中の風潮に迎合して、右を向いたり左を向いたりする人のことを指しているのかもしれません。ヨハネはそのような人ではなかった。彼は領主ヘロデに対しても厳しくその罪を指摘し、追求しました。そのために獄に捕えられてしまったのです。・・・また「しなやかな衣を着てぜいたくに暮らす人」というのは、人間の文明と豊かさを象徴しているとも言えるでしょう。ヨハネはそういうものとは無縁な生活をしていました。あなたがたが見に行ったのはこれらのものではないはずだ。では何を見に行ったのか。「預言者か、そうだ」。あなたがたは預言者であるヨハネを見るために荒れ野へ行ったのだ、とイエスさまは言われたのです。預言者というのは、これから起ることを予告し、言い当てる人のことではありません。預かる、という字が使われているようにこれは、神様からのみ言葉を預かり、それを人々に伝えた人のことです。ヨハネはその預言者だった。そのヨハネに会うために荒れ野に行ったあなたがたは、神様のみ言葉を聞くために出かけて行ったのではないのか、とイエスさまはおっしゃっているのです。

 そして、このイエスさまの問いは、私たちにも向けられているのです。私たちは今こうして教会の礼拝に集っています。ここは荒れ野というわけではありません。しかしせっかくの休日である日曜日の朝から、なぜ私たちはここへ来なければならないのでしょうか? いったい私たちはここへ何をしに来たのでしょうか。・・・それは、神様のみ言葉を聞くためです。群衆が神の言葉を聞くために洗礼者ヨハネのもとへ行ったように、私たちも、神のみ言葉を聞こうとしてこの礼拝にやって来たのです。

 イエスさまのお言葉はさらに続きます。「そうだ、言っておく。預言者以上の者である」。あなたがたが荒れ野に見に行ったヨハネは、預言者以上の者だ、とイエスさまはおっしゃるのです。預言者以上の者とはどのような者でしょう。それが27節に語られています。「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」。ここに引用されているのは、旧約聖書のマラキ書第3章1節の言葉です。そこには、主なる神さまが救い主をこの世にお遣わしになる前に、使者を送り、救い主のための道を整えさせることが語られています。預言者以上の者とは、このマラキ書が告げている、救い主のために道を準備する使者のことです。たくさんの預言者たちがいました。彼らは神様のみ言葉を預けられ、それを人々に語りました。そしてその中には、救い主の到来を予告するみ言葉もありました。しかしヨハネは、それらの預言者の一人としてではなくて、救い主の直前を歩み、その道を整えるという特別な使命を与えられた人、預言者の中の預言者だったのです。このことを受けて28節では「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。」とイエスさまはおっしゃったのです。・・・しかし、イエスさまは続けて「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われるのです。
 この28節のイエスさまのみ言葉を理解することが、本日の箇所における一つのポイントであります。ここには、女から生まれた者、つまり人間の内で、ヨハネより偉大な者はいない、ということと、神の国で最も小さな者でもヨハネよりは偉大である、という二つのことが語られています。これを、どう理解したらよいでしょうか。同じルカ福音書の16章16節に次のようなイエスさまの言葉があります。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」・・・これも洗礼者ヨハネのことに触れた言葉です。つまり、「女から生まれた者のうち」という言い方によって意味されているのは「律法と預言者」の時代、つまり旧約聖書の時代のことなのです。そして「神の国で」というのは「神の国の福音が告げ知らされ」ている今、つまりイエスさまが来られてから後の今の新約聖書の時代を意味しているのです。

ヨハネは律法と預言者の時代、つまり旧約聖書の時代における最も偉大な者なのです。しかしイエスさまによって神の国の福音が告げ知らされている今、そこにおいて最も小さい者も彼よりは偉大なのです。それは、イエスさまによってもたらされる神の国が、律法と預言者によって歩む旧い神の民イスラエルよりもはるかに素晴らしいものであることを語っています。つまりここには、今やイエスさまによって新しい時代が、神の国の実現の時代が始まっていることが見つめられています。ヨハネは、旧い時代の最後に立って、新しい時代の到来を告げたのです。そのことのゆえに彼は旧い時代における最も偉大な者なのです。しかしイエスさまによってもたらされる新しい時代、神の国においては、最も小さな者も彼よりは偉大なのです。
 イエスさまは、このことを群衆たちに教えられたのです。つまり、あなたがたは荒れ野へ行ってヨハネを見たことよって、預言者以上の者と出会い、その人によって、今や新しい時代が始まろうとしていること、神の国、神様の恵みのご支配が実現しようとしていることを告げる神様のみ言葉を聞き、その新しい時代を迎えるための準備を与えられたのだ、ということです。・・・そしてそれは私たちが、教会の礼拝において今朝も告げ知らされているみ言葉と重なるのです。私たちは教会の礼拝において、神様の愛が私たちに注がれており、主イエス・キリストの十字架と復活によって既に私たちの全ての罪が赦されていること、神の国、神様の恵みのご支配が既に決定的に始まっていることを聞いています。私たちがよい行いをし、立派な人間になる、ということによってではなくて、すべての罪人を救って下さる救い主イエス・キリストを信じ、その恵みを受け入れるなら、神の国に連なる者、新しい命に生きる者となると告げるみ言葉を聞いているのです。私たち自身が、神の国で最も小さな、しかし洗礼者ヨハネより偉大な者となることができるという恵のみ言葉を、私たちは、この教会の礼拝において繰り返し聞いているのです。

 あえていえば、旧約的な人生と新約的な人生というのがあるのではないか、わたしはそのように思います。それは遠い昔の話ではないのです。旧約的人生とは、自分の罪や過去にしばられて、その重荷に押しつぶされそうになって歩んでいる人生です。それに対して、新約的な人生というのは、そのような重荷から開放されて、赦され愛されている恵みの中を生きる人生です。ある人はこんなことを言いました。神を畏れなくなると 人が怖くなる 神のことが軽くなると 物が重くなる 神の声が聞こえなくなると 人の声が大きくなる まさにわたしたちは、イエスさまによる新約のまことの命を生きる、というのは、神を正しく畏れ、神のみ声を正しく聞いて生きるものとなることによって与えられるだと思います。

 礼拝で神のみ言葉を聞いた者はみな、一つの問いの前に立たされることになります。それは、そのみ言葉を信じて受け入れ、新しい時代、新しい命に生きる者となるのか、それともそれを信じることを拒み、旧い時代、古い命にとどまり続けるのか、という問いです。・・・この福音書を書いたルカは、29、30節で、その問いに対する二通りの答えを示しています。
一つは29節の「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた」ということ、もう一つは30節の、「しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」ということです。旧約聖書の時代の最後に位置し、預言者以上の者であるヨハネによって、いよいよ救い主が到来し、旧約の時代が終わって神の国、神様の恵みのご支配を告げられた者たちの間には、実際、この二通りの反応が生じたのです。第一の人々は、ヨハネの教えを神の言葉として聞き、信じて、罪の悔い改めの印である洗礼を受けました。名もない民衆が、また当時罪人の代表とされ人々に忌み嫌われていた徴税人さえもが、そうしたのです。しかし第二の人々はヨハネを無視し、洗礼を受けることを拒みました。それはファリサイ派の人々や律法の専門家たち、つまりユダヤ人の宗教的指導者たち、律法を守り正しい生活をしていると自他共に認めていた人々でした。・・・いったい、この違いはどこから来たのでしょうか。

ヨハネの洗礼を受けた人々は、「神の正しさを認めた」と29節の終わりにあります。それに対して洗礼を拒んだ人々は、「自分に対する神の御心を拒んだ」と30節の終わりにあります。ここに、両者の根本的な違いが示されています。洗礼を受けた人々は、「神の正しさを認めた」のです。これはもともと「神を義とした」という言葉になっています。義というのは正義の義という字を書きますけれども、正しさを示す言葉です。神こそが義である、正しい方であることを認めた、という意味です。そして、神こそが義であることを認めるとは、自分は義ではない、自分が絶対に正しいわけではない、ことを認めるということです。彼らはヨハネの語るみ言葉によって、自分の罪を示され、それを認め、その罪を赦して下さる神の恵みに依り頼んで、悔い改めたのです。そのことによって彼らは、救い主の到来によって始まろうとしている新しい時代を生きるための備えをしたのです。それができたのは、自分には罪はないと自負する人ではありませんでした。むしろ自分の罪、自分の弱さを知っており、そして、自分でそれを償うことも罪から自由になることもできないことを認めた人です。しかしそのように神様に赦しを求めていく人こそが、神の国に加えられるのです。徴税人が洗礼を受けたことはそういう意味で重要です。当時世間かた罪人の代表とされた徴税人であっても、洗礼を受けるならば、神の前に悔い改めるならば「神の国に生きる」ことがゆるされるのです。

 けれども、これに対してファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、神を義としませんでした。神こそが義である、神こそが正しいと認めるのではなく、自分の義・自分の正しさを主張したのです。自分は律法に従って正しい生活をしている、ということに依り頼み、実は自分が神様との関係を失っている罪人であることを認めようとしなかったのです。それゆえに彼らは、悔い改めの印である洗礼など自分には必要ないと思ったのです。しかしそれによって彼らは、「自分に対する神の御心を拒んだ」のだと聖書は語っています。自分に対する神の御心とは、罪を悔い改める私たちを憐れみ、私たちの罪を赦し、主イエス・キリストによって実現する神の国へと私たちを招き、新しい時代、新しい命を生きる者として下さるというみ心です。神様のみ言葉によってそのことが示されているのに、それを受け入れず、信じることなく、洗礼を受けることを拒むならば、それは神様のこの救いのみ心を拒み、せっかくの恵みに満ちた御心を無にすることになるのです。先週の山崎先生のお言葉を借りれば、そのような人は、恵みの醍醐味を味わうことができないままとなってしまうのです。

 31節以下は、この第二の人々、ヨハネの洗礼を拒み、自分に対する神の恵みのみ心を拒んだ人々のことが、広場に座って互いに文句を言っている子どもたちの姿になぞらえられています。子どもたちは「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」と言い合っているのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」というのは婚礼ごっこです。「葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」というのは葬式ごっこです。今の子どもたちはこんな遊びをするのでしょうか。ちょっとわかりませんけれども、おままごとのようにして、大人のしている結婚や葬式を子どもたちが真似て遊んでいたわけです。

けれども、婚礼ごっこをしようと言って笛を吹いたのに、「笛吹けど踊らず」で誰も踊ってくれない、葬式ごっこをしようと言って葬式の歌を歌ったけれども、誰も泣いてくれないのです。・・・このイエスさまのたとえが示しているのは、人々がヨハネによる悔い改めの招きを拒み、そしてさらに、イエスさまによる救いの喜びへの招きをも拒んだ、ということです。イエスさまの教えとヨハネの教えとの間には、婚礼と葬式ほどの違いがあります。ヨハネは、33節に語られているように、「パンも食べずぶどう酒も飲まずにいる」人でした。人々の罪を指摘し、悔い改めを求めるヨハネは、楽しみや喜びとは無縁な、禁欲的な生活をしていたのです。そういうヨハネをファリサイ派や律法学者たちは、「あれは悪霊に取りつかれている」と言って拒みました。他方でイエスさまは、弟子たちや人々と飲み食いする宴会の席に着くことを厭いませんでした。この後の36節以下にも、あるファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いておられるイエスさまの様子が語られています。イエスさまは、断食もなさいましたが、同時に、人々と陽気に明るく宴会を楽しむこともなさったのです。しかしそういうイエスさまのお姿に対して彼らは、今度は「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言って批判するのです。
このように、旧約聖書の時代の最後に位置するヨハネと、新約聖書の福音の先頭に立ち、神の国をもたらす救い主イエスさまとの間には、正反対とも言えるような違いがあります。しかし、この二人の人は、深く繋がっています。悔い改めの印であるヨハネの洗礼を拒む人は、主イエスによる罪の赦しの恵みをも拒む人なのです。

私たち人間に対する神さまの救いのご計画は二段階である、ということもできるでしょう。すなわち、洗礼者ヨハネに示された旧約、古い約束と、イエス・キリストに示された新しい約束・新約です。その両方が、私たちの救いには必要なのです。つまり、第一に、神さまの前に悔い改め、自己中心である自分の罪を認めること、そして、第二に、そのように悔い改めた私たちに対する、神さまの憐れみと救いの恵みを受け入れることです。洗礼者ヨハネとイエス・キリスト、この二段階の道を通って、私たちは救われるのです。
そしてまた、その神さまの御心は、イエス・キリストの十字架の死と復活という御業の中に、集中して、さらに深く示されているといえるでしょう。イエスさまは、私たちの代わりに、その死をもって、神の前に悔い改めてくださり、そして、そのことを通して、復活の命へと、神の御国に生きる命へと、私たちを導いてくださったのです。
私たちが、この神様の恵みのみ心を拒み、無にすることなく、それを受け入れて、新しい命に生きるものとなっていけるように、そのような信仰の仲間が新しくわたしたちの交わりの中に与えられるように、そして共に、イエスさまによって神の国の最も小さな者の一人に加えていただけるように、祈りを合わせたいと思います。

主なる神さま、あなたはわたしたちの思いをはるかに超えた深いご計画のなかで、私たち人間に、悔い改めへの道と、赦しと救いの喜びの道を用意してくださいました。この2つの一続きの道を、へりくださって、私たちが通っていくことができますように、その印である洗礼を受ける人が、わたしたちの群れにさらに加え与えられますように。そして、皆が、あなたが共にいてくださる幸いに生きるものとなれますように、聖霊でわたしたちを満たし、守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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2016年5月15日(日)ペンテコステ合同礼拝
「教会はキリストのからだ」三ツ本武仁牧師

 おはようございます。今日は、教会の誕生日、ペンテコステです。
ペンテコステ、というのは、イエスさまの弟子たちが、イエス様が天に昇られたあと、集って祈っていたとき、そこに天から、炎のような聖霊が、風のふくような音とともにくだってきて、彼らを満たしたという、そのような出来事があった日のことです。

弟子たちは、そのように聖霊に満たされて、ああ、イエスさまのおっしゃっていたことは本当であった、神さまは、わたしたちと本当に共にいてくださって、わたしたちを守り導いてくださっている、イエスさまの確かに、いまわたしたちと共にいてくださり、慰め、励まし、支えてくださっている、そのことがはっきりとわかったのです。
それだから、彼らは、恐れずに、大胆に、希望にみちて、喜びにみちて、ほかの人々に、イエスさまのことを証するようになった。また共にイエスさまを信じる仲間と1つになって、祈りを合わせ、励ましあい、支え合おうようになった、それが教会の誕生、はじまりなのです。

教会とは本来、建物のことではありません。イエス・キリストを信じる人々の集まりのことです。そのことを、聖書は何と言っているでしょうか。さきほど読みました聖書の言葉を、もう一度読んでみたいと思います。
 教会はキリストのからだであり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。最初にエフェソの信徒への手紙1章23節にこんなふうに語られていました。

 わたしたち一人ひとりは、イエスさまのからだだというのです。教会はイエスさまのからだなのです。イエスさまご自身はいま天国で、わたしたちを見守っている、でもそのイエスさまがご自分の霊である、聖霊を、わたしたちのところに送ってくださり、わたしたちを、ご自分のからだのようにして、この地上で、一人で多くの人が救われるために、一人でも多くの人の魂が癒され、慰められるために用いてくださっているのです。

 ですから、わたしたちには大変大きな使命があります。責任があります。イエスさまの代わりに、イエスさまになりかわって、イエスさまのようにふるまう、それが、わたしたち、イエスさまのからだである教会の使命だからです。

 けれども、イエスさまのようにふるまう、といっても、イエスさまがどのような方かわからなければ、そのようにふまいようがないでしょう。

 そこで、今日は読んだもう一つの聖書の言葉を思い出したいと思います。
 霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
 そんなふうにありました。
 字をかかげる

 実によって木を知る、という言葉があります。柿がなっていたら、その木が柿の木だなとわかる。蜜柑がなっていたら、その木は蜜柑の木だとわかります。

 つまり、ここでいう、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、これらは、みな、イエスさまの中にあるものとして語られているんです。イエスさまはそのような方であった、ということです。イエスさまは愛のある方であり、喜びに満ちた方であり、平和の実現された方であり、寛容で、親切で、善意に満ちた方であり、誠実で、柔和で、節制された方であった、というのです。

 だから、わたしたちも、ここでいわれていることを実現するように努めていく、それが、わたしたちがイエスさまに愛され生かされている教会として、キリストのからだとして、その一人一人として、その使命にこたえて生きている、ということになるのです。

そこで今日はこの9つの徴すべてを取り上げてお話することはできませんけれども、この中からとくに2つの徴を選んでお話したいと思います。
 最初に、最後の節制という言葉について考えたいと思います。節制とはどういうことかわかるでしょうか。節約して、けちけちして、無駄をなくして、貯金をして、質素に暮らすこと、そんなイメージがあるかもしれません、もちろん、そういうことも、ある意味で大切なことだと思います。けれども、ここで言われていることは、さきほども申しましたように、イエスさまはどんな方であったか、ということに関わっているのです。

 そこでその場合、節制というのは、どういうことでしょうか。・・・「足るを知る」という言葉があります。今与えられているもので満足する、という意味です。恵みを数えて生きる、という言葉もあります。自分の欠けや不足ばかり数えて落ち込むのではなく、いま自分に与えられている恵みを数えて生きる、同じ状況でも視点を変えたらすいぶん違います。

 このあいだ、南米の小国ウルグァイのホセ・ムヒカ元大統領が、奥様のルシアさんと共に来日されました。大統領でありながら、大変質素な生活をされ「世界で一番貧しい大統領」と称されている方です。国の貧しい人々を救うために奔走されたムヒカさんは、そのために大変辛い思いもされました。しかし、素敵な笑顔で、次のように語られました。「貧しい人とは、少ししか物を持たない人ではなく、いくらあっても満足しない人のこと。」そのように語られて、「分かち合うことの大切さ」を主張されました。まさに、このムヒカさんの生き方と言葉の中に、イエスさまご自身の姿の一つ、節制という霊の結ぶ実が示されているように思います。

 次に平和という言葉を取り上げたいと思います。平和の反対は何でしょうか? 戦争、争いですね。ではいま世界は平和でしょうか。確かに日本はいま戦争をしていません。けれども、いまも世界では戦争が起きています。争いも起きています。

 日本は70年間、戦争のない国でした、でもこれからもそうであるのか、だれにも絶対にそうだとはいえません、日本も周りの国も軍隊を持っています。暴力を持っています。核兵器は今世界に15000発以上もあります。いつどうなるか、わかりません。

 現在105歳で元気に活躍されている、クリスチャンでお医者さんの日野原重明先生は、95歳のとき、10歳の子どもたちに向けて、『10歳のきみへ』という本を出されました。その中の最後の章に『きみたちに託したいこと』「わたしたちができなかった平和の実現、きみたちならできると信じます」という章があります。

 そこで日野原先生は、なぜ自分たちは平和を実現できなかったか、こんなふうに語られています。「わたしたちは戦争を体験し、何もかも失う貧しさを経験し、そしてその後、一生懸命、日本の生活を立て直すために働きました。そしてだんだんくらしにゆとりが生まれてきました。それは、わたしたちが自分の子や孫たちのために望んだ生活でもありました。食べ物や着る物に不自由しないゆたかさを手に入れさえすれば、戦争以前のおだやかな生活にもどれると、わたしたちは思っていたのです。けれど、そこに大きな思い違いがあったようです。わたしたちは、つつましい生活にある小さなしあわせを実感できていたのに、ゆたかさを追い求めるようになってから、そのセンサーがにぶってしまいました。それとともに、ほかの人のことをおもんばかる想像力もおとろえてしまいました。」

 さっきのムヒカさんと同じようなことをおっしゃっていることに気づきます。他の人のことをおもんばかる想像力がおとろえてしまった。これこそ平和がいまだに世界に実現できていない原因だと日野原先生はいうのです。ほかの人の痛みに鈍感になっていく、それは他の国で戦争があろうと、自分には関係ない、自分の住む場所は平和だから、どうでもいいと、無関心でいられる、ということにつながるのです。

 では、どうすればいいのか、想像力をもつこと、「相手をゆるす」という勇気もそこから、想像力から生れてくるのだ、と日野原先生はいいます。暴力につぐ暴力、争いにつぐ争いを断ち切ることができるのは、お金でも、軍事力でもない、ただひとつ、相手のことをおもんばかり、自分は傷ついたけれども、相手もきっと自分と同じように傷ついているはずだ、と思い巡らし、想像して、こころをしずめて、自分から、相手をゆるす勇気と決断をもつ、そのようにしてはじめて争いは終わり、平和は実現できるのです。

 イエス・キリストは、わたしたちすべてのものを愛し、愛しぬいてくださって、わたしたちすべてのものを、父なる神と結びつけてくださいました。わたしたちはイエスさまのおかげで、いまもこうして、神さまと仰ぎ、神さまを礼拝することがゆるされています。その恵みに感謝し、イエスさまの中にある、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という、そのような、聖霊の実を、わたしたちもこの人生の中で、結んでいくことができるように、祈りを合わせたいと思います。

 主なる神さま 教会の誕生日、ペンテコステ合同礼拝の恵みを感謝いたします。香里教会は今年で67歳となりました。67年間、あなたの霊のみたしと導きうちに歩んでくることができましたことを感謝いたします。あなたの福音を伝える、よき足、よき器としてこれからも、用いていただけますように、主よ、どうか、わたしたちをいままた新しく聖霊で満たし、守り、導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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2016年1月17日 マルコによる福音書14章1-9節
「奉仕における愛と自由」三ツ本武仁牧師

 みなさんと一緒にマルコによる福音書を読みすすめてまいりましたが、今日からいよいよ、その14章に入ります。この14章から、いわゆる受難物語と入っていきます。イエスさまが、捕らえられ、十字架につけられ、殺される。その苦しみと死へと向かっていかれるのです。
 14章の1節に「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」とありました。イエスさまはこの過越祭の日に殺されましたから、これは取りも直さず、イエスさまが十字架におかかりになる二日前ということです。十字架の日が金曜日ですから、その週の水曜日ということです。
 けれども1節2節には、祭司長、律法学者たちが、イエスを捕らえて殺そうと計略を練っていたが、「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていたことが語られています。彼らがそのように考えていたのにもかかわらず、イエスさまは、その意に反して、祭りの真っ只中で殺されることになった、ということは、興味深いことであります。
 いろいろな偶然が重なってそうなりました。その最たるものの一つはこれから後に起こりますように、イエスさまのお弟子の一人であったイスカリオテのユダが、イエスさまを彼らに引き渡した、ということでしょう。そのことから始まって、いろいろな成り行きの中で、イエスさま殺害計略は、彼らの計画通りにではなく、過越の祭の真っ只中で、まるで、その祭の中心的な出来事のようなかたちで、行われることになったのです。
 なぜ、そのようになったのか。聖書は、それは、イエスさまの死が、そもそも、そのような人間たちの計画によるものではなく、人間の思いや事情を超えて働く、父なる神さまのみ心によることであったからだと告げています。父なる神さまは、御子イエスの死を、この祭の中心に置かれることを計画しておられたのです。

 過越の祭というのは、イスラエルの先祖の民が、エジプトで奴隷の状態であったところから、預言者モーセを通してそこから解放された、その神さまの大いなる救いの出来事を記念するために行わるユダヤ最大の祭でした。それゆえにこそ、祭司長たちは、そのような大切な祭を汚したくない、妨げてはならない、という思いで、またもう一つには、祭には民衆がたくさん集まるわけですけれども、そのような民衆の中には、イエスさまに言動に魅力を感じている者たちが大勢いた、ことを彼らは知っていったのでしょう。そんな中で、イエスさまを殺せば、大騒ぎになることは火を見るより明らかであります。それを避けたかった。そういう思いもあったでしょう。そのような様々な思惑の中で、彼らは、祭の中で、イエスさまを殺すということは考えていなかったのです。

 けれども、他ならない主なる神は、むしろ、イエスさまの死は、この祭の中でこそ意味があると考えておられたのです。それは、イエスさまの十字架の死が、この祭りで記念されている「過越の小羊」としての死であることを、明らかにするためでした。かつてイスラエルの民が、エジプトから解放された、その決定的なきっかけは、エジプト中に主なる神の災いがくだり、エジプト王が悲鳴をあげ、ついに、主なる神の力を認め、恐れたからでした。
 そのとき、同じエジプトに住んでいたイスラエルの民に、その災いがくだらかなかったのには、一つの神さまからの条件がありました。それは、家族ごとに小羊を屠り、その血を家の戸口に塗って、しるしを付けておく、ということでした。主なる神は、その小羊の犠牲のしるしがある家には、災いを下すことなく、そこを過ぎ越されたのです。つまり、イスラエルの民は、小羊が犠牲になって殺され、その血が流されたことによって救われたのです。
 
 いま主なる神が、人間たちの計略に反して、イエスさまの死を過越の祭の只中に置かれようとしている理由はここにありました。御子イエスの十字架の死を通して、この小羊の犠牲と同じことを、いや、それよりも、もっと決定的で、重要なことを、主は、行おうとしているのです。イエスさまの死を通して、すべての人類の罪をゆるし、永遠の命に生かそうとしてくださっている、すべての者を神の民へと回復しようとしてくださっているのです。・・・

 さて、そのような中で、本日の3節以下で語られているのは、その十字架の日の二日前の、水曜日の出来事であります。エルサレムに来られて以来、イエスさまは、日中は境内で教え、夜は近くのベタニアという村にあったある家に泊まっておられました。

 この家は「重い皮膚病の人シモン」の家であったと書かれています。その家で、イエスっさまが食事の席についておられた、するとそこに一人の女性がやってきて、イエスさまの頭に、ナルドの香油を注ぎかけた、というのです。
 ナルドの香油というのは、インドや東アジア原産の香油で、ですからイスラエルの人々にとっては滅多に手に入れることのできない、大変貴重で高価なものでした。5節には、これは売れば300デナリオン以上になったはずだ、とあります。一デナリオンが、当時の労働者の一日分の賃金であった、といいますから、300デナリオンというのは、300日分の賃金、つまりほぼ一年分の収入に相当する、ということです。小さな壺に入ったこの香油が、どれほど貴重なものであったかが、わかります。
 その香油を、この女性はイエスさまの頭に注いだのです。それは壺から一二滴、注いだというのではありません。なんとこの女性は、石膏で出来ていた、その壺を壊して、壺の中身をすべて、イエスさまの頭に注いだのです。

 この女性はなぜこんなことをしたのでしょうか? この女性の思いや言葉は何も語られていません。ただイエスさまは8節ですけれども「この人はできるかぎりのことをした。前もって、わたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われています。
 けれども、これは、文字通りの意味で、この女性がイエスさまの「埋葬の準備」をした、ということではないのです。確かにナルドの香油は、死体を埋葬するさい、その防腐剤としても用いられていました。しかし、そういうことをイエスさまはここで言われたのではないのです。そのことについてはまた後で触れますけれども、このときの、この女性自身の思いとしては、イエスさまへの愛と感謝のしるしとして、何か自分にできることはないだろうか、と考えて、それで、この人なりに考えた末に、自分の一番大切なものをイエスさまに捧げたということなのです。

 ナルドの香油は、もしかすると、この女性がその母から、そしてその母親はまたその母からと、代々受け継がれてきた宝物であったともいわれます。それはこの女性の持っていたただ一つの唯一人に誇れる宝物であったかもしれません。そのような大切な宝物を、この女性はイエスさまにすべて捧げたのです。そのようにしてこの女性は、イエスさまへの愛と献身の思いを表現したのではないでしょうか。

 ところが、そこにいた人々の何人かが、この女性の行為を見て、憤慨するのです。4節ですけれども、彼らはこう言って憤慨いたしました。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300デナリイン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」

 これはある意味で、正論であります。300デナリオン、300日分の賃金の価値あるものを、一度に、誰かの頭に注ぎかけてしまうなんて、こんな馬鹿な、無駄なことはない、わたしたちもきっとそう思うのではないでしょうか。もし、そんなお金があるなら、もっと有効に使う方法はいくらでもあるはずだ、貧しい国の人々に、医療費としてあるいは食料費として、その半分でも寄付してあげたら、どれだけ彼らが助かることだろうか。イエスさまだって、きっとそうすることのほうを喜ばれるのではないか。わたしたちもきっとそう思うのではないでしょうか。聖書に出てくるこの「何人かの人々」はそういうまさに正しい正論でもって、この女性を厳しく批判したのであります。そしてきっと彼らは、イエスさまもそう思わるでしょう? とイエスさまもこんなことをされて困っておられるでしょう?とイエスさまのお顔をうかがったのではないでしょうか?

 けれどもイエスさまは、それに対して、こうお答えになったのです。6節です。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」
 イエスさまは「そんなことを言って、正論を言って、この人を困らせるな」と、そう言われたのです。
 実際彼らの言ったことというのは、貧しい人々のことを盾にとっていますが、それはこの女性を困らせる、この女性を追い詰める口実に過ぎませんでした。イエスさまは、7節で、次のように言われました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
 貧しい人々を助けることは、あなたたちにその気さえあれば、いつでもあなたがた自身にもできることでしょ、とイエスさまは言われたのです。しかし、はたして、この女性を批判した人たちにそもそもそういう思いがあったでしょうか?
 わたしたちも、よくテレビのニュースを見ながら、ああだこうだ批判したりします。あんな税金の無駄使いをして、とか、なんたらかんたらと批判いたします。もちろん、その批判は正しいでしょう。けれども、ではじっさい自分はどうなのか、自分は普段の生活態度はどうなのか、そう自問してみましたときに、わたしたちはそんなに偉そうに人のことをいえるものではないことに気づかされるのではないでしょうか。
 
 いかにも正しいことを語りながら、あるいは誰かのために配慮しているようなことを言いながら、実は相手のしていることにケチをつけ、困らせているだけ、いやな思いをさせているだけ、ということが、私たちにもあるのではないでしょうか?
 とくに、今日のところで問題となっていますのは、この女性の、イエスさまに対する、主に対する、ひたむきな奉仕に、ケチをつけている、ということであります。

 人のしている奉仕にケチをつけ、批判するということは、残念ながら教会においてもよく起こっていることではないでしょうか? あの人のあの奉仕は、こういうところがなっていない、こういう配慮がかけている、というようなことが残念ながら、教会で密かに語られることがあるのです。このあいだも、ある年配のかたが、昔教会で、そういう意味でのしんどい思いをしたことがある、という昔話をしてくださいましたけれども、本当に言われたほうかすれば、これほどしんどいことはないでしょう。
 そして、そういう批判は、確かに正論に違いないのです。大抵当たっているのです。そもそも完全な、全く欠点のない奉仕などあり得ません、みんな普通の主婦であったり、何か仕事を持ちながら奉仕しているのですから、完璧にできることなどあるわけがないのです。そのような現実に生きる、人の奉仕のあら探しをしようとすれば、それはもういくらでもできるのです。

 このナルドの香油をささげた女性の純真からの行為も、見方を変えれば、何人かの人々がそうしたように、いくらでも批判できるのです。

 そして、イエスさまも実はそのことはよくわかっているのです。ですから、イエスさまも。彼女のしたことは正しい、これこそ正しい奉仕だ、みんなもそうしなければならない、とは言っておられません。そうではなく、イエスさまは「なぜ、この人を困らせるのか」この人を困らせてはいけない、そう言われたのです。

 見方を変えれば、確かに、この女性の行為にもいろいろと問題があるだろう。欠点もあるだろう。でも、そういうことを指摘して、この人にケチをつけて、この人を困らせるようなことを、わたしはしてほしくないのだ。この人は自分で考えて、自分にできることを、わたしのためにしてくれたのだ、その精一杯の奉仕を、どうかあなたたちも受け入れてほしい。そして、それをわたしと一緒に喜んでほしい、それがイエスさまの思いなのです。

 「わたしに良いことをしてくれたのだ」イエスさまはそのように言われました。この女性が、イエスさまのために何かをしたい、自分の出来るかぎりのことをしたい、そのように思って彼女がしたことを、イエスさまは「わたしに良いことをしてくれた」と受け止め、喜んでくださったのです。そしてさらに、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」と言われ、その後、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」と付け加えられました。
 これは、イエスさまが御自分の十字架の死を意識されている言葉です。そしてまた、そのように語ることで、実はイエスさまは、この女性の精一杯の奉仕の業を、御自分の十字架の死に結びつけてくださったのです。
 つまり、8節の、この女性が「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」というイエスさまのお言葉は、さきに申しましたように、イエスさまの埋葬の準備のために彼女がそのようなことをした、ということではなく、イエスさまのほうが、わたしたちが自分たちにできることを、それぞれ思いをこめて行った、その奉仕を、十字架を背負って死ぬことになる、イエスさまへの愛、イエスさまへの献身、イエスさまへの応答として、受け止めてくださる、ということなのです。
 ここに大きな恵みがあります。イエスさまこそは、わたしたちのために、徹底的に御自分を虚しくし、御自分をわたしたちの罪の赦しのために捧げてくださった方でありました。けれども、そのようなイエスさまの愛に答えて、感謝して生きていく、それがわたしたちの信仰生活でありますけれども、そのとき、わたしたちのその応答が、その奉仕の業が、いかに貧しく、いかに欠けがあり、いかに不十分なものであったとしても、イエスさまは、そのようなことには何も気になさらずに、喜んで、そのようなわたしたちの奉仕を受け入れてくださる、ということなのです。

 その反対にイエスさまは、できるかぎりの奉仕をしようとしている人を、誰かが、横から批判し、その人を困らせ、悲しませるようなことはお望みにはならない、ということです。わたしたちはついつい、自分たちの習慣や自分たちの伝統を大事にするあまりに、人の目新しい方法に批判的な目を向けてしまいがちです。そしてその批判は確かに、当たっているかもしれません。しかし、イエスさまは、私に仕えようと自分なりに考えて行っているその人を、困らせないでほしい、とおっしゃるのです。
 けれども、また、少し視点をかえて、この女性が、もし、自分がイエスさまに評価されたことを誇って、逆に自分を批判した人々にやりかえし、他の人にも、自分のやり方を強制するようなことがあったとするなら、そのようなことはおそらくなかったと思いますけれども、もし、そういうことがあったとしたら、それもやはり、イエスさまはが望んでおられることではない、と言わなければならないでしょう。
 十字架の死に至るまで、わたしたち一人一人に仕える道を、歩み通してくださったイエスさまは、わたしたちが、人と比べるのではなく、ただ、自分と神さま、自分とイエスさま、という関係をこそ見つめて、心からの感謝と、愛と自由をもって、自分にできるかたちで、イエスさまについていくこと、仕えていくことを喜んでくださるのです。

 わたしたちがイエスさまにお捧げすることのできる奉仕は、そんなに立派なものではないかもしれません。しかし、このわたしのためにイエスさまは、御自分の命を与えてくださった、ささげてくださった、ということを知るとき、わたしたちも、この今日の女性のように、自分の一番大切なものをイエスさまにささげて生きていくものへと導かれていくのではないでしょうか。みなさんにとって、一番大切なものは何でしょうか。それを、イエスさまにささげる、というのは、それをイエスさまに委ねる、ということでもあります。そしてそのことを、そこから生まれる自発的な奉仕を、他からそれがどう見えようとも、イエスさまご自身はしっかりと受け止めてくださり、喜んでくださり、さらに豊かな恵みへと導いてくださるのです。

 祈りましょう。
 主なる神さま、あなたは大切な独り子を、わたしたちに与えてくださるほどに、わたしたちを愛してくださり、御子を信じるものに永遠の命を与えるとの約束をしてくださいました。その恵みに目覚めるとき、わたしたちも、ナルドの香油をおしみなく、イエスさまにささげたこの今日の一人の女性のように、心からのあなたへの感謝に満ちた、愛と自由からの奉仕ができること、そしてまたそのような奉仕をこそ、あなたは喜んでくださると聞きました、主よ、どうかわたしたち独りひとりが、それぞれの心の奥底でよく考え、自分にできる精一杯の感謝の奉仕をなしていくものとなれますように、また、互いに認めあい、ゆずりあって、あなたへの感謝に満ちた教会をかたちづくっていくものとなれますように、聖霊で満たし、守り、導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン

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2016年 初日の出 

主の年(A.D.)2016年に主の祝福と平和がありますようにお祈りいたします。
初日の出

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