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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

宗教改革500周年記念礼拝 

2017年10月29日(日)ローマ3章28節、コリント一9章19-23節
 「キリスト者の自由」三ツ本武仁牧師

この朝は、宗教改革500周年記念礼拝として、特別な思いをこめて主日の礼拝を守りたい、と思います。今日の讃美歌はすべてルターの作詞曲であります。ルターは当時たくさんの讃美歌を作詞作曲したシンガーソングライターでありました。
わたしたちの教会は、もちろんキリスト教の教会でありますけれども、世界を見渡しますと、キリスト教の教会にもいろいろな教派というものがございます。そのうちの代表的な教派が、カトリック教会とプロテスタント教会だということができるかとおもいます。
そして、わたしたちは、そのうちのプロテスタント教会の信仰を受け継ぐ教会であります。そのプロテスタント教会がルターによってはじまったのが、いまからちょうど500年前、1517年なのです。

1517年、いったいその頃の日本は何をしていたのだろうか、と少し調べてみました。そうしますと、その頃の日本は室町時代、という時代のど真ん中でありました。足利尊氏という人が、征夷大将軍になって、幕府を築いたのが室町時代です。しかし、その室町時代のど真ん中といいますのは、応仁の乱という、権力争いの内乱が続いて、そのあといわゆる下克上という、社会秩序の混乱が起こって、戦国時代に突入していく、そういう時代でありました。京都にはその頃、銀閣寺が建立されています。いま映画でも話題になっています天下分け目の関ヶ原の戦いが1600年ですから、織田信長ですとか、豊臣秀吉とか、そういう人たちが生まれる少し前であります。

では1517年にどういうことでプロテスタント教会が始まったのでしょうか、その年の10月31日にドイツ人のカトリック教会の修道士であり、当時大学の神学の教授として活躍していたマルチン・ルターが、当時のカトリック教会のまちがった教えに対する抗議文を、教会の扉に貼り付けたのです。それが大きな問題となり、宗教改革、キリスト教教会の改革が始まりました。ただし、ここで注意していただきたいのは、ルターは、もともとはカトリックから離れた別の教会をつくりたいと考えていたわけではない、ということです。ルターが考えていたのは、あくまでも当時の教会がまちがいを正して、よくなってほしい、ということでした。そして、じっさい、当時の教会の中にとどまった人々にも、ルターと同じような考えを持っていた聖職者たちはたくさんいたのです。そしてそのような人々が、当時の教会を内部改革していきました。それがいまのカトリックであります。日本に最初にキリスト教を伝えたといわれる、あのフランシコ・ザビエルは、カトリックのなかに新しく生まれた改革的な組織イエズス会のメンバーでした。ですから、いまのカトリックは、ルターが批判したカトリックとは違うのです。そしてまた、ルターの願いは、カトリックとプロテスタントが分裂していくことではなく、同じ1つの教会として、共に祈りを合わせ、力をあわせて歩んでいくことです。そのことはしっかりと心に留めておきたいとおもいます。

それではマルチン・ルターはいったい、当時の教会の教えの何に抗議し、何を明らかにしたのでしょうか、また彼はいったいどのような人であったのでしょうか。そのことを今日はともに御言葉に照らしながら学んでいきたいとおもいます、

古代から中世にいたる西ヨーロッパは、信仰的というだけでなく、社会全体が、ローマ・カトリック教会に属していました。ローマ教皇が、いわば絶対的な権力を持つようになっていきました。まずそこに、大きな問題、誘惑が潜んでいたといえます。なぜなら、聖書が教えていることは、目に見えない主なる神さまこそが絶対的な方である、ということであったからです。それに対して、人間がいくら権力を持ったとしても、それはながくは続かない、人間の力は神の力のまえに無に等しい、それが聖書の根本的な教えであります。だから決して自分を絶対化してはならない。その意味で、イエスさまの一番弟子であったペトロの信仰を受け継ぐ者が、教皇と呼ばれ、権力を持ってしまったことは、不幸なことでありました。そしてその誘惑、試練に当時の教皇は負けてしまったのです。そして、自分のもとに富を集め、軍隊まで持つようになっていきました。

それが、広い意味での、宗教改革の発端であった、ということがいえます。このままではいけない。それはルターではなくても、聖書を読んでいれば誰でも気づくことです。聖書で語られているイエスさまはそのような権力者とはまったく正反対のお方であったからです。エルサレムに入場されるとき、この世の王や将軍は軍馬にまたがって入場しましたが、イエスさまは、ロバの子、ちいろばに乗って入場されたのであります。そしてまた教皇の原点である一番弟子のペトロなどは、まさに、そういう自分の弱さをいやというほど思い知らされて、涙を流して、繰り返し回心していった人物であったからです。

そうです。聖書を読んでいるものにはそのことがわかっていたのです。けれども、当時の聖書はすべてラテン語で書かれていました。古代ローマの言語として、よって最初の教会が大切にしてきた言語として、ラテン語が当時は聖なる言葉とされていました。ですから聖書はラテン語でなければならない、仏教のお経が、梵字で書かれて読まれているのと同じ理屈だと思います。

そして、当時の教会は、一般民衆が聖書を読めないことをいいことに、たとえば教皇の権力は絶対的であるとか、教皇に従っていれば天国に行ける、であるとか、そして、ついには教会が発行している、しょくゆう状、免罪符を買えば、よい行いをしなくても、救われる、ということを、さも聖書に書いてあるかのように、主張していたわけです。

ドイツ人でありドイツ語を母国語として育ったルターが、聖書をラテン語から、ドイツ語に翻訳した理由はここにあります。つまり、わたしたちは騙されないために、そして真実を正しく知るために、聖書に書いてあることを、ちゃんと自分で読み、自分の耳で聞かなければならない、ということです。そして、さらに、大事なことは、じっさいルターが聖書を自分でよむなかで気づいたこと、発見したことです。それは、さきほどの免罪符の問題で、免罪符を買えば、よい行いが伴わなくても、救われる、という、この考え方は、二重の意味で、おかしい、ということでした。

二重の意味でおかしい、といいますのは、第一に、免罪符を買えば、よい行いをしなくてもよい、これは、おかしい、これはある意味でこどもでもわかる、インチキでありますけれども、なぜ、それでも、人々がそれでも免罪符を買ったのでしょうか、それは、救われない、ということを恐ろしさ、悲惨というもの、地獄の恐ろしさ、ということが、当時の人々の心を強く捉えていたからだと思われます。

地獄絵図というものがありますけれども、そういう地獄を経験したくない。人間の宗教心、何かに頼りたい、という思いは、地獄への怖れ、得体の知れないものへの恐怖感によって最初に育まれていくのではないでしょうか? そしてある意味で、人間の歴史は、そういう得たいの知れないも、人間を脅かす恐怖の謎を、次次に解明していった歴史であるともいえます。ウィルスをやっつけるワクチンの発明、手術の技術の向上などがまさにそうだといえます。そして人間は、そういうものを解明していくなかで、向上していくなかで、次第に、地獄を恐れなくなっていった、それが一つには、現代社会において、宗教が力を失ったかに見える理由ではないでしょうか。しかしルターの生まれた頃にはまだまだ解明されない、地獄ような現実がたくさんありました。その極めつけが、ルターが生まれる200年くらい前に、ヨーロッパではペストという伝染病が大流行して、人口の3分の1が死亡した、ということがあります。まさに、地獄のような現実が人々の生活をおびやかしていました。そこに、地獄を恐れる思い、なんとかしてそこから救われたいという思いも育まれていったのだとおもいます。

けれども、ふりかえって科学技術の向上した現代でも、やはり、人間の思いや計算をはるかに超えた、恐怖をわたしたちは経験することがあります。まさに地獄絵図のようなことを経験することは依然としてある。あの東日本大震災が起こったあと、地獄絵図の絵本がこどもたちのあいだでよく読まれるようになった、というのは、そういう理由であったとおもいます。

マルチン・ルターという人もじっさいそういう恐怖を経験をした人でした。彼は、ドイツのザクセン地方、アイスレーベンという村に、炭鉱夫の子として生まれました。ルターの父は炭鉱夫といっても、むしろ炭鉱主というべき人で、もともと貧しい農夫でしたが、炭鉱夫に転身し、努力によって、炭鉱主となり、ある程度の財力をもつようになって、そうしてその蓄えで、息子のルターを立身出世させるべく、勉学をつませ、大学へと進学させ、やがては法律家になって一家を支えてほしい、と、そういう夢を抱いていました。

しかし、ルターは、そのような親の敷いたレールの途中で、期せずして、方向転換を強いられたのです。それが、地獄のような経験、恐怖体験だったのです。道をあるいている途中、雷に打たれそうになり、あやうく死にかけたのです。一説によれば、そのとき友人と歩いていて、友人が雷に打たれて死んだといいます。ともかく、彼は、そのような死を身近に感じる体験をして、宗教心に目ざめるのです。そして、法律家になる道を捨てて、修道会に入り、神学を学び、教会の司祭となり、また神学部の教授となっていきました。

父は最初は猛反対であったといいます。しかし、やがて、ルターのことを理解していくのであります。さて、ルターは、神学部の教授になり、聖書の言葉を研究し、学生たちに教えていく中で、さきほど読んでいただきました聖書箇所の最初のローマの信徒の手紙3章28節の言葉、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」から大きな発見をしました。免罪符を買えば救われる、ということが二重の意味でおかしい、というその二番目のおかしさに気づいたのです。よい行ないをしなくても地獄から救われるために、免罪符を買う、という、その根拠の根底を覆す発見をルターはしたのです。それは、わたしたちの救いは、そもそもよい行いにあるのではない、ということです。といいますか、神さまの前に本当の意味でよい行いができるのは、できたのは、ただ一人イエス・キリストだけである、ということです。そしてそのイエス・キリストによって、わたしたちすべての者は、よい行いのできない罪人でありながら、救われたのだ、罪ゆるされたのだ、という、それが福音であります。その福音を受け入れればよい、その福音を受け入れれば、免罪符なんて買う必要などない、というよりも、その福音に目ざめ、その喜びに生かされていく中で、わたしたちは、本当の意味で、よい行いをすることができるものになっていく、でも、そのようになされた「よい行い」はあくまでも、神さまへの感謝の応答であって、それが、わたしたちを救うわけではない、あくまでも、わたしたちの救いは、イエス・キリストがもたらしてくださった救いを、受け入れる。そこにかかっているのです。

このことは、ルターは、神学教授の時代、その大学の塔の中で、一人聖書を黙想する中で発見したといわれています。そこで、この体験は「塔の体験」と言われています。わたしが大事だと思うのは、ルターはこのとき、免罪符がどうこうということを超えて、聖書を一人深く黙想していくなかで、そこに記されている、イエス・キリストの福音の真実が、深く彼の心にはいってきて、そして、その福音に目覚めて本当に喜びに満たされた、ああ、わたしはイエス・キリストによって救われたんだ、と感動した、ということです。

ルターが世の中を変えたのではなく、聖書の真実が、ルターという一人の人間を通して、この世に真実へと導いた、といってもよいでしょう。そして、わたしたち一人一人もそういう器として、ここに招かれ、聖書の御言葉を味わうものとされている、ということです。

ルターはそのような塔の体験を経て、1517年10月31日、聖書に照らし、イエス・キリストの福音に照らして、当時の教会が明らかにまちがっていることを95箇条かかげて、それを教会の門に貼り付けました。その文章は、そもそも教会の指導者に読んでもらいたい文章でしたから、ルターはラテン語でそれを書いたのです。しかし、その重要性に気づいたルターの仲間によってそれがドイツ語に訳され、そして、それがグーテンベルクの活版印刷技術によって、たちまちドイツ中に広まって、期せずして、大きな運動となっていったわけです。

今日は最後に、そのようにして当時の教会と対決することになったルターが、その格闘のなかで書いた三大論文のなかで、一番重要とされる「キリスト者の自由」の中のルターの言葉をいくつかご紹介して終りたいとおもいます。「キリスト者の自由」は95か条の事件の3年後、1520年に執筆されました。ルターがこの論文で最初に引用した聖書の言葉が、さきほど読んでいただきました聖書箇所の後半、コリントの信徒への手紙一の9章19節であります。すなわち、「わたしたちはだれに対しも自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と、この言葉をもとに、ルターは、2つの命題を論文の最初にかかげたのです。

一、 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何者にも従属しない。

二、 キリスト者はすべてのものに奉仕するしもべであって、何者にも従属する。

 すなわち、クリスチャンは、まったく自由でありながら、同時に、すべての人に仕えるものである、すべての人のために祈るものである、とルターはいうのであります。・・・ルターは続けます。キリストの信仰のみによって救われる、これにより、救われるための他の行いから、わたしたちは、自由になるのです。これがキリスト者の自由であります、よってなすことはなさず、怠けて気ままにふるまう、ということではないのです、

つまりさきほど言いましたように、よい行いによらずに救われるからといって、よい行いをしない、ということではないのです。むしろ、救われた喜びのなかで、その自由のなかで、よい行いをしていく、それがクリスチャンだということです。

またルターは次のようにも言っています。聖書の言とキリストとをよく自己のうちに形成し、この信仰を不断に鍛錬し、かつ強からしめることが、キリスト者のつとめるべきただ一つの行いであり、修業であります。・・・、つまり、もしクリスチャンに修業とよぶべき業があるとすれば、それは、わたしたち一人ひとりをゆるし活かしてくださる福音のメッセージに耳を傾け、神さまがそのようにして救ってくださったわたしたちをどう用いようとされているのか、そのことを聞き取っていくこと、それが、わたしたちの修業だというのです。その意味では、御言葉が告げ知らされるこの礼拝こそ、わたしたちの修業の場だともいえるでしょう。

さらにルターは言います。「キリストが僕となったように、私たちも隣人のしもべとなり、隣人の必要を満たすために喜びをもって生きるのです。わたしたちも一人のキリストとして隣人に接するのです。」と。わたしたちも一人のキリストとして隣人に接する、どきっとする言葉です。それは無理だと思うような言葉です、しかしルターはさらにこう続けています。「神が飢え渇くわたしたちをキリストによって満たしてくださったように、私たちも隣人に対して同じように、その喜びをもって仕えるべきであります」・・・。神さまが、怖れと不安のなかにあり、飢え乾いていたわたしたちを、イエス・キリストによって、その独り子をたまわることによって、安らがせ、癒し、満たしてくださった。そのよろこび、その平安にあずかるならば、わたしたちには、そのように自分にしてくださったキリストと同じように、隣人に心からの愛をもって関わっていくことができる、そのようにして、わたしたちはすべての人のしもべとなっていくことができる、というのです。

聖書の言葉を自分の耳で、自分にわかる言葉で聞き、読み、そして何よりも聖書の言葉が正しく伝えらえられるなかで、わたしたちは、キリストの福音に、生かされ、その喜びに満たされていきます。そして、それが自分の生き方を、またこの世を正しい方向へと導いていく力となっていく、そのような福音の力が、この宗教改革500周年に、ふたたび、わたしたちのなかに、そして世界に広がっていくように、そのことを願いつつ、祈りを合わせたいと思います。

主なる神さま、この朝は宗教改革500周年記念礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。500年前、独りのあなたのしもべによって、聖書の言葉が、そこに示されたイエス・キリストの福音が、すべてを超えて大きな大きな恵みであり、力であり、慰めであることを示されたことに思いを馳せ、感謝いたします。どうか、今新たに、わたしたちのなかに、ふかく聖書の言葉が息づき、イエス・キリストが息づいてくださって、その福音その喜びに満たされた自由な心で、あなたに仕え隣人に仕え、み心にかなった歩みをしていくものとなれますように。そしてますますわたしたちの教会が、主の教会にふさわしく成長していきますように、聖霊でみたし守り導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン
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聖霊降臨節第20主日礼拝 

2017年10月15日ルカによる福音書 第15章25-32節
「あなたをなだめる神」三ツ本武仁牧師

 先週は嶺重淑先生をお招きして、たいへん豊かな特別伝道礼拝を守ることができました。詳しいことは月報に載っておりますので、また読んでいただければ、と思います。この朝の礼拝では、再び、先々週の続きとして「放蕩息子のたとえ」を読んでいきたいと思います。前回は24節までを、つまりこの話の前半の部分
みを読みましたけれども、そのとき申しましたように、このたとえ話は、「ある人に息子が二人いた」と語り始められています。つまりこれは二人の息子たちの物語なのです。弟息子の話が前半に、そして今日読みます25節以下の後半には兄息子の話が語られています。弟息子のほうが、いわゆる放蕩息子でありました。彼は父親が死んだら自分が受け継ぐはずの遺産を先にもらって家を飛び出し、放蕩の限りを尽くしてそれを全て失ってしまいました。そこで食べるにも困るようになって帰って来たその息子を、父は走り寄って抱きしめ、全くとがめることなく息子として迎え入れ、彼が帰ってきたことを喜び祝う宴会を始めたのです。

 そこからが兄息子の話になります。後半の冒頭の25節に「ところで、兄の方は畑にいたが」とあります。この最初の一言が、兄息子の姿を明確に描き出しています。彼は弟とは正反対の生活をしているのです。父の家にいて、父の仕事を手伝い、毎日畑に出て、真面目に勤勉に農作業にいそしんでいるのです。絵に描いたような孝行息子です。彼らの家庭を知る人々はきっと異口同音にこう言っていたことでしょう。「あの家の二人の息子は何と対照的なことか。弟はどうしようもないドラ息子だが、兄ちゃんは真面目で立派な孝行息子だ。あそこの親父さんも、長男のことはさぞ自慢に思っていることだろう」。と。・・・前回の礼拝のあと、ある方から、先生、私にも二人の息子がいますので、身につまされて聞いていました。それから、この教会は息子二人を持つ母親が多いんですよ。・・・と言われて、改めて、そうなのか、と思わされましたけれども、一見立派そうに見える兄とそうではない弟という、そういうことも多いのでしょうか? しかし、肝心なことは、そういうことよりも、本当はこの話は自分の息子たちの話として聞くのではなく、自分自身に置き換えて聞いていただきたいのです。

 そこで、その兄が、この日も畑に出て一日働き、くたくたになって帰って来ました。すると家の中から音楽や踊りのざわめきが聞こえています。何やら宴会が行われている様子です。僕の一人に「これはいったい何事か」と尋ねると、「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」とのことでした。するとそれを聞いた兄は、怒って家に入ろうとしなかった、というのです。彼がなぜ、何をそんなに怒ったのでしょうか? それはなだめに出てきた父に対して彼が語った29節以下の言葉に示されています。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。・・・この兄の気持ちはよく分かる、と私たちは思うのではないでしょうか…、

しかしここで思い起こしていただきたいことは、イエスさまは、このような兄の気持ちを、このたとえ話の直接の聞き手である、ファリサイ派や律法学者の人々の気持ちとして語っておられる、ということです。15章の最初にありますように、徴税人や罪人たちがイエスさまのもとに集まって来て、イエスさまが彼らと一緒に食事をしているのを見たファリサイ派の人々や律法学者たちが、そのことを、神の教えを語る者として相応しくないと批判しました。その批判に対する応答として、イエスさまは、この15章の三つのたとえ話は語られたのです。そのことから、この話における弟息子、放蕩息子は徴税人や罪人たちのことであり、兄息子のほうはファリサイ派や律法学者たちのことを表していることがわかるのです。ということは、つまり、この兄息子の父への批判の言葉は、2節にありました「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」というファリサイ派や律法学者たちのイエスさまに対する批判の言葉と同じ言葉なのです。

ですから、この兄の気持ちが、私たちに分かるというのは、イエスさまを批判しているファリサイ派や律法学者たちの気持ちが分かる、ということになるのです。そこでさらにはっとさせられますことは、ファリサイ派や律法学者たちは、イエスさまを単に批判していただけではない、彼らは、イエスさまを殺してしまおうという思いを次第に強く抱いてきていた、ということです。そして、彼らのその思いによって、イエスさまはついに十字架につけられていくのです。つまり、この兄の気持ちがわかる、という思いというのは、イエス・キリストを十字架にかけようとする思いと一つなのです。

 そこでこの兄の言葉を改めてじっくりと味わってみたいと思います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」。これは嘘ではありません。彼はそれだけ真剣に、まじめに、熱心に、父に、つまり神様に仕えて生きてきたのです。ファリサイ派や律法学者たちとはまさにそのような人々でした。彼らは神の掟である律法をしっかりと守り、神様のみ心に従って正しく生きようと必死に頑張っていたのです。それは私たちの信仰にあてはめて言うならば、敬虔なクリスチャンとして信仰生活、教会生活に熱心に励んできたということでしょう。それは確かにすばらしいことであり、尊敬に値することです。

しかし、この兄はそれに続いてこう語っているのです。「それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」。「それなのに」という言葉に、彼の思いが凝縮されています。そこに込められているのは、自分は神様に一生懸命仕えている、熱心に信仰に励んでいる、それなのに、神様はその自分の努力にちゃんと報いてくれていない、という思いです。その報いとして彼は「友達と宴会をするための子山羊一匹すらくれない」と言っていますが、後からも申しますけれども、ここで彼が求めているのは決して物質的な満足ではないのです。彼は父が自分のことを重んじてくれていることがはっきり分かる印が欲しいのです。その印が与えられていないことに、彼は不満を覚えているのです。こんなに一生懸命信仰に励んでいるのに、父はその自分の努力に何も応えてくれていない、と感じているのです。

 どうして彼はそのように感じたのでしょうか。それを示しているのが次の言葉です。「ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。ここに、彼の不満の原因があるのです。娼婦どもと一緒に父の身上を食いつぶした弟の存在こそ、彼の怒り、不満の原因なのです。そんな弟がいることが原因なのではありません。その弟が食いつめて帰って来た時に、父がそれを喜んで肥えた子牛を屠ったことが彼には我慢ならなかったのです。「子山羊一匹すらくれなかった」と彼が言っているのは、父が屠ったこの「肥えた子牛」との比較によってです。彼が日頃から、友人と宴会をするための子山羊が一匹欲しいのに、という不満を抱いていたわけではありません。父が、あの弟のために肥えた子牛を屠ったことを聞いたとたんに、彼の心に、父は自分のためには子山羊一匹すらくれたことがない、という思いが涌きあがってきたのです。肥えた子牛は子山羊よりもずっと高価なものです。自分のためには子山羊一匹くれない父が、あの弟のためには肥えた子牛を屠る。一生懸命仕えている自分よりも、あの弟の方が父にとっては大事なのか、自分の努力には何の価値も認めてくれないのか、それが彼の怒りの中心なのです。

私たちも、たとえこの兄ほどに、熱心に神様に仕え、信仰に励んではいないとしても、他の人との関係の中でこのような怒り、嫉妬の思いに陥ることがしばしばあるのではないでしょうか。特に、自分の方が苦労したり、努力したり、がまんしているのに、そうでない人の方が認められたり、よい思いをするようなことを体験する時に、私たちの心は、その人に対する、またそのようなえこひいきをしている神様に対する怒りで満たされてしまいます。ファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスさまが神の教えを語りながら、徴税人や罪人たちを迎え入れているのを見て激しい怒りと憎しみを覚えたのはまさにこのことによってであったのです。

 兄は、「あなたのあの息子が」と言っています。自分の弟のことを、もう弟とは呼びたくないのです。そしてさらにそこには、父に対する不満が込められています。「あなたはあれを息子として迎え入れるつもりかもしれませんが、私はあいつを家族の一員と認める気はありません」という思いです。ファリサイ派や律法学者たちは、徴税人や罪人たちに対してそういう思いを抱いています。あんなやつらは神様のもとでの家族の一員とは認めない、という思いです。そのようにして彼らは、同じ神の民であり家族、兄弟であるはずの人々との関係を断ち切っているのです。それもまた、私たちがしばしば陥る姿ではないでしょうか。人との比較の中で神様のえこひいきを感じることによって私たちは、神様に対して怒ると同時に、その人との関係を保てなくなる、人に対する怒りと憎しみに捉えられてしまうのです。

 しかし、そこに不思議な現象が起こってくるのです。「兄は怒って家に入ろうとしない」とありました。つまり今やこの家族に起っているのは、帰って来た放蕩息子である弟が家の中にいて、兄のほうが反対に家の外にいる、ということなのです。神様が催して下さる盛大な宴会への招きを受け入れてその席に着くことが救いにあずかることだ、ということが14章で語られていたことだったわけです。その意味では、今やその救いにあずかっているのは弟でのほうあって、兄のほうはその招きを拒む、というかたちで、救いから落ちてしまっているのです。神様のもとから飛び出していく罪人の代表である弟と、熱心に神様に仕えて生きている信仰者の代表である兄との間に、そういう逆転が起っているのです。

 しかし、さらに考えてみますと、それは本当に逆転なのでしょうか。この兄の姿は、そもそも本当に信仰に生きている人の姿を表していたのでしょうか。先ほど、「それなのに」という言葉に彼の思いが凝縮していると申しました。そこに示されているのは、彼が、自分は頑張って熱心に父に仕えているのだから、そこには報いがあるのが当然だ、と思っているということです。「それなのに」その報いが与えられず、父が認めてくれないことに腹を立て、すねているのです。しかしそれは、彼が父の家に留まり、父と共にいることを本当には喜んではいなかったことを意味します。要するに彼は父のことを本当に愛していたわけではなかったのです。弟は、父の家にいることを束縛と思い、そこを飛び出しました。兄は家に留まっていましたが、内心では彼も、父の家にいることを喜んではいなかったのです。おそらく、この兄は、長男の責任から、弟が家を出て行っていってしまったあと、仕方なく家に留まっていたのではないでしょうか。

つまり、自分は我慢して父の家にいる、と思っているこの兄は、心においては、家を飛び出した弟と何も違いないです。弟は目に見える形で、体ごと父に背いていますが、兄は、体は留まりつつも7、心は同じように父に背き、父のもとから離れ去っていたのです。ですから、この二人の息子の話は、一方は罪人であり、他方は立派な信仰者である対照的な兄弟の話ではないのです。だから、この二人の間で逆転が起った、ということでもないのです。実は、彼らは二人とも、父のもとから失われ、罪に陥っていたのです。そして弟の方は、前半の話において父のもとに立ち帰り、父に迎えられて喜びの宴席に連なりました。彼は悔い改めて救いにあずかったのです。しかし兄の方は、いま怒って家に入ろうとしない、そのことを通して、彼の問題が、彼の罪が、ここで明らかになったのです。聖書のいう人間の罪とは実に不思議といいますか、考えさせられます。ある一人の罪人がいる、という話ではないのです。その罪人をめぐって、実は他の人々の罪も明らかにされていくのであります。わたしたちは新聞やニュースである犯罪人の話を読んだり聞いたりしたとき、それをああでもないこうでもないと批判をしたりしますけれども、聖書は、それを読み聞くあなた自身の実情はではどうなのか、と問いかけてくるのです。

 怒って家に入ろうとしない兄のところに、父が出て来て「なだめ」たといいます。先週の嶺重先生の「聖書における笑い」という観点から申しますと、威厳のある父が、怒っている息子の気持ちを心配してなだめている、という姿も、きっとありえない、ある意味でユーモラスな笑える描写なのかもしれません。いずれにせよ、兄のところに出てくる父の姿は、前半の20節で、ぼろぼろの姿になって帰って来た弟息子のところに走り寄った姿と重なると思います。これが神様のあなたたちへの思い、愛なのだよ、とイエスさまはおっしゃりたいのです。わたしたちのところへ走りより、なだめてくださる、このありえないような大きな愛こそ、イエス・キリストによって示された、私たち一人一人に対する神の深い愛なのです。

 父はなんと言って兄息子をなだめたのでしょうか。31節以下にその言葉が記されています。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。「お前はいつもわたしと一緒にいる」、イエスさまのもう一つの名前はまさに「神我らと共にいます(インマヌエル)」でありました。これこそが、何よりもすばらしことなのです。この喜びに満たされるとき、私たちは、どんな報いがあるか、他の人よりもどれだけ重んじられるか、などということは、もうどうでもよくなる、ただ一緒にいることをこそ喜ぶ愛の関係に生きることができるのであります。一緒にいることの喜び、私事ながら、今回の妻の入院を通して、私も妻もそのことを再確認いたしました。信仰者として生きるというのは、つらいことを我慢して生きることではありません。これだけ我慢しているんだから報いがあるはずだ、というのは聖書の教える信仰ではありません。父である神様が私たちをわが子として本当に愛して下さり、「わたしのものは全部お前のものだ」と言って全てを与えて下さっている、独り子の命をすら与えて下さっている、そして共にいて下さる、その神様の深い愛に目覚めて、心からそのことを感謝して喜んで生きる、これこそが私たちに示し与えられた信仰なのです。

神様のもとを飛び出し、自分勝手に生きる罪によって行き詰まり、どうしようもなくなってしまった罪人を、神様は、主イエス・キリストの十字架の死によって赦し、改めてわが子として迎え入れて下さいます。その救いの恵みによって、死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見つかることを、神様ご自身が心から喜んで下さっているのです。肥えた子牛を屠るのは、神様の大きな喜びの現れです。そして神様は、その喜びを全ての者と共に分かち合おうとしておられるのです。

生まれつきの私たちは、人と自分とを見比べることの中で嫉妬や憎しみを覚え、兄弟姉妹との関係を破壊してしまうことの多い者です。兄弟のことを「あなたのあの息子」と呼んでしまうのです。しかしその私たちに神様が、「お前のあの弟は」と語りかけて、その兄弟と共に神様の祝宴の席に着くようにと招いて下さるのです。この招きによって私たちは、神様の家族となり、兄弟姉妹として生きることができるようになるのです。

 父が兄をなだめ、祝宴へと招いている言葉でこの話は終わっています。兄はこの後どうするのでしょうか。父の招きを聞き入れて家に入り、弟と共に祝宴に連なるのでしょうか。それともその招きを拒み、今度は彼が、自分のもらう分の遺産をくれと言って家を飛び出していくのでしょうか。それを決めるのは私たち一人一人です。独り子イエス・キリストを遣わして下さった父なる神様が、今日も私たちを、神様の喜びにあずかる祝宴へと招いておられます。自分一人ではなく、主が選ばれた兄弟姉妹と共にその招きに応えることによってこそ、私たちはその喜びに本当にあずかることができるのです。祈りましょう、

 兄弟が共に座っている、なんという恵み、なんという喜び
 主なる神さま わたしたちは、それぞれの場から、あなたに招かれ、教会という一つの群れをかたちづくっています。そこには上も下もなく前も後もありません、なぜなら、あなたが、わたしたち全員の中心にあって、その同じ愛をもって、一人ひとりを愛し、守り、導いてくださっているからです。罪深いものでありながら、イエス・キリストの十字架のゆえに赦され、愛されたものとして、どうかわたしたちが、互いに愛しあい、ゆるしあい、受け入れ合って生きるものとなれますように、聖霊でみたし守り、導いてください。主のみなによって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第17主日礼拝 

2017年9月24日 ルカによる福音書 第15章1-10節
「神はあなたを探している」三ツ本武仁牧師

 本日から、ルカによる福音書の第15章に入ります。この第15章には、よく知られた三つのたとえ話が語られています。見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、そして放蕩息子のたとえです。これら、よく知られたたとえ話はそれぞれに、親しみやすく魅力的ですので、よく特別伝道礼拝などの聖書箇所に選ばれたりします。私も先日招かれました経堂北教会で、放蕩息子のたとえを、20数年ぶりに母教会に帰ることが赦された自分になzらえて、用いてきたところであります。もちろん、それはそれで十分に意味のあることですけれども、しかし、聖書そのものの全体の流れ、というのも、やはり、私たちは見失ってはならないと思います。

 15章の最初の3節までのところには、このたとえ話が語られた経緯、事情が語られています。そこにこうあります。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。つまり15章の三つのたとえ話は、本来、イエスさまに不平を言ったこのファリサイ派の人々や律法学者たちに対して語られたのです。

 この15章の前の14章のその前半には、イエスさまがあるファリサイ派の議員の家に招かれて食事の席に着いた時のことが語られていました。そこでイエスさまは、神様の救いにあずかることを、神様が催す盛大な宴会に招かれ、その食卓に着くことにたとえてお語りになりました。同じ食事の席に着いていたある人がそれを聞いて、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言うと、イエスさまは、今度は、宴会に招かれていたのに、直前になって、なんだかんだと理由をつけて来るのを断った人々のたとえを語られました。宴会を催した主人は、その人々に代って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人たちを招き、彼らがその宴席に着いた、というのです。

 イエスさまがおっしゃりたいことは、神の国は悔い改めるすべての人に開かれている、ということです。ですから、もちろん、ファリサイ派の人々も招かれているのです。だからこそ、イエスさまは、ファリサイ派の議員の招きに応えてその家で食事の席に着かれたのです。イエスさまは彼らがご自分を、イエス・キリストを受け入れて、悔い改めて、神の国の福音を信じることを求めておられるのです。しかし彼らは、「あんな罪人たちと一緒に食事をしている者のところになど行けるか」と言ってイエスさまを批判したのです。イエスさまのたとえに出てくる、神様の招きを断って宴会に来ようとしない人々とは、直接には彼らのことです。それに対して徴税人や罪人たちは、「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」のです。この人たちだけが招かれたのではなくて、この人たちだけがイエスさまの招きに応えたのです。14章の終わりのところには、「聞く耳のある者は聞きなさい」という主イエスのお言葉がありました。その「聞く耳」を持っていたのは、彼ら徴税人や罪人たちだったのです。しかしまさに彼らが主イエスの話を聞くために集まって来て、食事を共にしていることが、ファリサイ派の人々や律法学者たちには我慢のならないことでした。神様の律法をしっかり学び、それをきちんと守って生きている自分たちは、あの罪人たちとは違うのだ、我々とあのような連中とを一緒にされてはたまらない、それが彼らの不平です。ここに、今日はふれませんけれども、あの放蕩息子の帰還にさいして不平をこぼした兄の姿が重なるのです。

 そこで、そのように腹を立てているファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエスさまはまず、「見失われた一匹の羊」のたとえをお語りになったのです。そのたとえは、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば」と語り出されています。「あなたがた」とは、イエスさまを批判しているファリサイ派の人々や律法学者たちです。その人々に向かって主イエスは、「自分が百匹の羊を持っていて、その一匹を見失ったとしたらどうするかを考えてみてごらん」と言っておられるのです。そして、もしそうだったら、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」、誰でも当然そうするだろう、とおっしゃったのです。

 ここでイエスさまが、「誰でも、99匹を残して1匹を探すだろう」と言われた、そのことに、つまずきを覚える方もあるようです。確かに一匹も大事でしょうけれども、残りの99匹も大事にしてください、と先輩牧師が信徒の方から言われた、という話を聞いたことがあります。見失った一匹を捜しに行っている間、野原に残された九十九匹はどうなるのか、そこに狼が襲って来たらどうするのか、ということを私たちはつい心配してしまうわけです。むしろ残った九十九匹を守る方が大事だから、失われた一匹のことはあきらめる、という考え方だってあり得るのではないかと思うわけです。

 しかし、イエスさまのたとえ話は、ある意味でどれもそうですが、理屈で理解しようとしてわかるものではありません。ある牧師は、この羊飼いは、後の九十九匹のことは心配せずに失われた一匹を捜しに行ける状況にあった、誰か友達の羊飼いがいて、代わりの番をしてくれたのだ、とそう、語っていますけれども、むしろ、このたとえ話は、単純に第二のたとえ話と関係で見つめればよいのではないでしょうか? 二番目の無くした銀貨のたとえ話では、十枚のドラクメ銀貨のうちの1枚をなくしてしまったので、その1枚を探す、という話となっています、その場合残りの9枚のことはきっと、これを読んでも誰も心配しないでしょう。彼女はそれを握りしめているか、どこか安全な場所に確保しているということは容易に想像がつくのであります。

 つまり、イエスさまがこのたとえによって私たちに見つめてほしいことは、「あなたがたも、自分の大切なものが無くなったら、必死に探し回るだろう」ということです。一匹の羊が当時どれくらいの値段だったのかは分かりませんが、しかし大事な財産であることは間違いないでしょう。またドラクメ銀貨一枚というのは、聖書の後ろの付録の中の「度量衡及び通貨」の表を見ると分かるように、一デナリオン、つまり一人の労働者の一日の賃金に当たる金額です。この銀貨一枚を無くすことは、一日の働きを無駄にすることになるのです。そういう価値のあるものを見失ったら、私たちも必死に捜し回るでしょう。見つからないと大損だからです。イエスさまがこの二つのたとえで私たちに見つめさせようとしているのは、「あなたがたも、自分のもの、財産が失われるとなったら、必死に捜しまわり、なんとかして見つけ出そうとするでしょう」ということです。この「自分のもの」ということが大事です。あの羊飼いが一匹の羊を捜しに行くのは、その羊が自分のものだからです。銀貨を無くした女が家じゅうを捜し回るのも同じです。自分のもの、自分にとって大切なものを失いたくないから、必死に捜し回るのです。それは、ファリサイ派も、律法学者も、そして私たちも、誰もが皆共有して抱いている思いではないでしょうか。

 イエスさまは、誰の中にも当然あるこの思いに目を向けさせることによって、「神様も同じお気持ちなのだ」ということを示そうとしておられます。あたがたの父なる神も、同じように、ご自分の大切なものが失われていくのを、まあいいや、と放っておくのではなく、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとなさるのです。イエスさまが徴税人や罪人たちを招き、迎え入れ、一緒に食事をしているのは、神様のこのみ心によってなのです。ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちは徴税人や罪人たちとは違って神様に従って生きている、と思っています。しかし、イエスさまの招きに応えようとせず、そのみ言葉に聞く耳を持たない彼らもまた、神様のもとから失われている羊です。徴税人や罪人たちと、ファリサイ派や律法学者たちは、現れ方は違うけれども、どちらも、神様の群れから迷い出てしまった羊である私たちの姿を描き出しているのです。

 そしてこのたとえ話が語っているのは、そのような迷い出た羊である私たち一人一人のことを、神様が、ご自分のものとして大切に思って下さり、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとして下さるのだ、ということです。神様はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わして下さいました。神様の独り子イエス・キリストが、迷子になってしまっている私たちを捜し出し、見つけ出して神様のもとに連れ帰って下さるまことの羊飼いとして、人間となってこの世に生まれて下さったのです。

 このイエスさまの招きに、イエス・キリストのもとに、私たちは、あの徴税人や罪人たちのように、素直に答えて近寄って行くのか、それともあのファリサイ派や律法学者たちのように、自分たちの罪を認めず、イエスさまに聞く耳を持たず、その招きを拒むのか・・・。そのことが問われているのです。徴税人や罪人たちと共に、自分の罪を認めて主イエスのもとに集い、神の国の福音を告げるそのみ言葉を受け入れることによってこそ、私たちは主イエスが招いて下さる神の国の食卓にあずかることができるのです。

 それこそが、洗礼を受ける、ということです、そしてまた、聖餐に預かる、ということです、そして、さらに言えばそれが「悔い改める」ということなのです。この二つのたとえ話のそれぞれの終わりのところに、「悔い改める一人の罪人については」とか「一人の罪人が悔い改めれば」と語られています。「罪人の悔い改め」ということが、この15章の三つのたとえに共通しているテーマなのです。

 そしてその中でも、今日のこの二つのたとえ話には、私たちの悔い改めを可能にする根拠、土台が語られている、と言うことができるのではないか、と思います。私たちは、自分が神様のもとから迷い出て、道を見失い、死と滅びを待つしかない者であることを認め、主イエス・キリストのもとに来て、そのみ言葉を聞き、救いにあずかります。それが私たちの悔い改めです。しかし私たちは、そもそも自分が罪人であることになかなか気づかないし、それを認めようとしません。ファリサイ派の人々がそうだったように、あの連中に比べれば自分は清く正しく生きている、ということを拠り所として、自分のプライドを守ろうとしているのです。だから、自分がこのままでは死と滅びを待つしかない者だなどとは考えずに、むしろ自分は自由だ、と思って意気揚々と歩みつつ、実はずるずると死と滅びの淵へと陥っていく、それが私たちの姿なのではないでしょうか。

 そのような私たちは、自分で悔い改めて神様のもとに帰り、救いにあずかることが限りなく困難なのです。神様は、そのような私たちを、しかしご自分の大切なものとして愛して下さっています。なんとかして私たちを滅びの淵から救い出したいと思っておられます。そのみ心によって、神様の方から、私たちを捜しに来て下さるのです。そのために、独り子イエス・キリストがこの世に生まれて下さり、十字架にかかって死んで下さったのです。主イエス・キリストのご生涯、特にその十字架の死と復活に、神様が私たちのことを必死に捜し回り、ようやく見つけ出し、連れ帰って下さるというみ心が具体的に示されています。私たちは、この主イエスのご生涯に示されているみ心に触れることによって自分の罪に気づかされ、このみ心に支えられて、主イエスのもとに来てその救いにあずかることができるのです。つまり悔い改めることができるのです。見失った羊のたとえと無くした銀貨のたとえによって、私たちが悔い改めて救いにあずかるための土台を、神様ご自身がしっかりと据えて下さっているのです。

 見失った羊を見つけ出した羊飼いは、「喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。また無くした銀貨を見つけた女も、「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。失われていた大切なものを見出した人は、大いに喜ぶのです。先ほど、見失った羊のたとえを題材とした讃美歌200番を歌いました。その四節の歌詞は、「抱かれて帰るこの羊は、喜ばしさに踊りました」となっています。しかしこれはこのたとえ話とは違います。ここに語られているのは、見出され救われた羊の喜びではなくて、見出した羊飼いの、つまり神様の喜びです。私たちが悔い改めて神様のみもとに立ち帰ることを、神様ご自身が誰よりも喜んで下さるのです。罪人の悔い改めにおける神様ご自身の喜びこそが、この15章を貫いている中心主題なのです。

 神様は、一人の罪人が悔い改めて救いにあずかることにおけるご自身の喜びを、多くの人々と分かち合おうとなさいます。「一緒に喜んでください」という言葉が繰り返されています。これこそ、神様が主イエス・キリストを通して人々をご自分のもとに招いておられるみ言葉です。神様の救いにあずかることが、盛大な宴会に招かれることにたとえられる根拠もここにあります。神様が、救われる人々を招く盛大な宴会を催し、「一緒に喜んでください」と人々を招いておられるのです。この招きに応えて、この宴席に着き、神様の救いの喜びにあずかり、それを分かち合うことが私たちの信仰です。一人の受洗者が与えられるとき教会全体がなぜ喜びに満たされるのか、まさにそれはここに理由があるのです。

 神様が独り子主イエスを遣わして、罪人である私を探し出し、見出して下さり、そのことを大いに喜んで下さっている、その喜びを、同じ救いにあずかっている全ての兄弟姉妹と共に、そしてさらにその救いへと神様が新たに招いて下さっている人々と共に、分かち合って信仰の道をすすんでいきたいとと願います。

 主なる神さま、あなたがわたしたちを探してくださっています。イエス・キリストがその命にかえてわたしたちを探してくださっています。どうか、その招きに答えるものとならせてください、そしてまた、あなたの招きに応えた人とともに、喜びを分かち合って歩んでいく群れとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第16主日礼拝 

2017年9月17日(日)ルカ14章25-35節
「自分の十字架を背負って」三ツ本武仁牧師

 私たちが主イエスの弟子として、信仰者として、途中で挫折することなく最後まで歩み通していくために必要な備えとは何であるか、今日の聖書箇所には、そのことについて、一見すると大変厳しいことが語られています。26節「もし、誰かが、わたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらには自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」というのです。さらにまた、33節「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」とも言われているのです。明日は敬老の日で、祖父や祖母を労わり、感謝を表す日であるわけですけれども、ここには直接には、祖父や祖母を憎めとはありませんけれども、しかし、家族を憎まなければ、わたしの弟子ではありえない、というのですから、その意味では当然、祖父や祖母のこともそこに入ってくるわけであります。

 これを聞くと私たちは誰もが、「自分にはこんなことはとてもできない」と思わずにはおれないでないでしょうか。先週は大変嬉しい、洗礼式があったわけですけれども、まだ洗礼を受けておられない方々の中には、あの洗礼式を目の当たりにされて、ああ自分も受けてみようかな、と少し心動かされた方もおられるかもしれない、と思うわけですけれども、今日のところは、その思いを消し飛ばしてしまうような、「ああ無理だ、やっぱりやめよう」と思ってしまうような内容に思われるのではないでしょうか。ある意味で、この厳しさは、確かにそうだ、ということがいえるのかもしれません。信仰をもって生涯を歩むというのは、確かに、決して楽なことではない、ということがいえます。いいかげんな気持ちでは長続きしない、ということは確かにいえるのです。

 そのことを、28節以下に語られている二つのたとえ話は物語っているといえるでしょう。塔を建てようとする人のたとえと、他の王との戦いに赴こうとする王のたとえです。「塔を建てる」というのは、町を守るための砦や、ぶどう園を侵入者から守るための見張りの塔など、生活に必要な塔を建てるという話です。その時には、「造り上げるのに十分な費用があるか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」とあります。また他国の王に戦争を仕掛けようとする王は、自分の戦力と相手の戦力とを比較して、勝ち目があるかどうかを「まず腰をすえて考えてみないだろうか」とあります。そういうことをしっかり考え、準備しないで建て始めると、完成できずに物笑いの種になるし、戦争においてはまさに以前のわが国がそうであったように悲惨な結末を迎えることになるのです。これらは両方とも、最後までやり遂げるための準備がしっかりなければ、途中でつぶれてしまう、中途半端で終わってしまう、という警告です。どちらのたとえにおいても「腰をすえて」という言葉が用いられています。これは文字通りには「座って」という意味なのですが、「腰をすえて」というのはなかなか味のある訳だと思います。物事を最後までやり遂げるためには腰をすえて掛からなければなりません。主イエスの弟子となる、つまり信仰者として生きていくことにおいても、腰をすえて、しっかりとした備えを持って取り組まなければ、結局途中で挫折してしまう、ということになるのです。

 けれども、そのことを確かではあるけれども、私たちは、ここでイエスさまがお語りになったことを、ただ厳しいことが語られるといるだけだと受け止めてしまってはならないのです。・・・「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」を「憎む」ことが求められています。これはどういうことなのでしょうか。イエスさまの弟子となり、従っていくに際して、家族のことなどにかまっていてはいけない、家庭のことは放っておいて、ただ主イエスに従うことだけを考えよ、と言っているのでしょうか。そう捉えてしまって、この聖書の言葉につまずいてしまう、ということがあるようです。家族を憎めなどと、イエス・キリストはなんてひどいことを教えるのか、と、そう思ってしまうのです。もっともこのことは、その人と家族との関係が実際にはどうであるかにもよるという面もあるでしょう。家族、身内によってさんざん苦しめられ、家族であるがゆえに、そこから逃れられずにいるような人にとっては、この教えは解放を告げる教えと受け取られるかもしれません。じっさい、たとえば夫の暴力に苦しんで駆け込み寺のようにして教会に飛び込んで、そのままクリスチャンになった、という人も少なくないのです。

 しかし、イエスさまがここで語っておられることは、そういうことではないのです。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を「憎む」とはどういうことなのでしょうか。マタイによる福音書の第10章37、38節に、ここと同じ教えが語られています。そこにはこうあります。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」つまり、ここでイエスさまが「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を憎みなさい」と言っておられるのは、憎しみをもて、ということがおっしゃりたいのではなくて、そのような家族以上に、わたしを愛しなさい、ということなのです。

 「自分の命であろうとも、これを憎まないなら」と言われています。自分の命を憎むというのは、こんな命はいやだ、もう生きていたくない、と思うことではなくて、自分の命よりも主イエス・キリストをより愛し、大切にするということなのです。イエスさまがここで教えておられるのは、家族を、また自分の命を愛することをやめ、それらを憎むようになることではなくて、本当の意味で、家族を愛し、大切にし、また自分の命を愛し、大切にするためにこそ、それらを私たちに預けてくださった、主なる神を、イエス・キリストを第一に愛しなさい、ということなのです。

 33節の「自分の持ち物を一切捨てないならば」という教えも、「そんな無理なことなどできるわけがない」と私たちは正直思うわけです。しかし、自分の持ち物を捨てないというのは、それらにしがみつき、それらを頼りにし、それらによって安心を得ようとしているということです。しかしそれでは、主イエスの弟子として、主を中心とした、信仰者としての生き方になっていないということです。人生が、物事が順調に行っている間は、あるいは、そういう生き方でもなんの問題もないかもしれません。しかし様々な苦しみ、試練が襲って来る時に、私たちが何にこそ本当に依り頼み、何を拠り所として生きているのかが問われるのです。いざという時に本当に頼りにし、支えとなるものは何だと思っているのか、そのことが問われているのです。

 要するに問われているのは、私たちが本当に愛し、依り頼んでいる相手は誰なのか、何なのか、ということです。自分が持っているもの、自分の命、家族、様々な人間関係、財産なのか、それとも主イエス・キリストなのか、ということです。主イエスの弟子として、信仰者として生きるというのは、自分の持っているものを第一に愛し、それらに依り頼んで生きるのではなく、主イエスをこそ第一に愛し、主イエスにこそ依り頼んで生きていくことです。主イエスは私たちにそのことを求めておられるのです。・・・それは決して主イエスご自身のためではありません。イエスさまがそれで満足するとか、面目が保たれる、ということではないのです。それはむしろ私たちのためです。主イエスをこそ愛し、主イエスに依り頼む信仰によってこそ私たちは、本当の意味で、自分の命を、家族を、また与えられている様々な持ち物を、大切にして生き、また生かしていくことができるからです。

 私たちが自分の命を本当にかけがえのないものとして大切にしていくことができるのは、それが神様の恵みによって与えられたものであり、神様の独り子であられる主イエスが、ご自分の命を身代わりに与えて下さるほどにそれを大切に思って下さっていることを本当に身にしみて、知ることによってです。どんな苦しみや絶望の中にあっても、まさに命が失われていく中でも、あるいはこんな命はもういらないと私たちが思ってしまうような時にも、主イエス・キリストは、その私たちの命を心から愛し、私たちのために身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのだ、と知るとき、私たちは、自分をはじめとする人間の力や思いを超えた、本当に深い慰めと励まし、平安が与えられるので「す。その慰め、励まし、平安の中でこそ、私たちは、絶望の中から立ち上がり、この与えられている命を大切に生き抜いていくことができるのです。

 また私たちは自分の家族を、どんなに愛し、大切にしていても、自分の力で家族を救うことはできないし、支え切ることもできません。愛する者の命が、例えば病によって失われていくことを私たちはどうすることもできないのです。また自分のあるいは誰かの罪によって、愛し合っていたはずの家族が崩壊してしまうようなこともあります。私たちは家族によって支えられ、慰められ、励まされることも確かだけれども、その家族を本当に支え、守っていく力は、私たち自身の中には本来にはないのであります。

しかし、私たちが、主イエス・キリストを信じ、愛し、従い、依り頼んでいく時、主イエスが、私をも、私の家族をも、私たち以上に愛していて下さり、その一人一人の罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命の約束を与えて下さっていることを知らされるのです。この主イエスの救いの恵みの中で、その恵みに支えられて、私たちは、様々な人間の罪にもかかわらず、自分自身や自分の家族を本当に愛し、大切にしていくことができるのです。また私たちは、主イエスを愛し、主イエスに依り頼んで生きることによってこそ、自分の持ち物、財産をも本当に生かし、有意義に用いることができるのです。

 私たちは、主イエスの弟子となり、従っていくことによってこそ、自分の命をも、家族をも、隣人をも、そして自分の持ち物をも、本当に大切にし、有意義に用い、それによって隣人とよい交わりを築きつつ生きることができます。そのようにして私たちは、この世、この社会において、「地の塩」として生きていくことができるのです。34、35節には、「塩」についてのみ言葉があります。塩に塩気がなくなってしまったら、何の役にも立たないものになってしまう、と教えられています。主イエスは私たちが、塩味を失わずに、地の塩としての働きを維持していくことを期待しておられます。キリスト信者が失ってはならない塩味、それが、主イエスの弟子として、主イエスをこそ愛し、依り頼み、主イエスに従って生きるということなのです。信仰者としての人生を生き抜いていくためには、この塩味を失わないことが大切なのです。

 主イエスの弟子として「自分の十字架を背負って」いくというのはそういうことです。今日のところで特にみなさんの心にとめていただきたいのはこのことです。自分の十字架を背負って、と聞きますと、私自身がそれぞれの人生で背負いこんでいる、あの苦しみ、あの悲しみのことかと思います。そのようなそれぞれの人生の重荷、苦しみ、病という十字架を背負って、イエスさまに従いなさい、とそういうふうにここは読めます。しかし、もちろんそれはそうなのですけれども、しかし、私たちがそこで、第一に背負う十字架は、私たちが自分の家族や自分の命を第一にするのではなくて、主イエスこそを第一にしなさい、愛しなさい、と教えてられているのと同じように、主イエスの十字架をこそ第一に背負いなさい、ということなのです。あなたの人生には確かに、十字架と呼ぶべき重荷が確かにあるけれども、それ以上に、わたしの十字架、キリストの十字架をこそ、自分の十字架として背負いなさい、というのです。もちろん、その十字架は、じっさいには私たちに背負えきれる十字架ではありません。いや、本当は、わたしたちが背負わねばならない十字架でありながら、それを背負い切ることのできない私たちに代わって、イエスさまが、わたしたちのために背負って、背負い抜いてくださった十字架であります。

 それはわたしたちがその罪のためにかけられ、そこで死なねばならなかったはずの十字架です。しかしイエスさまが、それを背負い抜いてくださったことによって、神さまと和解のしるしとなり、罪の赦しのしるしとなり、復活のいのちのしるしとなった十字架であります。その十字架を、自分の十字架として背負ってよい、とおっしゃってくださっているのです。・・・ですから、この十字架を背負う歩みには、わたしたちの人生の十字架を背負うだけの歩みには決してない、希望と救いが約束されているのです。

 私たちはこの復活につながる、主イエス・キリストの十字架を自分の十字架として背負って歩むようにと求められているのです。その歩みの中で、主イエスが、私たちの人生の重荷を、共に背負って下さっているそのことを覚え、感謝しつつ、自分の命を、家族を、隣人を、そして自分の持ち物をも、本当に愛し、大切にし、有意義に用いて生きる力をいただくのです。祈りましょう。

 主なる神さま
 わたしたちは、自分の命、自分の家族、自分の仕事、自分の人生を、まさに自分、自分と自分のものであるかのように考え、自分中心になって、それをなんとしかしよう、なんとかしたい、ともがき苦しみ、かえって悲しみや苦しみをまし加えていました。しかし主よ、今日あなたがわたしたちを御言葉で照らしてくださり、そのようなわたしたちの罪を、イエス・キリストが十字架において、命をかけて滅ぼしてくださった、その恵みに感謝し、主を愛し、主の十字架をこの自分のための十字架として背負っていくときに、まことの平安に満たされた主の弟子として歩みが与えられることに目覚めて歩むものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第15主日礼拝 

2017年9月10日(日)ルカによる福音書 第14章15―24節
「主の食卓に着こう」 三ツ本武仁牧師

 先週は、私は自分の母教会である東京の経堂北教会の礼拝で奉仕をさせていただきました。20数年ぶりに母教会で礼拝をしてきたのですけれども、放蕩息子の帰還とはこういうものか、という嬉しい体験させていただきました。以前香里教会の教会員であった山室美恵さんと息子さんの秀樹さんも来てくださって、これも嬉しい再会の時も与えられました。大変恵みに満ちたひとときを与えられ、本当に感謝でありました。
 香里教会も、杉田典子先生がやはりひさしぶりに香里教会の講壇に立たれて、とても身の引き締まる説教をしてくださったと何人かの方から聴いております。一人ひとりの確かな信仰を土台として教会は立ち上がっていく、ということで、とくに聖書を毎日読むようにということであったそうですけれども、私もそれは実践していますので、ぜひ皆さんも、おくまでも自由な心でそれを心がけていただけたらと思います。

 さて、本日ご一緒に読む14章の15節から24節は、14章の前半のしめくくりであります。14章は、イエスさまがある安息日にファリサイ派の議員の家に食事に招かれたことからはじまって、その食卓における会話が今日のところまで続いているのです。今日のところは、その「食事を共にしていた客の一人」が、イエスさまに「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったことから、話が展開していきます。

 イエスさまはその前の14節までのところで、宴会に招待されてその席に着く、というたとえを用いて、神様による救いにあずかるとはどういうことかをお語りになりました。神様を、盛大な宴会を催してそこに人々を招いて下さる方として語られたのです。その宴会は勿論、この地上のどこかで開かれるものではありません。14節の最後には、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とあります。つまりこれはこの世の終わりに、正しい者たちが復活して永遠の命を与えられる。その人々が招かれてあずかる神の国の食事です。救いの完成とは、この神の国の食事に招かれることだ、とイエスさまは語られたのです。最初に申しました、経堂北教会で、私に洗礼を授けてくださった牧師は昨年天に召された四竈揚牧師でありましたけれども、広島で被爆をされた牧師でして、戦争反対、核兵器反対のメッセージを、ご自身とご家族の実体験に基づいて、それをキリスト教信仰の視点から説得力をもって語ることのできた貴重な方でありましたけれども、その先生が、この神の国での食卓について興味深いお話を、ある本のあとがきで語っておられました。それは、四竈先生の弟さんが、もう10年近く前に、脳卒中で突然に亡くなられたのですけれども、その前日、珍しくその弟さんから、四竈先生にお電話があって、何かと思って話を聞くと、今朝、不思議な夢を見た、両親が、ちゃぶ台に座って、お茶をすすっていて、二人が私をみて、よくきたね、と手招きする、そういう夢だったというのです。それで四竈先生は、その話も不思議だったし、そういう話をする弟のことも不思議に思っていたら、次の日にそういうことになって、びっくりされたわけです。それで四竈先生は、今まではそんなふうに考えたこともなかったけれども、天国というのは本当に身近な、近しい家族との団欒に招かれるようなものなんだろうと、そう綴っておられました。

 今日の聖書の話に戻りますと、イエスさまの話を聞いて、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った、この人の言葉は、イエスさまが語られたことへの素直な反応であると言えるでしょう。「神様が世の終わりに盛大な宴会を開き、永遠の命にあずかる人を招いて下さる。その食卓に着くことができる人はなんと幸せなことか、私もぜひその食卓に着きたいものだ」という思いです。そういう意味でこの人は、イエスさまの言葉を素直に、好意的に聞いていると言うことができます。ファリサイ派の議員の家での食事の席に集った人々の多くは、イエスさまが安息日に病人を癒すのかどうかと様子を伺っていたと1節にありました。そしてイエスさまは彼らに挑戦するように問いかけて癒しのみ業をなさいました。だからこの席にはイエスさまへの敵意や憎しみの思いが渦巻いていたと考えられるのですが、この人の言葉にはそういうことは伺えません。しかしそれではイエスさまがこの人の言葉を喜ばれたのかというと、決してそうではないのです。イエスさまは彼の言葉を受けて再びたとえ話をお語りになりました。そしてそのたとえ話は、この人が、イエスさまがこれまでお語りになったことの肝心な点を全く理解できていないことを明確にするものとなっているのです。この人はイエスさまのお言葉を好意的に聞き、それに素直に反応しましたが、実は肝心なことを何も分かっていなかったのです。そのことをイエスさまは知ってもらいたかったのです。では、その肝心なこととは何でしょうか。

 16節以下のそのたとえ話は、ある人が盛大な宴会を催そうとして大勢の人を招いた、ということから始まっています。そして準備ができたので僕を送り、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせたのです。当時の宴会はこのように、前もって招きを伝えておき、その時刻になったらもう一度招くという二重の招待がなされていたようです。ところが、先の招きを受けていた人々がいよいよという時になって次々に断り始めたのです。「畑を買ったので、見に行かねばなりません」「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」とそれぞれ理由をつけます。しかし、これらはどれも、命にかかわるほどの問題というわけではない、ということが大事な点であります。要するにそこには、この人たちが、この家の主人の招きと、自分の日常的な都合や事情のどちらを優先しているかが表れているのです。彼らは皆、自分の日常的な都合や事情を第一とし、この人の招待を二の次のこととしてそれを断ったのです。

 そこで、断られた主人は怒って、僕に「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と命じました。僕はそのようにして人々を宴会へと連れて来ましたが、まだ空席があります。主人はさらに「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言って、人々を「無理にでも」集めて自分の宴席をいっぱいにするのです。

 このたとえによってイエスさまは何を語ろうとしておられるのでしょうか。まず第一に言えることは、神の国の食事への招きが既になされているのに、それを断っている人々がいる、ということです。ここで、盛大な宴会を催そうとしているこの主人が神様を指していることは、明らかであります。神様の招きを、この人々は断っているのです。あれこれ理由をつけて、神の国の食事よりも自分の都合や当面の生活の問題を優先にしているのです。また、この人たちはそれぞれに豊かな生活をしているともいえます。畑を買うことができるし、牛を二頭ずつ五組、つまり十頭買うのも相当高額な買い物です。また妻を迎えて家庭を築く基盤を持っています。彼らはそこそこに豊かであり、自分で運用することができる財産があり、それゆえにいろいろと忙しくしているのです。そういう忙しさの中で、しかしいま、神の招きがないがしろにされ、後回しにされているのです。この主人は最後の24節で「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と宣言します。神様の招きをないがしろにするなら、神の国の食卓に着くことはできないのです。そして主人は、その人たちに代って、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を招きます。この人々こそが神の国の食卓に着くのだというのです。

 ここで私たちは、前回読んだ12節以下のイエスさまの教えを思い起こしたいと思います。宴会に人を招くときには、友人、兄弟、親類、近所の金持ちなどを、つまり自分でも宴会を催して招き返すことができる人を招くのではなくて、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい、とイエスさまはおっしゃいました。そして「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」、と言われたのです。

 それは、神さまの私たちへの愛、恵みというものは、私たちには到底お返しなどできないものであることを知っている、そういう信仰がある中で、できることであり、また、だからこそ、その人自身もまた、神さまの豊かな恵みにあずかって生きることができるからです。

 イエスさまは今日の21節で、まさにそれと同じことを、語っておられるのです。イエスさまのたとえは、私たちが、宴会を開く時にはどのような人を招待すべきか、ということを問いつつ、その奥底において、神様は、どのような人を神の国の食事にお招きになるのか、ということを語っているのです。そして、このことを、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったあの人は、全く分かっていなかったのです。

 つまりあの人は、12節以下の教えを、自分が人を招待する時にはどうすべきか、という教えとしてしか聞いていなかったのです。お返しのできないような人を招くことによって、つまり見返りを求めずに人に親切にするという善行を積むことによって、神様が報いて下さり、神の国で食事をすることができる幸いな人になることができる、そうなれる人は幸いだ、自分もそうなりたい、と彼は思ったのです。しかし、そういうこの人に対して、イエスさまは、「あなたは神さまの招きが全く分かっていないよ。神さまこそは、お返しなど自分にはできない、できていないと思っている人をこそ、招いてくださる方なのだよ、神さまのみ前で、自分を誇るもののない人、何か、神さまにこんなよいことをしてきましたと示すようなもののない人をこそ、神さまはご自身の食卓に招き、神の国の食事にあずからせて下さるのだよ。」、と語りかけておられるのです。

 そしてそこにはさらに、「あなたは、神の国で食事をする人は幸いだ、そうなれたらどんなに素晴しいか、と言っている。それはあなたが、神の招きを他人事のように、幸いな誰かに与えられるものと考えていて、今まさに自分自身が招かれていることに気付いていないということだ。招かれていたのに自分の都合や思いを並べ立ててそれを拒んでいる人々とは、あなた自身のことなのだよ」。という、そのようなイエスさまのみ心が示されているのです。

 イエスさまのたとえ話には、主人の恵みの宴会に人々を招く役割を担う「僕」が登場します。この一人の僕こそは、神様の独り子イエス・キリストご自身なのです。イエスさまによって、神様の招きが私たちに告げられているのです。しかし私たちはその招きを真剣に受け止めずに無視したり、いろいろな言い訳を言って断ってしまうのです。イエスさまが招いて下さっているのにそれに応えようとしない私たちの姿がここに描かれています。招かれるに相応しいところなど何もない、何のお返しもできない私たちを、神様は招いて下さっているのです、なぜか、それは主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったからです。

 主人は僕に、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言っています。神様が願っておられるのは、私たちが罪によって裁かれ滅びてしまうことではありません。一人でも多くの人が、救いにあずかり、神の国で食事の席に着くことをこそ願い望んでおられるのです。そのために、人々を「無理にでも」ひっぱって来ようとしておられるのです。来たい人は来なさい、来れる人は来なさい、ではなくて、ぜひ私のもとに来て欲しい、私の救いにあずかり、私の食卓に着いて欲しい、と願っておられるのです。

 神様が私たちに与えようと強く願っておられるこの救いにあずかるために私たちに求められていることはただ一つ、神様の招きを真剣に受け止め、それに応えて出かけることです。畑を買ったから、牛を買ったから、妻を迎えたから、これらは確かに人生における大事なことでしょう。どれも確かにいい加減にはできないことあります。しかしそれらを、神様の招きを無視したり、後回しにする口実とするのでなく、「招いて下さってありがとうございます」と言って、実際に出かけて行って主の救いの食卓に着くことが私たちに求められているのです。それが、洗礼を受けるということです。この朝、神様の招きに応えて洗礼を受け、この教会の一員となろうとしている方々があることはとても嬉しいことです。私たちのこの世の生活には、畑を買った、牛を買った、妻を迎えた、というような様々なことがあり、それらが神様の招きに応えて洗礼を受けることの妨げとなってしまうことがあります。あるいは、自分のような者は神様の救いには相応しくない、自分が招かれているはずはない、などと勝手に思い込んでしまうこともあるでしょう。しかし神様はそのような私たち一人一人を、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによって招いて下さり、私たちがその招きに応えることを根気強く待っていて下さるのです。

 神の国の食事を、今この地上において前もって味わうために備えられているのが、教会の礼拝において行われる聖餐であります。私たちはイエスさまによる神様の招きを信じて、それに応えて洗礼を受けることによって、聖餐の食卓に着くのです。聖餐のパンと杯は、主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、肉を裂き血を流して死んで下さったことによって、私たちの罪の赦しを実現し、私たちに神様の救いをもたらして下さった、その既に与えられている恵みを思い起し、それにあずかり、感謝するために与えられています。そしてそれと同時にこの聖餐は、今は天において父なる神様の右の座に着いておられる主イエスが、この世の終わりにもう一度来て下さり、私たちに復活と永遠の命を与えて下さる、その救いの完成の時にあずかることを約束されている神の国の食事の先取りとして与えられている希望の食卓でもあるのです。

 主によって天国にまでつながる命が与えられたことを感謝し、だからこそ、今与えられている人生に感謝して、互いの人生を分かち合い、主のみ心にかなった教会として、主の食卓の中心とした交わりをこれからも続けていきたいと願います。

 祈りましょう
 主なる神さま、あなたの招きに答えて、あなたが備えて下さった食卓に共に着くことができます恵みを感謝いたします。世の様々な思い煩いを超えて、あなたの招きに答えていくものとなれますように、そしてまた新しく、あなたの招きに答える者が起こされますように、聖霊の導きが豊かにありますように、主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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