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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

聖霊降臨節第5主日礼拝 

2018年6月17日(日)ルカ福音書 第22章24-30節
「仕える者になれ」三ツ本武仁牧師

 先週は窪寺俊之先生が来てくださって、礼拝説教そしてサムエル会主催の講演会の講師を引き受けてくださった、大変恵まれた主日でありました。人間には宗教心が大事というお話をされて、その宗教心には三つの側面がある、一つは、美しいものの中に神を見つめることのできる、宗教的感性、もう一つは、反対に人生における悲しいことやつらいことにも意味があると、そこに神さまの愛のご計画を見ることのできる神学的思考、そして、最後の三つ目として、だから自分の思いをひとまずおいて、神さまにゆだねていくという 信仰、という、この三つを備えた宗教心を持つことが大切であることを、教えていただき、感謝でありました。また窪寺先生が、教会に期待している、教会ならではの業が確かにある、とおっしゃってくださったことにも励まされました。その教会ならではの業の中心が、この礼拝であります。思えば、この礼拝の中には、宗教的感性を養う賛美のとき、神学的思考を養う聖書の解き明かしのとき、そして、神さまにゆだね信じる、祈りのとき、という、宗教心全体の養いが含まれています。そのような礼拝を通して、私たちたちは今日も、聖霊に満たされ、神さまのみ業を味わい知り、豊かな恵みを受けて、新しい一週間を歩んでいきたいとおもうのです。

 さて、私たちいま、ずっとルカ福音書を読みすすめてきまして、22章に来ました、そこはイエスさまが、十字架に付けられる前の晩、弟子たちと共に過越の食事をなさった、そのいわゆる「最後の晩餐」の場面であります。そこで今日の24節以下には、その晩餐の席で、弟子たちの間にある議論が、もっとはっきり言えば、言い争いが起こったことが語られています。それは、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論でした。「我々の内で一番偉いのは誰か」「わたしだ」「いやわたしの方が偉いんだ」という言い争いが起こったというのです。何だか情けないように感じられるわけですけれども、この24節を注意深く読みますと、そういう議論「も」起こった、と語られていることに気づきます。つまり、この言い争いは、もう一つの言い争いの後に続いて起こったものだということです。

それでは、その最初の言い争いはなんであったのか、それが、すぐ前の23節に語られています。23節にこうあります。「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」。「だれがそんなことをしようとしているのか」、「そんなこと」とは、さらに前の21節、22節でイエスさまがお語りになったことです。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。最後の晩餐の席でイエスさまは、この食卓に共についているあなたがた弟子の一人が私を裏切ろうとしている、とおっしゃったのです。それを聞いた弟子たちの間に、「それはだれのことだろうか」「お前ではないのか」「いやお前こそ裏切るのではないか」という言い争いが生じたのです。その言い争いが、今日の「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」という争いに変わっていった、ということです。・・・イエスさまが裏切られ、捕えられ、十字架につけられて殺される、その前の晩においてすら、そのような情けない言い争いを、弟子たちはしていたのであります。

 けれども、ここで語られている弟子たちの姿は、決して他人事ではない、それは、私たちにも通じる深刻な人間の有り様を語っているのです。「誰が裏切ろうとしているのか」という問いは、要するに、この中で最も駄目な、悪い弟子、弟子を名乗る資格のない者は誰か、ということです。私たちもしばしばそういう目で、仲間の信仰者を、あるいはさらに広くいえば、世の人々を見てしまうことがあるのではないでしょうか。とくに、昨今の新聞やテレビで取り沙汰されるような、人間社会を傷つけるようなことをしてしまった人について、そう思うのではないでしょうか。あの人はあんなことをして、あんなことを言って、人として信じられない、それは言い換えれば、あの人は、神様を、裏切っている、と思うことと同じなのです。

しかし聖書はここで、そのような思いで人を批判し、裁くというのは、じつは、「自分が一番偉いんだ」と主張し合う、そういう思い、そういう争いとひとつであるのだ、という、わたしたち人間の心理といいますか、実情を語ろうとしているのではないでしょうか。人を批判している私たちは、そんなことを言われますと、「いやー、別に自分が偉いなどと、そんなこと言っているのではない。信仰者として、人間として、どうあるべきかを真剣に考えているだけだ、」と、そう言い返したくなるでしょう。この時の弟子たちにしても、そうでしょう。「イエス様が裏切られて、捕まってしまったら大変だ、そのことを自分は心配しているのだ」と主張したことでしょう。しかし、聖書は、その話は結局、「誰が一番偉いか」という議論になっていったことを明らかにしています。人を批判し、あの人は駄目だ、失格者だ、と裁いていく、その思いは、結局は、自分の方が偉いんだ、とお互いが主張して言い争っているのと同じことなのだ、ということを、聖書は教えられているのではないでしょうか?

さてこのような弟子たちに対して、26節でイエスさまは次のように言われています。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。・・・まず、この御言葉から、イエスさまは決して、偉い人や上に立つ人の存在を否定していないことがわかります。むしろ、そのような立場を認めておられる、その上で、そのような立場に着く人はこうありなさい、というそういう勧めをここで語っておられるのです。

そのことは、今日のところで弟子たちのことが「使徒たち」と呼ばれていることにも見ることができます。「使徒」というのは、「遣わされた者」という意味です。誰から遣わされた者なのでしょうか。それは、神さまであり、主イエス・キリストからであります。彼らは、イエスさまの十字架の死と復活を経た後、聖霊に満たされて、キリストの教会をかたちづくり、その福音を世の人々に伝える者として遣わされていったのです。その意味では確かに、使徒である彼らは、神さまからこの世を導くリーダーとして遣わされたのです。教会は、この世のリーダーである。そのことを私たちは忘れてはならないのです。

けれども、その使徒たちが、いまこのように、イエスさまの十字架の前の晩にまで、「だれがいちばん偉いか」などという情けない言い争いをしていたわけです。教会の弱さといいますか、人間がいかに罪人であるか、ということがここによく表しているわけですけれども、そのことに、私たちはがっかりしたり、反対に内心、ほっとするような思いがするわけすけですが、しかし、そのある意味ではマイナスの出来事をも用いて、イエスさまは彼らに、キリストの使徒として生きる、とは、どういうことであるか、という大事なことを、教えて下さったのです。

 そこでイエスさまがここで彼らにお教えになった世のリーダーたる使徒の姿、教会の姿というのは、世の王さまや、権力者たちのあり方とは全然違うのだ、ということです。王や権力者というのは、民を支配し、権力を振るい、そのことで国や民の「守護者」あるいは「保護者」と呼ばれたりしていました。もちろん、それは、自分たちのことを、そのように民衆に呼ばせていた、ということであるわけですが、イエスさまは、教会に生きる者、つまり使徒というのは。そうであってはならない、と言われるのです。そうではなく、むしろ「いちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」。と言われました。つまり、教会に生きる者、使徒は、人を支配し、権力を振るうのではなくて、反対に人に仕える者になること、それこそが教会の姿である、本当の意味でのリーダーのあり方なのだ、ということです。ただ、この仕える者になる、ということの本当の意味を、わたしは意外と知らない、といいますか、忘れてしまうことが多いように思います。教会でも、様々なかたちで、本当のよく奉仕をしてくださる方々がおられます。もちろん、それは心から感謝すべき大切な奉仕であります。しかし、そのような奉仕以上に、実は大切な奉仕といいますか、仕える、ということがあるのです。

 その「仕える者のようになる」ということの内容をさらにはっきりさせるために、イエスさまは「食事の席に着く人と給仕する者」というたとえを語ってくださいました、そして、「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と言われました。それは具体的にはどのようなことだったでしょうか。

そこで私たちが思い起こさなければならないのは、これは最後の晩餐における話だ、ということです。イエスさまと弟子たちは今、食卓に共についているのです。その食事は、最初に申しましたように「過越の食事」でした。

過越の出来事というのは、エジプト王ファラオが心を頑なにして、なかなかイスラエルの民を解放しようとしない、その中で、ついに、神さまが、エジプト中の、最初に生まれた男の子が、みんな死んでしまう、という大きな災いを起こされたのですが、そのさい、その災いがエジプトに住むイスラエルの民には下らないようにと、ある目印を、彼らにつけさせ、その目印のある家を、神さまの災いが通り過ぎた、という、そのような出来事のことです。神さまは、その日、イスラエルの民に命じて、各家で、小羊を屠り、その血が家の戸口に塗られせたのです。そのようにして、イスラエルの民は、災いを免れ、エジプトから解放されました。こうして、イスラエルではこの神さまの救いにみ業を記念して、小羊の肉やその他の定められたものを食べる過越の食事が定められたのです。


イエスさまは、十字架の死の前の晩に、弟子たちとこの過越の食事の席に着かれたのです。しかし、それは、イエスさまご自身によって用意された、特別な、全く新しい意味をもつ、過越の食事でした。イエスさまは、この食事の席で、22章の19節以下にありますように、パンと杯を取り、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃって、それらを弟子たちに分け与えられました。そのことを通して、人間を罪からの救い、神さまの子どもとして復活させてくださる、本当の過越を成し遂げてくださったのです。

つまり、イエスさまが弟子たちの中で給仕をする者であるというのは、単なる象徴的な物言いではなくて、私たちを罪から救うために、ご自身の命をささげてくださった、そのようなかたちで具体的に私たちに仕えてくださった、ということです。
ここにわたしたちが「仕える者になる」ということの本当に意味があります。わたしたちが隣人に仕える者として生きるというのは、何かボランティア活動をする、何か人の世話をする、もちろん、そういうことも大事なことですけれども、一番大事なことは、自分がイエスさまを通して罪を赦されている者なのだ、という、その喜びに生かされつつ、ほかの人もみな、そうなのだ、ほかの人もみな、イエスさまを通して、罪赦された者なのだ、と、そのことを受け入れて生きていく、ということなのです。

世の悲惨なニュースを見聞きするたびに、私たちの心は痛みます。そして、聖書の罪の赦しと、世の悲惨なニュースの間のギャップに苦しみます。あんなひどいことをした人がそんな簡単に赦されていいのか、と思ってしまいます。また、自分は確かに神の前に罪深い者である、そのことは認めるけれども、でもあんなひどいことをする罪人とは同じではない、と思ってしまいます。この問題は、確かに難しい問題です。

しかし、それでもやはり、イエスさまは、すべての人の罪を赦してくださるために、すべての人に仕えてくださったのです、イエスさまの愛はすべての人に開かれています。もちろん、その人が、その愛と赦しに与るためには、その人が、自分の罪を認め、心から悔い改めて、イエスさまを主とあがめ、神に立ち返るということが必要であります。悔い改めてはじめて人は、イエスさまの罪の赦しの恵みにあずかることができます。しかし、もし、その人が悔い改めるならば、その悔い改めへの道を、私たちは邪魔してはならないし、邪魔することはできない、むしろ反対に、そのような悔い改めの機会へとその人を導いていく、具体的には教会に招き、罪の告白と信仰告白へと導き、主にある救いと平安へと導く、それが、わたしたちが、神と人との仕える者として生きる、という上で一番大切にしなければならない務めなのです。

 28節でイエスさまは、弟子たちに向かって「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と言っておられます。そして、その弟子たちに29節で「だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる」という約束を語っておられます。この「支配権をゆだねる」とはどういうことか、それについては30節に、「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と説明されています。

様々な試練の中でもイエスさまと共に踏みとどまった弟子たちには、天の国での祝福と喜びが約束されている、ということです。けれども、よく考えてみますと、私たちは、イエスさまと弟子たちにとっての本当の試練はむしろこの後、イエスさまが逮捕されるときに襲って来ることを知っています。そして、そのとき弟子たちは、そこでイエスさまのもとに踏みとどまるどころか、みんなイエスさまを見捨てて逃げ去ってしまったということを知っているのです。

実際には、イエスさまのもとにだれも踏みとどまることなどできなかったのです。みなイエスさまを裏切ってしまうのです、この後の所に語られていくように、イエスなど知らないと言ってしまう、そういう弱く罪深い弟子たちなのです。しかし、イエスさまは、これから後の彼らの罪をも全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。

この世で起こる、俄かには赦しがたい、あの罪この罪も、すべてイエスさまは背負ってくださり、その罪をあがなってくださったのです。私たち一人一人の罪ももちろんそうです。そのようなイエスさまの恵みのみ業を繰り返し受け入れ、そこに留まり続けていく、そのときイエスさまは、わたしたちを、まことの教会として喜んでくださいます、教会とは自分の罪を認める者の交わりであり、そしてその罪をキリストに赦された恵みを知っている者の交わりなのです。そして、そのようなまことの教会に生きる私たちを、イエスさまは使徒として、そのようなイエスさまの深い救いの恵みを知らない、この世の人々のところに遣わしてくださり、その愛の御業のために仕える者として、用いて下さるのです。お祈りいたしましょう。

主なる神さま この朝は、仕える者になれ、という御言葉をいただきました、仕える者ということで、わたしたちは、様々な奉仕の業を思い描きますが、あなたの御子イエスが、わたしたちを罪から救ってくださるために、十字架のみ業を成し遂げてくださった、その主のみ業のうちに、わたしたちが仕える者として生きることの根本があることを覚え、感謝いたします。どうかわたしたちが、あなたに罪赦された恵みに生かされつつ、その喜びに満ちた命を、今、混迷を深める罪の世にある人々に伝え、人々を教会へと招き、悔い改めへと導いていく、そのような、まことの世の指導者として、仕える者として、生きていくことができますように、聖霊でわたしたちを満たし、守り、お導きください。主のみ名によって祈ります。アーメン
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聖霊降臨節第3主日礼拝 

2018年6月3日(日)ルカによる福音書 第22章14-23節
「主の食卓にあずかる」三ツ本武仁牧師

 今日の聖書箇所には、イエスさまが十字架の死の前夜、木曜日の晩に、弟子たちと共に食事の席に着かれたことが語られています。この食事の後、イエスさまと弟子たちはオリーブ山の「ゲツセマネ」と呼ばれる場所へ行って祈りの時をもちます。そのさなかに、イエスさまは逮捕されるのです。そして夜が明けると、ユダヤ人の最高法院による裁判、さらにローマの総督ピラトによる裁判が行われて、その日の内に十字架につけられてしまわれるのです。

ですから今日の場面は、イエスさまの十字架の死の前夜の、いわゆる「最後の晩餐」の場面です。その最後の晩餐は「過越の食事」でした。その意味については先週の礼拝においてお話ししましたが、ここでも簡単に確認しておきたいと思います。「過越」とは「通り過ぎる」という意味です。イスラエルの人々は、神さまが「通り過ぎる」という出来事によって実現した大いなる救いのみ業を記念して、過越祭を行なっていたのです。その救いとは、イエスさまの時代より遡ること1500年ほど前、エジプトで奴隷とされ、苦しめられていたイスラエルの民を、神様が解放し、エジプトから脱出させて下さったという救いです。

神様はモーセを遣わし、エジプト王ファラオにイスラエルの民の解放を要求させ、数々の災いによってご自分こそ神であられることをお示しになりました。しかし、ファラオは頑なにイスラエルの解放を拒否しました。そこで、最後に決定的な災いとして、エジプト中の初子、最初に生まれた男子が、人も家畜も皆死んでしまう、という災いを起こされたのです。他方で、それがなされた夜、神さまの命令によって、イスラエルの民の家では、小羊が殺され、その血が家の戸口に塗られました。その血が目印となって、初子を撃ち殺す主の使いはイスラエルの人々の家を何もせずに通り過ぎたのです。そして、イスラエルの民はついにエジプトから解放され、旅立つことができたのです。

この過越の出来事を記念するために、イスラエルの人々の間で、その出来事があった月をお正月として祝った、それが過越祭と除酵祭でした。そして、その中で食されたのが、過越の食事でした。私たちに日本人であればお正月におせち料理を食べるわけですが、イスラエルの人々は過越の食事を食べるのです。その食事は、小羊の肉や、酵母を入れないパンなどを、家族揃って、旅立ちの格好をして、食べるというものした。酵母を入れない、つまり発酵させずに焼いたパンを食べるというのも、過越の出来事によってエジプトから解放されたこの日に、生地を発酵させている暇もないくらい急いでパンを焼いて食べた、ということを記念しています。このように過越の食事は、エジプトの奴隷状態から解放して下さった主なる神様の救いのみ業を覚え、その神の民として歩むイスラエルの民の信仰の中心をなすものでした。

その過越の食事を、イエスさまは十字架の死の前夜、弟子たちと共になさったわけです。過越祭に過越の食事をするのはユダヤ人としては当たり前のことで、誰もがしたのです。しかし、今イエスさまが弟子たちを招かれたこの食事には、それ以上の特別な意味があったのです。15節で、イエスさまはこう言っておられます。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。この「切に願っていた」という言葉は原文においては、「熱望する」という言葉が二度繰り返されている珍しい形になっています。つまり尋常でない激しく強い願いを示す言い方です。その感じを出して訳すには、「切に切に願っていた」と「切に」を繰り返した方がよいのかもしれません。この過越の食事は、主イエスの強い強い願いによって行われているのです。

 イエスさまは弟子たちとこの過越の食事をすることを、なぜそんなに強く願われたのでしょうか。イエスさまは勿論、これが、十字架の出来事を前にした、弟子たちと一緒に取る最後の食事となることを知っておられました。ですから、これがその意味で、弟子たちとの最後の食事になる、ということは、あったでしょう。しかし、イエスさまの強い願いはそういうことから来たのではないのです。そのことが、この食事の席でのお言葉から察することができます。16節で、イエスさまは、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と、そう言っておられるのです。このことが、弟子たちと共に過越の食事をしたいと切に願っておられたことの理由なのです。

ただ、ではこのイエスさまのお言葉は、いったいどういう意味なのか。ちょっとわかりにくいかもしれません。そこで、次の17、18節を見ますと、そこにも同じような言い方が出てきていることに気付かされます。17、18節にこうあります。「そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい』」。

16節の方では、「神の国で過越が成し遂げられるまで」と言われていたことが、18節では「神の国が来るまで」と言い換えられています。神の国が来るというのは、神様による救いが完成することです。その救いの完成のことを、イエスさまは、「神の国で過越が成し遂げられる」と言い表しておられるのです。過越とは、先ほど見たように、エジプトの奴隷状態にあった民が、主なる神様の大いなるみ業によって解放され、救われたことを指し示していました。しかしイエスさまは、その過越が本当に成し遂げられるということは、じっさいにはまだなのだ、過越のみ業は本当にはまだ完成していないのだ、と言われているのです。それが成し遂げられ、完成されることによって、ついに神の国が来るのだ、といわれるのです。

イエスさまは弟子たちと共に、今やイスラエルの伝統となった「過越の食事」をとりつつ、その過越は、しかし、これから本当の意味で成し遂げられるのである、ということ、そして、そのときが、今や差し迫っているのだ、ということを、これらの言葉を通して、弟子たちに示しておられるのです。

そして、その過越の完成のために、イエスさまは今、十字架の死への道を歩もうとしておられるのです。イエスさまご自身が、過越の小羊が犠牲となって死ぬことによって、罪に支配され、その奴隷状態に陥っている全ての人間たちが、その支配から解放され、罪赦されて新しく生きることができるようになる、そういう本当の「過越」が成し遂げられるのです。

 イエスさまの十字架の苦しみと死とによって、つまり主イエスが過越の小羊として死んで下さることによって、今や完全な過越が成し遂げられ、神様による救いのみ業が実現しようとしています。その救いの恵みに弟子たちを、そして私たちをあずからせるために、イエスさまはこの過越の食事の席で、パンと杯を取り、それに特別な意味を持たせて分け与えて下さいました。それが19節以下に語られていることです。19節には「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」とあります。

イエスさまが裂き、分け与えて下さるこのパンは、「あなたがたのために与えられるわたしの体」と呼ばれています。それは、このパンそのものが、キリストのお体そのものになる、ということではありません。そうではなく、キリストが彼らのため、そして私たちのための過越の小羊としてご自分の体をささげて下さり、十字架にかかって死んで下さった、そのようにしてキリストが私たちの救いのためにささげて下さった体に、このパンを食べることによってあずかり、その救いの恵みをいただく、ということです。そのようなパンを、主イエスは弟子たちに与えて下さったのです。

 また20節にはこうあります。「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」。この杯はぶどう酒の杯です。そのぶどう酒が、「あなたがたのために流される、わたしの血」という特別な意味を与えられています。この「あなたがたのために流される」も先ほどの「あなたがたのために与えられる」と同じ意味で使われています。主イエスの血が、罪に支配されてしまっているわたしたち人間の救いのために流されるのです。過越の小羊の血が目印となってイスラエルの民の初子の命が守られ、エジプトからの解放が実現したように、イエスさまが十字架にかかって血を流して死んで下さることによって、罪の支配からの解放、赦しという救いが実現するのです。この杯を飲むことによって、私たちはその救いにあずかることができるのです。

 このようにイエスさまは、十字架の死の前の晩のこの過越の食事において、ご自分の体であるパンと、ご自分の血である杯とからなる食卓を整え、弟子たちを招いて、それにあずからせて下さいました。そして19節の終わりにあるように、「わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃいました。ここでは、その言葉はパンにおいてのみ語られていますが、杯においても同じことが語られたことをパウロはその手紙の中で伝えています。イエスさまは、弟子たちに、ご自分の体と血とにあずかる主の食卓にこれからもずっとあずかり続けていくようにとお命じになったのです。イエスさまが定めて下さったこの食卓にあずかり、イエスさまを記念し続けることによって、彼らは、主イエスの十字架の死によって実現する過越の完成の恵みにあずかり、罪を赦され、その支配から解放されて神様の民として生きていくことができるのです。

ここに、私たちが礼拝においてあずかっている聖餐の起源があるのです。弟子たちのために過越の食事を準備し、そこに彼らを招き、そしてご自分の十字架の死による過越の完成にあずからせるためにパンと杯を聖別して与えて下さったイエスさまが、今、私たちをも、その主の食卓へと招いて下さっています。その招きは、イエスさまが命がけで打ち立てて下さった新しい契約への招きでもあります。私たちはこの招きにきちんと応えなければなりません。きちんと応えるというのは、清く正しい立派な人間になることではありません。むしろ、自分が招かれるに相応しくない罪人であることをわきまえることです。この「罪人であることをわきまえる」ことこそが、聖餐にあずかるのに「ふさわしいものになる」ということです。罪人である私のために、イエスさまがまことの過越の小羊となって、私たち全ての罪を引き受けて十字架にかかって死んで下さったのです。このイエスさまの死に免じて、神様はこの私たちの罪を赦し、新しい神の民として生きることへと招いて下さっているのです。

 この招きに応えて、洗礼を受け、主イエスによる救いの恵みを告げるみ言葉を毎週新たに聞きつつ、イエスさまの父である神様を礼拝し、そして、その恵みの中で主の食卓に共につき、イエスさまの十字架の死による過越の完成の恵みを味わいつつ生きること、それが私たちの信仰生活の中心なのです。・・・さきほどは旧来の過越の食事と、日本のおせち料理とを重ねて考えましたけれども、考えてみれば、この二つは、イスラエルはどちらかというと質素で、日本のほうは、華やかという印象の違いはありますが、どちらの場合も目出度いといいますか、その意味するところは新年の喜びと感謝と、祝福を願うというところにとどまっているわけです。しかし、イエスさまが招いて下さった食卓には、私たちを罪の自覚へと導きつつ、その罪をイエスさまご自身の命を通して、赦していただいた、という、そういう、ただ喜びとか感謝というだけでは済まされない、自分自身の生き方を問われる、深い意味がこめられている、そしてそこにこそ、本当の意味での新しい出発がある、ということが示されているといえるでしょう。
また、聖餐にあずかる、主の食卓に共にあずかる、というところに、私たちの教会における交わりの土台、基礎があります。教会における兄弟姉妹の交わりは、世間のそれとは基礎が違います。私たちは、お互いよく知っているから、親しいから、気が合うから交わりを持っているのではありません。そういうことが私たちの交わりを成り立たせているのではないのです。

教会には様々の人々が集まっています。人それぞれ様々な違い、個性がありますし、それぞれ皆罪人であり、弱さや欠けのある人間です。だから気が合わなかったり、意見が食い違ったりすることもあります。しかし、そういうことが私たちの交わりを成り立たなくするのではないのです。私たちの交わりの絆、それは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しという神様の救いのみ業です。目に見えることとしては、主の食卓に招かれ、共に聖餐にあずかっている、という事実です。教会とは、主の食卓に共にあずかる群れなのです。私たちがこの食卓に着こうと思ったのではありません。イエスさまご自身が、私たちを聖餐の食卓に招こうと、切に切に願って下さったのです。そのために十字架にかかり、命を注いで下さったのです。このイエスさまの命がけの恵みによって聖餐に共にあずかる者とされた私たちは、私たちの親しさや疎遠さ、気が合うとか合わないとか、仲が良いとか悪いとか、それらのことを乗り越えて一つとされるのです。主の食卓にあずかる群れとしての交わりを、ここに集っている者どうしの間に、主の導きによって築いていくことが、私たちに与えられている恵みに満ちた課題なのです。お祈りいたしましょう。

 主なる神さま 御子イエスが、命がけの恵みによって聖餐に、まことの過越の食事に、わたしたちを招いてくださり、私たちを縛り、束縛している罪からの解放を与えてくださり、あなたを賛美して生きる、本当の自由と平安を、わたしたちに回復してくださいましたことを感謝いたします。主よ、どうか、そのような恵みにあずかる私たち教会の群れが、あなたのその救いの恵みを中心とした、豊かな交わりを築いていくことができますように、一人でも多くの人を、この主にある平和の交わりに迎え入れることができますように、聖霊の働きが、わたしたちのうちにあって、わたしたちを守り導いてくださいますように、主のみ名によって願い、祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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ペンテコステ合同礼拝 

2018年5月20日 使徒言行録、第2章 1節-13節 ローマ8章26―28節
「聖霊によって新しく生きる」三ツ本武仁牧師

 今日の聖書箇所には、世界で最初に聖霊がくださった時のことが記されています。
 そのことは、「五旬祭の日」に起こったと1節にあります。「五旬祭」という言葉が、この新約聖書が最初に書かれた言葉、ギリシア語で「ペンテコステ」というのです。それはもともと「五十日目」という意味です。「旬」という言葉は、上旬中旬下旬の旬ですから十日という意味です。ですから五旬祭というのは、五十日目の祭という意味になります。何から五十日目かというと、それはユダヤ人にとっては「過越の祭」から、ということですが、それは同時に、イエスさまがご復活された日イースターから50日目ということです。それは、復活されたイエスさまが40日目に天に戻られた、それから10日目にあたります。その日に、イエスさまが約束されたこと、わたしは去っていくけれども、代わりに聖霊を送る、といわれた、そのことが成就したのです。聖霊は、いまは目に見えないけれども、確かに生きておられ、天から、神の世界から、わたしたちを見守っておられるイエスさまと同じひとりの神さまなのです。

 さあ、そこでその五旬祭の日に、聖霊が降ってきたとき、何が起ったのでしょうか。2節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。聖霊、神様の霊はしばしば風になぞらえられます。風は日本語でも、新しい出来事が起こることを象徴して用いられる言葉です。「新しい風が吹く、風向きが変わる」などといいます。神様の霊、聖霊が、新しい風として吹きつけ、弟子たちに出来事を起し、彼らを新しくした、それがペンテコステに起こったことです。

 聖霊の風は弟子たちにどのような新しい出来事を起したのでしょうか。3節には「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。今度は「炎のような舌」です。炎、それは聖書において、神様が人間にご自身を示し、人間と関わりを持とうとされる時に現れるものとして出てきます。神様と出会い、関わりを持つことは、人間の側から起こる、というようなことではありません。それは炎によって焼き尽くされるように、神さまからの一方的な働きかけによって起こるのです。神様からの炎に焼かれるような体験の中で、私たちは神様との出会いを与えられる、といってもいいでしょう。それは、どういうことでしょうか。それは、人によっていろいろとあると思います。ふとした瞬間そういう事が起こる人もいます。何か信じられない出来事を経験してそれが起こる人もいます。また自分自身や、誰か大切な人の生死に関わる経験の中で、そういうことが起こる人もいます。しかしその根本において大事なことは、何か自分の小さな、弱さ、自分の限界を深く知るような、そういう体験の中で、しかし、それでもなお、そのような自分を愛し、新しく生かし、用いてくださる神さまと出会うということです。そのことによって私たちは、それまでの自分が、炎によって焼き尽くされるとともに、新しい自分へと変えられていくのです。

 それからここで「舌」という言葉が用いられていることにも意味があります。聖書において「舌」は語ることとの関連で出てきます。「炎のような舌」というのはどういうものか、イメージがわきにくいですが、これによって語られているのは、神様からの炎が、弟子たち一人一人に、舌となって、つまり「語る」力として与えられたということでしょう。それゆえに、4節には「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と言われているのです。聖霊の風が吹き来たり、神様の炎に焼き焦されて、弟子たちは新しく生かされていった、それは、言葉を語る者としてです。聖霊に満たされた者は、「霊が語らせるままに」語り出すのです。ペンテコステの出来事において弟子たちに降った聖霊は、彼らに新しい舌、新しい言葉を与え、語る力を与えたのです。

 では彼らはどんな言葉を語ったのでしょうか。それは第一に「ほかの国々の言葉」だったといいます。5節以下にそのことが語られていきます。このとき、エルサレムには、あらゆる国から帰って来たユダヤ人たちが住んでいました、その人々が、「自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」のです。ユダヤ人は当時、既に、あらゆる国に散らされて住んでいました。彼らは世界のどこにでも移り住み、その土地の人々と交流を持ち、そこの土地の言葉を語りながら、しかし、他の国々の神さまを信じることなく、その信仰は、しっかりと、主なる神さまを信じて生きていました。そのような人々が、五旬祭のための戻ってきていたのです。その人々が、イエスさまの弟子たちから、自分の生まれ故郷の言葉を聞いたのです。全く異なる様々な言葉が、この時、聖霊の働きを受けた弟子たちによって語られたのです。彼らは、これまで、そんな外国語の勉強をしたわけでもなく、ましてや、それを話せるような能力などなかった人たちです。7節に、「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか』」とあるように、彼らは皆、イエスさまについてきたガリラヤの田舎の人々、例えば漁師だったりした、そういう普通の人々です。そういう弟子たちが、学んだこともない外国語を突然しゃべり出した、そういう奇跡が起った、というのです。

 しかし、これはいまの私たちにとっては大変羨ましいことですけれども、この奇跡そのものが重要だったのではないのです。じっさい、この奇跡はこの時のみの、一時的なものでした。この後、弟子たちが、それぞれしゃべれるようになった外国語を駆使してそれぞれの国で伝道していった、ということは聖書には語られていないのです。
 
 ペンテコステの日に起った出来事、聖霊が降ったことによって弟子たちに与えられた奇跡の中心、それは、いろいろな外国語でしゃべり出したことではありません。ここで起ったことの中心、それは、彼らが、「神の偉大な業」を語り始めた、ということです、そしてそれが、外国の人々、自分たちとは違う人々に伝わっていったということです。「神の偉大な業」とはなんでしょうか、それは、神様が、その独り子イエス・キリストを私たちの救い主としてこの世に遣わして下さったこと、そのイエスさまが私たちと同じ人間としてこの地上を歩んで下さり、そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったこと、そして、イエスさまの十字架の死によって、父なる神様が、私たちの罪を赦して下さり、私たちを神の子として改めて受け入れて下さったこと、さらには、イエスさまを死者の中から復活させて下さり、イエスさまを復活の命に生かしてくださるとともに、私たちにも、そのイエスさまと同じ、復活の命、永遠の命を約束して下さったこと、・・・このイエスさまにおいてなされた一連の出来事こそが、「神様の偉大な業」にほかなりません。神さまがイエスさまを通して私たち全ての者のためになしてくださった、このような大きな愛のご計画を、弟子たちは、聖霊を受けることによって、堂々と人々に語り始め、それを証しする者とされていったのです。

 その言葉を人々に理解させ、それが、真実だと分からせて下さのも聖霊の働きであります。いろいろな国から来た人々が、それぞれの国語で「神の偉大な業」が語られるのを聞いて驚いた、それは、弟子たちに聖霊が働いて、彼らにいろいろな言葉を語れるようにした、ということ以上に、その人々にも聖霊が働いて、弟子たちの語る言葉の意味、つまり、イエス・キリストに示された、神の偉大なみ業が、理解できるようになったからなのです。聖霊は、語る者にも聞く者にも働きます。それによって、主イエス・キリストの福音が、喜ばしい救いの知らせが、伝えられ、受け取られるのです。教会が生まれたというのは、そのような聖霊の働きが開始されたということです。そしてその聖霊の働きは、今も、私たちにおいても、同じように与えられているのです。

 私たちが、先輩の信仰者たちや家族の語る言葉、証しを聞いて、主イエス・キリストを信じて信仰者になった、そこにこの聖霊の働きがありました。そして今私たちが人々に主イエス・キリストのことを、その救いの恵みを証しし、語っていく、そこにまた聖霊が働いて下さり、またそれを聞く人々にも聖霊が働いて下さって、信仰が伝わっていくのです。伝道がなされていくのです。聖霊が働きかけて下さらなければ、どんな言葉が語られても、伝わってはいきません。信仰が生まれてはいきません。そのことが、このペンテコステの日にも起ったことが最後の13節に示されています。「しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」。同じように弟子たちの言葉を聞いた人の中に、「神の偉大な業が語られている」と思った人もいれば、「あれは酔っ払いのたわ言だ」と思った人もいたのです。同じことは今も起ります。どんな言葉、どんな証し、どんな説教を聞いても、聖霊の働きがなければ、そこに語られている福音は、信仰は伝わらないのです。しかし聖霊が働いて下さるなら、人間的などんな違いも問題ではありません。言葉や文化や生活習慣がどんなに違っていても、その違いが乗り越えられて、神の偉大な業が伝わっていき、私たちを一つとして下さる神様のみ業が実現するのです。

 先日の新聞に、ある中年の男性が、肝臓がんを告知されて、自暴自棄になってしまい、会社もやめてしまった、ということで記事になっていました。私たちの人生には、「まさか」という出来事が起こります。それが自分にとってよい「まさか」ならいいでしょうけれども、自分にとって都合のわるい「まさか」も、起こってくるのです。そのようなとき、わたしたちは、希望を失い、不安になり、どうしてよいかわかなくなってしまいます。けれども、その人は、そのあと、ある出来事をきかっけに立ち直り、ちゃんと治療を受け、再就職をしていかれたそうです。

 この人をそのように立ち直らせた出来事、それは、今年の3月に25歳という若さで、癌のために天に召されたある女性の生きる姿に触れたことにありました。神戸市に住んでおられたYさんという女性ですが、Yさんはがんのため19歳で「余命半年」と宣告されるのですが、闘病しながら、自分の体験を語る講演会をしたり、「今を生きる」というタイトルのブログを立ち上げて、自分の日々の生活を世界に発信したり、大学時代に知り合い、結婚した方と一緒に旅行に行ったりと積極的に生きておられました。

 そのYさんが講演のなかで、よく引用されたのが聖書の言葉だったそうです。「万事が益となるように共に働く」という、わたしたち香里教会の昨年度の年間標語聖句であった言葉を、Yさんは講演のなかでよく引用されました。正直にいえば、「なぜ自分が」と泣き叫んだり、物に当たったりすることも多々あったということですが、最後には、この聖書の言葉にあるように、今の苦しみも必ず、将来のプラスにつながっていくと信じ、前向きに生きている、とその講演の中で語られていたのです。

 最初の、肝臓がんを患い、自暴自棄になった男性は、このYさんのことを知って、立ち直っていかれました。聖書の言葉が、Yさんを支え、そして、そのYさんの姿が、同じような苦難のなかにある世の人に生きる希望を与えたのです。わたしは、これこそは聖霊のはたらきだと思わされました。そして、そのような話をいまこうして、わたしに、みなさんに語らせているのも、聖霊のはたらきだと思います。聖霊は、わたしたちに生きる希望を与えてくださいます。神さまが、イエス・キリストを通し、愛のうちにわたしたちをこの世に生かし、また愛をもって最後まで守り導いてくださる、そのような神さまの愛のご計画を、わたしたちに伝えてくださるのです。

 教会はこの聖霊のお働きによって生まれ、今もそのお働きによって、歩んでいます。私たちはその聖霊のお働きを、聖霊の風を、祈り求めていきたいのです。つまり私たち一人一人が、主イエス・キリストによる神の偉大な救いのみ業を語る者とされることを、主イエスの証人とされることを求めていきたいのです。私たち一人一人がそれを願い求めて祈りを合わせていくところに、生き生きとした伝道がなされていきます。聖霊が降り、教会が最初に誕生したペンテコステの出来事をしっかりと見つめ、その聖霊が今私たちにも豊かに働いて下さることを信じて祈り求めつつ、歩んでいきたいと思います。 祈りましょう。

 聖霊なる神よ、あなたがいまも生きて働いておられ、教会を導いてくださっていることを覚え、感謝いたします。あなたは、わたしたちを、主の福音の伝道のために用いてくださいます。どうかいま、わたしたちのうちにあなたが、吹き来たりて、わたしたちを教会のさらなる前進のために用いてくださいますように、主のみ名によって願い祈ります、アーメン

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復活節第7主日礼拝 

2018年5月13日(日) ルカ 第21章29-38節
「み言葉に目覚めて祈れ」三ツ本武仁牧師

 今日は母の日です。そこで、みなさんまず心を静めて、自分のお母さんのことを思い起こしてください。そして、お母さんに向かってありがとうと心の中で言ってみてください。また、もし母親との関係がこじれてしまった人がありましたら、いま心の中でお母さんを赦します、と言ってみてください。母の日は教会の中で最初に守られました。わたしたちを愛し、わたしたちの罪を赦してくださった、キリストの十字架を仰ぎつつ守られたのです。そこに大きな意味があります。母との関係は私たちに人間関係の基礎だと言えます。そこに感謝と赦しをもって向き合うことができるか、それはとても需要なことだといえます。

 さて、本日の聖書箇所ではまず、イエスさまは、「いちじくの木」、そして、「ほかのすべての木」を念頭に置かれて、それらの木の葉が出始めれば夏が近いことがおのずと分かるだろう、ということを語りかけておられます。じっさい、いまちょうど私たちは、夏が近づいてきている、そういう季節に生きています。確かに、このあいだみなさんと一緒に会堂内外の清掃をしまして、私はたまたま駐車場側のいちじくの木のあたりの草むしりをしたのですけれども、冬には、葉っぱ一つなかったいちじくの木が、最近あっと言う間に、大きな緑の葉をつけはじめたので驚いていました。ああ、夏が近いのだな、と確かに感じたのであります。

 木の姿から、季節の移り変わりを感じる。これは、私たち日本人が最も得意としている感覚でしょう。それはそれで、美しいことであり、日本人として大切にしていきたい感性でありますけれども、しかし、ここでイエスさまがお語りになっているのは、あくまでも、「たとえ」であります。イエスさまは、ここで31節にありますように「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」ということを、語るために、このようなことを言われたのです。

 「これらのこと」とはなんでしょうか。それはこの21章でずっとイエスさまが語ってこられた、様々な恐ろしい出来事や迫害、世の終わりに向けての歩みの中で私たちが必ず体験する苦しみや悲しみのことです。これらのことが起こるのを見る時、私たちは、脅え、恐れ、うろたえて右往左往してしまいます。しかし、そのような私たちにイエスさまは、葉が茂ってきたら夏が近いのを知るのと同じように、これらのことが起こるのを見たら、むしろ「神の国が近づいている」と悟りなさい、とおっしゃるのです。

 神の国、それは神様のご支配という意味です。神さまの愛のご支配です。この世界は、最後には、イエスさまが再び来られて、その神さまの愛のご支配を完成させて終わっていく。わたしたち一人ひとりの人生もそうです。最後には、イエスさまが手をとって、私たちが愛のみ国へと導いていってくださるのです。

 つまり、イエスさまがこのたとえによって語っておられるのは、「これらのこと」つまりこの世における、様々な苦しみや悲しみの中にある時こそ、しかし、それで、この世界が、またわたしたち一人一人の人生が終わってしまうのではなくて、必ず、主が救ってくださり、愛の国へと導いてくださる、そのことこそが近づいていることを覚えて、身を起こして、頭を上げて、心を高くあげて、信仰の戦いを戦い抜きなさい、与えられた道をあゆみ通していきなさい、ということなのです。

 32節には、「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」とあります。「この時代」は、「この世」と言い換えてもよいでしょう。この時代、つまりこの世が滅び、終わるのは、これらの恐ろしい出来事によってではなくて、イエスさまの再臨によってなのだ、ということが、ここでも再び繰り返されているのです。

 そしてそれを受けて次の33節が語られています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。このみ言葉によってイエスさまは、身を起こして頭を上げ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜きなさいという勧めの最も根本的な根拠を示しておられるのです。イエスさまは、ご自分の再臨の時まではこの時代は滅びない、この世が終わることはない、と言っておられるわけですが、それは逆に言えば、イエスさまの再臨によってこの世は終わり、天地は滅びる、ということです。

 私たち、特に日本人は、人間の営みは滅びていっても、天と地は滅びることがない、という感覚を持っているのではないでしょうか。「国破れて山河あり」と歌われているように、国に代表される人間の営みは失敗し、挫折し、滅びることがあるが、山や川、天地自然は存続していく、そのことによってある慰めを得る、という感覚があります。しかし、このイエスさまのみ言葉は、その最も磐石であり、これだけは滅びることがないと思われている天地も、いつか滅びていくのだ、ということを語っています。人間の営みだけが滅びて終わるのではない、自然を含めたこの世界全体も、いつか滅びて、終わるものなのです。しかし、一つだけ滅びることのないものがある、それは「わたしの言葉」だとイエスさまは言われるのです。

 イエスさまご自身が、「神様のみ言葉」であるとも聖書は言います。神さまの御言葉、それは、神さまの御心であります。では、イエス様に示された、イエスさまに受肉した、神さまの言葉、御心はなんでしょうか。それは、その独り子イエス・キリストを私たち罪人のための救い主としてこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって、罪の赦しを与えて下さるというみ心であり、また、イエスさまを復活させ、わたしたちにも復活の命を約束してくださり、私たちの救いを完成して下さる、というみ心です。この神様のみ心、ご意志を告げるみ言葉を信じるがゆえに私たちは「天地は滅びる」ということを受け止めることができるのです。

 そして、それゆえにこそ、そこへと向かう中で起る、この世の様々な苦難の現実の中でも、身を起こして頭を上げ、心を高くあげて、歩んでいくことができるのです。

 この信仰に生きるためのもう一つの勧めが34節以下に語られています。34節には先ず、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」とあります。心が鈍くならないように、という警告です。心が鈍くなる、鈍感になる、それは、今申しましたこととの関係で言えば、神様のみ言葉に対する感覚が鈍ることです。天地は滅びるが、神様のみ言葉は決して滅びない、ということを見失い、神様のみ言葉よりも天地の方が、つまりこの世の中で盤石に見えるものの方が滅びないもの、頼りがいのあるものであるように思ってしまうことです。

 その結果どうなるかが34節の続きから35節にかけてです。「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」。わたしたちの人生には、安全な平らの道や、上り坂ばかりじゃない、それとは反対の下り坂も多い、いや、じっさいにもっとも多いのは、柏木哲夫先生の表現を借りるならば、「まさか」という坂なのではないでしょうか。そんなはずがない、そんなこと起こるわけがない、という「まさか」という坂に、わたしたちはどれだけ翻弄されて生きていることでしょうか。「天地が滅びる」それもまた、わたしたちにとって「まさか」という坂であります。しかし、自分の人生にこれまでどれほど「まさか」ということがあったか、ということを思い返してみますとき、イエスさまのお言葉は、やはり真実として受け止めなければならない、と思うのです。

 けれども、そこでイエスさまが言われているのは、天地が滅びる、それで世は終わりだ、ということではないのです。天地は滅びる、かたちあるものはいつか滅びる、しかし、それでもなお滅びないものがあるのだ、ということ、神の御言葉、イエス・キリストに示された救いの御心は、滅びないのだ、ということ、そのことをしっかりと見据えて生きていくこと、そのような信仰、そのような感性を、自分のうちに養っていくこと、そのことをこそ、イエスさまは求めておられるのです。

 そのような信仰、そのような感性を鈍らせてはならない。しかし、それらを鈍らせてしまうものがある。それは「放縦や深酒や生活の煩い」だとイエスさまは言われるのです。「深酒」と聴いて、耳が痛いと思われている方もおられるかもしれません。ただし、ここで言われていることが、具体的に何を指すのかは、人によって様々だといえるのではないでしょうか。もちろん、文字通り「放縦や深酒や生活の煩い」に囚われることが、信仰の感性を鈍らせる、ということは十分考えられることですが、この世を生きていく中で私たちが捉えられ、はまり込み、陥るあるものが、神様のみ言葉に信頼して生きる信仰の心を鈍らせていくなら、たとえそれが倫理的に特に問題がないものであったとしても、それらはやはり、「放縦や深酒や生活の煩い」に当るものだと考えるべきではないでしょうか。

 そこで36節には、「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」とあります。

 罪の赦しを与えて下さるという主のみ言葉を信じて、人の子主イエスの前に、イエスさまを信じる者として立つこと、それこそが私たちの救いです。世の終わりの、イエスさまの再臨の時に、そのようにイエスさまを信じる者としてみ前に立つことができることをこそ、私たちは求めていかなければならないのです。主イエス・キリストは、今まさに、私たちがご自分の前に立つことを求めておられるのです。いや、求めていると言うよりも、私たちをいま、ここで招いて下さっているのです。その招きに答えて生きる、それは、今の私たちの決断にかかっています。

 その決断のための勧めが、「いつも目を覚まして祈りなさい」ということです。「目を覚まして」ということは、眠り込まないでということです。心が眠り込んでしまう、それは先ほどの、心が鈍くなるのと同じことです。神様のみ言葉に対する鋭い感覚が失われて、み言葉にこそ信頼するのでなく、この世の事柄、この時代を支配している力に目を奪われていくことです。そうなると、この世の事柄にはいつも目を覚ましていて、敏感に反応するのに、神様のみ言葉には全く反応しない、それによって心を動かされることがなく、変えられることがない、という眠り込んだ状態になります。

 そうならないために必要なことは祈ることです。祈るというのは、神様、イエスさまのみ前に立ち、目の前におられる神様、イエスさまに向かって語りかけることです。またそれ以上に大切なのは、神さま、イエスさまのみ声に耳を傾ける、ということです。自分の生活の中にそういう時を持つ、そのことによってこそ、私たちは今生きている日々の生活において、イエスの前に立つ決断をしていくことができるのです。つまり祈ることこそ、イエスさまの、み前に立つということなのです。ぜひ、みなさん祈ってください。祈ることなしに信仰は成り立たない。祈っていることこそが、信仰において目を覚ましていることなのです。目を覚まして祈り、いつも主イエスのみ前に立ちつつ生きることによってこそ、私たちは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」というみ言葉を信じて、苦しみの中でも身を起こして頭を上げ、主イエスの再臨に極まる、神さまの愛のご計画を信じ、待ち望みつつ、私たちに与えてられた信仰の闘いを、最後まで忍耐して戦い抜いていくことができます。

 今日は礼拝のあとにサムエル会がもられます。思えばサムエルも「主よ、お語りください、僕は聴いております」という、そういう祈りの人でありましたが、思い起こせば、その母ハンナもまた、深い祈りの人でした。今日は母の日でもあります。世の母親は様々に子供のことで苦労して生きていきます。サムエルの母、ハンナの場合は、そもそものこどもが与えられないというところから、苦しみ悲しみを経験しましたけれども、そのなかでハンナは、一人神の前に祈り続けたのです。神の御声に耳を傾け続けたのです。その母の祈りによって、この世に生を受けたのがサムエルであります。そして、その後のサムエルの人生は、母ハンナの祈りによって支え導かれていったのです。

 母の祈りに支えられ、生かされてきた、そのことへの気づきが、サムエルに与えた影響は決して小さくはなかったでしょう。祈りの力はじっさい非常に大きいのです。科学を持ち出す必要はないかもしれませんが、科学的にもいまやそれは証明されているのです。しかし、もちろん、その祈りは真実の祈りでなければ意味がありません、真実の祈りとはなんでしょうか、それは、この天地は滅びても、永遠に滅びることのない、神の言葉、イエス・キリストに示された神の御心に、向けられた祈りであります。その祈りには大きな力があるのです。そのような祈りを、日に影に、母や父に、あるいは、信仰の諸先輩にしていただいてきた者として、わたしたちもまた、そのような祈りに目覚めて生きていきたいと願います。祈りましょう。

 主よ、どうかわたしたちを、この世の何が変わろうとも、この世の何が滅びようとも、変わらない、滅びることなく、永遠に、わたしたちを支え、導いてくださるあなたの御言葉に目覚めて、あなたに心を向かって祈り続けるものとならせてください。また今日は母の日でありますが、いまは天国にいる信仰の母にも、地上にある信仰の母にも、わたしたちはみな様々に祈り支えていただいたことを覚え、感謝し、この祈りを、主のみ名によって、み前におささげいたします。アーメン

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復活節第6主日礼拝 

2018年5月6日(日)ルカ21章20-28節
「心を高くあげよ」三ツ本武仁牧師

 今日は世間ではゴールデンウィークの最終日であります。私たち大阪教区の牧師は、そのゴールデンウィークに楽しそうにどこかへ出かけていく家族連れを横目で、羨ましそうに見ながら電車に乗って、大阪女学院のチャペルで、まる二日間かけての教区総会をして参りました。懐かしい先生方にお会いでき、また前回お話しました婦人会連合の強烈なみなさんともお会いしまして、また総会では、いろいろと大切な議論をし、決議をすることができて、大変有意義であったと思います。

 さて、今日の聖書箇所の冒頭には、「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」とのイエスさまのお言葉が語られていました。軍隊に囲まれるという状況は、今の私たちにはにわかに想像し難いことです。ただ、先日もたれました教区総会でしばしば話題になったことですけれども、沖縄の人々は、ある意味で軍隊に囲まれた状況で不安な生活をしている、アメリカ軍の戦闘機の騒音や落下物の不安の中で暮らしている、そういうことは言えるかもしれません、

 そのような危険な、危機的状況にあることを想定したとき、このイエスさまのお言葉は、至極当然のことのように思われるかもしれません。たとえば、どこかで火事があった、ホテルや、家が火事になった、というとき、私たちは、その中から立ち退き、その場所から逃げ、その外にいれば、わざわざその中に入る、などということはしないのであります。

 けれども、このイエスさまのお言葉を聞いた人々は、当たり前じゃないか、とは思わなかったのです。大変驚いたのです。そんなことあってよいのだろうか、と思ったのです。といいのも、当時、戦争の最終段階はその国の首都をめぐる戦いでした。それを攻め滅ぼすことが戦争の勝利であり、負けた国はそれによって滅亡したのです。そして当時のこの地域の都市というのは全て城壁を巡らした要塞でした。城壁によって敵の襲来から守られた地域が都市だったのです。

 ですから、普段城壁の外で畑を耕したりして働き、暮らしている人々も、いざ戦争になると城壁の中へと避難するのが普通でした。そしてその城壁の中に立て籠って敵の攻撃に耐え、あきらめるのを待つか、あるいは他国の援軍を待つという籠城戦がしばしばなされたのです。つまりここに語られている「山に逃げなさい」とか「都に入ってはならない」というのは、当時としては決して常識とは言えないのです。それに加えて、エルサレムには特殊な事情がありました。それは、神殿の存在です。

 天地の全てをお創りになり、イスラエルの民を選んでご自分の民とし、守り導いておられる万軍の主なる神様の神殿がここにはあると、彼らは考えていたのです。つまり、エルサレムは神様の町だと信じられていたのです。そのエルサレムが陥落し滅びるようなことがあるはずはない、という思いが人々の中にありました。だから、エルサレムの市内にいれば安心だ、と多くの人は思っていたし、神殿の祭司たちもそのように教えていたのです。

 じっさいこのあと、紀元70年にエルサレムがいよいよ陥落する時にも、神殿にいれば大丈夫だ、と言った人がいました、それで、多くの人々が神殿に逃げ込み、そして焼け落ちる神殿と共に死んでいったのです。

 エルサレムの町と神殿とがそのように、敵に攻められ滅亡の危機に瀕した人々にとっての最後の拠り所となっていたし、当時の宗教指導者たちはそのように語っていたのです。それはエリサレムだけの問題ではない、と思うのです。そういうことは私たちの国も経験してきたのではないでしょうか。太平洋戦争の末期、海軍はもうお手上げ状態でしたが、陸軍は本土決戦を叫びました。本土決戦というのは一種の籠城戦です。その背後には、大日本帝国は神の国であり絶対に負けるはずがない、という信仰があったのです。そしてそのなかで、特に沖縄の人々、また広島、長崎の人々は、大きな犠牲を強いられました。それと同じようなことがエルサレムの滅亡においても起ったのです。

 しかし、イエスさまは、エルサレムは滅び、神殿は徹底的に破壊される、だから、町に逃れるのではなくて、山に逃げよ、とおっしゃいました、それは、たとえば戦中の日本で、お国を捨てて逃げるなんて非国民だ、と言われた、それに逆らってでも生きよ、命あっての物種だ、という、ことではないのです。ここで、危険が迫るなか、エルサレムから離れて逃げよ、と言われる、そのイエスさまのお心は、あなたがたが救われる道は、エルサレムやその神殿にそもそもあるのではない、むしろ、今や、そこから離れ、新しく出発することにこそあるのだ、ということなのです。エルサレムが滅亡し、神殿が破壊されても、それで全てがおしまいになり、世の終わりが来るのではない、その先になお、あなたがたが生きる道があるのだ、ということです。

 具体的にいえば、それまでは確かに、神の民の信仰の歩みのために、エルサレムという都が用いられ、その神殿が用いられてきたわけですが、いまイエス・キリストが来られたことによって、その使命は終わり、神の民の新しい歴史が、神様ご自身によって新しく開かれたのです。イエス・キリストによって、神の民の歩みは、そして、そこで行われる礼拝は、まったく新しくされたのです。神さまは、それまで、すべての民族の救いのために、ユダヤ人を選び、その神殿における、動物の犠牲を捧げる礼拝を礼拝として認めてこられましたが、そのような選びも、そのような動物を犠牲とする礼拝の時代も、イエス・キリストの到来によって終わったのです。

 それは、ユダヤ人を神さまが捨てられたのではありません、そうではなく、神さまは、これまでのその歴史を担ってきたユダヤ人を尊重しつつ、そのユダヤ人としてこの世に送られた、罪なき、ご自分の独り子、イエス・キリストの命を、ユダヤ人を含めたすべての民族、すべての人々の救いための、ただ一回のまことの犠牲として、お受けになる、そのような新しい礼拝の時代を始められたのです。

 イエス・キリストの命を通して、その十字架と復活において、多種多様なすべての人が一つとされる、本日行われます聖餐も、そのイエス・キリストの恵みを記念するものであります、いまも生きて働いておられるイエス・キリストが、いまもわたしたちと共にいてくださり、聖霊がわたしたちを、導いてくださっていることを、わたしたちは聖餐において繰り返し確認し、新しく出発する力をいただくのです。

 その意味で、わたしたちもまた、教会というものを、昔のエルサレム神殿のようにしてはならないのです。教会の意味、その交わりの意味を見失ってはならないのです。私たちの信仰の歩みにおいて、いったい何が救いをもたらす根本であるのか、それをしっかり見極めていくことが大切です。そうしないと、こだわるべきでないところにこだわり、しがみつくべきでないものにしがみついて、そこから、神の導きに従って、逃げ出すことが、つまり、新しく出発することができなくなってしまうのです。香里教会も来年70周年をむかえるわけですが、変えてはならない信仰の中心的なものは大切にしつつ、しかし、変えるべきもの、変えてよいものは変えていく、新しく出発していく、そのような見極めを皆さんとともに祈りを合わせて進めていきたいと願っています。

 後半の25節からは再び、この世の終わりに現れる徴の話になっています。太陽と月と星に徴が現れ、地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る、とイエスさまは言われます。「海がどよめき荒れ狂う」という所は以前の聖書では「海と大波とのとどろきにおじ惑い」となっていました。海の上での大嵐というだけでなく、大波が人々の命と生活とを根こそぎさらっていく・・・まさにあの東日本大震災のときの大津波のようなことが見つめられていると言えるでしょう。

 あのような現実に直面する時、私たちは、まさに「なすすべを知らず、不安に陥」ってしまいます。また、「この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失」ってしまうのです。まさにあの大津波、そして大洪水、原発事故に代表される、東日本大震災の災害は、当時の私たちに、ある種の「終わり」を意識させるものであったといえます。これまでのような日本の歩みは終わったのだ、もはや、これまで通りに生き続けることはできないのだ、という、そういう「終り」を私たちは、特に被災地の方々は、意識させられたのです。

 しかし、本当の世の終りというのは、そのような悲惨な虚しい、悲劇的なかたちでもたらされるのではない、とイエスさまは言われるのです。この天地を、神さまが愛をもって創造し、始められたように、同じく、いつかもたらされるこの世の終りは、神さまの愛によって仕上げられる、私たち一人一人もそうです、神さまは、私たち一人一人を、愛に基づいて創り、この世に生かしてくださったように、私たちの最後も、神さまの愛によって、閉じられていく、この世界にも私たち一人一人にも、わたしたちの思いをはるかに超えた神さまの愛のご計画がある、それが聖書の世界観であり人生観なのです。

 そのことを語っておられるのが27節です。「そのとき、人の子が大いなる力を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。このことをこそ見つめなさい、とイエスさまは言われるのです。「人の子」とはイエスさまご自身のことです。

 イエスさまは、罪のうめきの中にあるすべての被造物、とりわけ人間を、その悲惨、その苦しみから救い出してくださるために、十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪のあがないとなってくださいました。その御業によって、私たちと神さまとの絆は回復され、私たちは神さまの愛のご計画の中へと確実に戻されたのです。逆にいえば、そのようなイエスさまの命の犠牲がともなうほどに、私たちは本来、神さまからかけ離れた存在となってしまっていたのです、しかし、イエスさまに救われ、まことの命に生きるものとされました、それがイエスさまの復活に示されたわたしたちの新しい命であり、天国に通じる、永遠の命です。イエスさまは、その永遠の命の喜びを、私たちに一人一人に約束してくださり、そして最後に、その愛のご計画に締めくくりとして、この世にもう一度、来られるのです。それを「キリストの再臨」と言います。その予告がここに語られているのです。

 最後の28節には、「このようなことが起り始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」とあります。「このようなこと」とは、今申し上げたよな、そして前回の21章の始めから語られている、様々な世の苦しみ、不安のことです。私たちを不安に陥れ、脅え慌てさせ、絶望させる、この世の様々な出来事の中で、しかしイエスさまの再臨を信じ、私たち一人一人に対する、そしてこの世界全体に対する神さまの愛のご計画を信じ、そのことを待ち望みつつ生きる者は、身を起こして頭を上げることができるのです。今日最初に歌いました讃美歌のように「心を高くあげる」ことができるのです。

 身を起こして頭を上げて生きる、心を高くあげて生きる、それは、下を向いて、つまりこの世の問題だけを、見つめて生きるのではなく、また、自分だけを見つめ、自分中心に生きるのではなくて、キリストの約束を信じて、天を見つめ、神の愛の導きを信じて生きることです。それは決して現実逃避ではありません。むしろ、そのことによってこそ、私たちは、様々なこの世の悩みや苦しみや悲しみ、不幸、また不安や恐怖をもたらす事柄と正面から向き合い、それらをしっかりと受け止めて生きていくことができるのです。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、世の終わりにもう一度来て下さり、私たちの救いを完成して下さる、その愛のご計画を信じ、待ち望むならば、私たちは、この世の様々な困難の中にあっても、身を起こして頭を上げ、心を高くあげつつ、最後まで、しっかりと地に足をつけて歩んでいくことができるのです。お祈りいたしましょう。

 主なる神さま、この世の様々な困難、悲しみ、苦しみの中で、日々動揺しているわたしたちですが、あなたはいつもわたしたちと共にいてくださり、あなたの愛のご計画のうちに招き、導いてくださっています。その恵みをしっかりと心にとめ、身をおこし、頭をあげていく、心を高くあげて、あなたを見つめ、信じ、ゆだねて、今日、新しく出発していくものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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