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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

復活節第6主日礼拝 

2017年5月21日(日)ルカによる福音書 第11章37-44節
「神の恵みの器として」三ツ本武仁牧師

 本日の聖書箇所には、イエスさまが、あるファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いた時のことが語られています。38節に「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」とあります。食事の席に着くに際してイエスさまが身を清めることをなさらなかったのを、このファリサイ派の人は不審に思ったのです。「不審に思った」とある言葉のもともとの意味は「驚いた、びっくりした」といった意味であります。身を清めることをせずに食事の席に着いたイエスさまに彼は、えっと、びっくりしたのです。それはなぜでしょうか。そのことは知るためには、わたしたちの常識ではわからない、ユダヤ教の事情を知る必要があります。

 先ず、「身を清める」ということについてですが、これは実際には、私たちが通常そうしますように、食事の前に手を洗う、という行為を指しています。けれども、その手を洗う、という行為の意味が、私たちの常識とは大きく違っているのです。私たちの場合、それは衛生的な意味でそうするわけです。しかし、ここで問題になっているのは「手を洗わないで食事をするなんて、非衛生的なんだろう」ということではないのです。そうではなく、これは宗教的な事柄なのです。ユダヤ教において、食事の前に手を洗うのは、お腹をこわさないためではなくて、宗教的な汚れを身に負ってしまわないためだったのです。

 わたしたち日本の風習にあてはめましたら、盛り塩などがその一例だといえるのではないでしょうか。日本の葬送儀礼においては、玄関に清めの塩を盛るわけです。そのような習慣が厳格に守られている社会があったとして、その中で、全くそのようなことをせずにすませてしまった、そのようなことが、ここでイエスさまが食事前に身を清めなかった、という振る舞いに当てはまるのです。

 そしてそこに、イエスさまを食事に招いた人がファリサイ派だったことが関係してきます。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ人たちの中でもとくに、神様の掟である律法を厳格に守り、神様の前に清い者であろうとすることに熱心であった、逆に言えば汚れた者となることを防ぐことに熱心であった、そして、そのような生活を人々にも教え勧めていた人々でした。だからこそこの人は、神さまの教えを宣べ伝えているイエスさまが、そのような宗教的な清さに無頓着であることに、驚き、そして不審を抱いたということなのです。

 けれども、そのように驚いているこのファリサイ派の人に向かって、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」と繰り返し語られたのです。42節、43節、44節で三度もその言葉を繰り返えされました。イエスさまはこの人の、ファリサイ派の、信仰のあり方を厳
しく批判なさったのです。その批判のポイントは最初の39節に示されています。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。・・・あなたたちは外側ばかりをいっしょうけんめいきれいにするけれども、内側は汚れに満ちているのではないか、とイエスさまは言われたのです。これと同じような批判が42節以下でも繰り返されています。42節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」とあります。ハッカは皆さん良くご存知のハーブです。ミントです。芸香は、初夏に黄色の花を咲かせ、種子や葉は香辛料、薬用として利用されます。そうしたものや野菜の十分の一を神さまに捧げる。確かに、自分の得た収穫の十分の一を神様に献げなさい、ということが律法には定められています。イエスさまはその定めを決してどうでもよいとか、こんなものは守らなくてよいとは言っておられません。「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」とあります。教会でも、収入の十分の一を神様に献げるというのは、「神様への献身と感謝のしるし」としての「献金」を考える上で、大切な基準であります。それはそれで大切な事柄でありますけれども、しかし、いまここでイエスさまが問題としておられるのは、ファリサイ派の人々が、そういうことは、きちんと神経質なほどに献げていながら、肝心な「正義の実行と神への愛」をおろそかにしている、つまり「しるし」だけで、「神さまへの献身と感謝」の「実践」がない、そのことをイエスさまは批判されているのです。

 それでは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じだ、といわれるのです。また43節には、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」とあります。会堂で上席に着くとか広場で挨拶されるというのは、人々に尊敬され、一目置かれるということです。神さまの教えに真面目に仕えている人たちの中には、人間的にも立派な人たちもいたことでしょう。そこで、そういう人たちを人々が尊敬する、ということも自然に起ってくることであったのでしょう。しかしここには、そういうことをこの人たちは「好んでいる」とあります。つまり、人に褒められ、尊敬され、重んじられることこそが、目的になってしまっている。・・・あなたたちは、神様に従い仕える生活を教え、神様にこそ栄光を帰すことを主張しているけれども、それが実際には建前になってしまっていて、本音においては自分の名誉、自分の栄光を求めているのでないか。・・・それは外側だけきれいにして内側は汚れに満ちているのと同じではないか、とイエスさまは批判しておられるのです。・・・そして彼らは他の人々をもそのような生き方へと引き込もうとしている。そのことをイエスさまは44節で、一つのたとえによって語っておられます。「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」。

 ・・・これはすこし私たちにはわかりにくいたとえですけれども、ここで「墓」とありますのは、墓石というのではなくて、死んだ人を埋めた場所のことです。・・・身を清める、ということの反対で、身を汚す、ということがユダヤ教社会で忌み嫌われていました。その身を汚すさいたるものが、死体に触れることでありました。・・・そういう意味でも、日本古来の宗教観とユダヤ教の宗教観はどこか似ていて興味深いのですけれども、・・それはともかく、墓石というものは、死者のことを記念する意味ももちろんあるのですけれども、それとともに、その死体を埋めてある場所に、人が間違って足を踏み入れて身を汚すことのないように、という、そのための目印としても、置かれたものでした。つまり、ここでイエスさまが言われているのは、あなたたちファリサイ派の人々は、人目につく墓石もない、死体の埋められた場所のようなものであって、清めに熱心のようでいて、じっさいは、人々はあなたがたによって、知らず知らずのうちに、かえって汚されているのだという、そういう酷しい皮肉なのです。

 十字架の死と復活によって、イエスさまは死の力に勝利された方であります、イエスさまの十字架の死と復活によって、もはや死は汚れたものではなくなったのです。それゆえに、まさに、死の問題、汚れの問題は、イエスさまにしか、解決できない問題なのです。それを、人間が、自分たちでできる、できている、と思うところに、様々なゆがみが、問題が起こってくるのです。ファリサイ派の人は、自分の清さ、正しさを求めるなかで、じっさいは神様よりも自分の栄光を求め、人よりも立派な者になることを求めるようになっていきました。そして、その中で、信仰の喜びも神さまへの感謝も感じなくなっていきました、そういう虚しい思いに生きていながら、自分の立場も守り、自分を正当化するために、そういう生き方を人にも勧めて、人々をつまずかせていたのです。

 わたしたちはこのような話を聞きますと、ついどこかの私利私欲にかられて新聞で悪い意味で話題になるような人々を思い浮かべてしまうわけですけれども、しかし、ここで私たちが考えなければならないことは、このように厳しくイエスさまに批判されるのは、そういう一部の人たちだけのことなのだろうか、ということであります。これは罪の中にある全ての人間の問題なのではないでしょうか。・・・とくに私たちクリスチャンは、イエスさまに救われた喜びの信仰生活を送っているはずでありますけれども、それがしかし、いつのまにか、喜びのない信仰生活になってしまっていないでしょうか。真面目で清く正しく生きることこそが信仰だと勘違いをし、そして自分の清さ正しさを量り、それをいつも他の人と見比べながら、誇ったり落ち込んだりという一喜一憂を繰り返すことになってはいないでしょうか。そうなると信仰をもって生きることは、非常に窮屈なものになっていきます。伸び伸びと自由に喜んで生きることができなくなります。もしわたしたちの信仰生活がそのような信仰生活となっているのであれば、それはまさしく、今日イエスさまに厳しく批判されている、このファリサイ派の人の信仰と同じではないでしょうか。

 けれども忘れてはならないのは、イエスさまはここで厳しく批判されているわけですけれども、まさにそのような、罪の縄目に縛られてどうにもならなくなっているわたしたちを救うために、来てくださったのだ、ということです。・・・イエスさまは40節で、「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」とおっしゃいました。杯やお皿にはみな外側と内側があります。私たち人間の外側と内側、外面と内面、人に見える部分と人の見えない心の中のことを、そのようにたとえているわけです、外面だけをきれいにしても、内面、心の中が汚れに満ちていたのでは何にもならない。確かにそうであります。いや、でも、どうやってわたしは自分の心の中をきれいにすることができるだろうか、と思います。しかし私たちがこのイエスさまのお言葉から本当に聞き取るべきなのは、外側も内側も神がお造りになった、と言われていることなのです。イエスさまはそのことにこそ私たちの目を向けさせようとしておられるのです。

 私たちの外側も内側も神様がお造りになった。そのことで思い起こすのは旧約聖書創世記の話です。創世記の第2章7節には神様が人間をお造りになったことについて、このように語られています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神様が土の塵で人を形づくられた、それが「外側」を造られたことに当ると言えるでしょう。そしてそこに「命の息を吹き入れられた」のです。土の塵で造られたのは私たちの外面、肉体です。神様はその肉体の中に命の息を吹き入れることによって、私たちを生きる者として下さいました。それは私たちに内面を、魂を与えて下さったということです。神様が吹き入れて下さった命の息、それは「霊」を意味する言葉でもあります。つまり私たちは、土の塵であるこの肉体に、神様の霊によって命を与えられて、はじめて生きるのです。神様の霊によって魂を、心を、内面の命を与えられて生きている、ギリシャ語で「人間」という言葉は、「上を見る者」という意味があります。上を、つまり神さまを見上げて、神さまを賛美して生きる、それが神さまの霊を注がれた、人間の本来の生き生きとした姿なのです。

 しかし、その命を、わたしたちは外側にこだわるばかりに、見失ってしまった、神さまに吹き入れられたいのちの息をこそ、大切にしなければならないのに、そこから目を逸らしてしまった、的をはずしてしまった、そしてそれによってわたしたちは本当の命を失ってしまった、神さまを見上げて、神さまを賛美して生きることができなくなってしまった、それがわたしたちの罪の姿であります。その罪のために、私たちの命は、魂は、神様とのよい交わりを失い、隣人とのよい交わりも失い、本来の活力と喜びを失ってしまったのです。・・・けれども、イエスさまは、その私たちを救うために、私たちの罪の赦して下さるために、十字架にかかって死んで下さったのです。そして、父なる神様が御子イエスを復活させることによって、新しい霊、聖霊、新しい命を、罪を赦されて生きる新しい魂を与えて下さったのです。

 クリスチャンとして生きるとは、神様が御子イエス・キリストによって実現してくださった、この新しい命の恵みにあずかって生きることです。41節には「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とあります。これは、自分の持っているもの、財産を貧しい人に施すという立派な行ないをすることによって、あなたは外側だけでなく内側も本当に清い者となることができる、ということではありません。そのように考えたら、それは結局、施しによって自分の清さ、名誉、栄光を求めるということになってしまいます。そうではなく、「ただ、器の中にある物を人に施しなさい」、この言葉の第一の意味は、いまから私、イエス・キリストによって与えられる、新しい器の中身、聖霊によって、その新しい命によって、生きなさい、ということです。

 「そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とイエスさまは言われます。自分の清さを溜め込もうとするのではなく、からっぽになって神様の恵みをいただき、神さまの恵みの器として、自分に恵まれたものを感謝して用いていくことによって、全てのものが清いものとなるのです。・・・わたしたちはやっぱり食事の前に手は洗ったほうがよいと思いますけれども、・・・そういうことではなくて、これは汚れているのではないか、こんなことをしたら汚れるのではないか、などとびくびく恐れることなしに、神様に与えられている自分の人生を大胆に、自由に、伸び伸びと生きることができるようになる、それが神の恵みの器として生きる生き方であります。

 「土の器」という歌があります。「欠けだらけの私 その欠けからあなたの光がこぼれ輝く、土の器 ヒビだらけの私 そのヒビからあなたの愛があふれ流れる こんな私でさえも 主はそのままで愛してくださる だから今主の愛に 応えたい 私の全てで 用いてください 主よ、私にしかできないことが 必ずあるから ♫」

 欠けの多い私たちだからこそ、神さまの愛が注がれていて、欠けたところがあるからこそ、まわりにその神さまの愛を輝かすことができるのです。神様の独り子である主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、その業によって罪の赦しを与え、神様の子どもとして生きる新しい命を与えて下さいました。その神様の愛を信じる者は、大胆に神様に信頼して生きることができます。そしてその信頼の中でこそ、自分のものを喜んで人に施すこともできるようになるのです。イエスさまによって、自分という器の中に、新しい命を注がれた、その感謝と喜びの中で、心から神さまと隣人を愛し、仕えていくものとなりたいと願います。祈りましょう。

 主なる神さま、欠け多きこの器をも、あなたはイエスさまを通して、愛してくださり、そこにあなたを仰ぎ見て生きることのできる、新しい命を注いでくださいました。感謝いたします。あなたの恵みの器として、新しい命への喜びと感謝を、あなたにそして隣人に、表していくものとならせてください。主のみなによって祈ります。アーメン
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復活節第5主日 

2017年5月14日 (日)ルカ福音書11章29―36説
「まことの光に照らされて」三ツ本武仁牧師

 こどもの礼拝では今月の愛唱聖句を「あなたの父母を敬いなさい」という十戒の言葉を揚げて覚えていますけれども、今日は母の日ということで、こどもたちは日頃のお母さんへの感謝の思いをこめてお母さんにかわいらしいプレゼントをつくりました。父の日は、みんな何をお父さんにプレゼントしてあげるのかな?と聞きましたら、無反応でありましたけれども・・・、私自身も、親孝行したい時分に親はなし、ということわざが、身近に感じるようになってきました。親を敬う、親に感謝の気持ちを表す、親孝行をする、これは大切なことだと思いますとともに、そう思える親があることもまた恵まれたことであると思うのであります。

 さて、本日の聖書箇所はルカによる福音書の11章の29節から36節でありますけれども、その最初の29節でイエスさまは、「いまの時代の者たちはよこしまだ」と語られています。イエスさまは人々に向かって、「あなたがたはよこしまだ」とおっしゃったのです。なぜ、そう言われるのか、ということですけれども、それは「しるしを欲しがるからだ」というのであります。「しるし」というのは、要するに、イエスさまが神さまからの救い主である、ということの目に見える証拠であります。それをみなければ、納得できない、信じることはできない、それが「しるしを欲しがる」ということです。そういうことは、正直にいえば、わたしたちもしていることですし、できれば、そういうしるしがみたいと思っている、そういうしるしが体験できたら洗礼を受けてもよい、と考えている人もいるようです。ですから、ここでイエスさまの言われる「今の時代の人々」という人々の中には、イエスさまの時代の人々だけでなくて、このまさにいまに生きるわたしたちも含まれるのであります。「よこしま」と訳された言葉のもともとの意味は単に「悪い」という意味です。しるしを求める、イエスさまに救い主の証拠を求める、それは悪いことだ、というのです。それはいったいどうしてなのか、なぜ、しるしを求めてはいけないのでしょうか。

その理由は、じつは、今日の後半の33節以下にあります「からだのともし火は目」と見出しされたところに示されていくのですけれども、そのことは、後でおいおい見ていくことにしまして、いまここでイエスさまは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とおっしゃいました。そのことに注目したいと思います。これは、いったい何のことでしょうか。今日のところは旧約聖書に出てくるある2人の人物に関わる話が出てきます。さいしょはヨナ書に登場するヨナの話です。ヨナのことはみなさんご存じでしょうか? ヨナは預言者として神さまに遣わされて、ニネベという外国の町へいくのです。ニネベの人々は聖書の神など信じていない、みな誰もが自分中心に好き勝手にいきている人々でした。ヨナはこのままではあなたたちは神さまの怒りによって滅ぼされるぞ、と、神の言葉を告げたのです。すると32節にありますように、ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて素直に悔い改めた、といいます。ですから、ニネベの人々は神さまの前に滅びることなく、救われたのです。ヨナのしるしとはですから、ヨナの説教、ヨナの告げた神さまのみ言葉のことです。つまり、イエスさまはここで、あなたがたは目に見える証拠としてのしるしを求めている、それを見たら納得してやろう、と思っている。けれども、わたしがあなたがたに与えるしるしは、神さまのみ言葉というしるしだ、というのです。

 もう一つは、旧約聖書の列王記という書物に出てきます、南の国の女王の話です。この女王はシェバの女王のことです。この女王は、アラビア半島の南のはしにある国の女王でしたが、ダビデ王の後のソロモン王の時代に、ソロモンが知恵に優れた王だと聞いて、はるばる、その知恵を求めて、エルサレムまでやってきたのです。サウジアラビアの王様がたくさんの家来をつれて日本にやって来た、という出来事が最近もちょっとしたニュースになりましたけれども、きっとああいう感じで、大勢の家来を連れてソロモンのところにやってきたのです。それはともかく、ソロモンの知恵というのは、ソロモン自身の知恵ではなく、神さまがソロモンにめぐみ与えてくださった知恵であった、と聖書には記さています。つまり、この女王は自分では気づいていなかったかもしれませんが、はるばる海を超えて、神さまの御言葉を聞きにやってきたわけです。イエスさまは、そのような女王の話をされて、31節ですけれども、ここにソロモンにまさるものがある、と言われたのです。

 つまり、この話と最初のヨナの話で、イエスさまがわたしたちに伝えようとなさっていることは、神さまの御言葉を聞く、ということ、神さまの御言葉を、謙虚に聞き続けること、そのことの大切さであり、また、そこに、わたしたちの救いがあるのだ、ということであります。前回のこの前の聖書箇所で、本当に幸いなのは、神の言葉を聞いて守る人だ、とイエスさまが言われていましたけれども、今日のところも、ずっと一貫して、そのことが語られているのです。
 わたしたちもつい、奇跡を求めてしまいます。何か不思議な体験に心を惹かれてしまいます。人がそのような体験をしたと聞くと、つい羨ましくなってしまったり、そういう体験のない自分は、神さまから愛されていないのだろうか、とか、信仰がないから、そういう体験ができないのだろうか、と考えてしまったりすることが、あるかもしれませんけれども、今日のところでイエスさまが語っておられるのは、そうではない、ということです。そういう目に見える証拠よりも、もっとも確か、ほんとうのしるしは、わたしが語る神さまの御言葉であり、そして、それを聞くことこそが、あなたがたが救われるためにもっとも大切なことなのだ、とイエスさまは言われるのです。ですから、その意味で、いまわたしたちが守っていますこの礼拝こそが、イエスさまが与えてくださった、わたしたちへのしるしだ、ということができると思います。礼拝に招かれている、そして礼拝を通して神さまの御言葉を聞くめぐみに預かっている、このことの中に、救いがあり、本当に幸いがあるのです。

 そこで後半の33節以下ですけれども、ここにはまず「ともし火」の話があります。ともし火は穴蔵の中や、升の下に置かれるべきではない、燭台の上にこそ置かれるべきものだ、そうすることによってこそ、その光が周囲を明るく照らすことができる、ということイエスさまは語られています。そしてこの話は最後の36節につながっていきます。「あなたの全身が明るく、すこしも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」・・・つまり、これは何を語っておられるか、というと、わたしたち自身は、ともし火に照らされて、はじめてその全身が明るく輝くのであり、またわたしたちの輝きが、周囲を照らすことにもなる、ということなのです。

 では、そうなるためにはどうすればよいのか、ということを語っているのが、その間の34節の「からだのともし火は目」という話なのです。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とあります。わたしたちの全身が、明るく照らされるかどうか、目によって決まるというのです。目が澄んでいれば、明るく照らされる、しかし目が濁っていれば、暗くなってしまう。・・・
 さきほどは、ともし火に照らされているかどうかが問題であったのに、こんどが、目が澄んでいるか濁っているかが問題だという、ちょっとわかりにくい感じがするわけですけれども、ここで「目が澄んでいる」というのは、わたしたちが考えるような、純粋であるとか、正直であるとか、そういう意味でではないのです。ここで「澄んでいる」と訳されている言葉のもともとの意味は「単純である」という意味です。「目が単純である」などというとへんな感じがしますけれども、要するに、まっすぐに、見るべきものをちゃんと見ている、見続けている、ということです。
 それに対する「目が濁っている」というのは、ですから、何かやましいところがある、というようなことではなくて、この「濁っている」と訳された言葉も、もともとの意味は、悪い、ということです。つまり目が悪い、つまり、見るべきものがちゃんと見えていない、あるいは、見るべきものをちゃんと見ようとしていない、ということなのです。では、まっすぐに、わたしたちが見るべきもの、見続けているべきものとは何でしょうか? それが、ともし火です。ともし火の光であります。

ここで濁っている、と訳された言葉が、じつは最初に、イエスさまが、いまの時代の者たちはよこしまだ、と言われて、その「よこしまである」という言葉と同じ言葉なのです。どちらも、もともとは悪いという意味だと申しました。つまり、いったいいまの時代の人々の、そしてわたしたちの、いったい何が悪いのか、しるしを求めてなんで悪いのか、というその最初の問いの答えは、それは、まっすぐに神さまのほうを向こうとしないから、あのニネベの人々や、南の国の女王のように、まっすぐに神さまの呼びかけに応えようとしないから、ともし火の光を、ちゃんと見続けようとしないからだ、ということなのです。

 どうして、わたしたちは、そのように、神さまの呼びかけにこたえて、その光を見続けようとしないのでしょうか。それは、わたしたちが光なんて必要ない、と思っているからではなくて、自分たちの中に光はある、と思っているからではないでしょうか。何か頼りになるものがちゃんと自分たちの中にある、と思っている、だからそんな、神さまの御言葉に聞きしたがって、その光を見続けるなんて、そんなことしなくてもよい、と思っている、それはもうどうしようもなく弱い人たちだけがすればよいのであって、自分はそれには当てはまらない、と思っているからではないでしょうか。
 しかし、また私たちが正直に自分を見つめるならば、わたしたちはほんの些細な失敗や挫折、物事が自分の思うようにならない、という出来事の中で、その自分の中にあるつもりの光がいともたやすく、消え失せてしまう、ということを経験しているのではないでしょうか。そして、光の消えたわたしたちは、不安や、悲しみ、怒りやねたみといった、暗い思いにとらわれていってしまうのです。

 自分の中にあるつもりの光、自分で努力して築いてきたつもりの光、それもみんな、本当は外からいただいた光なのです。自分一人で大きくなったような顔をして、という言葉がありますけれども、まさに、神さまの前にわたしたちは、実にしばしば、まるで自分一人で大きくなったような顔してしまっているのです。そして、それはそれですむ問題ではなくて、そのような生き方が結局は自分自身の光を消し去ってしまい、それゆえに周りを照らすどころか、暗い殺伐した状況を周りにつくりだしていってしまうのであります。

 私たちを外から照らす光、それはイエス・キリストです。イエスさまを通して示される神さまの御言葉です。イエス・キリストの十字架の死と復活による救いをわたしたちに告げてくれださる御言葉、神さまがその独り子のいのちをすら与えて、わたしたちを暗い罪の支配から解放してくださり、神の子として、光の子として、新しく活かしてくださる、めぐみの御言葉です。イエス・キリストご自身こそ、まことの神の御言葉なのです。この恵みの御言葉を聞き、その御言葉の光に照らされることによってこそ、私たちは、キリストの恵みの光に全身を明るく照らされて生きることができるのです。

 その光に照らされるとき、私たちは自分が明るく輝くことができる、平安と喜びに生きることができるだけでなくて、周囲をもその輝きで照らす者となることができるのです。つまり、ともし火を見つめることで、わたしたちも小さなともし火の役割を果たすことができるのです。33節に「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とありました。私たちが輝かす光は「入って来る人」に道を示し、その足元を照らすのです。「入って来る人」とは教会に入って来る人のことです。キリストの救いの中に入ってくる人のことです。私たち自身には何の力もないけれども、キリストの御言葉に聞きしたがっていく、その歩みの中。で、人を救いに導く、神さまの尊いお働きの御用に、用いられていくのです。

 今日は母の日ということですけれども、イエスさまの御言葉を見つめることができていなかったなら、とても、いまこうして、歩くことも立つこともできなかったけれども、深いかなしみと絶望の中で、イエスさまと出会い、その御言葉の光を見つめることができたことで、これまで、歩んでくることができた、いやただ自分だけが歩んでくることができた、というだけでなくて、その歩みを通して多くの、つらい思いをしている人々をも励まし支えるという、当初は自分でも思いもよらなかった、働きへと導かれたある一人の母のことを、最後にご紹介したいと思います。その母とは、娘さんのめぐみさんが拉致され、行方不明になってしまった、横田早紀江さんであります。政治的な問題で、ご本人の願っていること以上に、大きな話題になっていますけれども、そうした政治的な問題を取り除けば、そこには、愛する娘を、失って、悲しんでいる一人の母親がいるのであります。その早紀江さんが、あの2011年3月11日に起きた、東日本大震災によって被災し、家族を失い、家を失い、仕事を失い、故郷を失った人々に向かって、次のようなメッセージを語っておられます。すこし短くしてご紹介したいと思います。「洪水によって、突然、愛する者が煙のように姿を消してしまった。にわかに信じられない、受け入れがたいことです。どんなに苦しくて、耐え難いことでしょう。娘のめぐみが忽然と姿を消してしまった頃のさまざまなことが、ふと心によみがえりました。「どうか生きていて」と絶叫したくなるような気持ちで、私は毎日娘を探し回りました。何の手がかりもなく、時間だけがすぎました。生きる望みが絶たれたようで、心にむなしさが満ちるばかりでした。そんなとき、私は一冊の聖書を頂きました。「悲しみの最中、どうしてこんな分厚い本を読むことができるものですか」と思いましたが、涙にくれるしかない私は、いつしか聖書のページをめくるようになっていきました。・・・すこし聖書を知るうちに、自分のちっぽけさや、汚れに気づかされていきました。そして、私のように罪ある全ての人間を救うため、キリストが十字架の苦しみを体験され、血を流して死んでくださったことを知り、深い感動を覚えました。・・・どんなときも、輝く日の光が私たち全てに降り注がれています。野には花がさきます。全ての人が大きな力に包まれて、いっしょに生かされています。うつむくときも、背中に太陽の熱を感じます。誰も見ていないように思えるときにも、神さまはあなたを心にかけておられるのです。どうかあなたの上に神の平安がありますように」
そうです、わたしたちが見つめるべきその光は、実は、わたしたちをどのような時にあっても、あたたかく見つめてくださっている光なのです。イエスさまによって与えられたその光を信じ、見つめつつ、私たち自身が輝くとともに、周りをその輝きで照らすものとなりたいと願います。祈りましょう。

主なる神さま、わたしたちは目の悪いものであります。すぐにあなたの御言葉から目をそらし、自分の中に何か誇れる光があると自分中心になってしまう、その中、光を失い、道に迷うものであります。けれども、今日あなたが、わたしたちを御言葉の光のもとに招いてくださり、あなたの御言葉を聞かせてくださった、その恵みに感謝したします。まことに、あなたの御言葉は、わたしたちの足元を照らす光であります。どうか、終わりの日まで、あなたの光に照らされつつ、その道を歩んでいくものとなれますように、そしてまた、わたし自身も、周囲を照らす者とならせてください。主のみなによっていのります。アーメン

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復活節第4主日礼拝 

2017年5月7日 ルカによる福音書 第11章24-28節
「本当の幸い」三ツ本武仁牧師

 世間ではゴールデンウィークということで、人によっては10日間の休暇ということで、今日はその最後の日、ということのようですけれども、わたしは毎年、大阪教区総会というのが連休のど真ん中にあって、毎年とても素晴らしいゴールデンウィークをすごさせていただいています。ただ今回はまんざら冗談でもありませんで、教区総会で、開会礼拝で説教をされた先生が、医療刑務所で教誨師の仕事をしている先生であったのですけれども、恵まれない幼少期をすごし、やがて暴力団に拾われて、犯罪に身を染めて刑務所に入り、最後は癌で刑務所で死んでいった、そのある受刑者の人が、その最後のところで、その先生を通して、イエス・キリストの福音を受け入れて、回心して、神さまに心を向けて、洗礼を受けられた、という証を語ってくださいました。神さまがこんなわたしを愛しているなんて本当だろうか、もし本当なら、なんてことだろう、その話をもっと聞きたい、誰からもそんなこと今まで教えてもらえなかった、そういって、その方は真剣に御言葉を聴き、御言葉を吸収していかれた、といいます。刑務所の中にあって、癌の苦しみをかかえながらも、最後まで、イエスさまに救っていただいた喜びの中で、祈りつつ生き、生き抜かれた、ということでした。その人の姿が、目に浮かぶようで、とても感動いたしました。

 さて今朝与えられました聖書箇所はルカによる福音書の11章の24節以下であります。その前半の24~26節にあるのは、今度は汚れた霊が人から出て行き、うろついたあげくまた戻って来る、という話です。前回の23節までは、イエスさまが悪霊と戦って勝利し、追い出す、という話でした。そこでは、イエスさまと悪霊の関係にスポットがあたっていたわけですけれども、それに対して今日の、この24節以下は、悪霊とその悪霊を追い出してもらった人間との関係に焦点が当てられている、ということがいえるかと思います。汚れた霊がその人から出て行った、その後その人はどうなったか、ということです。つまり、この24節以下において問われているのは、イエスさまの勝利によって悪霊の支配から解放され、救いにあずかった私たちは、その後どう生きていくのか、ということなのです。

 汚れた霊は、イエスさまによって追い出され、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探しますが見つからない。それで「出て来たわが家に戻ろう」と言って戻って来ようとします。ここには、悪霊が、彼らにとって、最も居心地のよい休み場所は私たち人間の中なのだ、ということが語られているのです。悪霊は人間の中でこそ安住できるのです。「出て来たわが家に戻ろう」と言っています。悪霊にとって、私たちこそが「わが家」なのです。最もくつろげる、安心できる、居心地がよく、思い通りにできる場所なのです。だから一旦は追い出されても、いつでも戻って来ようとしている、というのです。

 ここには「あなたがたは、汚れた霊にとって居心地のよいわが家になってしまっていないか、悪霊の家にふさわしい者になってしまってはいないか」というイエスさまから私たちへの厳しい問いかけがあるのです。悪霊にとって居心地のよいわが家となっている、それは私たちが悪霊の支配に慣らされ、それに自分を合わせてしまっているということです。神様の恵みに応えて、神さまに従っていこうとせず、むしろ神様に背き、また隣人愛に生きようとしない、そういう私たちの姿は、悪霊が「わが家」と呼んで喜んで住むような、悪霊にとって都合のよい家になってしまっているのです。しかし私たちを造って下さった神様は、決して私たちを悪霊が住むための家としてお造りになったわけではないのです。むしろ神様はもともとは私たちを、聖霊の宮として、神様の聖なる霊が住むための、それにこそ相応しい家として造って下さったのです。けれども私たちは、神様に背き、神さまを中心にするのではなくて、自分中心になっていく、そういう罪によって、聖霊の宮としての本来の姿を失ってしまった、悪霊が喜んで住むような、悪霊に「わが家」と呼ばれるような者になってしまっている、というのです。イエスさまが、「出て来たわが家に戻ろう」という汚れた霊の言葉をお語りになった、その心は、「悪霊にこんなことを言わせておいてよいのか。悪霊に『わが家』呼ばわりされて、あなたがたは何とも思わないのか、恥ずかしくないのか」という叱咤激励の私たちへの問いかけなのです。

 汚れた霊が戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた、と25節にあります。これは何を意味しているのでしょうか。汚れた霊が出て行った後、その家は掃除され、きれいに整えられていたのです。それは、悪霊の支配から解放された私たちが、汚れた霊によってこれまでさんざん汚され、荒らされていた自分という家を、いっしょうけんめい掃除してきれいにし、壊された所を修理して、ちゃんとした家に整えた、ということでしょう。それこそ、悪霊に「わが家」なんて、もう言われないように、自分という家をきれいにリフォームして、内装も外観も新しくしたのです。そして表の表札には、以前の苦い経験を反省して、「汚れた霊お断り」という札を掲げた。・・・もう二度と、汚れた霊、悪霊などにこの家を、自分を、支配されてなるものか、という固い決意をもって、私たちは自分という家を整える、・・・掃除され、整えられた家とは、そういう私たちの姿を表している、といえるでしょう。

 けれども、その「汚れた霊お断り」という立て札を見た悪霊は、「これは前のように簡単にはこの家に入り込むことはできないな」と考えて、そこで、「出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く」というのです。つまり、自分一人ではこのきれいになった家に入り込むことができないので、「自分よりも悪いほかの七つの霊」を助っ人に頼み、その仲間と一緒になってこの家に押し入る、というのです。さあ、そうなると「汚れた霊お断り」という札は、もう何の役にも立ちません。それは引きはがされ、踏みつけられ、窓は割られ、ドアは破られ、結局この家は、合計八つもの悪霊に住み着かれてしまうのです。「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」というイエスさまのお言葉は、そういうことを言っておられるわけです。

 ・・・このような話によって、イエスさまは何を語ろうとしておられるのでしょうか。なぜこのように、前よりもさらに悪くなってしまうようなことになったのでしょうか。そうならないためにはどうすればよかったのでしょうか。これと同じ話がマタイによる福音書の12章43~45節にもあります。そこと読み合わせてみると、この話のポイントがどこにあるのかが見えてきます。マタイでは、汚れた霊が戻ってきたところで、次のように語られています。「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」。ここに、ルカにはない言葉が一つあります。それは「空き家になっており」という言葉です。掃除され、きれいに整えられた、それは結構なことなのですけれども、問題は、それはそのままでは、空き家だったということです。空き家というのは、その家に本来住むべき主人がいない、ということでしょう。それがいけなかったのです。私たちが自分という家をどんなにきれいに掃除をし、内装も外観も美しく整え、そして「汚れた霊はもうお断り」という札を掲げたとしても、その家が空き家で、誰も住んでいなければ意味がない、いや、わたしが、わたしたちが住んでいるのではないか、と私たちは思う、でもそうじゃない、それじゃダメなのです。私たちの家の本当の主人は、私たちではないからです。

 答えはただ一つです。七つの悪霊よりも強いお方、本当の主人であるイエス・キリストに、この私の家に住んでいただくこと、私という家の主人(あるじ)となっていただくこと、そしてイエスさまにこの家を守っていただく、それ以外にないのです。・・・イエスさまによって悪霊の支配から解放された私たちは、悪霊が出て行き、罪が赦されて救われたことを喜んでいるだけではいけないのです。イエスさまによって悩みや苦しみから救っていただいて、後は自分で自分をきれいに掃除し、整え、自分の力で生きていけると思ったら大間違いなのです。それは、きれいにした家を空き家にしておくのと同じです。その家は結局、より強い悪霊の住処となってしまうのです。大切なことは、自分という家に主イエス・キリストをお迎えすることです。主イエス・キリストに私たちの家の主人となっていただくことです。先ほど申しましたように神様は私たちを、聖霊の宮として、神様の聖なる霊の住まいとして造って下さいました。私たちがその神様によって造られた本来の祝福された人間として生きるためには、イエス・キリストをこそ、わが家の主人としてお迎えし、主イエスに宿っていただくこと以外にはないのです。

 27節以下には、このイエスさまの話を聞いていた群衆の中のある女性が、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と叫んだということが語られています。彼女は、イエスさまが悪霊に取り付かれた人を癒したことを見、またその出来事をめぐって語られたみ言葉を聞いて、何とすばらしい方なのだろうと素直に思ったのです。そしてその思いを、女性らしく、このようなすばらしい方を産み、育てたお母さんはなんと幸いな人でしょう、というふうに表現したわけです。けれどもイエスさまはそれに対して、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とお答えになられたのです。

 本当に幸いな人とはどのような人か、ということです。それは、神さまの言葉を聞き、それを守る人だ、というのです。「神の言葉を聞き、それを守る」というと、神様からの掟や戒めを守る、実行する、という意味に受け止められがちです。勿論そういう意味もありますけれども、この「守る」という言葉にはもっと広い意味があります。それは「しっかり保管する」とか「見守る」というような意味でもあるのです。つまり、神さまの言葉を聞いて、その言葉をしっかりと心の内に受け止め、そのみ言葉を大切にし、それに聞き従っていく、ということです。そこにこそ、本当に幸いな生き方が与えられるのです。つまり、「神の言葉を聞き、それを守る」とは、主イエスを自分の心の内にしっかりとお迎えして、自分の中に、イエスさまに住んでいただいて、自分という家を悪霊の攻撃から守っていただくことです。それ以外に、わたしたちが悪霊から守られる道はないし、そうしなければ、いとも簡単に、あっというまに、以前よりもひどいふうに、悪霊は私たちの中に、住みついてしまうのです、わたしという家の中に、イエスさまに住んでいただく、そこに悪霊の支配から解放された、聖霊の宮としての、わたしたちの本当に幸いな歩みが与えられていくのです。・・・そのために大事なことは、自分の弱さ、自分の罪を本当によく知ることでしょう。自分がどれほど弱く、自分がどれほど神さまから離れた存在か、そのことがはっきりわかっているならば、自分自身には救いはない、ただイエス・キリストにこそ救いがあるとわかって、素直にイエスさまに自分の中に迎え入れることができるのです。最初にお話ししました刑務所の中で洗礼を受けられ、イエス・キリストの救いを確信して、晩年を過ごされた受刑者の人の話は、その意味で大変象徴的な話だと思うのです。人間はいろいろ着飾りますけれども、みんな裸になれば同じであります。神さまから離れてしまっている、自分中心になってしまっている、それは、もうこの世的なあらゆる立場をこえて、みな同じなのです。だから、逆に、この世のもので着飾りすぎている人は、イエスさまに、素直に救いを求めることができない、ということがあるのではないでしょうか。けれども、わたしたちすべての人の本当の幸いはただ一つ、自分を退けて、イエスさまに自分という家の主人になっていただく、そのところから始まるのです。祈りましょう。

 御子イエスよ、わたしたちのうちに住んでください、いともたやすく悪霊に、この世の様々な誘惑に、引きずられてしまうわたしたちは、ただあなたが、わたしたちの中に住んでくださることによって、その誘惑その力から守られ、救われます。たえず誘惑に負け、試練にさらされるわたしたちではありますが、主よ、どうかわたしたちを憐れんでくださり、今日も明日もわたしたちの家を訪ねてください、わたしたちは、主よどうぞお入りくださいと、素直に扉を開くものとならせてください。そして、そこで与えられる本当の幸いに最後まで生きるものとならせてください。主のみ名によっていのります。アーメン

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復活節第3主日礼拝 

2017年4月30日(日)ルカ福音書11章14-23節
「世の現実とキリストの現実」三ツ本武仁牧師

 わたしは以前、朝起きて着替えてから、まずすることは新聞を読むことでした。けれどもある時から、まず、神さまに祈る、そして聖書を読む、それから祈りの本を読む、それから様々な日常の生活をする、というふうに順番が変わっていきました。
 それが正しいとか、だからみなさんもそうしてください、というようなことを言いたいわけではありません、ただ、自分自身についていえば、そのように自分の習慣が変わったことは、明らかに自分自身にとって良かったということです。
 朝起きてまず新聞を読む、そういうことが以前のわたしの習慣であったわけですけれども、世の新聞というのは、決して新聞そのものを批判するわけではないですけれども、多くの場合、気持ちが暗くなるようなニュースが多いように思うのです。読む側は、その事件や出来事から安全なところ、離れたところで、あーでもない、こーでもないと、好き勝手に批判したり評価したりできる。政治家が無責任な発言をしてしまうのも、要するにその事件、当事者と距離があるところにいて、本当の実情を知らないところで、発言してしまうからではないでしょうか。そして、じっさいに自分もそういうことをしてしまっていた、人の不幸を興味本位で覗き込むようなことをしてしまっていた、他人事のように、事件を批評してしまっていた、それが知らず知らずのうちに、自分の気持ちを実は暗くしていた、そのことに気づいたのです。

 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第11章14節以下には、イエスさまが悪霊を追い出されたことが語られています。それは口を利けなくする悪霊でした。イエスさまがその悪霊を追い出すと、口を利けない人がものを言い始めたのです。主イエスが行われた癒しの奇跡の一つですが、このような箇所についてよく受ける質問は、悪霊とはどういうものですか、それは本当にいるのですか、というものです。悪霊の存在をすんなりと信じることはできない、という思いが現代の人々にはあります。

 そこで多くの場合、悪霊とか悪霊の癒しというものを現代風に解釈しようとします。ある人は、これはイエスさまが、この人のかかえている心のストレスを取り除かれたのだ、とか、何か、大きな問題を犯して、悪魔のような心になっているこの人のこころを癒されたのだ、などと解釈いたします。そのように私たちは、イエスさまが悪霊を追い出したというこの出来事についていろいろと想像し、それぞれにいろいろな受け止め方をするわけですけれども、そのような解釈には実は大きな問題があります。それは何か、といいますと、それは、要するに、その悪霊の問題はその人の問題であって、自分たちには関係がない、その人には問題があるけれども、自分たちはそうではない、という、つまり、この出来事に対して、どこか距離をおいて眺めている、傍観者の立場に立って発想している、ということであります。そしてそのような姿というのは、この奇跡を目撃した、ここに出てくる群衆たちと同じである、ということなのです。

 群衆たちは、イエスさまの悪霊追放の奇跡を見て驚嘆しました。そして彼らの中にいろいろな反応が生じました。ある人は「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言いました。つまり、イエスが悪霊を追い出すことができるのは悪霊の親分だからだ、親分が子分に「出ていけ」と命じているのだ、ということです。またある人は、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めました。この人たちは、イエスさまの悪霊追放の力がどこから来たのかを確かめたいと思っているのです。「天からのしるし」とは、イエスさまの力が天からの、つまり神様からの力であることの証拠ということです。それを示して欲しい、そうすればあなたの力が神様によるものであると認めてやる、ということです。・・・これらの人々は今日の私たちのように悪霊の存在を疑ってはいません。しかしイエスさまが悪霊を追い出したのを目の前で見ても、そのみ業によって何の影響も受けず、ただそれをどう受け止めたらよいかと論じているだけなのです。それは、つまり、彼らもまた悪霊を、そしてイエスさまのみ業を、傍観者として眺めているだけだったからです。

 そのような群衆に対して、イエスさまは、17~19節のみ言葉を語られました。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」。ここでイエスさまは、「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という中傷に対して反論しておられます。「私がしていることは、サタンの中での内輪もめではない。もしそう言うなら、あなたがたの仲間で悪霊を追い出している者はどうなるのか。それも悪霊の親玉の仕業ということになるぞ」ということです。つまりイエスさまによる悪霊追放だけを悪霊の頭ベルゼブルの力によることとするのは無理があるのです。イエスさまはそのように見事に反論しておられるわけですが、しかしこのお言葉はそういう反論、あるいは弁明という以上に、もっと大切なことを宣言しています。・・・それは、「あなたがたは今激しい戦いが行われている戦場の真ん中にいるのだ」ということです。その戦いというのは、神様とサタンとの戦いです。しかもそれは局地的な小競り合いなどではない、神の国とサタンの国の、滅ぼすか滅ぼされるかの、命をかけた全面戦争だ、というのです。ここに出てくる「国」という言葉は「支配」という意味です。神の国は神様のご支配、サタンの国はサタンの支配です。神様とサタン、どちらの支配が確立するのか。あなたがたはその決戦場にいるのだ、とイエスさまは告げておられるのです。イエスさまがある人から悪霊を追放したというみ業は、その戦いにおいて、一人の人が悪霊の支配から神様の支配へと取り戻されたということです。悪霊とサタンというのは、ほとんど同じことであって、いずれも、神様に敵対し、その恵みから私たちを引き離そうとする力です。私たち一人一人は、その神様とサタンの戦いの戦場なのです。イエスさまと悪霊とが私たちをめぐって今も戦っているのです。その戦場において、私たち自身が他人事のようにその傍観者でいられる、などということができるでしょうか? 悪霊は、少しでも隙があれば、私たちを虜にし、支配下に置こうと狙っているのです。いやもう既に悪霊が私たちを支配してしまっているのではないでしょうか。・・・ここに出てくるのは口を利けなくする悪霊だとありました。口が利けなくなる、とはどういうことでしょうか? それは、神さまに心を向けて、神様を賛美する言葉、神さまに祈る言葉を失ってしまっている、ということなのではないでしょうか? また隣人に対する愛の言葉を失ってしまっている。・・・神様に対しても隣人に対しても、本当に語るべきことを語ることができなくなり、むしろ反対に、語るべきでないことを語ってしまう者となっている。本当の交わりを失い、神さまとも隣人とも、共に生きることができなくなってしまっている、それが、ここでいわれている、悪霊によって口が利けなくなってしまっている、ということなのです。・・・ですから、悪霊はいるのかいないのか、それをどう理解するか、などと他人事のように、考えたり、議論している、まさにその時に、悪霊は私たちを捕え、支配してしまっているのです。けれども、イエスさまはその悪霊と戦い、その悪霊を私たちから追い出そうとしてくださっているのです。

23節の「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というみ言葉は、そういう状況について語られた言葉です。「わたしに味方しない者は」、つまりイエスさまと共にその悪霊と戦おうとしない者、他人事のように傍観者としてすましている者は、じつは、そのことによって、サタンに支配され、サタンの側についてしまっているのです。けれども、そこでその前にイエスさまが語ってくださった言葉に注目したいと思います。21、22節ですけれども、そこにこうあります。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。

ここにも戦いのたとえが用いられていますけれども、ここでイエスさまは一体何を語っておられるのでしょうか? 21節に出てくる、「武装して自分の屋敷を守っている」「強い人」とは誰のことでしょう。それはサタンのことです。サタンが十分に武装して自分の屋敷を、あるいは城を守っているというのです。そうである限り、サタンの持ち物、サタンが自分の支配下に置いているものは安全ということになります。安全というのはサタンにとっては安全だ、ずっと自分のものにしておける、という意味でです。しかし22節には、「もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」とあります。この「もっと強い者」とは誰のことでしょうか? これは、イエスさまご自身のことなのです。イエスさまが、わたしたちを支配しているサタンに打ち勝ってくださる、イエスさまが、自分ではもはやサタンの支配から抜け出せなくなっている私たちを、その泥沼から救い出してくださるのだ、そのことをイエスさまは、このたとえによって語ってくださった、約束してくださったのです。

 サタンとの決定的な戦いは、既にイエスさまによって戦われ、そしてイエスさまがその戦いに既に勝利されたのです。そのことを語っているのが、さらにその前の20節です。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。サタンに対するイエスさまの勝利が、既に実現しているのです。ですから23節でイエスさまは、私たちに共にサタンと戦うようにと促されていますけれども、その戦いは、もう決定的な戦いがイエスさまによって終わっていて、すでに勝敗が見えている、勝利が約束されている戦いなのです。そのような勝利が約束されている戦いへと、イエスさまは私たちを招いて下さっているのです。

 じゃあ、何も自分がその戦いに参加しなくたっていいじゃないか、そう思われる人もあるかもしれません。しかし、そうでしょうか。・・・サタンとの戦いにおいてイエスさまが既に決定的に勝利してくださった、その勝利は、じっさいにはイエスさまのご生涯全体を通して、とくにあの十字架の死と復活を通して果たされました。神様の独り子であられるイエスさまが、この私たちのために、神様をも隣人をも、愛するよりも憎んでしまう罪の中にあり、悪霊の虜となって語るべき言葉を失い、神様とも隣人とも良い交わりを失っている、その私たちのために、その罪を全て背負って、十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったのです。イエスさまが十字架につけられて殺されたとき、それによってひと時、サタンが勝利したかのように見えました。しかしイエスさまは、十字架の死なれることによって、死の支配の中に、サタンの支配の中に、自ら入りこんで、その力に捕えられてしまっている私たちのところにまで来て下さったのです。

 そして、天の父なる神が、その死の力を打ち破ってイエスさまを復活させ、イエスさまに新しい命と体とを与えて下さり、復活されたイエスさまは、サタンから私たちを奪い返し、その支配から解放して下さったのです。・・・そこまでしてわたしたちに愛を示してくださったイエスさまが、わたしたちに、悪霊の支配、サタンの支配に対して共に戦おうと招いてくださっている、その招きに、わたしたちは喜んで従うものとなりたいとおもうのです。

 このあいだある方から、お電話がありまして、他の教会の方で、わたしたちの教会の礼拝にはまだこられたことのない方ですけれども、いろいろと自分の過去の失敗や、人の言葉に傷ついて悩んでおられて、電話では、最初、その悩み苦しみをとめどなく、ぐるぐると繰り返してずっと語っておられました。わたしはじーとその言葉に耳を傾けていましたけれども、頃合いを見計らって、〇〇さん、〇〇さんは神さまが、イエスさまを通して、あなたのことを愛してくださっていることはわかっていますか、とお聞きしました。その方は、なかなか、わかっています、とは答えられませんでしたけれども、少しずつ、いろいろなことをいいながらも、そこに近づいていかれました。そこで、わたしはそうでしょう、って。神さまは、イエスさまを通して、命をかけて、〇〇さんのことを愛しいる、って伝えてくださったんですよね、いま、〇〇さんは、いろんな過去の苦しいことやつらいことや人のきつい言葉の、荒波にのまれて溺れそうになっているんです、あのペトロがそうだったですよね。聖書のことをよく知っている方でしたらか、ペトロが湖で、イエスさまから目を離した途端におぼれそうになってしまった、その話をしたんです。でもそのペトロにイエスさまが、ちゃんとわたしを見ていなさいって言われて、手を差し伸べてくださって、そうしてペトロは、おぼれないで、救われたんですよ、いま、〇〇さんのまさにイエスさまから目を逸らしてしてしまって、溺れそうになっていたんです。でも、イエスさまが来てくださって、手をさしのべてくださったんです。そうしたら、あーとその人は言って、最初くらい声だったのが、すーと明るくなっていかれました。そしてお祈りをして電話を終えました。

 世の現実は、ほんとうに厳しいものがあります。わたしたちは、その力に囚われ、どうにもならなくなってしまうのです。そして溺れてしまいそうになる。でも世の現実よりももっと確かな現実があるのです。イエス・キリストの現実です。私たちのために世に打ち勝ってくださったイエスさまの現実、いまも生きてともにいてくださるイエスさまの現実です。その現実をこそ共にしっかりと見つめていくものでありたいと願います。祈りましょう。

 主なる神さま、この世の現実は、大変厳しいものがあります、わたしたちはその中で、不安と恐れの波におぼれそうになり、あるいは、自分の中にも、ねたみや恨みといった嵐が吹き荒れて、どうにもならなくなっていきます。そして気が付くと、あなたを遠く忘れ、道に迷い、帰る道さえ見失ってしまうものであります、しかし、今日あなたが来てくださって、この世の力、サタンの力から、わたしたちを奪いとってくださった、その約束の言葉を聴かせていただき、世に打ち勝たれたあなたの勝利を思い起こすことができましたことを感謝いたします。あなたの勝利の約束を信じ、この世にあって、わたしたちも世の力に抵抗し、最後まであなたの道を歩いくものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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復活節第2主日礼拝 

2017年4月23日(日)ルカによる福音書 第11章5-13節
「愛なる神に心を向けて」三ツ本武仁牧師

 先週は、イエス・キリストのご復活を記念するイースターの合同礼拝と祝会を主の恵みの中、守ることがゆるされました。そこで礼拝ではイエスさまの復活の出来事にちなんだ聖書箇所を特別に選んで聖書箇所といたしましたけれども、今日から再びルカによる福音書を読みすすめていきたいと思います。
 求めなさい、そうすれば与えられる、探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。これは大変有名な聖書の御言葉です、聖書箇所も、マタイでは7章7節、7・7という、大変覚えやすいのですけれども、近所のキリスト教学校のこどもたちに、好きな聖書の言葉、覚える聖書の言葉は、と聞くと大概が、この言葉だといいます。わたしが以前勤めていた山形のキリスト教学校でも同じでありました。その覚えやすいマタイ7・7の言葉と同じ言葉が、今日の聖書箇所の、ルカによる福音書の第11章5節以下の9節に出てきています。

 ただし、注意しなければならない、といいますか、この言葉を深く、味わっていく中で、気づかなければならないのは、いったい、この「求めなさい、そうすれば与えられる、探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。」というのは、何について、また、どういうことを、語っているのか、わたしたちに教えているのか、ということであります。教師の側は、そのところをうまく導いていかなければならない。一歩間違えれば、この言葉にかえってつまずいてしまうことになるのではないか、そんなふうにわたしは思っています。つまり、この「求めなさい、そうすれば与えられる、探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。」という言葉は、なんでも求めさえすれば、神さまが与えてくれるのだ、というふうに受け止められてしまいやすい言葉だと思のです。しかし、じっさいの経験からしても、そんなことはないわけです。またそのような、まるでボタンを押せば欲しいものを出してくれる自動販売機のような神さまを、イエスさまは示されているのでは決してないわけです。

今日の聖書箇所の前、つまり4節までの所をみますと、弟子たちの求めに応えて、イエスさまが、「主の祈り」を与えて下さったことが語られていました。イエスさまはこの主の祈りに関わることとして、今日の5節以下を語っていかれたのです。

そこでイエスさまはここで一つのたとえ話を語られました。真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、というたとえです。なぜそんなことをするかというと、別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったけれども、その人に食べさせるものが家になかったからだというのです。連絡もなしに突然、しかも夜中になって訪ねて来るなんてなんて非常識な奴だ、というのは私たちの常識でありますけれども、当時の社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができたのです。またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなければならない、ということこそが当時の常識でした。なぜなら、当時の旅行は文字通り命がけのことだったからです。空腹や渇きによって行き倒れてしまう人が多かったからです。ですから客人をもてなすというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っていました。

ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことでした。ところが家にはあいにくパンが全くない。そこで、近くにいる友人の家に助けを求めていった、というのがこのたとえの設定です。しかしもう真夜中です。友人の家の戸口をドンドンとたたき、「パンを三つ貸してください。旅行中の友達に出すものがないのです」と大声で叫んだらどうなるか。7節ですけれども、「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。こんなふうに友達は迷惑がって断るだろう。彼にとってこの人は旅人ではない、パンを与えなければ死んでしまうような人ではないわけです。真夜中にこんなふうに訪ねて来られることは当時だってやはり迷惑なわけです。しかしイエスさまがこのたとえによって語ろうとしておられることの中心は次の8節にあります。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。・・・確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるの、そういうことをあなたたちも経験しているのではないか、とイエスさまは言っておられるのです。

 けれども私たちはここで、ある疑問を覚えるのではないでしょうか。それは、真夜中に友人の家にパンを借りにいくこの話が、祈りについてのたとえであるとするなら、この友人が神様のことだということになる。そうすると、神様が私たちの祈りに応えて下さるのは、あるいは祈りを聞いて下さるのは、「友達だから」ではなく、つまり愛によってではなく、「しつように頼めば」、つまり私たちが神様の迷惑を顧みずにしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、これ以上めんどうをかけられたくないから仕方なく聞いて下さるということなのか、私たちと神様との関係はこのようなものなのか、という疑問です。

11節以下は、まさにそのようなわたしたちの疑問に対するイエスさまのお答えなのです。11、12節にこうあります。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。これは父親だけの話ではなく、母親も含めて、親たる者は、と読むことができると思います。親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを自分から望んで与える親はいないでないか、ということです。そして13節で「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」とあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」というのは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、ということです。私たちは、神様をないがしろにし、隣人を本当に愛することできない罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供は愛しており、良い物を与えようとしていると、イエスさまはあえて言ってくださっています。しかし、じっさいはどうでしょうか。こどもに良い物を与えているようで、むしろ見当違いの、かえって害になる物を与えてしまっている、というのが、私たちの現実にはしばしばあるのではないでしょうか? いや、良いものを与えようともしない、という問題もじっさいには起こっている。育児放棄であります。それはそれで、まことに恐ろしい現象だということがいえますけれども、しかしそれはさておき基本的には、私たちは罪人でありますけれども、自分の子供には良い物を与えようとしている。イエスさまはそう言ってくださった上で、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。と言われるのです。

「まして天の父は」・・・わたしたちが自分の子どもを愛するように、ましてや天の父は、わたしたちのことを、真実に愛してくださっているのだ、というのです。このことをわきまえるなら、先ほどの疑問に対する答えが与えられると思います。つまり、神様は私たちを愛しているからではなく、しつように頼むことによって仕方なく祈りを聞いて下さる方なのか。いや、そうではない、ということです。この友人の姿もまた、神様のことではなくて、私たち罪ある人間の姿なのです。つまり私たちは、友人だからという理由で、つまり純粋な愛によってと言うよりも、しつこく言ってきてうるさいから、これ以上迷惑をかけてもらいたくないから、などという理由でようやく腰をあげて人のために動くようなところがある。それが、「悪い者である」私たちの現実の姿であります。しかし天の父は、そんな不純な動機によってではなく、いやいやながらでもなく、喜んで、あなたがたに良い物を与えて下さるのだ、イエスさまはここでそういうことを語っておられるのです。

 そこで改めて13節を見るとき、そこに「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることが、とても大事なことになります。聖霊を与えてくださるとはどういうことでしょうか。聖霊が与えられることによって私たちはどうなるのでしょうか。ローマの信徒への手紙の第8章14、15節にはまさにそのことが語られています。そこを読んでみたいと思います。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。・・・ここに、神の霊即ち聖霊が私たちの内でどのような働きをするのか、聖霊が与えられることによってどうなるのか、が示されています。聖霊は私たちを「神の子」として下さるのです。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけて祈る者とされるのです。聖霊は、私たちを救い主イエス・キリストと結びつけ、それによって私たちをも神の子とし、神様に向かって「父よ」「天のお父さん」と呼びかけて祈る者として下さるのです。天の父が、ご自分に求める者に愛をもって与えてくださるのはこの聖霊です。聖霊を与えることによって神様は私たちとの間に、あたたかい父と子の関係を築いて下さるのです。このことこそ、神様が私たちに与えて下さる「良い物」の中心です。個々の具体的な良い物、私たちがあれこれと祈り求めることは、この父と子という関係の中でこそ与えられていくのです。

 このことを見つめることによって、最初の問題、つまり、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という問題の答えが見えてくるのです。この約束を、私たちが祈り求めるものは何でもその通りに適えられる、というふうに理解するなら、そんなことはまずないでしょう。しかしこのみ言葉は、神様が私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛し、父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという、そういう愛の約束を語っているみ言葉なのです。

私たちも、親であれば、自分の子に、その求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりになる、ということではないでしょう。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとするでしょう。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言って。我慢させるでしょう。それで子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもあるかもしれませんが、じっさいは、そういう親こそが本当に子供を愛している親であるわけです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことがあるならば、まして天の父、まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。そのようにして万事を益となることを示してくださる。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」このみ言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。そのような関係なしにこの言葉を読むと、神様を人間の欲望を何でも適えてくれる自動販売機のようなものと見なしてしまうことになるのです。

 私たちの現実からすれば、求めていないものが身にふりかかってくる、ということがしばしばあります。震災などはまさにその一つだといえますけれども、神戸であの阪神淡路大震災から10周年目に行われた追悼礼拝に出席させていただいたとき、そのときの牧師が心に残るメッセージを語っていました。震災の悲惨な現実について語られてあとで、その牧師は最後に、あるデパートのおもちゃ売り場で見かけた、ある一人の幼児とその親とのやりとりについて話しました。その幼児には何かほしいおもちゃがあったようなのです。でも、その子の親は、それは買えない、と言ったようです。すると、その子は激しく泣いて、あばれる、それをその子の親が、しずかにたぎしめているのです。その子はしばらくの間、大きな声で泣いて、親の懐の中で暴れていたようですけれども、やがて、その泣き声も小さくなっていきました。その子にしたら納得のいかない、恨めしい思いであったでしょう。でも、親に抱かれて、泣き続ける中で、泣き疲れたのでしょう。しずかになっていった。そしてきっと、二人して、黙って帰っていったのだろう、とその牧師はいうのです。
 私たちが不条理の中で神さまを訴えるときの姿はこれに似ている、というのです。わたしたちは、悲しくて訴え続けます。涙を流します。そのわたしたちを見て、神さまはどうしているのか、神さまは黙って、でも悲しみを堪えて、わたしたちを抱きしめてくれているのだ、というのです。それが、私たちが苦難の中にあるときの、神さまの姿であり、そして、まさにそれが神の一人子イエス・キリストの十字架の出来事なのです。そうやって神さまは、わたしたちの苦しみ悲しみに寄り添ってくださっている。実は、苦難が取り除かれることよりも、その温もりを経験することこそ、わたしたちにとって、本当の救いなのです。

 ニューヨークの州立大学の病院には掲げられている、無名兵士の詩と呼ばれる詩があります。その詩をあの渡辺和子さんは訳されて、日本でも知られるようになりましたが、それは次のような詩です。

 大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
 謙遜を学ぶようにと弱い者とされた。
 より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、
 よりよいことができるようにと病気をいただいた。
 幸せになろうと富を求めたのに、
 賢明であるようにと貧しさを授かった。
 世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、
 神を求め続けるように弱さを授かった。・・・
 
 イエスさまは祈りを教え、具体的な祈り「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、神様の子とされて生きる恵みを味わいます。その恵みの中で私たちは、神様のみ名こそが崇められることを求める者となります。神様のご支配の完成、御国の到来を求めつつこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。また自分が神様に対して罪を犯しており、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと願いつつ歩むものとなるのです。神様はこのように真摯に主の祈りを祈る私たちの祈りを聞いてくださり、そしてその中で、私たちに本当に必要なものを、時にかなって必ず与えて下さるのです。

しかし、私たちに本当に必要なもの、それは何よりも神様との間の父と子としてのあたたかい関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられます、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされます。主の祈りを心から、さらに深く祈る者とされるのです。主の祈りは祈りの言葉の一つではないのです。それは神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。主の祈りを祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。

 祈りましょう。天の父なる神さま、イエスさまの十字架の死とご復活によって、わたしたちは、あなたに求めれば、聖霊を与えていただける恵みにあずかりました。その恵みは、あなたを父と呼び、あなたの子として生きる恵みであります。その中でこそ、わたしたちはあなたが万事を益としてくださることを信じ、すべてにことにおいて安心し、ゆだね、希望を与えられます。どうかわたしたちが、あなたにたえず聖霊を求めるものとなれますように、守り導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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