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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

聖霊降臨節第12主日礼拝 

2018年8月5日 ルカによる福音書 第23章1-12節
「キリストの沈黙」 三ツ本武仁牧師

 今日、8月の第一主日は、日本基督教団では平和聖日に定められています。それは1945年8月15日の終戦記念日を受けてのことであります。またさらにいえば、明日8月6日は広島に原爆が投下された日であり、9日は長崎に原爆が投下された日であります。私たち日本人は核兵器の恐ろしさをじかに体験した民族であります。終戦から73年を迎える今、戦争を語ることができる人は非常に少なくなってきました。そういう意味でも、危機的な不安な時代にさしかかってきた、ということがいえるかもしれません。戦争の悲惨が忘れ去れていこうとしている今、私たちには何ができるのでしょうか。
 
そこで日本のキリスト者として、大切なことの1つが、戦争責任告白を受け継いでいくということだと思います。当時の日本の教会は、国の圧力に屈して、戦争を肯定してきました。戦後になって、その事実とどう向き合っていくか、ということが、教団の大きな課題の1つとなりました。その悩みの中で、ようやく一つの決着をみたのが、戦後20年をすぎた1967年、時の教団議長、鈴木正久議長によって、出された「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」でした。以後、日本基督教団では、この戦争責任告白を、私たちが毎週、礼拝の中で告白しています「日本基督教団信仰告白」に次ぐ大切な信仰告白として歩んできました。ただし、戦争責任告白については、教団総会や、教区総会では、告白されてきても、各教会の中ではあまり告白されてきませんでした。ですから、みなさんの中には、戦争責任告白など聞いたこともない、という人も少なくないかもしれません。けれども、戦争責任告白は、教団の歴史に根ざした、大切な信仰告白でありますから、今日は、まず、平和聖日を覚えて、その一部を抜粋して読ませていただきたいと思います。

 それはこういう告白であります。「わたくしどもは、1966年10月、教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。(中略)まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。

 以上であります。イエス・キリストが、私たち人間の歴史に関われた方である以上、私たちは、自分たちの歴史、そして自分たちの国の歴史というものを、どのように捉えるのか、ということを真剣に問わなくてはなりません。そしてそのさいは、私たちの人間の歴史は罪の歴史であって、その罪の歴史のただ中に、その罪をあがない、その罪の縄目から私たちを救ってくださるためにイエス・キリストは来てくださったのだ、ということを、見失ってはならないのです。

さて、前置きが長くなりましたけれども、私たちは今日から、ルカによる福音書の第23章に入ります。いよいよ、イエスさまが十字架につけられて殺される、そのことを語っている章です。前回の22章の最後のところには、ユダヤ人たちの最高法院において、イエスさまが自らを神とするという冒涜の言葉を語ったと判断され、有罪が宣言されたことが語られていました。23章は「そこで」と始まります。最高法院における有罪の判決が下った、そこで、それを受けて次の行動が起されたのです。それが「全会衆が立り上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」ということです。

先週も申しましたが、ローマ帝国の支配下に置かれている今、ユダヤ人の最高法院は宗教的な決定しか下すことができませんでした。政治的な影響の大きい事柄については、総督の判断を仰がなければならなかったのです。ということは裏を返せば、もともとは、宗教的な問題と政治的な問題は一緒に扱われていた、ということです。それが、ユダヤの場合は、政治を取り上げられ、宗教しか扱えなくなった。この反対が日本です。いま日本では、宗教的な、すなわち人間の根源的な問題は、裁判では扱えない。どんなにそれが宗教的な問題から起きたことであっても、それはもっぱら政治的なあるいは刑事的な問題としてどうか、といいうことだけが焦点になるわけです。それがこのたびのオウム真理教事件の裁判であったわけです。本当は、あのような事件を起こすことになった、その背景にある信仰の問題が問われなければならなかったし、もっといえば、そのような誤った信仰から救う、まことの信仰こそが示されなければならなかったのです。そういう、問題の深い部分に触れようとしないで、宗教は怖い、気持ち悪い、といって、ふたをしてしまったのが、今回のあの裁判ではないでしょうか。それは、あのキリシタン弾圧以来変わっていない、日本の深刻な問題だと思います。私たちは、世間こそが神さまになってしまっていて、世間よりもはるか深いところにある私たちの命の源なる神の恵みのうちに共に歩むということがなかなかできないのです。

話をもとに戻しますと、いまユダヤ当局の願いは、イエスさまを死刑に処して抹殺することであったわけですが、民衆の間で影響力の大きかったイエスを死刑にすることは、彼らだけの判断ではできなかったわけです。それで総督ピラトに裁いてもらおうというわけですが、ローマの総督に訴え出るためには、それなりの理由が必要でした。ユダヤでは、イエスさまが自分を神の子であると言ったというだけで死刑に当る罪だということになるのですが、それはローマの法律では通じないのです。

ローマ帝国の総督は、そのようなユダヤ人の間の信仰の問題に口を出すつもりはないのです。ピラトに裁いてもらうためにはもっと政治的な、ローマの支配と権威に触れるような罪状でなければなりませんでした。そのために彼らが持ち出したのが、「わが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っている」ということでした。この男はユダヤ民族を惑わし、ローマの支配にとって都合の悪い影響を与えている、皇帝に税を納めることを禁じている、と言ったのです。

これは事実ではありません。イエスは、以前、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃったことがありました。しかし、それは皇帝に税を納めることを禁じているのではなくて、むしろ認めている言葉です。しかし、いま彼らはこれを曲げて理解し、イエスが皇帝に税を納めるのを禁じた、と言ったのです。さらに、「自分が王たるメシアだと言っている」ともあります。イエスさまがメシア、つまりキリスト、救い主であるかということは先週の最高法院での裁判の中心的な問題でした。しかし、そのことだけではピラトに訴える口実にはなりません。そこで彼らはそこに「王たる」という言葉をつけ加えたのです。来るべき救い主キリストはまことの王として来られる、ということは確かに預言者が語っていたことでした。イエスさまは、人々を罪から救う救い主として来られました。そういう意味では、確かに私たちの王である、わけです。けれども、彼らはいま、明らかにそういう意味ではなく、この世的な、王として、ローマを脅かす王として、イエスは自分のことを「王たるメシア」だと言ったということにしたのです。

 さて、この訴えを受けたピラトはイエスさまに、「お前がユダヤ人の王なのか」と問いかけました。イエスが自分は王だと名乗るとしたら、それは総督としては見過ごすことができないからです。しかしイエスさまは、このピラトの問いに対して、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。イエスさまのこのお言葉は、先週の最高法院における「では、お前は神の子か」という問いに対して、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と答えられたことと重なります。しかし、また、そこにはある決定的な違いもありました。前回のイエスさまのお答えは、彼らに対する問いかけになってしました。わたしが神の子であるなら、それをあなたがたは受け入れ、わたしを信じるのか、という問いかけであったわけです。けれども。今回のこのイエスさまのお答えは、問いかけにはなっていません。イエスさまはピラトの問いかけに、オウム返しのように、「あなたがそう言っている」というだけで、今度は本当に、何も答えておられないのです。

 ところがなぜか、ピラトはこれを聞くと、イエスさまを連行してきた祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。どうして、このイエスさまのお答えに、ピラトはこのような受け止め方をしたのでしょうか? これはなかなか解釈の難しいところですけれども、おそらく、ピラトはイエスさまが何を言っているかわからなかったのでしょう。そして、正直言って、悪い人間にも見えないし、何か自分は面倒なことに巻き込まれている。これはユダヤ人の宗教的な問題だと気付いたのではないでしょうか。そこで、イエスさまが「自分はユダヤ人の王である」とはっきり言わない限り、自分は関わるべきではないと判断したのではないでしょうか。

しかし、ユダヤ人たちはあきらめません。「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張ったのです。すると今度はピラトのほうが、この「ガリラヤから始めて」という言葉にひらめくのです。イエスがガリラヤの出身なら、ヘロデの支配下にある者じゃないか、それなら、ヘロデに判断させよう、ということで、丁度エルサレムに滞在していたヘロデのもとにイエスさまを送ることにしたのです。「そちらの管轄だから」と言って面倒な一件を余所へ回そうということです。こういうことは私たちの社会でもよく行われているわけです。

そして、このヘロデは、ピラトからイエスさまが送られて来たことを非常に喜びました。8節に「イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」とあります。これには伏線がありました。ルカの9章7節以下には、このヘロデが洗礼者ヨハネを逮捕し、処刑したことが語られていますが、そのヨハネの生まれ変わりがイエスだ、といううわさが広がっていて、それを聞いたヘロデが、イエスさまのことを「この人はいったい何者だろう」と思って、イエスさま会ってみたいと思ったということが語られています。ヘロデの心には、自分がしてしまったことへの罪悪感と、それに伴って、イエスさまを恐れる思いが、芽生えてきていたのです。イエスさまを恐れているがゆえに、相手がどのような者か確かめたいと思っていたのです。しかし、そのヘロデが、いまイエスさまにいろいろ尋問しても、また祭司長や律法学者たちがヘロデの前でも激しく訴えても、イエスさまは何もお答えになりませんでした。勿論、何のしるしも、つまり何の奇跡もなさらなかったのです。

その結果ヘロデは、11節にありますように、「自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」のです。イエスさまを恐れていたヘロデは、イエスさまに会ってみたわけですが、そこで何も答えることができない、何の奇跡も行うことができないイエスさまを見て、こんなやつ恐れるに足りない、と思ったのです。彼の恐れは、あざけりの思いに変わりました。そして、「王なら王らしく立派な衣を着せてやろう」という侮辱をイエスさまに加えて、ピラトのもとに送り返したのです。

 以上のような、イエスさまの十字架の死刑が決定する前の、この一連の出来事にはいくつかの興味深いことが示されています。その全てを今日は一つ一つ見て行くことができませんけれども、私たちがここで見つめるべき最も大切なことは、イエスさまが、ご自分を裁いているピラトの前でも、ヘロデの前でも、「沈黙」を守っておられた、ということです。ピラトの問いに対しては、「それは、あなたが言っていることです」という答えにならない一言を語るのみでしたし、ヘロデの前では、もはや何もお答えにならず、全くの沈黙を貫かれたのです。それはなぜなのでしょうか。それは、第一に、ピラトやヘロデが問題としているのは、彼らの握っている政治的権力のことでしかなかったからです。イエスさまはそのようなことについては何も語ろうとはなさらないし、問いかけることもなさらないのです。なぜならイエスさまは、政治的な領域において、この世の支配者と対立して、ご自分が王となろうなどとは少しも考えておられないからです。これが、ピラトやヘロデの前でイエスさまが沈黙しておられたことの第一の理由です。

けれども、イエスさまの沈黙には、さらにそれ以上に大きな意味があるのです。沈黙する、ということは、聖書において非常に大事な、また積極的な意味を持っているのです。そのことを語っている代表的な箇所の一つが、本日みなさんと共に交読しました詩編第62編でした。その2節から3節と6節から7節はこの詩における折り返し、リフレインとなっています。2、節3節には「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」とあります。6節7節には「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない」とあります。

いずれにおいても、沈黙することは、ただ神に向かい、神による救いをこそ求め、そこに希望を置くことを意味しているのです。つまり、聖書において沈黙するとは、ただ語るのを止めて黙ることではないのです。あるいは、自分の内面を見つめ、いわゆる内省をすることでもありません。最初に申し上げましたように今日は日本のかつての戦争と終戦を覚える平和聖日であるわけですが、一般的には、このようなとき私たちは黙祷をささげます。しかし、本来その黙祷というのは、ただ黙っている、また内省している、ということではないのです。沈黙するとは、私たちが人間との関係、関わりからいったん目を離して、神様に向かうことです。人間の言葉を語り、聞くことをやめて神様のみ言葉に耳を傾けることです。そこでこそ「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔」ということが示され、「わたしは決して動揺しない」という力強い歩みが与えられていくのです。

 詩編62編を歌った詩人は、決して平穏な、外界の雑音から遮断された静かな場所にいたのではありません。彼は敵に攻められ、苦しめられているのです。欺きの言葉、口先で祝福し、腹の底で呪うような言葉が彼の周囲に満ちているのです。そのような人間の言葉が毒矢のように飛び交っている現実の中で、この人は、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と言っているのです。この詩人の思いは、ピラトやヘロデの前で沈黙しておられたイエスさまの思いでもあったのではないでしょうか。イエスさまは沈黙して、ただ父なる神様のみを見つめつつ、人間たちの空しい傲慢な言葉に耐えておられたのです。そしてただ我慢しておられただけではなく、それらの人間の罪をご自分の身に背負って、十字架の死への道を歩んでおられたのです。イエスさまが罪のない方でありながら、人間の裁きを受け、その中で沈黙してただ神に向かい、神にのみ望みを置いて十字架の死へと歩み通して下さった、そのおかげで、私たちは、罪を赦され、新しくされて、空しい偽りの言葉ではなく、互いに愛し合う新しい言葉を語っていくことができるものへと変えられていくのです。

 先週見つめたように、私たちは自分の思いによってイエスさまを裁こうとする者です。しかし、同時に、私たち自身も、イエスさまがピラトやヘロデの下で体験なさったように、人々に裁かれ、人間の言葉、口先で祝福し、腹の底で呪うような欺きの言葉によって傷つけられています。傷つけられる苦しみ悲しみを知っているはずの自分も、そのような言葉を語り、人を傷つけてしまうことを繰り返しています。そのような罪深い私たちのために、イエスさまは罪がないのに人間による裁きを受けて下さり、その苦しみの中で沈黙してただ神に向かうという模範を示して下さいました。今日、平和聖日にあって、私たちは、そのことを覚え、主なる神のみ前に、沈黙したいと思うのです。その沈黙のなかで、二度と戦争は繰り返してはならない、という命題を、戦争は何によりも神さまへの罪なのだ、といくことを深く自覚しつつ、主のみ言葉に耳を傾けていきたいと思うのです。そして、その中から、まことの平和の道を示されつつ、国際的にも、そして身近な人間関係においてもまことの平和を築いていく一人ひとりとなっていきたいと願います。

 祈りましょう。主なる神さま 今日、平和聖日にあって、わたしたちは、あなたの御子が、当時の政治的指導者たちの、政治的な駆け引きに利用されながら、ただそこに沈黙して、あなたにのみに心を向けておられる姿を垣間見ることをゆるされました。そして、そのような彼らの罪をも含めた、わたしたちの罪の全てを背負って十字架へと向かって行かれた姿を垣間見ることをゆるされました。主よ、どうか、私たちも、今それぞれの人間的な駆け引きから抜け出し、あなたのみに心を向ける、その沈黙を歩むものとならせてください、そして、しっかりとあなたの御声を聞き、キリストの平和に生きるものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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category: 礼拝メッセージ

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創立70周年記念事業 

創立70周年記念事業の中心である内装工事がほぼ終了しました。

礼拝堂
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1階受付奥給茶室
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2階集会室(木曜集会、役員会)
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2階集会室(CS分級)
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礼拝堂
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1階小集会室
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category: イベント

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聖霊降臨節第11主日礼拝 

2018年7月29日(日)ルカ福音書 第22章63-71節
「神の子イエス」三ツ本武仁牧師

 今日は、今は老人ホームにおられるSさんのお誕生日です。先日、妻と一緒にそのSさんを訪ね、誕生カードとペンテコステの記念写真をプレゼントして参りましたら、大変喜んでくださいました。今NHKで「半分、青い」というドラマをしていますが、Sさんにお元気ですか? とお聞きしますと「半分、元気!」と答えて笑っておられました。
 それからおかげ様でCSキャンプも無事終えることができました。今年は豪雨に始まり、異常な暑さで熱中症で多数の死者が出ているということや、台風が迫ってきているという前から後からの不安な要素に囲まれていましたが、驚くことに、キャンプの間はちょうど良い気候に恵まれ、怪我人もなく、こどもたちは最高の夏のキャンプを味わうことが出来たようです。これも神さま皆さまのお陰と感謝しております。それから最後に、今日の礼拝は、創立70周年記念事業の会堂改装工事のただ中での礼拝となりました。両壁が、鉄筋の作業の足場にかこまて、その間を白い幕が張っていますけれども、ふと、わたしは、旧約時代の「幕屋の礼拝」を思いました。旧約の民は荒野の40年をこんな幕屋で礼拝を守っていたのではないでしょか? その気分を味わえるとは、私たちは大変恵まれた、貴重な体験をさせていただいていると思います。作業方々も、快く大変丁寧に仕事をして下さっています。リーダーのSさんは、正面の聖壇の張替えを終えて「十字架いいですね」と言っておられました。もしかしたら信仰に導かれるかもしれません・・・。引き続き皆さまのお祈りをよろしくお願いいたします。

さて、私たちはルカによる福音書を読み進めていますが、前回のところには、イエスさまが逮捕をされ、大祭司の家へと連行されたこと、その後をそっとついて行って大祭司の家の中庭に入り込んだ弟子のペトロが、周囲の人々から「あなたもあのイエスの仲間だろう」と言われて、三度、イエスさまを「知らない」と言ってしまったことが語られていました。それに続いて、今日の箇所、22章の終りの63節以下には、その捕えられたイエスさまが見張りをしている者たちによって侮辱を受けたこと、そして夜が明けて、ユダヤ人の最高法院に引き出されて、裁判を受けたことが語られています。

最高法院といいましても、当時のユダヤの場合は、政治的にはローマ帝国に支配されていましたから、もっぱら宗教的な問題に関わっていたというのが実情であったようです。このイエスさまの裁判で問われたことも、宗教的、信仰的な事柄でした。すなわち、イエスさまが、主なる神様と、どのような関係にあるのかが問題とされたのです。  

そこでます、問われたことは、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」ということでした。「お前は自分を神から遣わされた救い主キリストだと言うのか、そうならそうとはっきり言え」ということです。それはまさに、イエスさまがご自分と神様との関係をどうとらえているのか、という問いであるわけです。

 けれども、この問いに対して、イエスさまは、「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう」とお答えになられたのです。このイエスさまのお答えは一体、どういう意味なのでしょうか。これが今日のところの1つのポイントかと思います。・・・「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」イエスさまの前半のお答えは、彼らは、イエスさまに問うているけれども、その答えを聞いても、それを信じようとは全く考えていない、そのことを見抜かれて、イエスさまが言われたお言葉です。彼らが考えているのは、はじめから、イエスさまを有罪にするための材料を得ようということだけなのです。この方が救い主なら、それを受け入れ、この方に従っていこう、そしてその救いに与らせていただこう、ということは、これっぽっちも思っていない。ただイエスさまを批判する材料を得るためだけに彼らは、イエスさまを捉え、裁判にかけているのです。

それから、イエスさまがこのお答えの後半で言われたことは、「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」ということでした。イエスさまに「あなたは救い主なのか」と問うことは、逆にイエスさまから、「では、あなたは私を救い主と信じるのか」と問われることと1つなのです。しかし、彼らは、そのことに気づいていないし、また仮に気づいたとしても、そのイエスさまからの問いに答える気は全くないのです。あくまでも尋問しているのは自分たちであって、イエスではない、という態度なのです。

本来、信仰の問題とは、命にかかわる決定的な問題なのです。その道を信じるのか、信じないのか、それはその人の人生を決定的に左右するのです。およそ、人生の選択というものは、みな大なり小なりそういう面があるわけです。どの学校に行くか、どの仕事につくか、誰と結婚するか、どこに住むか、そういった私たちの人生の選択は、明らかに、私たちの人生に大きな影響を与えているし、与えてきたし、与えていくのであります。ましてや、信仰の選択というのは、それら人生の選択以上に大きいのです。イエスさまに問う、ということは、その人が意識していようと、いまいが、イエスさまと関わるということです。イエスさまと関わるというのは、本当をいえば、イエスさまから関わっていただく、ということです。すなわち、私たちは、イエスさまに問うとき、反対にイエスさまから問われているのです。それであなたはどうするのか、私を受けれ、私を信じ、私と共に歩んでいくのか、それとも、私を信じぜず、私と距離をおき、私から離れていくのか、そのことが、イエスさまに私たちが関わろうとするとき、反対に、問われるのです。

そして、私たちが自分の人生をかけて、イエスさまからのそのような問いかけに、はいあなたを信じますと、答えていくなら、イエスさまは、愛をもってそれに答えてくださるのです。けれども、そういう思いがないのであれば、まさに、このときイエス様を裁判にかけた人々のように、最初から、イエスさまを受け入れる気などない。自分が問うているのであって、イエスさまから問われるなど、そんなことは考えようともしない、そういう思いで、全く自己中心的な思いで問いかけてくる者には、イエスさまも、決して、まっすぐには答えてくださらないのです。

 しかし、イエスさまは、彼らの問いにはまともに答えないながらも、ここで決定的なことをお語りになりました。それが69節です。「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」このみ言葉です。「人の子」というのは、イエスさまがご自分のことをおっしゃる時にお使いになった言い方です。つまり、今から後、私は全能の神の右に座るのだとおっしゃったのです。「今」というのは、このように捕えられ、裁かれ、その日の内に十字架につけられて、殺される、そして三日目に復活して、その後、天に昇られる、それら全てを含めた「今」でしょう。イエスさまは、ご自分が十字架の死と復活と昇天とを経て全能の父なる神様の右に座ることになると言われたのです。これは彼らの問いに対する答えではなくて、イエスさまご自身の宣言であります。イエスさまは、ご自分が神の右に座す救い主であられることを、彼らの問いに対する答えとしてではなくて、ご自分からの宣言として語られたのです。そして、その宣言はやはりそれを聞く者たちへの、つまり私たちへの、問いかけであるわけです。わたしが、今や全能の神の右に座している救い主であることをあなたは信じるか、とイエスさまは、私たちに問いかけておられるのです。私たちの信仰は、この問いと向き合うことによってこそ与えられるのです。

 しかし、これが自分に向けられている問いだと感じない者たち、イエスさまを裁き、尋問しているとしか思っていない者たちは、この言葉に「しめしめ、してやったり」と、ほくそ笑んだのです。そして、「では、お前は神の子か」、そう言ったのか、と問うたのです。全能の神の右に座るということは、自分を神と同等の者としていることです。ということは、自分のことをお前は、「人の子」と言っているけれども、実は自分を「神の子」としていることではないか、ということです。イエスさまがそれを認めれば、もうこの裁判は終りです。彼らの理解では、自分を神と等しいと考える人間は、神を冒涜するとんでもない人間であって、明らかにそれは「有罪」となるからです。

 と、この彼らのこの問いに対して、イエスさまは、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」とおっしゃいました。このお言葉もまた、どう理解したらよいのか、なかなか難しいところです。ただ、先ほども申しましたように、イエスさまに問うことは、イエスさまから問われることだ、ということを念頭に置くとき、その正しい意味も理解することができるのではないでしょうか。イエスさまは彼らの問いに答えようとはなさらずに、むしろ、ご自分に問うている者たちに、考えさせようとしておられるのではないでしょうか。・・・私が神の子であるということをあなたがたはどう考えるのか。つまり、私を神の子と信じ、従うのか、それともそれを否定して私を抹殺しようとするのか、あなたがたはどちらの道を選ぶのか。と、そうイエスさまは問いかけておられるのではないでしょうか。

 このように、このイエスさまの裁判の場面で問われているのは、イエスさまが救い主キリストであるかどうか、また神の子であるかどうか、ということです。人々はそのことをイエスさまに問い、イエスさまがそれにどう答えるかによって、イエスさまを裁こう、有罪か無罪を決めようとしたのです。・・・しかし、この裁判で起ったことは、逆に彼らがイエスさまによって問われたということでした。私が救い主キリストだと答えたら、あなたがたはそれを信じるのか、私の与える救いにあずかろうとするのか、そういう思いなしに私に「お前は救い主か」と問うことは、無意味ではないか、また、あなたがたは、私が神の子かと問うが、あなたがた自身はどう思っているのか、私を神の子と信じるのか、それとも拒むのか、そのようにイエスさまの方が彼らに問うておられるのです。

つまり、イエスさまを裁いているはずの人々が、逆にイエスさまによって裁かれているのです。・・・この裁判において起ったことを、私たちも、イエスさまを信じる信仰を与えられていく中で体験しているのではないでしょうか。・・・私たちも、最初は、あたかもイエスさまを尋問するような思いでいたのではないでしょうか。「あなたは救い主キリストなのか、私にわかるようにはっきり答えを与えてみろ」、「あなたが神の子だというなら、その証拠を見せてみろ」、・・・聖書と教会に出会い、信仰について考え始めた頃、私たちは、そのような問いを、イエスさまに投げかけてきた、投げかけているのではないでしょうか。けれども、そういう問いに対して、イエスさまご自身も答えてはくれません。そのような問いからは、イエスさまへの信仰は決して生まれないからです。

私たちが信仰者となるためには、そこで逆転が起らなければなりません。イエスさまに問うている自分が、実は今まさに、イエスさまから問われているのだ、ということに気付かなければならないのです。イエスさまは私たちに、「あなたは私が救い主か、神の子かと問うているが、もし、私が救い主ならその救いを得たいと本当に願っているのか、私を神と信じて、礼拝し、従う者となろうとしているのか。自分の人生をかけてその問いを私に投げかけ、その答えによって自分が新しくされ、変えられることを受け入れる覚悟があるのか、そういうイエスさまからの問いかけの前に自分が立たされていることを覚え、その問いと真剣に向き合い、それに答えていくことによってこそ、イエスさまは救い主キリストなのか、神の子なのか、という問いへの答えが与えられるのです。そして、そこで初めて、私たちは信仰者となることができるのです。新しく生き始めることができるのです。

私たちはともすれば、イエスさまに対して、また神様に対して、尋問を始めます。これはどうなのか、あれはどうなのか、あなたは何をしているのか、と問い、その答えによって自分が神様を裁き、有罪か無罪かを決めるような思いに陥っていきます。そのような私たちの姿は、本日の箇所の前半、63説~65節の、イエスさまを侮辱した見張りの者たちにおいても描かれていたと言えるでしょう。彼らはイエスさまに目隠しをして殴り、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言いました。普通の囚人にこんなことはしません。これは、イエスさまが、神様のみ言葉を告げる預言者として活動しておられたことを受けてのことです。つまり「お前が神から遣わされた預言者で、神の言葉を語ることができるなら、誰が殴ったかも分かるだろう、言い当ててみろ。そうすれば、お前が預言者だと認めてやる」ということです。じっさいは、イエスさまは預言者以上のお方だったわけですけれども、彼らはそもそも、イエスさまを預言者としてさえ敬おうとなどは全く思っていないわけです。神さま中心に生きようとは思っていない、ただ自分中心の思いに囚われ、そのとりこになっているのです。イエスさまを侮辱し、暴行を加えている者たちと、イエスさまを裁いている最高法院の人々とは、全く同じ思いなのです。そして、私たちも、それと同じ思いで、イエスさまを見つめ、イエスさまに問うていることがあるのではないでしょうか。

わたしは今回、この見張りの者たちが、イエスさまを侮辱して殴った、というところを読んで、はっといたしました。最近日本で起こりました、ある保護者が幼い子を虐待し、殺してしまった、という事件を思い出したからです。この見張りの者たちがしたことは、遠い昔のことではないのです。私たちの身近な社会で起こっていることです。いや、そんなふうに他人事にしていいのでしょうか。見張りの者たちがイエスさまにしたこと、それは、私たちが、世の中で起こる、自分にとって、腹立たしいこと、悲しいことを、神さまに向かって、イエスさまに向かって、神さまなら何とかしてくれ、イエスさまなら何とかしてくれ、と、そこには神さまやイエスさまを敬う気持ちなどない、ただ、この自分の思いを何とかしてくれ、と自分中心になって、その気持ちを神さま、イエスさまにぶつけていく、その姿と同じなのだとするなら、あの痛ましい、幼児虐待事件というものも、自分とは、全く関係のない罪、というふうに片付けることはできないのではないか、それもやはり私達人間が起こした事件であって、私たち人間はみな誰もが、そういう誠に自分勝手な罪を秘めている、ということなのではないでしょうか? それから、あのオウム真理教事件のことも思います、私たちはあの教祖をはじめ、裁判によって彼らの多くを死刑にしてしまいましたが、本当にあれでよかったのでしょうか。彼らがしたことは確かに大変な過ちであります。けれども、神さまは、イエス・キリストは、彼らが犯した罪の報いとして、他の人間が、裁きの座について、死刑を執行して、それで問題は解決したとする、臭いものには蓋をして終わりにしてしまう。そういうことを本当に望んでおられるのでしょうか。ある牧師は、罪人一列、神の前に、人は皆等しく罪人である、といいました。私たちはやはり、そのことを心に留めなければならないと思うのです。

今日の聖書が語っているのは、私たち全ての人間の問いつめと、尋問、その裁きの下で、イエスさまが侮辱を受け、暴行され、そして十字架につけられて殺されていった、ということです。・・・しかしまた、そのイエスさまの苦しみと死とによって、父なる神様は、私たちに救いを、罪の赦しを、与えて下さった、というのです。私たちの目を覆いたくなるような罪が、赤裸々に示されていく、その中で、その罪を黙って御子イエスが背負っていかれる、そのようなかたちで、そのような大変衝撃的な、印象深い仕方で、私たちの心に、人間の歴史に、深く刻まれていくかたちで、神さまの、私たちの罪の赦しのみ業が進められていったのだと聖書はいうのです。

 そして、私たちは今、そのようなみ業をなされた神様から問われているのです。あなたはこのことを信じるか。神の子であるイエス・キリストが、あなたのために、あなたの罪を全て背負って、十字架にかかって死んだことを信じるか、そして、その主イエスが復活して、あなたの永遠の命の先駆けとなり、今や父なる神の右に座してあなたを、また、この世界を導いておられることを信じるか、と、そう問われているのです。この問いと真剣に向き合っていく中で、今、私たちに神様が求めておられることが何であるのかも示されていきます。私たちの使命を示されていきます。今のこの世界、この私たちの国、私たちの社会には様々な問題があります。それらの問題が山積する中で、どうしたらよいか分からない思いを私たちは抱いています。しかし、その一つ一つのことを、神様から与えられている問いとして受け止め、私たちの罪を背負って苦しみを受け、死んで下さった主イエスのまなざしの中で、その問いに真剣に向き合っていきたいと思いまです。そして、そのようにして、神様の前に、ともに誠実に歩んでいきたいと願うのです。

 お祈りいたしましょう、
 主なる神さま、あなたの御子を捉え、侮辱し、暴行を加えた者たち、また、あなたの御子を裁判にかけ、あなたの御子を神の子だと、信じることも、敬う思いもないままに、最初から有罪にするつもりで、御子を陥れていった者たちを、私たちは、決して自分のこととは考えておりませんでした。あなたの御子が、わたしたちの罪を全て背負って、私たちのために十字架にかかって、死んでくださり、そして、わたしたちに永遠の命を約束するため復活され、いまは天にあってあなたの右の座で、わたしたちを見守り、聖霊を送ってくださっているあなたの御子キリストを信じる信仰を、今日新たに、私たちにお与えください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第10主日礼拝 

2018年7月22日 ルカによる福音書 第22章54-62節
「主イエスのまなざし」  三ツ本武仁牧師

 先週の火曜日17日から香里教会の70周年創立記念事業の目玉である内装工事が始まりました。二階の集会室の天井と壁の塗装から始まって、昨日は礼拝堂の塗装準備として、座席の一列が撤去されて、臨時倉庫に収納されました。暑さ厳しい中、工事の方々が一所懸命ペンキを塗ってくれていて、冷たい缶コーヒーを差し入れしますと、大変喜んでくだいさいました。

 さて、今日お読みします聖書の箇所は、最初の54節にありましたように、ついにイエスさまが、捕えられて、大祭司の家に連行されていった場面であります。そして、そのように連れられていくイエスさまに、弟子の一人であるペトロが「遠く離れて従った」ということが語られているのです。この「従った」という言葉は、弟子たちがイエスさまによって召されて弟子となり、イエスさまに従って行った、という時に使われるのと同じ言葉です。つまり、ペトロはイエスさまが逮捕されてもなお、弟子として主に従って行ったのです。けれども、今、そこには「遠く離れて」という言葉が加えられているわけです。

イエスさまのすぐ後につき従って行くことができない、遠く離れて、人目を避けるようにこっそりと従って行くことしかできない、そういうペトロの姿がここには描かれています。イエスさまが逮捕された今、弟子たちだってどういう目に遭うかわかりません。そういう危機的な状況の中で、言い換えれば、信仰の試練の中で、なおイエスさまに従おうとはしているけれども、恐れに捕えられ、人目をはばかりつつ、遠く離れて、ペトロは従っているのです。このペトロの姿は、このときの弟子たち全体を代表している姿であり、そしてまた、私たち信仰者みなを代表している姿だともいえるのではないでしょうか。イエスさまに従うことがキリスト者の信仰です。私たちはその信仰に生きることを決意して洗礼を受け、信仰者として歩んでいくのです。しかし、その私たちも、様々な苦しみ、試練に遭う時、しばしば恐れに捕えられ、イエスさまから遠く離れて、イエスさまとある程度の距離をおいて、その意味で、大変おぼつかない足取りで、主に従うことしかできなっていることがしばしばあるのではないでしょうか。

 じっさいに年をとられて、足がよたよたしてきた、ということを訴えられる方がおられますけれども、年齢に関係なく、私たちは信仰の足取りがよたよたしてくることがあります。ペトロは今そのように信仰的に頼りなく、遠く離れて主に従い、イエスさまが連行された大祭司の家の中庭に入り込んだのです。人々がその真ん中に焚き火をしてその周りに座っていたので、彼もその人々の中に紛れ込んだのです。その人々から見える所に、逮捕されたイエスさまが、見張りの者たちに囲まれているのです。63節以下には、イエスさまがその見張りの者たちから侮辱を受けたことが語られています。ペトロはその様子を、焚き火を囲んでいる人々に紛れてそっと伺っていたのです。きっとペトロは居た堪れない思いで、その様子を見ていたことでしょう。

すると、そこで、ある女中がペトロをじっと見つめて、「この人も一緒にいました」と言いました。原文では、この人も彼といっしょにいた、という言い方になっています。この人、ペトロも、あのイエスと一緒にいた、ということです。それは事実であります。しかし、ペトロは咄嗟にそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言ったのです。また少したって、他の人が、ペトロを見て「お前もあの連中の仲間だ」と言います、するとペトロは今度も「いや、そうではない」と言いました。それは直訳すれば「私は違う」という言葉です。

そして、それからまた一時間ほどたって、別の人が「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い出したのです。この人は「ガリラヤの者だから」という根拠を語っています。おそらくペトロの言葉にガリラヤなまりがあったのでしょう。だから確信を持って「確かにこの人も一緒だった」とその人は言ったのです。しかし、ペトロはそれに対して、「あなたの言うことは分からない」と言いました。「あなたが何を言っているのか、私にはさっぱり分からない」という感じです。こうして、ペトロは、三回にわたって、要するに、イエスなんて知らない、そんな人のことは分かりません、と自分とイエスさまとの関係を公に徹底的に否定したのです。

みなさんは、自分のイエス・キリストへの信仰を、このペトロのように、はっきりと否定した、という経験があるでしょうか。わたしたち日本のクリスチャンは、その性質といいますか、性格的に、いくらその時、様々な思いがそこに働いて、自分の信仰を今は隠しておきたいという状況になったとしても、このペトロのように、周りの人に面と向かって、自分の信仰を人に向かって否定する、打ち消す、ということはないかもしれません。しかし、圧倒的にノンクリスチャンが多い日本社会にあって、さもクリスチャンでないかのように振舞ってしまう、クリスチャンだと気づかれないように振舞う、そういうことは、しばしばあるのではないか、と思うのです。

その原因は、やはり、わたしたち自身の弱さにあるわけですけれども、日本人固有の問題として、最近読んだ本に書かれていたのですけれども、あの豊臣、徳川、そして明治時代における、世界にも類を見ないほどの残酷、残虐なキリスト教徒への迫害の傷跡、恐れが、いまだに尾を引いている、ということもあるようです。ザビエルが日本に来日した室町時代から安土桃山時代にかけて、かなりの日本人がクリスチャンになったようなのです。とくに、大阪、京都では、私たちの想像する以上に、クリスチャンたちがいたようで、このあたりでは高槻の高山右近が有名ですけれども、大名がクリスチャンになる、ということはその町全体がクリスチャンであったわけです。

お隣の四條畷市も、飯盛山城主がクリスチャンになって町全体がクリスチャンだったと、四條畷市の資料でも、はっきり書かれています。昔、四條畷には江戸時代には埋め立てられてしまいましたけれども、大きな池があって、そこにイースターやクリスマスになると、美しく飾られた舟が何隻も出て、町全体で、お祝いをしていたそうです。しかし、その後に、本当に激しい弾圧があって、教会は焼かれ、日本中でクリスチャンであることが公に出来なくなった時代が何十年とつづいてしまった。その中で、クリスチャンたちは、隠れキリシタンになっていったわけです。歴史の中で繰り返し迫害をされてきた、ユダヤ教徒は、この日本の隠れキリシタンに大変親近感を覚えるそうです。話が横道にそれましたけれども、そのようなわけで、わたしたち日本のクリスチャンは、どこかで、最初から隠れキリシタンみたいなところがあって、なかなか、世の中で公に自分はクリスチャンですと言えない、そういう日本独特の雰囲気がある、ということは確かにあるかもしれません。しかし、それでも、やはり、それは根本的には、今日のペトロと同じなのです。

ペトロの場合は、公に、「わたしはあの人を知らない」、「私は違う」、「あなたの言うことは分からない」、と三度、主イエスを知らないと言ってしまいました。いや、その最後の言葉をまだ、言い終わらないうちに、突然、鶏が鳴いたのであります。そして、その声を聞いたイエスさまは、振り向いてペトロを見つめられたのです。イエスさまは、ペトロがこの中庭に来ていることをご存じであり、鶏が鳴き、あの予告が実現したことを知ると共に、ペトロを見つめられたのです。その主イエスのまなざしを受けて、ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という主のお言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いたのです。

 これは大変心打たれる場面でありますが、この箇所において、私たちが一番心を止めるべきことは、イエスさまが振り向いてペトロを見つめられた、するとペトロは主の言葉を思い出した、ということにあります。ペトロが主の予告の言葉を思い出したのは、鶏の鳴く声を聞いて「そういえば主はああ言っておられた」と思い出したのではありません。「主は振り向いてペトロを見つめられた」、それによって彼は主の言葉を思い出したのです。この時、この大祭司の家の中庭で、主イエスとペトロの目が合ったのです。周りの人々は誰も気付いていない中で、いわゆる「アイ・コンタクト」が生じたのです。そのことが、ペトロに大きな衝撃をもたらしたのです。それこそが、聖書がここで語ろうとしている最も大事なことだと思うのです。

 振り向いてペトロを見つめた主イエスのまなざしはどのようなものだったのでしょうか。それは何を語っていたのでしょうか。イエスさまとペトロの間に、ここでどのようなアイ・コンタクトがなされたのでしょうか。「それ見たことか、お前は『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』などと威勢のよいことを言っていたが、結局私が言った通り、三度も私を知らないと言って、私との関係を否定してしまったではないか」。・・・主イエスのまなざしは、そのようにペトロを責めていたのでしょうか。ペトロはイエスさまのその叱責のまなざしに触れて、自分の信仰の挫折を予告しておられた、主のみ言葉がその通りになったことに思い至り、どこまでも主イエスに従って信仰を貫くことができると、自分の力、自分の信仰に信頼し、自信を持っていたことがいかに愚かな思い上がりだったのかを思い知らされ、そのような悲惨な痛みの中で、外に出て激しく泣いたのでしょうか。

・・・そうではないと思うのです。ペトロを見つめた主イエスのまなざしは、彼を叱責していたのではなくて、むしろ、この22章の31節、32節でイエスさまがペトロに語られたみ言葉を、もう一度、語りかけていたのではないでしょうか。すなわち、それは「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というみ言葉であります。シモン・ペトロは今、まさにサタンのふるいにかけられ、その試練の中で信仰の挫折に陥り、主イエスとの関係を否定し、弟子として従っていくことができなくなってしまったのです。そういうことが起ることを、主イエスはご存知でした。ペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いましたけれども、そのペトロの覚悟など、サタンによる試練の中ではひとたまりもないことを主イエスは知っておられたのです。しかし、そういう弱いペトロを、主イエスは責めたり、断罪して見放そうとしておられるのではなくて、むしろ、彼のために、彼の信仰が無くならないように、祈って下さっているのです。

振り向いてペトロを見つめた主イエスのまなざしは、ペトロのためのこの祈りをこそたたえていたのではないでしょうか。ペトロは、主イエスのまなざしに、三度「知らない」と言ってしまった自分のために、なお祈っていて下さっている主イエスの愛と慈しみをこそ見たのではないでしょうか。「信仰が無くならないように」というのは、彼と神様との、そして主イエスとの、関係が失われてしまわないように、つながりが断ち切られてしまわないように、ということです。ペトロは、主イエスのことを「知らない」と言ってしまい、主イエスとの関係を、つながりを、自分で断ち切ってしまったのです。しかし、主イエスは、その関係を、つながりをどこまでも保ち続けようとしておられます。そのために祈って下さっているのです。

その祈りの一つの具体的な現れが、22章42節にありました、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という、いわゆるゲッセマネの祈りなのです。試練の苦しみの中で信仰を失い、神様との関係を断ち切ってしまう人間の罪を、神様の独り子である自分が背負って十字架にかかって死ぬことによって、彼らの罪が赦され、神様との関係が保たれる、それが父なる神様のみ心であるなら、そのみ心に従って十字架への道を歩み通そう、そういう祈りの戦いを主イエスは戦って下さったのです。これこそが、私たちの信仰が無くならないようにとの主イエスの祈りです。ペトロは主イエスが自分のためにこのように祈り、その祈りの通りに生きて下さっていることを、あのまなざしの中に見たのです。その時、彼は初めて、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃった主のお言葉の本当の意味を悟ったのです。

それは、「お前は強がっていても結局は私を裏切る情けない人間なのだ」というダメ出しでもなければ、「このままだとこんな情けないことになるぞ。だからもっとしっかりして、私にこんなことを言われないような人間になれ」という叱咤激励でもなくて、サタンのふるいの中でひとたまりもなく信仰を失い、主イエスとの関係を断ち切ってしまう弱く罪深い自分を、主イエスは、それでも見捨てることなくどこまでも愛し、その自分のために祈り、つながりを持ち続けて下さるという、イエスさまのその強い意志、決意を示すお言葉だったのです。主イエスご自身のこの強い意志・決意によって、ペトロと主イエスとの関係、つながりは、たとえ、ペトロがそれを否定し、拒み、もう自分は関係ない、主イエスと共に生きるのはやめた、と宣言してしまったとしても、なお、つながり続けるのです。

 主イエスのまなざしによって、このみ言葉の本当の意味に触れたペトロは、外に出て激しく泣いたのです。ペトロがそこで流した涙は、どのような涙だったのでしょうか。自分のために、信仰が無くならないようにと祈って下さっている主イエスの愛と慈しみをそのまなざしに見出した彼は、それゆえにこそ、ますます深く、自分がしでかしてしまったことの罪深さに気付いたのではないでしょうか。このように自分のために祈っていて下さり、自分とのつながりをどこまでも保ち続けようとして下さっている主イエスを、自分は、三度も、知らないと言ってしまった、主イエスとの関係を否定してしまった、裏切ってしまった、そういう取り返しのつかないことを自分はしてしまったのだ、その事実に、彼は愕然としたのではないでしょうか。

それは、私は、私だけでなく人間は、弱いもので、試練の中で信仰の挫折に陥ることがある、み心に従うことができなくなってしまうことがある、失敗してしまうことがある…、そんなふうに説明し、言い訳することのできない、もっと自分の存在の根底を揺さぶられ、その土台がガラガラと崩れ落ちていくような体験ではないでしょうか。ペトロは、そういう、とりかえしのつかない自分の罪の悲しみの中で激しく泣いたのです。ペトロはここで、ある意味で、本当に絶望したのです。望みを失ったのです。自分の中にある、自分の力でどうにかすることのできる望みの根拠はもう何もなくなったのです。しかし、そのように全ての望みを失ったペトロを、イエスさまのあの祈りがなお支えているのです。けれども、ペトロがその祈りによって立ち直ることができたのは、いま、この時ではありません。そのためには主イエスが先ず、十字架にかかって死ななければなりませんでした。そして、復活しなければならなかったのです。次にペトロが登場するのは、イエスさまの復活が告げられたその場面です。彼のために十字架にかかって死に、そして復活して下さった主イエスが、もう一度、彼と出会い、彼を招いて下さることによって、ペトロはこの涙から、絶望から、立ち直り、主イエスを信じ、従っていく者として、新しく立ち上がることができたのです。

今みなさんの書いてくださった記念文集の原稿をパソコンに打ち込む作業をさせていただいていますが、みなさまの言葉に感動し、多くを教えていただいている毎日であります。その中で、「花は咲く」という歌が好きです。ということで、その歌詞を紹介してくださった方がありました。♪悲しみの向こうに誰かの歌がきこえる♪誰かの未来が見える♪いつか生まれる君に花が咲く。・・・そのようにその歌詞を紹介してくださった後で、こう綴っておられました。そういう所にひそやかに花が咲くというのです。苦しみの中でこそ希望が待っていると思うと不思議な力が湧き上がってきます。私は今日の聖書箇所に照らして、まさに、この歌は、今日のペトロの姿に、そして試練の中に生きる私達信仰者の姿にぴったりと重なってくる歌だな、と思わされました。

 この後、ともに讃美歌197番を歌います。「三たびわが主を否みたる 弱きペトロをかえりみて 赦すはたれぞ 主ならずや」と歌う讃美歌です。最終的にはそういうことになります。しかし、ペトロはあの主イエスのまなざしによって、ただちに赦しの恵みにあずかれたわけではないのです。そのためには、主イエスの十字架の死と復活が必要だったのです。

私たちにも、私たちのため、いやこの私のために救い主として、この世に来て下さった主イエス・キリストが、今、私たちをどのようなまなざしで見つめておられるのか、そのことを覚え、そして、その主のまなざしを受けて、私たちも、主イエスを見つめ返して生きていくことが求められています。ペトロがそうだったように、様々な試練の苦しみの中で、私たちはまことに弱い者であり、自分の決意や覚悟などすぐにどこかへ吹き飛んでしまう者であります。そして、その中で、とりかえしのつかない罪の中で、激しく泣かざるを得ない者です。しかし、その私たちの信仰が無くなってしまわないために、主イエスが今も祈っていて下さっているのです。そして、私たちとのつながりを保ち続けて下さっているのです。そのことを語っている主イエスのまなざしの中で生きることが、私たちの信仰であり、そこにこそ、私たちの絶望を乗り越える救いがあるのです。

お祈りいたしましょう。ペトロの中に、わたしたちの経験する、人間としての弱さ、あなたに対する信仰の弱さ、そして、そこから生じる、わたしたちの悲惨と絶望を、わたしたちは今日それぞれにまさに自分のこととして見るものでありました。信仰が試される大事なときに、あなたから遠く離れ、あなたを知らない素振りをする、そういうことを私たちは何度繰り返してきてしまったことでしょうか。しかし、そのようなわたしたちを、いまあなたの御子のまなざしが、そのようなあなたのために、あなたが立ち直るようにと、私たちは祈っていると語りかけてくださっています。涙と共に種をまく私たちが、今日喜びの歌と共に帰ってくることができますように、わたしたちの弱さも絶望も益とし、救いの恵みに変えてくださる、あなたの愛に憩うものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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聖霊降臨節第9主日礼拝 

2018年7月15日 ルカによる福音書 第22章47-53節
「闇の中で輝く光」三ツ本武仁牧師

 今日ご一緒に読むルカによる福音書第22章47節以下のところは、「イエスがまだ話しておられると」という言葉で始まっています。前回のところでイエスさまは、弟子たちといわゆる「最後の晩餐」をとられた後、オリーブ山に行き、そこで祈りの時をもたれました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」・・・そのようにイエスさまは祈られたのです。

 イエスさまは、自らの思いや願いを神さまに打ち明けつつ、しかし、そこからさらに神様の御心に従わせていく信仰の戦い、祈りの戦いを戦われたのです。そして、イエスさまは弟子たちにも、この祈りの戦いを共に戦うことをお求めになったのです。自分中心の信仰から、ゆだねる信仰へ、ということですが、しかし、これは、神さまに全てを丸なげして、自分では何もしない、ということではないのです。漢文に由来する言葉に「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。人事を尽くして天命を待つ、私たちも、キリスト者もやはり様々な課題に向かって、それぞれに自分たちにできるかたちで、人事を尽くすのです。このたびの西日本豪雨に見舞われた被災地で、いま懸命に、救命活動、ボランティア活動がなされています。また救援募金の呼びかけも始まっています。そうしたことに、私たちも当然ながら人事を尽くします。それは言い方を変えれば、変えられるものは変えていく勇気をもつ、ということだといえるかもしれません。これはアメリカの神学者であるラインホールド・ニーバーの言葉ですけれども、変えられるものは変える勇気を持つ、変えられるものには人事を尽くすのです。

 けれども、それに対して、イエスさまが、ここで言われる「ゆだねる信仰をもちなさい」というのは、そのニーバーの言葉でいえば、変えられないものを受け入れる心の静けさを持つ、ということではないでしょうか。変えられないものを受け入れる心の静けさを持つ、そのためには、神さまにゆだねる信仰がどうしても必要になってくるのです。では、私たちにとって変えられないものとは何でしょうか。・・・イエスさまは、十字架に死にゆくという、その出来事を前に、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。ですから、それは直積的には、「わたしたちが死ぬ」ということ、だといえるかもしれません。自分の死、愛する者の死、事故にしろ、災害にしろ、病気にしろ、寿命にしろ、私たちが死ぬという事実、それは変えられないものだといえるでしょう。それから第二として言えますことは、イエスさまの十字架の死は、私たちを罪から救うための、神さまのご計画であり、ご自分の使命であった、ということです。つまり、私たちに対する神さまのご計画、私たちの使命、それは変えられないものなのではないでしょうか。

 では、私たちはどうやって、これは神さまのご計画であり、これは神さまのご計画ではないと見分けるのか、どうやって、これは自分の使命であり、これは自分の使命ではない、と見分けるのか、・・・そういう問題があると思います。これはなかなか難しい問題だと思います。ただ、見分けるということは、分別する、ということでしょう。そこで思い出すのは、聖書の有名なみ言葉に、主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め、とあることであります。箴言の9章10節の御言葉です。私たちが神さまのご計画、自分の使命を見分ける力もまた、自分の中にあるのではなく、神さまは来るのです。ですから、神さまのみ心を訪ねもとめ、神のみ言葉に耳を傾ける、つまり、神を礼拝する、ということがどうしても必要になります。

 私たちは礼拝を通して、神のご計画と神からの使命に気づかされるのです、そして、それを受け入れていく、あるいは全うしていくために、イエスさまは、私たちに「御心のままに行ってください」と祈るように、その模範を示してくださっています。イエスさまがそのさい、血のように汗を流して祈られた、とあるのは、その神さまのご計画や使命を受け入れることは、私たちにとって、人間的に考えるならば、決して簡単なことではないことを示しています。自分の死や愛する者の死を受け入れることは決して簡単なことではないのです、あるいはまた、神さまの使命に生きる、ということは、決して簡単なことではないのです。葛藤が伴うのです。しかし、その私たちの十字架には主がいつも共にいてくださり、私たちを励ましてくださり、そして、やがて復活のよろこびへと導いてくださるのです。

 さて、今日の出来事は、そのようなイエスさまのゲッセマネの祈りと、その後の弟子たちとのやりとりの途中で、その最後のイエスさまのお言葉がまだ終らないうちに、起こったのです。そこに群衆が現れたのです。彼らは、52節によれば、剣や棒を持って、つまり武装してやって来ました。またその中には、祭司長、神殿守衛長、長老たち、つまり、ユダヤ人の宗教的指導者たちがいました。その人々が、武装した群衆を引き連れて、イエスさまを捕えに来たのです。彼らの先頭には「ユダ」がいました。十二人の弟子の一人であるユダがイエスさまを裏切り、彼らを導いて来たのです。ここが「いつもの場所」であることがそれと結びつきます。ユダは昨日の晩までイエスさまと共にこの場所で夜を過ごしていたのです。その「いつもの場所」へと、イエスさまを捕えようとする人々を手引きして来たのです。
 
 聖書にある「裏切る」という言葉は、文字通りには「引き渡す」という意味の言葉です。ユダはイエスさまを、逮捕し、殺そうとしている人々の手に引き渡したのです。22章の4節でユダが祭司長たちや神殿守衛長たちと相談したのも、「どのようにしてイエスを引き渡そうか」ということでした。その見返りとして彼は金を受け取り、そしてその計画をこの夜、実行に移し、イエスさまを彼らに引き渡したのです。それが「ユダの裏切り」の具体的内容でした。

 イエスさまのもとにやって来たユダは「イエスに接吻をしようと近づいた」といいます。「接吻」というのは何とも古風な日本語ですけれども、夫婦ではない間柄でも、その親密さを表す行為として、互いにキスを交わす、これは日本では未だに馴染みのない風習ではないでしょうか。いや、うちは夫婦でも、ひさしくしておりません、という声が聞こえてきそうですけれども・・・親しい間柄でキスを交わす、この西洋的な風習は、要するに「愛」の表現であります。イエスさまと弟子たちの間にも、ふだん、そのような風習があったのです。そこでユダは、いつもしていたようにイエスさまに、そのような振る舞いをしようとしたのです。しかし、このたびのその接吻、キスは、イエスさまを裏切り、イエスさまを敵に引き渡そうとする意図をカモフラージュするためのものでした。イエスさまはそれを知っておられました。だから「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とおっしゃったのです。

 弟子の一人が、尊敬や愛の印であるキスによってイエスさまを裏切り、引き渡した、それは大変ショッキングなことです。いや、そもそも、「裏切る」というのは、そこに「親密な、信頼関係、愛の関係」があったことを前提とする出来事なのです。最初から、薄い関係であるところに、本当の裏切りはないし、その衝撃もないのです。裏切りは、そこに信頼関係、愛の関係があったはずなのに、そういうことになったがゆえに、ショッキングなことであるわけです。いや、それはただショックというだけでなく、ユダの場合は、イエスさまを「敵に引き渡す」という具体的なかたちをとっていったように、具体的な大きなダメージを相手に与えるのです。いかにそのダメージが大きいかを、日本語の「裏切る」という言葉の語源も伝えています。

 日本語の「裏切る」は、もともと、きこりが森で木を切るさいに使っていた言葉だそうです。すなわち、きこりは、大木を自分の思った方向へ、つまり自分のいる場所とは反対の方向に、その大木を倒したいというとき、その大木の裏にまず切り目を入れるのです。つまり、裏を切る、裏切るのです。そうしておいて、自分の立つ側から切っていく、すると、ある程度のところで、裏に切り目を入れた方向へと、その大木は、ばったりと倒れていくのです。どんな大木でも、裏切ることにとよって、完膚なきまでに、倒すことができる、それぐらい、裏切りのダメージは大きいのです。いや、実際は裏切りのダメージは、裏切られた者だけに及ぶのではないのです。それは裏切った側にもおよびます。信頼関係、愛の関係を駄目にしてしまうとき、そのダメージは、裏切られた側だけでなく、裏切った側にも及ぶのです。ユダの場合は、そのために自ら命を絶ってしまったのです。それはつまり、ユダも、自分の裏切りによって深く傷ついた、ということです。これまでの人生で、誰かに、何かに、裏切られた人、あるいは反対に、裏切ってしまった人は、それぞれに思い当たる節があるのではないでしょうか? 

 しかし、それではなぜ、ユダは裏切りをしたのでしょうか。ユダがイエスさまを裏切った動機については、いろいろな説明がなされています。イエスさまを窮地に落とせば、ローマの支配に対抗して立ち上がってくれると思ったからだとか、あるいは、ユダはイエスさまご自身の命令によって裏切ったのだ、という説もあったりします。

 しかし、ルカによる福音書は、その理由を簡潔に、はっきりと語っています。少し前の22章の3節にこうありました。「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」。・・・つまり、ユダが裏切ったのは、サタンに支配されたためだった、とルカははっきり語っているのです。しかし、それは、ユダをサタンつまり悪魔の化身であるかのように嫌悪し非難するためではありません。あるいは、だからユダには責任がない、ということを言いたいのでもありません。今読んだ3節にも、ユダが「十二人の一人」だったとわざわざ語られています。本日の47節にもそれが語られていました。また先ほどの21節に「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている」とあったことも、ユダが主イエスの十二人の弟子の一人であることを語っています。イスカリオテのユダも、イエスさまが6章12節以下で選んで「使徒」、つまり、私が遣わした者、と名付けられた十二人の弟子の一人だった、ということが強調されているのです。けれども、その使徒であるユダが、サタンの力に捕えられて、イエスさまを裏切り、引き渡す者となってしまった、イエスさまのお墨付きの使徒でさえも、そうなってしまったということです。つまり、どんな人間であっても、みな、それぞれに人生の試練の中で、イエスさまを、主を、裏切ってしまう、サタンに支配されてしまう、そういうことを経験する、そういう悲しみを経験するのだ、そのことをルカは言いたいのです。そして、また聖書が私たちに伝えているのは、その私たちの経験する、もっとも深い、衝撃であり、痛みである裏切りの罪をも、イエスさまは、十字架におかかりなる、まさしく最後に、ご自身の身に引き受けてくださり、その罪をも赦し、贖うために、十字架にかかってくださった、ということです。

 49節と50節には、「イエスの周りにいた人々」が「主よ、剣で切りつけましょうか」と言って、実際に大祭司の手下に打ちかかり、右の耳を切り落としたとあります。「イエスの周りにいた人々」は弟子たちでしかあり得ません。彼らは、イエスさまを捕えようとする人々に対して、そういう抵抗を示したのです。ここで振るわれた剣は、最後の晩餐の場面の最後の38節で弟子たちが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言ったその剣です。この剣はサタンの厳しい試練の中で、人間が自分の力で戦おうとする、その力を象徴していると言えるでしょう。しかしそのような力は、剣と棒を持って武装して押し寄せて来る群衆の前では何の役にも立ちません。いくら剣を振り回しても、イエスさまを逮捕しようとする者たちを蹴散らすことはできません、むしろ、結局は、彼ら弟子たちは皆逃げ去ってしまうしかないのです。そのように、サタンによる試練の前での人間の力の無力さをこの剣は示しています。

しかし、それでも、その剣が振り回される時、大祭司の手下の右の耳が切り落とされるという事態が起りました。剣はやはり、人を傷つけるのです。人間の力が振りかざされ、振り下ろされることによって、人が人を傷つけることが起るのです。では、なぜそのように、人間の力が人間を傷つけることが起るのでしょうか。それは、弟子たちが、恐れ、恐怖によってこの剣を振り回したからです。彼らは、イエスさまが捕えられようとしている、そして自分たちもどうなってしまうか分からないというこの状況の中で、恐かったのです。だから身を守ろうとして剣を抜き、振り回したのです。サタンによる試練、苦しみの中で、私たちも恐怖に支配され、身を守るためにやみくもに力を振るおうとしてしまいます。人間の力がそのような「恐れ」によって発揮される時に、それは言葉にしろ、道具にしろ、人を傷つけるまさに凶器となってしまうのです。これもまた、サタンのふるいの中で私たちが陥る姿であると言わなければならないでしょう。

 しかし、そこでイエスさまは、「やめなさい。もうそれでよい」とおっしゃり、大祭司の手下の耳に触れていやされました。「もうそれでよい」は「そこまでだ」という言葉です。私たちが、試練、苦しみの中で恐れにとりつかれ、自分を守ろうとして力をやみくもに振るって人を傷つけてしまう、その罪をイエスさまはおし止めて下さるのです。そして、私たちの罪によって傷つけられた人を癒して下さるのです。

 それからイエスさまは、押し寄せてきた群衆たちに、その中心にいる祭司長、神殿守衛長、長老たちに語っていかれます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった」。このみ言葉によって、イエスさまを捕えにやって来た人々の中にも「恐れ」があったことが明らかにされています。

つまり、イエスさまを捕えに来た人々も、剣を抜いて切りかかった弟子たちも、どちらも恐れ、恐怖に捉えられているのです。お互いがお互いを恐れ、身を守ることに必死になっている、そういうとき人間は、お互いを愛し、生かし、支え合うものとはなれません。むしろ憎み合い、傷つけ合い、殺し合い、関係を破壊するものとなっていってしまうのです。

 このように今日のところには、愛の印であるはずの接吻によって、イエスさまを裏切り、引き渡してしまったユダと、彼の手引きによってイエスさまを捕えるために、剣と棒を持ってやって来た人々と、彼らに抵抗して剣を抜いて切りつけてしまった弟子たちとが登場しています。その誰もが、皆、サタンのふるいにかけられ、その試練、苦しみの中で、神様の御心に従うよりも自分の思いや願いに従って生きようとする誘惑に陥っている、そして、その結果、恐れに支配され、お互いを傷つける者となっている、そういう姿が描かれています。53節の終わりのイエスさまのみ言葉は、そういう事態を見つめて語られていると言えるでしょう。「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。「今はあなたたちの時」の「あなたたち」は、ユダやイエスさまを捕えに来た人々だけのことではありません。弟子たちも含めた人間全体がそこで見つめられているのです。今はあなたたち人間の時、あなたたちが、自分勝手に力を振るい、自分の思いや願いを貫こうとして必死になっている、そういう時だ。しかし、そこで本当に力を振るい、支配しているのは、人間ではなくて、あなたたちをとらえているサタン、闇なのだ、とイエスさまは言っておられるのです。

 「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。それはイエスさまが逮捕された時だけのことではありません。私たちが生きている「今この時」もまた同じではないでしょうか。ユダの姿にも、弟子たちの姿にも、そして群衆の姿にも、私たちは自分自身の姿を見出すのではないでしょうか。自分の力を振るい、自分の思いや願いを貫こうと必死になって生きている私たちです、しかしその中で実は、恐れの思いに私たちは深く捕えられているのです。それゆえに、身を守ろうとして自分の力をやたらに振り回し、人を傷つけてしまう、そのようにして闇の力、サタンの力に支配されてしまっている、それが私たちの、そしてこの社会の現在の姿なのではないでしょうか。

 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第60章の2節には、「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」とあります。イエスさまがここで言っておられるのと同じことが語られているのです。しかし、この預言者はそれに続いて、「しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」と語っています。主なる神様による光が、その栄光が、闇が力を振るっているこの地に現れ、輝き出る、というのです。この預言の成就、実現こそが、イエス・キリストであり、そのご生涯であり、そして、その十字架と復活のみ業なのです。イエスさまこそは、私たちの闇の世の中で、輝き、私たちの行く道を照らし、導いて下さる光なのです。

 全ての者が恐れに支配され、闇の力、サタンの力の支配下に置かれてしまっているこのとき、この場面において、イエスさまは、剣を振り回す弟子たちをおし止め、彼らが傷を負わせた人を癒し、そして自ら、捕えようとする人々に身を委ねておられます。このイエスさまのお姿とその歩みだけは、闇に支配されていません。それは、イエスさまが、この直前のゲッセマネの祈りにおいて、「この杯をわたしから取りのけてください」との願いを抱きつつ、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られているからです。この祈り、この、自らを神様の御心に従わせていく信仰の戦い、祈りの戦いを、イエスさまは戦い、戦い抜かれました。そこに闇の力に打ち勝つ光が輝き出ているのです。

 主の光は、今この礼拝において、私たちにも、降り注がれています。この世を支配する闇の力にすぐに飲み込まれてしまう私たちです。裏切り、ということでいえば、まさに、私たちは、人の裏切りが赦せず、憎しみに憎しみをかさね、また反対に裏切った自分を赦せず、絶望の闇に沈んでいく私たちであります。しかし、今このとき、この礼拝において私たちは、一時、その闇の支配から解き放たれ、わたしたちをまことに活かす光に与っているのです。光のあるうちに光の中を歩め、私たちも、光の子となるために、イエスさまにならい、自分の中に様々にこみ上げてくる自分中心の祈りを超えて、しかし、わたしの願いではなく、み心のままに行ってください、天になるごとく地にもなさせたまえ、と、真実に祈っていくものとなっていきたい、そして主の光にあずかって、赦され愛されている喜びのうちに、まことの道を歩んでいくものとなりたいと願います。祈りましょう

 主なる神さま、人生の試練の中で、わたしたちは、あなたを裏切ってしまう、御子イエスを裏切ってしまう、そうして闇の中に落ちていく、まことに信仰弱きものであります。しかし、まさにそのようなわたしたちを憐れみ、救ってくださるために、闇に打ち勝つ光として、御子は来てくださいました。砕かれた心で、御子イエスを受け入れ、あなたに立ち返ることこそが、わたしたちに今求められています。日々闇にとらわれていく私たちでありますが、御子イエスの光をいま新たに受けて、あなたにゆだねゆく祈りをあつくしていくものとなれますように、主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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