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キリストの香り 心のふる里        日本キリスト教団 香里教会

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ 11:28)

降誕節第3主日礼拝 

2019年1月13日(日)使徒言行録3章11-26節
「祝福への招き」三ツ本武仁牧師

 私たちは礼拝において今使徒言行録を読みすすめていますけれども、今日はその第3章の11節から26節のところをご一緒に読み、味わいたいと思います。今日のこのところは、先週読みました第3章1節以下で語られていましたこと、教会が誕生し、その交わりの中で新しく生きるようになった使徒ペトロとヨハネが、神殿で物乞いをしていた足の不自由な人を、イエスさまのみ名によって癒した、という、その奇跡の話の続きとなっています。この話は、4章まで続いていくのです。

 前回の8節には、足を癒されたこの人は、そのあと、「歩き回ったり、踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入っていった」とありました。この言葉から、生まれてから一度も歩いたことのなかったこの人が、どれだけこの癒しに喜び、感動したかが、よく伝わってきます。そしてまた、彼がただ癒されただけで終わったのではなくて、ペトロたちと同じ信仰に生きるものになった、イエスさまを通して、神を賛美する者となったのだ、ということが、わかります。神を賛美する者となる、これこそが本当に癒される、ということなのです。そういう喜びと平安が、この人に訪れた、それは本当に嬉しいことであり、わたしたち自身もその喜びのゆえに教会に生かされているのであり、また私たちの伝道もそのためにあるわけです。本当の喜びと癒しの交わり、それが教会であります。

さてそこで、そのような中で、伝道は次の段階に入ります。喜びに満ちた彼の姿を見て、周りにいた多くの人々が驚き、彼やペトロたちの周りに集まってきました。それが今日の最初の11節にあることです「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、ソロモンの回廊と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た」・・・と、そういう事態になったのです。「つきまとう」というとあまり聞こえがよくありませんが、要するに、彼は嬉しさのあまり、ペトロやヨハネの後にずっと従ってついてきていた、ということです。そこに今までの彼のことを知っている人々が驚いて、集まってきたのです。一人の信仰者が生まれる、また、教会の群れに連なる私たちが、信仰者としてこの世に生きる、というのは本来、このように知らず知らずのうちに周りに影響をもたらすものなのです。不思議な魅力を感じさせるものが、クリスチャンにはある、あなたといると安心できる、あなたには相談できる。あなたには何か不思議な魅力がある、そういうことを、皆さんも周りの人から言われたことがあるのではないでしょうか? それは決して、私たちが優れているから、とか、そういう思い上がったことではなくて、ただ私たちを通して、私たち自身が受けているキリストの香りが香っているからだ、と考えてよいと思うのです。

 さてそこで、ペトロは、そのようにして集まってきた人々に、この奇跡の意味を語るのです。なぜ、足の不自由であった彼が、立ち上がり、いま喜びに生きているのか、その意味を語ったのです。それが今日の箇所の中心です。お気づきの方もあるかもしれませんが、この展開は、実は、使徒言行録の2章で語られていた、ペンテコステの出来事、聖霊降臨の出来事が起こったときの展開と大変よく似ています。
 
 あのペンテコステには、弟子たちに聖霊がくだり、彼らはいろいろな国の言葉で、神さまの偉大なみ業を語りだした、つまりイエス・キリストの救いの出来事を語り始めた、という、そういう奇跡が起こりました。すると、そこに、その奇跡をみた多く人々が驚き怪しみつつ集まってくるわけです。そこでペトロが、このペンテコステの出来事の意味を語る、という、そういう展開でした。その展開と、先週から続く、この足の不自由な人の癒しの話は、非常によく似ているのです。

 この足の不自由な人の癒しの出来事も、言ってみれば聖霊のお働きによるものです。じつに、使徒言行録は、このくり返しなのです。教会の交わりへの聖霊のお働きがあり、そこに不思議な業やしるしがなされていく、そして、それが聖霊のお働きであることが示され、明らかにされていく、そして、だからイエス・キリストの救いにあずかるように、洗礼を受け、神に立ち返るようにとの勧め、伝道がなされていく、このくり返しです。つまり、教会の歩みというのは、日々、ペンテコステの出来事のくり返しなのです。聖霊のお働きによって教会が生まれたわけですから、それは当然といえば当然です。わたしたち教会の歩みは、その様々な状況の中で、くり返し、聖霊のお働きを受けて、進められていくのです。

 その1つの現われが、今日のこの足の不自由な人が癒された出来事なのです。そこでペトロはまず、これが聖霊のお働きであること、神のお働きであることを、人々に説いています。12節ですけれども、そこでペトロは、人々が、ペトロたち自身の力によって、この足の不自由な人が癒されたのだと思って、そのような目で彼らを見つめているのに対して、そうではない、これは私たちの力や、わたしの信心の力によるのではない、これは、ひとえに神さまのお働き、聖霊のお働きなのだ、ということを語っているのです。教会の中で、様々な偉大な業がなされていくとき、喜びや慰めに満ちた出来事が起こっていくとき、私たちは、それが、自分の力や、誰か人間の力ではなく、ひとえにそれは聖霊のお働きである、ということを確認していくことが大切なのです。

そして、そのような聖霊のお働きが、なぜ与えられたのか、ということで、ペトロは、イエス・キリストのことを語っていきます。イエス・キリストによる救いの業、その神さまのご計画について語っていくのです。13節には、「わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました」とあります。また15節には、そのイエスこそは「命への導き手」である、ということが語られています。イエス・キリストは「命への導き手」である、これは大変心に残る言葉です。「命の導師」と訳しているものもありました。仕事や人生の指導者、助言者のことをメンターといいますけれども、イエスさまは、いわば、命のメンターとして、わたしたちを、本当の命へと導いてくださる方なのです。

 わたしたちも、伝道において、イエス・キリストは、命の導き手である、命のメンターである、イエスさまに従っていくならば、まことの命に生かされ、天国が約束されている、その恵み、その喜びと平安に、自らも生かされつつ、そのことを人々に伝えていくのです。まずは難しいことは抜きにして、イエスさまによって命の喜びが与えられるのだ、ということを伝える、これが伝道です。16節でペトロは「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前で、この人を完全にいやしたのです」と語っています。様々な人生の悩みや困難の中にあっても、立ち上がっていく、その不思議、そのような力はどこから来るのか、それは命の導き手であるイエス・キリストのおかげなのだ、まことの命へ、イエスさまが私たちを導いてくださっているからこそ、私たちは、様々な困難の中にあっても、主を待ち望み、希望を持っていきていけるのだ、ということを、私たちは様々なかたちで人々に伝え、また示していくのです。

いま、NHKの朝の連続テレビドラマではあの日清食品の創業者である安藤百福さんの人生が取り上げられていますが、先日のその安藤さんの書かれた自伝を読む機会があり、いろいろと面白い発見がありました。一つは、あの世に知られるチキンラーメンの開発をしたのは、安藤さんが、信用組合の理事長をしていて、しかし、それが破産してしまって、全財産を失ってしまった、その後から、ただ一つ残された財産である自宅にこもって、一年かけて研究した成果であった、ということで、それは48歳の時であったそうです。実は、いまわたしがその48歳なので、感慨深いものがありました。それはそれとしまして、安藤さんはそういう苦労の末の遅咲きの人であったのですけれども、ご自身では、でも、チキンラーメンが出来るには48年がやはり必要であった、と振り返っておられました。失敗も苦労も全部無駄なものはなかったと言われるのです。それから、安藤さんは、クリスチャンではなかったようですけれども、実は、その自伝の中で、何度か聖書の言葉が用いられていることを知りました。おそらく安藤さんは無意識に使われていたのではないか、と思うのですけれども、それは「一粒の麦」あるいは「一粒の種」という言葉です。安藤さんは、「一粒の種」という有名な聖書の言葉を、チキンラーメンという一粒の種が、世界に広がっていった、というふうに用いたり、ラーメンの研究の中で、一粒の麦が、麺となって、世界に広がっていった(人類は麺類!)、というふうに用いたりしていました。ご自身がまさに無一文の中から、わずかに残されたもので、新しく再生していくことができた、という、そのことにも、おそらく、この「一粒の麦」「一粒の種」の成長に当てはめて、一粒の種、一粒の麦さえあればなんとかなる、という、そういう信仰に生きておられたのではないでしょうか? その意味で、聖書に通じる信仰に生きていた人なのだなあと感動いたしました。そして、このように、現に世にあって聖書の言葉が生きていること、喜びの実を結んでいること、そのことを明らかにしていくこと、それもまた大切な伝道だと、思わされました。

 けれども、また、聖書は、単にこのような喜びの面だけを伝道しているのではないことも忘れはなりません、もちろん、喜びは喜びなのですけれども、その前の前提として、ある深刻な問題があることを伝えています。つまり、私たちの罪です。ペトロは、命の導き手であるイエスさまが来られたのに、最初人々は、そのイエスさまをどうしてしまったか、イエスさまを、歓迎するどころか、むしろ、十字架につけて殺してしまった、というのです。13節の後半からですけれども、「ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命の導き手である方を殺してしまいました・・・」とペトロは語るのです。もちろん、これは、以前にも申しましたように、ペトロたちはそのような罪と自分たちは無関係だ、これはあなたたちの問題だ、という立場で語っているのではないのです、上から目線で語っているのではないのです。自分たちを含めたすべての人は、せっかく来て下さった命の導き手、救い主を殺してしまうような、そういう深刻な罪人なのだ、ということを語っているのです。

 「聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求した」とあります・・・人殺しの男とは、あのバラバのことでしょう。けれども、このことは、イエスさまを受け入れないことは、イエスさまを十字架につけて殺すことだ、ということと合わせて考えてみますと、バラバのことではない、人殺しの男とは、他でもない自分のこと、私たち自身のことだ、ということです。ただ一人神の前に正しい方であるイエスさまを拒んで、自分の正しさを主張して生きている、そのおかしさ、誤りに気づかない。的外れな生き方をしていく。それが私たちの罪であり、私たちを虜としてしまう罪の力なのです。

あのドストエフスキーの『罪と罰』を先日、読み返す機会がありました。昔、学生の頃読んだときとは全く違う、新しい発見、感動を味わうことができました。ラスコーリニコフという貧しくも優秀であった青年が、ある日、ずる賢い金貸しの老婆を殺してしまうのです。優秀な自分がこのまま学費も払えず滅びていくくらいなら、ずる賢い金貸しを殺して、お金を得るほうがよっぽど正しいことだと考えた結果、そういうことをしたのです。けれども、彼はその後、様々な紆余曲折を経て、最終的には、自首をし、刑に服するのです。8年間シベリアでの監獄生活、強制労働生活を送ることになります。けれども、じつは彼の心の中には、自首をしたときも、罪の告白をしたときも、罪の自覚は全くなかったのです。思想的にはやはり自分は間違っていない、と思っているのです。けれども、その彼が、服役中、ついに回心するのです。

刑に服する前も、そして服役中も、ずっと彼を影で支えてきてくれた、ソーニャという一人の女性がいたのですが、この女性は、イエス・キリストへの深い信仰に生きている人でした。彼はこの女性の内から示されたキリストの愛に触れて、ついに回心へと導かれたのです。キリストによって示された神の愛が、彼を罪の自覚へと導き、また、それとともに彼を救いへ、まことの命へと導いたのです。

聖書に戻りますと17節には「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。」とあります。無知のためであった、それは、無学であるとか、常識を弁えていないとか、そういうことではないのです。無学といえば、ペトロのほうが断然、彼らよりも、ましてやユダヤの指導者たちよりも無学であったでしょう。けれども、ペトロは彼らがまだ知らないことを身をもって体験していました。イエス・キリストによる、神の救いの業です。イエスさまを通して示された神さまの救いのご計画です。そのことを体験している。知っている、それは、ほかのどのような知恵や知識にも比べることのできない、知恵であり知識なのです。イエス・キリストによる救いの業を知っている。それは、すべてのものを売っても、手に入れたい、最高の宝です。なぜなら、それがわたしたちをまことの命へ導いてくれるからです。

けれども、わたしたちの罪が明らかになる、それも神さまの救いのご計画であったのだ、とペトロはいいます。私たちをイエス・キリストへと導く、神さまのご計画こそ、旧約の預言者たちが、預言してきたことだ、というのです。そして19節「だから、自分の罪が消しさられるように、悔い改めて立ち返りなさい」・・・わたしたちが、その罪によって殺してしまった、イエスさまを、神は復活させてくださった、それは、神はすごい力をもっているとか、イエスは不死身なのだ、ということが言いたいのではなく、神さまはそれほどに、私たちを愛して下さり、私たちの罪を赦して下さる方なのだ、ということなのです。

キリストの復活は、私たち自身の復活なのです。キリストの十字架の死と復活は、私たちを、その罪に気づかせるとともに、私たちをまことの命へと導いてくださる、神の愛の業なのです。ペトロは、人々に、キリストを拒み殺してしまうほどの、わたしたち人間の罪を指摘しつつ、それと共に、そのキリストを復活させて下さった、わたしたちへの神の愛と赦しに目覚めて、悔い改めるようにと語ったのです。そして、イエスさまと共に生きていくこと、そのことへの招きが、くり返し語られていく、それが、聖霊のお働きによって歩む教会の歩みなのです。

20節21節には次にようにあります「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わして下さるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちを通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」・・・これは何のことを言っているのか、といいますと、これは、イエス・キリストの再臨の時のこと、そして、いまのこの世が終わって、新天新地が現れる時のことが言われているのです。

聖書の中では、特にヨハネ黙示録が、キリストの再臨を強調して語っています。「万物が新しくなるその時まで、」という言葉がありましたけれども、ヨハネ黙示録では、イエスさまご自身のお言葉して、「見よ、わたしたちは万物を新しくする。」という御言葉が、語られています。創世記で始まった聖書は、黙示録で終わるのです。創世記によって天地万物を始められた神は、黙示録によって、その完成を語っています。そして、それは、再臨のキリストによって終わるのです。聖書が語る、この世の最後は、わたしたちの救い主であり、いまは天におられるイエスさまが、もう一度、わたしたちのところへもどってきてくださって、手をとって、新天新地へ、天国へ、復活の命へと導いてくださる、そういうキリストの再臨の希望なのです。教会の歩みは、このキリストの再臨という希望を抱いて、その本当の慰めの時を待ち望みながら歩んでいく歩みなのです。

そして、そのことは、神さまの祝福にあずかって生きる者となる、というふうに言い換えることもできるでしょう。25節には、「『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と神はアブラハムに言われました」とあります。そして、今日の最後の26節では「それで、神はご自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがたを悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」と語られています。イエス・キリストを受け入れることは、神さまの祝福を受けることです。神さまが、イエス・キリストの出来事を通して、私たちの罪を指摘し、私たちの悪を明らかになさるのは、わたしたちを罰するためではないのです。世の人々が、この世の誰かの罪を指摘し、その悪を明らかにするときは、その人を罰するためにそうするわけです。しかし、神さまはそうではないのです。そうではなく、それは、わたしたちをイエス・キリストによる救いに預からせて、そして、それによって悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためです。神さまの祝福とは、イエス・キリストによる慰めであり、励ましです。イエスさまが、いつも、最後まで、弱いわたしたちと共にいてくださって、支え、慰め、励ましてくださるのです。そして、命へ導いてくださる。そういう祝福された人生へと、私たちは招かれているのです。

今日も、私たち一人一人に神さまの愛と赦しのまなざしが注がれています。私たちのための、この私のために、イエス・キリストの十字架の死を受け入れ、そして、私たちのための、この私のための、イエス・キリストの復活を受け入れる、そのとき、私たちは、神さまの前に悔い改め、神さまにもとに立ち返ることができます。どんな失敗も、どんな弱さも、どんな罪であっても、神さまはイエス・キリストを通して、赦してくださり、わたしたちを愛するわたしの子と呼んで、受け入れてくださるのです。そして、イエスさまがいつも共にいてくださる祝福された人生に、あずからせてくださるのです。お祈りいたしましょう。

主なる神さま
聖霊の働く教会では、不思議な業が行われます。足の不自由であった人が立ち上がり、喜びに満ちて、あなたを賛美して生きるようになる。イエス・キリストの祝福にあずかって、最後まで希望をもって生きるものとされます。感謝いたします。その祝福への招きは、私たちが、イエス・キリストの出来事を受け入れる中で、与えられます、イエスさまがわたしの罪のために死んでくださり、また私を命へ導くために復活してくださったことを受け入れ、あなたの前に悔い改め、あなたに立ち返ることによって、与えられます。主よ、どうか、今日聞きましたこの恵みが、私たち一人一人に与えられますように、あなたの御言葉にくり返し耳を傾け、あなたのこの祝福への招きに、くり返し答えていく一人一人とならせて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン
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category: 礼拝メッセージ

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降誕節第2主日礼拝 

2019年1月6日(日) 使徒言行録、第3章 1節-10節
「イエス・キリストの名によって」三ツ本武仁牧師

 新年あけましておめでとうございます。今朝は、みなさんとご一緒に、新年最初の礼拝を守れます恵みを心から感謝いたします。その今年最初の礼拝において、私たちに与えられました聖書の箇所は、使徒言行録の第3章の初めの箇所であります。

3章1節には、ペトロとヨハネが「午後3時の祈りの時に神殿に上って行った」とあります。最初の教会の人々が神殿に詣でて祈りをしていたことは既に2章の終わりで語られていました。最初の教会の人々は、まだ厳密にはユダヤ教の人々と分かれてはいませんでした。そもそも、私たちが信じるイエス・キリストの父なる神さま、という方は、旧約聖書で語られている、万物の創造者なる唯一の神さまであって、その意味では、ユダヤ教の人々の信じる神さまと何の変わりもないのです。いや、ユダヤ教だけじゃなくて、イスラム教の人々ともその点では変わりはありませんし、いや、もしかすると、ほかの信仰だと思える人々の信じる神さまも、場合によって同じ神さまだということも十分にあり得るのです。それはすでにパウロが述べていることであります。

ですから最初のクリスチャンたちは、イエスさまを信じ、各家庭に集まって礼拝をしつつ、同時にユダヤの神殿にも詣でて、その礼拝も守っていたのです。そういう意味で、クリスチャンというのは自由なのです。神社に初詣に行こうが、仏教の葬儀に出ようが、ある意味で自由です。どこでも礼拝をすることができます。ただし、そこで、私たちは、どこにあっても、イエス・キリストが、まことの神さまから遣われた神のひとり子であると信じて、そのイエス・キリストを通して神さまを崇め、礼拝するのです。けれどもそこで、最初のそのような教会の歩みの中で何が起こったかというと、むしろユダヤ人の方から、神が人となられたなど、この人たちは間違っている、ということで、やがてクリスチャンたちへの迫害が起こったのです。神殿から追い出されてしまったのです。そういう中で、じっさい、クリスチャンたちは、各家庭でも礼拝ができますし、また罪の赦しを求める、神殿における動物の犠牲の儀式というのも、イエスさまが、ただ一回の完全な犠牲として、ご自身をささげてくださったのですから、もう必要ない、ということで、その意味でもやがてユダヤ教や神殿と決別していくことになるわけです。

それはともかく、今日の話は、つまり、その最初の教会の日常的な信仰の営みの中で、起きたことだということです。使徒ペトロとヨハネが、エルサレム神殿の門前で、生まれながら足の不自由だった一人の男を癒したのです。けれども、それは、この二人が教会の中で特別に力を持った選ばれた者たちだった、ということではありません。この話の前の、昨年の最後に読みました2章の終わりには、ペンテコステに誕生した最初の教会の姿、そこにおける信仰者たちの生活、交わりの様子が語られていました。一つとなっていた信徒たちによって不思議な業としるしとが行われていて、それよって、教会には日々新しく仲間が加わり、また、民衆全体から好意を寄せられていた、とありました。今日のこのペトロとヨハネによる奇跡も、そうした教会の交わりの中から生まれてきた、一つの伝道の業であったのです。

つまり、今日の話は、特別な使徒たちの、特別な奇跡の物語ではないのです。聖霊の力によって歩んでいる私たち教会に、当然起こってくる伝道の業なのです。つまり、私たちは、どのような伝道をしていくのか、していけるのか、その具体的な姿がここに語られているのです。そのことを今日はみなさんと共に味わっていきたい、学んでいきたいと思います。

「生まれながら足の不自由な男」が、「神殿の境内に入る人に施しを乞うため」に、「美しい門」と呼ばれていた神殿の門の傍らに運ばれて来て、毎日そこに置かれていた、といいます。4章22節には、この人が「四十歳を過ぎていた」とあります。ですから、「生まれながらに」ということは、彼は、四十年を越える人生において、一度も、自分の足で立ち、歩いたことがなかった人だということです。当時のユダヤ社会では、このような重いハンディを背負った人は、今の日本のように障害者枠の雇用などもありませんから、どうすることもできませんでした。それで、じゃあ、どうしていたか、というと、ただ物乞いとなり、神殿にお参りに来る信心深い人々から施しを受けて生きていくしかなかったのです。ただ、そこにある意味で、相互扶助の精神が生きていて、そういう人に、神殿に来る人はお金を施し、その人の生活を支えていたわけです。それはそれで大切なことだったと思います。そういうわけで彼は、いま神殿の境内に入ろうとするペトロとヨハネを見て、施しを乞うたのです。

 そこで、ここに、この癒しの物語の大事な鍵となる言葉が出てきます。それは「見る」という言葉です。3節には、「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた」とあります。また4節には「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った」、そしてまた5節には「その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると」とあります。この続く3節に、なんと「見る」という言葉が4回も出てくるのです。「見る」という言葉が、今日の話のキーワードなのです。

特に注目したいのは、4節にあります「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」という、この「じっと見る」という言葉です。この「じっと見る」には、「焦点を合わせる」というような意味があります。ただ漫然と見るのではなく、相手に焦点を合わせてしっかり見つめるのです。ペトロたちがこの足の不自由な人をそのようにじっと見つめたところから、この癒しの奇跡は始まったのです。そして、そこから豊かな伝道が始まっていったのです。このことは、伝道がどのように始まるのかを教えています。つまり、伝道は、相手のことをじっと見ることから始まるのです。

 じっと見る、それはしかし、変にじろじろ見る、ということではありません。相手に焦点を合わせて見る、ということです。つまり、相手がどのような人で、今どのような状態にあるのか、何を求め、何を必要としているのか、そういうことをしっかりと見つめる、ということです。ですからそれは、相手に深く心を寄せる、と言い替えてもよいでしょう。神殿には多くの人が集まって来ているのです。その人ごみの中で、ただ漫然と眺めていたのでは、施しを求めて自分を見つめている人のことが見えてきません。意識されません。その人に気づくことなしに前を通り過ぎてしまうことだってしばしばあるのです。目には入っているが全く見えていない、ということです。

ペトロたちもひょっとしたら、既にこれまでにも何度も、この足の不自由な人の前を、全く気にとめることなく通り過ぎてきたのかもしれません。しかし今、彼らはこの人をじっと見るようになったのです。自分の目の焦点をこの人に合わせるようになったのです。何が彼らをそうさせたのでしょうか。聖霊の働く教会の交わりが、彼らにそういう力を与えたのです。聖霊の働く教会の交わりとは、第一に、イエス・キリストを見つめる交わりです。み言葉と聖餐と祈りの交わりによって、つまりこの礼拝によって、私たちは、イエス・キリストをじっと見つめ、イエス・キリストに焦点を合わせて生きる者となる、のです。それ以前の私たちは、自分のことばかりを見つめ、自分のことにのみ焦点を合わせて生きていたのです。それがありのままの人間の姿であり、罪に生きる人間の姿です。けれども、私たちは、教会の交わりによって、自分から目を離して、イエス・キリストをじっと見つめる者となるのです。

そしてそのようにして、私たちが、自分ではなく、イエス・キリストに焦点を合わせていく時、私たちは同時に、イエスさまにならって、他の人、自分の周囲にいる人々に焦点を合わせ、じっと見つめることができる者へと変えられていくのです。イエスさまのように、周囲の人々に関心を寄せる者となっていく。私たちがそのように変えられていくこと、それが伝道の第一歩なのです。

 さて、そのようにして彼をじっと見たペトロたちは、今度は彼に向かって「わたしたちを見なさい」と言いました。既に彼は、施しを求めて、彼らを見ていたのです。しかし今ペトロらは、それとは違う意味で、自分たちのことを「見る」ようにと彼に求めたのです。彼らがこの人のことをじっと見た、それと同じように、この人にも彼らのことを、しっかりと見つめることを求めたのです。それによって、彼らとこの人の間に、互いに相手をしっかりと見つめる関係、つまり人格的な関係が生まれることを求めたのです。ここに、伝道における第二のポイントがあります。確かに伝道は相手をじっと見ることから始まります。しかしただ、じっと見ているだけでは伝道にはならないのです。さらにそこから、今度は相手に、「わたしたちを見なさい」と語りかけていくことが必要だということです。

「わたしたちのこと」つまり自分のこと、自分と共に生きる教会の人々のこと、教会のことを、しっかり見てもらう。・・・私たちは、伝道において、このことがきちんとできているでしょうか? 自分のこと、教会のことを、あまりしっかり見つめられたら困る、自分にも、教会にも、いろいろと欠けがあり、問題だらけだ、そういうところをあまり見られたら、伝道ができない、かえってつまずかせてしまう、そのように思ってしまってはいないでしょうか? ある人が以前、教会に始めて来た人が、私たちが互いに祈っている姿を見たら、変に思うのではないか、かえってつまずいてしまうのではないか? と不安をもらされたことがあります。いかにも教会というものはすぐに見せないほうがいい、と思ってしまう、その気持ちは分からなくもありません。また、これは私自身今回、はっと気づかされたことですけれども、「教会で人ばかり見ていたらつまずきますよ、神さまを見なければいけませんよ」と、私自身教えられてきましたし、私もまたその教えを受け継いで、礼拝でも何度か語ってきました。もちろん、それはそれで、一つの大切な教えだと思います。けれども、それとともに、私たちは、「これが教会です、これが教会に生きる私たちです、どうぞ私たちを見てください」ということを恐れずに、語っていかなればならない。そこから逃げていたら、伝道はできないのです。

 さて「わたしたちを見なさい」と言われたこの男は、「何かもらえると思って二人を見つめていた」と5節にあります。このことも、伝道を考える上で大事なポイントとなります。彼は、何か施しをもらえると思ってペトロたちを見つめたのです。つまり今、この男が求めているのは、教会が宣べ伝え、与えようとしているものとは違うものなのです。「私たちを見なさい」と私たちが、教会が、語っていく時に、それを聞いた人々が私たちに、教会に期待して求めているものは、教会が語り伝え、与えようとしているものとは違う場合が多々あるのです。そういう現実がここに示されているのです。またそのことを知っているから、先ほどのように、私たちを見られたら困る、本当の教会も見られたら恥ずかしいという思いが、私たちの中に出てくるのかもしれません。

けれども、この話は、ある意味で、それはそれでいいのだ、ということを私たちに教えているのです。人々が、教会に、私たちに求めてくるもの、期待してくるもの、それは様々です。神様のみ言葉を、キリストの福音による救いを最初から求めてくる人などいません。誰でも、それぞれ自分が欲しいと思っているもの、自分にはこれが必要だと思っているものを求め、期待して来るのです。この人のように教会に行けば、お金をもらえる、食べさせてもらえる、と思って来る人もいます。学校の課題で、スタンプを押してもらうために来る、中高生もいます。教会の音楽に引かれて、讃美歌を歌うために、あるいは、奏楽を聞くために来る、という人もいるでしょう。クリスマスの時だけ、その雰囲気に浸るために来る、ということもあるでしょう。そのような様々な思いを持って教会を見つめ、期待して来る人々に対して、私たちは、「そんなのは動機が不純だ」などと言ってはならないのです。

ペトロたちがもしもここで、彼のことをそんなふうに言って退けてしまったら、この話はここでおしまいです。伝道の実りも何もないままのです。「私たちを見なさい」という教会の呼び掛けに応えて、「何かもらえると思って」私たちを、教会を見つめる人々を、私たちは決して退けてはなりません。しかしここで大事なことは、そういう求めをもって来る人々にきちんと向き合い、そしてそこで、このペトロのように、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と私たちが語っていくこと、示していくことなのです。

 教会は、人々の様々な期待、ニーズに何でもはいはいと応える、よろず屋ではありません。様々な期待を持って来る人々を退けてはならないし、きちんと向き合わなければなりません。けれども、それは、その期待に応えようと、そのことに必死になることではないのです。むしろ、私たちは、教会は、そこで、「持っているもの」をこそ示し、与えることにこそ必死にならなければならないのです。それは「ナザレの人イエス・キリストの名」です。イエス・キリストの名こそ、教会が持っているものであり、ある意味で、それだけなのです。

 「イエス・キリストの名」。名前というのは聖書において、その人の存在そのもの、その全体を代表するものです。ですから「イエス・キリストの名」を与えるとは、イエス・キリストという方を、その方によって成し遂げられた救いの恵みを、そして、その方との交わりを与える、ということです。このイエス・キリストのみ名こそが、生まれつき足が不自由で、立ったことも歩いたこともない彼の足を強め、立ち上がらせ、歩けるようにする力を持っているのです。彼は、自分はもう立ち上がったり歩いたりすることはできないと思っています。その絶望の上で、生きて行くのに必要な施しを求め、期待しています。それ以上に今の自分に必要なものなどないと思っているし、思うことすらできない、そういう希望の持てない生活の中にどっぷり浸っているのです。しかし教会は、私たちは、彼が期待している以上の救いを、喜びを、希望を持っているのです。それこそが「イエス・キリストのみ名」によって与えられる救い、喜び、希望です。あなたが期待しているようなものは私たちにはないけれども、でも、それ以上の、本当にあなたに必要なもの、本当にあなたを生かすもの、本当の希望を与えるものがここにあります、そう語っていくことが、私たちの伝道なのです。

 ペトロは、イエス・キリストの名によって、この男を癒し、彼を立ち上がらせました。当時の人々は、この男のように、何か体に障害があったり、重い皮膚病にかかっていたり、あるいは、貧しさの中にある人々を、悪霊や罪の力によって、そのような状態に落ちている罪人だと考えていました。ですから、そこからの癒しは、罪の力、悪魔の力に対する神様の恵みの勝利を意味します。イエスさまの十字架と復活において、まさにそのことが実現したのです。ペトロ自身、かつては、その罪の力に支配され、サタンに囚われていたのです。けれども、そこから、イエスさまの十字架の死と復活によって救われ、罪の赦しを与えられ、今このように神様を信じ、礼拝をささげ、祈り、み言葉を宣べ伝える者とされているのです。その自分に与えられたのと同じ恵み、救いを、今神様が、イエスさまが、この人にも与えようとしておられる、そのことをペトロははっきりと確信していたのです。つまり「私たちが持っているもの」とは、私たちも、神様の、イエスさまの恵みによって与えられたものです。イエス・キリストのみ名を与えられ、それによって新たに生かされ、喜びと希望を与えられているがゆえに、それを私たちはすでに自分が「持っているもの」として、人にも、それを分け与えることができるのです。

 伝道とは、「私たちを見なさい」と言うことだと、先ほどは申しました。そのことから逃げていては伝道はできない、と申しました。それはしかし、人に見られても恥ずかしくない立派なクリスチャンにならなければならない、ということではありません。「私たちを見なさい」と言う、その「私たち」とは、自分の力で神様に従って立派に生きている私たちではないのです。むしろそれができずに、罪と汚れにまみれ、自分の力ではどうしようもない罪人である私たちです。その私たちが、イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦され、復活によって新しい命の約束を与えられ、聖霊の力によって教会に加えられ、イエスさまと共に歩むことを許されている、イエス・キリストのみ名によって、苦しみや悲しみや絶望の中から立ち上がり、歩くことができるようにされている、その私たちです。その私たちをしっかりと見てもらうことが、伝道なのです。

 今日のこの人は、教会の伝道によって、救われました。ペトロが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語りかけ、手を取って立ち上がらせたところ、彼は踊り上がって立ち、歩きだしたのです。それまで考えてもみなかった、期待すらしていなかった癒しが実現したのです。そのようにして、立ち上がり、歩き出した彼は何をしたのでしょうか。「神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」とあります。神様を賛美し、礼拝するようになった、それが、彼が真実に救われたことの現れです。神様による救いは、人を、神様を賛美し、礼拝する者へと新しくするのです。彼は教会に連なる信仰者の一人になったのです。教会の伝道はこのようにして進展していきます。それは今も少しも変わることがありません。聖霊のお働きによって、私たちにも、同じことが起こるのです。そのことを祈り求めながら、今年の教会の歩み、その伝道の歩みを、みなさんと共に、御言葉を聞き、聖餐にあずかり、祈りと賛美を共にしながら、進めていきたいと願います。お祈りいたしましょう。

 主なる神さま あなたは、私たちに御子イエスを与えてくださいました。御子イエスによる救いの恵みを与えてくださいました。その恵みによって、私たちは、この世のものには変えることのできない、大きな平安と喜びに生かされていますことを感謝します。どうか、この主にあるまことの平安と喜びに生かされています私たちが、今年一年、自らもその恵みに養われつつ、さらにそこから、周囲の人々に向かって、この私が持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい、とイエス・キリストによる救いの恵みを伝え、隣人に分け与えていくものとなれますように、そして、香里教会に今年も新しい仲間が加えられ、伝道の歩みをなしていくことができますように、聖霊のお働きを豊かなにお与えください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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2018年クリスマス合同礼拝 

2018年12月23日(日)ヨハネ3章16節、使徒2章37-42節
「救い主イエスを受け入れる」三ツ本武仁牧師

 クリスマスは、わたしたち全ての人にとって、とても嬉しい、喜びの日です、今日は日本中の教会で、わたしたちと同じように、クリスマスを記念する礼拝が守られています。世界中でも、多少の時差がありますけれども、やはり、クリスマスの日、12月25日に一番近い、この主日に、クリスマスの礼拝がなされているのです、いや、クリスマスを喜んでいるのは、教会に集う人々だけではありません。クリスマスにサンタクロースが来て、素敵なプレゼントを届けてくれるのを待っている子どもたちは教会の中にも外にも、世界中にいます。また、デパートや、遊園地、商店街や、スーパーでは、クリスマスの飾りがなされ、たくさんの人が集まり、賑わっているのです。z

 それはそれで、楽しいことです。でも、多くの人は、本当のクリスマスの意味を知らないまま、このクリスマスをすごしてしまっています。本当のクリスマス、それは、神のひとり子であるイエスさまが、わたしたちのところに来てくださった、という、そのことを感謝し、喜び祝う日なのです。

 神の一人子であるイエスさまが、わたしたちのところに来てくださった、何のために、何をしに来られたのでしょうか? 今日の説教題は「救い主イエスを受け入れる」とあります。イエスさまは、救い主として、わたしたちのところに来てくださったのです。救い主ということは、ですから、私たちを救ってくださる、ということです。私たちを助けてくださる方だ、というのです。

 えっ救ってくださる? 助けてくださる?・・みなさんは今年一年を振り返って、ああ、救ってほしい、助けて欲しい、と思ったことがあったでしょうか・・・。今年を漢字一字で表すと、災害の災という字がふさわしいのではないか、ということになったようですけれども、今年は本当に日本中で、災害に見舞われた、大変な一年でありました。とくにこの私たちの住む地域では、大阪北部を震源とする、大阪北部地震、そして、台風21号の直撃という、本当に怖い思いをしました。この地域の家にも、未だに屋根にブルーシートがかけられていて、その修善が終わっていない家がいくつもあります。一刻も早く、そのような困難な生活の中にある方々の生活が回復することをお祈りいたします、そのような怖い災害の中で、たすけてー、と叫んだり、あるいは声には出さなくても、助けてという思いを抱いて、生きていた人は少なくないのではないでしょうか?

 それから、救ってほしい、助けて欲しいことといえば、病気で苦しんだ人、今現に苦しんでいる人は、その病気から助けてほしい、病気が治ってほしい、手術を控えていれば、手術が無事成功しますように、とそういう意味で、救ってほしい、助けてほしい、という思いをもっておられるのではないでしょうか?
 
 ほかにも、経済的なこと、仕事のこと、人間関係のこと、様々なことで、わたしたちは、助けて欲しい、救って欲しい、と思うことが、しばしばあります。

人生に生きがいを見失ってしまっている、そういう無気力な状態をなんとかしたい、それもまた、言葉にはならなくても、救ってほしい、助けてほしい、という思いを抱いて生きているということになるかと思います。

イエスさまは、そういう私たちのさまざまな、助けて欲しいという思い、救ってほしい、という思いを聴いてくださり、受け止めてくださり、そして、じっさいにわたしたちをそのような困難から助け、救ってくださることのできる方です。

けれども、それはそうなのですけれども、今日与えられた聖書の中で、まず最初のヨハネ福音書の言葉では、「神はその一人子をお与えになったほどに世を愛された。一人子を信じる者がひとりも滅びなさいで、永遠の命を得るためである」といわれている、つまり、イエスさまは、わたしたちを、滅びないようにしてくださる、滅びから救ってくださる方だというのです。そして、永遠の命を与えてくださる方だといいます。私たちをある滅びから救い、永遠の命を与えてくださる、そのようにして、イエスさまは、わたしたちを助け、救ってくださる方なのです。

わたしたちは、たとえ、災害から守られ、病気が癒され、また、経済的にも豊かなになれて、人間関係もうまくいったとしても、また何か生きがいが与えられても、そういうものが叶えられたとしても、実は、根本的には意味がないのです。なぜ? いずれは滅びてしまうからです。 わたしたちはやがて滅びてしまう・・・いつかはみな死んで、灰になって、消えてなくなってしまう・・・そういう虚しいものだからです。そうですよね、いつかはみな死んでしまう・・・そして、どんなに仲の良い人とも、愛する家族がいても、もう誰にもあえない、一人ぼっち、いや、自分もなくなってしまう・・・生きている意味はみんな消えてしまうのです。

今日のもう一つの聖書の言葉には、めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい、という言葉がありました。聖書のいう罪というのは、何か悪いことをした、ということではなくて、もちろん、そういうこともありますけれども、もっと深い部分では、わたしたちが滅びてしまう・・・虚しいものとなってしまう・・・そういうことを表しています。

それは、本当に悲しいことです。こうして今生きていることの意味がみんな失われてしまうことです。だから、人はふだん、そういうことは考えないようにする。死ぬことなんか、考えないようにするのです。いまがよければいいじゃない、とそうやってつっぱって生きるか、反対に、ああ虚しい、何をやっても意味がない、どうせ死ぬんだから・・・って気力をなくしてしまうのです。

でも、このクリスマスの喜びが、どうして、わたしたちの喜びなのか、それは、イエスさまが、わたしたちを滅びないようにしてくださった、からです。わたしたちを滅ぼす罪の力から救ってくださったからです。そして、わたしたちが永遠の命を得るようにしてくださった。永遠の命です。神さま、愛する人たちとずっと共に生きるのです。罪はみんな許されて、永遠の命の中で、天国の命の中で、私たちはまことの平安と喜びの中を生きることができるのです。

この永遠の命に生かされている自分に目覚めた時、私たちは、変わっていきます。その素晴らしい宝によって、もうほかのもの、この世的な、いつかは滅びてしまうものに、こだわらなくなっていきます。あれをしてください、これをしてください。そういう求めてばかりいる祈りが、すでにいただいている恵みを数え、感謝する祈りに変わっていくのです。そして、永遠の命の恵みの中で、この世の出来事も新しく見つめることができるようになります。

さきほど、今年の漢字一字は災いという災という字であった、という話をしました。災難、災い、それは誰もが合いたくないもの、被りたくないものです。ですから、私たちは普通、無病息災を祈ります。何一つ病気をせず、失敗もせず、安全に暮らせるようにと祈るのです。けれども、今年私たち家族がいただいたクリスマスカードの中に、「一病息災」がよい、ということを書いて寄越された、ある教会のシスターがおられました。どういうことか、といいますと、こんなふうに言われるのです。

「病気や、失敗は、確かに苦しいものです。しかし、この弱さが、いつ、どのようにプラスに転換するかわからない。ということも忘れずにいたいものです。一病息災・・・無病の人よりも、一つくらい病をもっている人の方が、健康に気をつけ、かえって長生きをする、といいます。今のマイナスそのもののなかに、すでに、プラスが萌え出る芽がはぐくまれているかもしれないのです。苦しみを取り除く努力は、もちろん大切ですが、その中にあっても、いまの苦しみを通してどんな新たな恵みが待ち受けているか、期待してよいのです。」

以上です。まさに、マイナスの中にプラスが芽生えるのを待ち望みながら生きることができるのが、クリスマスの喜びにあずかったものの生き方なのです。

ただ、じっさいのわたしたちには、なかなか永遠の命の喜びが見えません。この世的に満たされることのほうが、よっぽど自分には嬉しいし、価値のあることだと思えるのです。それもまた、わたしたちの内に働く罪の力のなせる業です。この罪の力には、わたしたちだけの力ではどうにも太刀打ちできないのです。どんなに優れた人でも、どんなに努力をしても、わたしたち人間は、どうしても、この世的なもので満たされることを求めてしまうし、そのほうが、永遠のいのちなんかより、よっぽど幸せなことだ、と思ってしまうのです。

だから、私たちは洗礼を受けなければならないのです。洗礼は、わたしたちの中にあるものではありません。わたしたちの力や努力の賜物ではありません、それは、イエス・キリストが上より与えてくださるものです。イエス・キリストの洗礼の恵みにあずかることで、わたしたちは始めて、自分をしばってがんじがらめにしている罪の力から解き放たれて、永遠の命の恵みにあずかり、また、そのめぐみを心から喜んで、本当に喜びに満ちた、歩みをしていくことができるのです。

そのような洗礼とは、ある意味で、目覚まし時計のようなものだと、いえるかもしれません。決まった時間にちゃんと目を覚ますことができる人に、目覚まし時計をいりません。でも、決まった時間に起きることができない人には、目覚まし時計が必要です。目覚まし時計があれば、その人は、目覚ましをセットして、眠り、そして、目覚まし時計の音に目を覚まして、その決まった時間に起きることができるのです。わたしたちはいつも、神さまの恵みに愛に、目を覚ましていられるでしょうか? わたしは洗礼を受けることで、イエスさまが、いつも共にいてくださり、わたしの罪を滅ぼし、永遠の命のめぐみに生かしてくださった、そのめぐみを確かなものとして、生きていくことができるのです。

この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものです。と今日の聖書には語られています。

今日、ここに集うすべての人が、永遠の命をいただく、洗礼の恵みに招かれているのです。そして、今日はじっさいこのあと、この中におられる一人の兄弟が、洗礼の恵みにあずかります。2016年6月1日、いまから、およそ二年半前になりますが、ひとりの姉妹が天に召され、この教会で葬儀をし、みなで天国へとお送りしました。その姉妹は、いまは天国にあって、永遠の命にあずかって、わたしたちのことを主とともに、見守り導いてくださっていることと私たちは信じていますけれども、今日洗礼をうけられる兄弟の、奥様であった、その姉妹が、いまどれほど天にあって喜んでおられるか、と思いますと、胸があつくなります。

 最初の教会では、そのようにして人々に洗礼をさずけ、その日三千人が仲間に加わり、そして、彼らは、使徒の教え、相互のまわじり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった、とあります。使徒の教えとは、まさに、こうして聖書の言葉を聞き、学ぶことです。相互の交わりは、教会員が、ともに励まし合い支えって生きていくことです。このあともたれる祝会もその一つだといえます。パンをさくこととは、今日もたれます聖餐式のことです。キリストの体を示す、聖餐式のパンを共にいただくことで、わたしたちは、イエス・キリストの十字架の死と復活によって永遠の命に生かされ、また一つとされていることを確認するのです。そして祈ることに熱心であった。祈ることをわたしたちは本当に大切にしていきたいと思います。ちいろば先生といわれた榎本保郎先生は、朝15分の祈りがあなたの人生を変える、という言葉をある本で読まれて、以来そのことを実践され、本当に、自分の信仰が豊かにされ、強めされていったと証ししておられます。そこでとくに榎本先生は、「聞く祈りが大事だ」といわれます。「主よ、わたしはここにおります、お語りください」と、言って、主の声に耳を傾けて、あの少年サムエルのように、わたしたちも、主のみ声に心の耳を傾けて、聞く祈りを深め、ますます豊かな教会として共に成長していけたらと願っています。お祈りいたしましょう。

 主なる神さま クリスマスの喜び、それは、何か煌びやかものでも、華やかなものでもなく、また、この世的に、良い思いをするということではなくて、イエスさまが、わたしたちを罪から救ってくださり、滅びの命から、永遠の命へと救ってくださった、その大いなるめぐみの喜びであることを感謝いたします。その救い主イエスを、心から受け入れるには、イエス・キリストの洗礼という神さまのお力が必要です。どうか、一人でも多くの人が、そのめぐみにあずかることができますように、また、そのめぐみにすでに与っているものも、あらためてそのめぐみに目覚めて、感謝と喜びのうちに歩んでいくものとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

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アドベント第3主日礼拝 

2018年12月16日 使徒言行録2章25-36節
「命に至る道」三ツ本武仁牧師

 アドベント第3主日を迎えました。いよいよ来週は、この主を待ち望むアドベントの成就である、主のご降誕を感謝し、クリスマス礼拝を共に守り、祝います。そのクリスマス礼拝に先立ちまして、先週は金曜日に、この会堂で香里ヶ丘子どもの家のクリスマス会が行なわれました。かわいらしい小さな子どもたちが、降誕劇を演じ、楽しいクリスマス会をしました。子どもたちの降誕劇に静かに耳を傾けていますと、ふだん一人で聖書を読んでいるときにもまして、すーと胸の中に御言葉が入ってくることがありました。特にわたしはヨセフを演じた子が、天使から、いいなずけのマリアが神さまの力によって救い主をお腹に宿している、それは神さまのご計画だから、安心して受け入れなさい、と語りかけられましたとき、「よーくわかりました。神さまの言うことに間違いはありません。そのとおりにします」と言って、天使の言葉を素直に受け入れる姿を見て、深い感動を覚えました。困難な状況、不安な状況にあっても、神さまの愛のご計画を信じて、受け入れていく、そのことの大切さを改めて教えていただいたように思いました。

さて、今日私たちに与えられました聖書箇所は、前回の続きになりますけれども、聖霊に満たされて、新しく立ち上があったペトロが、人々にイエス・キリストのことを証しし始めた、その言葉の後半部分です。

前回読みました最初の部分で、ペトロは、イエス・キリストの出来事と聖霊が下さってきた出来事は、旧約聖書のヨエル書に預言されていた、主の日の到来の出来事、すなわち、私たち人間の救いの日の出来事の成就である、ということを語っていました。ヨエル書によれば、「主の偉大な輝かしい日」がくる前に、太陽が暗くなることをはじめとする、様々な災いが起こる、そして、その終わりの日には、神さまがすべての人の霊を注いでくださり、若者は幻を見、老人は夢を見る、ということが起こると、預言されていました。

ペトロはこの預言をとらえて、その中の災いとは、私たち人間が、自分の罪のゆえに、イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまったことだ、といい、そして、主の偉大な輝かしい日とは、そのイエスさまが、私たちの罪を滅ぼし、復活された、主のご復活の日のことだ、というのです。そして、そのあと、復活の主が天に帰られてから、いま主の約束された聖霊がくださってきて、すべての人に、若者にも、老人にも、朽ちることのない希望を与えてくださる、永遠の命の喜びを与えてくださる、それが今まさに起こっていることなのだ、とペトロは語ったのです。

今日はその続きですけれども、以上のようなことを語ったあとで、ペトロは、今度は、旧約聖書に記された、かつてのイスラエル王国の王、ダビデ王の言葉をとらえて、ダビデ王はすでに、はるか昔にあって、神の言葉を受け、イエス・キリストの出来事を、預言し語っていたのだ、と解き明かすのです。

ペトロはまず、ダビデ王の次のような言葉を引用しました。25節から28節にかけて二重カッコで括られている箇所です。

「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しなさい。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府にすておかず、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。あなたは命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」

これは先ほど共に交読しました詩篇16編の中の言葉です。これまでユダヤの人々は、この言葉はダビデの言葉であり、ダビデが自分自身の経験した、神さまと相対している喜びを歌っているのだ、と考えてきたわけです。わたしたちも、そのまま読むならば、そういうことではないか、と思うわけです。

けれども、ペトロはここで、いやこの歌は、もちろんダビデが歌っているのだけれども、ダビデが自分の経験を歌っているのではない、ダビデは神の言葉を預かる者として、つまり預言者として、イエスさまが、どのような経験をされたのか、を歌っているのだ、というのです。

つまり、このダビデの歌の中の「わたし」というのは、誰か、というとダビデではなくて、イエスさまなのだ、というのです。また「あなた」とは、父なる神さまのことなのです。そして「主」というのは、主なる神というのが、聖書の神さまの呼び名であるわけすけれども、その聖書の神さまは、三位一体の神であって、父なる神も、子なる神であるイエスさまも、聖霊なる神も、みな「主」なる神なのです。それで、このところでは、イエスさまが、父なる神のことを「主」と呼んでいる、ということなのです。じっさい福音書をみますと、イエスさまは、父なる神に向かって「主よ」と確かに呼びかけておられるわけです。

ですから、このダビデの歌を、わかりやすく言い直すとこうなります。「わたしイエスは、いつも目の前に父なる神を見ていた。父なる神はわたしイエスの右におられるので、わたしイエスは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。父なる神、あなたは、わたしイエスの魂を陰府に捨てておかず、父なる神であるあなたに属する者を、朽ち果てるままにしておかれない。父なる神、あなたは、命に至る道をわたしイエスに示し、御前にいるわたしイエスを、喜びで満たしてくださる。」

右におられる、という言葉は、これは後の34節以下の引用句にも出てきますけれども、文字通りの右ではなくて、非常に親密な関係の中で、共にいる、ということを強調する言葉です。私たちは信仰告白の中で、「イエス・キリストは天にのぼり、全能の父なる神の右に座にたまえり」と、まさに今日の聖書箇所に基づいて告白しているわけですけれども、それは、天にあって、父なる神さまが、イエスさまとが、非常に親密に、深い信頼の中で共におられる、ということなのです。

そして今申しましたように、ペトロは、もう一つ、ダビデの言葉も引用しました、34節から35節にかけてですが、「主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」という、これは詩篇110編にある御言葉です。

今度は、この言葉の中の「わたし」は、ダビデ自身のことでいいのです。けれども、その中に、二人の「主」が出てくるわけです。「主は、わたしの主にお告げになった」とあります。これは、ですから、最初の主が父なる神さまのことです。そして、わたしの主と言われている「主」はイエスさまのことなのです。ですから、この引用の言葉も、わかりやすく言い直しますと、「父なる神さまは、わたしダビデの主であるイエスさまに、お告げになった、とこうなるのです。

以上のように、今日のところは、少し説明がいりますので、それで少し難しいように感じるところですけれども、しかし、ペトロはここで、何か難しい解釈をしてみせているのではなくて、イエスさまこそが、聖書に預言された方なのだ、あのダビデ王が預言された救い主なのだ、ということ、ただ一点を、語っているのです。じっさい34節以下の聖書の解釈は、イエス様ご自身が、地上におられたとき、人々の前でなさったことでもありました。ですから、以上のペトロの聖書の解き明かしは、イエスさまのお言葉を思い起こしつつ、イエスさまに照らして、なしたものだと、いえるのです。そして、そのことは聖霊に満たされる、ということはどういうことか、ということを理解する上での大切なヒントだと思うのです。つまり、私たちが聖霊に満たされる、ということ、それはイエス・キリストを思い起こすことと1つなのだ、ということです。

「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなければなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさったのです。」今日の最後の36節にはそのようにあります。これこそが、聖霊に満たされたペトロがあらゆる言葉を用いて、また聖書の言葉を用いて、くり返し、語っていることなのです。

あなたがたが十字架にかけて殺してしまった方が、あなたがたの救い主なのだ、わたしたちが罪人と定めて、排除した、その人が、事もあろうか、わたしたちの救い主だったのだ、その方を、あなたがたは殺してしまったけれども、その方は父なる神さまによって、復活の命を与えられて、今なお父なる神と共に、生きておられるのだ、そのことを、あなたがたははっきり知らなければならない、というのです。

自分たちが、この人は救い主などではありえない、むしろ、私たち以下の罪人であって、一瞥にも値しない人だ、何の価値もないものだ、・・・そのように自分たちが、判断し、排除した人が、事もあろうか、この私の救い主であった、その衝撃は、考えてみれば、大変大きい、驚くべきことであったと思います。じっさい、この話を聞き、ペトロの言う言葉に真実を見出した人たちは、このあと、大変な衝撃を受け、自分たちはいったいどうしたらいいのか、と動揺するのです。

そしてそれは、ただ衝撃的だというだけでなくて、自分たちは、自分を愛しくださり、救いの手を差し伸べてくださっている方を、かえって苦しめ、殺してしまったものなのだ・・・という、そういう事実を知らされる、というのは、本当に悲しいことであり、恐ろしいことだと思います。ここに、わたしたち人間の抱えている問題の深刻さが示されている、と思うのです。

ユダヤの民は、ローマ帝国に支配されて、他の国の宗教を強制されたり、重い税金を課せられたりして、精神的にも、経済的にも苦しい状況にあった、その中で、あのかつてのダビデ王にまさる王様が、現れて、ユダヤの国を再建してくれること、それこそが聖書に預言されたことだと信じ、そのような王が現れることこそを待ち望んでいたのです。

 その気持ちはよくわかるように思うのです。けれども、その中で人々は、じっさいにはダビデ王の時代も決して安定したものではなかったことを忘れてしまっている、あるいは、無視しているのです。また、そのダビデの血を受け継ぐソロモンから、結局、国は分裂し、そして混乱していき、それがついには国家の滅亡につながっていったことも忘れてしまっている、あるいは、無視してしまっているのです。いや、もしかしたら、第二のダビデ王を求める、というのは、少なくともダビデまでは国家は安泰だったからいいのだ、次の世代のことなどどうでもいい、自分たちの世代さえ幸せになれればいいのだ、という、そういう意味での、さらに深刻な自己中心、いわば自分の世代中心の罪が、そこに入り込んでいた、ということがいえるのかもしれません。

 いずれにしても、そのような自国中心、自分の世代中心の国づくりは、歴史が証明していますように、必ず息詰まります。自分の国の安全と平和を考えるあまり、難民を追い詰め、弱い者に負担をかけ、あるいは排除していく、そのようなことを繰り返す、いまの世界はいったいどこへ行こうとしているのでしょうか? 

 そして、それはもちろん国の問題だけのことではない。わたしたち一人一人にもいえることです。自分中心、自分の利益中心の人々の集まり、そのような社会が、愛のある社会になるわけがありません。現代社会が、格差社会であるのは、まさに、わたしたちが、聖書の示すわたしたち罪の問題を、ちゃんと見ていないからです。自分の罪をちゃんと見つめ、本当の意味で、神さまに立ち返る、悔い改める、そのことが、わたしたちには求められているのではないでしょうか。

 一ヶ月ほど前に、河内長野市にある清教学園高校の礼拝に招かれて、朝早く出かけた話を以前させていただきましたけれども、その日は午後から教区の委員会の働きもあって、それで、少し空いた時間ができました。それで、どこに行こうか、どこで時間を潰そうか、といろいろ考えてみたのですけれども、南海線とJRの連絡駅が新今宮で、その駅で降りるのは、交通費に無駄がないな、と、珍しく賢く頭が働きまして、新今宮で降りて、少し町を散策することにしました、それで天王寺公園の方にも歩いて行ったのですが、新今宮には釜ヶ崎があります。釜ヶ崎では、カトリックの本田哲郎神父が、カトリックのふるさとの家という施設で、日雇い労働者の方々の生活相談や、とくに本田神父自ら鋏をとって、散髪をしておられる、そういう尊いお働きをされている、NHKでも放送されたことがある、そのことを思い出しまして、そうだ、一度、本田先生に会ってみたい、会えないだろうか・・・と、釜ヶ崎に行くことにいたしました。釜ヶ崎は学生時代にフィールドワークで行ったきりでありました。ひさしぶりにその地に足を踏み入れて、少々緊張しましたけれども、その日は天気も良かったせいか、町にはどこか活気があって、外で楽しそうに話し合っている日雇いの方々を多く見かけました。

ふるさとの家は午後1時から開くということで、私が着いたときは、まだ開いてなくて、人々が並んで待っていました。そして時間になって、日雇いの人々に混じって私もふるさとの家に入らせていただき、二階にあがると、すでに、最初の人の頭を、本田先生が散髪している後ろ姿が見えました。わたしは感動してしまって、先生の姿が見える椅子に座って、じーと先生の後ろ姿を見ておりました。そうしましたら、先生も怪しい視線に気づかれたのでしょう。ふっと後ろを振り向かれて、わたしを認められて、そして、わたしが自己紹介をしますと、よくきてくださった、と笑顔で握手をしてくださって、貴重な時間をしばらくお話してくださいました。このあたり、香里園のことも先生はよくご存じで、香里園には、こことはまた別の大変さがあるでしょうと、私を労ってくださいました。

この出会いは私にとって、とても心癒される、感動的なお出会いでありました。本田神父は、聖書のいう回心というのは、ただ、わたしは罪人です、と言って反省することを意味するのではない、といわれます。そうではなくて、世の中から罪人とされて排除された人々、つまり、それはイエスさまの時代のユダヤの社会でいえば、収税人だとか、重い皮膚病の人だとか、遊女であるとか、社会から村八分にされていくような、そういう、世の中から色眼鏡で見られ、小さくされていく人々の側に自分を置くこと、それが、本当の意味で自分が神の前に罪人であることを受け入れることであり、それが回心であり、悔い改めだ、といわれるのです。

本田神父自身、その回心、悔い改めは、47歳のとき初めて釜ヶ崎に来て、与えられたのだといいます。それは、当時、学問的に優秀で、エリートであった本田神父が、最初の頃、まだどこか上から目線で、日雇いの人に毛布を配っていた、でもだれも受け取ってくれない、ほとほといやになりまた途方に暮れていた、まさにそのとき、路上で寝ていた男性が、その毛布を受け取ってくれて「ありがとうよ」と言ってくれた、このとき、自分の中の何かが決定的に変わった、今まで重くのしかかっていた何かからの、深い解放の喜びが与えられた、この体験こそ、自分に与えられた回心だった。悔い改めだった、といわれるのです。

 貧しい家畜小屋でお生まれになったイエスさまが、わたしたちの救い主である、というのは、どういうことなのでしょうか? イエスさまが、このわたしの罪のために十字架にかかり、苦しみを受け、死んでくださった、というのは、どういうことなのでしょうか? そしてそのイエスさまを神は復活された、というのはどういうことなのでしょうか? その恵みが、本当に深くわたしたちの内に示されたとき、私たちは主にあるまことの平安と喜びに満たされるのです。「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しなさい。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府にすておかず、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。あなたは命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」・・・この詩篇の歌が、イエスさまご自身の歌が、その時には私たち自身の歌となるのです。そのようにして、本当のクリスマスの喜びにあずかることができるように、聖霊が働いてくださり、イエスさまを、わたしの救い主として素直に、心から迎え入れて、わたしたちもまた主とともに命に至る道を喜んで歩んでいくものなることができますように、祈りを合わせたいと思います。

 主なる神さま み名をあがめ賛美します。ペトロが聖霊に満たされて、イエスさまが、わたしたちを罪から救ってくださる、本当の意味での救い主として来てくださったことを、証ししました。その証しの言葉を、深く味わい、また黙想していく中で、このペトロの言葉を直接聞いた、このときの、当時のイスラエルの人たちとともに、私たちもまた、心から、イエスさまを救い主として受け入れることができますように、そして主とともに復活の命に至る道を歩んでいくことができますように、来週はいよいよ、クリスマスです。主よどうか、この御堂に聖霊が働いてくださり、御霊に満ちた、豊かなクリスマスとならせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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アドベント第2主日礼拝 

2018年12月9日(日)使徒言行録1章14-24節
「神から遣わされた方」三ツ本武仁牧師

 アドベント第2主日を迎えて、アドベントクランツのロウソクの二本目に火が灯りました。四本目に火が灯りますとき、わたしたちはクリスマスを迎えます。クリスマスは、救い主の降誕を記念して祝う日であります。救い主の降誕、それは、どこかの誰かに救い主が来た、ということではありません、他ならない私自身に、他ならないあなたに、救い主が来てくださったのだ、ということです。それは、逆にいえば、本人にそのことがわからなければ、まるで意味のないことなのです。ですから、わたしたちが、本当に、このわたしのための救い主が、イエスさまが来てくださったのだ、そのことがわかるようになる、そして心から主を迎え入れることができるようになる、そのために与えられた備えの期間、それがアドベントです。

 さて、今日与えられました聖書の箇所は、イエスさまが昇天された後、最初の弟子たちが一つになって、イエスさまが約束してくださった聖霊の降臨を信じ、聖霊を求めて祈っていた、そのところに、ついに聖霊がくださってきて、弟子たちが力を受け、世界伝道のしるしが与えられた、という、その直後の出来事が語れています。

 あのペトロが、大胆に、堂々とした説教を語り出すのです。これまでのように、思ったことをすぐに口にしてしまうような、そういう言葉ではなく、また、自己中心的な思いからの言葉ではなくて、聖霊によって、イエス・キリストの救いに本当に与っている者の言葉として、全き平安と喜びに満たされた者の言葉として、彼はイエス・キリストの出来事に基づいて、また、聖書の言葉に正しく基づいて、説教を語りはじめるのです。

 14節以下には次のようにあります。「すると、ペトロは十一人と共に先に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありませせん。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

 この人たちは「酒に酔っているのではありません」これは、前回の最後に語られていた、聖霊に満たされたイエスさまの弟子たちが、諸外国から集まってきていたユダヤ人たちの言葉、つまり、その人々が普段使っていた諸外国の言葉を話しはじめたことに対して、「これはきっと酒に酔っているのだ」とある人々が、あざけったのですが、そのことに対して、ペトロが答えた言葉であります。

 酒に酔って、理由がわからなくなって、変なことを言っているのではないのです。そうではなくて、これこそは、聖書の中に、つまり、私たちでいう旧約聖書の中に、すでに預言されていたことなのです、とペトロは、そう言って、預言書ヨエルの言葉、つまりヨエル書の中の言葉を、語り始めるのです。

 ヨエル書というのは、4章からなる旧約聖書の中では比較的短い部類の預言書です。紀元前6世紀から5世紀頃に書かれた預言書である、といわれています。ヨエル書のテーマは、「主の日が来る」ということです。ただ、その「主の日」について、普通わたしたちが思い浮かべるのは、喜びの日、救いの時だと、思うわけですけれども、ヨエル書が語っている主の日は、もちろん、最終的な意味では、喜びの日であり、救いの時なのですけれども、決して単純ではなく、一枚岩ではないのです。主の日の前兆として、非常に困難な災いの到来が語られています。ヨエル書の中では、それは、いなごの大群が、ユダ王国を襲い、農作物が失われ、食料が枯渇する、という、そういう表現で、その困難な災いが描かれています。

大事なことは、そのような困難の中にあって、それはしかし、主の日の前兆であるから、今こそ悔い改めなさい、と勧められていることです。主なる神に、心から立ち返りなさい、というのです。そのとき、むしろ自分たちを苦しめているかのように思われた主の日の到来は、喜びに変わる、失ったものは、再び、与えられ、泣いているものの涙はぬぐわれ、飢え渇いているものは満たされる、そのような喜びに満ちた本当の主の日に、招き入れられるのだ、悔い改めるものには、新しい命と救いが約束されているのだ、という、そういう預言が語られているのです。

 いま聖霊に満たされたペトロは、イエス・キリストの出来事と、そして、イエスさまが約束された聖霊降臨の出来事は、このヨエル書のいう「主の日の到来」の出来事なのだ、と、そういう思いをこめて、ここでその言葉の一部を引用したのです。それは次のような言葉でした。17節以下です。

 神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ち込める煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。

 このヨエル書の言葉の中の、最初の「終わりの日」というのは、私たちの感覚でいう、この世界の最後の一日ということではなく、もちろん、その最後の終わりの日につながっていくのですけれども、いま、イエスさまの約束された聖霊が私たちのところに来てくださり、私たちを満たしてくださり、教会をかたちづくり、導いてくださる、そして教会が世界に福音をのべ伝えて、世界に広がっていく、様々な国の人々、様々な立場の人々を、救いに導いていく、その歩みの日々全体を指しています。それがどうして終わりの日なのか、といえば、そのような聖霊の導きの日々の終わりには、ついにキリストが再臨され、この世界が終わるからです。キリストの再臨につながる最後の期間、それが聖霊の導きによる、教会の時なのです。ですから、以前にも申しましたように、この最初の使徒たちから、私たちにもつながる教会の歩みは、キリストの再臨を待ち望みつつ歩む歩みであって、キリストの再臨によって終わる、そういう歩みなのです。

 そのような教会の時、今のこの時には、イエス・キリストの受け入れ、聖霊を求める者に、その聖霊の満たしと導きが起こる、それが、いまペトロたち自身が経験していることであり、それが、ヨエル書に書いてあったことなのだ、とペトロはいうのです。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」

 このヨエル書の言葉から、聖霊が私たちに働く、ということは実際どういうことなのか、ということが読み取ることができます。聖霊には大きく分けて2つ働きがあることがわかるのです。それはまず、私たちに預言する力を与える働きです。ここで預言というのは、神の言葉を語る、ということです。えっ私たちがそんな預言者のように神の言葉を語るなんで、そんなことできるわけがありません、と思うかもしれません。

 しかし、私たちが神の言葉を語るというのは、すなわち、神の言葉として来てくださったイエス・キリストのことを証しする、ということです。それは、決して、何か神学的な難しい教義について語ることが求められているのではありません。あるいはまた、キリストにならって、私たちはこういうことをしなければならないとか、そういうことを語ることが求められているのではないのです。では、キリストの何を語るのか、それは今日の22節以下で、まさに、ペトロ自身が語ったことを語ることなのです。

 ペトロは22節以下で次のように語りました。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いて下さい。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身すでに知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」

 イエス・キリストについて語る前に、ペトロがまず「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いて下さい」と呼びかけたことに注目したいと思います。14節で、最初にペトロが目の前の人々のことを何と言ったかというと「ユダヤの方々、またエルサレムの住むすべての人たち」と言っているのです。それがなぜ、ペトロは、その同じ人々に向かって、「イスラエルの人たち」というわざわざ言い方を変えているのでしょうか。それは、あなたたちは、「神に愛され、選ばれた人たち」なのだ、ということを強調するためです。またあなたたち自身も神を愛している、そう思っているでしょう、ということを強調するためです。

 神に愛され、選ばれた人たち、そして自分たちでも本当の神を愛して生きていきたい、と願っている、また実際そう生きていると自負している人たち・・・その意味では、ここでペトロが呼びかけているのは、いま彼が目の前にしている、ユダヤの人々ももちろん含まれますけれども、それだけでなく、ペトロたち自身も含まれますし、そしてまた、いまここにいる私たちも含まれるわけです。

 そのような、場所や時間を超えた、イスラエルの人たち、神に愛され、神を愛する人たち、どうか聞いてください、とペトロは言うのです。そこで彼が語ったのは、まず「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」ということでした。聖書には、イスラエルのために、神から救い主が遣わされる、という預言があるのです。その救い主は、他ならない、ナザレのイエスであったのだ、ということです。イエスは人となられた神、救い主であったのだ、ということです。これが第一に重要な、預言、神の言葉なのです。

 続いてペトロは「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。」と言いました。イエスの行ったこと、その業を思い起こすならば、イエスが救い主であったことがわかる、というのです。そのことが語られているのが、新約聖書であり、特に福音書です。ただし当然ながら、このときのペトロたちは、新約聖書を持っていません。それは当たり前であって、彼らの体験が、やがて新約聖書にまとめられていったわけです。ですから、私たちの場合は、新約聖書の言葉を語る、それが預言であり、神の言葉を語る、ということなのです。旧約聖書もイエス・キリストに照らして語る、それが預言であり、神の言葉を語ることになるのです。そのようにして、聖書の言葉を聞き、読み、味わい、その御言葉を黙想していく、その中で、イエス・キリストが、私たちのために神に遣わされた救い主である、ということが深く示されていくのです。

 ただ、その中で、どういう意味で、イエスさまは、私たちの救い主なのか、ということで、一番大事なことが最後に語られています。それが、「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」

 ペトロが、ここで「あなたがたがイエスさまを殺したのだ」というとき、それは自分は、そんなことはしていない、自分は関係ない、あなたがたのせいだ、という思いで語っているのではありません。そういうふうに人を裁き、自分は関係ない、という態度は、いまや聖霊に満たされているペトロにはないのです。いまやペトロは、自分もまた、いや自分こそは、イエスさまに対して一番ひどいことをしてしまった、ということを素直に見つめることができる者とされているのです。なぜなら聖霊に満たされ、復活の主イエスが、自分と共にいてくださり、この自分を赦し、愛し、用いてくださっていることを深く示されているからです。ですからペトロは、深い畏れと平安の、両方の思いの中で、わたしこそはまさにその先頭に立つものだけれども、ということを含めながら、あなたがたはイエスさまを、律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった、と、ですからこれは誰かを告発しているのではなく、自分を含めた、すべての人間の罪を告白しているのです。

神に愛され、神を愛していると自負する者が、その神を見殺しにしてしまったのだ、ということです。つまり、わたしたちは、本当の神さまに愛されていながら、その愛に全く気づいていないのです。神さま中心ではなく、自分中心になってしまうのです。それが、わたしたちの現実であり、その私たちの現実が、イエスさまを殺してしまったのです。それほどに私たちの罪は深いのです。そのことにペトロ自身がいま深く気づかされたのです。それは、彼が、聖霊に満たされて、神が、そのペトロの罪を裁かれるのではなく、まさにそのようにして、自分のうちに潜む罪の深さを明らかにしてくださった上で、その罪からの救いを、イエスさまのご復活を通して成し遂げてくださったのだ、そのことが深く示されたからです。

イエスさまがこの地上に現れてくださり、共に歩んでくださった、でもそのイエスさまを裏切ってしまい、そしてイエスさまが十字架にかけられて殺されてしまった、そうした、出来事の全ては、神さまが、わたしたちの罪を明らかし、そして、その罪からの救いと赦しを宣言してくださるためのご計画であった、そのことがペトロにはわかったのです。これが、イエスさまの出来事、イエス様が救い主だ、という、そのことを知る上で、一番大事なことなのです。

ペトロの語ったヨエル書の後半に「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ち込める煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。」という言葉がありました。これは何のことを言っているのでしょうか? イエスさまが十字架につけられ命を引き取られた、その金曜日の真昼に、「太陽が暗くなった」と聖書はいいます。また、「神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた」といいます。そういう不思議なしるしが、「主の偉大な輝かしい日が来る前に」起こる。・・・つまり、このヨエル書の言葉は、イエスさまの十字架の出来事、そして、その三日目の復活の出来事、その神のみ業を、語っていたのだ、ということをペトロは示されたのです。

神さまは、私たちの人生の中で、必ず、私たちの罪を明らかにされるのです。でも、それは、私たちを裁き、滅ぼすためではないのです、それは、私たちをイエスさまへ、本当の救いへと導くための神さまのご計画なのです。そして、イエスさまは、神の愛に背いてしまう私たち、そのような私たちを、その罪から救ってくだり、そして神と共に生きる本当の命へ、復活の命へと導いてくださる救い主だ、ということ、そのことを自分自身が受け入れ、そhして、その喜びと平安の中で、その恵みを証しし、語りつぐものとなっていく、それが、聖霊によってわたしたちに授けられる預言の言葉、神の言葉なのです。

 2つ目に私たちに与えられる聖霊の働きとして言われていることは「若者は幻を見、老人は夢を見る」という言葉で言われていることです。すなわち聖霊に満たされるとき、若者であろうと、老人であろうと、みな希望に満ちて生きるものとされる、ということです。

 聖霊によって信仰が与えられ、信仰の言葉が与えられるとき、わたしたちは人間的にどのような状況にあろうとも、希望に生きることができるのです。若者は幻を見る。それは、確かな希望を抱き、目指して行くべき目標を見定めることできるようになる、ということです。

ですからこれは単に、「若者はいいね、希望があって」ということではないのです。歌人の俵万智さんが、その代表作「サラダ記念日」の中で、「青春という字を書いて横線の多いことのみなぜか気になる」と歌っていたことを思い出します。わたしの青春暗かった、という何かのセリフもありますが、必ずしも、若いからと言って希望があるわけではない、むしろ、その反対であることのほうが多いのです。現代はとくに、若者が幻を見難い時代だともいわれています。けれども、そのような中であっても、聖霊の働きによって信仰を与えられた若者は、真実の希望によってくり返し支えられて、神さまに与えられた自分の道を感謝して歩んでいくことができる、ということです。

 そして、老人は夢を見る。現実として老いていく歩み、死が近づいてくる、その生活の中で、夢を見る。それは悪夢ではなく、よい夢を見ることができる、ということです。感謝に満たされ、慰めと喜び、平安を与えてくれるような夢を見るのです。それは、生きている時だけでなく、死ぬる時にも、確かな支え、慰めが与えられている者だけが見ることができる夢です。高齢化が進む現社社会にあって、確かに寿命はのびたけれども、はたしてその中で、本当に喜びに満ち、平安に満たされ感謝に満たされて、人生を全うしている老人はどれほどいるのでしょうか? けれども聖霊の働きによって、信仰が与えられている老人は、本当の慰めと平安に満ちた、よい夢を見ることができるのです。私がお世話にったN牧師は、今年90歳になられますが、今年、大病をされて大手術をされましたが、無事、回復されました。そのN先生に、先日関学で偶然にお会いしたのですけれども、先生はその療養中に、この生かされた命は全てあなたにお捧げします、と神さまに祈ったのだそうです。そうしましたら、しばらくして、知り合いの牧師から電話があって、ある教会の牧師が倒れて大変だから、月に一度、礼拝説教を手伝ってほしい、と頼まれたのだそうです、それで、これはまさに神さまからの使命だと、いまそのご奉仕を喜んでされている、ということでした。90歳ですごいなあとお話をうかがっていましたけれども、まさに今日のこの箇所、老人は夢を見る、というのは、そういうことかと思わされました。

 様々な状況にある私たち一人一人も、みな、そのような幻と夢を見ることができるのです。聖書の言葉を聞き、イエスさまが、私たちを罪から救う、救い主として来てくださったことを受け入れるとき、私たちは聖霊に満たされ、主が共にいてくださる、その信仰によって、神の国に生きる者としての、本当の希望と平安が与えられるのです。生きる力と喜びに満たされるのです。そのようにして本当のクリスマスを迎えることができるように、その備え、準備の期間である、このアドベントの時を、聖霊を求め祈りつつ、大切に歩んでいきたいと願います。お祈りいたしましょう。

 主なる神さま あの弱いペトロが、聖霊に満たされ、イエスさまの救いの事実を示されて、生まれ変わりました。イエス・キリストに示された神の言葉に生き、神の言葉を証しするものとして立ち上がりました。そのとき、若者は幻を見、老人は夢を見る。そのとき、まことの希望と慰め、平安に満たされて、私たちは与えられた人生を、さらに、永遠の命につながる人生として、最後まで、感謝と喜びに満ちて全うすることができますことを感謝します。主よ、どうか、私たちをその恵みで満たしてくださり、また一人で多くの人をこの恵みへ導いてください。主のみ名によって祈ります。アーメン

category: 礼拝メッセージ

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